歴史・人名

独り言(Historical)

Historical

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15-May-2005

今日は、「国号」について考えてみようと思います。我が国の国号は言うまでも無く「日本国」ですね。英語では Japan です。
この「日本」という国号は七世紀ごろ成立したものであると見られています。それ以前は「倭国」でした。
網野善彦は、この「日本」という国号についての注意を促しました。
網野は、「日本人とは日本の国制の下にある人々」のことであって、それ以上の意味は無いとし、「倭人」は「倭人」であって「日本人」ではない、と言います。
これは、「日本」というものが何となく昔からずっと存在してきたと言う戦前の歴史学はもとより、戦後の歴史学も「日本列島」と言うことによって日本がずっと一つの国で一つの民族としてあり、ずっと一つの集団として歴史を歩んできたと言う幻想をいだいてきたことに対する批判です。
この批判は、単一民族神話批判や古田武彦の「天皇家一元史観」批判とも共通する問題意識だと私は見なしますが、実は、世界史そのものの重要な立場変更を求めるものでもあります。
「大韓民国」という国号の国があります。一方「朝鮮民主主義人民共和国」という国号の国もあります。
彼らはお互いを同胞と呼び、政治上は敵対していますが(最近はそうでもないようですが、少なくとも建前上休戦中)、同じ民族であると言う意識を持っています。
現に英語では一般に South Korea, North Korea ですし、彼らの言葉にも「北韓」「南鮮」という用語があり、同じ国(であるべき)なのに分裂している、という認識です。
東西ドイツ、南北ベトナムも、そうした結果統一しましたね。
ところで、Korea という語は、「高麗」を基にした語です。
韓国の英語名 Republic of Korea は直訳すると「高麗共和国」です。北朝鮮は Democratic People's Republic of Korea ですから「高麗社会主義人民共和国」。
もちろん、韓国も北朝鮮も漢字の文化圏ですから、漢字の「大韓民国」「朝鮮民主主義人民共和国」のほうが正しい名称ですがね。
何を言いたいのかと言うと、英語においては「韓国」も「朝鮮」も同じく Korea である、ということです。
このことは実は日本語においても便利に利用されています。
コリアと言う語は日本語においても市民権を得ているといっていいでしょう。
コリア語とか、コリアンという用語も存在します。
これを韓国語とか朝鮮語、韓国人/朝鮮人と呼んでしまうとややこしいのです。
もちろん、韓国と言えば北がいい顔をしないし、朝鮮と言えば韓国がいい顔をしません。
そこでコリアという便利な語が選ばれるわけです。
すこし別の言い方をすると、「コリア」という用語によって彼らの統一性は保たれるという状況にあるのです。
(「朝鮮」という語は、「李氏朝鮮」で長らく統一国家の名称であったことと「箕子朝鮮」という伝承上の由緒もあって、「コリア」に相当する語でしたし、今も日本においては朝鮮半島という用語もあるので、その地位を保っているとは思います)
要するに、「朝鮮半島」に存在する国々を Korea という一つの語で表現すると言うヨーロッパの言語習慣は、「朝鮮」或いは「コリア」という国乃至民族が古くから存在したのだと言う一種の幻想を支えることになるのです。
「朝鮮半島」の歴史が統一だけでないことなどは、「日本列島」よりも明らかなことです。
古くは「朝鮮」「韓」という二つの国が存在したのですし、「高句麗」「百済」「新羅」「加羅」「任那」など様々に分裂していたこともあります。
王朝も「(統一)新羅」「高麗」「朝鮮」と続いてきたのですし、「渤海」が「コリア」の一部なのか「チャイナ」の一部なのか、或いは「高句麗」はどうなんだ、という論争さえあるくらいです。
そういう論争に意味があるとは思えません。
朝鮮人とは朝鮮の国制の下にあった人々」のことを言うのであり、今は「朝鮮人」と「韓国人」とがいるのです。
高句麗は常に「高句麗人」のものであり、「朝鮮人」のものでも「中国人」のものでもありません。
現在においては「民族」という概念が「国家」とは別に存在すると言う観念が存在していますから、「コリア」という用語がある以上、「コリアン」という人々は確かにおり、彼らが一定の統一意識を持っていることは事実です。
しかしながら、それを歴史上の事実だと見なすことは危険です。
同じことが「中国」に対しても言えます。
「漢」を作った民族と「唐」を作った民族は同じではありません。「漢」と「唐」の間には鮮卑の侵入に始まる五胡十六国、南北朝時代があるのであり、「隋」も「唐」も北朝系、鮮卑の流れを汲む系列です。
純粋な「漢」を作った民族と言う意味での「漢民族」ではありません。
もちろん、「元」や「清」は著名な「征服王朝」ですね。
では、「金」「遼」「西夏」「西遼」「渤海」「満州」などの諸国が「中国」なのか否か。
中国の二十四史では「金」と「遼」は中国のようですね。
「渤海」は「コリア」との間で論争になっています。
こうした歴史観は「一国史観」批判と言われるものに類似しますが、少し論点としてはずれているかもしれません。
日本における単一民族神話とか「天皇家一元史観」とかという概念と同じような問題は、世界史そのものの中にあるのだと言うことです。
ヨーロッパの歴史もそうした意味で、読み直してみるといいかもしれませんね。
24-Apr-2005

