歴史・人名

1999(Historical)

独り言(Historical)

25-Dec-1999

さてさて、「倭武天皇」のお話です。

うーん、むかぁし、「倭王武」と、「倭武王」とは、似て非なるものだっちゅう話、しましたっけ…?

えー、「倭王武」の方は、「倭王」の「武」であって、「武」は、漢風の諱(いみな)とみなすべきであり、「倭武王」だったら、これは「倭」の「武王」とみなして、「武王」は諡(おくりな)である可能性が高い、とこういう話しでございます。
当然ながら、和漢ともに諱と諡とは厳格に区別されるものであって、混同されるべきではない、こういうことです。

…で、「倭武王」形式の方にはもうひとつの可能性があって「やまとたけるのみこ」の類の読み方をすべき場合です。
この場合、「倭武」は和風の諱です。
これは、とくに日本列島側の文献では、考慮からはずすわけにはまいりません。

さて、多分、このようなことは、以前お話しただろうと思い、かなり省略した形で記しましたが、お解りいただけますでしょうか。

先日の「倭武天皇」の話に戻りましょう。
「倭王武」と「倭武王」を混同すべきでないという立場から、「倭王武」と「倭武天皇」は混同すべきでは在りません。
従って、2は×です。
では、1はいかがでしょうか。

うーん、これも完全な○というわけにはいきません。
ですが、結論から言うと、こちらは△だろうという感じを持っております。

まず、『常陸風土記』にでてくる、「倭武天皇」が、現実に「倭建命」「日本武尊」(以下ヤマトタケル)である可能性はありません。
なぜかというと、記紀ともにヤマトタケルは常陸国まで行っていません。
行ったのは、武蔵まで。
(紀では、常陸をすっとばして、東北の蝦夷まで征伐していますが、種種の不審が絶えないこと、諸氏の論じる通りです)
また、奥さんの弟橘媛(おとたちばなひめ)も、走水(はしりみづ。浦賀水道)で入水したというのに、風土記では常陸国相鹿(あふか)でひょっこり再会したなんて話がありますが、よく考えたらおっかない話です。
まぁ、そもそもヤマトタケルは皇子であって天皇ではありません。
一説にはヤマトタケルが、日本古代史の華々しい英雄たり得るのは、中央の権力争いに荷担することのない、永遠の少年だからだ、なんて言われるくらい、「天皇」ではないことが重要なキャラクターでもあります。
(まぁ、もう一方には義経にも通ずる「悲劇の主人公」であることが挙げられるんでしょうが)
…で、結局のところ、いくら彼を敬愛したところで、彼を天皇に祭りあげるのは、いささか無理があるといえるでしょう。
たしかに、草壁皇子(天武と持統の皇子)なんかのように、「天皇」として崇められた皇子もいなくはありませんが、
草壁皇子は、持統が即位する前に天武の後継者として、持統自身も認めていた存在、他の「天皇」とよばれた皇子達も、皇位継承に敗れたものの、人々に愛された皇子達。
ヤマトタケルとは、ちょっと立場が違います。
しかも、です。中央の文献ではヤマトタケルを「天皇」として扱うものはありません。(記紀や続日本紀など)

というわけで、「倭武天皇」とヤマトタケルは必ずしもイコールではない。
じゃ、なんなんでしょう。

その前に、「風土記説話」の性質と言うものを考えて見ましょう。
こんな特徴があります。

   説話に登場するのは、神武・崇神・景行(ヤマトタケル)・神功が最も多いこと。
   それぞれの天皇には、ある事跡が共通すること。それは、「異賊討伐」である。
   神武…神武東征
   崇神…四道将軍派遣→とくに東方十二道・大彦命
   景行…景行九州遠征・ヤマトタケルの熊襲・蝦夷討伐。
   神功…筑紫遠征及び三韓征伐。
   当然ながら、常陸においては、崇神と景行・ヤマトタケルの記事が多い。
   九州の風土記では、景行・神功の記事が多く、近畿の風土記には、
   神武・崇神の記事が多い。(近畿の場合は、これだけには限らない)
   また、より説話を分析してみると、この五人には、以下の特徴がある。
   神武…九州より近畿にやってきて、自ら戦った「英雄」であり「王」
   崇神…各地に名将を派遣した「最高司令官」としての「王」
   景行…九州の地では各地を視察した「為政者」としての「王」
   ヤマトタケル…「為政者」景行によって派遣された「武将」「英雄」
   神功…九州に自ら赴いた「女王」かつ「巫女」
   この五人の「地域性」及び「属性」と、「風土記説話」の「縁起譚」「地名命名譚」という特色を合わせみるとき、各地の王の説話が、天皇家内の人物の説話にすりかえられていった、その手段が明らかとなる。
   このような事実は、例えば、『常陸風土記』の次の文面によって、一層明確に裏付けられる。
       A)倭武天皇、東夷の国を巡狩し、新治(にひはり)県に幸過ししに、国造毘那良珠命(ひならすのみこと)を遣し、新に井を掘らしむるに、流泉(いづみ)浄く澄み、尤(いと)好愛(うるは)しかりき<常陸国風土記、総記>
       B)昔、美万貴(みまき=崇神)天皇の馭宇(あめのしたしら)しし世、東夷の荒ぶる賊(俗(くにのひと)、阿良夫流爾斯母乃(あらぶるにしもの)と云ふ)を平討(ことむ)けむとして、新治国造の祖、名は比奈良珠命を遣しき。(この後、井戸の説話に続く)<常陸国風土記、新治郡>
   A、Bが同一の説話であることは明らかである。ところが、ヒナラス命を遣わしたのは一方では、崇神であり、一方ではヤマトタケル(?)である。これは、Bでは、「派遣者」は新治に来ておらず、Aでは来ている、という微妙な違いによるものであろうと想像される。崇神とヤマトタケルのキャラクターの違いである。また、常陸を始め九州以外の風土記にも神功が登場することがあるが、これは何にまして「女王」という特性に引かれたものである。だが、これは、神功を「卑弥呼」に擬した紀と同一の手法である。

以上のことから、常陸風土記の「倭武天皇」は少なくとも、風土記撰者にとってはヤマトタケルであったことが、お解りいただけるのではないかと思います。
ですが、重要な問題、「倭武天皇」という字面はどこから来たのか?
これを、次回、2000年の記念すべき第1回のテーマにしたいと思います。
では。
良いお年を!
19-Dec-1999

最近忙しい&疲れてることもあり、ネタに乏しいのですが、今回は「倭武天皇」のお話です。

「倭武天皇」という言葉、聞き慣れないかも知れませんが、常陸風土記に出てくる言葉です。

常陸風土記にはこの「倭武天皇」という人物がかなり頻繁に登場します。
例えば、この地名は倭武天皇がこれこれの出来事に遭遇されたことがきっかけとなってつけられたといった風に。

では、問題です。
「倭武天皇」とは、いったい誰のことでしょう。

1、「倭武」とは「やまとたける」であり、彼を崇拝する土地のものが彼のことを天皇として扱ったために生まれたのが「倭武天皇」である。
2、「倭武」とは、「倭王武」のことである。(「倭(姓)」「武(名)」)

さあ、どっち?
28-Nov-1999

今回は、古田武彦が「九州年号」を見出す、直接のきっかけとなった鶴峯戊申(つるみね・しげのぶ)の『襲国偽僭考(そのくにぎせんこう)』について考えてみたいと思います。

鶴峯は、師である本居宣長のあとを承けて、「熊襲偽僭説」を唱えていた、江戸時代の古代史学者です。
「熊襲偽僭説」とは、本居によって唱えられた、卑弥呼を熊襲の女酋と見なし、
「熊襲がいやしくも日本列島の王と偽り僭称して、中国に使者を送った」
という説です。
まぁ、「偽り」とか「僭称」とかというのは、他でもなく、「天皇家のみが正統」という本居の根幹の概念から導き出された言葉ですが、要は、「九州王朝説」のハシリです。
…で、鶴峯はここから、「熊襲」の方の研究に情熱を燃やした。
師の本居が『古事記伝』に代表されるように、「天皇家」の方に、情熱を燃やしていたのとは、対照的です。

このようなわけですから、古田にとっては、貴重な先行説だったのです。
古田自身が、このような経緯を述べています。(『失われた九州王朝』)
…で、そこへ「九州年号」とくれば、古田の目の色が変わるのもうなずけるわけですが、そのせいか、このときの古田の論証は、ボロボロです。
もっともひどいのは、ほかならぬ襲国偽僭考の読解です。

襲国偽僭考をここに引用しましょう。

   継体天皇十六年、武王年を建て善記といふ。是九州年号のはじめなり。
   年号 けだし善記より大長にいたりて、およそ一百七十七年。其間年号連綿たり。麗気記私抄、また海東諸国記などにもこれを載せ、今伊予国の温泉銘にも用ひ、如是院年代記にも朱書して出せり。しかれども諸書載るところ異同多し。今あはせしるして参考に備ふること左のごとし。
   善記 (1)襲の元年、継体天皇十六年壬寅、梁普通三年にあたる。(2)海東諸国記善化に作る。(3)如是院年代記に、或曰、継体天皇自十六年始年号在之云々分者朱ニテ書之、年数相違之処在之不審とあり、(4)一説曰、継体帝之時、善記四年終。
   :
   殷到 (1)継体天皇二十五年辛亥、殷到元年とす。(1)海東諸国記発例に作り、(3)如是院年代記教到に作る。同書に、教到元始作暦とあるも、また襲人のしわざなるべし。(4)一説に、正和と殷到との間に、定和常色の二年号あり。いはく定和七年終。常色八年終。教知五年終。一説作教到、又曰殷到。按自四年至五年、係安閑帝之時。
   :
   大長 (1)文武天皇二年戊戌、大長元年とす。(4)一説曰、文武帝之時大長、又曰、按戊戌為元年右大化以後年号。九州年号ここに終る。今本文に引所は、九州年号と題したる古写本によるものなり。
   (1、2…の番号はかわにし)

さて、一番最後に「本文」は「九州年号と題したる古写本による」とありますが、どこからどこまでが、「古写本」による「本文」でしょうか。
まず、解るのは(2)と(3)の部分は違うということです。最初に記されている通り、これは鶴峯が対校して諸書との異同を記した部分です。
(4)はいかがでしょう。
古田はこれを「古写本による本文」と見なしました。
ところがこれは誤りです。
実は(4)は『和漢年契』の文なのです。
鶴峯の「襲国」が書かれたのは文政3年(1820)、高安の「年契」は寛政10年(1798)。
およそ20年を隔てて、ほぼ同じ時代に書かれた本を、鶴峯は参照しています。
この事実を古田は見逃しました。
これによって、古田の「九州年号」説に大きな歪みが生じてしまうことになるのです。
それはさておき、「襲国」に戻ります。
(1)は「古写本による本文」でしょうか?
答えはNOです。
なぜなら、善記のところに「襲の元年…」とあるからです。
「襲」とは「熊襲」「襲国」、つまり鶴峯の「熊襲偽僭説」の中での用語です。
もしも、鶴峯の意図とは別に、この語が「古写本」に見出されたならば、そのこと自体を鶴峯は大きく取り上げなければなりません。
なぜなら、それは鶴峯にとって、自説の強力な支えとなるにふさわしいものだからです。
しかし、それはない。つまり、この「襲」の語が、鶴峯の記すところである、そういうことです。
従って、(1)も「本文」ではない。
とすると、鶴峯が見た「九州年号と題したる古写本」にあったのは、「善記」…「殷到」…「大長」という年号のみということになります。
ハッキリ言えば、『二中歴』『如是院年代記』その他と大差ありません。
また、現存しない以上、この「古写本」がどの程度古い物なのかわかりません。

ですから、始めに古田がこれや海東諸国記をもとに「九州年号」について、論証を始めたのは、大きな誤りだった、と言わねばなりません。

わたくしは、ここまで、「逸年号」を調べてきて、以下のようなことがポイントになるだろうと考えています。

第1に、これら「逸年号群」の原型は、表ではなく年号単体であること。
第2に、これら単体の「逸年号」は、その出現時期が、古くても鎌倉までであること。
(「法興」「白鳳」「朱雀」はそれより古い)
第3に、例えば「定居」は「琳聖太子(戦国の大内氏の祖)」、「勝照」は「物部守屋誅殺」と年号によって、現れる記事の内容が似通っていること。
第4に、仏教関連記事が圧倒的に多いこと。

これらを踏まえると、
1、それぞれの年号を、それぞれの「ある人物」が偽作し、
2、『二中歴』著者を筆頭に、それらを収集した表が出来あがり、
3、鶴峯や古田のように、別王朝の年号と見なすに至った。
という可能性が、無きにしもあらず、充分に考えられるような気がします。
所謂「僧徒による偽作説」です。
ですから、これら「逸年号」が「九州王朝のつくった年号だ」というのは、まだ早い。そういう気がします。
もちろん、まだわかりませんが、「逸年号」史料の性格を考えれば、「襲国」を含め、表の類の史料は、二次史料であることを充分に理解しておかなければなりません。
あくまで、一次史料を基にしなければ、いかなる説も成立不能なのです。

要するに、結論は保留。ということで…。
23-Nov-1999

さて、今回も「年号」シリーズです。
逸年号を収集した、江戸時代の2つの本について、考えてみます。
もっとも、江戸時代にはこういった研究が盛んで、ほかにもさまざまな研究書が出ています。
『清白士集』『和漢年契』『古代年号』『襲国偽僭考』『茅窓漫録』『塩尻』『春湊浪話』『逸年号表』などなどです。
まあ、その中から、タイトルの『和漢年契』について取り上げたいと思います。
『和漢年契』(以下「年契」と略す)は、高安蘆屋によって寛政10年(1798)に書かれた本です。
(…詳しいことは、もっと調べてからね)
前回も多少触れました。
その後、いくつか発見したことがあります。

その前に、「逸年号史料」とはどういったものなのか、ということを確認しておきましょう。
たとえば、『社方開基』や『肥後国誌』、『防長風土注進案』といった本に載せる史料をご覧下さい。
これらは、年号を載せることが目的の本ではなく、寺社の由来だとか縁起などを載せるための本です。
つまり、「地誌」の本です。
これらの文面をご覧下さい。

