歴史・人名

蠣崎・松前家

松前家(松前藩)

蠣崎・松前家

蠣崎・松前家は、陸奥国田名部蠣崎村から渡ってきたとされる蠣崎季繁から始まる。蠣崎季繁は蝦夷国の花沢館主の1人にすぎなかったが、1457年にコシャマインの戦いが発生すると、蠣崎季繁の客将であった蠣崎信広(当時は武田信広)が鎮圧した。これにより蝦夷国において蠣崎家が優勢となり、支配を確固たるものとした。蠣崎信広は蠣崎季繁の婿養子となり、蠣崎家を継承し、拠点を勝山館に移した。1475年には、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太にも影響力を及ぼした。その後、主家である檜山安東家から実質的に自立の傾向を見せる。蠣崎義広の時代にはアイヌの酋長・タリコナを謀殺し、蠣崎季広の時代には13人の娘を安東家などそれぞれの奥州諸大名に嫁がせて政治的連携をはかり、戦国大名としての地位を築き上げた。松前慶広(当時は蠣崎慶広)の時代には、上洛して、豊臣秀吉に拝謁することで本領を安堵された。これによって秋田家(安東家)からの名実ともに独立した大名となる。1591年に九戸政実の乱が発生すると、豊臣秀吉の命に応じて多数のアイヌ人を動員して参陣した。豊臣秀吉の死後は、徳川家康に接近して1599年に蠣崎家から松前家へ改める。征夷大将軍となった徳川家康からお墨付きを得て、江戸時代を生き抜くことに成功した。
系図

蠣崎・松前家の家系図
武将の紹介

蠣崎 季繁(かきざき すえしげ)

生年不詳~1462年5月12日
官位 修理大夫
正室 安東政季の娘
養女 安東政季の娘
蝦夷国花沢館主

1443年 陸奥国から蝦夷国に渡り、花沢館を築城した。
1456年 安東政季より上国守護を任じられる。養女を蠣崎信広に嫁がせた。
1457年 6月20日 コシャマインの戦いの際、客将の蠣崎信広を和人軍の総大将として鎮圧した。
1460年 蠣崎信広に家督を継がせた。
1462年 5月12日 死亡。

蠣崎季繁の出自は不明な点が多く、若狭国の武田家の近親者や三戸南部家の横田行長の子孫などがある。また、名前の由来となる陸奥国田名部蠣崎村を治めていた蠣崎信純ではないかとする説もある。若狭国の武田家との音信は1543年に初めて行われおり、若狭国の出身とは考えにくい。三戸南部家の横田行長の子孫では蠣崎季繁と年代的に重なってくるため考えにくい。蠣崎信純だとすると蝦夷国と陸奥国を同時に治めていたことになり、考えにくい。年代的にも蠣崎信純の兄弟や従兄弟などではないかと考えられるが、確かな資料がないため想像の域を脱しない。

蠣崎 信広(かきざき のぶひろ)

1431年2月1日~1494年5月20日
幼名 彦太郎
別名 武田信広
号 清岩
官位 若狭守
正室 安東政季の娘(蠣崎季繁の養女)
娘 下国恒季室
蝦夷国勝山館主

1431年 2月1日 陸奥国の北部王家の家臣の武田家に生まれる。
1454年 8月28日 佐々木繁綱・工藤祐長と共に安東政季を奉じて陸奥国大畑より蝦夷国に渡り、花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。
1456年 嫡男の蠣崎光広が生まれる。
1457年 6月20日 和人軍の総大将としてコシャマインの戦いに勝利する。この戦いの功績は大きく、蠣崎信広の蝦夷国における地位は決定的なものとなる。
1459年 泊館主の小山隆政が蠣崎信広の殺害を企てているとの報せから、小山隆政の弟の長門広政を調略し、共に滅亡させた。
1460年 蠣崎季繁に気に入られてその養嗣子となった。この時、蠣崎信広と改める。
1462年 勝山館を築城した。
1475年 樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太を支配下に置いたとされるが、実効支配していたとはいえず、放置も同然であった。
1494年 5月20日 64歳で死亡。

