第23回 名君の時代1~康煕帝~
第23回 名君の時代1~康煕帝~
○今回の年表
1646年 鄭成功、江戸幕府に救援を求める。
1657年 (日本)明暦の大火。江戸の町の大部分が焼け、江戸城天守閣も焼失。
1660年 イングランドで王政復古。チャールズ2世が即位。
1661年 順治帝、死去。康煕帝が即位する。鄭成功、台湾を占領。
1667年 (フランス)ルイ14世が、オランダに侵入(南ネーデルランド継承戦争)
1673~81年 呉三桂らが清に対して反乱を起こす(三藩の乱)。
1683年 清が台湾の鄭政権を滅ぼす。
1683年 オスマン=トルコ帝国が第2次ウィーン包囲を実行。失敗に終わる。
1689年 清とロシアがネルチンスク条約を結ぶ。
1695年 紫禁城大和殿が完成。
1701~13年 スペイン継承戦争。イギリス・オランダ・ドイツVSフランス・スペイン。
1702年 (日本)赤穂浪士が吉良上野介邸に討ち入り。
1720年 チベットを制圧。これを保護下に置く。
○日本でも人気の鄭成功だが・・
順治帝が死去、もしくは隠棲した後、皇帝になったのが息子(三男)の康煕帝(聖祖、愛新覚羅玄燁=げんよう 1654~位1661~1722年)です。8歳で即位し、以後60年にわたって在位しました。もちろん、8歳ですから最初から政治を自分で行ったわけではありません。ソニン(素昵)、スクサハ(蘇克薩哈)、カピルイ(エビルンとも)、オーバイの4人が補佐します。
このうちオーバイとスクサハは仲が悪く、1667年にオーバイがスクサハを殺すという事件が発生します。そして、実質的にオーバイが権力を握ったのですが康煕帝もいつまでも子供ではありません。その2年後、康煕帝はオーバイを殺害させました。こうして、康煕帝の親政が始まります。
さて、清の中国征服に対して、当然抵抗する旧・明王朝の勢力は沢山存在しました。総称して「南明」と呼ばれますが、各勢力が明の皇族を擁して戦います。しかし、呉三桂などが率いた清王朝の軍勢の強さと、残存勢力の連携の悪さから、次々と撃破されていきました。
その残存勢力の中で、最も強く抵抗したのが鄭成功です。中国人で貿易商(海賊と紙一重)の父である鄭芝竜と、彼が貿易のために良く訪れていた日本の女性で、松浦藩足軽の娘・田川マツの間に出来た子で、幼名・日本名は福松といいます。福建省の福、マツの松を組み合わせた名前です。
彼は、7歳の時に父親に呼ばれ明へ渡ります。同時に、鄭森(ていしん)と名を改め、科挙合格を目指し、教育を受けるとずば抜けて成長。15歳で最高学府の南京大学に進んだ後、21歳の時に北京の国立大学「国子監(こうしかん)」に学び、有名な文人である銭謙益に師事しました。ところが、明は滅んでしまいます。
そこで、それに前後して父親が住んでいる福建省へ行き、南明勢力の1つである、唐という勢力の王・朱聿鍵(隆武帝・桂王)に抜擢されます。この時、明の王族の国姓である「朱」という姓を受け取るのですが、「私が朱という姓を名乗るのは恐れ多い」として、朱姓を使わず、一方、この時に鄭成功に改めました。このエピソードから、「国姓爺」として民衆に親しまれます。その後、これら勢力が清に降る中で、父親の鄭芝竜まで清に投降したのですが、鄭成功は引き続き厦門(アモイ)、金門島を根拠地に福建沿岸で強く抵抗。一時は、南京をも侵略する勢いでしたが、敗れて撤退。
また、1646年、鄭成功は日本にも援助を求めました。当時、日本は江戸幕府第3代将軍徳川家光の時代。家光はこの申し出に対し、受諾しようとしたのですが、朝鮮を侵略し、国力を疲弊させた豊臣秀吉の例もあったため、そして何よりなるべく外国とは関わらない「鎖国」体制でもあったため、申し出を拒絶しました。しかし、なおも鄭成功の戦いは続きます。