   目一箇男(まひとつのを)神社、或記一目神社云々。当社ハ継体帝善記四年十一月四日高天山ノ神主祭之。森本一瑞編『肥後国誌』山鹿郡中村手永、久原村, 明和 9 年(1772)
   季号賢称丁酉(577)とかやの時、もろこし百済国に…(中略)…林聖家之太子こころさし有て…『防長寺社由来』、奥山代宰判阿賀村崎所大明神縁起, 享保10(1725)年~文化文政年間(19世紀前半)

このように、年号は文面の主役ではありません。
…で、ここに現れてくるのは、「年号」+「何年」(+「干支」)といった程度です。
決して、「当年号は、何年間続いた」とか、「前の年号は何々で、何年に改元した」などという、都合のいい情報は書いてありません。
これはちょうど、わたくしが何気なく「明和9年」とか「文化文政年間」とか書いているのと同じです。いつなのかは、年号の表で調べなきゃダメです。
まぁ、書く方は元の本に書いてあるとおり書けばいいので、明和の前がなんて年号か、なんて気にしなくてもいいのです。
おわかりでしょうか。
これが「逸年号」史料の原型です。
先ほどの縁起類にしたって、もともと伝わるとおりの年号で記しただけですから、その前がなんなのかについては、知らなくてもいいのです。
…で、あとから調べた人や、推理を働かせた人、わからんとさじを投げた人、いろいろいるでしょうけど、記録自身は、別に書いてあるとおりに「善記」なら「善記」、「賢称」なら「賢称」と書いておけばいいのです。
(…で、そこんところに「未詳(わからん)」とか「蓋(けだし)何々也(なり)」と注でも入れときゃいい)
間違っても、『二中歴』や「年契」のような表が原型だと思ってはダメなんです。
むしろ、「表がないから作った」と考えるべきです。

これを踏まえて、『二中歴』系統の史料と「年契」がなぜ食い違ったのかということを考えますと、こんなことが浮かんできます。
まず、『二中歴』系統の史料に特徴的なのは、元年の「干支」に重点がある、ということです。
なるほど、これがあれば、ちょうどわれわれが西暦を用いるのと同じように一貫した指標によって、年代を示しうる。
ここに、その時の天皇名を入れておけば、完璧です。
また、「賢称6年辛丑」という記事が有ったとしましょう。
ここから、賢称元年の干支を導き出すのは、たやすいことです。
で、これをもとに、年号の配列を考えたら、できあがりです。
…こうして、『二中歴』系統の本は、逸年号表を作り上げた、と考えて良さそうです。
では、「年契」は?
実は、『二中歴』系の方法だと、天皇の在位年代と、改元が一致しないという「問題」があります。
(これは、古田が「逸年号(九州年号)が偽作でなく、かつ、公権力別在の証拠」と見なす現象でもありますが)
少なくとも、「年契」の著者、高安蘆屋にはこれが不審だった。
そこで、天皇の即位と改元がピッタリ合うように、うまく並べ替えた。
これが真相だろうと思います。
つまり、継体天皇代の年号は、その合計年数が継体の在位年数と一致するように、欽明や推古などについても、同様の並べ替えを行った、と見なしています。
現に、各天皇代の年号群の合計年数は在位年数とほぼ等しくなっています。
ただし、たとえば、「善記4年、云々」という史料が目の前にあったら、少なくとも「善記」は4年以上続いたと考えねばならず、こういう「制限事項」によって、多少のずれは生じているもの、と考えられます。

どちらにしても、「うまくいってない」というのがわたくしの率直な感想です。
高安さんも苦労なされたようですが…(笑)。
まぁ、『二中歴』の方も、収集の度合いによって、抜けている年号があったら、台無しです。
(二中歴では「仁王」が12年続いたことになってますが、他の本では「聖徳」があって「仁王」は6年、「聖徳」が残りの6年になってますね。つまり、『二中歴』の「12年」という記述は、何かの史料に基づくのではなく、「仁王元年」から(次と見なした)「僧要元年」までが12年だった、というだけのことです。
てことは、他にも抜けがありそうですね)

結局、繰り返しになりますが、収集と復元は容易な作業ではなさそうですね。
20-Nov-1999

今回は「大宝以前の逸年号」についてお話します。詳しくは古田武彦『失われた九州王朝』等をご覧下さい。

『二中歴』は後醍醐天皇代(1318~1339)の本であり、逸年号を収集した史料としては、もっとも古いものです。
…で、これ以降、『麗気記私抄(1401)』→『海東諸国紀(1471)』→『如是院年代記(1570)』→と同系統の史料が続きます。
(たとえば、所功『年号の歴史』では、『二中歴』と『海東諸国紀』とが同系統の史料に基づくものであることが、述べられています)
その一方で、『和漢年契』という本は、異流です。
これは、寛政10年刊の本ですから、かなり新しいものですが、このような異系統の史料も、存在するのです。
また、この「資料編」には載っていませんが、『古代年号』という本も、かなり異彩を放つものであったようです。
このような異説の存在を侮ってはいけません。
なぜなら、多くの逸年号史料は、史料集成という性格を持つものだからです。
というのは、いずれの史料も、様様な文献を渉猟し対校することによって、自説の強力な支えとしているからです。
年号というものは、その性質上、まとまって記載されると言うよりも、各個単体で様様な文献に顔を出すものです。
ですから、わたしたちはこれらのパーツを、パズルのように組み合わせて、原型を復元するしかないのです。
(例えば、歴史書のように年代をおって、順次年号が記載されていれば、わかるのですが、そのような歴史書は現在ありません。だから「逸年号」なのですから)
ですから、『二中歴』系統の本も、『和漢年契』も、その史料接合の産物と見なすべきなのです。
こういった観点から見てみれば、『和漢年契』のような異説の存在は、史料接合の危うさを、示しているものと思えます。

さて、『二中歴』系統の本に目を転じましょう。
この系統の本を、「正」とする人も多いようです。(古田など)
ですが、やはりこれも史料接合の産物と見なすほかありません。
また、残念なことに、この接合も、矛盾と言うか、大きな弱点を内蔵しています。
それは、「法興」年号の欠如です。
実は数多い逸年号の中でも、「白鳳」とならんでもっとも確実な典拠を持つ年号、それが「法興」年号です。
「推古仏」とも「白鳳仏」ともいわれる、法隆寺釈迦三尊像銘にも見える、れっきとした逸年号です。
これが、『二中歴』にはない。他のものにもほとんどない。
わずかに『古代年号』が載せるようですが、ほかの諸説は、一説扱いです。
なぜ、ないのでしょうか。
「定居」年号とカブるからでしょうか。
「法興」は法隆寺僧徒の「私年号」というのが通説だったからでしょうか。
理由はわかりませんが、これが逸年号の列に加わらないのはおかしなことです。
ですから、たとえば「『二中歴』が原典」(=古田説)というような、一史料依存主義は、危険だと考えるのです。
ハッキリ言えば、わたしたちが、いろんな史料を探して、逸年号を発見して回るのと同じことを、15世紀のある人物も行っていた、というに過ぎないのです。
ですから言ってみれば、わたくしが収集した逸年号群と、『二中歴』とは、本質的に同レベルの史料価値しか持たないのです。
もちろん、手に入れられる史料は『二中歴』の方が、古い史料を多く手に入れられるので有利ですし、こっちゃシロウトの若僧なんで、たかが知れてますが。

こういったわけで、逸年号群の収集と復元は、一朝一夕にできるような作業ではないでしょう。
コツコツと史料を集めて回り、綿密な調査・分析を行うことが必要です。
まぁ、のんびりやるとしましょう。
30-Oct-1999

「倭書日本伝」について、です。
お解りでしょうが、実際にこんな本がある訳ではありません。
わたくしが考えました。
でも、かなりの確率で、こんなような本があっただろうと思っています。
もちろん、『倭書』という本です。
九州王朝の歴史書として、あったはずの本です。
この中には、ほぼ間違い無く、近畿地方について書かれた個所がある。
わたくしはそういう確信を持っています。
また、実際は「日本伝」ではなく「日本世記」がそれなのではないかという疑いも持っています。

順を追ってお話しましょう。
まず『倭書』という本の存在については、多分お解りいただけているだろうと、思いますので、ここでは省略させていただきます。
いずれ詳しくお話しましょう。(「日本」の国号の時のシリーズと同じ位、いっぱいお話があります)
…で、なぜ「日本伝」が予想されるのか。
それには2つの筋道から考えることが出来ます。

1つは、「倭」という王朝の性格を考えた上での、スジ論です。
これは、『倭書』の成立を、6~7世紀に想定した上での話です。
当時、倭王(多利思北孤)は、中国の冊封下で天子の配下としての地位を確保しつづけたそれまでの対中国政策、ひいては対東アジア政策を改め、自ら天子を名乗る対等外交政策を打ち出しました。
「日の出づる処の天子」で有名な、アレです。
そういう状況下で歴史書が作られたら、どうなるか。
当然、紀伝体の史書になるでしょう。
「紀」とは「帝紀」。天子の記録です。
倭王が天子を名乗る以上、史書を書くなら、「帝紀」に自らの事跡を載せることになりましょう。
そして、実は紀伝体の史書には、もう1つ重要な記載があります。
それが「四夷伝」です。
これがないと、正統な天子の歴史書の体裁にならないのです。
解りやすい例を挙げましょう。
『三国志』です。
有名な話ですが、「魏志」「呉志」「蜀志」の中で、「帝紀」と「四夷伝」を持つのは、「魏志」だけです。
じゃあ、呉や蜀は周辺民族達と関わりが無かったのか、そんなことはありません。日本列島と呉との繋がりは、かねてからのウワサです。
また、蜀も西の民族と講和・戦争の歴史を持っています。
ですが、あえて陳寿はこれらを載せなかった。
そうすることによって(孫権や劉備を「伝」として載せるのと同じく)
魏だけを正統としたのです。
…というようなわけですから、当然、天子を称する倭王が歴史書を作ったら、周辺諸国のことを「四夷伝」として載せたはずなのです。
「百済伝」「新羅伝」「高句麗伝」「加羅伝」「流求伝」「耽牟羅(タムラ、太平洋上の島国)伝」そして「日本伝」「蝦夷(カイ?)伝」「粛慎(沿海州の民族)伝」あたりが予想されます。
(これらの国々を挙げたのには理由があります。隋書には、倭王の「国境」として、「東西三月行、南北五月行」
という表現があります。ここで「国境」とは、国と国の境目というより、「天子の領域」という意味だと思われます。
なぜなら、前者の意味なら「三月行、五月行」という言い方は普通しないからです。
もっと具体的な地名を挙げるべきだし、どことの境かを言わなくちゃならないはずです。
ですから、ここは「天子の威徳が及ぶ範囲」と言う意味です。ちょうど、「辺境」という言葉の持つイメージに近いものです。「辺境」とは「国と国の境目辺り」と言う意味ではなく、「天子の領域の外れ(天子の住む都から一番遠いところ)」という意味です。…で、この「東西三月行」「南北五月行」はとてもじゃないけど日本列島内だけで済むような範囲ではありません。ましてや九州内部では収まるはずも無いのです。特に「南北」の方は。
ですから、「北は朝鮮半島を越えて沿海州まで、南は太平洋上の島まで、倭の天子の威徳は及ぶ(と倭王はほざいてる)」と、隋書には書いてあるのです)
これが、「倭の天子の史書」という性格の上から予想できる、「日本伝」があったであろうという根拠です。

もう1つの根拠は、『日本書紀』の中に見出せます。
紀では数多くの九州の歴史書からの転用が見られます。
その多くは、「九州での出来事」と「朝鮮での出来事」だろうと考えられますが、ところがどっこい、意外に「天皇家」のことに関しても、九州の歴史書から持ってきたんじゃないかという記事があります。
それは、没年齢や后妃皇子女、それに陵墓です。
なぜか、というと、『古事記』の記載と一致しないからです。
特に没年齢などは、『古事記』には神武から雄略まで、ほとんどすべての天皇について記載されているのに、『書紀』の方には抜けが結構あります。
また、年齢そのものにも違いが有ります。
なぜかといえば、当然、依拠した史料が違うからです。
また、陵墓についても、微妙な違いがあります。
実は、『古事記』の表現のほうが、具体的で詳しいのです。
例えば神武陵だと、
「御陵は畝火山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり」<古事記>
「御陵は畝火山の東北陵なり」<日本書紀>
となっていて(指し示す場所は恐らく同じ)、詳しいのは古事記の方です。
(「白檮の尾」は地名→「橿原」に近い。「かし」という地域の「尾(末端部)」という意味)
なんででしょうか。
実は、これ(書紀)こそ「日本伝」の記載ではないかと思うのです。
書紀編者は、国内伝承(天皇家内伝承)と国外伝承(九州王朝を含む)との間に齟齬があると、必ずと言っていいほど、国外伝承の方を採用します。
だから、史料上は絶対に詳しいはずの国内伝承を捨て、余り詳しくない国外伝承を採用したのが、書紀なのです。
以上が、「日本伝」の存在を暗示する、『書紀』の記述です。
16-Oct-1999

さてさて、今回は「干支」について、考えてみたいと思います。

「干支」は「えと」と読むことも多いのですが、「えと」とは「兄(え)弟(と)」の意味で、「十干」の方を表します。(もう一方は「十二支」)
これは、「木(き)」「火(ひ)」「土(つち)」「金(か)」「水(みず)」の所謂「五行」をさらに、「兄(え)」と「弟(と)」に分けて、10個にしたものです。
「甲(木の兄、きのえ)」「乙(木の弟、きのと)」
「丙(火の兄、ひのえ)」「丁(火の弟、ひのと)」
「戊(土の兄、つちのえ)」「己(土の弟、つちのと)」
「庚(金の兄、かのえ)」「辛(金の弟、かのと)」
「壬(水の兄、みずのえ)」「癸(水の弟、みずのと)」
この10個ですね。

さて、一方の「十二支」の方は、説明の必要は無いでしょうが、
「子」「丑」「寅」「卯」「辰」「巳」「午」「未」「申」「酉」「戌」「亥」
の12個です。

で、これを前から順番に組み合わせていくと、
「甲子」「乙丑」「丙寅」…「壬申」「癸酉」
となって、「十二支」の方が2つ余ります。
だから、「十干」の2巡目は、「十二支」とずれて、「甲戌」「乙亥」となり、続いて「丙子」「丁丑」…となって、これを繰り返して、再び「甲子」に戻るまでに、60の組み合わせが現れます。
これが「還暦」。

