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古代史の真実・・・・皇室の先祖は朝鮮半島から来たという大ウソ

古代史の真実・・・・皇室の先祖は朝鮮半島から来たという大ウソ

これは重大な問題である。
何故ならば、これは、朝鮮民族が我が皇室を貶める道具になっているからだ。
このことを以て、彼ら特に国人が日本人に優感を持つ一つの根拠となっている。

それに拍車をかけ、火に油を注いだのが、政権与党である民主党幹事長であった小沢一郎が、2009年12月12日に国の国民大学校で行った講演である。

彼は、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」を引き合いに出し、天皇家の祖先は朝鮮半島からやってきたと学生の前で言った。そして、朝鮮人は素晴らしい民族だと持ち上げる一方、我が国民を徹底的にこき下ろした。
これが我が日本の政権与党の幹事長の職にあるものの言動であろうか。
以前の河野談話とともに、我が国歴史上最悪の悪影響を及ぼした愚劣極まる言動といわねばならない。

そのとなったのが江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」である。
これはこの東大教授の腐った脳みそが捏造したとんでも学説であった。いや、学説と呼べるような代物ではない。
この説は、終戦後間もなく、ろくに文献資料も考古学的資料もなかったころ、面白い奇想天外な学説を表してひと儲けを企んで考え出されたものである。
当時は、絶対的信用のあった東大教授という地位を利用して、このような荒無稽な絵空ごとを、さもまともな学説の如く表した。

当時は、日本の学界、マスコミ、教育界がこぞって左傾化していた時代である。
当然、この皇室を貶める学説は、当時の多くの日本人に受け入れられることとなり、一大ブームを巻き起こしたのである。
故に、今でも多くの我が国民が、朝鮮半島からやってきた騎馬民族の一派が、海を渡って九州に上陸し、大和朝廷の起源となったと本気で信じている。

その後、この説は、全くのでたらめで、その根拠も証拠も皆無であり、単なる江上波夫の妄想によるでっち上げであることが多くの研究者により証明されている。
中国や朝鮮の史書のどこをひっくり返してみても、それに該当する記述は皆無である。

それどころか、当時の中国の史書や、当の朝鮮にあった国家、羅の史書、「三国史記」の記事を読んでみると、それと反対のことが描いてある。

羅の四代王、脱解は日本から渡ってきた種(日本人)であり、当時の総理大臣「大輔」は、人(日本人)である瓢公であった。
つまり、羅の初期王朝は人の王朝であり、実権は人の手にあったということなのである。
また、は、羅初代朴赫居世八年(紀前50年)に羅に侵攻し、南解十一年(14年)にも攻めよせてきた。
脱解三年(59年)、羅はと交聘の好みを結び、使者の交換をした。
注意すべき事は、この少し前の紀57年にの奴国王がに朝貢し、光武帝より印を賜っていることである。
又、その後、紀107年には、王が生口(奴隷)百人を献上して謁見を願ったと「後漢書東夷伝」にある。
その前、の時代にも人が来て薬草を献上した記録がある。これは紀前1000年より前で日本の弥生時代前期にあたる。
これは何を意味するかというと、日本人は弥生時代から中国歴代王朝に朝貢するだけの高い文化と優れた船、高い航海技術を有していたということである。
それとともに、の光武帝から印を賜るなど当強大な国力を有していたことも推察できよう。
印の重さは、現在人が考える以上の意味を持っている。単に、献上物が気に入られたから貰えるようなものではない。それ当の国力があるということ。少なくとも、当時の中国の皇帝はそう認識していたのである。
その後、では卑弥呼が共立され、238年には親王の印をに朝貢して受ける。 

この卑弥呼がより印を貰った時代、朝鮮半島はどの様な状態であったのか。三国志の
伝」によると以下の通り説明されている。

・・・後の百済に当する地域である。55の小国に分かれ、総計で10万戸余り。
     大国は一万戸、小国は数千戸。
     後の百済は、その55国のなかの一国と思われる。
     注目すべきは、この国の民は「牛馬に乗ることを知らない」とある。
     江上の説では、百済は騎馬民族の建てた国であるという。これはどういう
     ことだ。騎馬民族が牛馬に乗らないでどうする。
     また、男子の中にはときどき文身が見られると書いてある。
     刺青は人の習俗である。この時期には既に当数の人がこの地方に住み
     着いていたようだ。

・・・後の任那にあたる。12(13とも)国あり。大国は4~5千戸、小国は
     6~7百戸。   
     今の海市辺は人国の狗邪韓国と思われる。
     衣食住、言葉も習俗も辰とよく似ている。
     人伝は、の女王国に至る行程の途中に、明らかにこの弁にあった
     狗邪韓国の北岸としている。つまり、は、今の海市辺に狗邪韓国
     いう国を建てていたのである。
     この、本土に、の領土を広げていたからこそ、そこを基地として度々
     羅を襲撃することが出来たのであろう。
     また、弁には、馬、辰には見られなかった城郭があった。

