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朝鮮半島の歴史
お隣の国、韓国、北朝鮮(朝鮮半島)の歴史について簡単に学んでみましょう。海を隔ててすぐ隣にある朝鮮半島。そこに住む人々はどんな歴史をたどってきたのでしょうか?時代の流れがわかるようになるべく順を追って読んでいってね。
日本と韓国の間には過去の不幸な歴史がある。たとえ観光旅行であっても訪問地に関する最小限の知識は身に付けておきたいものである。
-700000先史時代
-700000旧石器文化 [数十万年前](旧石器文化-朝鮮半島-朝鮮)--古朝鮮時代
-700000旧石器文化[約70万年前](旧石器文化-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-700000旧石器文化 約70万年前
旧石器人の登場
韓半島とその周辺には、約70万年前前から人類が定住し始めたとされています。
旧石器時代の人々は、初めは石をそのまま使用したが、徐々に用途に応じ様々な打製石器をつくった。
獣や魚を捕まえ、植物の実や根を採集し、季節により移動生活をしながら、洞窟や海岸に仮小屋を建てて暮らした。
民族はモンゴル人種に属し、アルタイ語族に属すると考えられる。(先史時代-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
打製石器
人類が石を材料に「加工、製造」した「道具」。打製石器は旧石器時代の指標となる。おおよそ礫石器→握斧→剥片石器→石刃へと段階的に進歩し、細石器を経て磨製石器(新石器時代)に移行する。
礫石器 → 握斧 → 剥片石器 → 石刃技法
-500000旧石器文化時代(約50~10万年前)
約50万年前 洞窟や岩陰、川端に集団で居住。狩猟と植物採取で生活。(旧石器文化-朝鮮半島-朝鮮)--古朝鮮時代
皆さんは、世界最古の土器がどこで発見されたか、知っていますか。
答えは、青森県の大平山元(おおだいらやまもと)遺跡から出土したもので、約1万6500年前の土器になります。
世界の他の地域を見ると、発見された一番古い土器が、およそ9千年前。
しかも、日本で発見される縄文時代の土器は、古さも、種類も、量も、他の地域とは群を抜いています。
日本の縄文時代が、世界最先端の高度な「土器文明」だったことは明らかです。
あるいは、日本で稲作が始まったのは?
答えは6000年前。
それでは、水田方式の稲作が始まったのは、答えは3000年前。
上記はプラントオパール分析法や放射性炭素年代測定法により、近年、「確定」した事実です。
ところが、我が国では、「日本の縄文時代は文化も文明もない野蛮な時代だった。
稲作は2300年前位に日本に来た渡来人が教えてくれた。
日本は中国や朝鮮半島の人々から文化を教わったのだ」といった「嘘」が国民に流布したままです。
理由は、歴史学者が「科学的に判明した事実」をスルーし続けているためです。
ついでに書いておくと、弥生時代に100万人の渡来人が日本にやってきた、という話自体が「嘘」です。
これも、科学的に証明されています。
弥生時代に日本に来た渡来人は、精々が年に「数家族」でした。
それにも関わらず、「日本の文化・文明は2300年前(紀元前300年頃]に中国や朝鮮半島から訪れた渡来人によりもたらされた」という「嘘」が常識化してしまっている。
上記の「嘘」が、「天皇は朝鮮半島からやってきた」なる奇天烈な説に繋がってしまい、皇室の価値を貶めるプロパガンダとして使われているのです。
経済(特に財政)に加え、歴史(特に古代史と近現代史)の言論に蔓延る「嘘」もまた、日本弱体化の一因なのでございます。
【三橋貴明】歴史に蔓延る嘘https://38news.jp/economy/13094
-8000新石器時代の始まり
新石器時代
この頃から新石器時代が始まり、磨製石器と釣り針、針などの骨器、そして櫛目文土器が広く使われた。  新石器時代の人々は竪穴式住居に住み、同じ血筋の氏族が集まり付属をつくり、定住、農耕生活を始めた。(新石器時代-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-8000-6000頃 新石器文化
新石器時代
この頃から新石器時代が始まり、磨製石器と釣り針、針などの骨器、そして櫛目文土器が広く使われた。 新石器時代の人々は竪穴式住居に住み、同じ血筋の氏族が集まり付属をつくり、定住、農耕生活を始めた。(新石器時代-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
日本の稲は中国から朝鮮半島を経由しないで伝わったことが判明
概要
まとめ
●稲の遺伝子の解析から、日本の稲は朝鮮半島を経由していないことが判明している。
●発掘の結果から、日本の稲作は陸稲で6700年前、水稲で3200年前までたどれるが、朝鮮半島の水稲は1500年前と考古学でも半島を経由していることはありえない。朝鮮の陸稲は不明。
●そもそも朝鮮半島は稲作に適していないし、主食にしたこともない。
経緯
長いこと日本の稲作は朝鮮半島を経由した、とされているが、これが稲の遺伝子解析から間違っていることがハッキリしています。
水稲(温帯ジャポニカ)の遺伝子を解析するとRM1にAからHの八種類の遺伝子がある。中国にはこの八種がすべてある。八種のうちBが最も多く、Aが次いで多い。朝鮮半島にはこのうち七種があり、そのうちBが無い。日本には八種のうちAとBとCがあり、そのうちBが一番多い。そしてAが次いで多い。つまり日本の稲が朝鮮半島を経由して伝わった可能性はゼロということになる。
https://nihonsinwa.com/page/655.html
-5000新石器時代早期-5000-4000
櫛目文土器が広がる-5000年頃
2010.09/26 [Sun]
優れた『日本文明』 新たなる発見が続々 【歴史問題】
 従来、日本の歴史学は歴史研究家・放送局・出版社を始めとする反日・左翼勢力によって、日本が中国や韓国の文化で栄えたなどの歴史捏造を行なってきた。ところが、近年の様々な発掘調査により、次々と異なる実態が明らかになりつつあります。

稲作は日本から朝鮮半島へ伝播した事が判明
稲作文化は弥生時代に大陸から朝鮮半島を経由して日本にもたらされたとの説が覆された。近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきたのだ。日本の稲作開始は縄文時代、陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。

これに対し朝鮮半島では水稲栽培は無去洞玉 遺跡の2500~2800年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。中国政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。韓国の学界は激しく反発しているが、もはや意地でも朝鮮半島から日本に米が伝わった事にしてしまいたいとの思惑にしか見えない。


韓国で日本式【前方後円墳】を大量に発見
明治時代、朝鮮半島北部で発見された【広開土王碑】。碑文には古代の日本を表す【倭】の文字が刻まれてあり、碑文の内容は『日本書紀』の記述を裏付けるものとなった。この発見以降、日本が朝鮮半島に渡り、南部の7国を平定した後に任那を従えて【任那日本府】を置いたとされ、日本が半島の一部を支配していたという歴史観が明治時代から60年間続いていた。 しかし、近年これら歴史的資料に加え、支那正史の『宋書』や朝鮮の史料である『三国史記』なども左翼学者によって無視され、「伽耶地方は小さな国に分かれていた」という簡素な表記に変わり、現在は日本が朝鮮半島を支配したという事実はない事になっています。

つまり、「朝鮮半島にいた倭人は支配層では無く、伽耶から鉄製品を貰う為の人間(傭兵・奴隷)だった」との珍説をもってすり替えたのだ。どうやらあくまでも倭国の支配が朝鮮半島に及んでいた事実を消してしまいたいらしい。

ところが、朝鮮半島のヨンサンガン下流で日本固有の形式である【前方後円墳】が13個発掘されるという、韓国にとってあってはならないはずの遺跡が出土した。韓国歴史学者は、この古墳群についてさえ百済高句麗を欺く為に倭人に命じて作らせたとの更なる暴論を展開しているが…。

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韓国の光州月桂洞古墳 1号墳

これらは驚くべきことに、日本の実質的国営放送でありながら反日捏造報道を繰り返すNHKが制作した『プロジェクトJAPAN ETV特集シリーズ第1回 古代の人々は海峡を越えた (日本と朝鮮半島2000年]』の放送内容である。反日国家並びに彼らに加担する反日勢力にとっての歴史とは、捏造された歴史に新発見をすり合わせる作業でしか無いようだ。


日本人の起源は大陸起源では無い
反日書籍の多い集英社の、岡村道雄監修、岩井渓漫画の『漫画版 日本の歴史 1』(集英社)巻末の「年表」には、30,000年以上前に、日本に来た最初の人を、「アジア大陸などから、人々がやってくる」と、書いている。

ところが中堀豊・徳島大医学部教授らの研究グループよれば、父系遺伝子であるY染色体の「ハプログループD1b(D2]」は世界で日本人にしか見られず、昔から日本にいた人たち特有のものと考えられている。日本本土で42~56%%見いだされ、アイヌ人88%、沖縄人56%で頻度が高い。中国・韓国人はほぼ0%、つまり他人である。

ハプログループDから突然変異したD1b(D2]は、世界的に見ても変わった遺伝子型である。大陸人や朝鮮人において一般的なY染色体はハプログループOで源流が明らかに異なり、孤立したD系統を持つ日本人の異質さが際立つ。


私の思い

どこかの国のように、何でもかんでも自国起源にしてしまったら、世界の笑いもの、嫌われ者になっていまいますが、これら科学的根拠を考察してみると「宇摩説」も含め、改めて検証してみる必要があるのではなかろうか?左翼・反日歴史研究家は絶対に認めないでしょうが…。

宇摩説では、最初に日本に渡来したのは、アフリカの海で漁労をした「アマ(海人)族」が、魚を追って次第に広がり、先端が日本に到着する。この分派が朝鮮や中国に進出したとの説である。その後、日本に来たのがヨーロッパ・ロシア経由のアイヌである。大勢の渡来は上記の二種で、10,000年以上の時を日本列島で過ごし、経験の集積によって、独自な「和」の日本文化(社会)を醸成したというものだ。これが、宇摩説の神話以前の基本的認識である。 

サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』では、世界をいくつかの文明として区分する。中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、西欧文明、ロシア正教会文明、ラテンアメリカ文明、そして存在すると考えた場合としてアフリカ文明をあげる。日本を古代文明の一つに挙げ、明らかに中国とは別の古代文明だとしています。

bunmei 文明分布地図(サミュエル・ハンチントン : 文明の衝突より)

これら「日本文明」における非常に重要な要素が、反日勢力などに皇室廃止などと揶揄される天皇家の存在である。古代から第125代にわたる世界最古の歴史を誇り、国家と国民の安寧と繁栄を祈りながら世襲により受け継がれ、エリザベス女王ですら上座を譲るその権威と歴史の重み。知らないのは恐らく日本人だけではなかろうか?
 
『日本人』とは、現在を生きる日本人だけを指すものては無い。過去、連綿として命を受け継いで来た先人を含めて指すものであるはず。偏狭なナショナリズムでは無く、日本に生まれた意味を自ら問い直そうとする時、自らの起源、つまり『正しい日本文明』を改めて知ろうとすることは当然であり、必要なのである。http://roboukoishi.blog36.fc2.com/blog-entry-41.html
-4000新石器時代(櫛目文土器時代/侯目文土器)-4000(もしくは-5000]-1000年
新石器時代前期-4000-3000
米はどこから伝わったのか?
2018年5月15日 i-blanc 日本の食 0
歴史の教科書(山川出版)には
「およそ2500年前と想定される縄文時代の終わり頃、朝鮮半島に近い九州北部で水田に夜米作りが開始された」
とある。
しかし、1989年、青森県八戸市の「風張遺跡」の住居跡からから7粒の米が発見され、これが約2800年前の縄文時代の後期から晩期にかけてのものであることが確認され、伝播の定説より500年も遡ることが明らかとなった。
ただ、水田、灌漑施設、農具などは発見されてない。これを遠くからの「贈り物」する考えもあるがこれは「運搬」という労力を知らない者の言い草で全くの誤りである。
この時代には道路も整備されてなく、運搬手段も未発達であった。南方から「米」をこの地に運搬できるはずもない。大変な労力まで使って運搬する可能性は低い。また「籾痕土器」にしても同じである。
また水田痕跡が見当たらないことを問題視する考えもあるが、陸稲栽培だったかもしれない。ところが、この地方から稲のプラントオパ-ル(稲の葉のある種の細胞に溜まったガラス成分〔珪酸体〕が地中から掘り出されたもの)が発見され、水田の畦なようなものが発見された。間違いなく「稲作」が行われていたのである。
1999年、今度は岡山県の「朝寝鼻遺跡」から稲のプラントオパ-ルが発見され、6400年前に「米」が存在したことが判明した。
これまでは朝鮮半島から朝鮮人(弥生人)が農耕技術を持って渡来して、日本に「稲作」を広めたと言われてきた。それが縄文人がすでに農耕技術を持っていたことが確実となった。
ただ、これが「朝鮮半島」経由であることは否定はされてなかった。
しかし、最近では「朝鮮半島渡来説」を唱える研究者は非常に少なくなっており、中国大陸から渡来したというのが<定説>となっている。
以下は「松尾孝嶺」の『栽培稲に関する種生態的研究』をそのまま掲載したい。
『農学、植物学、生態学の分野では米の伝来ルートについては支那南部から直接伝来したという説が定説だったが、考古学、歴史学の分野では朝鮮半島経由という考え方が有力だった。しかし、7,8年前からまず考古学の分野から変化が起き、次第に支那南部から直接伝来した説が有力になって、現在ではほぼすべての学界で定説になっている。また支那の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。
この流れが加速したのは主に2つの理由がある。
① 遺伝子工学の分野からの研究の成果、
② 支那政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査
だ。
この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった。
順を追って説明すると、米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。
このうち古代から現代に至るまで日本で発見された米の遺伝子は2つしかない。日本に存在する遺伝子をNO.1とNO.2とする。
NO.1とNO.2の遺伝子はそれぞれ温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカという品種の特有遺伝子だ。
次に稲作の発祥地である支那はもちろんNO.1からNO.7まですべて揃っている。
朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.1だけは存在しない。これは気温が低いと存在できない遺伝子のため支那北部より北では存在できないためだ。
往来が盛んになればなるほど、多くの種類の遺伝子を持つ米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかないのが確認されていて、これが稲作開始の初期から広く分布していることから、米の伝来はごく限られた回数で特定の地域から伝来したと考えられる。
近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。
これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。
〇 岡山市では、6000年前の稲のプラントオパールが出土し、形状のそろいから、栽培種と判断されている。
〇 滋賀県守山市の下之郷遺跡では、紀元前2世紀のモミ300粒が見つかり、DNA分析の結果、水田用温帯ジャポニカと、焼き畑用熱帯ジャポニカだったそうで、これは稲の適性を知った上で、収穫時期の調整や、冷害、干ばつなどに対応していたのでは?と・・・・
〇 奈良、平安の木簡には、稲の品種が十六種類、記されていた、木簡には、品種名のほか、作付時期と見られる日付や、稲を早稲(ワセ)、中稲(ナカテ)、晩稲(オクテ)に分け、季節に応じて栽培していた
-3000新石器時代中期-3000-2000
-3000このころ朝鮮半島櫛目文土器文化興る(-朝鮮半島-朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
-2333古朝鮮 紀元前?年 - 紀元前108年(-朝鮮半島-古朝鮮)-消滅した政権一覧-
-2333古朝鮮(檀君朝鮮箕子朝鮮衛氏朝鮮)紀元前?年 - 紀元前108年(-朝鮮半島-古朝鮮)-消滅した政権一覧-
-2333古朝鮮(檀君朝鮮)紀元前?年~-1122(-朝鮮半島-檀君朝鮮)-消滅した政権一覧-
-2333古朝鮮(こちょうせん)とは、一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の朝鮮をそう呼ぶことがあります。
まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。檀君という神話上の人物が平壌城で建国したとされ、この檀君が即位した年は、-2333年といわれていますが伝説の人物、国であるというとらえ方が一般的ですね。(-朝鮮半島-檀君朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-2333古朝鮮時代(BC2333-BC108)
古朝鮮(こちょうせん)とは、一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の朝鮮をそう呼ぶことがあります。
檀君朝鮮(BC2333年ごろ~)
伝説によると、神話の中の人物である檀君(タングン)がBC2333に韓国最初の王国である古朝鮮を建国したとされています。
まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。朝鮮民族の始祖とされる檀君という神話上の人物が阿斯達(アサダル、現在の平壌)を都として建国したとされている。
まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。檀君という神話上の人物が平壌城で建国したとされ、この檀君が即位した年は、-2333年といわれていますが伝説の人物、国であるというとらえ方が一般的ですね。
檀君(タングン)が阿斯達(アサダル・・現在の平壌)を首都とする国を興し、国の名称を朝鮮とする。この時代を檀君(タングン)朝鮮と呼び、1500年続く、神話・伝説の王朝である。
その後、檀君が1908歳のとき、国を箕子に譲り、自身は神になって、山に入って行った。(-朝鮮半島-檀君朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-2333'古朝鮮時代[-2333--108]
檀君朝鮮[-2333年ごろ~]
'
-2333檀君、阿斯達に都し、朝鮮王となるを定める(三国遺事)(-朝鮮半島-朝鮮、檀君朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-2333その1、歴史の始まり・・・檀君神話・古朝鮮古朝鮮を建国した檀君に関する記録は高麗(高句麗)時代の高僧・一然(イルヨン)の書いた「三国遺事」に詳しく書かれている。昔々、天の国に住んでいた桓因(ファニン)の息子の桓雄(ファヌン)は、天の下の人間の世を気にしていた、父が息子の気持ちを察して、下界をながめて見ると、人間の世を作っても良さそうな気がしたので、桓雄に天の息子の証”天賦印”を与えて下におりて治めることを許した。父の許可を得た桓雄は3000人の配下を連れて太白山(テベク山)の神壇樹に降りてきた、そこが神市である、と壇君神話は始まります。しかし、古朝鮮の第一代の王は桓雄ではなく壇君です。壇君はまだ生まれていません、どのようにして生まれてくるのでしょうか。桓雄が世を治めているとき、毎日人間になりたいと心からお祈りをしている虎と熊が同じ洞窟に住んでいました。毎日、お祈りをする虎と熊を見て、二匹の動物にひとにぎりのヨモギとにんにく20個を渡して、桓雄は「それを食べて100日間太陽の光を避ければ人間になれる」といいました。しかし、虎は我慢できずに飛び出してしまった。熊は言いつけを守りきれいな女性に変わりました。しかし、熊の祈りはそこで終わりませんでした。女になった熊は、毎日、神壇樹の下で、子どもを生めるようにして下さいと祈り続けました。そこで、桓雄は男に変身してその熊女(ウンニョ)と結婚し、子どもが生まれました。その子が檀君です。檀君は紀元前2333年に平壌(ピョンヤン)を都にして、国名を朝鮮と呼びました。日が昇るところ、という古代の朝鮮語で、アサダルの漢字表現です。古朝鮮という名称は李成桂[イ・ソンゲ、太祖(テジョ)李氏朝鮮(りしちょうせん1392年-1910年]の始祖]が朝鮮王朝を建てたため、後に二つを区別するために檀君の朝鮮を古朝鮮と呼ぶようになりました。古朝鮮の開国が紀元前2333年というのは重要です。それは韓国の年号である檀紀をかぞえるとき用いる年度であり、今年[2006年]は檀紀4338年記なります。韓国の歴史が始まって今年で4338年目になったという意味。しかし、檀君は単に人の名前ではないという事実も注目に値します。個人を指す固有名詞ではなく、普通名詞です。祭政一致社会、シャーマンの王として政治権力と宗教の権力とを同時に持っていた意味をもつ一般名詞です。古朝鮮は政治と宗教が一致していた社会であったことが分かります。檀君はその後、1500年間、朝鮮を治めて、アサダルの山に入り、山の神になったといわれます。そのとき1908歳だったそうです。とここまでが、「三国遺事」の記録です。神話が事実か否かはそれほど重要ではありません。神話が存在する理由は、その民族の象徴であり、意味であるからです。『檀君神話』は、天の神の息子がこの地に降臨してきて、宇宙の木である神壇樹の前でこの世を創り、人々と共に生活する話です。そのハイライトは結婚式です。天があり、地があり、植物を代表する宇宙の木があり、動物を代表する熊がいる。その間に人がいる。全ての宇宙が集まって宴会をするのが、結婚式。この結婚から檀君が生まれる。現代を生きるわれわれがそのような全宇宙の美しい祝福を受けて生まれてきたということを伝えている話です。檀紀(檀君紀元)とは、「三国遺事」で伝えられる檀君(タングン)の朝鮮建国を称える年号のこと。「三国遺事」以下、各種史料では建国年次が一定していなかったが、1485撰述の「東国通鑑」が「唐堯の即位25年・戊辰」と特定して以来、紀元前2333年建国という認識が定着するようになった。檀紀は、日本からの独立を果たした大韓民国で公用紀元として採用された年号で、檀君(タングン)の朝鮮建国と伝えられる前2333年を元年とし、陰暦10月3日を開天節と定めている。1961年まで用いられたが、1962年の憲法改正(第三共和制)の際に、西暦に改められた。(-朝鮮半島-朝鮮、檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-2333『朝鮮』名の由来です。『朝』とは、時の「朝廷」…中国「周」や「秦」「漢」「後漢」などから「清」国までの歴代中国史。『鮮』とは、「物請う、物乞う」つまり、朝廷に物乞う人々の国です。歴代中国側は、日本国側も貢物を差し出せばその地の統治者として認めるような外交をするも、日本があまりにも離れ地(難海を隔てた場所)の為に関与ができなく、属国化できなかった。しかし、朝鮮半島は、まさしく「物乞う」国として属国できたので『朝鮮』名を命名したのです。それが現在も続いている名称です。「朝鮮」の朝は、宗主国に献上する貢物を表します。そして「朝鮮」の鮮は、少ないという意味があります。中国には朝鮮半島の傀儡王朝から、財宝、作物、奴隷が献上されたという記録が残っています。国の名前を中国に決めてもらうとき、朝鮮のほうからも「朝鮮」を含むいくつかの名前を候補にお伺いを立てているわけです。朝鮮側は当然「朝のあざやかな国」、のつもりでその名前を考えたわけですが、中国側はリストにある「朝鮮」の文字を見て「貢物の少ない国」となった様です。(-朝鮮半島-朝鮮、檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-2333壇君王倹,阿斯達に都を開く.古朝鮮建国檀君朝鮮(檀君神話)(三国遺事)
古朝鮮時代
朝鮮半島の歴史は、-2333年の檀君(だんくん・タングン)による建国神話からはじまり、一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の、檀君朝鮮からはじまって、次の箕子(きし・キジャ)朝鮮を経て、衛氏(えいし・ウィシ)朝鮮までの三王朝を、古朝鮮時代と呼び、-108年、漢の武帝に征服される。檀君と箕子は、神であり人間である神話・伝説の世界の歴史である。支配地域は大同江から北西の地域。
檀君朝鮮
まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。朝鮮民族の始祖とされる檀君という神話上の人物が-2333年に阿斯達(アサダル、現在の平壌)を都とし朝鮮最初の王国を建国したとされている。国の名称を朝鮮とし、この時代を檀君朝鮮と呼び、1500年続く、神話・伝説の王朝である。その後、いくつかの部族が満州南部地域から朝鮮半島に移動し、檀君が1908歳のとき、国を箕子に譲り、自身は神になって、山に入って行った。(檀君朝鮮-朝鮮半島-朝鮮、檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-2333前108年、漢の武帝に征服される以前の朝鮮およびその時代。
檀君〔たんぐん〕が紀元前2333年に阿斯達(アサダル、現在の平壌)を都として建国したとされている。
檀君(だんくん)・箕子(きし)・衛氏(えいし)などの王朝の支配下にあった。支配地域は大同江から北西の地域。[-2333--108](-朝鮮半島-朝鮮、檀君朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-2333 朝鮮半島の歴史は、BC2333年の檀君(タングン)による建国神話からはじまる。この、檀君(タングン)朝鮮からはじまって、次の箕子(キジャ)朝鮮を経て、衛氏(ウィシ)朝鮮までの三王朝を、古朝鮮時代と呼ぶ。
檀君(タングン)と箕子(キジャ)は、神であり人間である神話・伝説の世界の歴史である。
*BC2333年 檀君(タングン)( )が阿斯達(アサダル・・現在の平壌)を首都とする国を興し、国の名称を朝鮮( )とする。この時代を檀君(タングン)( )朝鮮と呼び、1500年続く、神話・伝説の王朝である。
その後、檀君が1908歳のとき、国を箕子に譲り、自身は神になって、山に入って行った。(-朝鮮半島-朝鮮、檀君朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
 朝鮮半島の歴史は、BC2333年の檀君(タングン)による建国神話からはじまる。この、檀君(タングン)朝鮮からはじまって、次の箕子(キジャ)朝鮮を経て、衛氏(ウィシ)朝鮮までの三王朝を、古朝鮮時代と呼ぶ。