これを使って、古くから、「年」「月」「日」を表現することが、よくなされてきました。
ですから、この「干支」使用の歴史、背景を考えると、古代東アジア地域の暦制について、多少わかるのではないか、と考えるのです。

まず、「十干」について、これは所謂「五行」をもとにした概念です。
いや、もうひとつ可能性があります。
それは「十干」は始めから「十干」で、これに「五行」の概念が結び付けられた、という可能性です。
「甲」「乙」…「壬」「癸」は始めは「五行」とは関係の無い「干」という概念であった可能性です。
…一方の「支」は12です。
整理しましょう。
「行」…「木」「火」「土」「金」「水」の5つ。
「干」…「甲」「乙」「丙」「丁」「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の10。
「支」…「子」「丑」「寅」「卯」「辰」「巳」「午」「未」「申」「酉」「戌」「亥」の12。
「干支」…60。
これらは、同一の文化の中で生まれてきたものでしょうか。
それとも、別々の文化の中から生まれ、後に統合されたものでしょうか。
そこが問題です。
わたくしは「行」文化、「干」文化、「支」文化の3つの文化があったのではないかと、考えているのです。
ここで、「干」は、殷の天子の名前の中に現れます。
つまり、(これが殷の王の本当の名前であったら)殷墟に代表される華北中原の文化の産物であった可能性がありましょう。
次に「行」の中には「金」があるため、金属器文化時代の産物でしょう。
また、「支」は動物に模されていますが、この動物達は、
鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・狗・猪
であって、西域(インド・中央アジア)から北方(モンゴル)にかけての地域に生息してそうな動物ばかりです。(ただし、竜と蛇は疑問)
少なくとも羊や虎なんかは、地域が限定されるでしょうが、これだけで見ても、その範囲は広範にわたります。
玉文化の地域との関わりも見逃せません。

んー、いまいちまとまりませんが、要するにいろんな可能性があって、これから面白いテーマになるでしょうね。
9-Oct-1999

今回は想像をたっぷり交えてお話致します。
「2倍年暦」について、です。
んー、まぁ「2倍年暦」に限らず、いろんな「こよみ」について考えてみたいわけです。
というわけで、今回は非常にお気楽なお話です。

わたしたちは、ごく当然のように、1年は12ヶ月約365日、1ヶ月は約30日と知っていますが、この「1年」「1月」「1日」という「単位」、この中に1つだけ「仲間はずれ」というか、ちょっと性格の異なるものがあります。
それはなんでしょうか。

答えは「1月」です。なぜでしょう。
「1日」という単位は、大まかに言って、
「太陽が昇ってから、沈み、再び太陽が昇るまでの間」
こういうことです。これだと、「暦」や「天文」に詳しくなくてもわかるでしょう。
…で、ここでの基準は「太陽」です。
「1年」という単位はどうでしょう。実は「冬至から冬至まで」というのが、「太陰暦」の1年です。「太陽暦」(グレゴリウス暦)のそれは詳しくは知りませんが、恐らく似たようなもんでしょう。
とすると、「冬至」というのは、
「太陽の出ているのが一番短い日」
ですから、やっぱり、基準は「太陽」です。
もう、おわかりですね。
「1月」は読んで字の如く、「月」を基準にした単位です。
「満月から満月まで」「新月から新月まで」
どっちが正式だったかよくは知りませんが、こういうことです。
さて、これをふまえてお話しましょう。
これらの「単位」はどういう順序で成立したか、ということです。
まず、間違い無く最初に成立したのが「1日」です。何も考えなくてもこれは明らかですね。恐らく、旧石器時代でも知っていたんではないでしょうか。
…で、しばらくは「1日」は知っているけれども、「1月」も「1年」も知らない期間が、どのくらいかは知らないけれども、わたしたち人類には確実にあった、そう思われます。その際は、「年齢」という概念は無く、強いて言うなら、「生まれてからの日数」でそれを示していたでしょう。
でも、もしかしたら、その期間は案外短いかもしれません。例えば、わたしたち日本人には次の基準がはっきりわかるはずだからです。それは四季による「1年」です。
「桜の咲く時期から桜の咲く時期まで」
「雨ばかりの時期から雨ばかりの時期まで」
「暑い時期から暑い時期まで」
「葉が色づく時期から葉が色づく時期まで」
「雪の降る時期から雪の降る時期まで」
どれも「1年」です。
時計が無くても、カレンダーが無くても、これはわかるはずです。ですから、こういう区切りが生まれた。こう考えるが妥当でしょう。
…で、そのうち、この「1年」のうちに「満月の夜」が約12回ある、という事実に気がついて、「1月」という「単位」が誕生した。
こういう順序だと思います。
さて、すると、「1年」「1月」は文化によってはもっと別の基準があり得ることにお気づきいただけるのではないでしょうか。例えば、砂漠。まぁ、場所にもよるでしょうが、「1年」を通じて寒暖の差は無い気候を想像してください。ここでは、「1年」という「単位」を生み出すのがなかなか大変です。「どこからどこまで」というのが、なかなか無いのですから。すると、「1年」よりも「1月」のほうが先に生まれる可能性もあります。砂漠で最もよく見えるのは「月」ですから。ならば、その「1年」は知らないけれども、「1月」は知っている期間、「年齢」は、「生まれてからの月数」で示されていたでしょう。これが「12倍年暦」です。「年」「月」はあくまで「訳語」です。「月(満月から満月までの単位)」が「年(年齢を示す単位)」として使われいた場合、どっちに訳すか、難しい問題ではあります。この痕跡が「旧約聖書」にあります。およそ5、600歳の人物が目白押しです。これは、「12倍年暦」で「年齢」を数えた結果、つまり、500歳とは「500ヶ月生きた」という意味なのだと考えると、実際にはわたしたちのいう「40歳」程度になり、だいたいそんなもんでしょう。さらに、「月」という単位にはもう1個の基準が考えられます。
「新月から満月まで」「満月から新月まで」
これです。これだと、約15日で「1月」となります。
…で、これは知ってるけど、「1年」は知らない場合、この「月」によって「年齢」が示されたはずです。これが「24倍年暦」です。これも「旧約聖書」に痕跡があります。5、600歳の人物達よりも古い時代の人物、例えばアダムやアベル、カイン、ノアなどは1000歳近くまで生きたといいます。これも「24倍年暦」とすれば「40歳」くらいになり、納得できるでしょう。

今度はこんな気候を想像してみましょう。
「雨季」と「乾季」のある熱帯地方です。(「地理」の方はニガテなので、正しい名前がよくわからん)こんな地域では「1年」の基準が、変わる可能性があります。「雨季」を1年、「乾季」を1年と数える可能性です。
すると、これが「2倍年暦」です。当然、「雨季」と「乾季」では人々の生活のスタイルも大幅に変わるわけですから、こういう分け方が便利かもしれません。
で、これを考えると、こんなのも想像できます。
雪国の話です。「農業の季節」と「出稼ぎの季節」です。豪雪地帯なんかは、古くからそんなライフスタイルをとっていたのかもしれません。そうすると、ここでも「2倍年暦」が誕生する土壌が存在します。

さて、倭人の「2倍年暦」はどう言うものだったんでしょうか。
倭人伝の記述に従えば、彼らは「南方」の文化を持っていたようです。これを重視すると、「雨季」「乾季」の区分に近いものだったかもしれません。
また、「春耕・秋収を以て年紀と為す」という『魏略』の文面を重視すると、「農季」と「非農季」という区分に近いのかもしれません。
まぁ、史料が少ないので想像に頼る部分が増えてしまいますが、面白い今後の課題です。
6-Oct-1999

「在位年代推定の方法」

在位年代推定にはいくつかの方法があるかと思います。
何回か出てきた「在位年数平均」による推定も1つの方法でしょう。
ここでは、はじめに、そのいくつかの方法についてご紹介致したいと、思っております。

1、那珂通世など多数の論者が使った、「1世代20~30年」による推定。
はじめにご紹介するのは、これです。今まで多くの論者が言及してきました。これは、世代交代が約2、30年ほどで起こるという、言わば経験則から導き出された方法です。例えば、

  1   2    3   4
  応神―仁徳┬履仲
       ├反正
       └允恭┬安康
          └雄略

こう言う系図なら、応神―雄略の間は4世代なので20~30×4=80~120年くらいだろう。と、やるわけです。(よく、「倭の五王」とのからみで、このあたりの年代が重要視されます)
まぁ、非常に大雑把な方法ですが、ある程度的は得ていると言えるでしょう。
2、古事記の没年干支を使う方法。
古事記には、何人かの天皇の崩御の記事のところに、その没年の干支が注記されています。これを「没年(崩年)干支」と呼びますが、これを正しいと仮定して、各天皇の在位年代を推定する方法です。
当然「没年干支」は1通りしかないので、答えは1つだと思うかもしれませんが、大きく分けて2説あります。

     干支  A   B
  崇神 戊寅 318 258
  成務 乙卯 355 (以下同じ)
  仲哀 壬戌 362
  応神 甲午 394
  仁徳 丁卯 427
  履仲 壬申 432
  反正 丁丑 437
  允恭 甲午 454
  雄略 己巳 489
  継体 丁未 527
  安閑 乙卯 535
  敏達 甲辰 586
  用明 丁未 589
  崇峻 壬子 594
  推古 戊子 640

こんな感じです。ですが、この説には致命的な弱点があります。それは、この「没年干支」は古事記の説話に矛盾するということです。上の表で、仲哀は362に没しています。一方その子の応神は394に没しています。2人の没年の差は、32年です。…古事記の説話では、応神は父仲哀の死後、生まれたことになっています。そして、応神の没年齢は130歳(「2倍年暦」として65歳)です。額面どおりなら約100年、「2倍年暦」なら約30年ずれてしまいます。干支は60年周期ですので、60年、120年のずれは起こりやすいのですが、かえって100年や30年という中途半端なずれは起こりにくいのです。従ってこれは矛盾です。ここで、「古事記の説話は信用できん」と言ってしまっては、元も子もありません。じゃぁ、「没年干支も信用できん」のです。(わたくしは「説話」は信用できるが、「干支」は後代の注記(太安万侶による)と見なし、信用しません)少なくとも「説話はダメ、干支は正しい」と言うためには、徹底的な論証が不可欠です。
3、暦に詳しい学者がよく使う、「紀の年代修正」による推定。
日本書紀の紀年が大幅に引き伸ばされているのは周知のところです。これは、この「引き伸ばされた紀年」を正しく修正しようという方法です。これは多種多様な説が出ていて、必ずしも一定しませんが、おおよそ、雄略以降は書紀の紀年で正しく、それ以前は引き伸ばされていると見なすのが通説です。中でも、雄略を境に、それ以前は「麟徳暦(唐代に作られた暦)」で書かれ、それ以後は「元嘉暦(南朝劉宋で作られた暦)」で書かれているという研究成果は非常に貴重なものです。
ただし、これによって、紀の紀年が「作られたもの」であることは決定的になり、「何らかの暦に従って書かれたのでは」という一部の期待は、瓦解するほかなくなりました。
4、数学・統計学に強い論者が使う、「在位年数平均」による推定。
これは、もう何度も出てきたのでおわかりいただけるでしょう。

ざっとこんなところです。
この中でわたくしの言う「在位年数の公式」に近いのは、1です。
細かい事を言えばキリがありませんので、このくらいにしたいと思います。
26-Sep-1999(Part-2)

   ここに七媛女、高佐士野(たかさじの。所在不明)に遊行(あそ)べるに、伊須気余理比売(いすけよりひめ。後に神武の皇后)その中にありき。ここに大久米命、その伊須気余理比売を見て、歌をもちて天皇(神武)に白(まを)しけらく、
   (1)やまとの 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰れをし枕(ま)かむ
   とまをしき。ここに伊須気余理比売は、その媛女等の前に立てりき。すなはち天皇、その媛女等見したまひて、御心に伊須気余理比売の最前に立てるを知らして、歌をもちて答へたまひしく、
   (2)かつがつも いや先立てる 兄をし枕かむ
   とこたへたまひき。神武記

さてさて、この歌謡、どういうことを歌ってるのでしょうか。
万葉以降の技巧に凝った和歌を読みなれた方は、かえって深読みし過ぎてしまうようです。
(1)なんか単純です。
「やまとの高佐士野(地名)を7人で行く女の子達の誰を抱こうかな」
ってだけです。
ところが、これを歌ったのが「大久米命」であるのが気に食わないようで、「詞書きと歌とが矛盾している」とつつ、いろいろ考察しています。
まず、従来はこの「誰をし枕かむ」を「天皇は誰をお気に召されるのだろうか」と解説し、「矛盾」を解消しようとしました。
これに対し、この解釈を「曲解」として、この歌(1)は本来(2)と同じ1つの歌で、説話に織りこまれる際に二つに分けられたのだ、という論者もいるようです。
しかし、勘違いは明白でしょう。
余計な心配をし過ぎです。
ようするに、この歌は神武達が仲間内で、
「あの子達、カワイイな。誰がいい?」
「オレ、先頭を歩いてる子がいい」
なんて言ってるだけの、お気楽な場面です。
(実際、この直後、ナンパしています。しかも成功して、ゴールインです)
マジメに考えてる学者さんたちの意見より、説話にも歌にも的確な説明が与えられると思いますよ。(笑)
26-Sep-1999(Part-1)

今日は「在位年数」の話です。
といっても、新しい話をするわけではございません。
今まで、ちょくちょく言ってきたことの繰り返しになるかもしれません。
ですから、ポイントだけをギュッと濃縮してお話したいと思います。

まず、もうおなじみ(?)の「在位年数の公式」から。

 在位年数=退位時の年齢-即位時の年齢 …(1)

     =没年齢-(先代が没した時の当代の年齢) …※

     =没年齢-(先代の没年齢-先代との年齢差) …(2)

     =没年齢-先代の没年齢+先代との年齢差 …(3)

 ※:どの天皇も死没によって代替わりが起こる。

論理的には、このように展開されます。
(1)式は、常識的な式ですね。で、※印のような仮定のもとに言いなおすことが出来、(2)式となります。これはおわかりいただけますでしょうか。(先代が没した時の当代の年齢)を求める場合、先代より何歳若いか、を使って求めることが出来ます。(もっとも、今は若い方を+何歳としていますが、「符号」はどっちにどうつけるべきか
ちょっとよくわかりません。)
で、その結果(3)式が導き出せる、というわけです。
これで証明終わり、Q.E.D.です。

