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第9回  女性皇帝も出た唐の時代

中国史(第9回 女性皇帝も出たの時代)
○今回の年表
618年 が建国され、李淵(高祖)が即位。
626年 李世民(太宗)が即位し、貞観の治が始まる。
645年 (日本)中大兄皇子、中臣鎌足らが蘇我入鹿・蝦夷親子を殺害。大化の改が始まる。
651年 (イランなど)ササン朝ペルシアが、イスラム帝国に滅ぼされる。
661年 (シリアなど)ウマイヤ朝イスラム帝国が立。
663年 白村江の戦い羅連合軍と、日本・百済連合軍が戦い、日本・百済が敗北。
690年 則天武后が実権を握り、皇帝となり、国名をとする(~705年)
712年 李隆基(玄宗)が即位。開の治が始まる。
750年 (イラン)アッバース朝が誕生。ウマイヤ朝が滅亡する。
751年 (フランス)カロリング朝フランク王国が誕生。
751年 タラス湖畔の戦いで、がアッバース朝に大敗。
755~763年 安史の乱が起こる。
794年 (日本)桓武天皇が平安京に遷都。
800年 (フランス)カール大帝、ローマ教皇から戴冠される。
875~884年 王仙芝&黄巣の乱が起こる。
891年 (朝鮮)大乱が起こり、半島が三分される(羅・後百済・摩震)
907年 が滅亡する

を受け継ぐ
 のあと中国を統一したのが(618~917年)です。初代皇帝は李淵(高祖 位618~626年)。息子の李世民に勧められて混乱期に旗揚げした人物です。この李淵という人の家系は、の楊堅の同僚で、少し上の家柄。また、李淵の母は鮮卑族の独孤信の娘で、煬帝の母の姉に当たります。すなわち、李淵と煬帝は従兄弟というわけです(と、同時につまりは、純粋な民族政権ではない、と言うことです)。

 その縁もあり、 まず煬帝の孫の楊侑を帝位に就けます(恭帝)。そして、煬帝が殺害されると、613年に恭帝に禅譲させ彼自身が帝位に就きます。何だか面倒な手続きをしたな、さっさと自分で皇帝に就けばいいじゃないかと感じる人もいると思いますが、一応これは、正統性を確保するために必要なんです。

 こうして、が誕生します。そして、高祖(李淵)の息子の李世民が、次々とに反乱を起こした李軌や蕭銑(の初代丞蕭何の子孫)などのライバル勢力をうち破り、の覇権を確立していきました。と、そんな実力たっぷりの李世民なのですが、実は次男で上に兄貴がいました。李建という人物で、この人物、決して無能ではなく、皇太子となっていました。そして、李世民ほどではありませんが、かなりの功績を挙げていました。当然、2人は反目し、李建は弟の李吉(李淵の三男)を味方につけて勢力を固めようとします。

 後を継ぐのは俺だ!
 そこで、626年についに李世民は妻の兄・長孫無忌と共に先手をとって、李吉、次いで李建を殺害し、高祖を幽閉。いわばクーデターで政権を取ります(玄武門の変)。そして、高祖は譲位し、李世民が帝位に就きます(太宗 位626~649年)。有能な家臣の話に耳を傾け、立派な政治を行い、の基礎を確立しましたといわれています。そんな彼の政治を「貞觀の治」と呼びます。

 ここで面倒ですが、の官制を見ていきましょう。
  基本的にの制度をそのまま採用します。それ故、の制度を確立したともいえます。具体的には、三省六部制という中央に三省(中書<皇帝の意向で法令を文章化>・門下<中書省から来る法令を審査>・尚書<法律を施行>)、六部(吏<人事院>・戸<財務担当>・礼<文部省と同じ>・兵<軍事>・刑<法律関係と警察>・工<建設>)・御史台を設置。

