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史料操作の方法について(Historical)

古代史の論点(Historical)

史料操作の方法について
台与と並んで爵位を受けた男王

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/01/06(木) 16:17:19

の泰始二年(西暦266年)の女王、台与が中国王朝の西晋に朝貢した。
少し奇妙に感じられる事であるが、台与の後に立った男王が台与と並んで中国の爵命を受けている。朝貢の主は、他でもない女王とされる台与であるが同時に男王が存在する。
問題はこの男王が誰かである。
結論から言うと、この人は九代開化である。以下にその論拠を示す。

梁書』と『通典』の記述である。『梁書』は『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命。』
『通典』は『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢。』とする。

人伝』によると卑弥呼が没した後、男王が立つが国中が従わず戦乱となる。その後卑弥呼の宗女壹與が十三歳で擁立され、戦乱は収まったとする。
問題は『人伝』には見られない次の記述である。
『其後復立男王、並受中國爵命。』
台与が女王に擁立された後『復(また)』男王が立ち『並(ならびて)』中国の爵命を受けたのである。
台与の後に立った男王が台与と並んで爵命を受けたと解釈できる。それではこの爵命を受けた男王とは誰かである。

先に『勘注系図』の八世孫建諸隅(たけもろずみ)の子、天豊姫命を中国史書の伝える台与とした。天豊姫命は別名を大姫命、さらにまたの名を大海姫命ともする。
天豊姫命を台与とする理由は次の二つである。
この人の祖父にあたる七世孫建田勢命の姉妹が卑弥呼である。この人は卑弥呼を出した一族の女、すなわち宗女である。
また天豊姫命の『天(あま)』は後の海部(あまべ)と呼ばれる一族名であるから、名前の部分は豊『とよ』で中国史書が伝える臺輿(とよ)と音が似る。

一方古事記は、旦波の大縣主、名由碁理(ゆごり)の女、竹野比賣が開化の妃になったとする。
『勘注系図』によれば由碁理は八世孫建諸隅の別名である。その娘が天豊姫命またの名、大姫命である。大姫命という名は、大和王権とかかわりの深い名である。竹野比賣と考えて間違いない。
すなわち中国史書の伝える台与は、『勘注系図』の天豊姫命であり、『記紀』の伝える九代開化の妃竹野比賣(竹野媛)という事にる。十三才で王位に就いた台与が、その後開化の妃にり、西暦266年西晋に朝貢し、開化とともに、中国王朝の爵位を受けたのである。
ここに欠史八代と称され、その実在さえ疑われる九代開化の実年代が明らかにるのである。
Re: 台与と並んで爵位を受けた男王

投稿者:Kawa 投稿日:2005/01/08(土) 00:30:29

ふむふむ。

海部氏系図と記紀と中国側史料とを結び付ける際の、他の「説明可能性」については、以前も述べたとおりです。

さて、『梁書』と『通典』の史料ですが、解釈に問題があると思います。
まず、『梁書』は、以下のようになっています。
「復立卑弥呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中国爵命。安帝時、有王賛。賛死、立弟弥。弥死、立子済。済死、立子興。興死、立弟武」
ここで言っている男王とは、後の賛・弥・済・興・武という所謂の五王(宋書とは名前が異なります)のことをさしていると考えるのが妥当でしょう。
『通典』もほぼ同様です。
ただし、ここでは、「晉武帝太始初、遣使重譯入貢」にかかっています。これは、『晋書』に、
「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帯方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作、又数至。泰始初、遣使重訳入貢」とあり、
「日本書紀所引起居注」に、
「武帝泰初二年十月、女王遣重訳貢献」とある記事に関係していると見るのが一般的であり、『通典』は801年の立、『晋書』は7世紀前半、『日本書紀』は720年の立(「起居注」は、額面どおりならの時代の直接史料)ですから、こちらを起点に解読すべきでしょう。
Re: 台与と並んで爵位を受けた男王

投稿者:Kawa 投稿日:2005/01/08(土) 00:39:13

つまり、
『通典』の記載は、『梁書』に見える
「復立卑弥呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中国爵命。安帝時、有王賛」の記述に、『晋書』の「泰始初、遣使重訳入貢」を織り込んだもの、というほうが正しいようです。
(ただし、今は『梁書』『晋書』『通典』だけを取り上げましたが、別史料が手許に無いので確認できていませんが、他の史料との関係を介している可能性のほうが高いだろうと思われます)

というわけで、曲学の徒さんの解釈は、残念ながら立し難いだろうと思います。
Re: 台与と並んで爵位を受けた男王

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/01/10(月) 00:27:29

私は全共闘世代、アジテーションが好きです。
馬鹿言っちゃいけません。通典はの五王にかかりません。
Re: 台与と並んで爵位を受けた男王

投稿者:Kawa 投稿日:2005/01/10(月) 15:03:26

http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/hitorigoto/hitorigoto.htm

長くなってしまうので、「独り言」に書かせていただきました。
ご参照ください。
五世紀の話ではない。

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/01/17(月) 13:54:11

通典の記述
卑彌呼死、立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢。

『卑彌呼死、立其宗女臺輿爲王』と『晉武帝太始初、遣使重譯入貢』という文の間にはさまれる記述がなぜ五世紀の事?
記述の順序

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/01/17(月) 16:10:14

の景初三年に至り、公孫淵の誅後、卑弥呼始めて使を遣わし朝貢す。、以て親王と為し、印紫綬を仮す。正始中、卑弥呼死す。更えて男王を立つ。国中服せず、更に誅殺す。復た卑弥呼の宗女臺與を立て王と為す。其の後、復た男王を立て、並びに中国の爵命を受く。の安帝の時、王賛有り。賛死して弟弥を立つ。弥死して子済を立つ。済死して子興を立つ。興死して弟武を立つ。の建中、武を持節・督羅任那伽羅六国諸軍事・鎮東大将軍に除す。

梁書伝>

梁書伝は時期について、景初三年、正始中、の安帝の時という順序と書き出しで記述しています。
の安帝の時より前に記された文が、の五王であるはずはありません。
Re: 台与と並んで爵位を受けた男王