康煕帝が即位した1661年、清にいる父親からの降伏勧告に従わず、鄭成功はオランダが支配していた台湾へ侵攻。オランダ軍と戦い勝利し、プロビンシア城、ゼーランディア城を陥落させ、台湾を奪取するのです(この時、「この役立たず」と、清に父親は処刑されます)。鄭成功は「復明建台」、つまり明を復興し台湾を建国するのだ、とし、中国人で初めて台湾の経営に乗り出しますが(と言っても、本人は清と戦うことで頭が一杯で、実質的には部下が開発を行う)、その翌年に死去しました。
その後を継いだのが、息子の鄭経。台湾を拠点に、今までの人的ネットワークを生かし、東シナ海の覇権を握り、経済的にも自立し、なおも20年にわたり清と戦い続けます。しかし、後述する三藩の乱鎮圧後、清が中国全土を完全に支配下におくと、いよいよ清の方に軍配が上がり、台湾は清が占領。中国の王朝で初めて台湾を占領したことになります(もっとも、本格的には支配しなかったので、明治時代初めに日本との間に領有権の問題が起こります)。
なお、鄭成功は、明の悲劇の忠臣・英雄として、日本で近松門左衛門が「国姓爺合戦」と人形浄瑠璃化。大好評を博しています。
ただ、ここが評価の難しいところではありますが、台湾における鄭氏政権は、清と戦うことを優先しすぎたために、現地民にかなりの圧政を強いたようです。政権末期には清と戦うことを続行するグループと、台湾の経営を優先するグループに争いが発生し、さらに鄭経の後継者争いにも結びつきました。
さらに、中国から多くの困窮者が新天地を求めて台湾にやってきたため、現地民は少数民族化します。こういった問題は、ほぼ太平洋戦争後の蒋介石政権、さらに現在の台湾にも結びつきますね。
なお、中国では「祖国のために戦った英雄」「台湾をオランダから祖国のために取り戻した」として鄭成功は高く評価されています。ですが、当時の台湾にとってはオランダも、中国(漢民族)も外国勢力であったことを付け加えておきます。
○強力な三藩は頭痛の種
さて、清のために戦ってきた漢人の呉三桂、その他にも尚可喜、耿精忠(こうせいちゅう 耿仲明の孫)を清の政府は高く評価し、雲南、広東、福建の各地に封じて優遇しました。優遇したと言っても地図を見て解るとおり、北京から遠く離れています。つまり、優遇すると同時に力を恐れ、中央から遠ざけたのです。
しかし、かえって監視の目が行き届かなくなり、かつての唐末期にあった「藩鎮」のような存在となり、三藩と呼ばれるほど勢力が強大になってきました。と、丁度その頃、尚可喜は息子と喧嘩し、自分の故郷である北に帰りたい、と康煕帝に願いました。考えてみれば、全然生まれ故郷と違う場所に住まわせれていますね。
で、それに対し、康煕帝は彼らを取り除くことを決定します。「要求は認める、ただし、一族全員で帰るように」。
もちろん、反乱が起こります。73歳の呉三桂が中心です。
まだ鄭成功が清と戦っていた1673年、彼は反乱をおこし、つづいて福建の耿精忠、広東の尚之信(尚可喜の子)と次々に反乱をおこしました(これを三藩の乱といいます)。ただ、尚可喜は息子と仲が悪いので、呉三桂に協力しなかったのですが、自分の息子に幽閉されてしまいます。そしてそのまま死去。
反乱軍の方は、一時は揚子江流域まで支配したのですが、如何せん明を裏切った呉三桂。裏切るだけならまだしも、かつて、この地域にあった明の残党勢力を討伐し、ビルマまで逃げた皇族を残酷な方法で処刑したことがありました。今、「明を復興しよう!」とスローガンを掲げたのですが、虫が良すぎます。「今更何を」と笑い者で、全然協力を得られません。
結局、耿精忠が降伏し、尚之信も降伏し、呉三桂は自ら帝位に就いたものの死去。孫が引き継ぎますが、康熙帝は81年までに三藩を鎮圧。降伏した耿精忠も、尚之信も、結局は処刑されました。