さて、これによって明らかになることは、以下のようです。

   「在位年数」には「当代と先代の没年齢の差」が影響を及ぼすこと。
   従って、「当代」もしくは「先代」の「没年齢」の単体はあまり影響が無いこと。(たとえば、両方とも若死にした場合は「在位年数」に及ぼす影響は少ないが、一方が若死にして、一方が長寿を保った場合、在位年数への影響は大きい、などのように、両者の関係が大事である)
   ゆえに、例えば「弥生時代の平均寿命は40~50歳くらいで、現代よりも短かった。だから、当時の在位年数も短かった」という類の推定は的を得ていないこと。(ただ、平均寿命が10歳などであれば、話は別である。なぜなら、このようなケースでは当然ながら、10年以上在位することは困難になるからである。→漢帝室など)
   かわって注目されるべきは、「先代との年齢差」である。これが大きければ、在位年数は伸び、小さければ在位年数は縮む。(若い方を+何歳と数えたとき)
   天皇家の場合、「先代との年齢差」を示唆する、もっとも有力な史料として記紀に載せる「系図」があること。当然、親子なら何歳位の差、兄弟なら…といった具合に、年齢差の推定が可能になる。

ざっと、こんなもんでしょうか。
これらが、「在位年数の公式」から明らかになることです。
次に、各天皇の在位年代を推定する場合について考えましょう。
このとき、いくつかの仮定が必要になります。

   没年齢は、一律50歳(おおよその平均寿命)とする。当然ながら、多くの代数を数えるほど、各没年齢の値は、平均値に近づくはずである。
   親子である場合、その年齢差はおよそ20歳くらいと考える。(あくまで、およその値)
   兄弟であれば、その年齢差は2、3歳程度と考える。(これも、およその値)
   この他のケースは、別途考える。
   数値は割と「こんなもんかな」っていうレベルで考えました。
   まぁ、妥当なところじゃないでしょうか。
   で、こういう仮定を用意した場合、次のことがわかります。
   1の仮定により、没年齢をすべて50とすると、在位年数=50-50+先代との年齢差となり、結局、年齢差だけを考慮すればいいことがわかる。

では、実際に推定してみましょう。
安本美典が「在位年数の平均」から推定した時の基点は、
用明天皇即位年=585年
でした。
これを使ってみます。
1)用明天皇(31代)→神武天皇までの続柄。
   親子…綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神、垂仁、
       景行、成務、応神、仁徳、履中、安康、清寧、武烈、安閑、敏達…計20人
   兄弟…反正、允恭、雄略、仁賢、宣化、欽明…計6人
   その他…仲哀(甥)、顕宗(従兄弟の子供同士)、継体(ほとんど血縁無し)
  用明自身と、神武は除きますので、合計29人のはずです。
2)それぞれの場合の在位年数を推定。
   親子…20(歳)×20(人)=400年
   兄弟…2(歳)×6(人)=12年
   仲哀(甥。成務の兄・日本武尊の子)は親子関係より若干短いと考え、15とする。
   顕宗は、清寧とほぼ同世代と考え、0とする。
   継体も、武烈とほぼ同世代と考え、0とする。
3)これらを合計した値が、神武天皇没年→用明天皇即位年までの年数である。
   400+12+15+0+0=427年
4)これを用明即位年=585年から引くと、神武の没年となる。
   585-427=158年
5)従って、神武没年は158年頃と推定できる。
さて、これはかなり大雑把な推定です。
ところで、卑弥呼天照大神説や、邪馬台国東遷説などがありますが、これらも、この推定によって面白い事態になります。神武の没年推定値は卑弥呼よりも前ですから、神武まですべてが実在すると考えるとこれらの説は成り立ちません。
(およそ、神武が卑弥呼より後の時代に来るような推定値は、
親子:14歳差、兄弟:1歳差、その他、ことごとく0歳差
こんな感じです。そもそも「在位年数」の推定なので、0以下は考えません。
14×20+1×6+0+0+0=286年
585-286=299年
ここまでやって、これです。これが史実だったら、笑います。)
従って、
1、途中の何人かを架空として削るか、
2、「親子」とあるのを「実は兄弟の誤り」として逃げるか
のいずれかを行わざるを得ないのです。

さらに、安本美典のように「後代の在位年数の平均値は14年程度だ」と言ったところでこれを神武までに当てはめようとすれば、とてつもなく窮屈な親子の年齢差にならざるを得ません。

だからこういう論者は、どこかを削ろうと必死になるのです。
なんか、ネタがわれれば、ほほえましい話です。(笑)
24-Sep-1999

今回は、比較的小ネタです。
朝鮮半島にはかつて高句麗・百済・新羅という3つの国がありました。
これはご存知ですね。
さらに、それ以前には、馬韓・辰韓・弁辰といういわゆる三韓が、南朝鮮にありました。
(北側には高句麗・穢(ワイ)・貊(ハク)・沃沮(ヨクソ)・夫余(フヨ)といった諸族、或は楽浪郡・帯方郡・玄菟郡などの中国勢力があった。)
で、今日のテーマは、この三韓です。
これら三韓のことが出てくるのは『魏志』韓伝です。
この名前からもわかるとおり、三韓とはすなわち「韓国」です。
「韓国」には3つの勢力がある。
このことを踏まえて、三韓というのであって、本来は1つの国として認識されていました。
では、魏志韓伝に従って、それぞれの様子を見ていきましょう。

馬韓(50余国)は三韓のリーダーともいえる存在です。どうやら馬韓王のことを「韓王」と称したようです。しかし、陳寿が三国志を書いた頃には、韓王は滅ぼされたようです。魏によって、でした。ですから現在(三世紀)は馬韓は、中国の直接統治下にある、といっていいようです。

辰韓(12国)はかつて「辰国」といったようです。もちろんその王は「辰王」です。
彼は今、「韓王」のもとで、独立した王としての実権は備えていないようです。
ただ、「韓王」が滅んでからはどうなったのでしょうか。それはわかりません。

弁辰は12国の小国からなりますが、それぞれに王がいたようです。
彼らは「辰王」に従うとあります。

さて、いきなり話は変わりますが、「狗邪韓国」ってご存知でしょうか。
これは「邪馬壹国」へと至る行路に書かれた、朝鮮半島南端の倭人の国の名前です。
この「狗邪韓国」という名前、「狗邪」と「韓国」に別れます。
「狗邪」は「狗邪国」です。これがこの国の名前です。
で「韓国」とはこの地が「韓」という大領域の一端に属すということを示しています。
同様に「不耐穢」とは「穢」(さっきでてきたやつ)という大領域に属す「不耐」という地名の意味です。
また、「閔越」とは「越」という大領域の中の「閔」という地域のことです。(中国南部)
とすると、「馬韓」「辰韓」「弁辰」はどうでしょう。
「馬韓」とは、「韓国」の中の「馬国」。
「辰韓」とは、「韓国」の中の「辰国」。
「弁辰」とは、「辰国」の中の「弁国」。
こういう分析が可能です。辰韓と弁辰について、その「王」の統属関係を振り返ってみるとこの名称が、決して偶然でないことに気がつきます。

さて、朝鮮半島側の史書『三国史記』に目を転じましょう。
この最初のほう(一世紀)に、「馬韓」「辰韓」「卞(弁と同じ)韓」という三韓が登場します。
もっとも、同時に「百済」「新羅」も存在しているので、ややこしいですが、当時の「百済」「新羅」は非常に小国だったと考えていいです。
ここで、「卞韓」の語に注目してみましょう。
この語が当時(一世紀)の語の反映ならば、この時点では「卞国」は直接「韓国」に従っていた、とみなせます。
一方、魏志の方(三世紀)は、弁国は直接的には「辰王」に属し「韓王」との関係は、間接的なものでした。
辰王の発展が伺えます。
(三国史記では、辰王=新羅王として叙述しているふしがあります。
これについては、また考えることにします。)

従来、中国史書と『三国史記』の叙述には齟齬が多いとされてきました。
そこで、当然、後代史書である『三国史記』のほうを切り捨ててきたのですが、いやいや、実は結構両者は符合し得るかもしれません。
もちろん、『三国史記』は「新羅」「高句麗」「百済」の順に正統とし、あとはみんな(加羅など)何も書いていませんから、そのあたりには注意が必要ですが。
17-Sep-1999

まずは、なにも先入観を持たずに
次のお話を読んでみて下さい。

   ある家族には、先祖代々伝わるというお墓がありました。
   家族はこのお墓を大事にしてきました。
   そんなある日、ある学者がこのお墓に非常に関心を持ちました。
   もちろん、学術研究のためです。
   そこで学者はこの家族に、お墓を掘らせてほしいと頼みました。
   ですが、家族はこれを断りました。
   大事なお墓だからです。
   また、ある研究者は、こんな疑問を持ちました。
   「このお墓は実は偽物なんじゃないか」
   つまり、研究者はこのお墓には、この家族の先祖は埋葬されていなくて、
   ほかの誰かのお墓なんじゃないかと、
   こう、思ったのです。
   そこで研究者はこの家族に、お墓を掘らせてほしいと頼みました。
   ですが、家族はこれを断りました。
   偽物だと言われるのを恐れたからです。
   また、ある教授は、このお墓には実は何も埋まっていないと、
   疑っていました。
   そこで教授はこの家族に、お墓を掘らせてほしいと頼みました。
   ですが、家族はこれを断りました。
   何も埋まってないわけがないと信じていたからです。
   さて、発掘を断られた学者はこう言いました。
   「学術研究のための発掘を断るとは、けしからん」
   また、発掘を断られた研究者はこう言いました。
   「真実を知ることを恐れるとは、けしからん」
   また、発掘を断られた教授はこう言いました。
   「事実を確認せずに盲信するとは、けしからん」

さてさて、この家族と学者達の言い分、どっちが正しいでしょうか。
みなさん、どう思います?
13-Sep-1999

さてさて、今日は、例の「日本の国号」問題、リターンズです。
これまでに、「任那日本府問題」を通じて、欽明紀に載せる「百済本記」の「日本」が近畿天皇家を指す、
ということを考えてきました。
このような結論に到ったとき、非常に大きな影響を受ける問題があります。
それは継体紀末尾です。

   二十五年春二月、天皇、病甚(おも)し。丁未(7日)、天皇、磐余玉穂宮に崩ず。
   時に年八十二。
   冬十二月丙申朔庚子(5日)、藍野陵に葬る。
   (或本に云はく「天皇、二十八年歳次甲寅、崩ず」と。
   而るを此に二十五年歳次辛亥に崩ずと云へるは、百済本記を取りて
   文を為れるなり。其の文に云はく「太歳辛亥三月、軍進みて安羅に至り、
   乞宅(ホントは「ウかんむり」なし)城を営る。是月、高麗、其の王安を弑す。
   又聞く、日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨ず」と。此に由りて言へば、
   辛亥歳は二十五年に当る。後に勘校(かんが)へむ者、知らむ。)

これは今まで、なぞだとされてきた個所でもあります。
有名な「安閑・宣化、欽明二朝対立説」は実はこの記事をもとにして生まれてきた説です。つまり「二朝対立」という大混乱の中に生じた「誤伝」だ、というのがこの説の生まれてきた背景にはあります。
それはさておき、この記事を整理してみましょう。

   国内伝承では継体の没年は二十八年甲寅の歳(534年)だった。
   百済本記には辛亥の歳(531年)に「日本天皇、太子皇子が崩薨」とあった。
   書紀編者は迷ったが、百済本記の記載に従い、二十五年(531年)を継体の没年と定めた。
   書紀編者はなおも疑問を残し、注としてこれを付した。
   またその際に次代の安閑の即位年は、「国内伝承」のとおり甲寅歳(534年)としたため、3年の空位期間が生じたが、これもそのままにしておいた。

こういうことです。
さて、ここの日本は、やはり天皇家でしょう。ところが、この百済本記の記載は、国内伝承と真っ向から対立します。単なる没年のずれだけではありません。
天皇・太子・皇子がともに死亡、これは大事件です。ハッキリ言って「日本」史上、稀に見る大事件でしょう。
ところが国内にはそんな伝承のあった形跡はない。それどころか、「太子」安閑は即位、「皇子」たちには宣化・欽明といった天皇達がいていずれも当然即位してます。健在です。
この両者(国内伝承と百済本記)の食い違いは、どういうことなのでしょうか。

ところで、この個所について、古田はどのように見ているでしょうか。
そいつを確かめておきましょう。
古田はここを含め、すべての百済本記の「日本」を九州だとしています。
したがって、この「日本天皇及び太子皇子倶に崩薨ず」の「日本天皇」は九州の王者だ、と考えています。
だから、「国内伝承(近畿天皇家内の伝承)」と食い違って当然。
というわけです。
さらに「3年のずれ」(二十八年→二十五年とした際のずれ)を考えると、実際はこの辛亥歳(531年)に磐井が滅んだのだとします。

しかし、前回までで明らかになったように、百済本記の「日本」はやはり天皇家です。
とすると、古田のこの見解には従うことが出来ません。
ですから、継体没年についてもう一度よく考えてみなければならないでしょう。
もはや、だいぶ長くなってしまったので、端的にお話します。

   継体没年は「国内伝承」のとおり甲寅歳(534年)が正しい。ここを531年としたために、数々の矛盾が生じてしまったのだからそう見なさざるを得ない。
   ただし、継体の在位二十八年はあやしい。なぜなら、ここらへんは、「二倍年暦」と「通常暦」の境目に当り、この年数計算がいずれによるものか判然としないからである。
   さらに「武烈悪逆記事」からみて、継体の即位は不法の簒奪であった可能性が高い。
   したがって、その即位を認めなかった勢力がいたと考えられる。
   継体はあくまで越やら近江やらの地方武将であり、大和にはより武烈に近い血縁の豪族がいたであろう。彼らが、「日本天皇」として存在した可能性は否定できない。
   さらには、武烈の治世が実はここまで続いていた可能性もないわけではない。
   要するにここに言う「日本天皇」とは結局、継体以外の誰かであろうと考えられる。

さて、一応このように考えてみましたが、これはもとより非常に危険な推測です。
とくに3以降は、証拠はひとつも有りません。
ハッキリしていることと言えば、この「日本天皇」が継体その人を指すという可能性はまったくもって考えられないということです。
たしかにここの「日本天皇」を九州の王者と見なしたほうが少なくともこの部分についてだけはスッキリしますが。
要はよーわからんのです。
まぁ、今後の課題として、ゆっくり考えることにしましょう。
11-Sep-1999