異説としては、若狭国守護の武田信賢の子として若狭国小浜の青井山城に生まれる。ただし、父とされる武田信賢は当時12歳であり、また若狭国の武田家との音信は1543年に初めて行われており、若狭国の出身とは考えにくい。蠣崎信純とする説もあるが、年代的にも少し無理がある。蠣崎信純の子あるいは甥である可能性があるためここでは陸奥国の武田家の一族とした。

蠣崎 光広(かきざき みつひろ)

1456年3月~1518年7月12日
幼名 彦太郎
官位 宮内少輔 若狭守
父 蠣崎信広
母 安東政季の娘
蝦夷国勝山館主
蝦夷国徳山館主

1456年 3月 蠣崎信広の長男として生まれる。
1479年 7月 長男の蠣崎義広が生まれる。
1483年 1月 次男の蠣崎高広が生まれる。
1494年 父の死にともない家督を相続。2代目当主となる。若狭守を名乗る。
1496年 11月 蠣崎光広に同心する館主らと連名で羽後国の安東忠季に下国恒季の悪政や謀反を訴え出て、安東忠季はこれらの館主たちの意向をうけて上ノ国守護職の蠣崎光広に、下国恒季の行状を調べ、不届きの件があれば処置するようにと沙汰を下した。蠣崎光広は下国恒季を討伐する大義名分を得て、松前の大館に追手を差し向けて下国恒季を自害させた。親蠣崎派のアイヌを使嗾して、もう一つの下国家である茂別館主、下国家政を襲わせ茂別館を陥落させて、茂別館を没収する。
1512年 4月 蝦夷国東部の村長であったショヤ・コウジ兄弟率いるアイヌ民族が蜂起し、下之国の拠点志苔館、箱館、与倉前館が陥落となり、下之国の和人統治は放棄を余儀なくされる。このアイヌ蜂起を蠣崎光広による謀略とする説がある。
1513年 6月 蠣崎光広は、穏内館、松前大館を襲撃し、陥落させた。
1514年 3月 松前大館に長男の蠣崎義広とともに入城した。大館を徳山館と改名して、居城とした。大館を本拠にしたことは、主君の安東尋季の意を汲むものではく、なかなか了承を得なった。3回目の交渉役に浪人の紺広長を抜擢し、彼の手腕で承諾を得る。これにより、蝦夷和人支配権は蠣崎家に全て委ねることになる。
1515年 6月 ショヤ・コウジ兄弟を降伏すると偽って徳山館に誘い出し、酒で酔っぱらったところをめった斬りにした。
1518年 7月12日 63歳で死亡。

蠣崎 義広(かきざき よしひろ)