檀君(タングン)と箕子(キジャ)は、神であり人間である神話・伝説の世界の歴史である。

 その後、いくつかの部族が満州南部地域から韓半島に移動してきました。
-2000新石器時代晩期-2000-1000
-2000朝鮮あわ、きび、ひえなどを栽培。(縄文時代-朝鮮半島-朝鮮)--古朝鮮時代
-2000鉢・皿・土瓶など土器の形が多様化(新石器時代晩期-朝鮮半島-朝鮮、檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-1500-1500年ごろ、中国より農耕伝わる。(-朝鮮半島-朝鮮、檀君朝鮮、殷(商))--古朝鮮時代
-1300-1300年頃 無文土器が作られる。(-朝鮮半島-朝鮮、檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-1122中国の殷(いん)の賢人、箕子が、檀君の王位を継ぎ、箕子朝鮮を建国する。首都は平壌である。
箕子朝鮮は、BC194年まで、40世あまり続くことになるが、檀君朝鮮同様、神話・伝説の時代である。(-朝鮮半島-朝鮮、檀君朝鮮箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-1122古朝鮮(箕子朝鮮)-1122~-194(-朝鮮半島-箕子朝鮮)-消滅した政権一覧-
-1122次に登場するのが箕子(きし)朝鮮。この王朝に関しても、まだ実在の確認はされていませんが「史記」や「漢書」によれば、中国の殷の移民が建国したということになっています。(?~紀元前194年)(衛氏朝鮮-朝鮮半島-箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-1122箕子朝鮮[-1122-194]
中国の殷(いん)の賢人、箕子が、箕子朝鮮を建国する。
箕子朝鮮(?~-194]
中国の殷(いん)の賢人、箕子(キジャ)が、檀君の王位を継ぎ、箕子(キジャ)朝鮮を建国する。首都は平壌である。箕子朝鮮は、-194年まで、40世あまり続くことになるが、檀君朝鮮同様、神話・伝説の時代である。
-4世紀
満州遼寧を中心に、満州と朝鮮半島をつなぐ広い地域を統治する国家に発展した。
 鉄器が普及し始めた。?~-194年に登場するのが箕子(きし)朝鮮。この王朝に関しても、まだ実在の確認はされていませんが「史記」や「漢書」によれば、殷の箕子が建国したということになっています。(-朝鮮半島-箕氏朝鮮檀君朝鮮)--古朝鮮時代
箕子(?~?)
 殷の帝太丁の子。紂王の叔父にあたる。殷の大師となった。箕に封じられた。紂王の勘気を逃れるため、佯狂したが、投獄された。のちに周の武王に仕えて、政務の相談役となった。また朝鮮に封じられたといわれる。
燕(えん)[前11世紀~前222] 始祖は周の武王の弟、召公セキ。今の河北・東北南部・朝鮮北部を領す。都は薊(けい)(現、北京)。前222年43世で秦の始皇帝に滅ぼされた。
-1070箕子朝鮮の誕生(伝説)(箕子朝鮮-朝鮮半島-朝鮮、箕子朝鮮)--古朝鮮時代時代
-1000無文土器時代[-1000年頃-100年]
無文土器時代前期[-1000-700]
-1000-10世紀頃 朝鮮半島ではこの頃、青銅器時代が始まり、支配階級の武器や装飾品として用いられた。
アワ、ムギ、ダイズ、イネが栽培された。
青銅器の武器を使用し他の部族を制服するなど勢力を拡張していった。
一部の地域で稲作。? 竪穴式住居。
青銅器文化の展開・古朝鮮の発展
青銅器文化が始まる。-1000年頃
水稲栽培始まる。-10~8世紀頃(-朝鮮半島-朝鮮、箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-1000-1000頃青銅器文化の展開(青銅器文化-朝鮮半島-朝鮮、箕子朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-1000-1000頃古朝鮮の発展(-朝鮮半島-朝鮮、箕子朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-1000このころ朝鮮半島の無文土器文化始まる(-朝鮮半島-箕子朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
-800-800年頃 古朝鮮の実在節有り(-朝鮮半島-箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-700無文土器時代中期[-700-300]
-700-700年ごろ、青銅器伝わる。
水稲栽培はじまる(-朝鮮半島-箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-400-400年頃 鉄器文化が普及する。(鉄器文化-朝鮮半島-箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-400箕子朝鮮[-4世紀~-194年)(箕子朝鮮-朝鮮半島-箕子朝鮮檀君朝鮮)--古朝鮮時代
-300無文土器時代後期[-300-100](初期鉄器時代)
-300-300年ごろ、鉄器伝わる。
鉄器文化の普及.農業発達(-朝鮮半島-箕子朝鮮)--古朝鮮時代
-300-300頃鉄器文化の普及(-朝鮮半島-箕子朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
徐福(?~?)
徐市ともいう、字は君房。斉の人。方士。不死の薬を求める始皇帝の命により、東方海上にあるという蓬莱山を求めて船団を出立させた。莫大な財宝と少年少女数千人を載せた船団の行き着いた先は定かでない。日本の和歌山県新宮市には徐福の墓とされるものが残る。朝鮮半島・米大陸渡来説も存在する。
-230この時点で国民党軍は大陸で共産党軍との内戦のさなかにあった。しかし、経済管理と住民統治の能力を欠き、軍律に薄く、腐敗においてすさまじい国民党政権に対するアメリカの不信は根強いものであった。実際、台湾に敗走した国民党軍を追う共産党軍の「台湾侵攻」を目前に、トルーマン大統領は「台湾海峡不介入宣言」を公にしたのである。この絶体絶命の危機を救ったのが、1950年6月に勃発した朝鮮戦争であった。東アジア共産化の現実的脅威に直面したアメリカは「台湾海峡不介入宣言」をひるがえして「台湾海峡中立化政策」に転じ、第7艦隊を台湾海峡に派遣して国民党政権の台湾支配の起点を守った。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)--
-222衛氏朝鮮
(えいしちょうせん)
 史記によれば、朝鮮は戦国時代に戦国七雄一つ燕が、遼寧に長城を築き、朝鮮に攻め寄せて、「朝鮮」と「真番」が服属したという。燕が秦に滅ぼされ、漢が中国を統一すると漢が朝鮮を支配した。漢の高祖(劉邦)は仲のよかった盧綰(ろわん)を燕王に封じるが、その後対立して盧綰は匈奴に亡命する。(衛氏朝鮮-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
漢(かん)
中国古代の統一王朝、前漢 [前 202~後8] および後漢 [25~220] をいう。高祖1 [前 206] 年に秦が滅亡すると、項羽が西楚覇王と称したが、現在の陝西省南部に漢王として封じられた劉邦 (→高祖) が、高祖5 [前 202] 年項羽を破って帝位につき、都を長安に定めて漢王朝を創始。漢は初め郡国制をしいたが、前漢の武帝 (在位前 141~87] の時代には中央集権制を確立。匈奴を討って西域と通じ、朝鮮、ベトナムに遠征して領土を拡大した。しかし帝の死後外戚など側近が権勢を張り、初始1 [8] 年には外戚王氏出身の王莽が帝位を奪って新を建てた。したがって新以前を前漢と呼ぶ。新は長く続かず、更始3 [25] 年には漢の一族劉秀 (→光武帝 ) が諸賊を破って帝位につき、都を洛陽に定め漢を復興した。以後を後漢と呼ぶ。4代の和帝の頃から再び外戚、宦官が権力を握り帝位を左右したため、一般官僚との間に激しい争いを展開した。中平1 [184] 年農民による黄巾の乱が起こると各地に群雄が割拠、やがて曹操、劉備、孫権がそれぞれ華北、蜀、呉の3地に分立し、延康1 [220] 年献帝は曹操の子曹丕 (そうひ。→文帝) に譲位して、漢は滅亡した。なお都の位置により前漢を西漢、後漢を東漢とも呼ぶ。
-202漢(前漢・西漢)[前202~8]
前漢(西漢)。前202年項羽を倒した劉邦(高祖)は天下を統一、長安に都して官制・法律のほとんどを秦制にならい、いわゆる郡国制を行って地方を治めた。高祖没後、妻の呂后(りょこう)一族の専権をみたが、文帝は内治に努めた。前154年の呉楚七国の乱を経て、7代武帝は財政強化を図り、儒教を国教として思想的統一を行い、北辺の匈奴(きょうど)を討ち、朝鮮には楽浪郡など4郡を設置、また西域に進出するなど内外に意を用いて中央集権的専制支配を完成。15代にして後8年王莽(おうもう)に簒奪(さんだつ)される。
(-朝鮮半島-漢(前漢・西漢)、朝鮮)-中国史人物事典⇒歴代皇帝-
-195衛氏朝鮮[-195ごろ~-108](衛氏朝鮮-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195古朝鮮(衛氏朝鮮)-195ごろ~-108(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)-消滅した政権一覧-
衛満(えいまん) []
朝鮮王。中国、燕(えん)の人。前190年ごろ箕子(きし)朝鮮の王箕準(きじゅん)を追い払い、衛氏朝鮮を興した。生没年未詳。
中国の燕から亡命してきた衛満によって、箕子子孫から王権を奪い、衛氏朝鮮を建国し、首都を平壌におく。歴史的に検証可能な最初の国家であると、されている。
【古朝鮮】より
…漢の武帝によって楽浪ほか3郡が設立される以前の朝鮮古代の総称。通常は《史記》《漢書》所見の箕子(きし)朝鮮と衛氏朝鮮の2王朝をいうが、《三国遺事》の伝える檀君朝鮮(檀君)を上述の2王朝に先行させて、三つを古朝鮮という場合もある。《三国遺事》の伝えるところによると紀元前約2000年以前に檀君王倹が都を阿斯達に定め、朝鮮を建国したことになっている。…
衛氏朝鮮
えいしちょうせん
紀元前2世紀、西北朝鮮に燕(えん)の亡命者衛満(えいまん)が建国した王朝。
衛氏朝鮮
えいしちょうせん
古朝鮮の王朝の一。紀元前二世紀初め、燕えんの亡命者衛満箕子朝鮮(きし)を滅ぼして建国。都は王険城(現在の平壌)。
衛氏朝鮮
えいしちょうせん
朝鮮古代の王朝名。いわゆる古朝鮮の一つ。。その前の伝承的存在の檀君朝鮮、前12世紀の殷(いん)人箕子に始まるとされる箕子 (きし) 朝鮮 (→箕子東来説 ) と合せ、古朝鮮という名称で一括される。
衛氏朝鮮''
燕人の国
伝説の箕子朝鮮が実在していたかどうかは、はっきりわからない。衛氏朝鮮に関する史料はきわめて少く詳細は不明であるが、中国人を首長とし、その下に在地土着の韓族連盟をなしていたものと解釈されている。
また、中国を統一した「秦」は、BC214年に朝鮮に迫り、「朝鮮」はあらためて秦に服属した。
 秦が滅び、漢が成立するまでの間、激しい動乱により「燕」「斉」「趙」などから多数の中国人が朝鮮の方へ逃げてきた。
司馬遷の「史記」によれば、漢が中国を統一すると、廬綰(ろかん)を燕王とした。BC195年に燕国が漢と対立して滅亡すると、廬綰は匈奴へ亡命した。このとき、満は一千余人を率いて朝鮮に亡命して、朝鮮の実権を奪い、朝鮮半島南部の「真番」や朝鮮半島東岸の「臨屯」も支配下におさめた。これが、衛氏朝鮮である。
『史記』によれば前漢の高祖 12 年前195年に、燕王盧綰(ろわん)が漢に背反したとき、その部将の衛満が部下1000余人をひきいて 水(ばいすい)現在の鴨緑江または大同江) を渡り、(位置に諸説あり)を渡り北朝鮮の地に亡命した。
そして、その家臣衛満は千人余りを従えて朝鮮に入り、王険城(平壌)を首都として衛氏朝鮮を建国した。 BC195年頃のことである。
前2世紀初め、燕(えん)から亡命した衛満が建国。
前108年、衛満の孫、右渠(うきょ)の代に漢の武帝に攻められて滅亡。
満は当初、箕子朝鮮(きし)最後の王、箕準に仕えていたが、漢の恵帝のとき、準を滅ぼして王となり、王険城(平壌(ピョンヤン))に都した。
やがて漢の外臣となった満は、近隣諸部族を服属させ、その領域は方数千里と伝えられている。
孫の右渠(うきょ)のときには、漢に対しても強硬な姿勢をとったため、前109年、武帝は大軍を遣わして王険城を包囲し、翌年これを滅ぼした。
始祖の衛満をはじめ、支配者層に移住中国人が多いことから、一般に植民地的政権とみなされやすいが、自立的な土着豪族勢力の存在は軽視できず、むしろ両者の妥協のうえに成立した連合的政権と考えられる。また衛満は朝鮮人系の燕在住者であったとする説もある。
前12世紀の殷(いん)人箕子に始まるとされる箕子朝鮮とあわせて古朝鮮と呼称されることがあり、さらにそれ以前の檀君(だんくん)神話の檀君朝鮮を加えることもある。
朝鮮半島北西部は古来から中国との交流がおこなわれ、政治、経済、文化の諸般に深い影響を受けていたようである。
そして、いよいよ実在が確認されている衛氏(えいし)朝鮮が登場します。(紀元前195年ごろ~紀元前108年)
箕子(きし)朝鮮国最後の国王、箕準(淮とも記す)に信頼され官職を授けられ封地も賜ったという。
中国から亡命した衛満が箕子(きし)朝鮮の国を奪い、前190年ころ王倹城(今の平壌付近)を都として建国。約80年間朝鮮北部を支配したが、
衛氏朝鮮は独立国家として振舞うが、BC108年に漢の武帝に滅ぼされ、漢の直轄地となった。
『魏略 (ぎりゃく) 』によると彼はその地の国王で箕子朝鮮国最後の王、箕準の信頼を得て逐次昇進し、やがて箕準を追放して王となり王険城 (現在の平壌といわれる) を首都とし、近隣諸国を討ち真番、臨屯郡方面も服属するにいたった。
-195後漢末期になると、遼東半島で台頭した公孫氏が楽浪郡を支配し、その南に帯方郡を設置した。(衛氏朝鮮-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195-195年ごろ~-108年そして、いよいよ実在が確認されている衛氏(えいし)朝鮮が登場します。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195衛氏朝鮮は、中国の燕から亡命した、衛満(えいまん)によって建国されました。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195そして、その家臣衛満は千人余りを従えて朝鮮に入り、王険城(平壌)を首都として衛氏朝鮮を建国した。-195年頃のことである。衛満古朝鮮の王になる。王都は王険城。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195衛満衛氏朝鮮を建国。(-朝鮮半島-、朝鮮)--
-194中国の燕から亡命してきた衛満によって、衛氏朝鮮建国。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194衛満、古朝鮮の王となる(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-194衛満の執権
 西方地地方で勢力を養った衞満が準王を追い出し古朝鮮の王となった。[-194年)
 この時期鉄器文化が広がり、また、韓半島南部地方の辰の諸国は漢との中継貿易で強国となった。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194中国の燕から亡命してきた衛満によって、箕子子孫から王権を奪い、衛氏朝鮮を建国し、首都を平壌におく。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194歴史的に検証可能な最初の国家であると、されている。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194衛満,王倹城に攻め入り,準王を追放して古朝鮮の王となる
衛満の執権
西方地地方で勢力を養った衞満が準王を追い出し古朝鮮の王となった。[-194年)
この時期鉄器文化が広がり、また、韓半島南部地方の辰の諸国は漢との中継貿易で強国となった。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
劉徹[前159~前87]
字は通。前漢の七代武帝。廟号は世宗。在位前141~前87。景帝(劉啓)の子。母は王夫人。はじめ膠東王に封ぜられた。景帝後元三年[前141]、十六歳で即位した。当初は祖母の竇太皇太后に実権を握られた。自ら信任した儒者を太皇太后の怒りを買ったため退けたりした。祖母が崩ずると、次は王皇太后とその外戚の王氏・田氏が朝政を専断した。王皇太后が崩じると親政を開始した。対外政策では、従来の消極策を捨て、衛青や霍去病を登用して、匈奴を討たせ、北方に追いやった。東に楽浪郡ほか朝鮮四郡を置き、西に張騫を送って西域との交流を開いた。汗血馬を求めて、フェルガナ遠征まで行っている。内政面では、桑弘羊・東方朔らを登用し、諸侯の力を削ぎ、郷挙里選の法を立て、塩や鉄を専売にし、均輸法・平準法を公布して物価を統制しようとした。しかし、相次ぐ外征のため、文帝・景帝時代の莫大な蓄積を食いつぶし、さらに財政を破綻させ、多くの新税を導入して、農民を窮乏化させた。晩年、武帝のもとで辣腕を振るった江充が、皇太子(劉拠)と対立し、武帝死後のことを恐れて、巫蠱事件をでっち上げて皇太子を冤罪に落とそうとした。皇太子は江充を討とうとして謀反の罪を着せられ、長安市街での戦いに敗れ、自殺した(巫蠱の乱)。翌年、無実が判明。武帝は皇太子を悼んで思子宮を造営した。末子の弗陵(昭帝)を後継者に定め、霍光・金日テイ※1・上官桀の三人に後事を託して崩じた。
-128BC128年に、衛氏朝鮮に反対する?(かい)君南閭たちが28万人を率いて遼東郡に降った。漢の武帝は、「蒼海(そうかい)郡」(注:朝鮮半島の東岸か?)を置いてこの地方を支配しようとしたが、失敗に終わったという。(古朝鮮滅亡-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
前108年前漢の武帝に滅ぼされた。
ところがその孫、衛右渠 (えいゆうきょ) のとき漢に反抗したので漢の武帝は元封2 (前 109) 年大軍を派遣して討伐し、翌年右渠は暗殺されて衛氏朝鮮国は3代 80年余で滅亡した。
-109漢の武帝はBC109年に衛氏朝鮮を攻めたが、朝鮮王右渠(うきょ)は5万の大軍を迎え撃ってこれを破り、7千人の海軍も撃破した。漢の武帝は和戦両様の策をとったので、朝鮮の大臣や将軍があいついで漢に降り、(古朝鮮滅亡-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108朝鮮を平定し、楽浪など四郡を置く(-朝鮮半島-シナ大陸、朝鮮)--
そこには楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が設置された。その後、真番・臨屯が楽浪郡に併合され、玄菟郡も遼東半島に移転した。
漢の武帝の朝鮮遠征(紀元前108年)で滅びた。衛満朝鮮。
その後、漢は古朝鮮の地に楽浪郡ほか3郡をおいて直接支配下に入れた。
-108もともと、朝鮮半島は、中国の燕の支配下にあったものだが、その後、衛氏朝鮮が独立国家としての振る舞いを強め、漢の意のままにならないことが、武帝の逆鱗にふれ、-108年、遠征により滅ぼされることになった。衛氏朝鮮は、約90年続いたことになる。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108-108年古朝鮮(衛満朝鮮・衛氏朝鮮)の滅亡。しかし、衛氏朝鮮は独立国家として振舞うが、前漢の武帝(ぶてい)によって滅ぼされ、(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108-108年頃、前漢衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など四郡を設置。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108もともと、朝鮮半島は、中国の燕の支配下にあったものだが、その後、衛氏朝鮮が独立国家としての振る舞いを強め、漢の意のままにならないことが、武帝の逆鱗にふれ、-108年、遠征により滅ぼされることになった。
衛氏朝鮮は、約90年続いたことになる。(衛氏朝鮮-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108衛氏朝鮮は、中国の燕の出身、衛満(えいまん)によって建国されました。しかし、この衛氏朝鮮も紀元前108年には、前漢の武帝(ぶてい)によって滅ぼされ、朝鮮半島の大部分は中国王朝の支配下に入ることになります。(衛氏朝鮮-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108朝鮮半島の大部分は漢の直轄地となった。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108そこには楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が設置された。その後、真番・臨屯が楽浪郡に併合され、玄菟郡も遼東半島に移転した。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108後漢末期になると、遼東半島で台頭した公孫氏が楽浪郡を支配し、その南に帯方郡を設置した。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
原三国時代(げんさんごくじだい)は、朝鮮の歴史区分の一つ。
紀元前108年に楽浪郡が置かれ、百済新羅が国家としての体裁を整える4世紀中頃までの朝鮮半島の事を差す。
楽浪郡から中国の文化を受容し、三韓が国家としての体裁を整えていく過程の時代である。
原三国時代と言う言葉が使われ出したのは1972年頃からでそれ以前は金海時代などと呼ばれていた。
-108衛氏朝鮮滅亡(衛氏朝鮮-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)-漢の時代(年表)-古朝鮮時代→漢直轄支配
-108武帝が朝鮮に楽浪・真番・臨屯・玄菟など4郡設置(-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108前漢の武帝により,衛氏朝鮮滅亡
前漢楽浪郡など郡県設置.地域土着民の反発を受ける
衛氏朝鮮が滅亡すると、漢は、ここに、楽浪(らくろう)郡、真番郡、臨屯郡、および玄菟(げんと)郡の4つの郡をおき、直轄地として支配することになる。この直轄支配は、約400年続いた。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108古朝鮮滅亡(古朝鮮滅亡-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)-国史年表-古朝鮮時代→漢直轄支配
-108漢の武帝に征服される以前の朝鮮およびその時代。
檀君(だんくん)・箕子(きし)・衛氏(えいし)などの王朝の支配下にあった。支配地域は大同江から北西の地域。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108BC108年 衛氏朝鮮滅亡
 BC195年ころに建国された衛氏朝鮮は、中国民族による征服王朝だったため常に朝鮮民族などの抵抗に悩み、数代にして衰徴に向かった。(古朝鮮滅亡-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108衛氏朝鮮は、つねに抵抗に悩み、数代にして衰徴に向かい、BC108年に漢の武帝の侵略を受けて滅びる。
(注:古代における「朝鮮」「真番」「臨屯」の位置は、必ずしも明確でなく、時代による変遷もあったようである。この時代の「朝鮮」については、朝鮮半島北西部とする説、中国の遼寧省あたりとする説、箕子朝鮮とする説などがある。)(古朝鮮滅亡-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108朝鮮半島、中国支配の始まり[-108ー313]''
紀元前108年に前漢の武帝(ぶてい)によって、衛氏朝鮮が滅ぼされると朝鮮半島の大部分は中国王朝の支配下に入ることになります。そこで武帝は征服した地を4つに分け漢四郡設置します。この前漢はやがて衰退していき、継ぐ新(しん)そして、後漢も西に進出したり、北からの脅威に備えたりで、徐々に朝鮮への支配は弱まっていきます。そして、3世紀になると、豪族の公孫氏(こうそんし)が朝鮮半島支配に動き出しました。この公孫氏は、本来は魏王朝から遼東地方の支配を任されていた豪族。しかし、この頃の中国は、あの有名な三国志の時代です。激しい戦乱の中、こっそり魏の目を盗んで朝鮮半島の中国勢力の拠点である楽浪郡を裂いて帯方郡(たいほうぐん)を設置してしまいました。ですが、この公孫氏も238年には魏によって滅ぼされてしまいます。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108翌BC108年に朝鮮王右渠は漢に内応した大臣の家臣に殺された。それでも王城を死守する大臣がいたが、彼も内応者に殺され、衛氏朝鮮は滅びたという。
 漢の武帝は、衛氏朝鮮の故地に「楽浪(らくろう)郡」「真番(しんばん)郡」「臨屯(りんとん)郡」「玄菟(げんと)郡」を置いて直接支配に乗り出した。(古朝鮮滅亡-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108原三国時代[-108-4世紀中葉)
-108漢直轄支配(植民地)[紀元前108年~220年]
-108漢、郡県設置(-朝鮮半島-朝鮮、前漢)-国史年表-古朝鮮時代→漢直轄支配
-108紀元前108年~220年:漢(植民地)(-朝鮮半島-朝鮮、前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-100夫餘 紀元前1世紀頃 - 494年(-朝鮮半島-古朝鮮)-消滅した政権一覧-
-100三国時代
-100年頃  中国の漢が、朝鮮半島北部に4つの郡をおいて支配していたころ、半島南部では、3つの部族国家・三韓が興る。三韓とは、馬韓(マハン)、弁韓(ピョオナン)、それに辰韓(ジナン)の3つである。馬韓では、54の小国があったが、やがて伯済(ペクジェ)が強くなり、後に百済(ペクチェ)になる。弁韓には、12の小国があり、やがて伽耶(カヤ)になるが、それも後に新羅に吸収された。辰韓は、12の小国からなり、やがて斯蘆(サロ)が強くなり、後に新羅(シルラ)になる。(三国時代-朝鮮半島-三韓馬韓弁韓辰韓、朝鮮)--漢直轄支配
-69辰韓:秦韓、《赫居世居西干[1代林氏 -69~04]》
辰韓(今の慶州一帯)には朝鮮(箕子朝鮮)の遺民が山合に住んでおり、新羅六部(楊山村・高墟村・
珍支村・大樹村・加利村・高耶村)のうち、楊山村から出生し、王となる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