投稿者:Kawa 投稿日:2005/01/17(月) 21:23:07

ふむ。
つまり、曲学の徒さんは、
「通典の記述」をベースに、『梁書』を読むわけです。
私は、『通典』の「其後復立男王、並受中國爵命」が、『通典』の記述の上から五世紀のことであるべきである、と言ってはいません。
「しかし、ここに『晋書』の「泰始初、遣使重訳入貢」を挿入しているので、この「泰始初」の遣使が、「男王」の記事になっているのです。」と私は述べているように、『通典』自体には、確かにそのように書かれています。
問題は、その記述は「歴史事実として正しいのか」ということ。
梁書』の記述は、『通典』より「はるか前に」書かれたものです。
そこには、「泰始初」の遣使は書かれていない。『通典』の文と「合わせ見ると」、「其後」が「泰始初」のことを指していたとしても、矛盾の無いように見えますが、『梁書』の著者も読者も『通典』のことは知らない。だから、そういう先入観を取り除いてみると、ここから「泰始初」という時期を読みとることは不可能です。文脈の上では、後に続く「の五王」への「前置き」として読むことが、私は自然だと考えます。
(この点、「そんな記述法はあり得ない」と曲学の徒さんがお考えでしたら、用例を挙げて詳細に論じましょう)
後代の文献が、先行する文献の立に影響を及ぼすことはありません。影響の関係は、第一義的には、『梁書』→『通典』であると考えるべきでしょう。
曲学の徒さんの論理に従えば、『梁書』は、『通典』よりも記述が中途半端で、『梁書』それ自身では「其後復立男王、並受中國爵命」の語が、本当は「泰始初」のことを指すのに、そうは決して読みとれないような文章である、ということになります。つまり、「文章として立していない」ということです。
ここで、我々の目の前に無い史料の文面を仮構して議論を続けるべきではありません。
私の読解では、『梁書』はそれとして、文意は明らかであり、『通典』はそれとして、文意は明らかです。
残念ながら『通典』には、多少の事実誤認があるようですが、ね。
そうしてみれば、曲学の徒さんの読解には「無理がある」と結論付けざるを得ないのです。
とんでもない曲解

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/01/18(火) 20:48:53

後に続く「の五王」への「前置き」として読むことが、私は自然だと考えます。

梁書は、歴史を述べるにあたって記事の書き出しで、その事が何時の時代かを明示します。
霊帝光和中・・・、景初三年・・・正始中・・・安帝時・・・齊建中・・・というようにです。
順序は古い順から整然と書いています。
安帝時より前の文に安帝時以降の記事が含まれるはずはありませ。
また通典は『齊王正始中・・・』と『晉武帝太始初・・・』の間に『其後復立男王、並受中國爵命』の文を置きます。
齊王正始中と晉武帝太始初は、何れも三世紀代の記事で、その間に挟まれる記事が五世紀のはずはありません。

文の構を調べれば文の読解力がなくとも解る事です。
原典には男王も泰始初もあった

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/01/18(火) 21:14:24

通典が晋書と同じ原典を参照した可能性があります。
原典には「男王」も「泰始初、遣使重訳入貢」もあった。
通典が「男王」の叙述のあとに「泰始初、遣使重訳入貢」を付け加えたとするのは憶測にすぎません。
Re: 台与と並んで爵位を受けた男王

投稿者:Kawa 投稿日:2005/01/19(水) 01:45:15

まず、『梁書』について。
(1)世、南與朝鮮、穢貊、東與沃沮、北與夫余接。武帝封四年、滅朝鮮、置玄菟郡、以高句驪為縣以属之<梁書、高句驪伝>
(2)(正始)六年、倹復討之、(中略)到粛慎南界、刻石紀功、又到丸都山、銘不耐城而還。其後、復通中永嘉乱、鮮卑慕容[广/鬼]拠昌黎大棘城、帝授平州刺史。<梁書、高句驪伝>
この二例は、ともに高句驪伝ですが、まず、(1)では、「世」として高句麗の地理的状況を説明した後、「武帝封四年」として具体的な年次を続けています。
これは、の時代を一括して説明した後、具体的な年次を挙げて歴史的状況を説明する例です。
次に、(2)は、「其後、復通中」とあり、「其後」という表現が伝と共通しますが、ここで「復通中」と言っていますが、直前の事件(の毋丘倹による遠征)以降は、石勒の後趙への遣使か、(なら)安帝への遣使まで遣使はありません。「永嘉乱」とは316年に到るまでの「西晋滅亡」を指していますから(316年は建興年間。永嘉はその前の年号)、後趙にせよ安帝にせよ、「永嘉乱」より後のことです。
ですから、ここの「其後」は、「毋丘倹の遠征」と「永嘉乱」の間のことではなくて、「永嘉乱」の最中、東帝との交通を言っています。
>後に続く「の五王」への「前置き」として読むことが、私は自然だと考えます。
という解釈は、このように『梁書』に例を持つ解釈です。
>順序は古い順から整然と書いています。
安帝時より前の文に安帝時以降の記事が含まれるはずはありません。
これは、曲学の徒さんの「はずはない」という断定に対する反証です。
Re: 台与と並んで爵位を受けた男王

投稿者:Kawa 投稿日:2005/01/19(水) 02:04:18

まず、訂正します。

>(なら)安帝への遣使まで遣使はありません。
安帝ではなく、帝でした。

さて、『通典』に関しては、私は、
>私は、『通典』の「其後復立男王、並受中國爵命」が、『通典』の記述の上から五世紀のことであるべきである、と言ってはいません。
>「しかし、ここに『晋書』の「泰始初、遣使重訳入貢」を挿入しているので、この「泰始初」の遣使が、「男王」の記事になっているのです。」と私は述べているように、『通典』自体には、確かにそのように書かれています。
>問題は、その記述は「歴史事実として正しいのか」ということ。
と述べており、『通典』自体の文面が、

>また通典は『齊王正始中・・・』と『晉武帝太始初・・・』の間に『其後復立男王、並受中國爵命』の文を置きます。
齊王正始中と晉武帝太始初は、何れも三世紀代の記事で、その間に挟まれる記事が五世紀のはずはありません。