1479年7月~1545年8月19日
幼名 新三郎
官位 民部大輔 若狭守
号 正岩
父 蠣崎光広
娘 厚谷季政室 明石季衡室
室 薦土季成の娘
蝦夷国徳山館主

1479年 7月 蠣崎光広の長男として生まれる。
1507年 11月 長男の蠣崎季広が生まれる。
1514年 松前大館に父とともに入城した。
1518年 父の死にともない家督を相続。3代目当主となる。若狭守を名乗る。
1525年 アイヌの首長の一人・タナイヌ(タナサカシと伝える史書もある)が蜂起。タナイヌは巧みなゲリラ戦術で蠣崎義広を翻弄する。
1527年 3月 タナイヌの攻撃で瀬田内館は陥落した。
1528年 5月 徳山館にタナイヌの侵入を許してしまうが、自ら槍を振るって応戦したため、タナイヌは撤退を余儀なくされた。
1529年 3月26日 タナイヌに勝山館が包囲されるが、蠣崎義広蠣崎家伝統の手段である「偽りの降伏」をし、タナイヌを誘い出したところで、四人張りの強弓でタナイヌを射撃し、とどめを屈強な武士たちが行い討ち取った。
1531年 5月 タナイヌの娘婿のタリコナがゲリラ戦術で蜂起した。タリコナはタナイヌの例があってか蠣崎家の十八番「偽りの降伏」に乗ってこず、散々翻弄された。徳山館が襲撃されたが、蠣崎季広の奮戦で撃退した。
1532年 5月 夷賊が徳山館を強襲した際、厚谷重形と共に撃退した。
1533年 陸奥国下北横浜で南部家に反乱を起こした杉生大蔵が蝦夷に逃亡した際、迅速に南部家に引渡し親交を深める。
1536年 6月23日 蠣崎義広は、タリコナの動きをつかんで、待ち伏せしてようやく討ち取った。その後は道南における支配権の確立に努めたのである。
1543年 小林良道を若狭へ派遣し、若狭国の武田家と音信を通じる。
1545年 8月19日 67歳で死亡。

蠣崎 高広(かきざき たかひろ)

1483年1月~1521年3月22日
幼名 二郎
法号 永快
父 蠣崎光広
蝦夷国泊館主
蝦夷国勝山館主

1483年 1月 蠣崎光広の次男として生まれる。
1509年 長男の蠣崎基広が生まれる。
1512年 泊館主であったが、父の蠣崎光広と兄の蠣崎義広が大館に移ると、勝山館の館主になる。この頃に剃髪し、永快と名乗る。
1521年 3月22日 39歳で死亡。

蠣崎 季広(かきざき すえひろ)

1507年11月~1595年4月20日
幼名 彦太郎
官位 若狭守
号 永安
父 蠣崎義広
正室 河野季通の娘
娘 南条広継室 下国師季室 喜庭季信室 小平季遠室 厚谷季貞室 安東茂季室 村上忠儀室 神浦季綱室 下国重季室 下国直季室 佐藤季連室 村上直儀室 新井田広貞室
蝦夷国徳山館主

1507年 蠣崎義広の長男として生まれる。
1531年 5月 アイヌ軍に徳山館が襲撃されたが、蠣崎季広の奮戦で撃退した。
1539年 長男の蠣崎舜広が生まれる。
1540年 次男の明石元広が生まれる。
1545年 父の蠣崎義広が死亡した後、家督を継いだ。4代目当主となる。
1546年 安東尋季の命令で羽後国檜山郡深浦郷の森山館主の森山季定の平定に参加した。これは安東家に対する軍役負担である。
夏 1513年に破壊された大洞山法幢寺を再建し、蠣崎義広の菩提所とする。
1548年 3月 勝山館主の蠣崎基広が謀反を起こし、家臣の長門広益に討伐を命じる。富田広定を若狭へ派遣し、若狭武田家と再び音信を通じる。
9月3日 三男の松前慶広が生まれる。
1551年 アイヌと和睦し、道南地方の交易体制の確立に成功した。(この和睦については、前年に蝦夷地入りしている安東舜季の主導によるもの。)
1556年 五男の蠣崎正広が生まれる。
1560年 松前慶広に陸奥国の浪岡北畠家に出仕させ、安東家の対南部家政策の一環に一役かう。
1561年 十男の蠣崎仲広が生まれる。
1562年 娘の南条広継室が蠣崎舜広・明石元広の毒殺の首謀者と判明し、誅殺した。
1564年 十一男の蠣崎守広が生まれる。
1567年 安東愛季の命令で南部家領鹿角郡侵攻に出陣。
1578年 7月 陸奥国の浪岡北畠家を津軽為信が攻撃、安東愛季の浪岡北畠家支援要請で浪岡に出陣も、間に合わなかった。蠣崎正広に上洛させ近江国安土城主織田信長に拝謁し、中央政権との接近を図り、安東家からの完全独立の糸口も探る。
1581年 安東家の命令で津軽奪還作戦に参加する。蠣崎仲広を出陣させた。
1582年 三男の松前慶広に家督を譲って隠居した。(1583年1月の説がある)
1595年 4月20日 89歳で死亡。

