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連鎖の論理(Historical)

九州王朝(Historical)

6.連鎖の論理

さて、ここまで各「倭国伝」の記載を確認してきた。ここで、それらをふりかえりつつ、すべてを俯瞰してみよう。

当然ながら、各「倭国伝」は、その立に当たって、既に完されている前代の「倭国伝」を知っている。まず、この事実を確認しておこう。正史に見える「」に関する記事をその最古のものから、辿ってみよう。
1.孔子と『漢書

   貴む可き哉、仁賢の化や。然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設し海に浮かば、九夷に居らんと欲す。以有る也。夫れ、楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来献す、と云う。漢書、地理志、燕地

最後の一文だけが、あまりに有名だが、全体としては、このような文脈である。最初に「仁賢」と言っているのは、「箕子」である。この直前の部分で、班固は朝鮮半島に箕子が赴き、仁義礼を広めたのだ、と語っている。それを受けて、「そのおかげで、東夷は柔順で他の夷蛮とはその点で異なるのだ」と言っているのである。「だから、孔子が中国国内で礼の道が行われないのを悼んで、海に浮かんで九夷の住む地に行きたいと思ったのだ、というのには理由があるのだ。そもそも、楽浪海中には、人がいて…」これが文脈である。「孔子が海を渡って九夷の住む地に行きたいと語った」という説話は、『論語』にも見える。少なくとも代には知の説話だったはずである。班固はその説話を踏まえて、孔子がそう思った理由を推察している。それが「楽浪海中に人有り」である。ここから明らかなように、「孔子は朝鮮半島の先の海中に人が居たことを知っていた」と、少なくとも班固は思っているのである。

同じ代の『論衡』に次の一文がある。

   周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。白雉を食し、鬯草を服するも、凶を除く能わず。論衡、儒増

著者王充は班固と同時代(5つ年上)の人物である。彼は、『論衡』において、儒家としての彼の主張を表現している。彼の主張はこうだ。「は白雉や鬯草の貢献を受け、それを使用した(白雉・鬯草ともに、吉祥を招く縁起物)にもかかわらず、凶(=春秋戦国を経た、滅亡)を避けられなかった。(非合理的な儀式や迷信に根拠は無かったのだ)」儒家得意の合理主義がここに現れている。孔子は、周王朝の最中に居たから、ここまで、痛烈な批判は出来なかったが、において王充はそれを行ったのである。このような文脈に現れる「人」は、の時代に「貢献」したのだという。このとき、王充にとって、「代の人貢献」は、知の事実だった、と見なすほか無い。なぜなら、そうでなければ、ここで王充が最も語りたい「の儀礼主義批判」は、空振りに終わってしまうのである。当然、王充は、同じ代の読者にとっても「代の人貢献」が常識的な説話であることを知っていた。このように見る時、その5つ年下の班固が、語る「楽浪海中」の「人」は、王充の語る「人」に等しいという、当たり前の事実が判明するのである。ここで、班固の文脈を振りかえろう。

「だから、孔子が中国国内で礼の道が行われないのを悼んで、海に浮かんで九夷の住む地に行きたいと思ったのだ、というのには理由があるのだ。そもそも、楽浪海中には、人がいて、…(の時に)来献したのだというのである」

考えても見よう。『漢書』の「人貢献」が、代の出来事ならば、最後に「と云う」で結ぶことなどありえない。これは、「人貢献」が代の事実を指したものではなく、それ以前を指したものだと言うことを示唆する。
2.印と『漢書

さて、王充と班固は後漢の人物である。王充は建武三年(27)の生まれ、班固は建武八年(32)の生まれである。ちょうど彼らの生きた時代、それも20代後半から30代にかけて、洛陽で話題になったのが、「人」だった。

    建武中元二年(57)、倭奴国、奉貢朝賀す。…光武、賜うに印綬を以てす。後漢書、倭伝

「朝賀」とは、「朝廷の儀礼に参加し、礼を尽くす」という意味であるから、人は洛陽に来ったのである。そして、華々しく印を授与された。当然、光武帝側にとっても、一大イベントだったはずだ。ちょうどその頃、班固も王充も洛陽にいた。「太学」に学んでいた最中だったのである。従って、班固が、

   楽浪海中に倭人有り。

といい、王充が、

   倭人鬯草を貢す。

と言った時、「直接的」には、この「印の人」をイメージしているのである。(反対に、光武帝が人を遇した際も、「朝貢献の人」「孔子憧憬の人」観が影響したものと思われる。-かわにし注)少なくとも、代の知識人にとっては、「代の人」と「後漢代の人」は同一のものと見なされている。
3.『三国志』以降

『三国志』以降の伝の冒頭記事を列挙してみよう。

   (1)倭人は帯方の東南大海の中に在り。山島に依りて国邑を為す。旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。三国志、魏志倭人伝
   (2)倭は韓の東南大海の中に在り。山島に依りて居を為す。凡そ百余国。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国。後漢書、倭伝
   (3)倭国は高驪の東南大海の中に在り。世々貢職を修む。宋書、倭国伝
   (4)[イ妥]国は百済・新羅の東南に在り。水陸三千里。大海の中に於て、山島に依りて居す。魏の時、訳を中国に通ずるもの三十国。隋書、[イ妥]国伝
   (5)倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里。新羅東南の大海の中に在り。山島に依りて居す。…世々中国と通ず。旧唐書、倭国伝

『三国志』の「今」がの時代(寿の三国志執筆時代)を指していることは言うまでも無い。ここで、「の時朝見する者有り」と言っているのは、当然、後漢代の遣使である。『後漢書』の記述は、『三国志』を受けてのものである。当然、『三国志』のと『後漢書』のは同一だ、といっているのである。『宋書』においては、「世々貢職を修む」が注目される。当然「世々」とは、()→である。ここでも、これら時代を通じて、「」が同一であることを示しているのである。『隋書』『旧唐書』でも同様である。中国側は、一貫して、「倭国」が同一王朝であることを語っている。変化が現れるのは、『旧唐書』日本伝である。

以上をまとめよう。

   3~7世紀の倭国は同一王朝である。
   3世紀の倭国(邪馬壹国)が九州に都することは、明らかとなった。
   従って、3~7世紀の「倭国」は、一貫して九州に都した「九州王朝」で無ければならぬ。
   各「倭国伝」の記事内容も、このことを支持している。

これが、「九州王朝説」である。