と読める形で書いてあると言うことは否定していません。
私が問題にしているのは、『通典』は801年の立であり、『晋書』『梁書』に比べてさえしい文献であり、さらに、『日本書紀』に比べてさえしい文献であるのだから、古いほうの『梁書』をしいほうの『通典』の解釈にあうような解釈をするべきではない、ということです。
ましてや、『日本書紀』に引く「起居注」にも、「武帝泰始」の遣使は、「女王」によるものと書いており、「男王」の存在は書かれていません。「爵命」を受けた、とも、ね。
そうした矛盾を、しいほうの『通典』だけが犯しているのです。
>通典が晋書と同じ原典を参照した可能性があります。
>原典には「男王」も「泰始初、遣使重訳入貢」もあった。
誰も見たことの無いような「原典」なるものを持ち出すには、「可能性がある」程度では、説として立できない、と私は言っているのです。
>通典が「男王」の叙述のあとに「泰始初、遣使重訳入貢」を付け加えたとするのは憶測にすぎません。
こちらが「憶測」で、「原典」なるものが「憶測」でないことを示す義務が、曲学の徒さんには、あります。
(私の「憶測」のほうは、しい史料と古い史料で矛盾が生じていれば古い史料のほうを信用しておく、という史料操作のごく一般的な、無難な解釈を示しているということに加え、そのように考えれば、『梁書』『南史』『通典』の「其後…」という同文面に一定の説明が出来る、という点で、それなりの説得力のあるものだと思います)
そもそも、『略』に求める根拠も不明ですが。の回答

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/01/17(月) 11:38:59

立其宗女臺輿爲王。略云「人自謂太伯之後。」
通典のこの部分は略を見ている。
Re: そもそも、『略』に求める根拠も不明ですが。の回答

投稿者:Kawa 投稿日:2005/01/17(月) 21:28:39

略』を見ていない、とは言っていません。
>通典のこの部分は略を見ている。
と仰いますが、私に言わせれば、引用された個所は、
人自謂太伯之後」だけが『略』に拠って書かれた、と『通典』自身が明記しているのです。
逆に言えば、少なくとも「立其宗女臺輿爲王」は、「『略』を写したものではない」ということです。
それは、別の史料を下敷きに書かれたものかもしれませんし、作者の作文かもしれません。
これを「其後復立男王、並受中国爵命」が「『略』に書かれていた」ということの根拠には出来ないでしょう。
その史料操作に疑問

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/02/01(火) 15:29:17

貴兄の>『しい史料と古い史料で矛盾が生じていれば古い史料のほうを信用しておく、という史料操作のごく一般的な、無難な解釈を示しているということに加え、そのように考えれば、『梁書』『南史』『通典』の「其後…」という同文面に一定の説明が出来る、という点で、それなりの説得力のあるものだと思います』

まったく説得力ありません。
こうゆう史料操作が誤認を生んでいる。
たとえば室町時代のことを書いた、江戸末期に立した歴史書と、今日の学問水準で書かれた歴史書があるとします。立年代の古い方が信じられる?

このような思い込みが、誤認を生んでいると私が考える例があります。

後漢書伝は人伝を参考にして、書かれたと言う説です。
したがって人伝の記述を、後漢書伝より重要視する説です。
たとえば「鬼道」という文字を取り上げて卑弥呼はシャーマンであったというような説です。後漢書伝は「鬼神道」とします。「鬼神道」であれば祖霊信仰の習俗(宗教)で当時の中国にも見られ邪馬台国のみの特殊な宗教ではありません。
また志は帯方郡から狗邪韓国までを、七千余里としますが後漢書は〔去其西北界狗邪韓国七千余里〕と、その西北界にある狗邪韓国から、倭国までが七千余里とも読める書き方をします。
さらに志は〔到其北岸狗邪韓国〕とし狗邪韓国倭国の北とします。これに対し後漢書は〔去其西北界狗邪韓国〕と西北とします。邪馬台国の位置が何処であろうとも、狗邪韓国を現在の釜山あたりとする限り、後漢書の方が正しそうです。
また志は当時、の30ヶ国ばかりと交渉を持つているとします。これに対し後漢書は武帝が朝鮮半島を滅ぼしてより30ヶ国ばかりが朝貢に来たとするのです。どちらが信じられますか?

後漢書伝の原典は人ではないというのが私の説です。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/3-2gokannsyo.htm
Re: その史料操作に疑問

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/06(日) 00:45:51

>まったく説得力ありません。
>こうゆう史料操作が誤認を生んでいる。
>たとえば室町時代のことを書いた、江戸末期に立した歴史書と、今日の学問水準で書かれた歴史書があるとします。立年代の古い方が信じられる?

一般論に転化したいのなら、この喩えは、問題があります。
私は、『梁書』や『北史』が、こと3世紀の事情について優れた史書である、と言った覚えはありません。ここで問題になっているのは、『梁書』や『北史』にはどのように書かれ、『通典』にはどのように書かれているのか、そして、その違いはどうして生じたのか、という問題です。
正しく喩えるなら、江戸時代の歴史書と現代の歴史書で書いてあることが違う、というときに、現代の歴史書の常識で以って江戸時代の歴史書を読む、更に言えば、現代の常識で以ってそこに書いてもいないようなことを補って読む、という行為は、江戸時代の歴史書を読む時のやり方として正しくない、と言っているのです。
それは、江戸時代の歴史書は間違っていない、と言いたいのではありません。
しかしながら、その指摘は「現代の歴史書にこう書かれているから」という理由で為されるのではありません。
今なら判明している考古学的調査であるとか、当時は知られていなかったたな文書の見によって、とか、そういう意味で為されるのです。
もしも、『通典』のほうが、『梁書』の頃よりも三世紀倭国に関してたな見や知識があったといいたいのなら、そのことを徹底して論証しなければなりません。
Re: その史料操作に疑問