 地方は州県制を採用。また律・令・格・式などの法典を整備し(挌は律令の補充改正の規定、式は施行細則)、科挙制を強化します。土地制度は均田制、税制は租庸調制、軍制は府兵制と、北朝で登場した制度のオンパレードです。

 府兵制についておさらいしておきますと、これは壮丁(21~59歳の男子)の中から徴兵され、3年に1回、農閑期に訓練をうけて軍が出動する時に兵士としてかり出される制度です。

〇中国唯一の女性皇帝の業績
 太宗の跡を継いだのが、その息子である李治(高宗 位 649~683年)です。優柔不断な皇帝でしたが、国の仕組みがしっかりしていたので、日本と朝鮮の1王朝である百済(残存勢力)の連合軍を、白村江の戦い羅と共に撃ち破り、さらに高句麗を滅ぼすなど、自体は展します。ちなみに朝鮮では、羅が朝鮮統一をします。

 高宗が一躍有名になってしまったのが、武照という太宗の側室に惚れてしまい、太宗の死後に自分の側室にしてしまったことです。この武照こそ、中国史上唯一の女性皇帝、武則天(則天武后)です。則天武后という呼び名は、彼女が何度も改名させた自分の呼び名のうち、最後のものから取った言い方ですが、「后」という字から解るように、女性が皇帝になったのを認めたくない人々が付けた名前です。ですから、最近では武則天と呼ばれます。

 この武則天というのは有能で機転が利き、あの手この手で、なんと皇后の地位を得ます(当然前の皇后は廃された)。そして、高宗は政治についてほとんど武則天に頼りきりになります。
 
 高宗の皇后となった武則天は、それだけで終わるわけにはいきません。完全な実権を握るのが目標でした。
 ゆえに今までの伝統的貴族、すなわち建国の功臣や、有名な家柄出身の貴族から政治を奪います。罪をかぶせて殺してしまうのですね。また、密告も奨励します。このため、1000人ほどの貴族とその家族が殺されました。たとえば、先ほどにも登場した太宗の妻の兄・長孫無己は、武則天が皇后になるのを反対したために、流罪の上に謀反の罪を被されて殺されています。まあ、この場合は、どちらが高宗を操るか、ライバル関係にあったわけですが。
 
 高宗が死ぬと武則天は自分の息子、中宗を即位させ皇太后となります。しかし、この中宗の皇后である韋后は「私が皇后なのだから、武則天のように振る舞って良いはずだ」と、手始めに自分の父親を要職につけようとしたため武則天の逆鱗に触れます。武則天を差し置いて国家の人事権を行使するとは何事か!と、夫婦共々追放し、自分のもう1人の息子、睿宗を即位させます。しかし、地盤は固まった、もう面倒なことはしなくても良い、よし、自分で皇帝になろうと武則天は動き出します。

 これに対し、当然の事ながら武則天に対する反乱も起こります。しかし、各地の皇族と勲の子孫は、各個バラバラに挙兵(自分だけで武則天を倒せば皇帝や要職になりやすいですからね)。そのため、各個撃破されます。それだけなく、武則天は悪逆非道の政治を行っているわけではありません。民衆の側から見ると、むしろ自分の親父などの功績を盾にしている貴族連中に支持を与え、一緒に反乱に参加する必要がなかったのです。ゆえに、反乱はそれぞれ小さいものに留まりました。

 そして690年、彼女がおよそ63歳ぐらいの時に自分で即位。国号をとしました。
 彼女の一番の功績は、密告を奨励する一方で、自分の子飼いの優秀な部下を育てるため、官僚界にしい血を入れたことです。つまり、科挙を全国に広げて実施し、人材を広く集めました。集めるだけではありません、業績のある人はきちんと功績が認められるようになります。その結果、彼女の治世の間には、天災があったにもかかわらず農民による暴動はいちども起きていません。