-50倭人達が兵を率いて新羅の辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。(-朝鮮半島-新羅、朝鮮)--漢直轄支配
-37高句麗(高句 )[前37~668](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
-37高句麗の建国(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
-37-37年高句麗の建国
第1代 高句麗王 東明聖王[-37~-19]
朱蒙,卒本地方(現在の中国の桓仁)に高句麗建国
高句麗
一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、-37年に建国した国だとされている。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
-37その2・高句麗の建国やがて、紀元前108年に古朝鮮が滅びたあと、朝鮮半島の北部から旧満州にわたって鉄器文化を持つ、いろいろな部族国家が登場します。その中には、今の長春にあった、扶餘(ぶよ)という国もありました。高句麗の歴史は、その扶餘から始まります。高句麗を建国した東明聖王の名は朱夢、彼は後で、自ら高という苗字を名のり、高朱夢とよばれるようになります。東扶餘には、ヘブルという王がいました。そしてヘブルの父は天の神の息子であるヘモス、へブルはカエルのような金蛙(クムワ)という子どもを授けられて育てる。また河の神であるハベクの娘、ユファは卵を産み落とし、そこから高句麗を建国する東明聖王、すなわち朱夢が生まれる。卵から生まれるとはどういうことでしょうか。韓国の神話では、高句麗新羅、加羅の建国者は、みんな卵から生まれています。卵から生まれたというのは、父がいなくて、捨てられたという意味です。王子であれば、国を受け継げばいいのです。しかし捨てられたから、新たに建国することができるのです。韓国の神話の特徴は、捨てられたという設定、それが卵として表現されています。朱夢という名前の意味は何なんでしょうか。弓の実力が優れた人の代名詞です。それは遊牧民としての特徴や闊達さ、気概、征服性を強調する意味の名前です。朱夢は幼いときから、優れた才能を持ち、それに焼きもちを感じたクムワ王の長男のデソは、父に朱夢を殺してしまうように提案します。そこで扶餘から逃げ出した朱夢は、ゾルボンに行って、都を開きました。ゾルボンとは、今の中国の黒竜省の一帯です。彼は鉄器文化を持つ強力な軍事力を持って、周辺地域を征服し、ついに高句麗を建国しました。その時、彼は22才。紀元前37年のことです。朱夢、彼は扶餘の生まれ育ちですが、扶餘人ではなく、天と水の脈を引き継ぐ神の子孫でした。そうした神話の背景には、天を恐れ、水の神聖さを崇拝する人々を集め、その強力な新しい勢力のリーダとなったのでしょう。そして、ただの神話だけではなく、乗馬や弓に長けていた戦争英雄の征服による政治統合が勇敢な国、高句麗を開いたのです。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
-37高句麗:高句驪、《東明聖王:朱蒙[-37?~-19?)》
扶余の金蛙王の庶子とされ、扶余の7人の王子と対立し、卒本(遼寧省本渓市桓仁)に亡命して高句麗を建国(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
-37朝鮮に高句麗が勃興(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-
百済の歴史
-37-37年 高句麗の建国(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-37一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、(「三国遺事」)それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、-37年に建国した国だとされている。
高句麗[-37ー668]高句麗は韓半島の古代国家のうちのひとつで、百済新羅と合わせた三国の中で最も大きな領土を有している国でした。
-37年に建国され、韓半島の北部と南満州一帯を拠点とし繁栄しました。中国の諸王朝とも熾烈に争い領土を広げていきましたが、AD668年に新羅と唐の連合軍との争いにより滅亡しました。}}(-朝鮮半島-百済、朝鮮)--漢直轄支配
-20春二月に、倭人の瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。(-朝鮮半島-朝鮮、倭、馬韓)--漢直轄支配
-19朱蒙亡くなる.嫡子の琉璃後継(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
-19高句麗:高句驪、《瑠璃明王[-19~18]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
-18その3・三国時代の幕開け・百済新羅の誕生紀元前37年、今のロシアのウラジオストク、中国の吉林省、北朝鮮の北東部にわたる広い範囲に朱夢が建国した高句麗。その南には百済新羅がありました。その三国は、王制が定着した後、7世紀半ばにいたるまで、激しい戦争を繰りかえしながら存在しました。「三国史記」によると、百済の始まりは高句麗からでした。ある日、高句麗の王、朱夢の所に、男の子が訪ねてきました。朱夢が扶余にいたときに産ませた息子のユリであると言い、その証として半分に折れた短刀を見せました。朱夢はユリを自分の息子と認めます。そして王位継承権者である太子の地位を与えました。朱夢には他にも高句麗で作った2人の息子・兄のビリュ、弟のオンゾがいました。ユリが太子になるのを、素直に受け入れた弟であるビリュとオンゾは、自分たちに従う臣下を連れて南の方に行きます。二人はどこへ行ったのでしょう。兄のビリュは今の仁川であるミツホルに行きました。しかし、ミツホルの土地は湿気と塩分が多く生活しにくい所で大変な苦労がありました。そのことを恥と思ったビリュは、それが原因で病に倒れました。一方、弟のオンゾは、今のソウルと推定される威礼城に行きました。ビリュ亡き後、ミツホルの人たちも威礼城にやってきました。オンゾは漢江の周りから京畿や忠清の地域に存在していた部族国家を統合して、一つの国家を作り上げていました。外部からの侵略もなく、しかも高句麗の先進文物を用いて相当安定した国づくりができたのでしょう。やがてオンゾは国名を百済に変えました。しかしその百済も西暦660年に、また高句麗は668年に滅びます。その二つの国を滅ぼしたのが三国の中で一番遅く国家体制を作った新羅です。新羅を建国したのは朴ヒョコセといいます。彼は慶州にあった6つの部族の首長らに推挙されて王の位につきましたがその王位は世襲ではなく、朴、昔、金という三つの氏族が代わる代わる王位につくこととなりました。もう少し詳しくみてみましょう。その新羅の建国者・朴ヒョコとはどんな人だったのでしょう。その少し前のお話になります。今の慶尚道にあった辰韓には6つの村がありました。6つの村の村長たちは、自分たちを導いて、村民らが従うことができる王のような存在が現れることを希望するようになりました。そうしたある日、森の中から神秘な光が発せられ、まぶしいくらい真っ白な馬がおじぎを続けているではありませんか。6人の村長らが近づいて見ると、そこには青い光が漂う一個の卵がありました。白馬は人を見ると天に上って行きました。そして卵が二つに割れて、そこから可愛い男の子が生まれました。村長らは、その青い神秘な光は天の啓示であり、白馬は天の使者、その子は天が送ってくれた人物だと受けとめて、誠意をもって育て、彼が13歳になった時、王として即位させました。その男の子が朴ヒョコセだったのです。これは自らつけた名前です。ここにも、卵から生まれてきた男の子が出てきました。ヒョコセの活躍の話は神話の世界と、呪術の範囲に留まっている部分が多いそうです。その分、高句麗百済よりは古代王国になるのが遅かったといえるでしょう。新羅という国名を定めるのも、ずっと後の22代目の王の時代のことです。しかし、新羅は優秀な鉄器文化を持つ周辺国、即ち高句麗百済との交流を通じて、時には牽制をもうけながら、ゆっくりと将来の三国統一の基盤づくりに励むのです。高句麗百済、そして新羅。それらが作った三国時代。その期間は長く、700年間にも及びました。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
-18十済(後の百済)建国(-朝鮮半島-朝鮮、十済:百済)--漢直轄支配
-18建国神話 [前18年~) (-朝鮮半島-朝鮮、十済:百済)--漢直轄支配
-18朱蒙の子,温柞,百済建国
高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-18百済の建国伝説
高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだので、弟の沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)は高句麗を出て自分たちの国を建てようと南へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。
(注:「三国史記」の別伝によると、沸流と温祚は朱蒙の実の子ではなく、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘で召西奴の連れ子としている。)
やがて漢山(かんざん・現在の京幾道広州郡)へたどり着き、2人は臣下とともに負児岳(ふじがく)という高い山の頂にのぼって周囲を見渡した。沸流は、海の見える方が気に入った。しかし、10人の臣下は口をそろえて反対し、「それよりも、こちらの方です。北に江が流れ、東に山をひかえ、南は平野、西は海、こんな究竟な、よい場所はありません。都はぜひ、こちらへお建てになることです。」そういって勧めたが、沸流はどうしても聞かない。百姓たちを半分にわけて、自分だけ海辺の方へ都を置くことになった。弥鄒忽(みすこつ・現在の仁川)である。弟の温祚は臣下たちの意見に従って、漢山の慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡)に都を定めた。10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼ぶことになった。
弥鄒忽は土地が湿っているうえ水が塩辛く、百姓たちもさんざん苦労を重ねた。沸流が弟のようすを見に慰礼城へ来てみると、何の不足もなく幸せに暮らしている。自分を恥じた沸流は、それを苦にして病となり亡くなった。それで百姓たちは慰礼城へ移り、人民が増えたので、国号を「百済」に改めた。
百済は、ここから領土を広げて大きくなった。
(注:実際には、百済として大きな勢力となったのは、高句麗の建国よりも約400年のちのこととみられる。)
第1代百済王温祖王[-18~AD28]
韓国の三国史記によると、百済の建国は、紀元前18年となり、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)の三男、温祚によって建国されたとされています。温祚は、慰礼城(現在の広州市南漢山城か?)に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。
韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。
温祚王即位オンソ(扶餘王の次男とされる
慰礼城、現ソウル市付近)
(百済王の尊称は於羅瑕オラカあるいは「革+建」吉支ケンキシと周書にある)
(北史、隋書では遼東太守の公孫度の娘が嫁いだために東夷の強国となるとある)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-18高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。(「三国史記」)倭の奴国王、光武帝より金印を贈られる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-18 韓国の三国史記によると、百済の建国は、紀元前18年となり、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)の三男、温祚によって建国されたとされています。温祚は、慰礼城 (現在の広州市 南漢山城か?)に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。
 韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-18百済、温祚王即位オンソ(扶餘王の次男とされる 慰礼城、現ソウル市付近)
(百済王の尊称は於羅瑕オラカあるいは「革+建」吉支ケンキシと周書にある)
(北史、隋書では遼東太守の公孫度の娘が嫁いだために東夷の強国となるとある)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-18温祚王 おんそおうOn‐jo‐wang 世界大百科事典 第2版の解説 おんそおう【温祚王 On‐jo‐wang】 朝鮮,百済の始祖。伝説上の人物。《三国史記》が伝える百済の建国伝説によると,温祚王は高句麗の始祖朱蒙の第3子であったが,長兄で異母兄の類利を恐れ,兄の沸流とともに扶余の地を逃れて南下し,漢山に至った。沸流は弥鄒忽に居を定め,温祚は慰礼城に都して国号を十済とした。ときに紀元前18年であったという。その後沸流が死ぬと,温祚はその民をあわせ,国号を百済とし,扶余氏を名のった,と伝えられている。扶余族の南下によって百済の国家が形成されたことを反映した建国伝説である。 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-18高句麗新羅とともに韓国の三国時代を築いた百済
倭国との関わりも深く、唐も含めて、東アジア一円の社会、文化に深く関与しています。
その歴史を紐解くことで、旅行の楽しみも倍増!まずは、百済の歴史を旅してみましょう。
百済(くだら)は、朝鮮半島南西部を占めた古代国家。
一般的に、支配階級は北の高句麗王族と同じく、中国満州付近から出た扶余族と見られています。「隋書」百済伝には、「百済の祖先は高(句)麗国より出づる」とあり、新羅、倭国、また中国からも渡来してきた人が住み、他民族的な国家を形成していたようです。
韓国・朝鮮史上では、およそ紀元前1世紀から紀元後7世紀までの間、半島北部の「高句麗」、南東部の「新羅」、そして南部の伽耶諸国とあわせて南西部の「百済」の三国が支配していた時代を「三国時代」といいます。(-朝鮮半島-朝鮮:新羅百済高句麗)--漢直轄支配
-16百済靺鞨が北部に侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-13百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-11百済靺鞨が慰礼城を包囲(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-10百済、神鹿を得て馬韓に送る(馬韓はソウル南方全羅南道に至る群小国家群とされる)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-09高句麗:高句驪、鮮卑を討ち、属国とした(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
-6百済、東の楽浪、北の靺鞨を避けて首都を漢江南岸に移し領土を京畿平野一帯としこれを馬韓に伝える(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-2百済、楽浪が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
-1前漢、劉氏・・平帝(元宗)[-1~5](前漢-朝鮮半島-前漢、朝鮮、百済)--漢直轄支配
-1百済靺鞨侵入、長を捕らえ馬韓に送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
3高句麗:高句驪、都を国内城(輯安、現中国吉林省集安市)に移して尉那巌城を築城(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
4辰韓:秦韓、《南解次次雄(04~24]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
6百済、柵を作るも馬韓王の抗議にて撤去(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
7百済、巫によって辰韓馬韓併合の意生ずる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
9百済馬韓を滅ぼす(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
13高句麗:高句驪、扶余が侵攻してきたが撃退する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
14高句麗:高句驪、梁貊国を討滅させ、さらに兵をすすめて漢の玄菟郡の高句麗県を奪取(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
14辰韓:秦韓、倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
14倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。(-朝鮮半島-朝鮮、倭)--漢直轄支配
18第3代高句麗王大武神王[18~44](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
18その4・高句麗の領土拡張その一、デムシン王韓国の歴史の中で、一番広い領土を持ち、東北アジアの主役として強い国家を建設した高句麗。2代目のユリ王は、西暦3年に国内城に都を移しました。今の中国の集安です。高い山に囲まれた天然の要塞と農耕に適した土地、豊富な鉄。国内城のすぐそばには鴨綠江が流れています。その川を下って黄海に出て、国際的な秩序の中に進入できたこと、それが都を移転した一番重要な目的でした。高句麗の2代目のユリ王、そうです、建国の王・朱夢の所に、半分に折れた短刀を持った男の子が訪ねてきましたね。朱夢が扶余にいたときに産ませた息子のユリです。高句麗2代目のユリ王です。その頃、高句麗と対立関係にあった扶余のデソ王は高句麗に服従を要求し、拒んだ高句麗を攻撃してきました。ユリ王の三男であるムヒュルが扶余軍を奇襲攻撃し勝利を収めました。彼が高句麗の3代目のデムシン王となる訳です。デムシン王は弓と狩に優れた才能を持っていました。彼は若いときから、周辺の国々を征服し、高句麗の膨張の基礎を築いたのです。扶余を征伐し、ほかの遊牧民族も次々に征服していった高句麗は、こんどは目を南のほうへ向けます。デムシン王の息子ホドン王子の話になります。ある夏の日、ホドン王子は南の地域を旅していました。美男子であるホドン王子を見た、楽浪の王、チェリは、ホドンが高句麗の王子であることを見抜いて、楽浪の宮中につれて行ったのです。楽浪の宮殿で、チェリの娘である楽浪姫に会って、恋に落ちたホドン王子はデムシン王の許しを得て、正式に結婚をするために帰国することにしました。楽浪には敵が侵略してくると、自ら鳴って、危険を知らせる「自鳴鼓(じめいこ)」という太鼓がありました。しかし、ホドン王子は楽浪姫に、その楽浪の宝物である太鼓を壊してくれと頼んでいたのです。それで高句麗軍が攻撃してきても、自鳴鼓が鳴らなくて何の備えもできなかった、チェリ王は、自鳴鼓を壊したのが、楽浪姫だったのを知り、怒った彼は、楽浪姫を殺してしまいました。高句麗軍をつれて楽浪に着いたホドン。しかし、楽浪姫はすでに冷たい遺体になっていたのでした。その悲しみを克服できなかったホドン王子は、結局、死を選びました。その時に降伏した楽浪は、5年後には、完全に滅びてしまいます。ホドン王子と楽浪姫の話は、現代にいたるまで悲しい恋の話として、言い伝えられています。悲恋の裏には、高句麗の領土拡張の野心が潜んでいました。楽浪はどこにあったか。いろいろと説があるようですが、平壌を中心とした地域と推定されています。国内城からはかなり距離がありますが、高句麗の南のほうへの征服を意味しているのでしょう。ユリ王は吉林省付近の国内城に都を移し、東北アジアに羽ばたく基盤を作りました。デムシン王は扶余と楽浪を征服し、本格的な領土拡張を始めます。高句麗の建国後、百年が経つ西暦1世紀ごろ、高句麗が征服した国が10カ国にも及んでいたと「三国史記」には記されています。その領土拡張の過程で起きた楽浪滅亡の際のホドン王子と楽浪姫の悲しい恋の物語は今でも韓国の子どもたちに伝えられています。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
18高句麗:高句驪、《大武神王[18~44]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
19第2代高句麗王琉璃明王[19~AD18]
干ばつ(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
19百済、干ばつ(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
20百済、大壇を築いて天地を祭る(儒教の祭祀儀礼の説あり)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
22高句麗:高句驪、扶余へ侵攻して帯素王の首を取り、扶余の帯素王の従弟が族人1万余人を率いて投降(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
22百済靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
24辰韓:秦韓、《儒理尼師今[24~57]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
25百済、南沃沮が帰順(現江原道付近)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
26高句麗:高句驪、蓋馬国を征伐、句茶国王が国ごと投降(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
28高句麗:高句驪、後漢の遼東太守が侵攻するも功ならず(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗後漢(東漢))--
28第2代百済王多婁王[28~77]
百済、多婁王即位タル(温祚王の子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
32高句麗:高句驪、楽浪国へ侵攻して降伏させる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
33百済、国の南部に初めて稲田を作る(朝鮮での田は畑の意でこれが水田かどうかは不明)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
34百済靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
36辰韓:秦韓、楽浪の兵が北辺に攻め入り、朶山城が奪われた(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
37辰韓:秦韓、高句麗の大武神王が楽浪を攻め滅ぼし、楽浪の民5千人が新羅に流入(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
37高句麗:高句驪、楽浪国を滅ぼして支配下に収めた(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
40辰韓:秦韓、楽浪から独立していた?が、新羅の北辺に攻めてきたが、貊国が出兵して打ち負かしたので、貊国と好を通じる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
42第1代加羅王首露王[42~199](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--漢直轄支配
42辰韓:秦韓、貊国、禽獣を献上(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
44第4代高句麗王閔中王[44~48](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
44高句麗:高句驪、後漢の光武帝が海路出兵して討伐し、薩水以南が後漢の郡県とされた
《閔中王[44~48]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗後漢(東漢))--
45高句麗:高句驪、国内の東部で洪水(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
47高句麗:高句驪、蚕友部落の大加戴升ら一万余家が楽浪に行き、後漢に投降(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗後漢(東漢))--
48第5代高句麗王慕本王[48~53](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
48高句麗:高句驪、《慕本王[48~53]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
53第6代高句麗王太祖大王[53~146]
高句麗、太祖王即位(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
53高句麗:高句驪、《太祖大王[53~146]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
56高句麗:高句驪、東沃沮を討伐し、高句麗の領土が滄海から薩水に及ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
57辰韓:秦韓、《脱解尼師今(4代昔氏 57~80]》
百済の多婁王と蛙山城をめぐって度々戦争(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
58倭人の瓠公、春正月に新羅の最高官位の大輔を拝命(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--漢直轄支配
60ブーディカの反乱