最近、「反日デモ」なるものが話題になっていますね。こうした話題に言及することは、多分に「政治的」な側面を含みやすいだけに、軽はずみなことは言えないのですが、少し、申し上げてみたいと思います。
さて、「反日」の潮流には、中国・韓国・北朝鮮という主に 3 つの国によるものがあります。
いずれも、「歴史教科書問題」「靖国参拝問題」といった個々の問題を含む、「歴史認識」を問題にしているようです。
中国の場合、さらに「尖閣諸島」「日本の常任理事国入り」が、韓国には「竹島問題」が、北朝鮮には「国交正常化問題」「拉致問題」「核問題」があって、もちろん、一様には語れない複雑な事情があるのは、当然のことですが。

中国の場合、「反日愛国教育」というものが問題になっています。中国共産党によるこうした教育が今日の「反日感情」の源泉になっているという問題意識ですね。
これに関しては、私は、中国の教科書を実見したわけでもありませんし、細かいことを云々できる立場ではないのですが、中国共産党が、現在、多数の政党の中から正統に選挙で選出された政党ではなく、その意味で自らの正統性を訴える手段を必要としているのだとすれば、このような手法は、「歴史」において一般になされてきたことであり、「歴史家」が常に対峙してきたジレンマとも言えるものです。
歴史は常に権力によって「利用」され、歴史家は時にそれに媚び諂い、時に抵抗してきたものであることは、歴史を知るものには明らかなことです。
中国共産党にとって、自らの正統性とは「抗日」によって示されるのであり、自らの「建国」の事情を事細かに説明する必要に駆られていることは、言ってみれば、歴史の必然なのであり、いわば、紂王が必要なのです。
ちなみに、ドイツがナチスを非難するときのやり方も、同じことだと見ることが出来ます。
日本が戦前を「暗い、自由のない、暗黒の時代」と描きたがってきたことと同じです。
そういう背景のうちに「反日愛国教育」があるのですから、ある意味では仕方のないことだと言わなければならないでしょう。
もちろん、利用される側にとっては、いい迷惑ですが、ね。

