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広開土王碑

高句麗・広開土王碑(好太王碑)

 広開土王碑は、北朝鮮と中国の国境を流れる鴨緑江の中流、高句麗の古都・集安の近郊に建つ碑で、建立者は広開土王の子・長寿王である。広開土王は正式名「国岡上広開土境平安好太王」。碑文によれば始祖から数えて17世孫(三国史記その他の年表では第19代)で在位は391年~412年。私見の応神天皇の在位とほぼ重なる。(因みに子の長寿王は在位412年~491年で、この統治80年というのは造作の感があるが、他の歴代の王たちはいずれも有り得る在位年なので、王朝年代引き延ばしのための創作というわけではなさそうである)

 碑文によれば建立年月日は甲寅(西暦414年)9月29日で、長寿王が先王である広開土王の偉業をたたえるために立てたとある(碑文では文で「勲績を銘記して、以って後世に示さん」)。
 しかしその一方で、地下の神(黄泉神)に対しての「買地券」という性格もあり、古代の習俗が垣間見える民俗的な碑文という一面もあることに留意する必要がある。

 また30年余り前、在日朝鮮人学者により、日本陸軍の「碑文改ざん説」が声高に唱えられたことがあったが、ここ10年来の研究、なかんずく頻繁な現地調査(碑面と拓本の両面)の可能な中国人学者の研究によって「改ざん説」は否定されている。

 いずれにしても半島史料としては飛びぬけて古い文書(石文)の価値はすこぶる高い。
 ここでは、人に関係ある部分のみを解読する。

  百残・羅、旧(もと)これ属民にして、由って来たりて朝貢せり。而して、、辛卯の年(391年)を以って渡海し、百残・○○・羅を破り、以って臣民と為しぬ。

  六年丙申(396年)を以って、王みずから水軍を率い科残国を討てり。軍は○○首、壱八城を攻め取れり。(以下、攻め取った城の名を挙げる。だが18城ではなく、53城ある=省略)
  
  九年己亥(399年)、百残、誓いに違いと和通す。王、平壌に巡化す。而して羅、遣使して王に白していわく「人、その国境に満ち、城池を潰破し、奴客を以って民となしぬ。王に帰して命を請わん」

  十年庚子(400年)、歩騎五万を教遣し、往きて羅を救わしむ。男居城より羅城に至れば、はその中に満てり。官兵、まさに至り、・・(中略)・・、追いて任那加羅に至り、よりて城を抜く。城はすなわち帰服せり。安羅人戍兵、羅城○城を抜く。

  十四甲辰(404年)、○、軌ならずして帯方界に侵入す。・・(中略)・・倭寇潰敗し、斬殺すること無数。

  十七丁未(407年)、歩騎五万を教遣し、・・(中略)・・、斬殺蕩尽し、獲るところの鎧甲は一万余領。軍資器械も数を称うべからず。

(注)
科残国・・・百残国の誤りと思われる。百残国は伝にいう「伯済国」のことで、のちの「百済国」である。百済は高句麗の始祖「朱蒙」(高氏。東明聖王。三国史記によると、紀前37年の即位)の三人の子のひとり「温祚王」が南に逃れて開いたとされる。即位は三国史記によると、紀前18年。

と和通す・・・396年の高句麗による侵攻の結果、百済はを離れて、高句麗に臣従することになったが、それは表向きで、やはりとの通交は確保していた。日本側の文書「日本書紀・応神天皇紀8年条」に、「春三月、百済人来朝す。〔百済記にいう。阿花王、立ちて貴国(=倭国)に礼無し。・・・これを以って王子・直支を天朝(=倭国)に遣わして、以って先王のよしみを修めしむ〕」とあるが、これに対応している。注記にあるのは「和睦のために王子を人質に入れた」ということに他ならない。