AD60年に夫プラスタグス王が亡くなると、二人の娘の王位継承は認められず、ローマは領土や財産を没収した。ブーディカはローマの侵略に必死に抵抗したが、縛られて鞭で打たれ、更に2人の娘は辱めを受けた。

 この仕打ちに対しブーディカは激しく怒り、周辺部族と連合して大規模な反乱を起こした。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
63百済、領土を広げ新羅と交渉するも得ず(忠清北道の清州付近)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
64百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
72高句麗:高句驪、藻那国を討伐(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
73辰韓:秦韓、倭人が木出島に進入(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
73新羅、倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
73百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
74高句麗:高句驪、朱那国を討伐(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
75百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
77辰韓:秦韓、伽耶と戦って大勝(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
77第3代百済王己婁王[77~128]
百済、己婁王即位コル(多婁王の子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
80辰韓:秦韓、《婆娑尼師今[80~112]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
85百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
87百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
92百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
94辰韓:秦韓、伽耶の侵入を撃退する(096](-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
100北朝鮮に高句麗が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
高句麗
3~7世紀、ツングース系の民族が満州から北朝鮮にかけて建国した国家。隋の煬帝の遠征軍を撃退し、唐の攻勢にも激しく抵抗したが、668年に滅亡した。
 中国東北部(満州)から朝鮮半島北部にかけて活動していたツングース系の半農半狩猟の貊人(はくじん)が鴨緑江流域に建国した。朝鮮最古の歴史書『三国史記』によると、同じく貊人の国で北方いた扶余の王族が、前37年に建国したとされている。これは史実としては疑わしいが、前1世紀の中ごろ、漢の置いた四郡の一つ玄菟郡が衰えたことによって、東北地方の遊牧系民族の一つであった高句麗もこの頃自立したと考えられる。
101辰韓:秦韓、王都金城付近に月城を築き、居城を移す(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
102辰韓:秦韓、音汁伐国を討伐、悉直谷国・押督国も服属する(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
104辰韓:秦韓、悉直国を反乱したために討伐(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
105辰韓:秦韓、百済の己婁王が新羅に対して和睦を求めてくる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
105新羅と和睦交渉(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
108辰韓:秦韓、南方の比只国・多伐国・草八国を併合する(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
108百済、大飢饉、人を殺して食べる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
112辰韓:秦韓、《祇摩尼師今[112~134]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
113辰韓:秦韓、百済の己婁王が使者を送ってきて盟友関係が出来る(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
113百済新羅に使者(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
118高句麗:高句驪、穢貊とともに後漢の玄菟郡を襲う(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
121高句麗:高句驪、玄菟・遼東を攻めて捕虜二千を得るなどして領土を拡張(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
121辰韓:秦韓、倭人が東部辺境(海岸地域)に侵入してきたが、123年3月には倭国と講和(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
121百済建国事情
建光元年[121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と?貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った。
公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。
このときの尉仇台系の扶余馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。古代史の復元では百済建国はAD164年である。
『宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。
新羅、夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
123新羅、春三月に倭国と講和した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--漢直轄支配
125辰韓:秦韓、靺鞨が浸入してくるも百済の援軍をもとめ退ける(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
125新羅に侵入した靺鞨に対し援軍を送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
128第4代百済王蓋婁王[128~166]
百済、蓋婁王即位ガイル(己婁王の子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
134辰韓:秦韓、《逸聖尼師今[134~154]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
137辰韓:秦韓、靺鞨の侵入を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
139辰韓:秦韓、靺鞨の侵入を受け長嶺が略奪(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
144辰韓:秦韓、農業振興と倹約令を発する(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
146第7代高句麗王次大王[146~165](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
146高句麗:高句驪、遼東郡西安平県を攻め、帯方県の令を殺す
《次大王[146~165]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
154辰韓:秦韓、《阿達羅尼師今[154~184]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
158新羅、倭人が交際のために訪れた。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、日本:倭)--漢直轄支配
163百済の温祚即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
165高句麗:高句驪、《新大王[165~179]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
165第8代高句麗王新大王[165~179]
新羅の将軍が百済に逃亡し引き渡しをめぐって新羅と争う
日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
165百済新羅の将軍が百済に逃亡し引き渡しをめぐって新羅と争う
日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
166第5代百済王肖古王[166~214]
百済、肖古王即位ショウコ(素古、蓋婁王の子)(神功紀に引用)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
167辰韓:秦韓、百済新羅の西部辺境2城を奪って住民1千人を捕虜、のち和睦(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
167百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
168高句麗:高句驪、後漢の玄菟郡が侵攻してくる来ると降伏し、高句麗は玄菟郡に組み込まれる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
170辰韓:秦韓、百済は再び新羅の国境付近に侵攻(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
170百済遷都
百済本紀の記録
百済本紀には遷都の状況が次のように記録されている。
温祚13年
王は臣下に対して「我が国の東には楽浪があり、北には靺鞨があって、国境を侵しているので少しも安らかな日がない。いわんや今は怪しい兆しがしばしばあらわれ、国母が世を去り情勢が安らかではないので、都を移さなければならない。私が先日漢江の南を回ってみたら、土地が肥えていたから、よろしく、そこに都を移して、永久に安全な計を諮るべきである。」
秋7月漢山の下に柵を立てて慰礼城の民を移した。8月に使者を馬韓に使わして、都を移したことを知らせ、遂に境界を定めた。北は臨津江、南は熊川、東は平康に達した。9月に都城と宮殿を立てた。翌14年春正月、都を移した。
温祚13年は古代史の復元ではAD170年に該当する。しかし、その後、楽浪や靺鞨百済攻撃は継続している。遷都の時期が温祚13年より後ではないかと思われる。
百済は倭国や新羅と同じ半年一年暦で考えると事象の一致が見られる。高句麗は中国暦のようである。半年一年暦は倭国固有の暦なので、百済は建国当初半年一年暦を使っていたとは思われない。中国暦だったと思われる。倭国との交流が活発になってから倭国と同じ半年一年暦に変更したと思われる。温祚13年は中国干支で庚戌である。これがそのまま半年一年干支となったとすれば、AD197年が遷都の年と考えられる。これは高句麗第10代山上王が即位した年である。
日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
170百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
172高句麗:高句驪、後漢が大軍で侵攻してくるが、持久戦で勝利する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
173新羅、倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--漢直轄支配
173辰韓:秦韓、倭の女王卑彌乎が使者を送ってきたとする[三国志の造作?](-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
179第9代高句麗王故国川王[179~197](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
179高句麗:高句驪、《故国川王[179~197]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
180高句麗:高句驪、後漢の遼東太守の攻撃を受けたが坐原でこれを撃退(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
184辰韓:秦韓、《伐休尼師今[184~196]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
185辰韓:秦韓、召文国を討伐(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
186百済遷都に至る情勢
公孫度は、186年、董卓が実権を握ったとき、友人であった徐栄の推挙もあって、189年、遼東太守に任じられた。遼東で勢力を拡大し、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。遼東が都から遠く離れた地域であったため、192年、董卓が死んだ後は、公孫氏による独立国のような体制をとり、周辺に勢力を伸ばし、高句麗や烏桓を討伐した。
記録にはないが百済はこの頃、遼東にあり、公孫度の攻撃を頻繁に受けていたと思われる。これが、温祚13年の「楽浪が国境を侵している」という記事につながるのである。
百済が遷都したと思われる197年には高句麗山上王が即位しているが、王位継承をめぐって高句麗で大騒乱が起こっている。
第9代高句麗王故国川王が王子のいないままにて死去した。その王妃の于氏は初め喪を伏せたまま、すぐ下の弟である発岐に王位を継ぐことを勧めた。発岐は王の死を知らなかったために于氏の勧めが不遜であると責めたため、于氏は延優の元へ行き延優に王位に継ぐことを勧めた。延優はこれに応え、翌日早朝に延優は王位に就いた山上王である。発岐は王位に就き損ねたことを不服として、遼東太守の公孫度と結託し武力侵攻を行うが、王位簒奪に失敗した。
『唐会要』百済伝には「百済高句麗に国を破られた」と記録されており、その年が山上王の即位年だとすると、次のような推定が成り立つ。
百済は公孫度の攻撃に破れて遼東の属国のような状態になっていた。このような時に、高句麗王子発岐が公孫度を頼ってきた。公孫度はこれを契機に高句麗を侵略しようと百済に命じて高句麗を攻撃させた。百済は公孫度の命令にやむなく従って高句麗を攻撃したが、高句麗によって公孫度と共に破れてしまった。
高句麗のこの攻撃で百済は領土を失って、遷都を決断したのではないかと推定する。遼東半島から海に逃げ、半島に沿って南下し、漢江(韓国ソウル市)付近に上陸したものと考えられる。
百済の多婁即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
188辰韓:秦韓、百済が母山城に侵攻するが撃退(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
188百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
189帯方郡後漢の末に中国東北部の遼東太守となった公孫度は、朝鮮半島を侵食して、現在の平壌付近にあった
楽浪郡治を支配下に置いた(-朝鮮半島-朝鮮)--
189辰韓:秦韓、狗壌で百済と戦って勝利(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
189百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
190辰韓:秦韓、百済新羅の円山郷に侵攻する(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
193新羅、倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--漢直轄支配
193辰韓:秦韓、倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
194高句麗,春窮期に穀物を貸し与え,秋の収穫後返済する,賑貸法実施(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
194高句麗、賑貸法実施(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-国史年表-漢直轄支配
196辰韓:秦韓、《奈解尼師今[196~230]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
197第10代高句麗王山上王[197~227](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
197高句麗:高句驪、《山上王[197~227]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
199第2代加羅王居登王[199~259]
新羅へ侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
201新羅との衝突
百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅は倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。
新羅はAD201年、倭人である脱解が第4代新羅王に即位し、大和朝廷との和解をはかろうと202年倭国との間で使者の交換をした。
新羅本紀脱解王3年
夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。
この当時卑弥呼は独自の情報網により、おそらく百済が侵入していることは知っていたと思われるが、百済の活用を考えて様子を探っていたのではあるまいか。
このような時に百済が西から新羅の国境侵犯をしてきたのである。ここで、百済新羅の国境争いが起こった。
(-朝鮮半島-朝鮮、新羅百済)--漢直轄支配
201辰韓:秦韓、伽耶が講和を求めてくる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
201新羅との衝突
 百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅は倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
203新羅本紀脱解王5年(AD203年前半)馬韓の将軍新羅に投降
馬韓新羅の北西、百済の北の領域に存在した諸国の総称である。その馬韓の将軍が新羅に投降したのである。馬韓はこの頃公孫康率いる楽浪郡に攻め立てられ、楽浪郡に所属するようになった時期である。それを嫌った将軍が新羅に投降したものと考えられる。
この203年には、楽浪郡の攻撃が百済の北辺に迫っていたといえる。百済としては楽浪郡を迎え撃たなければならず、新羅と争っている余裕はなく、AD204年前半、新羅に使者を出して、新羅との間の国境を確定させようとした。それが、以下の記録である。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
204公孫氏政権が朝鮮に帯方郡設置(-朝鮮半島-後漢(東漢)、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
204帯方郡、その後を継いだ嫡子・康は、楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡
称し、土着勢力の韓・?族を討って、朝鮮半島南半の統治体制を築く(-朝鮮半島-朝鮮)--
204百済本紀多婁王36年(AD204年前半)使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった。
新羅本紀脱解王7年(AD204年前半)百済王が地境を拓定するために会見を乞うたが合わなかった。
この時、脱解王は百済王に使者を出し、「その地は倭国領である。倭王卑弥呼の許可は取ってあるのか。そうでなければ倭国に滅ぼされるぞ」とでも脅しを入れたと思われる。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
205後漢帯方郡を設置(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
205倭国との交渉
百済王は早速その実態を調べたことであろう。その結果、今都としている漢江周辺は間違いなく倭国領であり、このまま放置していたのでは倭国との戦いが始まるのは確実であると思った。北から楽浪郡、南から倭国に攻められたのでは百済の滅亡は日を見るよりも明らかだった。百済の選択肢は二つだった。楽浪郡の支配下に下るか、倭国と組んで楽浪郡と対峙するかである。
焦った百済王は早速倭国との交渉に入ることにしたが、倭国とのパイプがないために、伽耶の卓淳旱岐のもとへ三人の使者を送り、倭国との橋渡しをしてもらうように頼んだのである。卓淳旱岐が倭国に使者を送り、倭王卑弥呼との連絡を取ったのである。
卑弥呼は百済からの挨拶を待っていたのである。卑弥呼の情報網により、百済は遼東を追い出されて、領地を失った国であること、楽浪郡の勢力がすぐ北まで攻め依ってきていること。新羅と対立関係にあることなどを既に知っていた。
百済を倭国領から追い出してしまえば、彼らは住むところを失うので、窮鼠猫を咬むの例えにもある通り、倭国に対して宣戦布告をしてくる可能性がある。今、倭国内は倭の大乱を終えたばかりで、安定状況になく、海外遠征での戦いは避けたい気持ちがあった。また、新羅朝鮮半島で幅を利かせており、新羅に対抗できる国が朝鮮半島には存在していない。また、北からの楽浪郡の侵入を阻止しなければならないという思いもあった。伽耶諸国を強く育てる対策は打ったが、まだ実用段階ではなかった。
百済新羅と対立関係にある実力を持った国なので、百済新羅に対抗できる国となれば、新羅朝鮮半島での横暴も抑えられると思ったのではないか。
このような思いもあって、卑弥呼は百済からの使者に会ったのである。
百済としても、倭国との交渉が決裂してこの領地を追い出されてしまえば行くところもなく、なんとか倭国に漢江周辺の地の領有を認めてもらおうと、最高の対応で礼儀正しく卑弥呼に会ったのであろう。
卑弥呼としては百済に漢江周辺の領有を任せる代わりに次のような条件を出したと思われる。
①毎年貢物をよこすこと。
新羅に対抗し、新羅の横暴を止めること
③朝廷からの使者が大陸に渡る時の橋渡しをすること。
朝鮮半島や大陸の情報を知りうる限り、朝廷に伝えること。
楽浪郡の北からの侵入を阻止すること。
百済としては倭国と戦争したり、追い出されることに比べればたやすいことであり、百済王は承諾した。卑弥呼としても、朝廷の力で朝鮮半島の倭の領域を統治するのは大変であることと、楽浪郡高句麗が何れ朝鮮半島に進出してきて、朝鮮半島が戦乱状態になることを予想しており、百済がその防波堤になってくれることを願っていた。AD205年を境に倭国と百済との強力な同盟関係が成立した。
三国史記・・修正年・・百済本紀・・新羅本紀
63・・204・・使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった・・百済王が地境を拓定するために会見を乞うた
64・・204・・蛙山城を攻めたが勝てなかった。・・百済が蛙山城・狗壌城を攻撃した。
66・・205・・蛙山城を攻めとったが暫らくして破れた・・百済が蛙山城を攻めとったが奪回した。
70・・207・・新羅を攻めた・・百済が攻めてきた。
74・・209・・新羅を攻めた・・百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。
75・・210・・蛙山城を攻め落とした・・
76・・210・・蛙山城を奪回された・・蛙山城を奪回した。
84・・214・・・・百済が辺境を侵した
85・・215・・新羅の辺境を侵した・・
百済は倭国の了解のもと遠慮なく新羅と戦えるようになり、頻繁に新羅と戦うこととなった。(-朝鮮半島-百済、朝鮮)--漢直轄支配
206後漢,公孫康が帯方郡設置(-朝鮮半島-後漢(東漢)、朝鮮)--漢直轄支配
209辰韓:秦韓、伽耶に浦上の八国が連合して攻めたとき、救援部隊を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
209高句麗、国内城を郡に定める(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
210辰韓:秦韓、干害(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
210百済靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
211百済の己婁即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
212百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
214辰韓:秦韓、百済が腰車城を攻めて城主を殺したたため、反撃し沙?城を陥落(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
214第6代百済王仇首王[214~234]
仇首王即位キュウシュ(貴須、肖古王の長男身長七尺という)
靺鞨と戦闘(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
216百済靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
217高句麗:高句驪、後漢の平州から夏瑤が千余家の人々を率いて投降(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
218辰韓:秦韓、百済軍が?山を包囲するも敗走させる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
218百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
221221年~245年:魏(植民地)
221百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
221221年~245年:魏(植民地)(-朝鮮半島-朝鮮、魏)--漢直轄支配
222辰韓:秦韓、百済が牛頭州に侵入(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
222百済新羅を攻撃
日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
224辰韓:秦韓、烽山の麓で百済軍と戦って、戦勝する(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
224百済新羅が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
226辰韓:秦韓、干害(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
227第11代高句麗王東川王[227~248](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
227高句麗:高句驪、《東川王[227~248]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
230辰韓:秦韓、《助賁尼師今[230~247]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
231辰韓:秦韓、甘文国を討伐してその地を新羅領内に郡として組み入れる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
232新羅、夏四月に倭人が金城を包囲。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--漢直轄支配
232辰韓:秦韓、倭人が首都金城に攻め入った時には倭人を壊滅(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
233新羅、五月倭兵が東辺を攻めた。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--漢直轄支配
233辰韓:秦韓、倭人の兵船を焼き払って撃退(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
234第7代百済王古尓王[234~286]
古尓王即位コニ(蓋婁王の第2子)
沙伴王即位サハン(仇首王の長男、幼少のため古尓王が継承)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
236辰韓:秦韓、骨伐国が民を連れて投降、郡として組み入れた(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
236百済の蓋婁即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
238高句麗:高句驪、魏の司馬懿が公孫淵を討つ際に兵を派遣して援助(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
238天地を祭るために太鼓と笛を用いる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
240百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
243魏・高句麗討伐に乗り出す。(-朝鮮半島-朝鮮、魏、高句麗)--漢直轄支配
245辰韓:秦韓、高句麗の侵入を受け、馬頭柵まで退却(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
245高句麗:高句驪、新羅の北辺を侵攻(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
246高句麗:高句驪、魏の毋丘倹に攻め入られ、国都である丸都城を陥落(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
246魏と高句麗が合して侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
247高句驪(高句麗)長寿王、平壌城(集安地方の域名)(ピョンヤン)を築いて国内城から遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
247辰韓:秦韓、《沾解尼師今[247~261]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
247第12代新羅王沾解尼師今[247~261]
百済、干ばつ多発(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
248辰韓:秦韓、高句麗に対して講和を行う(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
248高句麗:高句驪、新羅側から使者を送って来たのを受けて新羅と和を結ぶ
《中川王[248~270]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
248第12代高句麗王中川王[248~270]
崇神248-273(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
249新羅、夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--漢直轄支配
250古墳時代
(こふんじだい)とは、3世紀中葉から6世紀末葉までの約300年間にわたって前方後円墳が北は東北から南は中部九州まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の世紀ともいわれ、その終末期にも方墳・円墳、群集墳などが築造され続けていた時代である。 以前は続く飛鳥時代と合わせて大和時代とも称されていたが、今日では別個に考えるのが一般的となっている。 また、王権を得るためには手段を選ばず、有力候補が自分の兄弟や異母兄弟であろうとも、奸計・策略をめぐらして倒すなどの激しい王権争奪戦が繰り返された時代でもある。他方、灌漑用水確保のための池溝の整備など大規模な開発も盛んに行われ、大土木時代でもあった。