この頃は安東家の支配下にある1大名にすぎなかった。そのため、安東家の要請にこたえてたびたび軍事面などで負担している。1558年~1569年の間に6回出陣している。季広は13人の娘たちを安東家のみならず奥州の諸大名と娶わせて姻戚関係を作り、系譜上安東家と対等の関係に立とうとしたとも見られている。

蠣崎 基広(かきざき もとひろ)

1509年~1548年3月
別名 太郎
父 蠣崎高広
蝦夷国勝山館主(北海道檜山郡上ノ国町)

1509年 蠣崎高広の長男として生まれる(1501年の説がある)。
1521年 3月 父の蠣崎高広の死後、家督を相続。勝山館主となる。幼少のため南条広継の後見を受ける。
1548年 3月 蠣崎季広が宗家の家督を継いだことに不満を持ち、謀反を起こす。しかし、蠣崎季広の家臣の長門広益に敗れ、討死した。この謀反は、南条広継がそそのかし、謀反を起こさせたとする説がある。40歳。

蠣崎 舜広(かきざき としひろ)

1539年~1561年4月20日
幼名 彦太郎
官位 宮内少輔
父 蠣崎季広
母 河野季通の娘

1539年 蠣崎季広の長男として生まれる。父の蠣崎季広に後継者に指名される。
1561年 4月20日 姉の南条広継の正室に毒殺されたという。23歳。

松前 慶広(まつまえ よしひろ)

1548年9月3日~1616年10月12日
幼名 新三郎 天才丸
諡号 永泉 海翁
戒名 慶広院殿海翁永泉大居士
官位 従五位下 民部大輔 志摩守 伊豆守
別名 蠣崎 慶広
父 蠣崎季広
母 河野季通の娘
正室 村上季儀の娘
継室 斎藤実繁の娘
娘 喜庭直信室のち津軽信建室 下国広季室
蝦夷国徳山館主
蝦夷国福山館(松前城)主

1548年 9月3日 蠣崎季広の三男として大館の館山城で生まれる。
1560年 陸奥国の浪岡北畠家に出仕した。
1571年 9月3日 長男の松前盛広が生まれる。
1580年 次男の松前忠広が生まれる。
1582年 父の隠居により家督を継ぎ、5代目当主となる。(1583年1月の説がある。)
1583年 3月 安東家の命令で羽後国比内の浅利勝頼と戦い、和睦の際に安東愛季の求めに応じ、浅利勝頼を誅殺した。
1586年 安東家の命令で羽後国仙北郡に弟の蠣崎正広を派遣した。
1587年 羽後国の安東家当主の安東愛季が没すと湊城主安東通季(湊安東家)が叛旗を翻し、家督争いが起こるが、松前慶広は秋田実季(檜山安東家)に正統性があると判断し、これを支持する。
1588年 安東家の命令で湊騒動に兵を派遣した。
1590年 安東家の命令で羽後国比内に援軍として参加した。12月 上洛して豊臣秀吉に拝謁し、従五位下、民部大輔に任官された。
1591年 奥州再仕置軍に参加して九戸政実の乱と奥州の一揆鎮圧をした。その鎮圧でアイヌ兵を率い、武功を挙げた。
1592年 文禄の役が始まると、大阪に赴いた。
1593年 1月5日 肥前国名護屋の朝鮮遠征軍の本営で豊臣秀吉から全蝦夷地(樺太・北海道)の支配権を公認する朱印状が与えられた。名実ともに安東家からの支配を脱し、念願の独立大名となる。
1594年 四男の松前由広が生まれる。
1596年 五男の松前次広が生まれる。
1598年 豊臣秀吉が死亡すると、徳川家康に通じた。
1599年 11月 姓を蠣崎から松前に改めた。松前藩初代藩主となる。
1600年 福山館の築城を開始する。七男の松前景広が生まれる。
1604年 1月27日 徳川家康に系譜と蝦夷地図を献上し、これらの功績によりアイヌ交易の独占権の黒印状が交付される。5月28日 従五位下、伊豆守に任官された。
1606年 八男の松前安広が生まれる。8月 新城の福山館(松前城)が完成。徳山館を廃する。
1607年 九男の松前満広が生まれる。
1610年 花山院忠長が女官と密通した罪で蝦夷国に配流されてくると、厚遇し、公家との脈絡をつける。松前慶広が豊臣家との誼を捨て、徳川家につくことがお家安泰になるとして、息子や孫に相談したが、松前由広だけが豊臣家に義理立てし反対した。
1614年 12月26日 四男の松前由広を豊臣家に通じたとして、家臣の工藤祐種を遣わし誅殺した。
1615年 5月 大阪の陣には、将軍の徳川秀忠の近習で次男の松前忠広と共に出陣した。
1616年 5月 剃髪して海翁と号した。
10月12日 69歳で死亡。

