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第17回 最後の漢民族王朝・明の建国

第17回 最後の漢民族王朝・明の建国
○今回の年表
1449年 土木の変。モンゴルのオイラート部が侵入し、迎撃にでた英宗が捕まる。
1368年 朱璋、明を建国する。
1370年 ティムールが中央アジアにティムール帝国を建国。
1392年 李桂が李氏朝鮮を建国。
1392年 (日本) 足利義満の主導で、南北朝の朝廷が合一。
1402年 永楽帝が即位。
1405年 和の南海大遠征が始まる。 ティムール、中国攻略を目指す途中で死去。
1407年 永楽帝、ヴェトナムの朝大国を滅ぼす。モンゴルに向けて24年までに5回の遠征開始。
1413年 (トルコ) メフメト1世、オスマン帝国を再興。
1415年 (フランス) ジャンヌ・ダルク、オレルアンを解放。
1421年 永楽帝、北京に遷都。 24年に永楽帝死去。
○明王朝の
 さて、の後に登場したのが、民族による王朝の「明」(1368~1644年)です。も、この明も、国号を昔の国名(とか晉とかとか・・)からとっていません。そして、この後に続くも同様。そして現在は中華人民共和国となっていますね。

 それはさておき、この明王朝を建国したのが朱璋という人物です。貧しい農民の生まれで、前漢の劉邦と並び、農民から国を興した2人のうちの1人です。彼は、1347年に、郭子興の反乱軍に身を投じ、彼に気に入られて出世します。そして、郭子興が死去すると反乱軍の頭領となり、そして李善長、劉基という能力ある人を参謀に迎えます。

 李善長は朱璋に「劉邦と同じようにしなさい」と進言します。そして劉基は張良と同じような働き、つまり参謀として活躍をします(後世、張良との比較をよくされる)。こうした人々の助けもあり、朱璋は他の反乱軍を倒し、そしてその勢いでを滅ぼすに致るのです。

 1368年、朱璋は即位(位1368~98年)し、元号を「洪武」とします。それまで、元号はお目出度いときや災害が続いたときに変更されていましたが、朱璋は一世一の制を定めます。今の日本と同じで、皇帝1人の在位につき元号を1つだけにすることにしました。ゆえに、朱璋は太祖という廟号と別に洪武帝とも呼ばれます。 また、これ以後の皇帝はも含め元号+帝という形で呼ばれます。

 また、都を陵におくのですが、中国統一王朝としては、それまでにないことです。陵は中国南部、長江の南すなわち江南の都市です。建業とか建康などという名前で、や東晉など地方政権の都としてはよく使われていましたね。

 では、明の官制と政策を見ていきましょう。
 明の大きな特徴は、それまでの王朝で政治の最高機関だった中書省と、また丞の地位を廃止し、さらに人事や刑法などを担当する六部(総称としての名前)を皇帝に直属させます。これは、よりいっそうの皇帝中心(親政)体制を固めるためです。また、末に荒廃した農村の建て直しのため、村落行政組織を再編し、里甲制が実施されます。これは、100戸で1里を構し、さらに財力のある10戸を里長戸に、他の100戸を10甲にわけて、各甲に甲首戸をおいたものです。この里長戸の中から里長を、甲首戸の中から甲首をだして、10年任期で徴税や徭役の責任者にしました。また、租税や戸籍の台帳である賦役黄冊、土地の台帳魚鱗図冊を作します。
 
 次に、民衆の教化という点からは、南の朱熹が始めた儒学の一派朱子学を官学とし、また民衆には6箇条からなる教訓(六諭)を定めます。

 それから、対外的にはまだ強大なモンゴルの残存勢力に備え一族の諸王を配置します。また、海禁策を行い、中国人が海外に出ることを許しませんでした。そして、貿易は朝貢貿易という従来の体制に戻します。フビライの海洋国家構想はもろくも崩れ去ったと言えましょう。ちなみに、日本からは室町幕府将軍足利義満の使者が来て、日本国王に任命する、という形で貿易を行わせました。義満は、天皇がいるのに日本国王になってしまったのです。