今回は、ガラリと変わって祝詞です。

さて、まずは祝詞に対する基本認識から。
これは、現在伝わる古記録の中でも最も古いと目される伝承です。
ただし、文献そのものは、延喜式に載せるのが最も古いので、平安初期ということになります。
ですが、祝詞の性格を考えても、平安初期に始めて作られた、なんていうものではなくて、もっと古くからの伝承を記録したもの、と考えられます。
また、神にささげる言葉ですので、古くからの伝承をそのままに伝えている可能性は大きいと言えるでしょう。
もちろん、権力者の手によって改変が加えられている可能性もなしとはしませんが、日本書紀ほどひどい(後代からの)改変は受けていないものと考えていいと思います。
ただし、古事記のように、時の権力者の都合によって話が作られている可能性は否定できません。
ですが、祝詞は非常に価値ある貴重な史料だ、と言えるでしょう。
この秋、注目です。

つぎに、祝詞と一口に言っても、これはさまざまな種類のものが含まれています。
それぞれの祝詞は、それぞれの時代の要請に答える形で成立してきた、この認識が必要でしょう。
それぞれ、その立場も中心も異なる、これが重要です。
たとえば、「大祓」の祝詞は「天孫降臨」当時の状況を非常によく反映していますが、「出雲国造神賀寿詞」は近畿天皇家中心の世界観によって構成されています。
当然ながら、これら祝詞は各個別々の状況で誕生してきたものです。
今でこそ、「祝詞」なんていって一連の史料のごとく扱っていますが、そもそも別個のものです。
もちろん、それぞれに共通する性格はあるでしょうが、別個に取り扱うべきものです。

さて、今回はあまり膨らませません。
そのうち、それぞれの祝詞についてのお話をすることがあるでしょう。
まぁ、今回は序論と言うことで、このへんで。
8-Sep-1999

1999/9/5の続きです。

わたくしとしては、Aが九州王朝、Bが天皇家と考えています。
理由としては、A(九州王朝)のほうが、百済との歴史的・政治的関係が深いことが挙げられます。
なぜなら、高句麗好太王の時代(4世紀末から5世紀前半)から既に、百済と倭(九州王朝)とは、親密な同盟関係にあったことが確実だからです。
また、これより先、たとえば、卑弥呼の頃に、朝鮮半島側と交流していたのが九州王朝であることも、疑いなきところ。ならば、当然、より対朝鮮交渉の歴史の古いAが九州王朝にふさわしいことになりましょう。
とすると、必然的にBが天皇家。(もちろん、前にも言ったように、他の「どこか」である可能性を否定しきったわけではないので、あしからず)
ですが、書紀を見ますと、欽明紀の主人公はもちろん、「天皇」です。
もっとも、任那日本府関連記事に関して言えば、「百済王だ」とも言えますが。
「天皇」とは、書紀の中の記述である限り、「欽明天皇」である、と見える形で書かれていますが、実際はそうではなくて、九州王朝の王である可能性が強いのです。
こういった例は、書紀の中にはいくつか見出せます。
その筆頭が景行紀。「景行九州遠征説話」はそのほとんどすべてが、九州王朝の歴史の「盗用」です。
そして、わかりやすいのが神功紀。ここには『魏志』倭人伝が引用されていますがこの「倭女王」が神功皇后その人でないことは、明らかです。
すなわち、ここでも、書紀は九州王朝の歴史を「盗用」しています。
そして、この欽明紀でも…。というわけです。
すると、欽明紀の原史料は、ほかならぬ「九州王朝の史書」ではないか、この疑惑が生じるわけです。
わたしは、この「九州王朝の史書」を仮に「倭書」と呼びたいと思います。
おそらく、正史に当たるものでしょう。だから、「倭書」です。
当時(6~7、或は8世紀)の正史と言えば、必ず紀伝体と相場は決まっています。
まぁ、その話は置いとくにしろ、欽明紀の「天皇」は、実は九州王朝の王者だった、そのことがここで明らかになるのです。

さて、だいぶ遠回りをしたようですが、もともとのお話に戻りましょう。
「百済本記」の日本は、近畿か九州か、というお話でしたね。
大事なことがわかったはずです。
つまり、任那日本府(さっきので言えばB)側が、実は近畿天皇家である。
これです。
ならば、この「任那日本府」という語を載せる「百済本記」の、「日本」は近畿天皇家を指す。
こういう帰結が得られるのです。

いやー、長かった。
どうです?おわかりいただけました??
5-Sep-1999

うーん。どーも、こう、短い文章でものごとを過不足なくしっかりお伝えするのは大変なようですね。
毎度のことですが、補足というか、実はまだまだ続きます…っていうお話です。

さて、昨日までに「欽明紀は百済本記以外の本を底本としてかかれた」
というお話をしました(1999/9/4)。
ところが、ここでおわってしまってはいけませんでしたね。
そうです。そもそも、「百済本記」の「日本」について考えてたんでした…。
忘れてました(笑)。

そこで、この問題に立ちかえる前に、「書紀本文」についてもう一度、じっくり観察してみたいと思います。
あらかじめ、ハッキリ申し上げておきます。
「百済本記」の「日本」がどこを指すか、という問題を積極的に証明するのは難しい、ということです。
なぜかというと、「百済本記」の文面自体が非常に少ないからです。
しかも断片です。
(多くは「百済本記には、この人名はこのように書かれている」という注です)
せめて、説話のひとつでも収録されていればよかったんですが、ないものをねだってもしかたありません。
従って、「書紀本文」の分析を深め、それとの絡みでなんとか「百済本記」にせまってみようと、そういうわけです。

「欽明紀の史料批判」
まず、従来からも言われてきたことから。

   欽明紀の朝鮮半島記事はもっぱら、百済聖明王を中心として描かれている。
   同時に、もっぱら朝鮮半島を舞台とし、日本列島側の地名が皆無である。たとえば、「難波津」「那津」といった日本側の港がもう少し登場してもよさそうなものだ。事実、継体紀にはどちらも現れているし、敏達紀以降には「難波」の登場回数が非常に多いことを考えると、不自然だ。
   「天皇」はただ、「詔勅」を発すだけの存在だ。実際にどこで何をした、という記事がない。
   欽明朝ともなると、すでに飛鳥時代の大物がいる(蘇我稲目、物部尾輿、大伴金村など)。なのに、彼らが登場するのは、「崇仏論争」くらいだ。とくに欽明紀前半部分の任那日本府関連記事の中には、1度も登場しない。後半の新羅との戦闘記事に大伴紗手彦(金村の子)が大将軍として登場するくらい。もっと「活躍」できるはずだ。(継体紀の任那記事(四県割譲事件など)では、継体朝の大物、物部麁鹿火・大伴金村のほかに、勾大兄皇子(安閑天皇)も活躍している)だいたい、欽明天皇の皇子女といえば、蒼々たる面子だ。敏達・用明・崇峻・推古天皇、穴穂部皇子など。時代的には、蘇我馬子だってすでに生まれているはずなのだ。
   任那日本府は明らかに新羅よりだ。一方、「天皇」は百済側に荷担している。なぜか、両者の立場が食い違っている。
   もっとも重大な疑点、それは「なぜか天皇は日本府の官人に直接命じることがない」これだ。百済へは「詔勅」としてさまざまな指示を与えているように描かれているが、一度も日本府へ詔勅を出した形跡がない。なぜ、隣国へはいろいろ言うくせに、自国の官僚には何も言わないのか。
   しかも、「天皇」の「詔勅」を「百済王が日本府に伝えている」。これはもう、おかしいとしかいいようがない。言いたいことがあるなら直接言ったらいいじゃないか。
   さらに、日本府官人は、「天皇」の言い分などに聞く耳を持っていない。また、「あんなヤツ、クビにしてくれ」と百済王が「天皇」に進言してもクビにならない。これだけ主人(天皇)の言うことを聞かなかったら、クビになるだろうに。というより、当時だったら「反逆」として討伐されそうなものだ。

こういったあたりが、欽明紀のもつ「問題点」かとおもわれます。
1~4までの状況を考えると、確かに「百済系の史書によって書かれた」ことの証拠、そのように見なしてもいいようにもおもわれます。が、5以降はそうはいきません。当時の情勢の問題です。
一応、1~4と5以降とは分けて考えたほうがいいかもしれません。
では、まず、4以前について考えましょう。
ここで大事なのは、「書紀本文特有の言回し」でしょう。
従来から、これはよく知られたところです。
欽明紀に限ったことではないのですが、書紀では必ず、天皇に対しては常に敬語で表現する、という決まりがあります。まぁ、これはわかりやすい話でしょう。もっとも、日本語で書かれた文章なら普通の日本語の敬語表現を考えていただけば良いでしょうが、書紀は漢文です。漢文での「敬語表現」はどのように行うか、これも簡単と言えば簡単です。天皇には天皇の用語があるのです。
たとえば、わかりやすいのは「死」でしょう。天皇なら「崩」と書く決まりです。
こういう決まり事がある、このことを念頭に置くとき、
「百済、遣使貢献」
とある書紀の文面を、そのまま信じてはいけないことに気づくでしょう。
書紀に「貢献」とあった場合、これは「(通好の徴として)贈り物を持ってきた」
というだけの意味です。
…で、例によって、欽明紀の本文もこのような表現に満ちています。
当然、「敬語表現」を差し引いて考えなければいけません。
しかし、それを差し引いても、なお、百済王が「天皇」の「詔勅」を重要視していたこと、これは疑えません。
読めば読むほど、「天皇」と「日本府」の間にはさまれた「中間管理職」のように見えてしまうのです。
それほど、聖明王にとって、「天皇」は重要な存在だった、と見なすことは可能でしょうが、もう一方で、「これは百済の史料による文章ではないのではないか」という疑惑を抱かせます。なぜなら、あまりにも「天皇」の意志に従って行動し過ぎている感があるからです。
また、聖明王がそのような態度をとっていることが、この「任那日本府関連の説話」のキーポイントになっているのです。
聖明王が「天皇」などに拘らずに行動を起こしていたなら、また、もっと「天皇」に対して自らの要求をつきつけていたなら、話はもっと違ったものになっていたはずです。
聖明王の父、武寧王は梁に遣使して、「寧東大将軍」となっていました。
この同じ頃の倭王は、あの武です。「征東大将軍」です。
両者は同格です。少なくとも中国での位取り上は。
このことから考えて、聖明王の一種卑屈な態度には、やや奇妙さを覚えます。
とは言っても、これは主観の問題かもしれません。
ですが、この「書紀本文」の原史料が、或は日本列島側の視点から書かれた、そういう可能性を考えておく必要があるでしょう。

さて、ここでひとまず、5以降に目を転じてみましょう。
これは、不思議ですね。実は、欽明紀の中には、日本府←→天皇間のやりとりが一つもないのです。
これは、従来の見方では説明不可能でしょう。
単純に、ごく単純に考えましょう。
両者は確実に仲が悪い。これは言えるでしょうね。
しかも、両者をつなぐ直接のパイプは存在していません。
むしろ、百済聖明王が自らそのパイプ役を買って出た、そんな趣もあります。
これによって得られる結論。
「少なくとも「天皇」と日本府には上下関係がない」
これです。
両者には連絡がない。連絡をよこさない部下は部下ではない。
連絡をよこさない部下をそのまま放って置くのは主人ではない。
しかも、部下がトラブルを引き起こしているのに。
こういうことです。
もっとも、何の先入観も無しにこの状況を見たら両者は赤の他人だと思うでしょう。
こう見たら、両者は対等、こう言っても過言ではありません。
日本府官人は「天皇」など敬っていません。
「天皇」は、そのことをとがめることもできません。
手出しが出来ないのです。
では、日本府官人はなぜ、こんなに強い立場を手に入れたのでしょうか。
ここに記されているとおり、彼らは「官僚」であって「王」ではありません。
「官僚」だということは、彼の上には「誰か」がいた、そう考えて間違いないでしょう。
(「天皇」のもとの「官僚」だったら、とっくにクビです)
さて、ここまで進んでくると、欽明紀には「隠された王」の存在がジワジワと見えてくるでしょう。
ここで「天皇」をA、「隠された王」をBとしておきましょう。
で、ABそれぞれの立場を確認してみます。

A…百済と親交が深い。古くから通好を続けていたようだ。また、任那諸国とも古くからの親交があった。
B…新羅と通じている。現在、任那諸国を統率しているらしいふしがある。また、歴史としては、「(書紀で言う所の)雄略」(5世紀後半)以降のように見うけられる。

さて、ハッキリ言うと、このどちらかが九州王朝、どちらかが近畿天皇家です。
(もっとも、吉備とか出雲とか越とかも、充分に考えられることではあるけれども)
さあ、どっち?
4-Sep-1999

「百済系三書」と「書紀本文」の関係について。

日本書紀の朝鮮半島記事の中には、「百済系三書」によって書かれた本文が数多くある」
これは、一般的によく言われることです。この点、古田も同じです。
たとえば、このようです。

   (神功)四十六年春三月乙亥朔、斯摩宿禰を卓淳国に遣す。…神功紀

この書紀本文に対して、こんな解説をしています。

   「以下、六十五年条まで百済を主とする対朝鮮交渉記事。百済記(→補注9-三七)を史料とし、かなり自由な筆致で構文したもの。ただし、五十年条・五十一年条などは全体として書紀の述作とみられ、四十七年条もそれか。百済記は干支を以て年次を示したが、書紀は干支二運をくりあげて配当した(→補注8-一)。従って述作部分を除き、干支二運さげれば史実。まず本年条は、成立後間もない百済国(→補注9-一〇)とはじめて通じた事情。年は丙寅、書紀紀年では二四六年、干支二運さげて三六六年のこと。斯摩は後文に志摩とある。氏ではなくて、人の名か。」岩波、日本書紀、神功紀注

