徳川家重
小便公方と呼ばれた将軍~九代・徳川家重は一体どんな人物だったのか
2022/12/20
正徳元年(1712年)12月21日、九代将軍・徳川家重が誕生しました。
何かと言われようの厳しい家重。
一代前の将軍かつ父親が”中興の祖”こと徳川吉宗ですから、比較されてしまうのは仕方のないこととはいえ「小便公方」という屈辱的なアダ名を付けられてしまいます。
人生のほとんどを江戸城という限られた空間で、ごくわずかな特定の人としか直に接しない生活の上に、そんな目で見続けられていたとしたら、どれだけキツかったことか。
徳川家重の生涯を振り返ってみましょう。
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1ページ目
幼少の頃から偏見の目で見られ!?
寛永寺までの道中に23ヶ所のトイレ
2ページ目
一介の旗本だった意次のスペックを?
再評価の動きが出て欲しい
幼少の頃から偏見の目で見られ!?
徳川家重が生まれた正徳元年(1712年)は、父の吉宗がまだ紀州藩主時代、江戸藩邸でのことでした。
母は紀州藩士・大久保忠直の娘・お須磨の方。
父親の将軍就任に従って江戸城に入ったのですが、この頃から既に偏見の目で見られていたらしき形容をされています。
というのも、生まれつき何かの病気で言語が不明瞭になっていたため、「これでは跡継ぎにふさわしくない」と言われまくっていたのです。
『徳川実紀』にも「御言葉さわやかならざり(ちょっと何言ってるかわかんね)」なんて書かれていて、実際、もう少しで幕閣に廃嫡されかかったこともありました。
それでも吉宗は、長男の家重を跡継ぎに選びました。
家重には、徳川宗武(御三卿・田安家の初代)や、徳川宗尹(御三卿・一橋家の初代)など、二人の弟がいたのに、吉宗は長幼の序(年齢の序列)を重んじたとされます。
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あるいは、家重自身ではなくその息子、つまり吉宗から見れば孫である徳川家治を将来将軍にするためとも囁かれたり。
いずれにせよ、家重が将軍の座に就いても、吉宗は存命中ずっと大御所として権力を保持しておりました。
最初っからそのつもりだったのかもしれませんね。
寛永寺までの道中に23ヶ所のトイレ
徳川家重は享保10年(1725年)に十五歳で元服。
九代将軍に就任したのは延享2年(1745年)のことです。
しかし、前述の通り父の政権運営が長引いたため、家重の親政が始まったのは寛延4年(1751年)で、それから十年ほどしか親政は行われていません。
しかも、ストレスのせいか体質のせいか、頻尿に悩まされていた家重は市井の人々からもバカにされ、
【小便公方】
とまで言われていました。
徳川家の菩提寺・上野寛永寺までの道中に23ヶ所もトイレを作らせたからだといわれているのですが、にしてもあんまりなアダ名ですよね。
現代でもこの症状に悩まされている人は多いので、何となくわかる方もいらっしゃるかと思いますが、頻尿というのは臓器の疾患だけでなくストレスで悪化することがままあります。
つまり、家重の頻尿は幕閣その他からのプレッシャーで悪化していた可能性が非常に高いということです。
どう考えても23ヶ所というのは多すぎますから、実際に使うかどうかというよりも「そのくらいの数がないとすぐ行けない」という不安の大きさの表れなのではないでしょうか。
当時の知識ではストレスと病気の関連性なんてわかりませんから、仕方のないことではありますが……にしても酷いものです。
一介の旗本だった意次のスペックを?
しかし、家重は自分の限界をきちんと理解していたらしき行動もしています。
根拠は次の二点です。
一つは、唯一彼の言葉を聞き取ることができた大岡忠光という家臣が亡くなった後、将軍職を家治に譲っていることです。
自分の意思を汲み取ってくれる人がいないということは、どんなに真面目にやっても誰もわかってくれないということになりますよね。
精神的にキツいからというのももちろんあるでしょうが、それが世のためにならないことがわかっていたからこそ、潔く身を引いたのではないでしょうか。
もう一つは、田沼意次を大名に取り立てていることです。
意次は元々一介の旗本(将軍に直接お目見えできる最低の身分)に過ぎず、本来なら大名にも老中にもなるはずのない家柄でした。
幼少期に家重の小姓をやっていたことがあるため、お互いの性根や能力はよくわかっていたでしょうから、公私共に信頼できる人物として登用したのでしょう。
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再評価の動きが出て欲しい
この二つを総合して考えると、口に上手く出せないだけで、本当は優れた頭脳の持ち主であった可能性は否定できません。
現代だって吃音等がなくても、言葉遣いが悪かったり言葉が足りなさ過ぎて、うまく意思を伝えられない人というのはいるものです。
江戸時代の人をその一点だけで咎めるのはいかがなものかな、という気がしませんか。
家重本人の書付か何かが見つかれば、また変わった評価をされるようになるのかもしれません。
その暁には、ぜひドラマや映画で取り上げていただき、一般的なイメージが良くなることを期待したいと思います。