 ところで来、朱璋は猜疑心の強い人物でした。彼は貧しい下層の出身だったため、知識人を憎んでいたとも言われています。また、明に対する反抗がないように恐怖政治を行ったとも考えられます。ともあれ1380年、丞兼中書省長官の胡惟庸(朱璋の最も古い友人でもある)を謀反の罪で処刑すると、1万8000人を処刑(この時に丞と中書省を廃止 この粛を胡獄という)。

 さらに10年後には功臣の李善長を含む3万人を処刑し、さらに2年後には2万人が処刑されます。ああ恐ろしい・・・。ちなみに張良と比較される劉基は、大粛が行われる前の1375年に死去していますが、胡惟庸によって毒殺されたとも言われています。彼は、朱璋が丞を選ぶために談を受けた時、「胡惟庸は丞の器ではない」と評価していました。ただし、だからといって自分がなろうとしたのではなく、あくまで正当に評価したものだったようです。ちなみに劉基は中国では大変有名な人物です。日本で知られていないだけ。

  朱璋は、次々と旧友を殺してゆく中で自分の息子達を王として各地に配置します。ところがその王達の権力が強大だったことが問題でした。当然、中央政府の言うことを聞きづらくなります。そのため、朱璋が死に、孫の建文帝が即位すると(位1398~1402年 なお、建文帝の父は既に死去)、叔父達の権力を削減することから始めました。ところが、これが彼の命取りになります。

○永楽帝の政治
 本人としても、本当は反乱する気はなかったみたいですが、建文帝によって追いつめられたようで。
 1399年、朱璋の4男の王朱棣(しゅてい)が挙兵します。スローガンは「幼い天子が、奸臣(悪い家臣)によって惑わされ、我々を迫害しているから、この奸臣を除いて、明を立て直そう!」というもの。おきまりの台詞ですね。

 当初、動員兵数が少なく不利かと思われた王側でしたが、朱璋は少しでも危険と思われる将軍を全て誅殺していたので、建文帝側には優秀な人材がいなく、一方、北方でモンゴルとよく戦っていた朱棣は実戦経験豊富なため、次第に建文帝を追いつめます。

 そして1402年に首都陵を陥落。建文帝は自殺して果てました。ちなみに当時から、建文帝は僧になって、逃げ延びたという話も残っています。いずれにせよ、王朱棣は明の3代皇帝として即位します。永楽帝です(位1402~24年)。

 当たり前ですが、永楽帝の行為は公然たる反乱でした。そのため、陵の人々は彼に反感を持っています。建文帝生存伝説はその中の1つです。さらに、知識人や政府の中にも彼に公然と反抗し処刑された人もいます。そのため、永楽帝は陵に居づらくなり遷都することにしました。遷都先は自分の根拠地であるの地です。そしての大都があったところに都を定め、ここを北京と改称します。また同時に、陵を南京と改称しました。

 また、朱璋は「宦官は国を滅亡させるから使ってはならない」と厳命していましたが、永楽帝の場合、陵の知識人・政府関係者に評判が悪く協力を得られない。そこで、必然的に宦官に頼っていくことになります。これが、明にとって命取りになります。

 さて、永楽帝は対外遠征を盛んに行います。彼はヴェトナムやモンゴルと多く戦いました。明ではモンゴル高原の東部にいる部族をタタール部、西部にいる部族をオイラート部と呼んでいます。これらが北元とどのような関係にあったかは諸説あります。タタール部=北元というのが有力ですが、そもそもオイラートとタタールは同一だったのではないかとも言われています。ともあれ、対外遠征は余り大きな効果を上げることなく、1424年、永楽帝はモンゴル遠征中に病死します。どうやら、王に任命されたときから、モンゴル侵攻が永楽帝のライフワークだったようです。

第18回 明時代の東シナ海
第16回 モンゴル・元代の文化