・・・後の羅の位置に当する。12国からなる。後の羅はこの中の一国に
     すぎない。
     土地はよく肥え、五穀や米が採れる。
     弁とともに鉄の生産が多く、はもとよりワイやも採取にやって来る。
     牛馬に乗る。
     男女ともに人に近く文身をしている。
     戦いは歩戦で行う。
     城柵がある。

牛馬には乗るが歩戦で戦うということは一見矛盾するようであるが、牛馬に乗るから必ず騎馬で戦うと決まったものではない。
馬には乗れるが、馬上では戦うことが出来なかっただけなのである。騎馬戦には特殊な技術が必要である。
又、城柵があるのは始終外敵の襲撃を受けていたからに他ならない。
その外敵とは、三国史記にあるように人である。

以上の記述は江上が騎馬民族が対馬、壱岐を経由して九州北部を征服したとされる百年にも満たない前の朝鮮半島の状態である。
一覧してわかるように、この何所にも騎馬民族の存在を明示するものは皆無である。
江上が騎馬民族としている馬の人は牛馬に乗ることを知らず、辰に於いての牛馬には乗るが、騎馬戦はやらず徒歩で戦うという。
以上のように、馬、辰の人間が騎馬民族である訳はなく、日本を征服するだけの実力を備えた国家や集団は存在しなかった。
征服者が日本征服の基地としたと江上が言う加羅は、三世紀前半当時は弁である。
この弁の地は既にの勢力範囲であり、の領地任那は、後に羅が百済を滅ぼした頃にまで継続しての朝鮮半島攻略の前線基地であり続けた。
三国史記羅本記には、は4世紀中ごろまで12回も羅に侵入し、そのうち2回も首都の城を包囲している。
295年にはの侵攻に困り果てた羅王が、百済と連合してを征伐しようと言い出したことがある。この時、羅の軍は船戦に慣れていないということと、百済が信用できないことを理由に臣下に諌められてこれを取りやめた。

以上の中両国の古代資料から、次のことが言える。

1.4世紀初めまでに、日本を征服するような強力な騎馬民族の存在はは資料上何所にも
  認められない。
2.人は、羅の建国間もない紀前50年から5世紀中ごろまで20回に及ぶ侵入を
  繰り返し、そのうち、4回は羅の首都、城を包囲している。
3.伝によると、3世紀の馬、辰、弁の各地方は、国と言っても大は一万戸、
  小は6~7百戸程度の村落共同体程度の極小国の集まりであった。
  そのうち、辰、馬には当数の人が居住し、弁にはの一部、狗邪韓国が  
  あり、倭国の一部であった。
4.百済は、常にと友好を保っていた為、の侵入の記録はない。むしろ、の保護下
  にあり、他国から攻められるとに救援を求め、はこれに応じて援軍を送った。

以上、高麗の官選史書である三国史記や中国の歴代史書を仔細に検討したが、高句麗、辰、弁、馬三国には、何所にも江上のいう騎馬民族的要素は見当たらない。
伝によれば、馬は牛馬に乗らず、辰は馬には乗るが戦うときは徒歩で戦う。
これが騎馬民族であるはずがない。
もうひとつの矛盾は、江上が、騎馬民族がを征服するときに基地とした加羅の地は、一貫しての勢力範囲であり、後に羅が百済を滅ぼすまで、高句麗、辰、馬の何れの人の支配下に置かれたことはない。
それどころか馬、辰には文身をした人と見られる人達が大勢住み、馬の百済はの庇護下に置かれ、辰羅は4代王以来人の王が続き、重臣にも人がいたことが知られている。
さらに、羅は度々の侵攻に苦しみ、4度も首都城を包囲されている。
この様な朝鮮半島の当時の情勢を見るに、とても、日本に侵攻する力のあった勢力が存在したとは考えられない。
また、仮に、そういった勢力がいたとしても、羅王が渡海してを討伐することを諦めたように、はるばる海を渡り、海戦に習熟したの水軍と戦って勝利を収めることなど到底不可能であった。
実際はこれと反対で、古代朝鮮半島の南半分は、倭国の勢力下に置かれ、百済はに従属し、羅は度重なるの侵攻に苦しみ、果ては王女をの王族に嫁し、又は、王子を人質に出したことさえある。
つまり、騎馬民族である人の一部が海を渡って九州北部を征服したという江上の説は何の根拠もない荒無稽なほら話以外何物でもない。
むしろ、反対にの方が、半島南部に倭国の領域を広げ、百済を支配下におき、羅には度々攻め込むほどの強大な軍事力を有していたのである。