朝鮮労働党の場合、事情は似たようなものですが、ここでは、アメリカも「紂王」の役割を与えられます。
もちろん、朝鮮戦争という舞台が彼らの正統性にとって必要だからです。
また、「民族」という意識を「利用」する場合には、日本を標的とするのです。
朝鮮半島と言うものは、「第二次大戦」の被害者ではまったくありません。
朝鮮の人々の意識はともかく、その時は既に日本に併合されていたのであり、朝鮮半島は、或いは朝鮮人は、「日本兵」として戦地に赴いていたからです。
それが、朝鮮人としてそうしたくはなかった、と言っても同じことです。
日本人としてもそうしたくはなかった人はいるのですし、それは何時のどの時代でも同じことなのです。
ですから、強いて言うならば、朝鮮半島は、戦争の被害者ではなく、「列強帝国主義」の被害者なのです。
日本があの戦争に向かわなかったら、列強帝国主義とともに朝鮮半島が如何なる運命を辿ったか、それは分かりません。
そういう意味では、日本があの戦争に向かわなければ、少なくともあの戦争の戦場になることはなかった(他の戦争がおきなかったとは言えませんが)と言える中国や東南アジアとは違います。
もちろん、アジアやアフリカ、南アメリカ(つまり、欧米以外の地域)の多くの地域がそうであるように、列強帝国主義には、是非両面の議論があることは言うまでもありません。
日本が朝鮮半島を併合していなかったら、つまり、日清・日露戦争に日本が敗れていたなら、朝鮮半島が晴れやかな歴史を歩むことが出来たかどうか、は、一概には言えません。
当時の著名な諷刺画にあるとおり、ロシアが覇権を握った「だけ」のことだったかもしれません。それをとやかく言っても何も始まらないでしょう。まさに歴史に if は禁物です。

つまり、朝鮮人は、戦争の被害者として何かを言う資格は無いのです。
言うなら、列強帝国主義の被害者でしかありません。
ですから、日本が戦争被害を謝罪したこと、それ自身は朝鮮には関係の無いことです。
オーストリアは、ドイツに併合され、ドイツと一体化していました。
この場合、オーストリアは、ナチスの被害者ではなく、共犯者なのです。
もちろん、ドイツ国民と同程度に。
朝鮮半島も同様です。
朝鮮半島が日本を非難するならば、それは、列強帝国主義に向けられなければなりません。
欧米の他の列強に比べて、日本の支配のあり方はどうだったのか、という点だけが非難して許される部分です。
これは、「そういう時代だったから仕方の無いことだ」と言うことによって、過去を矮小化しようとしているのではありません。
言葉とは、言う口によって意味が変わってしまうものです。
日本はあまりこの点を強調すべきではないでしょう。それは、上記のような反論を生むだけのことです。
しかし、朝鮮半島がこの視点をそろそろ持たなければならないでしょう。
日本が戦争について謝罪しなければならないなら、朝鮮半島も同罪なのです。
もし、「支配下にあったから」罪を免れるなら、それは、今の日本国民も同じことです。

東南アジアにおいては、結果的には、日本は欧米の植民地支配を打破するきっかけを作ったという理由で、むしろ肯定的に見られていることを付け加えておきましょう。
歴史などというものは、常に様々な角度から別の見え方をするものです。
11-Feb-2005

朝日新聞による「NHK番組改変問題」報道(2005.1.12 http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/image/20050112.html 参照)なるものがされてからもうすぐ一月になります。
ここまで様々な議論が巻き起こっていますが、ここでは、ごく単純に、ことの真相を抉ってみたいと思います。
まず、朝日新聞は、「NHK番組に中川昭・安倍氏「内容偏り」幹部呼び指摘」として中川昭一氏、安倍晋三氏がNHKに対し「政治的圧力」をかけ、それによってNHKの番組の内容が改変されたのだ、とします。
これに対し、中川・安倍・NHKの3者はそれぞれ「そんなことはない」と否定しています。
そして、朝日新聞側に証拠の提出を求めています。
しかしながら、朝日新聞側は、証拠を提出していません。
これが今の状況です。
3者の側に「圧力が無かった」証拠を求めることは、絶望的でしょう。そういう証明は多くの場合不可能だからです。
中川氏に関しては、「放送前にはNHKには会っていない」とのことですから、議員会館の記録が一つの証拠になるかもしれませんが、それでも「料亭」や「自宅」まで含めて「絶対に会っていない」という証拠は、出すことが出来ないのです。
ですから、立証責任はこの場合、朝日新聞側にあります。
ことは単純です。ただこれだけのことです。