これに勢いを得て、83年には台湾の鄭一族も倒します。ただ、「明に対して忠義である」として命は取らず、北京で優遇しました。三藩と違って人気がありますから、懐柔しておくにこしたことはないのです。
あっさりと倒したように、教科書ではさらりと書いてありますが、康煕帝は宮中の柱に「三藩」と彫ったと言われていることから、予想外に清が苦しんだことは間違いありません。
○ロシアとの関係
ちょっと鄭成功の話が長くなりましたね。では、引き続き康煕帝の時代を見ていきます。
鄭成功や三藩の反乱を鎮圧した康煕帝の目は、清の外に向かいます。当時、北西ではピョートル大帝率いるロシア帝国がシベリアを目指し、進出してきました。ロシアは、極東の海が欲しかったのです。当然、清との間で戦闘が起こります。なにしろ、シベリアのすぐ下は満州族の故郷です。引き下がるわけにはいきません。
康煕帝は清の力を見せると、清側代表のソンゴトとロシア側代表のゴロービンの間でネルチンスク条約を結ばせ、国境を確定。アムール川上流のアルグン川、シルカ川にそそぐゴルビツァ川と外興安嶺をむすぶ線を国境としました。この他に、不法越境者の処罰、旅券を所持した通商交易をみとめるなどの内容もあります。比較的清にとって有利なものだったとか。
そう言えば、ここで初めて「条約」という言葉が出てきましたね。もっとも、この概念は当時の清にはない物で、あくまで清がロシアが清に対して朝貢してきたと考えたようです。こういった発想は、後に清にとって命取りになるのですが、それはまた今度。
○モンゴル・チベットとの関係
康煕帝の時代の特徴は、外交問題が多発したことです。さらに、60年にわたる在位のため、必然的に書く量が多くなります。今度はモンゴル高原とチベットの話。
モンゴルではタタール(北元?)とオイラートといった部族、及びそれに派生する部族が、それぞれ大きくなったり小さくなったりしながら覇権を争っていたことは、明の時代にご説明しましたが、康煕帝の時代に勢力を拡大したのが、オイラート部の一派、ジュンガル部です。康煕帝以後も清と戦うことになりますので、その都度御紹介しますが、ここではガルダン・ハンという人物に率いられた時のお話。
ガルダン・ハンは、ジュンガル部首長の一族で、元々チベット仏教の僧侶でしたが、ジュンガル部の内紛を鎮めるために還俗し、そしてこれを統一。西はキルギス諸部やカザフ、南は東チャガタイ・ハン国の流れをくむカシュガル・ハーン国(ヤルカンド・ハーン国)を滅ぼし、勢力を大きくします。
ところが清と戦う羽目になったのは、1688年にモンゴル高原中央に進出し、ハルハ諸部と呼ばれるモンゴルの一部族を倒した時のこと。敗れたハルハ諸部は清に助けを求めます。康煕帝も、ロシア問題が片づいたところだったので、自ら出陣。
さらに、甥のツェワン・アラプタンがガルダンに反旗をひるがえし、まさに挟み撃ち状態に。1696年のジョーンモドの戦いで康熙帝ひきいる清軍に大敗したガルダン・ハンは、翌年、アルタイ山中で窮死しました。もっとも、ジュンガル部はツェワン・アラプタンと息子のガルダン・ツェリン(在位1727~45年)の時に最盛期を迎えますので、ジュンガル部の勢いはまだ続きます。
で、タイトルにもあるチベット。ちょっと・・ではいけないのですが、これ以上長くしたくないので、やはり「ちょっと」解説しておきます。
チベットは、元に支配された後、チベット仏教(ラマ教)が支配します。ガルダン・ハンがチベット仏教の僧だったように、さらに元のフビライ・ハンとの関係も厚かったように、モンゴルとの関係は極めて親密で、影響力も大きかったチベット仏教は、旧来の紅帽派に対して黄帽派をおこしたツォンカパの弟子、初代ダライ・ラマであるゲンドゥン・ドゥプパ(位1391~1471年)の勢力が拡大し、副法王のパンチェン・ラマをおいた制度へ。