 彼女のこの人材登用がなければ、は門閥貴族に固められ、政治が硬直化して、早く滅亡していたのではないかと思います。

 また、自分のオリジナル文字(約20種類)も作らせています。
 殆どは彼女が死んだのちに消されましたが、水戸黄門の本名・徳川光圀の「圀」というのは、彼女が作らせた文字です。

 さて、武則天は晩年なると、おべっかを使う、張易之・張昌宗)という2人の若い兄弟の寵臣とベッタリくっつくようになり、政治は乱れます。李一族だろうが、武一族だろうが、つまり武則天の親戚でも張兄弟には逆らうことが出来ず、諫言したところ、殺されている者もいます。

 そのうち、武則天が病床に伏せったこともあって、なんと80歳の宰・張柬之が立ち上がります。慎重に足を固めた上で、705年の正月、張兄弟を斬り、病床に伏せっている武則天を退位させ、(なんと、また皇太子にたてられていた)中宗が復位するのです。もちろん、国号をに戻します。そして武則天はその年のうちに死去しました。諸説ありますが83歳だったと言われています。

 これで血なまぐさい宮中の争いは終わり・・・になりません。
 中宗の皇后である韋后が「今度こそ、第2の武則天になってやる!」と、娘と共謀して夫の中宗を毒殺してしまうのです!

 が、これが命取りで、以前から対立していた睿宗の息子、李隆基(28歳)が兵士を率いて韋后らを殺害しました。そして李隆基が即位。第6代皇帝玄宗(位712~756年)です。彼は武則天の時に採用された有能な官僚に支えられ政治を行います。これを「開の治」と言います。

 なお余談ですが、この後即位する皇帝は、みんな武則天の子孫。
 武則天は死後も、が滅亡するまで影響を与え続けたと言うことになります。

〇様々な問題
 頑張って政治を始めた玄宗でしたが、問題は山積み。
 政府の力が弱まるのに伴い、効果的に辺民族の侵入してきます。そのため742年、を守るため、辺境10カ所に募兵軍団の司令官として節度使をおきます。が、軍事力を与えられた彼らは独自の軍事勢力として力をつけてしまい、中央政府の言うことを聞かなくなるようになりました。

 また、この頃、荘園の達で均田制が崩れ、これを基盤に徴兵されていた兵士が集めにくくなりました。そのため749年、府兵制を廃止し、募兵制を導入します。 これは、その名の通り兵士を募集することです。

 え、何故、均田制が崩壊したかですって?
 それは、人口の増加と共に、均田に当てる土地が不足し、一方貴族や高級官僚が権力に物を言わせて、永業田(子孫代々受け継がれる)、賜田(皇帝からもらった)という名目をつけて土地を独占するようになります。独占された土地は国に戻ってきません。均田は、国から農民に支給されるものですから、しく開墾しないと限りがあり、このような状況では、支給される土地が減っていき、足りるわけがないということですね。

〇タラス河畔の戦いと紙
 さて751年。
 この頃既に、衰退しつつあったでしたが、領土は拡大政策をとっていたため中央アジアのタラス河畔にて建国間もない、イスラム王朝・アッパース朝(750~1258年)と激突し、大敗するという事件が起きました。側の将軍は、名将軍である高仙芝という人物だったのですが、それでも勝てなかったんですね。

 この戦いで中央アジアがイスラム勢力圏として確固たるものになった他、最大の歴史への影響は、軍からの捕虜の中に紙すき職人がいたため、イスラム世界に製紙法が伝わったことです。800年頃にエジプトに伝わり、古代から使用されてきたパピルス(カヤツリグサ科の多年草パピルスの茎から作ったもの)に取って代わります。さらに、900年頃、当時イスラム系王朝の後ウマイヤ朝が支配していたスペインにも伝わり、さらに12世紀になってヨーロッパにも紙が作られるようになり、パピルスは姿を消しました。

 この戦いはの記録にはあまり残っていないことから、から見ると、ただ大敗した一戦にすぎませんが、中東からヨーロッパにかけては、非常に大きな歴史的影響のある戦いだったのです。