比内地方の浅利家解体など宗家・安東家(愛季)の勢力拡大に協力し安東家中での発言力を確保する。

隋良(ずいりょう)

生没年不詳
父 蠣崎季広

蠣崎季広の四男として生まれる。
蠣崎家の菩提寺を法源寺から法憧寺に移したため、法源寺との関係悪化を懸念した蠣崎季広が出家した随良を法源寺に送り込んだ。 晩年、随良は法源寺の住職となり、僧侶として生涯を過ごした。

蠣崎 定広(かきざき さだひろ)

生没年不詳
別名 左近大夫 右近大夫  蠣崎 信広
受領名 但馬守 
父 蠣崎季広
娘 杉山左内室

蠣崎季広の七男として生まれる。
兄で松前藩主の松前慶広を補佐し、甥の松前利広が謀反を画策したときは、松前公広を助けた。蠣崎定広には同腹の兄弟がいなかったため、同じ境遇の松前慶広と、仲が良かった。

蠣崎 包広(かきざき かねひろ)

生没年不詳
別名 与三郎 典三郎
父 蠣崎季広

蠣崎季広の八男として生まれる。早世。

蠣崎 仲広(かきざき なかひろ)

1561年~1581年3月6日
別名 助五郎
父 蠣崎季広

1561年 蠣崎季広の十男として生まれる。
1581年 3月6日 羽後国の安東家の出陣要請に従い出羽鹿角の役に出陣し、敵三騎を討ち取るも自らも討たれて討死する。21歳。

松前 盛広(まつまえ もりひろ)

1571年9月3日~1608年1月21日
幼名、松房丸 甚五郎
別名 松前 守広 蠣崎 盛広
官位 従五位下 若狭守
父 松前慶広
母 村上季儀の娘
正室 下国直季の娘

1571年 9月3日 松前慶広の長男として生まれる。
1587年 三関広久と共に熊野参詣と称して上洛し、中央政権への接近機会の拡大、情報収集に尽力。
1592年 文禄の役には、父の松前慶広と共に肥前国名護屋に参陣。
1598年 長男の松前公広が生まれる。
1600年 1月 家督相続されるが、実権は、松前慶広が握っていた。6代目当主となる。
1601年 5月 従五位下・若狭守に叙任される。
1605年 江戸で病気を患う。
1608年 1月21日 静養するも38歳で死亡。

松前 忠広(まつまえ ただひろ)