ここで、慎重に可能性を探ってみましょう。
もし、安倍・中川・NHKの3者が本当のことを言っているのだとすれば、朝日新聞の誤報です。「捏造」という言い方をする人さえいますけれど、そのためには、朝日新聞側が「故意」に行なったことを立証する必要が生じますので、軽はずみに言うべきでは無いでしょう。
ですから、この場合、朝日新聞には速い、誠意ある対応が望まれます。
もし、安倍・中川・NHKの3者が嘘をついているのだとすれば、朝日新聞が行なうべきことは、「嘘をついているに違いない」などとまくし立てることではなく、確固たる証拠を提出することです。
それがないのだとすれば、朝日新聞の側の取材不足なのであり、ジャーナリズムとしては、勇み足、それ自身が非難されるべき事柄です。
そして、証拠が無い限り、「3者が嘘をついている」というのは、成立しない仮定なのであって、つまり、誤報です。
朝日新聞は、この場合、冷静に自己の報道姿勢を反省すべきです。
(「倫理的に非難される方法で録音したテープ」の有無が問題になっていますが、そもそも、「公開できない証拠」一つで報道に踏み切ることそれ自身が勇み足であると言わざるを得ません)

さて、私は、朝日新聞側の現在陥っている状況が、「どこかで見たことのあるような」気がしてなりません。
朝日新聞側はきっと、自身の回答どおり、「記者の取材に自信を持っている」のでしょう。
これは事実なのだろうと、信じます。
朝日新聞は、1月22日付けの社説で、次のように述べています。

   安倍氏によれば、NHK幹部は予算の説明に伺いたいと言って、やって来た。その際、この番組の説明もした。そこで「明確に偏った内容であることが分かり、私は、NHKがとりわけ求められている公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した」という。
   NHKも予算の説明に行ったという一方で、安倍氏に番組の説明をしたのは「『日本の前途と歴史教育を考える議員の会』の幹部だったからだ」と記者会見で明らかにした。
   この会は当時、問題の番組に批判的だった。だからこそ、説明に行ったのだろう。ほかのメンバーにも、NHKは放送前に説明していたこともわかった。
   その流れで「公正中立に」と言われたのだとしたら、その意図はNHK幹部にもはっきりと伝わったはずだ。
   NHK幹部が訪問した本来の目的は、番組の説明だったと思わざるをえない。http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20020122#p1

つまり、やはり、安倍氏の「公正中立に」という発言そのものが「圧力」である、と彼らは言うのです。
ですが、この文面に客観的な証拠は一つもなく、単に朝日新聞の側の推測があるだけです。
彼らには、安倍氏がNHKに対して、「強圧的に番組内容の変更を求める」という「含み」で「公正中立に」と言った状が、見えているようです。
そして、その推測を裏切らない形で、NHK側や安倍氏の証言を得た、と彼らは確信したし、番組の編集の経緯もそれと矛盾しないように見えた。
だから、安倍氏からNHKへの圧力があったに違いない、と彼らは「自信を持って」言うのです。
しかしながら、私には、そのような姿は見えません。
もちろん、そうでない姿も見えません。
状況的に、朝日新聞の記者が、「これは圧力があったに違いない」と思ったのだとしましょう。
ですが、ここで必要なのは、誰をも黙らせることの出来る客観的な証拠と言うものです。
私は、目の前で起っていること以外は見えませんから、そういう私にでも「なるほど、そう考えるほかはないな」と言わせるだけの具体的な証拠が無い限り、私は、「分からない」と言うほかありません。
そして、証拠が無い以上、私は安倍氏を追及することはありません。
ここまで、朝日新聞側の立場を私なりに推し量ってみました。
このあて推量が当たっているかどうか、分かりませんが、このような朝日新聞の論理展開は、実は、私が常々批判している、アマチュア古代史論者の陥り易い、論理展開に似ている気がしてならないのです。
つまり、

   私がどういった論法に対してそのような言い方をするのかと言いますと、次のような場合です。
   A であると私は見なしたから、この文献は B と読むべきであり、B と読めるから A が事実であることが確認される。
   この場合、結局、文献を B と読むことの根拠は、A であり、A は彼の「想像」に過ぎない。
   そうしてみると、結局、文献を経由したように見えて、「私は A だと思う。故に A である。」と言っているのであって、これでは、まさに「何でもあり」となってしまうわけです。
   それを私は批判します。
   これが「同語反復」、「循環論法」と、私が言う事態です。(独り言2004.10.3)