また、同書解説(小島憲之)では、このように書かれています。

   「百済関係の記録として書名の明記されて引用されているものに、『百済記』『百済新撰』『百済本記』の三書がある。…本文の説明敷衍の意味で分注に引用されているが、ほかに分注でなく、本文にもこれを用いていると認められる記事がかなりある。とくに、継体・欽明の紀では一巻の大部分が『百済本記』による記事で占められていると言える。
   三書の性質についてはいろいろの説があるが、重要なことは百済人が百済で書いた記録というような単純なものではないことである。…つぎに『百済本記』では日本という国号を使う。日本号が正式に用いられたのは大化改新からであろうから、この文字もそれ以降のものということになる。
   津田博士は、百済の記録にある日本本位の記事は、書紀の編者が原史料に修正を加えた結果と解するが、筆者はそうとは思わない。…筆者は、百済滅亡後日本に亡命した百済人がその持参した記録を適宜編集して、百済が過去に日本に協力した跡を示そうと、史局に呈出したものではないかと推測する。…
   以上の三種のほかにも継体紀などを丹念に検討すると、別の朝鮮関係の記録が参照されていると思われるふしがある。それらについては、なお今後の研究をまつほかはない。」

このあたりが、通説と言っていいでしょう。ここで「百済本記」に日本という国号が使われていることについての1文がありますが、わたくしの承服するところではありません。ハッキリ言えばこれは、順序が逆です。
もっとも、
日本という国号は大化改新のときから」
という命題が本当に必要にして十分な論証によって証明されたなら話は別ですが、これも十分ではないようです。
(また、小島の「推測」は、やはり単なる推測であって論証としての価値はない)
ともかく、ひとまずそれは置いときましょう。
今、わたしが疑問を抱いているのは、
「本当に継体・欽明紀は百済本記によって書かれたのか」
という、このことです。
なぜなら、ここには「百済本記」引用記事が数多く存在するからです。
当然、本文とは違いがあるから注に引用するのであって、このことから少なくとも「百済本記」引用個所の本文は
「百済本記」以外の書によって書かれた、と、こう、見るべきなのです。
たとえば、こういうことです。

   夫れ任那は安羅を以て兄とす。唯其の意にのみ従ふ。安羅人は日本府を以て天とす。唯其の意にのみ従ふ。(百済本記に云はく「安羅を以て父とす。日本府を以て本とす」と)欽明紀、五年二月

この両者(本文と百済本記)には明白な違いがあるのがおわかりいただけるでしょう。
本文は任那→安羅→日本府という3段構えの関係を述べたものであるのに百済本記は(任那)→安羅、(任那)→日本府というそれぞれの関係を述べたものに過ぎないのです。この両者の相違、どちらが正しいか、それは今は問いません。重要なのは、両者に違いがある、そのことを確認すれば足りるのです。
このような事実によって考えてみると、「百済本記」はむしろ「対校本」であったことがおわかりいただけましょう。「底本」は他にあるのです。
この点、従来はこのように考えられたようです。
「このような違いこそ、書紀編者の「自由な述作」である」と。
でも、それは、次の問いを産むことになります。
「なぜ、ここはこのように書き換えたのだ」
「なぜ、書きかえる以前の原史料を引用したのだ」
とくに第2の問いは致命的です。そうでしょう。
どんなに弁舌を揮っても、この矛盾を覆い隠すことは出来ないのではないか。
わたくしにはそのように見えます。
ところが、「底本」は別の書だ、と考えれば、ことは簡単です。
まさに「説明敷衍」のため。
ここまでは「百済本記」引用部分について、でした。
ですが、重要なことは、「百済本記」を引用している本文と、そうでない本文との間には、それほど大きな差異はない。ということです。
「差異がない」というのは表面的な字面だけではありません。
その立場、視点などにも、大差はないのです。
従って、このように考えることが必要になってきます。
「やはり、欽明紀は「百済本記」以外の書を原史料として書かれたものだ」
これです。
また、これだけ「百済本記」を「対校」しているということは、その原史料は1つ。すでに今の欽明紀のような形で良くまとめられた本が1冊、間違いなく存在した、といっていいでしょう。
それはなにか、これが今後の重要なテーマです。
(今のところ、『倭書』百済伝である可能性が最も高いと想像している)

うーん。ちょっと今回はわかりづらかったかな。
どうでした?
31-Aug-1999

さて、今、Hotな話題は「日本の国号について」です。
まあ、似たような話は何度かしているので、そのへんも踏まえて、聞いていただきたいと、このように思うわけです。

今回は書紀に引く「百済系三書」について、です。
以前もお話したことがありますね(1999/7/18,Sun)。
あのときは、サワリ程度でした。
今回は、より深く、考えてみたいと思います。

「百済系三書」について、古田は以下のように、通説(前回参照)を批判しています。(『失われた九州王朝』)

   『日本書紀』では、神功紀に『魏志倭人伝』の引用が見られる。
   だが、これは、
       『魏志』の「倭女王」とは、卑弥呼であり、卑弥呼と神功皇后とは、別人である。
       卑弥呼は3世紀、神功皇后は4世紀の人であり、時代が異なる。
   という2点(人物の異同と紀年)で無理がある。
   従って、同じ神功紀に引用された「百済記」が先の2点(人物の異同と紀年)で正しいか、疑問である。その他の「百済系三書」についても、同じことが言える。
   よって、「百済系三書」の叙述対象の「倭」が、どの王朝をさすのか、これを慎重に検討する必要がある。
   「百済新撰」(6世紀の成立と推定)に「大倭」の用語がある。
   これは、『三国志』の「使大倭」、『後漢書』の「大倭王」の用例に基づいていると考えられる。決して後代の「大倭(大和)」の用例に基づくものではない。
   (かわにし補足、「倭(=やまと)」の用法は、万葉集によれば、天智以降である。←恐らく天武(1999/8/21参照))
   したがって、「百済新撰」にいう「倭」は九州をさしている。
   さらに、以下のようにして、百済系三書の記述対象を
   論証しています。
   「百済新撰」の最終記事(502年)と「百済本記」の最初記事(509年)とは、わずか7年であり、両書が「武寧王」について記述している。
   この点から、両書の「倭」が別々だ、とは考えられない。
   同様に「百済新撰」の最初記事(458年)と「百済記」の最終記事(476年)が
   交錯している。また、ともに「蓋鹵王」について記述している。
   したがって、両書の「倭」が別々だ、とは考えられない。
   さらに「百済記」と『魏志』は同じ神功紀にある。両書の「倭」は同一。
   少なくとも書紀の編者には、そう見えていたはずである。
   『魏志』の「倭」は九州王朝である。
   従って、「百済記」「百済新撰」「百済本記」の「倭」は九州王朝である。
   さらに進んで、このようにも言っています。
   「百済本記」にはしばしば「日本」という国号が出てくる。
   これを「信用しない(書紀編者の書き換えと見なす)」というのが通説だが、「百済記」「百済新撰」には「日本」という国号は出てこない(倭→日本という書き換えは行われていない)から、「百済本記」そのものにもともと存在した、と見なすべきである。
   したがって、この「日本」も九州王朝と見なされる。

さて、長くなってしまいましたが、ここからが本番です。
わたくし、古田説の1~9までは、一応、賛成です。
ですが、10がいただけません。
その理由を列挙します。

   「百済本記」には「倭」という表現がない。
   もっぱら「日本」である。従って、先の4については判定する基準が存在しないことになる。
   つまり「倭=日本」か「倭≠日本」か、それが問題なのである。
   「百済本記」の叙述の多くは継体天皇以降に現れる(最終は557年)。当然、それ以降の成立であるから
   近畿天皇家が完全に自立した頃の成立である。
   「百済本記」が近畿を対象にした叙述を行ってもおかしくはない。(日本列島の代表と見なすか、と言う問題とは別)
   「百済本記」には「任那日本府」も現れる。
   ここで「日本府」の官人は、新羅よりであり、百済王とは対立する存在である。
       新羅・近畿天皇家←→百済・筑紫
   という関係を考えるとき、この「日本」が近畿である可能性は否定できない。
   「百済本記」にも1箇所だけ「倭」ではないか、とおもわれる部分がある。
       百済本記に云はく、委の意斯移麻岐弥。継体紀、7年6月
   この「委」は「倭」に同じだろうと、従来言われている。
   志賀島の金印「漢委奴国王」と同じだ。
   とすれば、ここに「倭」は現れている。
   いよいよ、同一書に現れる「倭」と「日本」を同一視すべきか、慎重にならなくてはならない。

…とは言っても、これでは反論になりません。
可能性ばっかりだからです。
そこで、「百済系三書」と「書紀本文」の関係という視点から考えてみたいと思います。
詳しくは「後半へつづく」として、ここではその入口だけ、ちらっとさわっておきましょう。

   一般に、「書紀本文」の百済関係の記事は、「百済系三書に拠って書かれたもの」と見なされている。
   (これについては、通説・古田ともに同じ)
   だが、普通に考えて、「百済系三書に拠って本文を作っておいて、その作った本文の注に、自らその百済系三書を引用する」ということがあるか?
   継体紀には「百済本記」とは別にいくつかの「一本(あるふみ)」を引用している。こういう場合は、どっちが「本文作文」の典拠になったんだ?

と、このあたりの疑問が、出発点になります。
次回はきっと、さらに長くなりますよぉ!
29-Aug-1999

「総領」についての補足。
さて、前回のでは、「総領」についての説明が足りなかったかもしれませんね。
そこで、補足です。

「総領」ってのは、筑紫に置かれていたらしい、地方の政治的・軍事的拠点となる役所だといわれています。
そういう意味で、大宝律令以後の「大宰府」に近いものです。
そこで、「大宰府」の前身、という解釈が今まで多くなされてきました。
また、「総領」は他に、吉備・伊予・周防・常陸などにあってそれらも1国にとどまらず、周辺の割と大きな領域を管轄した役所であろうといわれています。
…で、結局、九州を管轄する総領が「大宰府」として残った。
これが通説です。
ですが、これもわかりません。
さっきも言ったように、総領の設置記事は記紀にないのです。
しかも、大宝律令下では「大宰府」。
これは、九州王朝時代から、この地にあった、政治・軍事の拠点です。
しかも、「総領」と並行して「大宰府」も存在したらしいのです。
両者はやはり別々の成り立ちを持つもの、そう見なしたほうがよいでしょう。
じゃ、いつ、だれが設置したのか。
ここがわかんないわけです。
ちなみにこれは、吉備など他の「総領」についても同じです。
同時に吉備には「吉備太宰」なんてものもあったらしくて、これもよくわかりません。
常陸に関しては、「大化改新」のころの「東国国司」がそれに近かろうと言われていますが、確証はありません。
どれも、660頃から700にかけて存在したらしいことだけは明らかなんですが。
28-Aug-1999

さてさて、今回は短くいきましょう。

大宰府・都督府・総領について。

   (665年)十一月丁巳朔乙丑、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。日本書紀、天智六年十一月

こんな史料があります。ここに見える「熊津都督府」については、次の史料が参考になります。

   (660年)八月、蘇定方等、百済を討平し、其の王扶余義慈を面縛す。国、分けて五部と為し、郡三十七・城二百・戸七十六万。以て其の地を分けて熊津等五都督府を置く。旧唐書、高宗紀上

つまり、唐は660年、百済を滅ぼし、その地を唐の支配下に置いたのです。
その際、唐が設置したのが「熊津等五都督府」です。「熊津都督府」ほか全部で五つの都督府を百済に置いたのです。
この「都督府設置」という唐の政策は、百済に対してだけではありません。
北の突厥鉄勒(テュルク。トルコ系)などに対して「都督府」を置いたという記事があります。
これは唐の常套政策でした。
さて、先ほどの書紀の記事、665年のことで、これはあの白村江の戦いの直後です。そこへ、「筑紫都督府」。
これは、何を意味するか。
お分かりですね。
この「都督府」はやはり唐の占領地です。
ことに同じ文中に「熊津都督府」とあって、これが唐の占領下のものであることは疑いなきところ。1文内の2つの「都督府」の意味が違う、そんなはずはありません。
筑紫の地は、白村江の戦後、唐に占領されていたのです。
この占領政策がいつまで続いたか、それはわかりません。
ここに1つの示唆を与えるもの、これが「筑紫総領」です。
これには、3つの解釈があるかと思います。
1、近畿天皇家の支配機構。
2、九州王朝の支配機構。
3、唐の支配機構。
どれでしょうか。わたくしとしては、このように考えています。
1の弱点は、記紀にその「設置記事」がないこと。カットする理由は見あたらないのである。
3は、唐に「総領」の設置は見られないこと。
…で、消去法でいけば、2かもしれません。
でも、わたくしがこの解釈を採ることをためらわせるのは、次の記事です。

   (700年)六月庚辰、薩末比売(さつまひめ。恐らく官名)・久売波豆(くめはづ。恐らく姓名)、衣評督(ゑのヒョウトク。官名。衣は地名)・衣(ゑ。地名)君(かばね)県(あがた。名)、助督(ジョトク。官名)・衣君弖自美(てじみ。名)、又、肝衝(きもつき。地名。氏か)難波(なには。或は、なば。名)、肥人等に従ひ、兵を持して覓国使(くにまぎし)刑部(おさかべ。姓)真木(まき。名)等を剽却す。是に於て竺志惣領に勅して犯に准じて決罰せしむ。続日本紀、文武四年

つまり、「薩末比売・久売波豆、衣評督・衣君県、助督・衣君弖自美、又、肝衝難波」が挙兵して、天皇家の部下である刑部真木等を襲ったので、竺志惣領(筑紫総領に同じ)に命じて、これを罰した。という内容です。
ここでは、竺志惣領は明らかに天皇家側です。
うーん。
結局どうなんだろう。今のところ、こいつは興味深いなぞです。
よくわかりません。
まぁ、ハッキリしていることと言えば、「都督府」も「総領」もその治所は今の「大宰府」だったということ。今の「大宰府跡」は実は「筑紫朝廷」であったこと。
このあたりかな。
22-Aug-1999

大変です!
とんでもないことに気づいてしまいました!!