1580年~1617年7月29日
幼名 武蔵丸 甚平次 甚五郎
別名 蠣崎 忠広
官位 従五位下 隼人正
父 松前慶広
母 村上季儀の娘

1580年 松前慶広の次男として生まれる。
1599年 11月 父の松前慶広と共に大阪城西の丸で徳川家康に拝謁。この時松前姓に改称。
1604年 将軍家に請われて徳川秀忠に仕えることとなり、江戸に居住するようになる。
1610年 従五位下・隼人正に叙任され、下野国結城領に千石を賜る。
1615年 5月 大阪夏の陣に出陣し、戦功を上げる。 11月 武蔵国八幡山領に千石を賜り、都合二千石となって大身旗本の仲間入りとなる。御書院番となる。
1617年 7月29日 将軍の徳川秀忠に供奉して上洛の途上、伊勢国桑名にて死去する。28歳。

武勇に優れ、特に弓が得意であった。和歌も詠んでいた。

松前 利広(まつまえ としひろ)

生没年不詳
幼名 竜丸 
別名 松前 行広 南部利広
受領名 長門守
父 松前慶広
室 蠣崎吉広の娘

松前慶広の三男として生まれる。
元服してから陸奥国の南部家に出仕して、後に南部利直の養子となって南部利広と名乗るが、南部利直が厚遇しない為、養子縁組を解消し、松前に戻り家老として松前公広に仕えた。
1618年 7月26日 父の松前慶広の死亡後、幼い松前公広が跡を継いだことで、宗家の主導権を握ろうと謀反を画策し、松前公広の側近の杉山左内と結託するが、杉山左内と仲の悪かった杉山平内が松前公広に密告し、陰謀が露見し、本土へ逐電、行方不明となる。

医術に長けていた。

松前 由広(まつまえ よしひろ)

1594年~1614年12月26日
幼名 綱丸 数馬介
別名 松前 種広
父 松前慶広

1594年 松前慶広の四男として生まれる。当初、兄の松前盛広の養子となるが、松前盛広に嫡男の松前公広が生まれるしたため解消される。彼は不平を鳴らす事もなく、兄とともに父の松前慶広の執政を助け、一門衆の筆頭と目される。
1610年頃 父の松前慶広が豊臣家との誼を捨て、徳川家につくことがお家安泰になるとして、息子や孫に相談したが、松前由広だけが豊臣家に義理立てし反対した。
1612年 母の冥福を祈るべく紀州高野山に詣でた際、大阪に寄り、豊臣秀頼の家臣の大野治長、片桐且元と面会した。
1614年 3月 松前由広の近臣に罪があり、奉行の小林良勝が成敗したことに激怒した。
12月 松前由広が小林良勝を仇討ちしてしまう。
12月26日 大坂方に内通していたとの嫌疑をかけられ、父の松前慶広は家臣の工藤祐種に命じて誅殺している。実際には大坂方の内通が理由ではなく、家臣の小林良勝を殺害した事が理由らしい。21歳で死亡した。

松前 次広(まつまえ つぐひろ)

1596年~1606年2月29日
幼名 天亀丸 伝十郎
父 松前慶広

1596年 松前慶広の五男として生まれる。
1606年 2月29日 元服した後は加賀国の前田家に仕えさせる約束を前田利長と交わしていたが、病没してしまったため、約束を果たせなくなった。11歳。

休之(やすゆき)

生没年不詳
父 松前慶広

松前慶広の六男として生まれる。
専念寺の住職を務めて、権僧都になる。

松前 安広(まつまえ やすひろ)

1606年~1668年7月8日
幼名 石丸 勘五郎 市正
別名 松前 政広 松前 右衛門 自休
父 松前慶広
正室 片倉重長の娘

仙台藩医。

1606年 松前慶広の八男として生まれる。
1609年 伊達政宗に出仕して市正と称す。
1623年 陸前国栗原郡清原村と江刺郡小田代に二千石を領す。この他に松前藩からも知内村を知行地として得ている。
1629年 伊達政宗の命により、片倉重長の娘を妻に迎える。同時に家格が準一家に列し、陸前国松川千七百石を領して一家を興す。
晩年は自休と号する。
1668年 7月8日 病死。63歳。