朝日新聞の言っていることは、要するに、自分達が「圧力をかけたに違いない」と考え、安倍氏の発言やNHKの編集の状況は、それと矛盾しないから、「安倍氏は圧力をかけた」のである。と言っているのです。
まさに「循環論法」「同語反復」です。
日本でも有数の新聞社でさえ、陥っている論法ですから、アマチュア古代史家を責めるのは、酷なのかもしれませんね。

でも、こういう議論は、成立しません。
これでは駄目です。
そう思います。
10-Jan-2005

あけましておめでとうございます。

さて、今年最初の「独り言」です。

今回は、曲学の徒さんから提起されました「台与と並んで中国爵命を受けた男王」について、詳しく論じてみたいと思います。
曲学の徒さんの議論に関しては、(9)台与と並んで中国爵命を受けた男王を参照ください。
まず、史料を整理しておきましょう。

       復立卑弥呼宗女壹與、年十三為王、国中遂定。政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、献上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雑錦二十匹。<魏志、倭人伝>(晋・陳寿、三世紀中葉~後半成立)
       復た卑弥呼の宗女・壹與を立て、年十三にして王と為る。国中、遂に定む。政(塞曹掾史張政)ら檄を以て壹與に告喩す。壹與、倭大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人をして政らを送り還らしむ。因りて臺(魏の朝廷のこと)に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢る。
       至魏景初三年、公孫淵誅後、卑弥呼始遣使朝貢、魏以為親魏王、仮金印紫綬。正始中、卑弥呼死、更立男王、国中不服、更相誅殺、復立卑弥呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中国爵命。晋安帝時、有倭王賛。賛死、立弟弥。弥死、立子済。済死、立子興。興死、立弟武。斉建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍。<梁書、倭伝>(唐・姚思廉、636年成立)
       魏の景初三年に至り、公孫淵の誅後、卑弥呼始めて使を遣わし朝貢す。魏、以て親魏王と為し、金印紫綬を仮す。正始中、卑弥呼死す。更えて男王を立つ。国中服せず、更に相誅殺す。復た卑弥呼の宗女臺與を立て王と為す。其の後、復た男王を立て、並びに中国の爵命を受く。晋の安帝の時、倭王賛有り。賛死して弟弥を立つ。弥死して子済を立つ。済死して子興を立つ。興死して弟武を立つ。斉の建元中、武を持節・督・倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除す。
       漢末、倭人乱、攻伐不定、乃立女子為王、名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帯方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又数至。泰始初、遣使重訳入貢。<晋書、倭人伝>(唐・房玄齢ら、648年成立)
       漢末、倭人乱れる。攻伐して定まらず。乃ち女子を立て王と為す。名を卑弥呼と曰う。宣帝(司馬懿)の公孫氏(公孫淵)を平ぐるや、其の女王、使を遣わし帯方に至り、朝見す。其の後貢聘絶えず。文帝(司馬昭)の相と作(な)るに及び又数ば至る。泰始の初、使を遣わし訳を重ね入貢す。
       魏景初三年、公孫文懿誅後、卑弥呼始遣使朝貢。魏主仮金印紫綬。正始中、卑弥呼死、更立男王。国中不服、更相誅殺、復立卑弥呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中国爵命。江左歴晋、宋、斉、梁、朝聘不絶。<北史、倭国伝>(唐・李延寿、659年成立)
       魏の景初三年、公孫文懿(公孫淵)の誅後、卑弥呼始めて使を遣わし朝貢す。魏主、金印紫綬を仮す。正始中、卑弥呼死す。更えて男王を立つ。国中服せず、更に相誅殺す。復た卑弥呼の宗女臺與を立て王と為す。其の後、復た男王を立て、並びに中国の爵命を受く。江左、晋・宋・斉・梁を歴て、朝聘絶えず。
       魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢献。魏以為親魏倭王仮金印紫綬。斉王正始中、卑弥呼死。立其宗女臺輿為王、其後復立男王、並受中国爵命。晋武帝太始初、遣使重訳入貢。宋武帝永初二年倭王讃修貢職。<通典、辺防、倭>(唐・杜祐、801年成立)
       魏の明帝の景初二年、司馬宣王(司馬懿)の公孫氏(公孫淵)を平ぐるや、倭の女王、始めて大夫を遣わし京都に詣り貢献す。魏、以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮す。斉王の正始中、卑弥呼死す。其の宗女臺輿を立て王と為す。其の後、復た男王を立て、並びに中国の爵命を受く。晋の武帝の太初二年、使を遣わし訳を重ね入貢す。宋の武帝の永初二年、倭王讃貢職を修む。