そして、ダライ・ラマ5世(1617~1682年)の時に、チベット仏教はチベットを支配下に置きます。世界遺産であるポタラ宮は、この時造営されました。一方、このダライ・ラマ5世はガルダン・ハンに肩入れしたように、清と対立したため、以後も清、さらには中華人民共和国との抗争へつながり、1959年、中華人民共和国のチベット解放(侵攻)に伴い、現在チベット仏教はインドで活動を続けています。この辺、複雑で解りづらいので、今回はこの程度にして、またそのうち更新します。あ、ちなみに「ダライ」とはモンゴル語で「偉大な」「海」、ラマはラマ教のラマですが、サンスクリット語の「グル(師)」のチベット語だそうです。
なお、1720年。康煕帝が死ぬ2年前にチベットは清の保護下に置かれます。また、ウイグルなど西方にも領土を拡大。それから、第2代のホンタイジの時にモンゴルのチャハル部を平定したことは前述しましたが、この時に「元」のハンの玉璽も手に入れています。このことから、清は中華帝国、モンゴル(元)帝国、チベットすべての後継者であると称し、さらに中華人民共和国は、その清の後継者だから、その領土を引き継ぐのは当然である・・・そう考えているのです。
○康煕帝の内政
やっと内政を見ていきます。色々カットしてもこれだけ書くことがあるのです。
まず、康煕帝は水路の整備などの海運の強化、黄河の治水などを行わせ、経済を発展させます。さらに、従来の人頭税に代わって、丁銀の負担をすべて地銀のなかにくり入れ、銀で納入させる地丁銀という税制に次第に切り替えを始めます。長く実施された人頭税というのは、人の数に応じて課税しますが、その数をごまかしたり、役人が不正をして、税金をネコババするため、問題があったのです。
康煕帝は、文化事業に力をいれ、「康熙字典(漢字辞典)」「古今図書集成」などの大規模な編纂事業を実行させます。さらに清を訪問していたキリスト教カトリックの一派・イエズス会の宣教師、ブーベ、フェルビーストら宣教師らに「皇輿全覧図」などを制作させました。皇輿全覧図は現存しませんが、記録によると北京を中心に国内約650カ所の経緯度を測量させたそうで、当然、これほど大規模な測量は、当時、世界に例がありません。
そのキリスト教ですが、この時期に典礼問題という事件が起こります。
これは、中国のキリスト教布教を巡ってイエズス会とフランチェスコ修道会&ドミニコ修道会の間で論争が起こった問題で、後者はイエズス会が中国の思想である儒教思想、祖先崇拝といったことを認めているのに反対したのです。ローマ教会の方針は二転三転しますが、ともあれ康煕帝としては儒教思想の否定などとんでもない。イエズス会以外による布教を禁止しました。
康煕帝はまた、南書房とよばれる学問所をつくったり、画家、版画家、彫刻家などを宮中にあつめ、一種のアカデミーをつくって文化芸術の興隆をうながし、清朝文化の土台をきずいたのですが、これらの事業は科挙に落ちたものの、かなりの博学である人たちへの働き場所として大きく重宝されたのです。
そんな康煕帝ですが、後継者がなかなかすんなり決まりません。第2子を皇太子にたてながら非行が多いため、2度も廃立することになります。結局、臨終の床でようやく第4子を次の皇帝に指名しますが、これがきっかけで後継者の名前はギリギリ最後まで明かさず、専用の箱の中に、後継者の名を書いた紙を入れておく、「太子密鍵の法」が成立することになります。これって、最後の最後まで誰が後継者が解らないので、派閥も出来ませんし、後継者の候補者達は、良いところを皇帝に見せようと頑張ります。お陰で、比較的清は名君に恵まれることが多かったとか。あくまで、比較的、ですが。