概要
3世紀末から7世紀末まで、前方後円墳という日本独自の形式の墳墓が日本全域に造られた。この時期にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、奈良県桜井市の箸墓古墳が初期のものとされることから、前方後円墳はこの時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。3世紀の後半から奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が出現し、4世紀の初めには河内平野に巨大古墳が築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。つづく5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。それが、6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。これは、ヤマト王権がより強力な政権へ成長したことの現れだと解されている。この後しばらくの間、方墳や円墳は造り続けられる。
対外関係としては、4世紀以降朝鮮半島に進出し、新羅百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが広開土王碑文などから知られる。5世紀には倭の五王が中国に使者を遣わした。倭が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。中国と朝鮮から、文字と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は土師器と須恵器を用いた。

時期区分
3世紀後半ないし4世紀初め頃から古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ばごろまでを古墳時代後期としている。しかし、実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半ごろ、関東では8世紀のはじめごろ、東北地方では8世紀の末ごろでほぼ終わる。時代名称はこの時期、古墳の築造が盛んに行われたことに由来する。日本で最古の古墳は奈良県桜井市にあるホケノ山古墳であるが、近年天理大学学生の地中レーダー探査などにより、この古墳の付近にさらに古い段階の古墳がある可能性が指摘されている。

古墳時代前期
3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。この頃、円筒埴輪が盛行し、土師器が畿内でつくられ、各地に普及し、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。

この時期の主な王墓
奈良県桜井市、箸墓(はしはか)古墳(邪馬台国の女王卑弥呼の墓と目され、最初の王墓。280メートルの前方後円墳、造営は3世紀後半説)
奈良県桜井市、大和古墳群の西殿塚古墳[219メートル)
奈良県桜井市、柳本古墳群の行燈山古墳[242メートル、伝崇神陵)
奈良県天理市、柳本古墳群の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(伝景行陵、310メートル)

この時期の王に準じる規模と内容の主な墳墓
奈良県桜井市、桜井茶臼山古墳[280メートル)
奈良県桜井市、メスリ山古墳[240メートル)

主な首長墓
山梨県甲府市、銚子塚古墳[168メートル)
岡山市、神宮寺山古墳(約150メートル)
東広島市 三ツ城古墳

古墳時代中期
5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化し、人物埴輪が現れた。5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。
5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。
5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓がつくられ始め、また、装飾古墳が出現しだした。

一部の地域首長古墳が巨大化
岡山市 造山古墳(360メートル)
岡山県総社市 作山古墳[270メートル)

畿内の盟主墓
大阪府堺市 大仙(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵、486メートル)
大阪府羽曳野市 誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(伝応神天皇陵、420メートル)
大阪府堺市 上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵、365メートル)

古墳時代後期
6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。
見瀬丸山古墳(みせまるやまこふん、欽明陵と推定される、全長318メートル)
敏達陵古墳(びだつりょうこふん、全長100メートル未満、最後の前方後円墳)
6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行し、埴輪が畿内で衰退し、関東で盛行するようになった。西日本で群集墳が盛んに造られた。

古墳時代終末期
7世紀の初め、関東・東北で横穴式石室を持つ古墳が盛んに造られた。少したって、畿内では前方後円墳が造られなくなり、天皇陵を含む大型古墳も方墳となり、関東では群集墳が盛んに造られた。
春日向山古墳(かすがむかいやまこふん、大阪府南河内郡太子町、用明天皇陵)
山田高塚古墳(推古天皇陵)
石舞台古墳(蘇我馬子の墓と推定、明日香村島庄、一辺約50mの方墳、全長19.1mの横穴式石室)
高松塚古墳
キトラ古墳

古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀後半頃、関東では8世紀はじめ頃、東北地方では8世紀末頃ほぼ終わる。

地域国家から古代国家へ
初期ヤマト王権
弥生時代末期には、発掘調査の結果から、北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことが判っている。このいずれかが母体となって3世紀半ばまでにヤマト王権が成立したと考えられているが、考古学の成果は奈良盆地勢力が吉備政権などと連合してヤマト王権へ成長したことを強く示唆している。北部九州の勢力が奈良盆地勢力を制圧し、奈良盆地へ東遷したとする見解もあるが、次第に支持を失ってきている。
ヤマト王権の成立期には、従前のものより格段に大規模な墓[前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している。弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していたが(→弥生時代の墓制を参照)、前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は各地域の政治勢力が連合したことによって成立したとされている。
ヤマト王権は、ヤマト地方を本拠として本州中部から九州北部までを支配したと考えられている。ヤマト王権は倭を代表する政治勢力へと成長し、支配拡大の過程では大小の勢力や種族との衝突があったと考えられており、『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など)が残されているが、詳細な過程は不詳である。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
古墳時代
できごと
372年 百済の肖古王、倭国に七枝刀1口、七子鏡1面おくる。「泰和4年」(369年]の紀年銘を持つ奈良県天理市の石上神宮の七支刀がこれにあたる。
391年 倭軍、百済新羅を破り、臣民とする。(「高句麗広開土王碑」)
400年 高句麗、倭軍を撃退する。(「高句麗広開土王碑」)
413年 倭国、東晋に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、東晋・義熙9]
414年 高句麗広開土王(好太王)碑たつ。
421年 倭王賛、宋に朝献し、武帝から除綬の詔を受ける。(『宋書』倭国伝、宋・永初2]
古墳時代(こふんじだい)とは、3世紀中葉から6世紀末葉までの約300年間にわたって前方後円墳が北は東北から南は中部九州まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の世紀ともいわれ、その終末期にも方墳・円墳、群集墳などが築造され続けていた時代である。 以前は続く飛鳥時代と合わせて大和時代とも称されていたが、今日では別個に考えるのが一般的となっている。 また、王権を得るためには手段を選ばず、有力候補が自分の兄弟や異母兄弟であろうとも、奸計・策略をめぐらして倒すなどの激しい王権争奪戦が繰り返された時代でもある。他方、灌漑用水確保のための池溝の整備など大規模な開発も盛んに行われ、大土木時代でもあった。
概要
3世紀末から7世紀末まで、前方後円墳という日本独自の形式の墳墓が日本全域に造られた。この時期にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、奈良県桜井市の箸墓古墳が初期のものとされることから、前方後円墳はこの時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。3世紀の後半から奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が出現し、4世紀の初めには河内平野に巨大古墳が築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。つづく5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。それが、6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。これは、ヤマト王権がより強力な政権へ成長したことの現れだと解されている。この後しばらくの間、方墳や円墳は造り続けられる。
対外関係としては、4世紀以降朝鮮半島に進出し、新羅百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが広開土王碑文などから知られる。5世紀には倭の五王が中国に使者を遣わした。倭が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。中国と朝鮮から、文字と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は土師器と須恵器を用いた。
時期区分
3世紀後半ないし4世紀初め頃から古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ばごろまでを古墳時代後期としている。しかし、実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半ごろ、関東では8世紀のはじめごろ、東北地方では8世紀の末ごろでほぼ終わる。時代名称はこの時期、古墳の築造が盛んに行われたことに由来する。日本で最古の古墳は奈良県桜井市にあるホケノ山古墳であるが、近年天理大学学生の地中レーダー探査などにより、この古墳の付近にさらに古い段階の古墳がある可能性が指摘されている。
古墳時代前期
3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。この頃、円筒埴輪が盛行し、土師器が畿内でつくられ、各地に普及し、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。
この時期の主な王墓
奈良県桜井市、箸墓(はしはか)古墳(邪馬台国の女王卑弥呼の墓と目され、最初の王墓。280メートルの前方後円墳、造営は3世紀後半説)
奈良県桜井市、大和古墳群の西殿塚古墳[219メートル)
奈良県桜井市、柳本古墳群の行燈山古墳[242メートル、伝崇神陵)
奈良県天理市、柳本古墳群の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(伝景行陵、310メートル)
この時期の王に準じる規模と内容の主な墳墓
奈良県桜井市、桜井茶臼山古墳[280メートル)
奈良県桜井市、メスリ山古墳[240メートル)
主な首長墓
山梨県甲府市、銚子塚古墳[168メートル)
岡山市、神宮寺山古墳(約150メートル)
東広島市 三ツ城古墳
古墳時代中期
5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化し、人物埴輪が現れた。5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。
5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。
5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓がつくられ始め、また、装飾古墳が出現しだした。
一部の地域首長古墳が巨大化
岡山市 造山古墳(360メートル)
岡山県総社市 作山古墳[270メートル)
畿内の盟主墓
大阪府堺市 大仙(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵、486メートル)
大阪府羽曳野市 誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(伝応神天皇陵、420メートル)
大阪府堺市 上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵、365メートル)
古墳時代後期
6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。
見瀬丸山古墳(みせまるやまこふん、欽明陵と推定される、全長318メートル)
敏達陵古墳(びだつりょうこふん、全長100メートル未満、最後の前方後円墳)
6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行し、埴輪が畿内で衰退し、関東で盛行するようになった。西日本で群集墳が盛んに造られた。
古墳時代終末期
7世紀の初め、関東・東北で横穴式石室を持つ古墳が盛んに造られた。少したって、畿内では前方後円墳が造られなくなり、天皇陵を含む大型古墳も方墳となり、関東では群集墳が盛んに造られた。
春日向山古墳(かすがむかいやまこふん、大阪府南河内郡太子町、用明天皇陵)
山田高塚古墳(推古天皇陵)
石舞台古墳(蘇我馬子の墓と推定、明日香村島庄、一辺約50mの方墳、全長19.1mの横穴式石室)
高松塚古墳
キトラ古墳
古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀後半頃、関東では8世紀はじめ頃、東北地方では8世紀末頃ほぼ終わる。
地域国家から古代国家へ
初期ヤマト王権
弥生時代末期には、発掘調査の結果から、北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことが判っている。このいずれかが母体となって3世紀半ばまでにヤマト王権が成立したと考えられているが、考古学の成果は奈良盆地勢力が吉備政権などと連合してヤマト王権へ成長したことを強く示唆している。北部九州の勢力が奈良盆地勢力を制圧し、奈良盆地へ東遷したとする見解もあるが、次第に支持を失ってきている。
ヤマト王権の成立期には、従前のものより格段に大規模な墓[前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している。弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していたが(→弥生時代の墓制を参照)、前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は各地域の政治勢力が連合したことによって成立したとされている。
ヤマト王権は、ヤマト地方を本拠として本州中部から九州北部までを支配したと考えられている。ヤマト王権は倭を代表する政治勢力へと成長し、支配拡大の過程では大小の勢力や種族との衝突があったと考えられており、『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など)が残されているが、詳細な過程は不詳である。
倭の五王の時代
中国の史書に266年から倭国の関係記事が見えなかったが、約1世紀半もたって、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9]に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀に記されている。421年(宋・永初2年]に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事が見える。これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。これが「倭の五王」である。倭の五王は、日本書紀に見える天皇に比定されており、必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇と見られている。武が中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘から雄略天皇の治世の一端が分かる。「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」とあることから、まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかった。島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には部民制の施行を知ることが出来る。また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群(へぐり)氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。
4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島百済新羅高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと日本書紀にみえ、磐井の乱[527年]として扱っている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が重くのしかかって反乱となったと考えられる。
初期国家の成立
安閑[531年-535年]・宣化[535-539年]・欽明[539-571年]の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣をつくるなど、各地の豪族が部などをつくり、勢力をはっていた。
宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増し、崇峻朝[587年-592年]では蘇我氏が大臣一人で政権の中枢を握った。崇峻天皇は592年、蘇我馬子の手筈により暗殺される。稲目(いなめ)・馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)と蘇我氏が政治上重要な地位を占めた時代が645年(皇極天皇4年]の乙巳(いつし)の変までの約半世紀間続いた。
欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。また、この欽明朝では仏教の伝来があった。538年に百済から伝来した。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いているが、他の史料から編者の改変である事がわかっている。仏教伝来については、蘇我氏と物部氏とが争い、蘇我氏の勝利に終わる。
255新羅を攻撃
百済の肖古即位(-朝鮮半島-朝鮮、新羅百済)--漢直轄支配
255辰韓:秦韓、百済の侵攻するも防御する(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
258百済靺鞨が使者(-朝鮮半島-朝鮮、百済靺鞨)--漢直轄支配
259第3代加羅王麻品王[259~291](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--漢直轄支配
259高句麗:高句驪、魏が攻めてきたが、梁貊の谷で大いに破り、首級八千をあげた(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
260官位を制定官人の服飾は紫、緋色、青の順と定める
百済(古爾王),十六官等と公服制定(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
260百済(古爾王)、一六官等と公服制定(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-国史年表-漢直轄支配
261百済新羅と和親を求めるも得られず(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
262第13代新羅王味鄒尼師今[262~284](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--漢直轄支配
262辰韓:秦韓、《味鄒尼師今[13代金氏 262~284]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
265265年~313年:晋(植民地)
265265年~313年:晋(植民地)(-朝鮮半島-朝鮮、晋)--漢直轄支配
266辰韓:秦韓、百済が烽山城を攻めるが敗走する(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
266新羅を攻めるも敗退(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
270第13代高句麗王西川王[270~292](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
270高句麗:高句驪、《西川王[270~292]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
278辰韓:秦韓、百済が侵入してきて槐谷城を包囲したが、撃退した(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
279百済の仇首即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
280高句麗:高句驪、粛慎が侵攻してきて辺境の住民を殺害したので、討伐(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
283辰韓:秦韓、百済が攻め入り、槐谷城を包囲したが、防御する(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
284辰韓:秦韓、《儒礼尼師今[284~298]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
286辰韓:秦韓、百済が講和を求めて使者を送ってくる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
286第8代百済王責稽王[286~298]
新羅と和親を求める
責稽王即位セキケイ(青稽、古尓王の子)帯方の王妃を妃とする
高句麗の帯方攻撃に対して援軍(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
287新羅、夏四月に倭人が一礼部を襲う。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--漢直轄支配
287辰韓:秦韓、倭人が一礼部に来たり、集落に放火して周り、1千人を捕虜にして立ち去った(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
289新羅、夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
百済の古爾即位
百済の沙伴即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
291第4代加羅王居叱弥王[291~346](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--漢直轄支配
292第14代高句麗王烽上王[292~300]
新羅、夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
292高句麗:高句驪、《烽上王[292~300]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
292辰韓:秦韓、倭兵が沙道城を陥落させようとしたので一吉?の大谷に命じて救援させた(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
293高句麗:高句驪、鮮卑の侵攻を受けるも打ち負かす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
294新羅、夏倭兵が長峯城を攻めて来た。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--漢直轄支配
294辰韓:秦韓、倭兵が長峯城を攻めたが、勝てなかった(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
295新羅、春王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
296高句麗:高句驪、鮮卑再び侵攻するも退却(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
297辰韓:秦韓、伊西国に攻められ首都金城を包囲されるが、竹葉軍の助力を得てこれを退却させる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
298辰韓:秦韓、《基臨尼師今[298~310]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
298第15代新羅王基臨尼師今[298~310]
第9代百済王汾西王[298~304]
漢が貊人とともに侵入責稽王戦死
汾西王即位フンセイ(責稽王の長男)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
300:3世紀頃三国時代-1世紀中頃には漢の支配が弱まり、-37年に中国の遼寧省付近に伝説の人物朱蒙(しゅもう)が高句麗(こうくり、こま)を建国した。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、楽浪郡帯方郡を滅ぼした。391年に即位した広開土王(好太王)は遼東に勢力を伸ばし、満州南部から朝鮮半島の大半を領土とした。半島南部では、3世紀頃に三韓(馬韓辰韓弁韓)と呼ばれる国が分立し、楽浪郡の支配を受けていた。4世紀中には馬韓百済(くだら)が、辰韓新羅(しらぎ)が統一して、朝鮮半島三国時代が始まった。三国は激しく争い、新羅は他の二国に圧迫されていた。4世紀中頃には日本が弁韓に進出し、任那(みまな:伽耶(かや)とも言う)を支配した。中国を統一した隋は、4度の高句麗遠征に失敗して滅び、次の唐も高句麗遠征に失敗した。新羅は唐との関係を強化し、唐・新羅連合軍は660年に百済を滅し、663年には百済の遺臣とそれを支援する倭国軍(指導者は後の天智天皇の中大兄皇子)を白村江で破った。そして668年には、残った高句麗を滅し、新羅朝鮮半島を統一した。新羅は仏教を保護し、民衆の生活も豊かになった。(-朝鮮半島-三韓、朝鮮)--朝鮮三国時代
300第15代高句麗王美川王[300~331]
新羅、春正月に、倭国と使者を派遣し合った。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配
300高句麗:高句驪、《美川王[300~331]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
300辰韓:秦韓、倭国と使者を交わし、楽浪・帯方の2国が帰服してくる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
302高句麗:高句驪、三万の軍隊を率いて玄菟郡に侵入し、捕虜八千人を得て平壌に移住させた(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
304第10代百済王比流王[304~344]
楽浪を攻撃するも楽浪の刺客により汾西王殺される
比流王即位ヒリュウ(仇首王の第2子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
307辰韓:秦韓、国号を新羅に戻す(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
308百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配
310辰韓:秦韓、《訖解尼師今[310~356]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
311高句麗:高句驪、遼東郡の西安平を襲撃して奪い取る(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
312新羅、春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿?の急利の娘を倭国に送った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--漢直轄支配
312辰韓:秦韓、倭国王に通婚のための急利の娘を嫁として送る(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
313高句麗楽浪郡滅亡させる
漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、漢からの支配を追放することになる。