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/06(日) 01:08:39

>それでは次の文の立はどちらが先
>次に示す文は人伝と後漢書伝の比較である。

>事鬼道□能以□惑衆(志)
>事鬼神道能以妖惑衆(後漢書

倭国□乱、攻伐歴年□□(志)
倭国大乱、攻伐歴年主無(後漢書

>これだけの類似は、この文のは同じと考えられる。

>では志から後漢書の文が派生したのか?。
>前者から後者を派生させるためには当意図的に創作しない限り起こりえない。 范曄は『鬼神道』の『神』や『妖惑』の『妖』の文字を勝手に補った事になる。また范曄は何の根拠もなく志の文章を、このように改変するであろうか?。
>だが、もともと原文は『事鬼神道能以妖惑衆』で『神』や『妖』の文字が省略あるいは、脱落したとすれば、起こりやすい事として理解できる。
後漢書人伝のとなった史料を、直接もしくは間接的に参照しているとした方が合理的である。
>決して後漢書伝の原典は人伝ではない。
http://6207.teacup.com/stromdorf/bbs
における曲学の徒さんの書き込みより。

梁書』と『通典』に関しても同じことを仰っていますね。
つまり、『梁書』と『通典』は同じ史料を参照しているのである、と。
肝心なことは、曲学の徒さんの言う「史料」なるものは、どこにも存在していない、ということです。
『三国志』が、原史料を「中途半端に」引用して、原文面の一部を脱漏して載せてしまった、といいたいのなら、その史料は、何という史料で、『三国志』『後漢書』がともにそれを参照していた証拠を示した上で、この問題の文面に関して論じなければならないでしょう。
略』との関係はよく取りざたされていますが、『略』に今問題になっている文面がどのように書かれていたか、分かりません。
(『三国志』と『後漢書』はともに我々の前に存在していますから、両文面が似ており、そして、『三国志』は『後漢書』を参照できず、『後漢書』は『三国志』を参照できますから、『後漢書』は『三国志』を「参照」して書かれた物だ、と言うのです。「原典」という言い方は、そもそも正しくありません。というよりも、曖昧で、引用と言いたいのか、参照と言いたいのか分かりませんが。少なくとも引用であるとは、誰も思っていないでしょう)
誰も見ることの出来ないようなものを都合よく仕立て上げてそれに「合う」という議論は、立できません。
まずは、それを示すことが必要なのです。
Re: その史料操作に疑問

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/06(日) 01:18:34

最後にもう一つ。

史記』と『漢書』の類似についても、同じことを仰るのでしょうか。
Re: その史料操作に疑問

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/02/10(木) 16:40:57

論点を単純化したい。
(1)後漢書伝の引用人伝であるか否か?
(2)後漢書伝と人伝では明らかに異なる記述がある。どちらの情報が現実を正しく伝えているか?
たとえば次の一文です。
志の『旧(もと)は百国あまりの国があり、の時代に朝見した者があつた。今使者が来るのは三十国である。』

後漢書の『凡(おおよそ)百国あまり。武帝が朝鮮を滅ぼしてより、に使者が来たのは三十国ばかりである。』(私の意訳であり若干の誤訳はご了承下さい)

原典という言葉が正しくなければ引用したという言葉で結構です。引用した資料(史書)が現存しなくとも、ゼロから創作したのでなければ必ず存在したはずです。またこれだけ似た文章がたまたま類似したとも考えられません。

もし范曄が他の資料を参照して、人伝を校訂したという論を立てられるなら、どのような資料を基に校訂したのかの論証もお願いします。
史書が立した年代の後先だけでは情報の正否は判断できない

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/02/10(木) 22:55:55

人伝には、後漢書伝が伝える57年の奴国朝貢の記事や107年の倭国王朝貢の記事はありません。
立の遅れる史書の記述は信用できないと河西さんはお考えですか?
後に立した史書が、先に立した史書より古い資料を参照した(引用した。典拠とした)という可能性はありませんか。

通典の記事が梁書によるという確かな証拠でもあるのですか?。
先に立した史書を採用すべきとい根拠は何ですか?。
また梁書の記述と通典の記述はなんら矛盾しておりません。これだけ短い文章です。要約、抜粋の仕方の違いでしょう。

> 『史記』と『漢書』の類似についても、同じことを仰るのでしょうか

読んだ事がないので解りません。

Re: その史料操作に疑問

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/11() 11:03:11

曲学の徒さんは、私の主張を誤解されているようです。
>もし范曄が他の資料を参照して、人伝を校訂したという論を立てられるなら、どのような資料を基に校訂したのかの論証もお願いします。

私は、そのような論をたてたつもりはありません。
私は、単に「范曄が『人伝』を参考にして、『後漢書』を書いた」と考えています。
人伝』と『後漢書』に違いがありますが、その違いが、「范曄が別の史料をに書いたのか、それとも范曄による作文なのか、わからない」と考えます。
同じことを、『梁書』と『通典』の間でも言っており、
>この文面をよく見てみましょう。基本的な文章の流れは、『梁書』や或いはそれを襲った『北史』を踏襲しています。
しかしながら、全く同じではありません。最初の部分は、『梁書』ではなく、『晋書』を参考にしているようです。つまり、「至景初三年、公孫淵誅後」ではなく「宣帝之平公孫氏也」を使っています。「景初三年」も「景初二年」と再修正しています。
同じように、「其後復立男王、並受中国爵命」の後ろも、より詳しく書かれています。これは、『梁書』は「」という時代に限定、『北史』は「北朝」に限定されていたことからすれば、当然です。(むしろ『南史』を踏襲している)
(独り言、2005.1.10)

私はこうも述べています。
>それ以外の史料に求めるのなら(『略』でも本質的には同じですが)、我々の目の前に無い史料ということになるわけですから、当慎重な検討が必要である、ということになります。
>これは、「可能性がある」程度では、説として立することは難しいといわなければなりません。
(同前)

>もし范曄が他の資料を参照して、人伝を校訂したという論を立てられるなら、どのような資料を基に校訂したのかの論証もお願いします。

全く同じことを、「范曄は『人伝』以外の史料を「引用」して『後漢書』を書いた」「杜祐(『通典』)は、『梁書』や『晋書』以外の史料を「引用」して『通典』を書いた」と主張する曲学の徒さん自身に、私が求めているのです。
ましてや、そういう「主張」を背景に『梁書』のような『通典』以前の史料を、その「主張」に「合う」ように、「書いていないことを補って読む」という読み方が、間違っている、と私は述べているのです。
Re: その史料操作に疑問

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/11() 11:20:39

>通典の記事が梁書によるという確かな証拠でもあるのですか?

