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第19回 北虜南倭の患、明の衰退

第19回 北虜南倭の患、明の衰退
○今回の年表
1449年 土木の変。モンゴルのオイラート部が侵入し、迎撃にでた正統帝を捕虜に。
1498年 (ポルトガル) ヴァスコ・ダ・ガマ、インドのカリカットに到達。
1517年 (神聖ローマ帝国) ルターが95条の論題をローマ教会に提出。
1517年 ポルトガル人が広州に来航する。
1522年 (ポルトガル)マゼラン一行、世界一功。ただしマゼランは途中で航海途中で殺害される。
1540年 王直、平戸を根拠地にする。
1550年 タタール部(北元?)のアルタン・ハン、北京を包囲。
1566年 ポルトガル人がマカオを建設。
1572年 万歴帝が即位。
1589年 (フランス) アンリ4世即位、ブルボン朝開始。
1592~93年 豊臣秀吉の朝鮮侵略。 97~98年にかけて第2回目も。
1603年 徳川家康、江戸幕府を開く。15年には豊臣秀頼を滅ぼし、徳川家の天下に。
1616年 ヌルハチ、後金を建国。

○衰退する明、内外から色々と・・

(写真・万里の長城/七ノ瀬悠紀 撮影)
 永楽帝によって国力を大いに奮わせた明は、彼が死ぬと早くも衰退を始めます。1449年、オイラート部のエセン=ハンが侵攻してきてきます。これに対し、閣僚全員の反対にもかかわらず、正統帝(位1435~49年、57~64年)は宦官の王振の進言で自ら出陣し。北京の北100km地点の土木堡という場所で迎撃しますが大敗を喫し捕まります(王振は戦死)。

 エセンはさらに北京へ侵攻しますが、明の名将・于謙がよく防ぎます。そのため、エセンは有利な条件で明と和義を結び、正統帝を釈放して北方に去ります(土木の変)。
 これを教訓に、明は今まで無用の長物として使われてこなかった万里の長城を大修築します。現在我々が目にする万里の長城は、明になって修築されたものです。

 ところが、その100年後にタタール部のアルタン=ハンが侵攻してきて北京は包囲されてしまいます。この時も和議が立し、防ぎきりましたが、明の国力は大きく衰退していくのです。和議を結ぶと言うことは・・・そう、おが出ていきます。ただし、1570年、モンゴルで内紛が起きたことから、この一連のモンゴル問題はようやく解決することになります。

 ところが、問題はこれだけではありません。明は前述のように倭寇による海賊行為にも多額の費用を費やさなければなりませんでした。この2つを「北虜南の患」と言います。これが外の問題。

 そして明内部の問題が致命的でした。これも前述しましたが、建国者の洪武帝・朱璋は宦官を用いるなと定めましたが、永楽帝は建文帝の位を奪う時に宦官の助力を受け、また官僚・知識人からは評判が悪く、宦官を重要せざるを得ませんでした。そのため宦官が幅を利かせ、次第に政治の中枢に参画するようになります。 前述した王振はその最たる例で、彼は正統帝の教育係から宰に上り詰めた人物です。

 それでも1572年、万暦帝の即位(位1572年~1620年)に伴い張居正が宰に就任すると、無用の官庁の整理を行う行政改革、および不正な耕地を摘するために検地を行い、収入を増やして財政を健全化することに功します。ところが、これは大地主らにとって「痛みを伴う改革」だったため、1582年に張居正が死去するとの木阿弥に戻されてしまいます。また、万暦帝も政治に対する興味を失い、宦官と贅沢三昧で遊びせっかくの貯蓄を使い切ってしまいます。しかもこの時代、3つの大戦争が起こります。1つは今の寧回族自治区で生したボバイの乱、もう一つが楊応龍の反乱、

○秀吉の朝鮮侵攻
 3つ目が、日本の豊臣秀吉による朝鮮侵攻に対する、李氏朝鮮(1392~1910 李桂が高麗を滅ぼして建国)への支援です。朝鮮の李瞬臣が日本軍の海の補給路を断ち、さらに明は、ボバイの乱で総司令官として戦った李如松の指揮で、日本を撃退しますが、とくにこの支援が明の悪化する財政に決定的な致命傷を与えます。そう、豊臣秀吉も間接的に明を滅ぼした人物の1人なわけです。日本史ではそんな話は出てきませんが。

 ちなみに豊臣秀吉は、海賊を厳しく取り締まります。そのため倭寇も活動をやめるのですが、その彼が事実上の倭寇として攻めるのですから、何とも皮肉な話です。また先ほどの李如松。石田三の盟友としても有名な小西行長の軍を撃退すると気がゆるんだか、「日本軍撤退」との虚報に油断し、小早川隆景の軍勢に囲まれ、命からがら逃げ出すという失策もしてしまいました。油断大敵。また、李瞬臣は逆に、その小西行長の撤退を叩こうとして戦死しました。

 その後、李如松は日本と和議を結ぶことに功。「和議とは何事だ!降伏させろ!」と批判も受けましたが、加増をうけ、その恩に報いるべく、1598年、中国東北部の東で起きた反乱を鎮圧するべく出撃し、戦死しています。

○宦官VS官僚、最終ラウンド
 さて、万暦帝が死ぬと、宦官派(非東林党)とそうでない派閥(東林党)に分かれ官僚が争います。東林とは、知識人が集う場所です。この争いは非東林党が勝利を収め、宦官の忠賢は東林派の官僚を粛します。これに対し、最後の皇帝として即位した崇禎帝(位1627~1647年)は、忠賢を追放し、綱紀粛正、財政健全化を目指します。

 ところが、崇禎帝には運悪く、時既に遅かったのです。次ぐ増税によって生活の苦しい民衆は反乱の準備を進め、さらに満洲の地で、かつて「」を建国し、華北を支配した女真(ジュルチン)族の一派が、ヌルハチに率いられて再び活動を開始したのでした。

○銀は世界貨幣となる?
 ところでこの頃、長江流域が飛躍的に展し、中流域が大穀倉地帯に、下流域では綿や桑の栽培が盛んになり、絹織物や綿織物の生産力が飛躍的に上昇しました。また、この頃より世界経済が結びつくようになってきます。スペイン人がメキシコで生産させた銀が、マニラを経由して大量に流れ込み、また日本でも石見銀山(島根県)などで銀の生産が盛んとなったことから中国との貿易で銀を使用するようになります。

 また、の時代より紙幣が使われてきた中国ですが、紙幣の信用が失われてきていて、一方、世界の商人が中国の物産を求め、銀で支払ったため、中国国内に銀貨が普及。そこで、税体系にも大きな変化が生します。

 それまでは、の時代から施行されてきた両税法、すなわち土地税として税・秋糧(米や麦などの現物)をおさめさせ、また、力役には里甲正役と雑役(特に労働の提供)、という税法で、非常に複雑かつ煩雑な手続の税体系だったのですが、これをやめて、16世紀後半から、税は全て銀で支払う、「一条鞭法」が施行されました。こうして、世界でも例のない通貨・「紙幣」はいったんその役目を終えます。

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