高句麗による楽浪郡の滅亡
紀元前108年に衛氏朝鮮が魏に滅ぼされると朝鮮半島の大部分は長きに渡る中国勢力からの支配を受けることになります。前漢後漢→魏→晋へと。そんな中、北から朝鮮半島へと勢力拡大を狙う国がありました。中国東北地方から出たツングース系貊族が建てた高句麗です。この高句麗により313年、中国勢力の拠点であった楽浪郡が滅ぼされます。この頃は、中国の晋が滅亡する前後のことですね。さらに、帯方郡も滅ぼされ(高句麗によって滅ぼされたとする書と朝鮮の土着の勢力によって併合されたとする書がある)、これにより朝鮮半島から中国勢力が駆逐されることになります。さぁ、中国勢力を追い出した高句麗は、どんどん南へと勢力拡大を狙います。この頃の朝鮮半島南部は小さな国々が集まり、馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)といういわゆる三韓が小国国家郡をつくっていましたが、高句麗の脅威もあり統一の機運が高まります。そして、馬韓が統一され建てられた国家が百済に。辰韓が統一されてできた国が新羅となりました。ちなみに、弁韓の地は統合がうまく進まず、加羅諸国となりますが、後に百済新羅に統合されます。これで、高句麗も簡単には朝鮮統一とはいかなくなります。そう朝鮮史上に残る「三国時代」の始まりです。(-朝鮮半島-高句麗前漢楽浪郡、朝鮮)--漢直轄支配→朝鮮三国時代
313漢直轄支配→三国時代[313-676]
313高句麗楽浪郡を滅亡させる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-国史年表-漢直轄支配→朝鮮三国時代
313三国時代
高句麗百済新羅が戦争を繰り返した。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配→朝鮮三国時代
313高句麗楽浪郡を滅ぼす。新羅百済の建国(高句麗-朝鮮半島-朝鮮、高句麗新羅百済)--漢直轄支配→朝鮮三国時代
313高句麗:高句驪、楽浪郡に侵入してこれを滅ぼす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗百済)-総合年表(北・東・東南アジア)-
313中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配→朝鮮三国時代
314高句麗帯方郡を亡ぼす(中国の郡県支配終わる)(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
314314年~676年:晋宋梁陳隋唐(属国)
315高句麗:高句驪、玄菟城を攻め、勝利する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
315百済の責稽即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
320高句麗:高句驪、遼東に侵略を試み、慕容仁に撃ち破られる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
321百済の汾西即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
324百済の比流即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
330高句麗:高句驪、後趙のもとに朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
331高句麗、《故国原王[331~371]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
331第16代高句麗王故国原王[331~371]
百済、大飢饉、人を殺して食べる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
334高句麗、鮮卑への備えとして平壌城を増築(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
334百済、契王即位ケイ(汾西王の長男)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
335高句麗、国の北部に新城を築く(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
335百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
337新羅の使者(-朝鮮半島-朝鮮、新羅百済)--朝鮮三国時代
337辰韓:秦韓、国交を開くため百済に使者を送る(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
339高句麗、前燕の慕容?に攻め入られて和睦を乞い、翌年より前燕に対して朝貢する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
342高句麗、丸都城(山城)を修復し、国内城(平城)を築城し、居所を平壌から移して鮮卑の侵攻に備えた
前燕の慕容?は大挙して高句麗に攻め入り、故国原王は単身で東方に逃れる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
343高句麗、前燕の臣下となることを誓う(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
344第11代百済王契王[344~346]
新羅、倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅百済)--朝鮮三国時代
345辰韓:秦韓、倭国と国交断絶(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
345新羅、二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
百済の契即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
346百済」建国朝鮮半島百済興る。(-朝鮮半島-、朝鮮)--
346倭兵・新羅の風島を襲い、進んで王城を囲む(三国志記)(古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅、日本)--朝鮮三国時代
346辰韓:秦韓、倭国が風島を襲撃してくるが倭軍を追撃して敗走させた(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)--
346'■前期漢城時期(?475年)
中国が五胡十六国の時代
'
346百済の建国(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
346朝鮮半島南部に百済建国(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
346第12代百済王近肖古王[346~375]
第5代加羅王伊尸品王[346~407]
近肖古王の即位。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(百済)(百済)
近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子)
新羅、倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
中国が五胡十六国の時代
百済,近肖古王即位
百済の照古即位
■前期漢城時期(?475年)
ソウル夢村土城跡
夢村土城の土塁跡(ソウル)中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王[346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。
近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。
しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。
346年、近肖古王の即位。
近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。
百済の建国
346年ころ百済の建国朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年[372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
346百済、建国。
百済(346ー660]百済三国時代の古代国家のひとつで、
-18年からAD660年まで国を守りました。高句麗の王族である温祚が韓半島の西南部に建国しました。洗練された発展した文化が花開き、特に日本に多くの影響を与えました。AD660年に新羅と唐の連合軍により滅ぼされました。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
346346年ころ百済の建国 朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。 346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
346■前期 漢城時期( ? 475年)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
346中国が五胡十六国の時代(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
346百済の照古即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
346百済、近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
346346年、近肖古王の即位。
近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
346百済、《近肖古王即位》
百済のもとは、馬韓の伯済国で漢江下流域(現、ソウルの江南地区)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
■前期 漢城時期( ? 475年)
 ソウル 夢村土城跡
夢村土城の土塁跡(ソウル)  中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。
 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。
 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。
350朝鮮に高句麗百済新羅の三国が成立(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗百済新羅)--朝鮮三国時代
356新羅」、建国朝鮮半島新羅が建国。(-朝鮮半島-、朝鮮)--
356新羅、第17代新羅王奈勿尼師今[356~402](-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
356新羅の建国(新羅-朝鮮半島-朝鮮、新羅百済)--朝鮮三国時代
356朝鮮半島南部に新羅建国(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
364新羅、倭の侵入に不意討ちをかけて敗走させる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
364百済再建(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
364百済再建
漢江付近はこの当時倭国の領域であった。しかしながら、大和朝廷の施政権はほとんど及んでおらず、ほとんど未開地のような情勢であったと思われる。百済としては、まだどこにも所属していないと思い、新しい国として百済再建を諮った。
周辺がほとんど未開の地であるために、少しずつ領土を拡張していった。その中でこの地が倭国領であることを知ったと思われる。
百済王としては、倭国が巨大な領域を占めており、かなりの強国であるという噂を知り、このままこの地を領有していると、何れ倭国と交戦しなければならなくなり、存亡の危機にかかわることになりかねないので、倭国王との接触を図ろうとしたと思われる。
その関連記事が神功皇后44年及び46年の記事であろうと思われる。
神功44年百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った。
神功46年斯摩宿禰を卓淳國に遣す。百済との交流が始まる。
神功44年は364年である。百済が建国後200年も倭国の存在を知らないなど考えにくいことであり、この記事は神功皇后ではなく卑弥呼の時代のものと考える。神功44年は中国干支で甲子である。この干支がこの当時の半年一年干支の間違いであるとすれば、同じ甲子となるのはAD204年後半である。よって、卓淳國で使者を送ったのは204年、百済との交流が始まったのは205年となる。
新羅、倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
366百済新羅に使者(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
367百済新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)(百済)(-朝鮮半島-朝鮮、百済新羅)--朝鮮三国時代
368百済、日食 新羅に使者(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
369高句麗、2万の軍隊を率いて百済を攻めたが、雉壌の地で大敗する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
369百済高句麗が侵入 百済軍の軍旗に黄色を用いる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
369百済高句麗百済を攻め雉壌の戦いで敗北する(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
369倭、朝鮮に出兵し、加耶諸国(任那)(半島南部)を支配下に置く(古墳時代-朝鮮半島-倭国(漢書)、日本、朝鮮)--
371高句麗百済の近肖古王が兵3万を率いて高句麗に攻め込み、流れ矢に当たり戦死
《小獣林王[371~384]》
小獣林王はひたすらに国力の回復に努めた(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
371第17代高句麗王小獣林王[371~384]
近肖古王,高句麗の平壌城を攻撃.故国原王戦死
高句麗が侵入百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死
高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(百済)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
371百済高句麗が侵入 百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
371371年、高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
371百済高句麗の平壌城を攻め、高句麗故国原王戦死(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
371このころ朝鮮で百済が漢山を都とし、国家体制を整える(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-総合年表(北・東・東南アジア)-
372高句麗、仏教伝来、大学設置(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-国史年表-朝鮮三国時代
372高句麗、前秦の苻堅から派遣された仏僧順道を受け入れる
太学をたてて儒教による教育を推し進める(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
372仏教が高句麗に伝わる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-
372慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。
高句麗,仏教伝来,太学設置.漢学を教える
高句麗、仏教の伝来。
晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり)
東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。
百済王と世子(太子)が日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を倭王に贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(石神神社七支刀369製作)
百済,東晋に使節を送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
372百済、晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
372372年、東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
372慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
372百済、東晋、百済王余句(近肖古王)を鎮東将軍領楽浪太守にする(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
372百済、東晋に使節を送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済、東晋)-国史年表-朝鮮三国時代
372372年、日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済、倭国)--朝鮮三国時代
372七支刀百済王が倭国に七支刀を送った。
百済王世子から七支刀が贈られる(-朝鮮半島-朝鮮、百済、倭国)--
372百済の肖古王、倭国に七枝刀1口、七子鏡1面おくる。「泰和4年」(369年)の紀年銘を持つ奈良県天理市の石上神宮の七支刀がこれにあたる。(-朝鮮半島-朝鮮、百済、倭国)--
373高句麗、律令をはじめて頒布(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
375高句麗、肖門寺を創建してこれを置き、後れて高句麗に入った仏僧阿道のためには伊弗蘭寺を創建した(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
375第13代百済王近仇首王[375~384]
近仇首王即位キンキュウシュ(須、近肖古王の子)
百済高句麗侵入
(注記にこの時代に文字を得て事を記すようになったとある)
百済の貴須即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
377高句麗、前秦へ朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
377新羅高句麗に随伴して前秦に初めて新羅が朝貢した(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
377高句麗の平壌城を攻撃北朝の前秦へも朝貢。(百済)
晋に朝貢 仏僧が晋から渡来(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
378高句麗契丹の侵略を受けて8部落を奪われる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
382新羅、前秦に新羅王楼寒の朝貢(新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べた)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
382新羅の奈勿王、前秦に遣使(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、前秦)-総合年表(北・東・東南アジア)-
384高句麗、《故国壌王[384~392]》
教書を出して仏教信仰の拡大を後押しした(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
384百済、仏教の伝来。
第14代百済王枕流王[384~385]
第18代高句麗王故国壌王[384~392]
西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。
百済,仏教伝来(東晋の僧・摩羅難陀).中央集権化の手段として公認
百済の枕流即位
枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)
晋に朝貢仏僧が晋から渡来(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
384百済、仏教伝来(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-国史年表-朝鮮三国時代
384百済の枕流即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
384枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)
晋に朝貢 仏僧が晋から渡来(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
384384年、西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
384百済、晋から百済に仏教伝来(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
385第15代百済王辰斯王[385~392]
辰斯王即位シンシ(枕流王の弟)
百済の辰斯即位
仏寺を創建(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
385百済の辰斯即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
385百済、仏寺を創建(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
386百済高句麗が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
387東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。
百済靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
389高句麗を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
390高句麗百済の侵攻により、都押城(平壌市中和郡)を破られるなど、劣勢に陥いる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
391高句麗広開土王(好太王)即位(~412)(高句麗-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-朝鮮三国時代
391高句麗、《広開土王(好太王:391~412]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
391高句麗広開土王即位。
高句麗、そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
高句麗広開土王(好太王)即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
391倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
391百済靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
391倭軍、百済新羅を破り、臣民とする。(「高句麗広開土王碑」)(-朝鮮半島-朝鮮、百済新羅、倭)--
391倭兵、朝鮮半島に出兵し、百済新羅を破り高句麗と交戦(~404]したが朝鮮半島から撤退(古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、百済、日本:倭)--朝鮮三国時代
391倭が朝鮮半島(南部)の百済(くだら)、加羅(から)、新羅(しんら)を臣民とする(好太王碑-こうたいおうひ)(古墳時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
391倭国朝鮮出兵 倭国が朝鮮に出兵する 【好太王の碑文より】この後、15代応神天皇が即位したいう説もあります。(394)(-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
391倭兵、海を渡り百済新羅を破って臣民とする(好太王碑文)(古墳時代-朝鮮半島-百済、朝鮮、新羅、日本:倭)--朝鮮三国時代
391倭の朝鮮出兵(古墳時代-朝鮮半島-倭国(漢書)、日本、朝鮮)--
392第19代高句麗王廣開土王[392~413](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
392高句麗新羅と友好関係をむすぶ
百済の石硯城を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させる
北方の契丹を征伐し、男女500人を捕らえ捕虜となっていた高句麗人1万人を連れ戻す(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
392新羅高句麗から王族である実聖を人質として送ってくる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
392第16代百済王阿芳王[392~405](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
392百済、阿シン王即位アシン(草冠+辛、阿芳、枕流王の子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
392百済、日食
高句麗広開土王が侵入多くの領土を奪われる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
392百済の阿辛(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
392百済高句麗百済北部を攻め、十余城を落とす(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
393高句麗、平壌に9寺を創建して、仏教を奨励(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
393新羅、倭軍を大敗(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
393新羅、倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代
394高句麗、水谷城を築く(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
395高句麗、侵攻して来た百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
395高句麗広開土王と戦うも大敗する(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
396高句麗、漢江を越えて進撃して百済の58城700村を攻略し、百済王に隷属することを誓わせる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
396高句麗百済を服従させる
高句麗広開土王が、平壌城を奪い返す。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
396高句麗広開土王が、平壌城を奪い返す。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
396百済高句麗百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
397高句麗、[倭が新羅の王都を攻める](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
397倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。
倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
397百済、倭国と通好し、太子を人質とする(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
399高句麗百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
399高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
399百済、倭と結び、倭兵、新羅国境に満ちる。(好太王碑文)(古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、百済、日本:倭)--朝鮮三国時代
400高句麗、南部に出兵して倭を討つ。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
400高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
400高句麗、歩騎五万を新羅に派遣して倭軍を撃破し、任那加羅(金官加羅・駕洛国)まで追撃する
後燕が侵攻してくると、遼東城(遼寧省遼陽地級市)を含めた遼河東岸地域を占領(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
400倭軍、帯方郡で高句羅…古代朝鮮三国の一つに敗北[404](古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、日本:倭)--朝鮮三国時代
400高句麗、倭軍を撃退する。(「高句麗広開土王碑」)(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、倭)--
400倭の五王(讃、珍、済、興、武)、南朝の宋に使いを送る(古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、日本:倭)--朝鮮三国時代
400百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
400百済 4世紀前半頃 - 660年(-朝鮮半島-百済、朝鮮)-消滅した政権一覧-
400倭が朝鮮半島(北部)の高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)と戦う[400頃](古墳時代-朝鮮半島-倭国(漢書)、日本、朝鮮)--
402倭兵、新羅任那高句麗と戦う。(好太王碑文)(古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、日本:倭)--朝鮮三国時代
402新羅、《実聖尼師今[402~417]》
倭国と国交を結び、先王の第3子の未斯欣を人質として送った(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
402新羅、三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代
402百済から倭国へ使者を送る。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
402百済、倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
402402年、百済から倭国へ使者を送る。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
403新羅百済からも侵入を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
403倭国から百済へ使者を送る。
百済、倭国の使者を特に手厚くねぎらう
人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて
倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
404高句麗、倭軍の水軍が帯方界に侵入するも、撃退(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
404高句麗、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
404404年、倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
405新羅、倭国に明活城に攻め入られが、退却しようとする倭軍を撃破(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
405新羅、倭兵が明活城を攻める。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代
405百済,阿直岐・博士王仁など日本に渡り漢学伝える(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代
405百済、日本に漢学伝える(-朝鮮半島-朝鮮、朝鮮:百済)-国史年表-朝鮮三国時代
405第17代百済王腆支王[405~420](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
405百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
405百済の直支(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
405百済阿花王が薨る。天皇は直支王を召して国に帰り王位を嗣ぐようにいい、東韓の地を賜った。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
405百済、腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)
人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて
倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
405405年、百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
406百済、晋に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
407第6代加羅王坐知王[407~421](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代
407高句麗百済を攻撃して6城を攻略する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
407新羅、倭国の侵入を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
407新羅、春三月倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代
408新羅、春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、新羅、倭)-対馬-朝鮮三国時代
409倭国の使者が夜明珠を送る厚く礼遇する(夜明珠の意不明)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
410高句麗、東扶余を屈服させる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
412新羅高句麗に対して先王の第2子の卜好を人質として送る(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
413第20代高句麗王長寿王[413~491](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
413高句麗、《長寿王[413~491]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
413倭の五王の時代