確固たる証拠はありません。
しかし、私は、『梁書』と『通典』の記述が似ているという史料事実を提出することが出来ます。
私が述べているのは、『梁書』と『通典』の関係についてであり、私の論に出てくる史料は、曲学の徒さんも「見る」ことが出来ます。
曲学の徒さんの論に出てくるのは、『梁書』と『通典』と「両方に共通すると曲学の徒さんが考えた書」であり、その第三の史料を、私(も他の誰も)は見ることが出来ません。
だから、「可能性がある」程度では、論として立しない、と述べているのです。

曲学の徒さん、
あなたにはその第三の史料が「見えている」ようですから、

>これだけ短い文章です。要約、抜粋の仕方の違いでしょう。

と確定した事実のように述べることが出来るかもしれませんが、私はその史料を見ることが出来ない。
見ることが出来ないから、「要約の仕方が違う」のかどうか、私には確認できないのです。
Re: その史料操作に疑問

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/11() 11:22:31

>また梁書の記述と通典の記述はなんら矛盾しておりません。

少なくとも『梁書』には、「男王がの武帝に遣使した」とは書いていません。
私が言っているのは、「『梁書』に書いてもいないのに、「男王がの武帝に遣使した」と『梁書』が参考にした史料には書いてあったが、それは省略されただけだ」と曲学の徒さんが読むということが、「後代史料をもとに先行史料を読む」ことであり、そういう読み方をすべきではない、と言っているのです。
『通典』を前提せずに『梁書』を読めば、
>次に、『梁書』です。これは、代の立です。当然のことながら、『梁書』のメインは「」という国・時代の歴史を語ることなので、倭国伝においても、それ以前の歴史は、要領よくまとめられています。
>引用した部分のうち、問題の「其後復立男王、並受中国爵命」の前は、『志』の要約です。(「景初三年」という記述がここにあることを理由に、『志』の「景初二年」が誤りである、とする説がありますが、ここではそのことについては省きます)
>で、後ろは、「の五王」の記事です。『梁書』からみて、「」の直前であるの記事が非常に簡単にまとめられています。(ここでの五王の名前の違いについても今は省きます)
>ところで、「の五王」は男王です。そして彼らは、「ならびに(みな・あまねく)」中国の「爵命」つまり例のあの長たらしい称号を受けました。
>『梁書』における「其後復立男王、並受中国爵命」とは、そのことを言っています。
(独り言)
と読まざるを得ません。
「男王が武帝に遣使した」とは書いておらず、後ろに続くのは「の五王」なのですから。
にも関わらず、曲学の徒さんは、『梁書』を別の解釈で読むべきだと述べるわけです。
梁書』が書かれたときには存在もしていなかった史料をにして。
それが方法として間違っている、といっているのです。
後漢書伝は人伝を引用も参照もしていない。

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/02/14(月) 13:38:33

先の書き込みに関連するがしいスレッドをたてたい。また少々長い資料の引用をするがお許しいただきたい。

後漢書伝と三国志人の条(人伝)には互に類似する文や単語は多い。
対応する文の比較を次の書き込みページに示す。Aとする上段が後漢書、Bとする下段が三国志の記述である。

この比較を行ってあらためて驚いた。
両者の間に完全に一致する文は一つも無いのである。極めて良く似た文章表現や単語が用いられているにも関わらず微妙に異なるのである。
もはや多言を要しない。
後漢書伝は人伝を引用していないし、参照もしていない。典拠となった資料は他の資料である。

さらにこの比較を行って次のことが解る。

後漢書伝と人伝の対応する箇所は、単語と構文の類似性から原典は同じと推測できる。対応する部分の原資料は一書のみではないかという推測である。しかも対応する部分は後漢書伝のほぼ全文である。
人伝に記述が無い次の二つの記述を他の資料から引用したとするよりも、この文も同一原典の文と考える方が合理的である。
『國皆称王世世傳統其大王居邪馬臺國』
『建武中二年奴國奉貢朝賀使人自大夫國之極南界也光武賜以印綬安帝永初國王帥升等獻生口百六十人願請見』

これについては別の機会に詳述したい。
後漢書伝と人伝の比較(その1)

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/02/14(月) 13:43:40

上段後漢書、下段三国志

(1A)東南大海中依山島(山カンムリ+鳥)為居凡百余國自武帝滅朝鮮使譯通於者三十許國
(1B)人在帯方東南大海之中依山島為国邑旧百余国時有朝見者今使訳所通三十国

(2A)國皆称王世世傳統其大王居邪馬臺國
人伝に対応する文なし。)

(3A)楽浪郡徼去其國萬二千里
(3B)自郡至女王国万二千余里

(4A)去其西北界狗邪國七千余里
(4B)到其北岸狗邪韓国七千余里

(5A)其地大較在稽東冶之東
(5B)計其道里当在会稽東冶之東

(6A)土宜禾稲麻紵蠶桑知織績為謙(糸ヘン+兼)布
(6B)種禾稲紵麻蚕桑緝績出細紵謙(糸ヘン+兼)緜

(7A)出白珠青玉其山有丹
(7B)出真珠青玉其山有丹

(8A)土氣温□冬生菜茹
(8B)地温暖冬食生菜

(9A)無牛馬虎豹羊鵲
(9B)其地無牛馬虎豹羊鵲

(10A)其兵有矛楯木弓竹矢或以骨為鏃
(10B)兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鉄鏃或骨鏃

(11A)男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差
(11B)諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差

(12A)其男衣皆横幅結束連女人被髪屈介(糸+介)衣如單被貫頭而著之
(12B)其衣横幅但結束連略無縫婦人被髪屈介作衣如単被穿其中央貫頭衣之

(13A)並以丹朱□身如中國之用粉也(□=土ヘン+分)
(13B)以朱丹塗其身体如中国用粉也。

(14A)有城屋室父母兄弟異處
(14B)有屋室父母兄弟臥息異処

(15A)唯会同男女無別
(15B)其会同坐起父子男女無別

(16A)食飲以手而用邊(竹カンムリ+邊)豆
(16B)食飲用邊豆手食

(17A)多壽考至百余歳者甚衆
(17B)其人寿考或百年或八九十年

(18A)國多女子大人皆有四五妻其余或兩或三女人不淫不妬忌
(18B)其俗国大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不忌