8/21の「融天師彗星歌」!!
天師が歌ったという歌の内容です。
「星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反りて福慶を成さん」
これです。
この最後の部分、「反」や「成」の主語は誰でしょう。
今まで何気なく、「主語なし」と見なしてきました。
「反」に到っては、「副詞」と見なしていました。
「かえって」「反対に」というわけです。
ですが、「反」の本来の用法は、動詞(一説に形容詞)です。
「反る(かえる)」或いは「反す」です。形容詞なら「反対だ」という意味。
「成」についても、特に主語はないものと考えてきました。(吉凶の話だと見なす)
でも、やっぱり、ここの主語は「日本兵」と見なすべきではないでしょうか。
日本兵が反り」「日本兵が福慶を成す」のです。
この際、「反」は「叛」と同意でしょう。誰に…もちろん、「倭」です。
新羅国内にいた日本兵が日本に帰り、(新羅の敵国たる)倭に反逆して、福慶をもたらすだろう、というものです。
「成す」という語も「達成する」という語感を持つところが「為す」との最大の違いでしょう。やっぱり、意思を持った人間の所業です。
吉凶の問題ではなさそうです。
新羅でなんらかの共同作戦が、画策されていたのかもしれません。
対倭(任那)戦略の協議でなんらかの手段が用意されたのかもしれません。
任那日本府を通じて。

うーん、結構思いつきに近いものなのでどうかとは思いますが。
21-Aug-1999(Part-3)

『遺事』の説話について。

2、融天師彗星歌

   融天師彗星歌(新羅、真平王(579-631)代)
   第五、居烈郎、第六、実処郎(一に突処郎に作る)、第七、宝同郎等、三花の徒、楓岳に遊ばんと欲す。
   彗星の心大星(二十八宿の一。心宿。さそり座の中央付近)を犯す有り。
   郎徒、之を疑い、其の行を罷(や)めんと欲す。時に天師、歌を作り、之を歌う。
   「星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反りて福慶を成さん」と。
   大王、歓喜す。郎を遣わして岳に遊ばしむ。
   (このあとに「新羅の郷歌(新羅語の歌)」がある。そこには
   「倭理叱軍置来叱多烽焼邪隠辺也藪也」
   とあり、これは「倭軍が攻めてきたとして烽火をあげた国境なのだ」の意)

ここにも、「日本」の国号が現れます。時代を考えれば(天皇家で言えば、推古天皇代)、ある論者はこれは天皇家を差す、と言うかもしれませんが、一般的ではありません。「まだ、早い」というのがどうやら通説です。
また、古田はこれを以って、「九州が日本と称していた」と考えていますが、どうでしょうか。
すでに何度かお話したとおり、この時代は継体よりも後です。
つまり、「日本」が「倭」と並行して、独自に朝鮮経営に乗り出していたと、考えても良い時期なのです。
とすると、この「日本」は天皇家であったとしても、おかしくはありません。
ここのところ、古田は「朝鮮半島記事と言えば九州王朝」と考えているようですから大した論証もしないまま、この「日本」を九州王朝として扱っています。
ましてや、これを『百済本記』の「日本天皇及び太子皇子倶に崩薨(かむさりまし)ぬ」が磐井を差すという論証の証拠として扱っています。はなはだ危険です。「日本」は「日本」、「倭」は「倭」。ここんところ、ハッキリさせておかないと非常にややこしくなってしまいます。
これは「新羅」は「鶏林」とも書いた、という問題と同一視すべきではないように思います。
(また、「新羅」「鶏林」もそれぞれに別個の意義があるようにおもわれます。
単なる「異称」と見なして、それで済ませうる問題ではないです)

どちらにせよ、この説話からは「日本」は敵国です。
「大王」にとって、最も憂慮すべき問題だったことは間違いありません。
この辺り、わたくしのように「日本」を近畿天皇家と見なす立場にとって興味深い問題です。
つまり、単なる友好国などと言う関係ではなかったのです。
(新羅・日本←→倭・百済という関係について、前にお話したことがありますよね)
両国の関係というか、国民感情は結構複雑なようです。
21-Aug-1999(Part-2)

「三国史記・三国遺事における倭と日本
でしたね。でも、長くなるので「遺事」だけにします。

さて、『三国遺事』にはいくつかの興味ある説話が載っています。これらについて見ていきましょう。

1、延烏郎・細烏女説話

   第八阿達羅王即位四年丁酉(157年)。東海の浜に延烏郎・細烏女有り。夫婦にして居す。一日、延烏、海に帰り、藻を採る。忽ち一巌有り(一に云はく、一魚)。負ひて日本に帰る。国人、之を見て曰く「此れ、常人に非ざるなり」と。乃ち立てて王と為す。(日本の帝記を按ずるに、前後、新羅人の王と為る者無し。此れ乃ち辺邑の小王にして真の王に非ざるなり)。
   細烏、夫の帰り来らざるを恠(あや)しみて之を尋ぬ。夫の脱ぎし鞋(わらじ)を見る。亦、其の巌に上る。巌、亦負ひて帰ること、前の如し。其の国人、驚き訝(いぶか)る。王に奏献す。夫婦相会ふ。立ちて貴妃と為る。
   是の時、新羅の日月、光無し。日者(占い師みたいなもの)、奏して云はく「日月の精、降りて我が国に在りき。今、日本に去る。故に斯の恠を致す」と。王、使を遣はし、二人を求めしむ。延烏曰く、「我、此の国に到る。天、然しむるなり。今、何んぞ帰らんや。然りと雖(いえど)も、朕の妃、織る所の細肖(さいしょう。肖はホントは糸偏。細かい地のうすぎぬ)有り。此れを以て天を祭らば、可なり」と。
   仍りて其の肖(さっきと同じ)を賜ふ。使人、来り奏す。其の言に依りて之を祭る。然る後、日月旧の如し。其の肖(これも)を御庫に蔵して国宝と為す。其の庫を名づけて貴妃庫と為す。天を祭る所、迎日県、又都祁野と名づく。

長っ!やめときゃよかった。
とおもいつつ、全部引用してみました。この説話は漢の時代、日本列島なら弥生時代の新羅での話です。
この説話について、古田はこんな分析を行っています。(『風土記にいた卑弥呼』に載ってます)

   この説話の「日本」は後代の国名によって記されたものである。
   これは、この『遺事』編成の仕方によるものだろう。
   「負いて日本に帰る」とある「帰る」とは「かつていたところへ行く」という用法である。また、「海に帰る」という語もある。つまり、「海」も「日本」もこの夫婦にとって「かつていたところ」である。
   したがってこの「日本」とは「海の国」であり、「天国(あまくに=対馬・壱岐)」である。
   「降りて我が国に在り」と「日者」は述べている。
   記紀でも「高天原から新羅へ降る」という表現がある。これは、対馬海流・東鮮海流を背景にした表現である。(「川を下る」のと同じ)
   従ってこの表現も「この夫婦が対馬・壱岐の人だった」と考えると矛盾がない。また壱岐・対馬の「日月」の神への信仰は著名である。
   「日本」の都城の地は、「細肖」=絹の出土地である。それは、九州北岸意外にない。
   従って説話中の「日本の帝記を按ずるに…」という注釈の見当はずれは明らかである。
   なぜなら、この「日本」は近畿天皇家を差すのではないからだ。

…とこんな感じです。ですが、わたくし、納得していません。それは以下のような点です。

   後代の名前かどうかは、『遺事』の原史料が明らかでない以上、想像に過ぎない。
   もちろん、こういうケースがないとは言わないが、逆に「日本」という国号が意外に古かったという貴重な史料かもしれないのだ。
   「負いて日本に帰る」について、これは古田の誤読だ。「負う」「帰る」の主語は「延烏郎」ではなく「巌」である。
   これは、「巌が延烏郎を背負って(上に乗っけて)日本に帰った」のであって、「延烏郎が巌を背負って日本に帰った」のではない。
   これは後文に「巌、亦負ひて帰ること、前の如し」とある点からも、明らかである。
   こういった説話によくある「巌」の擬人的表現だ。
   (例えば、岩波文庫の佐伯有清編『三国史記倭人伝』では、この点をふまえてか、「帰る」に「おくる」と仮名を振っている。このような強引な読み方は、あまりよくないとは思うが、文学的に工夫してみたということなのだろう)
   ただし「海に帰る」のは延烏郎で、間違いはない。しかし、ここから「天国」へと結びつけるなら、それはあまりにも飛躍し過ぎだ。
   これは先の「天国」という解釈がなくなった今、あまり意味を持たない。
   むしろ、「降る」とは「垂直的な天」を考えたほうが良さそうだ。
   これは確かに有力だ。だが、重要なこと。
   説話上、「細肖」の「織られた場所」は明らかでない、ということである。
   むしろ、かつていた新羅の地で「日月の精」だった頃に「織った細肖」であったのではないか、と思うのである。
   このほうが説話としてスジが通るような気がするのだが…。
   もし、そうなら考古学上の分布図によって、「日本」の地が明らかになるとは言えない。
   「日本の帝記」については、確かに天皇家の話ではないだろう。
   なぜなら、弥生時代、近畿での王と言えば、それは銅鐸の王のはずだからだ。
   すなわち、「日本」は銅鐸王朝時代からの呼称、そういう可能性も有るのだ。
   さらに、こんな点を付け足しておきましょう。
   「巌」について。例えば『紀』にニギハヤヒの降臨説話がある。
   それは「天磐船にのって天からヤマトの国(一説に河内)に舞い降りた」というものである。
   また、ニギハヤヒと神武は同じ天国を母域にもつ人だったことが知られている。
   この「天磐船(あめのいはふね)」は宇宙船なんて、すっとんきょうなことを言う人もいるけど、「天国の、磐を運ぶ船」である。「磐で出来た船」とも解釈できるがまさか、かちかち山じゃあるまいし…(あれはドロ船か)。
   「磐」とは縄文以来の巨石信仰の対象物だ。
   また、石器などの材料として、採石場から各地に運搬されたであろうことは想像に難くない。その際、陸よりも船が便利であったことも言うまでもない。
   延烏郎を乗せた「(霊力ある、不思議な)巌」もそういった点から、考えるべきである。
   当時(弥生)の新羅は、倭国(九州王朝)の内部か、外部かという問題だ。
   魏志倭人伝には朝鮮半島の南端は倭の領域だったことが書かれている。問題は「迎日県」「都祁野」はどうか、ということだ。とくに「都祁野」など倭語(つき=月)そのものである。重大なのは、倭語で解釈しないと、この地名、地名説話として意味をなさないのである。
   倭の内部なら、「日本に帰る」という表現は、古田説(「日本」=「倭」)では説明不能だ。言ってみれば「倭から倭へ帰る」などという、奇怪な用法にならざるをえない。また、その他の多くの解釈も結局のところ「日本」=「倭」(大和朝廷)だから、同じである。

ざっと、こんなところです。
うぉ!長っ!!
うーん、『遺事』の説話について、もうひとつ面白い話があるんだけどな。
続きはまた今度…。
21-Aug-1999(Part-1)

今回は「倭国日本」です。
ご承知のとおり、「倭国」と「日本」は両者別国です。
今回は、史料の整理をしておきましょう。

中国側史書『旧唐書』(10世紀、五代晋、劉怐(リュウク)撰)では、両国をそれぞれ別々に「伝」を立てて記しています。
また、内容から言っても、両国は別であることが明記されています。
ただし、両国には「倭(先)→日本(後)」という先後関係があり、単なる並立とは描かれていない、ということも留意しておく必要があります。
両国の交代時期は明記されていませんが、701年頃(則天武后の時代)が一応の境目のようです。
また「倭国の分派としての日本」ということも忘れてはいけません。

続いて『新唐書』(11世紀、宋、宋祁(ソウキ)撰)です。
ここでは「日本伝」だけで、「倭国伝」はありません。
ですが、全体の記事をよく読むと、例えば「白江(白村江)の戦」などは「倭」と書かれていて、「日本」とはなっていません。
なぜ、「倭国伝」がないのかというと、「亡国」だからです。
「『旧唐書』は唐創業の頃には詳しいが、最近(唐滅亡の頃)の記事が貧弱だ、という理由で、最近のことに詳しいこの『新唐書』を書いた」
と、序文に書かれているので、この辺が参考になるでしょう。
(ちなみに『旧唐書』が「最近」のことに詳しくないのは、五代十国という時代背景があったため。やむをえない実情があったからです。また、『新唐書』が書かれたから『旧唐書』はいらない、ということではありません。
むしろ、わたくしの知りたい時代(7~8世紀)については、『新唐書』序文の言うとおり、『旧唐書』のほうが価値があります)

ほかに、唐の時代(に書かれた/を描いた)いろんな書物(例えば、『冊府元亀』『通典』『唐会要』『唐録』など)も参考になります。

一方、朝鮮半島側からはどのように描かれているでしょう。
『三国史記』(12世紀、高麗、金富軾(キンフショク、朝鮮読みは知らん)撰)においても「倭」と「日本」は区別されています。特に「白江の戦」までは「倭」、その後は「日本」となっていて、ある時点を境に表記がキッパリ分かれます。
で、670年に「倭国日本に変わった」という記事があります。
ただし、これは『新唐書』の記事を誤読したものだ、という説があり、わたくしもこれに賛成です。
両書の文体は酷似し、確かに『新唐書』の記事は、読みようによっては670年のことに読めなくもないからです。
新唐書』には『旧唐書』と同じく両国の交代時期は明記されてはいません。
ですから、例えば古田はこの『三国史記』の記述から670年(天智10年)を重要なラインと見なしていますが、どうでしょうか。不安です。

次に『三国遺事』(13世紀、高麗、僧一然(イチゼン)撰)では、「日本」と「倭」という表記は必ずしも「分裂」していません。
どちらも同じように、いろいろな個所でお目にかかれます。
このような現象はこの本だけですが、それはこの本の性格によるものだ、と言います。
この本は歴史書ではなくて、史料集成・説話集という性格を持っているからです。
もとの史料の表記に従った、ということです。つまり、史料の中には比較的新しいものもあって、これには現国号である「日本」で記載されていた(こういうことはよくあります。現在でもよくありますよね)。
こういう解釈です。古田なんかもそう言っています。
ですが、これもあやしい。これでは「日本」と記された金石文に明確な説明が与えられないからです。
古田はこれをもって、「倭」がかつて「日本」とも称していた証拠と見なしていますが、これはいただけないでしょう。
やっぱり「日本」は「日本」と考えるべきです。
ここらへんについては、またお話します。