中国の史書に266年から倭国の関係記事が見えなかったが、約1世紀半もたって、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9]に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀に記されている。421年(宋・永初2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事が見える。これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。これが「倭の五王」である。倭の五王は、日本書紀に見える天皇に比定されており、必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇と見られている。武が中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘から雄略天皇の治世の一端が分かる。「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」とあることから、まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかった。島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には部民制の施行を知ることが出来る。また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群(へぐり)氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。

4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島百済新羅高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと日本書紀にみえ、磐井の乱[527年)として扱っている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が重くのしかかって反乱となったと考えられる。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
414高句麗、首都の国内城(現在の中国吉林省集安市東郊)に父の事績を記した碑文(広開土王碑)を建造(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
414高句麗広開土王牌(好太王)碑建立。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
414高句麗広開土王(好太王)碑たつ。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
414広開土王(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
415新羅、倭軍と風島(未詳)で戦って、倭軍を退けた(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
416東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。
東晋の使者が王を鎮東将軍百済王とする(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
417第19代新羅王訥祇麻立干[417~458](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代
417新羅、《訥祇麻立干[417~458]》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
418新羅高句麗と倭国への人質が逃げ帰った。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
418百済、倭国に白綿を送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
419百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
420第18代百済王久尓王[420~427](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
420百済、久尓辛王即位クニシン(腆支王の長男)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
420宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
420420年、宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
421第7代加羅王吹希王[421~451](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代
427高句麗、平壌遷都。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
427高句麗、平壤遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-国史年表-朝鮮三国時代
427高句麗、首都を国内城から平壌に移す(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
427第19代百済王毘有王[427~455](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
427百済、ヒ有王即位ヒユウ(田+比、久尓辛王の長男あるいは腆支王の養子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
428倭国の使者(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
429百済、宋に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
431新羅、倭人の侵入を受けて交戦[440](-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
431新羅、倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代
433百済新羅高句麗に対して同盟を結ぶ
高句麗の南進政策で首都(慰礼城:漢江流域)が陥落されて非常に苦しんだ百済は、首都を熊津(忠清南道の公州)と泗 (忠清南道の扶餘)に移しながら体制を整備して復興を図った。
高句麗の南進は韓国の南東部で成長していた新羅にも大きな脅威をあたえた。そこで、新羅百済高句麗の攻撃を受けた場合、互いに助け合うという羅済同盟を結んだ。結婚同盟まで発展した百済新羅の同盟関係は高句麗の度重なる攻撃を防ぐのに大きく役立った。
百済新羅高句麗の南進政策をある程度防ぎながら国の秩序を立て直すことができた。そのようにして体制を整備して国力を強化した両国は6世紀に入ると高句麗と対抗できる実力を持つようになった。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
433新羅百済同盟成立(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代
433新羅百済の同盟成立。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅百済)--朝鮮三国時代
433百済新羅に使者を送り和親を求む(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
433百済新羅と同盟(羅済同盟)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
434新羅の使者が答礼(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
438羅済同盟成立。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
440新羅、倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。
日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
440百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
442伽耶、倭が大伽耶に侵攻するも、百済に救援を求め、これを排除する(-朝鮮半島-朝鮮、伽耶)--
443倭国王、済が宋に朝貢。安東将軍倭国王の称号を得る(-朝鮮半島-朝鮮、倭)--朝鮮三国時代
444新羅、倭人の侵入を受けて、首都金城(慶州市)を10日余りも包囲される(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
444新羅、夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅新羅)--朝鮮三国時代
447百済、干ばつ 新羅への避難民(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
450新羅高句麗の辺境の首長が狩猟時に殺害し、長寿王は新羅の北西部国境に軍を派遣してきたが謝罪を行う(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
451第8代加羅王金至知王[451~492](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代
451倭国王、済使持節都督倭新羅任那加羅慕韓六国諸軍事を加号される(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
451倭王済「安東大将軍倭国王」に任命される(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
454新羅高句麗新羅北部辺境に侵入(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
455新羅高句麗百済に侵入した際には、救援兵を発した(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
455第20代百済王蓋鹵王[455~475](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
455百済、蓋鹵王即位ガイロ(近蓋婁、ヒ有王の長男)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
455百済高句麗百済を撃ち、新羅百済を救う(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
458新羅、《慈悲麻立干[458~479]》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
458百済百済余慶(蓋鹵王)、宋に使者を送り、臣下の叙授を求める(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
459新羅、夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
462新羅、夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
463新羅、倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
468百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
469百済高句麗に侵入
魏に高句麗の罪悪を並べ救援を乞う上表文と応答があるが
魏が百済を支援しなかったために朝貢をやめる
新羅の援軍をつれて帰国(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
470新羅、三年山城を築き、以後朝鮮半島中央部への領域拡大が進む(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
472百済、魏に朝貢
魏に高句麗の罪悪を並べ救援を乞う上表文と応答があるが
魏が百済を支援しなかったために朝貢をやめる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
472百済百済王余慶、北魏に使者を送り、高句麗出兵を求める(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
475高句麗の南進により,百済漢城から熊津(公州)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
475高句麗百済の漢城(ソウル)を陥落させて蓋鹵王を殺害(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
475新羅高句麗百済に攻め入り援軍を送るも都漢城は陥落・蓋鹵王も殺害される(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
475'■中期熊津(公州)時代[475年?538年)'
475熊津の公山城跡(公州)長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。
第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。
高句麗百済の漢山城を攻略。百済、熊津へ都を遷す。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
475第21代百済王文周王[475~477](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
475百済高句麗が侵入し蓋鹵王を殺す
子の文周等は南へ逃げる(木劦満致らを伴う)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
475高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
475百済、文周王即位ブンシュウ(ブン洲サンズイ+文、蓋鹵王の子)
新羅の援軍をつれて帰国(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
475高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
475百済高句麗長寿王、百済の漢城を陥落させ、百済蓋鹵王を殺す(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
475百済百済文周王即位し、熊津(現・忠清南道公州市)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
476耽羅:耽牟羅:屯羅、百済の文周王に朝貢した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)--
476新羅、倭人が東辺を攻める。
耽羅国(済州島)が朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
477新羅、倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、日本)--朝鮮三国時代
477第22代百済王三斤王[477~479]即位サンキン(壬乞、文周王の長男幼年につき解仇が実権)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
477百済百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
478解仇が謀反(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
478大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
478478年、大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
479伽耶、南朝の南斉に使者を送り、冊封をうける(-朝鮮半島-朝鮮、伽耶)--
479新羅、《?知麻立干[479~500]》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
479第23代百済王東城王[479~501]即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
479解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。
次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
479百済、東城王即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
479479年、解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。
次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
479百済、《百済東城王即位》(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
481新羅高句麗靺鞨が攻めてきたとき、百済伽耶の援軍を得て追撃(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
482新羅、五月に倭人が辺境を攻める。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
482百済靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
484新羅高句麗が侵入し、百済と協力して追撃(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
484百済、南斉に朝貢するも高句麗がこれを妨害(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
485百済新羅に使者(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
486新羅、夏四月に倭人が辺境を攻める。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
488新羅、居城を明活城(慶州市普門里)から月城に戻した
(月城:慶州盆地南よりの南川に沿った独立丘陵)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
488百済に魏の討伐軍侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
489新羅高句麗が侵入し、狐山城を陥落(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
490百済、北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
491第21代高句麗王文咨明王[491~519](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
491飢饉で新羅への避難民(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
492第9代加羅王鉗知王[492~521](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代
492高句麗、《文咨明王[492~519]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
493新羅に妃を求める(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
494高句麗扶余王が妻子とともに降伏してくる
新羅と戦って薩水の原で犬牙城に追い詰めたが、百済の援軍のため断念する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
494新羅、薩水の河原戦いで百済の東城王が3千の兵とともに救援し、高句麗兵を退却させた(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
494新羅に侵入した高句麗軍に対し援軍(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
495高句麗百済の雉壌城を包囲したが、新羅の援軍のため断念する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
495新羅高句麗百済に攻め入りが、援軍し高句麗兵を壊滅(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
495百済、日食
高句麗の侵入に新羅が援軍(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
495百済高句麗百済の雉壌城を攻め、新羅百済を救援する(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
496高句麗新羅の牛山城を攻めたが勝てず、翌年にようやく攻め落とす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
496新羅高句麗が侵入して牛山城を攻められ、陥落(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
498高句麗、平壌に金剛寺を創建(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
498耽羅:耽牟羅:屯羅、百済の東城王に服属した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)--
499百済、干ばつ(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
500新羅、春三月倭人が長峯鎮を攻め陥した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
500新羅、長嶺鎮を倭軍に陥落
《智証麻立干[500~514]》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
500家臣が王の浪費をいさめるも聞かれず(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
501第24代百済王武寧王[501~523]即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子)
東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
501百済、武寧王即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
501501年、東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
501百済、《東城王暗殺され、武寧王即位》(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
502新羅、牛耕実施(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代
502新羅、殉葬を禁止(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
502百済、飢饉と疫病
高句麗を攻撃
新羅,牛による耕田を始めて実施(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
503高句麗百済に攻め入られ、水谷城を落とされる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
503新羅、国号と王号を定める。(アジア-新羅)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
503新羅、国号と王号を定める(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代
503新羅、斯羅・斯盧・新羅などと称していた国号を新羅に定める(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
503百済百済武寧王、倭国に遣使(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
506百済靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
507高句麗靺鞨と共同で百済の漢城(ソウル)を攻めようとしたが、百済軍に迎撃される(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
507高句麗侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
508耽羅:耽牟羅:屯羅、南海中の耽羅人が初めて百済国と通じた(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)--
512高句麗百済に攻め入り、加弗城・円山城を陥落させ、男女一千人余りの捕虜を得た(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
512百済が日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条)
百済、梁に朝貢
高句麗侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
512大伴金村(日本)が任那4県を百済に割譲する(-朝鮮半島-朝鮮、百済、日本:倭)--朝鮮三国時代
513百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己?(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己?の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己?と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)(-朝鮮半島-日本、朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
513百済、五経博士を貢上(-朝鮮半島-日本、朝鮮、百済)-飛鳥時代(年表)-
514新羅、《法興王[514~540]》
(これまでは高句麗従属型外交であったが、自立型外交に変化してゆく)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
514第23代新羅王法興王[514~540]
判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
514514年、判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
515百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
516日食
百済は物部連らを己?で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
517新羅、「兵部」を設置(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
519第22代高句麗王安蔵王[519~531](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
519高句麗、《安臧王[519~531]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
520新羅,律令領布,百官の公服制定(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
520新羅、律令領布、百官の公服を制定(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代
521第10代加羅王仇衝王[521~562](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代
521新羅百済に伴われて梁に対して朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
521使者を梁に送り寧東大将軍を授かる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
522新羅伽耶国王との通婚友好をはかる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
522司馬達等、仏教を伝来〔扶桑略記〕(-朝鮮半島-日本、朝鮮、百済)-飛鳥時代(年表)-
523高句麗百済に侵攻する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
523第25代百済王聖王[523~554](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
523百済、聖王即位セイ(メイジョウ、明+のぎへん+農、武寧王の子)
高句麗が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
523百済、《百済聖王(聖明王)即位》(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
524伽耶新羅の侵攻が始まる(-朝鮮半島-朝鮮、伽耶)--
524梁から綏東将軍百済王を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
525百済、武寧王陵を築造する。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
525新羅と国交を結ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
527新羅、仏教公認(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代
527磐井の乱、筑紫国造磐井の乱(朝鮮半島南部へ出兵を巡っての国内反乱)を、物部あらかびが鎮圧。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-飛鳥時代(年表)-朝鮮三国時代
528新羅、貴族層の反対を押し切って仏教の公認(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
529高句麗、再び百済に攻め入り五谷(黄海道瑞興郡)で大勝し、首級二千余をあげた(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
529百済高句麗が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
531第23代高句麗王安原王[531~545](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
531高句麗、《安原王[531~545]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
532伽耶国滅亡朝鮮半島伽耶国が滅亡。(-朝鮮半島-、朝鮮)--
532新羅、南伽耶の金宮国を併合。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
532新羅,金海の金官伽耶を併合(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
532新羅、金官国を滅ぼし、準王族的に優遇した(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
532任那日本府(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--朝鮮三国時代
534新羅、興輪寺の建立を開始し、仏教を広めること(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
536新羅,年号を使用(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
536新羅、年号使用(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代
538'■後期泗 (扶余)時代[538年?660年)
三国時代百済
扶余
'
538百済、王都を泗 城(扶余)に遷す。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
538三国時代百済
三国時代の地図、5世紀終わり頃
ByEvawen,Gzhao[GFDLorCCBY3.0]
第25代武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。
武寧王の亡き後即位した、第26代聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の泗 (サビ)、今の扶余へ遷都しました。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
538都を熊津から泗 (しひ・現在の忠清南道扶余扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
538百済、都を泗ヒ(さんずい+比)に遷都し国名を南扶餘とする
(所夫里とも呼び現在の忠清南道の扶餘市)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
538百済,泗 城(扶余)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
538百済、都を泗 城に移す(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-国史年表-朝鮮三国時代
538■後期 泗 (扶余)時代[538年 ? 660年)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
538扶余(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
538538年、都を熊津から泗 (しひ・現在の忠清南道扶余扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
538百済百済聖王、泗?(現・忠清南道扶余市)に遷都し、国号を南扶余と号す(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
538百済の聖明王,倭に仏像・経論を送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済、倭)--朝鮮三国時代
538泗 に遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが、その名は定着しなかったようです。
扶余定林寺五重塔
滅亡の傷跡を残す定林寺・五重塔551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻しますが、翌年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立が生じます。そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。
はじめは新羅百済の和平を求めていた唐ですが、百済義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。
こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本(倭国)ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。
百済、泗 (しび)遷都。(-朝鮮半島-百済、朝鮮、南扶余)--朝鮮三国時代
53810.12  日本に百済から仏教が伝わる[552年とする説もある)(古墳時代-朝鮮半島-日本、朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
539聖徳太子(厩戸皇子)摂政539年(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--朝鮮三国時代
540高句麗百済が侵攻して来もこれを撃退する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
540新羅、《真興王[540~576]》
花朗集団の発足をみる
花朗集団:
花朗が率いる朗徒集団であり、貴族の子弟を複数の集団に分け互いに鍛錬しあうもので、その集団の中心人物を花朗と云う
その後、統一戦争においても華々しい活躍をみせる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
541新羅百済との同盟
高句麗領に入り、百済と共同して漢江流域に進出した第一歩の「丹陽赤城碑」を設置(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
541梁に使者を送り博士、仏典、匠を求めて得る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
545第24代高句麗王陽原王[545~559](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
545高句麗、《陽原王[545~559]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
545新羅,「国史」編纂(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
545新羅、国史編纂(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代
547百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
548高句麗、?の兵を用いて百済の独山城に侵攻するも、新羅の応援により退却(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
548新羅高句麗百済に攻め込んだときには百済を助けた(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
548高句麗がワイ(さんずい+歳)と共に侵入、新羅援軍を得て撃退(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
549新羅、梁から使者、僧覚徳と仏舎利(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
550高句麗百済に道薩城を陥落させられ、百済の金?城を攻撃しているあいだに二城とも新羅に奪われる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
550新羅高句麗百済との交戦の時には係争地である道薩城及び金?城を奪い取った(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
550高句麗を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
551高句麗、突厥の侵攻に防戦しているときに新羅に十城を奪われる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
551新羅高句麗領に侵入し、竹嶺付近の10郡を奪った
高句麗から僧恵亮(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
551百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
552高句麗、長安城(平壌市)の造成を開始(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
552新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。
百済聖王30年,達率恕利斯致契が日本に仏教伝える(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
552百済、日本に仏教を伝える
『日本書紀』によると、日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明十三年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)を根拠に538年(宣化三年)に仏教が伝えられたと考えられ、歴史の教科書にも538年が掲載されている(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
552百済、日本に仏教を伝える(-朝鮮半島-朝鮮、百済、日本)-国史年表-朝鮮三国時代
553新羅百済高句麗から取り戻したばかりの漢山城を含む一帯を奪い、漢江流域に新州を設置(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
553百済新羅百済北部を占有する
百済王女が新羅へ嫁する(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
554新羅百済伽耶と連合して管山城に攻め入ったが、連合軍2万9千600を殲滅した(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
554第26代百済王威徳王[554~598](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
554百済、威徳王即位イトク(昌、聖王の子)
高句麗が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
554王自ら新羅を攻めるも敗死(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
554百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
554554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
554百済百済聖王、新羅の管山城を撃ち敗死。百済威徳王即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
559第25代高句麗王平原王[559~590](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
559高句麗、《平原王[559~590]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
559百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
561百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
562新羅任那を併合滅亡、朝鮮への影響力を失う(古墳時代-朝鮮半島-新羅、朝鮮、伽耶、日本)--
562新羅、朝鮮南部の加羅を征服。(-朝鮮半島-、朝鮮)--
562新羅、大伽耶(高霊伽耶)を滅ぼす。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
562新羅,大伽耶などの加羅諸国を併合(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
562新羅任那日本府を滅ぼす(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
562新羅伽耶(大伽耶)を滅ぼして吸収(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
562加羅諸国が新羅に占領される。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
562百済高句麗百済の熊川城を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
562任那が滅亡、朝鮮への影響力を失なう(-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
564新羅、北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、571年まで毎年朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
565新羅、陳から僧明観と仏典1700巻(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
567陳へ朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
568新羅、南朝の陳にも朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
570高斉(北斉)に使者、車騎大将軍帯方郡百済王を得る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
572百済、北斉に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
574新羅、皇龍寺に丈六仏を鋳造して収め、新羅仏教の中心とす(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
576新羅、《真智王[576~579]即位》
中国に求法留学していた安弘法師が胡僧の摩羅を伴って帰国、百座講会と八関会とを催す(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
577新羅百済の侵攻を受けるが、撃破する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
577百済、陳に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
578新羅百済に対して閼也山城を割譲する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
578百済、北周に朝貢(-朝鮮半島-北周、朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
579新羅、《真平王[579~632]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
581'中国が隋の時代'
581581年に隋が成立すると、高句麗百済はすぐに朝貢した。百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。
隋に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
581百済、隋に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
584百済、隋に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
584百済、陳に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
584百済高句麗百済を攻撃し、新羅百済を救援する(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
586高句麗、長安城に都を遷す(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
586高句麗、長安城(平壌市)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
589隋が陳を併合 隋の戦船が済州島に漂着し船は百済を経て帰還(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
590第26代高句麗王嬰陽王[590~618](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
590高句麗、《嬰陽王[590~618]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
595高句麗の僧慧慈日本へ、聖徳太子の仏教の師となる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
597百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
598高句麗靺鞨の人々を率いて遼西に進入したが、隋の高句麗遠征(第一次遠征)を引き起こす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
598第27代百済王恵王(季、聖王の第2子)[598~599](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
598百済、恵王即位ケイ(季、聖王の第2子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
598百済、隋に朝貢し高句麗討伐の許諾を得る