王に帰して命を請わん・・・「高句麗王(広開土王)に帰順し、救いの手を請いたい。」と羅王が依頼した。

任那加羅・・・日本側の文書「日本書紀・垂仁天皇紀2年条」に初登場する「任那王」の「任那」という言葉は、垂仁朝(3世紀末~4世紀初め)など造作だとする説からすれば、書紀編纂時点で大和王朝がずっと昔からあったということを言うがために古く遡らせたに過ぎない――とされるのだが、この碑にちゃんと彫り込まれているのだから、少なくとも400年の時点では存在していたのは間違いない。
 また、伝によれば南部三のうちの「弁12国」のことである。

安羅人戍兵・・・あらじん・じゅへい。「戍(じゅ)」とは「守る」。安羅の民で兵役に従事した者のこと。安羅は、海市と釜山市の間から対馬海峡に注ぐ洛東江の中流に流れ込む支流「南江」の南側の、咸安市を中心域とする地方に展開していた任那加羅の一国である。

帯方界・・・言うまでもなく、が設置した半島南部支配の最前線だったのが、帯方郡。帯方界とはそこを含む一帯のことで、郡治はすでに無くなっていたため帯方郡とせずに「帯方界」としてある。現在のソウルを含む江流域を指している。
 軍はこの流域をさらに北上しようとしたのだろう。しかし平原地帯に入ると、高句麗の歩騎五万という陸戦向きの陣容の前に、あえなく大敗を喫してしまったようだ。もちろん高句麗側の言う「五万」とか「潰敗、斬殺無数」という表現は誇大だろうが、水軍力に勝る軍も、騎馬による陸戦には全く不慣れであり、敗れたことは間違いない。これ以降、人は「騎馬、騎馬戦」を大いに取り入れていったものと思われる。

十七丁未(407年)・・・この年の高句麗遠征が人に対するものかどうかは、碑面の崩落が強くて解読不可能なので確実には言えない。ただ、404年の軍「潰敗」のあとを受けていると考えるのが順当だろうから、帯方界から軍を駆逐したら、地理的に次なる目標は百済国であるほかない。
 帯方界まで押し出した軍の兵站基地は、当然、百済でなければならないから、400年に軍が羅の城内に「満てり」とあるのと同じ状況が百済にもあったと考えるのが自然だろう。
 この軍を、すべて九州などの列島から進出したと見るのが研究者の見解(たとえば『伽耶はなぜ滅んだか』鈴木靖民ほか:大和書房1998年)らしいが、三のうちでも弁人の国といってよく、彼らも出兵したに違いない。であればこそ「安羅人戍兵」が400年になって、その前年(399年)に高句麗に救いを求めた羅を撃っているのだろう。

                             (高句麗・広開土王碑の項終り) 


広開土王碑   こうかいどおうひ 

□はじめに。

 広開土王碑とは、現代も中国吉林省に立っている、高句麗の第19代の国王、広開土王の功績を記した石碑のこと。  

 まず、どこにあるのか地図で示そう。

 ▲現在では中国国内にあることが分かる。

 ■広開土王・こうかいどおう…374~413…は、好太王とも永楽太王とも呼ばれる。

 南方の百済,羅を攻め,396年には百済王の弟や大臣を人質にとり,また404年には2国の背後にいたの勢力と対戦してこれを潰敗させたという。

 また西方へは、395年に中国・と戦闘を交え,410年には東夫余とも争ってこれを討ち滅ぼし、版図を拡げ,在位22年間をあいだに64城1400村を獲得したと碑文にかかれている。

 碑は、高さは6.34m,幅は、平均1.59mという巨大な柱状で、414年に建てられた。

 碑文には391年に(日本)が海を渡って百済・羅などを臣民としたと読みとれる字や,軍と高句麗軍とが交戦した記載があった(4世紀から5世紀という時期は、日本の歴史における空白期で、当時の日本は、文字を持っていないため記録が残っていない)ためか,1883年(明治16年)にその拓本を日本へ持ち帰り、参謀本部でこの拓本の判読が試みられ,〈神功皇后の三征討伝説〉とムリヤり結びつけられて,この碑文が重んじられた。

 上の地図は、5世紀頃の東アジア

 ところが,戦後、1950年代に国や北朝鮮の研究者によって,碑文の〈辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民〉の部分の読み方に疑問が出され,が渡ってきたのではないと,両国の研究者の意見は一致し,今日にいたっている。
 