さて、日本列島側はどうでしょうか。
まず、『古事記』には「日本」という語が出てきません。
これは、天武天皇の意思によってまとめられた史書という『記』の性格から考えれば、そのなぞを解くことができます。
まぁ、のちほど。
日本書紀』はどうかというと、言うまでもなく「日本」が目白押しです。ですが、従来から言われているようにこのほとんどは、「倭」とあったところを「日本」に書き換えたというものです。
神倭伊波礼毘古(カム倭イハレビコ、神武天皇)〈記〉を神日本磐余彦(カム日本イハレビコ、同じ)〈紀〉に書きなおしているあたり、明白です。(読みは「ヤマト」でいいのか不明)
さて、大きな問題があるのは『万葉集』です。
第1の問題は「ヤマト」の表記についてです。
古田は「ヤマト」という語の表記の仕方について、こんなことを発見しています。
それは、天智天皇以前は「ヤマト」を「倭」と表記したものがひとつもない。「倭国」と書いて「ヤマトノクニ」と訓ませるような例は天智以降である、というものです。
ここからも、先の670年のラインが引かれる、というのです。
なるほど、たしかに天智以降、「倭」という文字が「ヤマト」を表すようになった、ということは正しいと思います。
ところが、「倭」→「日本」という変化はそれよりもさらに後、おそらく持統か文武の頃のようなのです。
たとえば山上憶良や大伴旅人などが使っています。
むしろ、中国史料が示唆する701年に近いようです。
このあたりを考えると、「九州→近畿」の権力委譲は670年に、「倭→日本」という名称変更は701年に行われたと考えていいのではないでしょうか。
なぜなら、「倭」を「ヤマト」と読めるようになった、ということが「倭」の中心が「ヤマト」に移ったことの1つの現われと見なすのは自然だし、(従来から言われているとおり)倭→日本の変化は701年と見なすのが妥当だからです。
また、「倭」を「ヤマト」と読むようにしたのは、天智の時代ではなく、天武です。天智の時代なら「倭」は「あふみ(近江)」と読まれた可能性が高いからです。
こう考えると「天武天皇の意思によってまとめられた史書」『古事記』が「日本」を使わず、もっぱら「倭」を使う理由は、明らかですね。

さて、今回は「倭」と「日本」について、各史料の整理と、国名変化のラインについてちょっと語ってみました。
次は第2章「三国史記・三国遺事における倭と日本」です。
18-Jul-1999

今回は、「日本書紀に見える5つの書物について」です。

5つの書物とは、日本書紀編纂にあたって、原史料となったであろう、『百済記』『百済新撰』『百済本記』の百済系三書と『日本旧記』『日本世記』の併せて五書です。
どれも、『日本書紀』に引用されています。が、逆に言えば『日本書紀』にしか見えない書物です。
それぞれについて、簡単にまとめておきましょう。

『百済記』

   神功紀から応神紀にかけてと、雄略紀に引用されている。百済の王で言うと、肖古王から蓋鹵王までの9代(346-475)。

『百済新撰』

   雄略紀と武烈紀に引用されている。百済王では、蓋鹵王から武寧王までの5代(455-523)。

『百済本記』

   継体紀、欽明紀に引用。百済王なら、武寧王から威徳王までの3代(501-557)。

日本旧記』

   雄略紀の1箇所でのみ引用。百済関係の記事。

日本世記』

   斉明紀、天智紀に引用。白村江あたりの史料。

それぞれ、5つの本は、すべての時代について書かれたものではなくて、各々の対象とする年代は、ある程度決まっていたようです。特に、百済系の三書は、きれいに推移しています。
ただし、大事なのは、百済系の三書はその「連絡時点」において、重なり合っている、ということです。
つまり、蓋鹵王は『記』と『新撰』に、武寧王は『新撰』と『本記』にそれぞれ載っている、ということです。
これらは恐らく、日本の「六国史」のように、一貫した事業として編纂されたものではなく、各個独自の背景によって成立した、別々の書物と見なすべきでしょう。
そこで、それぞれの本の「来歴」について考えてみます。

まずは、『百済記』です。この書に最初に見える「肖古王」について、こんな史料があります。

   古記に云はく、百済開国已来(「以来」に同じ)、未だ文字を以て記事有らず。是に至り、博士高興を得、始めて書記有り。然るに高興未だ嘗て他書に顕れず。其れ何許(いずこ)の人なるかを知らざるなり。三国史記、百済本紀、近肖古王

要するに、歴史の記録が始まったのは、肖古王の時代だ、と言っています。
その通り、『百済記』は肖古王から記述が始まっています。
だからと言って、『百済記』がここに言う「高興」の書いた本だ、とは言いませんが、参考になる史料と言えるでしょう。恐らく、百済の国内で編纂された、同時代史でしょう。成立は、六世紀頃と思われます。
次に『新撰』です。引用個所が、3ヶ所と少ないので、はっきりしたことはわかりませんが、「新撰」という書名から言って、歴史書と言うよりは、説話集のようなものだったのかもれません。ここには「大倭」「天王」という語があって注目されます。いずれも、「九州」です。
『本記』は紛れもなく史書です。この書には「日本」という語が多く出てくるので成立は新しいと従来言われてきました。
古田武彦はこの「日本」も「九州」のことだ、と言っていますが、どうでしょう。
私は「日本」はやはり近畿を指すと考えています。
それは、「継体以降」だからです。
「磐井の変」以来、九州と近畿は敵対関係にありました。
反乱者はやはり継体ですが、もはや九州はこの「反乱」を鎮圧できませんでした。だからと言って、九州は敗れてはいません。
と、いうことは両雄並び立つ状況だった、と考えるのが筋です。
対等です。
古田のように、朝鮮半島記事は九州の独占事項だ、とは言えない状況なのです。こう見ると、この「日本」は近畿のことである可能性も捨てきれないのです。さらに、任那日本府の官僚たちは、「親新羅派」です。
一方、天皇(欽明つまり近畿の王ではない)は「親百済派」です。
ここの分裂も重要です。

   新羅・日本←→百済・倭

という構図が見えます。これは白村江と同じ構図です。
ここのところは重要です。私は

   欽明紀の「天皇」は九州の王である

と考えています。(これについては、また今度)
『本記』は天皇に対して敬語を用いています。このあたりもこの書の成立に大きな示唆を与えるでしょう。
それから、『日本旧記』です。
これは、1箇所で引用されているのみです。
私はこれは書名ではなくて、「日本の旧記」という普通名詞ではないか、と見ています。この『旧記』の引用個所は、『新撰』によって書かれたと言われる場所の「注」です。ですから、この注記はもともと『新撰』にあった、と思われます。「日本」はどっちを指すか、これだけでははっきりしません。
(古田は九州だといっています)
日本世記』は、どうでしょう。ポイントは「世記」という語です。
『倭姫世記』は「倭姫をはじめとする伊勢神宮史」です。『史記世家』は諸王の伝記です。
こうした点から見て、「世記」という語は「帝王の歴史」ではなくて「その他の豪族の歴史」です。
帝王の歴史は「紀」といい、いわゆる「帝紀」です。
また、1個人の伝記は「伝」「列伝」です。
これに対し「世記」「世家」「載記」(「載」は「世」とほとんど同じ意味)は、有力な豪族の1族の歴史です。
私はこれこそ「倭書(仮題)」中にあった日本(近畿)の部分だろうと思っています。『史記』の中に「楚世家」やら「呉世家」やらあるのと同じです。
また、『晋書』に「五胡十六国」のことが載っている「載記」と同じです。
少なくとも、『日本世記』と言う場合、「日本の帝王の歴史」ではありません。

まあ、「任那日本府」や「倭書」など、話し始めると非常に長くなるのでここらでやめときます。
7-Jul-1999

今回は6/20のつづきです。
で、范曄のいう「国皆王を称し」は、倭をはじめとして、朝鮮半島の国々ではないか、と、わたくし、前回は言いました。
ところが、よくよく考えてみると、これもなんかおかしい。
なぜなら、范曄はその直前で、

   倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居す。凡そ百余国あり。
   武帝の朝鮮を滅ぼしてより、使駅、漢に通ずる者、三十許国なり。
   国、皆王を称し、世世統を伝ふ。其の大倭王は、邪馬臺国に居す。

と、書いてあるからです。だから、文脈上は、この「国」とは倭国内の小国です。
ですが、前も言ったように、「世世統を伝ふ」というのは、『三国志』の記述から言って不可です。
この文章からは、まるで漢代を通じて諸王がその血統を伝えてきたかのようですが、そいつは范曄の思い違いです。
やっぱり、「国皆王を称し」の部分を漢代のことと考えるのは無理です。
うーん、この一句、かなりの強敵になってきました。
難しい。
というのは、「皆王を称し」ていたのが5世紀のことであれば、「世世統を伝ふ」がおかしくなってくるのです。
そこで、「南朝鮮の国のことじゃないか」と考えたのですが、これも、文脈上、やっぱりおかしい。
こまったもんです。
というわけで、よーわからん…。
24-Jun-1999

えー、今回のネタは、「欠史八代」の系図です。
ここんところ、大きなネタはないんで、今回も非常に小ネタです。

   神武―綏靖―安寧―懿徳―孝昭―孝安―孝霊―孝元―開化―崇神

という系図
まー、社会の資料集でも見てください。
一直線に書かれていることも多いかと思います。
ところが、崇神より後の系図は、例えば兄弟で継承したり、途中で途絶えそうになって、ちょっと遠い親戚が後を継いだりいろんな「皇位継承」のバリエーションがあります。
なのに、神武―崇神の間は一直線。
つまり、100%、親→子という継承です。
「これはおかしい」
従来から、こう言われてきたのも、まー、しかたのないことでしょう。
でも、それは「皇位継承」なら…の話。特別な地位についた人の話なら、こんなに親→子なんてきれいに続くはずがありません。
別にこれは、たとえば「徳川将軍」でも「源氏の棟梁」でも、おなじことです。
ここで
「だから、神武―崇神は架空なんだ」
と言いたい気持ちはわかります。
でも
「だから、神武―崇神の系図は皇位継承をあらわすものではない」
と考えてみる必要があります。
と、同時に
「これは、天皇(姓はよくわからないので)氏の最有力者をあらわすものでもない」
ともいえます。
たとえ一氏族の長(最有力者)であっても、やっぱり親→子継承が何代も続くようなことはありにくいからです。
例えば、懿徳天皇安寧天皇の次男だからといって末子相続うんぬんとは言えません。さらに、長男は早世したとか、ダメなヤツだった、なんていうことも言えません。
ここんところは、非常に間違えやすいので、注意してください。

さてさて、じゃぁ、なんなんだ?と思うかもしれません。
それに答える前に、わたくし、こういう一直線の系図
いくつか知っていますんで、ご紹介しましょう。

<その1>「稲荷山古墳出土、辛亥年銘鉄剣」に見える「乎獲居臣」の系図

       「意富比危―多加利足尼―弖已加利獲居―多加披次獲居―多沙鬼獲居―半弖比―加差披余―乎獲居臣」

<その2>「釈日本紀所引、上宮記」に見える継体天皇の系図

       「凡牟都和希(ホムツワケ)王(応神)―若野毛二俣王―大郎子(亦の名、意富富等(オホホド)王)―乎非(ヲヒ)王―于志(ウシ)王―乎富等(ヲホド)大公王(継体)」

<その3>「古事記、崇神記」に見える意富多多泥古(オホタタネコ)の系図

       「大物主神―櫛御方(クシミカタ)命―飯肩巣見(イヒカタスミ)命―建甕槌(タケミカヅチ)命―意富多多泥古」

どうです?お気づきになりました?
これらの系図で中心になるのは、頭と尻です。
つまり、<その1>では「意富比危」と「乎獲居臣」。
<その2>では応神と継体。<その3>では「大物主神」と「意富多多泥古」がそれぞれ中心なんです。もっと言うと、まず、尻があってそこから頭まで(血の繋がりを)さかのぼったというのが、この形の系図なんです。
一番最後に書かれているけど、本当の主語は一番最後の人物なんです。
そこから、何代か前の「偉大な先祖」までさかのぼって書いた、というのがこれらなんです。
まー、5~6代前の先祖まで辿ってみてください。
絶対に「一直線」になるはずです。
(辿れれば…の話ですが。別に徳川でも足利でもなんでもいいです。
そーだな、徳川慶喜から家康まで、「血の繋がり」をさかのぼって書いてみてください。「将軍号」とは関係なく「一直線」になるでしょ?)

長くなりましたが、ここで結論!
「神武―…―崇神」の系図は崇神を原点に神武(大和の地にやってきた1代目)までの血の繋がりをさかのぼって書いただけである。
「記紀」ではこれに対して「天皇」の称号を与えただけである。
20-Jun-1999

今回は「倭の五王」で行きたいと思います。
聞けば当たり前の話です。

倭王は中国南朝に使者を送って、その冊封下に入りました。
そのときもらった称号は、たとえば珍なら、
「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」
という長ったらしいものです。
これは、「使持節」「都督諸軍事」「安東将軍」「倭国王」という4つの称号からなっています。
ここで実質的に、東アジアで効果を持っていたのは「都督諸軍事」と「倭国王」です。
あとの2つは中国国内での位取りです。
で、「都督諸軍事」と「倭国王」の称号
この2つの示す支配領域には違いがあります。
「都督」のほうは、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓という6国の支配を示しています。
一方、「倭国王」はというと、倭1国のみです。
もし、さっきの6国に対しての「王」だったら、
「倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国王」
か、総称して「東夷王」「海東王」などと言わなければならないでしょう。
ということは、新羅王・任那王・加羅王などは他にいたということがここで証明されます。
そして彼らは都督諸軍事たる珍の支配下にあった、これが確認されるわけです。

そこで『後漢書』です。著者の范曄(ハンヨウ)は南朝劉宋の時代の人です。まさに、倭の五王の時代です。
彼は『後漢書』でこう書いてます。

   国、皆王を称し、世世統を伝ふ。其の大倭王は、邪馬臺国に居す。

これは、今まで2世紀後半から3世紀のことだと言われてきました。
でも、そうじゃありません。これは彼が5世紀の事実を踏まえた上で、昔もそうだったに違いない。と言ってる場面です。(この范曄説は、間違いです。3世紀のことは三国志の著者陳寿に聞いたほうが正しい。魏志倭人伝では、王は女王・伊都国王・狗奴国王の3人しかいません。他には王はいないんです。30国どこにも。奴国王なんていないんですよね)
…で、何が言いたいかというと、「国皆王を称し」の「国」は倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の6国のことなんじゃないか、ということです。その6国にはそれぞれ「王」がいた。
そのことを踏まえて范曄は、こんな風に書いたんじゃないか、ってわけです。
つまり「邪馬臺国に居」した「大倭王」とは倭の五王のことだった。
そういうことです。