○安史の乱

 なかなか頑張って政治を行った玄宗でしたが、30年も皇帝やっていると疲れたようです。玄宗最大の失策は、息子・寿王の妃の一人を盲目的に愛し、政治をおろそかにしたこと。この愛された女性こそ、楊貴妃です。写真は、彼女の像。西安の華池と言うところにあって、玄宗皇帝や楊貴妃の使ったお風呂の跡です(撮影:七ノ瀬悠紀)。

 楊貴妃は、傾国の美女とか世界3大悪女の1人などと呼ばれ、有名ですね。結婚(?)当時、玄宗61歳、楊貴妃26歳と、随分危険なラヴロマンスなのは事実ですが、実際の所、楊貴妃は玄宗にただ愛されるだけの女性で、悪女と呼ばれるほど、別に悪くもありません。

 悪いのは玄宗で、彼女の機嫌を取ろうと役に立たない彼女の親類をどんどん取り立ててしまいます(本来は楊貴妃が、断るべきだったのかもしれないですけどね)。 さて、この話は少しおいておきます。

 そんなこんなやっている間に、3つの節度使を兼任し、力をつけた玄宗のお気に入りのソグド人安禄山(あんろくざん ?~757年)が、政敵で楊貴妃の一族である楊国忠(ようこくちゅう)が宰となったことを不服とし、755年に反乱をおこしたのです。彼は、15万の騎兵を率いてたちまち洛陽を落とし、翌年には大皇帝を自称します。

 当然、も防戦にでます。高仙芝が事実上の司令官だったのですが、可哀想に、軍人の監視役である監軍という地位にあった、辺令誠によって、”敵前逃亡”などと、あらぬ容疑を皇帝に上奏され、処刑されてしまったのです。何考えているんでしょうかね、この辺令誠とやらは。これは大失策で(であるから、のちに辺令誠も処刑)、他に戦争のエキスパートはおらず、安録山の軍勢が長安に迫ってきます。

 こうなるともう防戦は不可能です。玄宗は(四川)に逃れ、楊国忠は、「こんな事になったのは、宰のせいだ」と兵士達に殺害されます。そして楊貴妃も同罪とされ、兵士達に死を要求され、玄宗は仕方なくお気に入りの宦官・高力士に殺害させました。

 さて、長安を占領した安録山でしたが、不幸にも病を得て失明し凶暴化します。そのため息子の安慶緒に殺されますが、彼は皇帝の座についてすぐ、の反抗によって逃走し、反乱は配下の史思明(ししめい)が引き継ぎます。安禄山も史思明も、大したことのない人物でしたが、ウイグル族の力をかりてようやく鎮圧しました。また、史思明は息子の史朝義に殺され、そして彼は部下に殺されました。この一連の反乱が終結したのは763年。安史の乱と総称します。

 この乱を境として、力をもった節度使が各地に分立する状態となり、対外的な力をうしなったは、辺民族への支配もおよばなくなり、各民族は積極的に活動しはじめます。 また、節度使に民政部分まで権限を与え機嫌をとったつもりが、さらにの命令に従わないほど強大になります(これを、藩鎮といいます)。

〇失意のうちになくなった人達
 ところで、玄宗皇帝はどうなったのでしょうか。
 流石に責任をとらされたようで、玄宗は皇太子(粛宗)に位をゆずって上皇となり、757年に奪還された、長安へ帰還することが出来ました。しかし、粛宗と仲が悪くなって幽閉同然となり、お気に入りの宦官・高力士は追放させられ、失意のうちに病死したのでした。78歳でした。

 時を同じくして、失意のうちに病死した人物はもう2人います。
 1人は、なんと息子の粛宗。それからもう1人は、宦官の高力士です。

 粛宗の方を先に見ましょうか。彼は、皇帝として実権を握ると父親を幽閉するほど「俺に任せとけ!」と意気揚々としていたのですが、いざ仕事を始めて見ると、妻の張皇后と李輔国という宦官が権力争いをして思い道理になりません。実は、父親である玄宗と仲が悪くなったのは李輔国の策略だったりします。そんなわけで、すっかりやる気を無くして、玄宗が亡くなって13日後に、あとを追うようにして粛宗も亡くなってしまいました。