(19A)又俗不盗竊少爭訟犯法者没其妻子重者滅其門族
(19B)不盗竊少諍訟其犯法軽者没其妻子重者没其門戸及宗族

(20A)其死停喪十余日家人哭泣不進酒食而等類就歌舞為楽
(20B)始死停喪十余日当時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒

(21A)灼骨以卜用決吉凶
(21B)靱輒灼骨而卜以占吉凶

(22A)行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰若在塗吉利則雇以財物如病疾遭害以為持不謹便共殺之
(22B)其行来渡海中国詣恒使一人不梳頭不去幾蝨衣服垢汚不肉食不近婦人如喪人名之為持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰謹
後漢書伝と人伝の比較(その2)

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/02/14(月) 13:51:43

(23A)建武中二年奴國奉貢朝賀使人自大夫國之極南界也光武賜以印綬
安帝永初國王帥升等獻生口百六十人願請見
人伝に対応する文なし)

(24A)桓霊間國大亂更攻伐歴年無主
(24B)倭国攻伐歴年

(25A)有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立為王
(25B)乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿

(26A)侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室樓觀城柵皆持兵守法俗嚴峻
(26B)有男弟佐治国自為王以来少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食伝辞出入居処宮室楼観城柵厳設常有人持兵守

(27A)自女王國東度海千余里至狗奴國雖皆種而不屬女王
(27B)女王国東渡海千余里復有国皆

(28A)自女王國南四千余里至侏儒國人長三四尺
(28B)又有株儒国在其南人長三四尺去女王四千余里

(29A)自侏儒東南船行一年至裸國黒齒國使譯所傳極於此矣
(29B)又有裸国黒歯国復在其東南船行一年可至

(30A)会稽海外有東□(魚+是)人分二十國又有夷洲壇(三スイヘン)洲
傳言始皇遣方士徐福将童男女數千人入海求蓬莱神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗承有數萬家人民時至稽市 会稽東冶縣人有入海行遭風流移至洲者所在絶遠不可往來
人伝に対応する文無し)
Re: 後漢書伝は人伝を引用も参照もしていない。

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/15(火) 22:59:32

>両者の間に完全に一致する文は一つも無いのである。極めて良く似た文章表現や単語が用いられているにも関わらず微妙に異なるのである。
もはや多言を要しない。
後漢書伝は人伝を引用していないし、参照もしていない。典拠となった資料は他の資料である。

この結論に至る理由がよく分かりませんね。
「引用していない」なら分かります。
【引用】
古人の言や他人の文章、また他人の説や事例などを自分の文章の中に引いて説明に用いること。
「古典の例を―する」

字句に違いがありますから、ね。
でも「参考にしていない」とどうして言い切れるのかまったく不明です。
【参考】
(1)考えをまとめたり、物事を決める際に、手がかりや助けとすること。また、その材料。
「前例を―にする」
(2)種々の資料などを利用し、考えること。また、その資料。
「ご―までに」「欧米の書籍を広く―する時間を要する/社会百面庵)」

曲学の徒さんがこまめに「引用」してくださいましたが、30項目にも渡って「比較可能」である、というまさにそのことが「参考」にした、と見なすことが出来るのでは無いですか?
どうして「その可能性は絶対に無い」と言い切らねばならないのでしょうか。
Re: 後漢書伝は人伝を引用も参照もしていない。

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/15(火) 23:11:45

もう一点、不可思議な点があります。

後漢書伝と人伝の対応する箇所は、単語と構文の類似性から原典は同じと推測できる。対応する部分の原資料は一書のみではないかという推測である。しかも対応する部分は後漢書伝のほぼ全文である。

この推測は、おそらく「後漢書のほうが原典に近い」といいたいようですが、それならば、『人伝』は、「原典」を中途半端に利用したのでしょうか。
後漢書』と「原典」は同一文面であると考えていますか?
それはなぜですか?『後漢書』のほうが情報が多いから?
同一文面で無いと考えているなら、全ての部分について、「原典」にはどう書いてあったのかが問題になります。

曲学の徒さんのご意見の前提には、『志』も『後漢書』も「一つの原典」によってのみ書かれた、という前提があります。
しかし、それは、根拠のあることでしょうか。
複数の、しかも、行政上の文書であったり外交文書であったり、複数の歴史書であったりを参考にしながら書いた可能性は?
曲学の徒さん、あなたが文章を書く時、「常に何か一つの原典」しかありませんか?
旅行記でも日記でも、「資料」となるものは、旅行記なら観光地のパンフレットのようなものだったり、複数のメモだったり、取ってきた写真だったり、記憶だったりするのが普通でしょう。私は、ありえないような可能性を述べているつもりはありません。普通のことを言っているつもりです。

こうした可能性の全てをイキナリ通りして、「見ていない」と結論付けると言うのは、率直に言って、突に過ぎます。
ですから、私は、曲学の徒さんの説が正しいとはとても思えないのです。
Re: 後漢書伝は人伝を引用も参照もしていない。

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/02/16(水) 14:00:41

>「引用していない」なら分かります。
解っていただければ幸いです。

それでは後漢書伝は何を引用した?。それとも范曄のまったくの創作。
これだけ似た単語や構文で構される、原典を異にする複数の資料が在った?。
参照したならなぜまったく違う事を書いた?

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/02/16(水) 14:13:28

凡百余國自武帝滅朝鮮使譯通於者三十許國
旧百余国時有朝見者今使訳所通三十国

楽浪郡徼去其國萬二千里
自(帯方)郡至女王国万二千余里

参照したなら范曄は何でこんなに違う事を書いた?。

河西さんの見解は?
Re: 後漢書伝は人伝を引用も参照もしていない。

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/16(水) 23:32:30

>私は、単に「范曄が『人伝』を参考にして、『後漢書』を書いた」と考えています。
>『人伝』と『後漢書』に違いがありますが、その違いが、「范曄が別の史料をに書いたのか、それとも范曄による作文なのか、わからない」と考えます。

すでに述べていることですが、以上のように考えます。
我々の目の前には、『人伝』と『後漢書伝』は、似ているが一部違う、という事実だけがあり、「何で」については分かりません。複数の史料を参考にしたか、范曄による独自の解釈なのか、それを特定することは、現時点では出来ません。