松前安広が仙台藩に使えた理由は、旗本である親族に会いに行くために江戸に行く途中、白石城下で片倉重長に会い、親交を深め、再び旅立つ際に病で倒れるが、片倉家で手厚い看護の結果、回復し、それを恩に仕えたとされる。

松前 満広(まつまえ みつひろ)

1607年~1624年7月19日
幼名 長次郎
父 松前慶広

1607年 松前慶広の九男として生まれる。
1624年 18歳で死亡。

松前 公広(まつまえ きんひろ)

1598年~1641年7月8日
幼名 竹松丸 甚五郎
別名 松前 茂広 松前 武広
官位 従五位下 志摩守
父 松前盛広
母 下国直季の娘
正室 大炊御門経頼の娘
側室 蠣崎守広の娘
娘 松前広維室 蛎崎清広室 松前広林室 新井田成政室
蝦夷国福山館(松前城)主(北海道松前郡松前町)

1598年 松前盛広の長男として、松前の徳山城で生まれる。
1614年 従五位下・志摩守に叙位・任官する。
1616年 10月 祖父の松前慶広が死去したため、家督を継いで第2代藩主となる。7代目当主となる。
1617年 東部曽津己の礼髭村(または礼比計と表記した)と大沢の大沢村で砂金が取れる。
1618年 幕府に砂金を献上したが、幕府側は金産出に関する全てを松前家に委ねたため、以後公広は金山奉行を置いて砂金場の開発に取り組んだ。結果として成功し松前藩初期の藩財政の確立に果たした役割は大きい。同時に近江商人をはじめとする諸国の商人の進出を受け入れ、松前公広の藩主在任中通して重商主義的政策を実施した。 7月26日 一族の松前利広が謀反を計画するが杉山平内の密告により失敗に終わる。
1620年 福山城の城下町を整備する。
1622年 次男の松前氏広が生まれる。
1627年 三男の松前泰広が生まれる。
1629年 四男の松前広諶が生まれる。
1630年頃 商業知行制という松前藩独特の制度を実施した。
1631年 五男の松前幸広が生まれる。
1635年 村上広儀を樺太・南千島巡察に派遣した。
1637年 3月 火事のために福山城が焼失してしまったうえ、自身も火傷した。
1639年 福山城を修造した。幕府のキリシタン取締りの命により、キリシタン106名を処刑した。
1641年 7月8日 44歳で死亡。

松前 兼広(まつまえ かねひろ)

1615年~1626年6月24日
別名 松前 右兵衛
父 松前公広

1615年 松前公広の長男として生まれる。
1626年 6月24日 病死した。12歳。

松前 氏広(まつまえ うじひろ)

1622年~1648年8月25日
幼名 弁之助
別名 主殿
父 松前公広
母 大炊御門経頼の娘
正室 蠣崎友広の娘
娘 松前広守室
蝦夷国福山館(松前城)主(北海道松前郡松前町)

1622年 松前公広の次男として、蝦夷福山館で生まれる。
1626年 兄の松前兼広が早世したために世継となる。
1638年 徳川家光に拝謁した。
1641年 7月 父の死亡により家督を相続、3代藩主となる。8代目当主となる。襲封の際、家老の蠣崎友広らと共に将軍に謁す。
1643年 長男の松前高広が生まれる。アイヌのヘナウケの蜂起が起こり、蠣崎友広を旗頭に佐藤季信、厚谷政姓、新井田知貞らに命じて鎮圧。オランダ東インド会社のフリーズが十勝沖に現われ、厚岸に寄港、その後樺太と得撫島に到達し、得撫島の領有を宣言する。
7月 幕命により「松前系図伝」を幕府に献上。
1644年 ウスケシ(一説にへナウケ)による乱が瀬田内で起こったが、一族の蠣崎利広らに鎮圧させる。
1648年 8月25日 江戸藩邸において死亡。27歳。