 もう1人の高力士。
 絶大な権力を得て、雑用係だった宦官の地位を向上させたためにに悪影響を与えた人物なのですが、この人物は玄宗にいつもベッタリ。ただし、頭も良かったようで、そこそこの分をわきまえ、悪逆非道なんて事はしませんでした。年齢が殆ど同じだったこともあり、お互いの信頼関係も厚かったようなのですが、それが災いして、玄宗皇帝が権力を失うと、彼は部下である宦官・李輔国に追放されてしまいました。

 それから2年が経過し、ようやく玄宗の下に復帰できることになり、意気揚々と長安に戻ろうとしたところで、玄宗が亡くなったことを知らされます。知らせを聞くと、もはや生きる気力を失ったのでしょう。中国のお馴染みの表現になりますが、血を吐いて亡くなったそうです。

 ちなみにこの頃、張皇后は息子の李豫(代宗)に李輔国ら宦官一派を誅殺するように命じたのですが、どうもこの家系の遺伝なのか、代宗も優柔不断で、ためらっていたところ、李輔国は先手を打って張皇后を殺害。その李輔国は、代宗が別の宦官である程振に誅殺を命じたことから、殺害されることになります。もっともこの程振は、李輔国に輪をかけて皇帝など何とも思っておらず、絶大な権力を握り、ますます代宗の力が弱まってしまいました。

 なんだか、みんな可哀想ですね。
 
〇一度は盛り返すも、滅亡の道へ
 安史の乱によって支配体制に大きな打撃をうけたは780年、宰の楊炎による提案で、両税法を採用します。これは、戦乱により均田制・租庸調制が崩壊たことによる逼迫(ひっぱく)した財政をたてなおしを狙ったもので、政府が必要な額を、財産に応じて、年2回に単純化して徴収する制度です。重要なのは税額が銭で示されていたことで、これによって貨幣経済が農村にまで浸透するようになりました。

 また、安史の乱の時より採用された塩の専売制が効果を上げ、憲宗(位 805~820年)の頃に財政は好転します(言い換えれば塩はそれほど生活に必需品と言うことです)。そして、憲宗は自分の直属軍である近兵団を率いて、命令に従わない藩鎮勢力の大部分を抑えます。
 ところが、彼は宦官に殺され、は宦官の専横(せんおう)を許します。さらに、科挙出身の勢力と貴族出身の勢力が派閥争いを繰り広げます(これを牛李の党争といいます。派閥のリーダーが、それぞれ牛僧孺、李徳祐という名前だったから)。また財政も再び悪化し、は庶民に重税をかけます。このため、875年に山東省で王仙芝が、そして翌年それに呼応して黄巣が反乱を起こします。2人とも塩の密売商人(塩族)で、多数の窮民がこの反乱に参加します。先に述べましたが、当時塩はが専売していて値段が高く、人々は困っていました。
 
 878年に王仙芝が戦死しますが、黄巣が跡を継いで、洛陽、長安を落としは再びに逃れます。
 そのため、異民族であるテュルク族出身の李克用(のち、後の太祖)に応援を求め、黄巣を自殺に追い込み、反乱を鎮圧しました。しかし、これではほぼ政権担当能力を失い、朱全忠(852~912年)という、黄巣の部下(黄巣を裏切り、節度使に任命されていた)が哀帝から帝位をを奪い、後を建国しました。907年のことです。

 安録山の乱生からから150年ぐらい経過しているわけで、そう考えると駄目だダメだとなりつつ、結構長持ちしたものです。

第10回 国際色豊かな唐の文化
第8回  中華再統一した隋