>それでは後漢書伝は何を引用した?。

何か一つの書を「引用」して書かれた、と曲学の徒さんが結論付ける理由はなんですか?
私が歴史書を書くとすれば、複数の史料を基にし、自らの作文によりそれらを構しますけれど、ね。
人伝』に似ていると言うことは、『人伝』を参考にしながら文章を構した、ということでしょう。
それは、別に「引用」ではないのですから、の文章と「同じ文章でなければならない」というつもりでは、書かないでしょう。同じでもかまいませんが、言い回しが多少変わったり、あえて変えたりするということは、普通に行なうことです。
そうではなく、『人伝』以外の何かを「引用」した、と曲学の徒さんは、結論付けるわけです。
(少なくとも私は他の書物を引用した、と言うつもりは毛頭ありません。他の史料も参考にしていたから、文面が変わった、という可能性はあるでしょうけれど、ね)
それは、なぜ、何を根拠に、そう結論付けるのでしょうか。

>こうした可能性の全てをイキナリ通りして、「見ていない」と結論付けると言うのは、率直に言って、突に過ぎます。
>ですから、私は、曲学の徒さんの説が正しいとはとても思えないのです。

とは、そのことを言っています。
Re: 後漢書伝は人伝を引用も参照もしていない。

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/16(水) 23:52:47

>凡百余國自武帝滅朝鮮使譯通於者三十許國
>旧百余国時有朝見者今使訳所通三十国

>楽浪郡徼去其國萬二千里
>自(帯方)郡至女王国万二千余里

>参照したなら范曄は何でこんなに違う事を書いた?。

結論付けて述べることは出来ませんが、想像することは容易いです。
どちらも、『志』ではなく『後漢書』だからです。
志の「旧」は、「」のことを指していると読むことは可能であり、「今」は「」もしくはせいぜい「」のことです。
ところが、范曄は『後漢書』を書いているわけですから、「」の時代のことを「旧」と書くことは、何か奇妙な感じがすると思われます。まさにその時代のことを書こうとしているわけです。范曄がそう考えて、「旧」の字を消した、としても、私はその気持ちはよく理解できる、という意味です。
「今」も同じです。范曄は、「」の時代に、「後漢」のことを書いているわけですから、同じように「今」と表記してしまっては、意味が変わってしまいます。だから、志の「今」という語を消したというのは、これもそうだとすれば范曄の気持ちは理解できる、ということです。
帯方郡を楽浪郡徼(徼は「国境の塞」)に変えたのも、「」の時代の大半にも、「」の時代にも「帯方郡」は存在しなかったからです。(帯方郡は、後漢末に操が公孫氏による設置を承認する形で生。東のころには滅亡)
そうだとすれば、范曄が文面を変えた理由もうなずけます。
もちろん、決定的な証拠はありませんけど、ね。
別に、こうした変更は奇妙なことではない、と思います。
この違いは?

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/02/19(土) 09:06:29

もう少し河西さんのお説を拝聴したい。
この違いをどのように説明されますか?

(4A)西北界狗邪
(4B)北岸狗邪韓国
狗邪韓国の西北それとも北。現在の地図をみれば西北の方が正しそう。

(6A)土宜禾稲麻紵蚕桑知織績為謙布
(6B)種禾稲紵麻蚕桑緝績出細紵謙緜
あえて別の表現をしなくともそのまま書き写せばよさそうなものですが。

(7A)出白珠青玉其山有丹
(7B)出真珠青玉其山有丹
白珠なら水晶玉、水晶の小玉なら三世紀の古墳から大量に出土する。真珠の出土はあまり知らない。

(8A)生菜茹
(8B)食生菜
なぜ生菜を食べるが生菜を茹るになる。後者を訂正するような他の資料があった。それとも范曄が勝手に創作した。

(14A)有城屋室
(14B)有屋室

(24A)攻伐歴年無主
(24B)攻伐歴年

(25A)事鬼神道
(25B)事鬼道

(26A)居處宮室樓觀城柵皆持兵守法俗嚴峻
(26B)居処宮室楼観城柵厳設常有人持兵守

范曄は人伝を参照しながら「城」「無主」「神」「法俗嚴峻」勝手にこれれの文字を補ったのですか?
Re: 後漢書伝は人伝を引用も参照もしていない。

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/20(日) 17:37:30

何度も申し上げていますが、

>>私は、単に「范曄が『人伝』を参考にして、『後漢書』を書いた」と考えています。
>>『人伝』と『後漢書』に違いがありますが、その違いが、「范曄が別の史料をに書いたのか、それとも范曄による作文なのか、わからない」と考えます。

>すでに述べていることですが、以上のように考えます。
>我々の目の前には、『人伝』と『後漢書伝』は、似ているが一部違う、という事実だけがあり、「何で」については分かりません。複数の史料を参考にしたか、范曄による独自の解釈なのか、それを特定することは、現時点では出来ません。

違いがある、という事実に対して、「都合が悪くて、何か理由を欲している」のは、曲学の徒さんなのであり、私は、その理由を必要としていません。

>(6A)土宜禾稲麻紵蚕桑知織績為謙布
>(6B)種禾稲紵麻蚕桑緝績出細紵謙緜
>あえて別の表現をしなくともそのまま書き写せばよさそうなものですが。

別の表現をしても、しなくても、どちらでもかまわないです。
范曄は「参考にした」のであって「引用」したのではない、と私は考えているのですから。
曲学の徒さんの「仮定」なら、『志』の側が、「原典」を「そのまま書き写せば」よいのに、そうせず、書き換えた、ということになりますけれど。
「原典」なるものを想定するなら、
1.『志』が書き換え
2.『後漢書』が書き換え
3.『志』も『後漢書』も書き換え
という全ての可能性があるにも拘らず、です。
この違いに関して、「原典」に何とかいており、『志』あるいは『後漢書』は何故それと異なるのかを説明しなければならないのは曲学の徒さんの側です。
私は、「想像はたやすい」と言いましたが、所詮は想像ですから、「説」というほどのこともありません。
Re: 後漢書伝は人伝を引用も参照もしていない。

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/20(日) 17:43:32

1.この推測は、おそらく「後漢書のほうが原典に近い」といいたいようですが、それならば、『人伝』は、「原典」を中途半端に利用したのでしょうか。
後漢書』と「原典」は同一文面であると考えていますか?
それはなぜですか?『後漢書』のほうが情報が多いから?