 日本でも、この碑文の再検討の気運が高まって,いくつかの知見をもたらした。

 また、碑文の改ざん説もあらわれたが、1980年代初めの中国吉林省考古学研究所の調査では、改ざん説を否定している。

 それにしても、この中国にある碑は、観光名所としては一級品だと思うのだが… モッタイナイ気がする。

□辞書から好太王碑文-と検索し、それを転記したい。

■広開土王

 (374―412)朝鮮、高句麗(こうくり)第19代の王(在位391~412)。

 正式な王号は国岡上広開土境平安好太王(こくこうじょうこうかいどきょうへいあんこうたいおう)、略して広開土王という。

 日本では好太王というが、同名の高句麗王がほかに3名いて、固有の王号にふさわしくない。 
 諱(いみな)は談徳あるいは安、号は永楽大王。父は故国壌王。

 4世紀の高句麗は前半に(えん)、後半に百済(ひゃくさい)から侵略され、苦難の時期であったが、この王代からふたたび領土拡大を図り、次の長寿王代の最盛期の基礎をつくった。

 即位当初はなお百済の侵略に悩まされていたが、395年に北方の諸民族を討伐し、百済にも大勝すると、(えん)は王に平州牧東帯方(へいしゅうぼくりょうとうたいほう)二国王の称号を与え、河以東の支配を認めた。

 396年には水軍を率いて、(わ)に従していた百済を討ち、王弟を人質とした。

 このは朝鮮南部ないし北九州のとみられる。
 398年には沿海州地方の碑麗(ひれい)(沃沮(よくそ)地方)を征服し、400年には軍に占領された羅(しんら)に5万の大軍を派遣し、これを救うと、軍を追って任那(にんな)、加羅(から)に迫った。

 しかし、安羅(あんら)などに反撃されて北帰した。

 高句麗軍が南下するのをみて、東地方に侵入したが、あまり果は得られなかった。 
 404年に高句麗は軍の反撃を帯方地方(黄海道)で食い止め、以後、江下流域の攻防となった。

 410年には北方の東扶余(ふよ)を服属させた。
 このように広開土王は、南方の百済、、北西方のと厳しく対立しながら、朝鮮中央部から河に至る地域を確保した。

■広開土王陵碑■
 この王代の詳しい記録が広開土王陵碑文にみられる。

 この碑は414年に建立され、中国吉林(きつりん)省集安市に現存している。

 碑石は四角柱の角礫凝灰石(かくれきぎょうかいせき)で、高さ6.3メートル、幅1.3~1.9メートル。

 碑文の字数は総計1802字(1775字説もある)で、文字の大きさは平均12センチメートル平方。1880年に見され、84年に日本陸軍の砲兵大尉酒匂景信(さかわかげあき)がその拓本を入手し、

 参謀本部で解読した。
 近年この碑文の関係記事の改竄、異なった解読、釈文、欠字推定などの問題が提起されている。

 1980年代に入ると、原碑の研究が中国で再開され、84年7月以降、日本人研究者による原碑の見学・研究も始まった。

※筆者注

 現在では軍部による作為は否定され、拓工が古文字をくわしく拓本にとるため石灰を塗布したに過ぎないことが明らかになっている。 

□Wikipedia から、転載しておこう。

 広開土王碑(こうかいどおうひ)は、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)の業績を称えるために息子の長寿王によって414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦))に建てられた石碑である。

 好太王碑とも言われ、また付近には広開土王の陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、広開土王陵碑とも言われる。

 1880年に中華人民共和国吉林省通化地級市集安市で見された。

 高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の碑の四面に総計1802文字が刻まれ、純粋な文での記述がなされている。

 風化によって読めなくなっている文字もあるが、辛卯年(391年)条にの記事や干支年が『三国史記』などと1年異なるなど4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史、古代日朝関係史を知る上での貴重な史料となっている。

 碑文は三段から構され、一段目は高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に広開土王の業績、三段目に広開土王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。

 碑文では広開土王の即位を辛卯年(391年)としており、文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがあることが広く知られている。