さて、曲学の徒さんは、この史料に見える「其後復立男王、並受中国爵命」(梁書晋書、北史、通典)から、この「男王」が誰か、ということで議論を始めます。
しかしながら、これは、おそらく、『通典』の側のミスです。
史料の成立順序は、先に示したとおりです。
一つずつ見ていきましょう。
まず、『魏志』には、問題の文面はありません。『魏志』における最後の倭王は、壹與であり、その遣使の記事で締めくくられています。
この壹與の遣使は、晋代のことであろうと、言われています。
史料的には、『日本書紀』に引く「晋起居注」が参照されます。

   武帝泰初二年十月、倭女王遣重訳貢献<日本書紀所引晋起居注>

「起居注」とは、皇帝の日々の行動(起居)を記録したもののことで、額面どおり言えば、これは同時代の直接史料と言うことになります。要するに「首相番記者」の記事のようなものですね。
『日本書紀』は作り話が多いということで評判が悪いですが、少なくとも書名を挙げて引用した部分は、信用してもよい、というのが一応の共通認識です。
もちろん、引用を行なったのは、『日本書紀』の成立年代である720年頃なのですし、書紀編者が「原本」の「起居注」を見ていた可能性は低いでしょうけれども。
次に、『梁書』です。これは、唐代の成立です。当然のことながら、『梁書』のメインは「梁」という国・時代の歴史を語ることなので、倭国伝においても、それ以前の歴史は、要領よくまとめられています。
引用した部分のうち、問題の「其後復立男王、並受中国爵命」の前は、『魏志』の要約です。(「景初三年」という記述がここにあることを理由に、『魏志』の「景初二年」が誤りである、とする説がありますが、ここではそのことについては省きます)
で、後ろは、「倭の五王」の記事です。『梁書』からみて、「梁」の直前である宋・斉の記事が非常に簡単にまとめられています。(ここでの五王の名前の違いについても今は省きます)
ところで、「倭の五王」は男王です。そして彼らは、「ならびに(みな・あまねく)」中国の「爵命」つまり例のあの長たらしい称号を受けました。
梁書』における「其後復立男王、並受中国爵命」とは、そのことを言っています。
次に、『晋書』は、問題の「其後復立男王、並受中国爵命」を含んでいないので、後回しにしましょう。
『北史』は、『梁書』の文面を襲った内容です。「其後復立男王、並受中国爵命」の後の部分が非常に簡略化されていますが、晋・宋・斉・梁への遣使のことを言っており、ほぼ『梁書』と同内容です。
ここで言っている「江左」とは「長江の左」であり、「左」とは「皇帝から見て左」つまり「東」のことです(皇帝は南面し、臣下は北面する。「子曰く、雍也、南面せしむ可し。〔朱注〕南面は人君の治を聴くの位」<論語、雍也>)。
ですから、所謂「江東」のことであり、ここで言う「晋」は、「東晋」のことです。『魏志』に示唆され『晋書』に載せる晋の武帝時代の遣使は、「西晋」のことであり、このことを指しているのではありません。