2.曲学の徒さんのご意見の前提には、『志』も『後漢書』も「一つの原典」によってのみ書かれた、という前提があります。
しかし、それは、根拠のあることでしょうか。

3.何か一つの書を「引用」して書かれた、と曲学の徒さんが結論付ける理由はなんですか?

宙ぶらりんになったままの質問を箇条書きにしておきました。
回答待ってます。
後漢書伝が人伝を参照していない理由

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/02/21(月) 16:19:54

理由。
(1)後漢書伝には人伝に書いてない事が書いてある。
(2)明らかに意味の異なる文がある。
(3)ひとつとして完全に一致する文はない。
(4)人伝には後漢書がまったく触れない記述が多々ある。
(5)次の例は後者から前者が派生したとは考えにくい。
有城屋室と有屋室
攻伐歴年無主と攻伐歴年
鬼神道と鬼道

しかし両者は無関係ではありえない。

これらの事うまく説明するには後漢書伝が人伝を引用したとするより、人伝の典拠となった資料を引用したという仮説の方がうまく説明が付く。

もちろん後漢書伝も人伝も引用、抜粋、省略があり原典そのままではない。
またすべてが後漢書が正しく人伝が誤りとも出来ない。

私が後漢書伝が参照した資料は一つだけではないかと推測する根拠は、先に提示した後漢書伝は全文である。この全文に対して明確な対応関係の推定できないのは10%である。
その内
『國皆称王世世傳統其大王居邪馬臺國』の『大』の語の使い方である
『国国有市交易有無使大監之』の『大』と同じ意味としてもおかしくない。こんな固有名詞が、他の資料にあったとは思われない。この二つの文を合した時、矛盾無くつながり意味も良くわかるのである。同一資料にあった単語と推測する。

また人伝には見られない
『建武中二年奴國奉貢朝賀使人自大夫國之極南界也光武賜以印綬
安帝永初國王帥升等獻生口百六十人願請見』にしても人伝に対応する文が無いわけではない。
時有朝見者』である。
范曄は後漢歴史を著そうとした。もし人伝を参照したなら『時有朝見者』という重要な情報をなぜ省いたのか?。省いたのではない、より詳しく書き留めたのである。
しかし歴史を著そうとした人にとって、後漢時代の情報は重要ではない、『時有朝見者』と省略したのである。

もちろんすべて私の仮説に過ぎない。范曄が見たという資料でも出てこない限り立証されることもない。

後漢書伝は人伝を引用し、范曄が他の資料や独自の考えで書き換えたなどという通説を鵜呑みにする前に、この違いがなぜ生まれたかを考えてみる必要がある。
その結果范曄は、人伝を参照したという結論に立たれるなら致し方ない。
論争はここで打ち止めにする。
論争の原点

投稿者:曲学の徒 投稿日:2005/02/21(月) 17:07:21

そもそもこの論争を吹っかけたのは、立年代の遅れる資料の価値は、立年代の先行する資料に劣るのかという疑問からである。
人伝と異なる後漢書伝の記述は、すべて信頼できないのかという事です。
同じく通典と梁書では、梁書に記述が無ければ通典の記事は信用できないのかという事です。

レベルの高い論争ができたと感謝しています。
Re: 後漢書伝は人伝を引用も参照もしていない。

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/21(月) 21:33:05

ふむ。
私が何に「噛み付いた」のかも、お答えしておきましょう。

>そもそもこの論争を吹っかけたのは、立年代の遅れる資料の価値は、立年代の先行する資料に劣るのかという疑問からである。
人伝と異なる後漢書伝の記述は、すべて信頼できないのかという事です。
>同じく通典と梁書では、梁書に記述が無ければ通典の記事は信用できないのかという事です。

完全に一般化してしまえば、「信頼できることもあるし出来ないこともある」というのが正しい答えです。
証明を伴う判断には、デフォルトと言うか、基礎的な考えというものがあり、一般的には、「存在が証明されないものは無いと見なす」というものがあります。
これを「無いとは言えない」などと言ってしまっては、およそ議論は終わりません。
歴史学の場合、同じように、「古いほうの史料を信用しておく」というのは、デフォルトの考えである、と言えると思います。もちろん、その考えは覆されることもあります。
しかし、そのとき必要なのは、「完膚なきまでの証明」です。
ましてや、「存在が証明されないような「原典」」を前提すべきではありません。
Re: 後漢書伝は人伝を引用も参照もしていない。

投稿者:Kawa 投稿日:2005/02/21(月) 21:33:19

曲学の徒さん、
私は、「いつ、如何なる時も『梁書』より『通典』のほうが史料価値が劣る」とは言っていません。
つまり、「『通典』のほうが『梁書』よりも真実を伝えている可能性がある」ことを疑っていません。
でも、それは、当たり前のことであり、実は、そんな可能性は、いつ如何なる時もゼロにはならないのです。
ですから、曲学の徒さんがそれ(そんな当たり前のこと)を「ことさらに」強調するとき、曲学の徒さんが、そうしたいと思う「動機」のほうが問題になるのです。

私が見るに、曲学の徒さんは、『通典』の記述をヒントに、「壹與と同時に即位した男王がいる」というアイデアにたどり着いた。「だから」曲学の徒さんは、『通典』のほうを採用したいと思った。そのためのレトリックが、「同じく通典と梁書では、梁書に記述が無ければ通典の記事は信用できないのかという事です。」という「一般論」である、というふうに見えています。

私の、曲学の徒さんの動機に関する憶測が正しいかどうかは、分かりません。
別の言い方をすれば、曲学の徒さん、
「同じく通典と梁書では、梁書に記述が無ければ通典の記事は信用できないのかという事です。」
私がこれに対して、「信用できることもある」と当たり前に答えたところで、「壹與と同時に即位した男王」という曲学の徒さんの仮説は、変わらず「仮説」という同じ地点を一歩も動かないのです。何の論証にもならない。
このようなことは、私にとって当然のことと思えます。
ですから、先のような「動機」を想定せずにはいられないのですが、そうではないのでしたら、私は、このように考えている、ということです。