 また、この碑文から、広開土王の時代に永楽という元号が用いられたことが確認された。

□辛卯年条の解釈

 ここではに関する記述のある二段目の部分(「百殘羅舊是屬民由来朝貢而ロ<耒卯年来渡海破百殘■■羅以爲臣民」)について通説により校訂し訳す。

 百残羅舊是属民由来朝貢而以辛卯年来渡■破百残■■羅以為臣民。

 そもそも羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説もある)・羅を破り、臣民となしてしまった。

 なお、「■を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされていたが異論もある。

□碑文改竄説

 この記述に関しては、1884年に大日本帝国陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰って解読した、いわゆる酒匂本を研究対象にした在日朝鮮人歴史学者李進熙や、北朝鮮の学者から、日本軍による改竄・捏造説が唱えられたことがある。

 その主張は、「而るに」以降の「」や「来渡海」の文字が、5世紀のの朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は

百残羅舊是属民由来朝貢而後以辛卯年不貢因破百残倭寇羅以為臣民。

 百済羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇羅を破って臣民とした。

 という表記であって、「破百済」の主語を高句麗とみなして、が朝鮮半島に渡って百済・羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・羅を再び支配下に置いた、とするものであった。

 しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、日本の『日本書紀』、朝鮮の『三国史記』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。

 これに対して、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽六年以降の広開土王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された[4]。

 2005年6月23日に酒匂本以前に作された墨本が中国で見され、その内容は酒匂本と同一である旨の聞報道がなされた。

 さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建により、1881年に作された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが表された。

 これにより、旧日本陸軍による改竄・捏造説が立しないことが確定した。

■まとめ、感想など

 この改竄説は、国系および朝鮮系の学者の学者たる資質を疑わせしめよう。

 倭国に過去、征服されていたという事実を認めたくないといういわば恣意的に歴史をミスリードさせようとしたものであろう。

 改竄したとされる酒匂氏こそ、迷惑極まりない。

 学問とは、事実のみの上に立脚するものである。

■2008.9月
 中国と国の間で、高句麗についての意見が異なり、様々な問題が生じている。

 この好太王の碑についてもそうだ。

 聞から抜粋してみよう。

 国と中国の歴史紛争の現場になっている中朝国境の鴨緑江流域では、国色排除で “中国化”が着々と進められている。

 とくに紛争の焦点になっている高句麗の歴史に関して、有名な「広開土王(好太王)碑」では国語(朝鮮語)のガイドが禁止され、不満の国人観光客をよそに中国人観光客でにぎわっていた。

 また中朝国境にまたがる白頭山(中国名・長白山)観光でも、朝鮮族自治州を経由しない西ルートが開され、あらゆる施設でハングルが消えつつある。

 朝鮮族が多く住む国境地帯におけるこうした現象は、中国当局が将来の民族トラブルに備え「国(朝鮮)人の民族主義感情を事前に封じ込めておく狙いからだ」と国側では受け止め
られている。

 古代、朝鮮半島北部から中国大陸にかけ広大な地域を支配した高句麗(紀前後~7世紀)については、国では昔から民族の国家とされてきた。

 しかし近年、中国では「中国の地方政権」として中国史に組み込む作業が進められ、国との間で“歴史紛争”になっている。

 高句麗の城跡や王陵など多数の遺跡が残っているのが鴨緑江中流の吉林省集安。

 そのシンボルが5世紀初に建てられた「広開土王碑」で、高さ6・4メートル、重さ45トンの巨大な石碑に、高句麗の歴史が約1800字の字で刻まれている。

 碑文には当時の(日本)の活な活動が記されているため日本でも昔から関心が高く、碑文の解釈をめぐって今も日中で研究や論争が続いている。

 石碑は現在、中国政府の手で国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録され、ガラス張りの建物で保護されている。