   晋安帝時有倭王賛<梁書、倭国伝>(前出)
   是歳、高句驪、倭国、及西南夷、銅頭大帥、並献方物<晋書、安帝紀>

これらの記事にある安帝のころの遣使を指していると見るべきでしょう。
また、『北史』がこれほど簡略化して記しているのも理由のあるところで、これが「北」の歴史書だからです。『南史』の側に南朝時代の記事は書かれるので、『北史』ではその記事は簡略化しています。
ですから、『北史』の「其後復立男王、並受中国爵命」も、「倭の五王」のことを言っています。
次に『通典』は、『日本書紀』よりも遅く、801年の成立です。もちろん、史料としては貴重な史料です。
この文面をよく見てみましょう。基本的な文章の流れは、『梁書』や或いはそれを襲った『北史』を踏襲しています。
しかしながら、全く同じではありません。最初の部分は、『梁書』ではなく、『晋書』を参考にしているようです。つまり、「至魏景初三年、公孫淵誅後」ではなく「宣帝之平公孫氏也」を使っています。「景初三年」も「景初二年」と再修正しています。
同じように、「其後復立男王、並受中国爵命」の後ろも、より詳しく書かれています。これは、『梁書』は「梁」という時代に限定、『北史』は「北朝」に限定されていたことからすれば、当然です。(むしろ『南史』を踏襲している)
しかし、ここに『晋書』の「泰始初、遣使重訳入貢」を挿入しているので、この「泰始初」の遣使が、「男王」の記事になっているのです。
しかし、『晋書』には、「泰始初」の遣使の時の倭王が「男」であるとも「女」であるとも、何も書いていません。
長くなりましたが、史料の状況は、以上のようです。
さて、ここからが本題です。
曲学の徒さんは、「しかし『梁書』や『通典』のこの部分の出典は、『魏志倭人伝』よりその成立年代が若干早い『魏略』と推察されるから、原典の記述は臺與(とよ)であろうと考える」として、この『梁書』『北史』『通典』の文面が、『魏志』より若干古い『魏略』を伝えたものである、と見なすようです(『魏略』が『魏志』より若干古い、というのも、今ではわかりません。同時期の成立と見なすほうが普通のようです。もともとは確かに『魏略』が明帝までで終わると言われて来たことからその頃の成立で、『魏志』より古いといわれてきましたが、今では『魏略』も魏の最後の皇帝・陳留王の記事を含むことが分かり、晋・武帝の太康年間の成立と見なされるようになったので、『魏志』と『魏略』のどちらが先なのかは不明です)。
そして、そこに共通して見える「其後復立男王、並受中国爵命」が、『魏略』にあった、と推察しているのです。
しかし、ここまで述べてきたとおり、『梁書』と『北史』の「其後復立男王、並受中国爵命」は、「倭の五王」を指しているのです。
当然ですが、『魏志』でも『魏略』でも、「倭の五王」が生まれるより前に成立した書ですから、そこに、「未来の五王」を指す「其後復立男王、並受中国爵命」の文面が出ていたと考えるのは無理です。
『通典』には、確かに、先ほど述べたような『梁書』『北史』『晋書』との記述の食い違いがあります。
そこで可能性は一応二つはあるわけです。一つは、『梁書』『北史』『晋書』の記述を参考に書いた『通典』の側が誤読して文章を書いてしまった。
もう一つは、『通典』は『梁書』『北史』『晋書』以外の「(我々からすれば)新史料」を手にしており、それに基づいて記述した。
この二つです。曲学の徒さんは、後者を主張しているのでしょう。(ニュアンスの違いで別の言いようがあるかもしれません)
しかし、「其後復立男王、並受中国爵命」という文面は、『梁書』『北史』と共通していること、成立年代が『通典』は遅いということを考慮すれば、前者の可能性のほうが高いと考えるべきでしょう。
また、曲学の徒さんは、その「新史料」を『魏略』に求めていますが、もし『魏略』であれば、そこに晋代の遣使のことが出てくるのもなんとも節操の無いことです。
『魏志』にも、晋代のことであろう遣使のことは書かれていますが、年号を明記しない、ということで何とか体裁を保っています。
『北史』において南朝のことを詳しく書かないのも、同じ配慮です。
ですから、文面を『魏略』に求めるのは、少々無理があると言わざるを得ないでしょう。
そもそも、『魏略』に求める根拠も不明ですが。
それ以外の史料に求めるのなら(『魏略』でも本質的には同じですが)、我々の目の前に無い史料ということになるわけですから、相当慎重な検討が必要である、ということになります。
これは、「可能性がある」程度では、説として成立することは難しいといわなければなりません。
ですから、曲学の徒さんの説は、成立し難いと私は考えます。