 建物内部では高句麗風の民族衣装を着た中国人女性ガイドが中国語で説明してくれるが、国人観光客の国語ガイドは禁止という。

 国人観光客には必ず中国人の警備員が付き、監視の目を光らせている。

 このため国人団体客の中には、石碑の裏手でひっそり同行者による国語の説明を聞く風景も見られる。

 「もともとわれわれのモノなのに、なぜわれわれが肩身の狭い思いをしなければならないのか」
と憤慨する声も聞かれる。

 集安は近年、高句麗遺跡ツアーの国人観光客でにぎわっている。

 市内にはこれを目当てに北朝鮮直営のレストランもあって国人観光客に人気だ。

 しかし「広開土王碑」を含めすべての遺跡で、説明などの表記は字になっていてハングルは 見当たらない。

 中朝国境を旅行する国人たちは高句麗への郷愁などからよく「満州はわれわれの土地」と気炎を上げる。

 →もともとは我々のものなのに…という感想は如何なものか。

  古来から大陸~朝鮮半島で様々な民族が興亡を繰り返してきたことがわかる。
  国境がきまったのは、19~20世紀であろう。

  日本人はいまでこそ、島国に閉じこもっている訳だが、好太王の碑文にあるように、大陸にも盛んにでかけていた民族なのだ。

□2008.10月

 広開土王碑の最の画像が載っていた。
 ご紹介したい。


http://tamrhyouka.hiho.jp/reki-4koukai.html


広開土王碑 こうかいどおうのひKwanggaet'o-wang-bi
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

広開土王碑
こうかいどおうのひ
Kwanggaet'o-wang-bi

朝鮮,鴨緑江西岸の輯安 (現中国吉林省集安県) の東崗にある広開土王の記功碑。好太王碑ともいい,王の名は正しくは国岡上広開土境平安好太王という。清朝末期に再見され,酒勾景信が 1884年に拓本を将来してから日本でも研究が盛んになった。高さ 6.2m,幅 2mの自然石に刻まれた千数百字の碑文には,建碑の理由,王の武勲,陵墓に関する王の教令,遺訓が記されている。特に,王の武勲のうち,391,399年の (日本) =百済連合軍撃退の部分は古代の日関係を知るうえで,また『三国史記』や『日本書紀』などの欠を補う点で重要な史料である。また「任那」という文字の最古の用字例が碑文にみえることも注目される。
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百科事典マイペディアの解説

広開土王碑【こうかいどおうひ】

好太王碑とも。高句麗の広開土王の功業,武勲を刻した石碑で中国吉林省集安にある。414年(高句麗の長寿王2年)に建立。高さ6m余,幅約1.6mの石碑に1775字が刻まれている。
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世界大百科事典 第2版の解説

こうかいどおうひ【広開土王碑

高句麗の第19代の国王広開土(好太)王の功績を編年的に叙述して記した石碑。414年(高句麗の長寿王2)に建てられ,中華人民共和国吉林省集安に現存。石碑の材質は,角礫凝灰岩で,不正四角形の柱状。高さは6.34m,各面の幅は平均1.59mという巨大なもの。碑文には391年に当する〈辛卯年〉に(日本)が海を渡って〈百済・羅〉などを〈臣民〉としたと読みとれる字句や,いくたびか軍と高句麗軍とが交戦した記載があったためか,1883年(明治16)に石碑の建っている輯安(集安)の地に密偵として入った参謀本部の将校,酒匂景信が,この碑文に注目して,拓本を日本に持ち帰った。
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大辞林 第三版の解説

こうかいどおうひ【広開土王碑

広開土王の功業を記念して子の長寿王によって414年に建てられた碑。中国の吉林省の鴨緑江中流北岸にある。古代の日朝関係を語る重要な史料。表面が磨耗し、解釈をめぐる論争がある。好太王碑。

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世界大百科事典内の広開土王碑の言及

【大和朝廷】より

…(a)前期 記紀年代を修正すれば,4世紀後半より5世紀末までにあたる。石上神宮の七支刀(しちしとう)の銘に,泰和4年(369),〈百済王〉から〈王〉に,国交開始を記念するためであろう,七支刀が贈られたことが記され,広開土王碑に辛卯(391)より甲辰(404)まで,が百済,羅と交流をもちつつ,高句麗とはげしく戦ったことが記録されている。その主体となった王もヤマト王権をさす。…
※「広開土王碑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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