高句麗が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
599第28代百済王法王[599~600](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
599百済、法王即位ホウ(宣、孝順、恵王の子あるいは威徳王の子)
殺生令をだし漁猟の道具を焼く(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
600新羅征討計画。計3回の討伐で第一次は新羅の降伏。残りの2回は失敗におわる-603(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、日本)--朝鮮三国時代
600第29代百済王武王(璋、法王の子)[600~641](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
600百済、武王即位ブ(璋、法王の子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
600百済、仏寺を創建
隋の使者が倭国へゆくために百済の南路を通る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
600百済、《百済武王[600~641]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
602新羅百済との阿莫城での会戦では大勝する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
602百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
602百済僧の観勒、暦・天文地理・遁甲方術の書をもたらす(-朝鮮半島-朝鮮、百済、日本)-飛鳥時代(年表)-朝鮮三国時代
603新羅高句麗が北漢山城に侵入するも撃退する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
605百済新羅が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
607高句麗、東突厥に使者を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
607法隆寺建立(-朝鮮半島-朝鮮、日本)-日本科学史(年表)-朝鮮三国時代
607百済、隋に朝貢
隋の使者が倭国へゆくために百済の南路を通る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
608新羅高句麗の侵入により牛鳴山城を陥落させられる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
611新羅、隋に高句麗討伐を求める(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
611隋に朝貢(このとき隋は高句麗討伐の準備中で歓待される)
新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
612高句麗、薩水大捷。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
612薩水大捷.高句麗の乙支文徳将軍,薩水で隋軍を撃破(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
612高句麗、薩水大捷(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-国史年表-朝鮮三国時代
612高句麗、隋の第二次高句麗遠征[100万)では隋軍を壊滅させる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
612新羅、隋の高句麗遠征
百済とは?岑城・母山城付近で激しく戦うが敗戦する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
612隋の煬帝、高句麗を攻撃(薩水の戦い)(-朝鮮半島-隋、朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
613高句麗、第三次遠征でも隋軍を退ける(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
614高句麗、第四次遠征でも隋軍を退け、隋の衰亡を早めさせるきっかけをつくる
百済からは石頭城で捕虜三千人、新羅からは捕虜八千人と牛鳴山城を得る(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
616百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
616百済新羅の母山城を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
618第27代高句麗王栄留王[618~642]
百済新羅が侵入
唐が成立する。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅百済高句麗)--朝鮮三国時代
618高句麗、《栄留王[618~642]》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅百済高句麗)--
618'中国が唐の時代'
618618年、唐が成立する。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
618618-隋滅亡し、唐建国
李淵(りえん)を初代皇帝として、一時武則天(則天武后)による簒奪を受けましたが(周:684~705 )、基本的には李氏20代、約300年続きました。特に2代太宗の治世を「貞観の治」、6代玄宗の治世前半を「開元の治」といい、唐の最盛期です。
皇帝を頂点とする中央集権型の国家体制を確立し、その政治体制は朝鮮や日本などの周辺国家にも広く影響を与えました。外戚をはじめとする貴族・権臣勢力や、安史の乱以降は藩鎮勢力、晩期になると宦官達にも悩まされ、皇帝は権限を失い国家は衰退します。王仙芝、黄巣の乱などの混乱の末、哀帝(李祝)が朱全忠(後梁の太祖)に位を譲り、滅亡しました。(-朝鮮半島-唐、隋、朝鮮)--
618~907とう 唐李唐とも呼ぶ。隋末の乱に李淵(高祖)・李世民(太宗)父子が挙兵して、煬帝の孫恭帝の禅譲を受け、618年に建国。 628年に天下統一、均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令政治を整えると同時に、その子高宗とともに突厥(とっけつ)(*7]・鉄勒(てつろく)(*8]・西域諸国・朝鮮などを討って版図を広げた。
621百済、唐に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済、唐)--朝鮮三国時代
622高句麗、唐に対して、捕虜の交換を互いにおこなう(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
623百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
624高句麗へ,唐より道教伝来(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、唐)--朝鮮三国時代
624高句麗、唐から高句麗に道士が派遣され、王は国人とともに『老子』の講義を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、唐)--
624高句麗、唐から道教伝来(-朝鮮半島-朝鮮、唐、高句麗)-国史年表-朝鮮三国時代
624百済高句麗新羅があいついで唐に朝貢した。(-朝鮮半島-朝鮮、百済高句麗新羅、唐)--朝鮮三国時代
624唐に朝貢し帯方郡百済王を得る
新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済新羅、唐)--朝鮮三国時代
625高句麗、唐に仏教・道教の学生僧を送る(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、唐)--
625百済、唐に朝貢(-朝鮮半島-百済朝鮮半島、唐)--朝鮮三国時代
626新羅高句麗百済とが和解してともに新羅に当たる状況となる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
626百済、唐への使者を高句麗が妨害(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
627百済新羅へ旧領奪回を目すも、新羅の唐への使者で中止する

唐の太宗が百済新羅両国へ和平の命を下す

百済は陳謝の使者を送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
628百済新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
629新羅高句麗と娘臂城で戦い、勝利を得る(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
630高句麗、[唐、東突厥を一旦滅ぼす](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
631高句麗扶余城から東南の渤海湾に至るおよそ千里の長城を築き、唐の侵略に備える(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
631百済、唐に朝貢(-朝鮮半島-百済朝鮮半島、唐)--朝鮮三国時代
632新羅、《善徳女王[632~647]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
632百済新羅攻撃 唐に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
633新羅、西武国境地帯に百済の侵入(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
633百済新羅攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済新羅)--朝鮮三国時代
635新羅、唐から《柱国・楽浪郡公・新羅王》の爵号を継承する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
636新羅百済が独山城を襲撃しようとして潜んでいたところを、殲滅(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
636漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。(百済)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
636百済、唐に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
638新羅高句麗が七重城に攻め入が、撃退(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
638百済新羅の独山城を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
640唐が高昌国を服属させる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
640新羅、唐の国子監に数多く留学生を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
640百済、王子を唐に派遣し国学を学ぶを求める(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
641第30代百済王義慈王[641~660](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
641百済、義慈王即位ギジ(武王の子)
唐の使者が帯方郡百済王を与える(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
641百済、《百済義慈王[641~660]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
642高句麗、淵蓋蘇文が権力掌握(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
642第28代高句麗王宝蔵王[642~648](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
642高句麗,淵蓋蘇文が宝蔵王を擁し権力掌握(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
642高句麗、《第28代宝蔵王[642~668]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
642新羅百済に西部40余城・大耶城も陥落し、高句麗に援軍求めるが得られず(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
642642-644
唐の使者が帯方郡百済王を与える(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
642百済、唐に朝貢
新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
642百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
643新羅、善徳女王が唐に救援を求めたが、唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
643百済高句麗と和睦し新羅を攻撃新羅は唐に救援を求める(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
643百済高句麗と同盟(麗済同盟)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
644唐、高句麗の攻撃を宣布(?648年)(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
644唐の太宗,高句麗を攻撃[~648](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
644高句麗、唐、高句麗に侵攻[647,648](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
644百済、唐に朝貢 太宗は両国を諭す(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
645高句麗、安市城の戦いで唐に勝利(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
645高句麗,安市城の戦いで唐軍に勝利(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
645高句麗、安市城の戦いに勝利(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-国史年表-朝鮮三国時代
645新羅、唐から帰国した慈蔵法師の発願で皇龍寺の九重塔を創建(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
645唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済新羅の西部と加羅地方を侵略した。(百済)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅高句麗、唐、百済)--朝鮮三国時代
645大化の改新645年(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--朝鮮三国時代
645百済、唐が高句麗を攻めるを知って新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
647新羅,世界最古の天文台,瞻星台建造(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代
647新羅、瞻星台建立(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代
647新羅、女王の廃位を求めて内乱
《真徳女王[647~654]即位》
唐から真徳女王に対する<柱国・楽浪郡王>の冊封が行なわれる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
647百済新羅を攻めるも敗北(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
648新羅百済に侵攻されるが金?信の活躍で撃退に成功
唐に百済討伐の援軍を願い出、了承を得る(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
648百済新羅を攻めるも再び敗北(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
649新羅、唐の衣冠礼服の制度をとりいれる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
650新羅、唐の年号を用いるようにする(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
651新羅、唐制にならった大幅な官制改革を実施(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
651百済、唐に朝貢 太宗再び諭す
(新羅の使者もあり太宗はその言上の理を認める)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
652新羅、理方府(立法)を新設(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
653百済、倭国と国交を結ぶ
高句麗靺鞨とともに新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
654新羅、《武烈王[654~661]即位》
理法府格60余条を制定し、新羅における律令制度の基盤を整備
官位の低い貴族を能力本位で要職につけることで王権の強化にも努めた(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
新羅,武烈王即位
理法府格60余条を制定し、新羅における律令制度の基盤を整備官位の低い貴族を能力本位で要職につけることで王権の強化にも努めた
655新羅高句麗靺鞨百済の連合軍が攻め入って北部辺境の33城が奪われ、唐に救援を求めた
唐、高句麗を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
655新羅百済の刀比川城を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、新羅百済)--
655高句麗百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
655新羅は危急を唐に知らせる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
657百済、王の庶子41人を佐平の官に任命(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--
658高句麗、唐、高句麗に侵攻[658,659,661~662](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
658658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。(-朝鮮半島-朝鮮、百済高句麗、唐)--朝鮮三国時代
659新羅百済、侵攻してくる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
660660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗 城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り(百済)660百済が、新羅と唐によって滅ぼされる。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代
百済滅亡と白村江の戦[660-663年)
扶余扶蘇山城より眺める白馬江
扶蘇山城より白馬江を望む660年、ついに唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入ります。
百済軍は、黄山之原(現在の忠清南道論山)において決戦に挑み、善戦するも新羅軍に大敗してしまいます。
一方、唐軍を白江(現在の白馬江。錦江の中流扶余付近)に引き込む作戦に出ますが、唐軍に泗 城(扶余・扶蘇山城)を包囲されてしまいます。一時義慈王は旧都の熊津城(錦江の中流域)に脱れますが降伏し、ついに百済は滅亡したのでした。
660耽羅:耽牟羅:屯羅、(百済滅亡)(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)--
660百済滅亡(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-国史年表-朝鮮三国時代
661新羅、唐・新羅連合軍による高句麗侵攻の途上で病死
《文武王[661~681]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
661耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の阿波伎らを派遣して日本に対して初めて朝貢を行った(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)--
661斉明天皇・中大兄、百済再興のため出発(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
661第31代百済王豊璋王[661~663](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
661百済、義慈王は籠城戦と白江で迎え撃つの2案を議する
百済軍敗北(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
662百済、扶餘豊(王)が残兵を率いて戦う
新羅連合軍は救援の倭軍の軍船400艘を白江に焼く
百済軍と倭軍は唐に降伏し、扶餘豊は行方不明となる
唐の高宗は扶餘隆を都督とする(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、倭)--朝鮮三国時代
662耽羅:耽牟羅:屯羅、新羅の文武王に来降し、これ以後は新羅の属国となった(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)--
662阿曇比羅夫、百済再興に向かう(-朝鮮半島-朝鮮、日本、百済)--朝鮮三国時代
阿曇比羅夫
飛鳥時代の武将。滅亡直前の百済(くだら)の救援に赴き活躍したが、白村江(はくすきのえ)で唐の水軍に敗れた。生没年未詳。
663白村江の戦い錦江河口付近
白村江?錦江河口付近(群山)百済の滅亡後も、百済の遺臣たちは百済復興を願い、各地で抵抗を続け、人質として日本へおくられていた百済の王子豊璋も、高句麗や日本(斉明天皇、中大兄皇子ら)の支援を受けて、唐・新羅連合軍と戦いますが、内部分裂を起こしてしまいます。
日本(倭国)からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」(今の錦江?)の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、日本、倭)--朝鮮三国時代
663663年,日本が唐に敗れた海戦。白村江(〈はくすきのえ〉とも)は朝鮮南西部の錦江(きんこう)河口付近の古名。かねてから百済(くだら)と争っていた新羅(しらぎ)は,高句麗(こうくり)と戦っていた唐と結び660年,ついに百済の都を占領,王らを捕虜としたので,百済の遺臣は日本に救援を求めた。大和朝廷は朝鮮南部の日本の権益を守るため,これに応じて大軍を派遣,斉明(さいめい)天皇・中大兄(なかのおおえ)皇子らも北九州に本営を置いて指揮したが,天皇は病死。水軍は663年8月27・28両日の海戦で唐の水軍に挟撃(きょうげき)されて大打撃を受けたので,朝鮮からすべての兵を引き揚げ,内政に専心することになった。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、日本、倭)--
663百済が唐に滅ぼされる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、倭)--朝鮮三国時代
663錦江河口で2日間にわたって、唐・新羅の連合軍と百済・倭国の連合との戦いで倭国の水軍を壊滅させ、唐の勝利。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。倭は敗戦の影響で西日本各地に山城を築き防人を配備して大宰府を設置した。更に都を近江大津宮に遷都する。百済の再興の望みを断ち切る。以後日本は朝鮮から撤退。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、倭)--朝鮮三国時代
663新羅、倭国の水軍が来て百済を助ける。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、倭)--朝鮮三国時代
664百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。(-朝鮮半島-新羅、朝鮮、倭、唐、百済)--朝鮮三国時代
665耽羅:耽牟羅:屯羅、日本へ使者を送って来朝した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)--
665唐使来日、入京百済人400人余を近江国神(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
665百済、扶餘隆が新羅と盟誓を結ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
666新羅、唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、唐の高句麗への攻撃が開始(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
666耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の始如らを日本に派遣して朝貢した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)--
666百済人2000人を東国に移す(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
667耽羅:耽牟羅:屯羅、佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)--
百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。
668高句麗、唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
668高句麗が、新羅と唐によって滅ぼされる。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗新羅、唐)--朝鮮三国時代
668新羅、唐と連合して高句麗を滅ぼす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗新羅、唐)--朝鮮三国時代
668高句麗が、新羅と唐によって滅ぼされる。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗新羅、唐)--朝鮮三国時代
668高句麗滅亡(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗新羅、唐)-国史年表-朝鮮三国時代
668新羅新羅も唐軍に合流して平壌の長安城を攻め、高句麗を滅ぼす(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
668唐が新羅と共に高句麗を滅ぼし、、平壌に安東都護府を設置
高句麗遺民は満洲の営州(遼寧省朝陽)に強制連行される(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))-飛鳥時代(年表)-
669高句麗、唐、安東都護府を設置(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--
669耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した
日本は耽羅王に五穀の種を賜い、その上で耽羅の王子らは帰国した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)--
669百済人700余人を近江 国蒲生郡におく(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代
670新羅、唐と争い、百済故地を収める(~676](-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
670新羅、十二月倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭:日本)--朝鮮三国時代
671渤海、唐・新羅戦争始まる(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
673耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の久麻藝や都羅宇麻らを送って日本に朝貢した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)--
674新羅高句麗王(安勝を報徳王として)、新羅に亡命してきたのを金馬渚に冊封した(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
676朝鮮半島三国時代新羅による朝鮮統一~
紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると[313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済新羅が誕生。朝鮮半島三国時代の始まりです。&ref(): File not found: "image1201.jpg" at page "hyo";;さぁ、上の図を見れば圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済高句麗の領土を削っていきます。この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡[660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。:668年そして、新羅高句麗も滅ぼしました。(-朝鮮半島-高句麗、朝鮮)--朝鮮三国時代→南北国時代
676朝鮮半島三国時代新羅による朝鮮統一~紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると[313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済新羅が誕生。朝鮮半島三国時代の始まりです。圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済高句麗の領土を削っていきます。この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡[660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。:668年そして、新羅高句麗も滅ぼしました。676統一新羅時代[676ー935]統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。しか~し!百済高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。(-朝鮮半島-高句麗、朝鮮)--
676平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退すると新羅による朝鮮半島の統一が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。(-朝鮮半島-、朝鮮)--
676三国時代統一新羅時代
676統一新羅時代[676ー935]
統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。しか~し!百済高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代→南北国時代
676新羅,三国統一.高句麗の北半分唐の領土となる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代→南北国時代
676新羅朝鮮半島統一 (-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-飛鳥時代(年表)-
676新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。統一新羅時代(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代→南北国時代
676統一新羅後三国時代[676~918年]
新羅は骨品制〔こっぴんせい〕という貴族制度を通して王権を強化した。華やかな文化が花開いた。手工業や商業が活発になり、絹織物、金銀細工、螺鈿漆器、人参などを唐や日本に輸出して富を得た。末期には、王権が弱くなり地方では豪族勢力が成長して、後高句麗後百済などという国をたて、ふたたび三国が鼎立することになった。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代→南北国時代
676平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退すると新羅による朝鮮半島の統一が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代→南北国時代
676新羅、三国統一(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代→南北国時代
676新羅、高僧の義湘に浮石寺を創建させる
唐、熊津都護府・安東都護府を撤収する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
676渤海新羅朝鮮半島を統一(首都は慶州)(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
676百済、扶餘隆高句麗にて死去
唐の則天武后はその孫に高句麗(百済)王を名乗らせるが領土なく絶える(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代→南北国時代
676新羅朝鮮半島をほぼ統一(-朝鮮半島-唐、新羅、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
682新羅,国学を設立.博士と助教を決め儒学を教える(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
682新羅、国学を建てる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代
682渤海、礼部の配下に国学を創立(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
684渤海、安勝の一族の反乱、報徳国を滅ぼす(統一の完了)(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
685九州五小京設置.中央集権的地方統治制度を作り,地方を支配(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
685新羅、九州五小京設置(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代
686渤海高句麗、滅亡(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
687新羅、九州五京の郡県制を確率(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
687渤海、祖廟を祭る五廟の制度を整備し、儒教理念の明確化、郡県制の確立(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
689渤海、租米による俸禄制を始める(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
690690年~900年:渤海(属国)&deco(silver,white,9]{よいこの正しい半島歴史年表};
692渤海、《孝昭王[692~702]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
696高句麗の将軍出身の大祚栄が出て、高句麗を復興させるとして、696年に遼東地方に震国を建てた。(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
697渤海契丹・李尽忠の乱
靺鞨の乞乞仲象、乞四比羽らが東走
唐、契丹族の反乱により安東都護府を廃して、都護府とする(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
698渤海 698年 - 926年(-朝鮮半島-古朝鮮)-消滅した政権一覧-
高句麗の将軍出身の大祚栄,震国(後の渤海)建国[698中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。[698渤海[698年-926年]-高句麗の滅亡後、遺民らが建国した国家:698年高句麗、大祚栄、渤海国を建国:698年中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、渤海の建国[698震国[696ー)渤海[713ー926]渤海高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。[698新羅、三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。
698南北国時代[698ー918]
南北国時代[698ー918](南北国時代-朝鮮半島-朝鮮)--南北国時代
698中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗震国渤海))--南北国時代
698渤海[698年-926年]-高句麗の滅亡後、遺民らが建国した国家
:698年高句麗、大祚栄、渤海国を建国:698年中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、
渤海の建国(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗震国渤海))--南北国時代
698震国[696ー)
渤海[713ー926]
渤海高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗震国渤海))--南北国時代
698新羅、三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
震国(のちの渤海)[698年-926年]- 高句麗の滅亡後、高句麗の将軍出身の大祚栄,遺民らが建国した国家。中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。
698渤海の建国(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))-国史年表-南北国時代
698渤海、日本国からきた使者を崇礼殿で引見
大祚栄、震国の建国(吉林省敦化付近:東牟山)(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
渤海[698年-926年]-高句麗の滅亡後、遺民らが建国した国家
:698年高句麗、大祚栄、渤海国を建国:698年中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、渤海の建国

渤海高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。
渤海、日本国からきた使者を崇礼殿で引見
大祚栄、震国の建国(吉林省敦化付近:東牟山)
699渤海、唐への朝貢を再開(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
702渤海、《聖徳王[702~737]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
703新羅、日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
704渤海、『最勝王経』(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
705渤海、大門芸が唐に入侍
唐による侍御史を震国に派遣
安東都督府復活(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
705渤海、大飢饉~706(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
713大祚栄は713年に唐から渤海国王に冊封され、それ以後震国渤海国を国号とした。渤海(パレ)は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗震国渤海))--南北国時代
震国の大祚栄は713年に国号を震国から渤海国と改める、渤海の成立
713渤海、唐、大祚栄に渤海郡王に冊封(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
717渤海、「十哲七十二弟子図」などがもたらされる
医博士・算博士を創設(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
718漏刻(水時計)製作(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
719大祚栄死去(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
719渤海、大祚栄卒し、大武芸即位
周辺の靺鞨諸部族を編入する(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
721渤海渤海への対策として北辺の国境地帯に長城を築く
新羅による東北国境での長城建設(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
722新羅,農民に丁田支給.官吏に官僚田支給し税を納めさせる(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
722新羅、日本の賊の路を遮断した。(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
722新羅、丁田支給(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代
722渤海、毛伐郡城を築いて日本の賊の侵入を防ぐ
黒水靺鞨渤海領を通過して唐に遣使(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
725渤海、唐により黒水靺鞨に黒水府が設置される(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
726渤海、大武芸の弟・大門芸、唐に亡命(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
727渤海渤海、高仁義らを日本に派遣
蝦夷地に漂着したため高仁義等多数が殺害され、残った者が高斉徳に率いられ入京(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
7279.  渤海使、出羽国にくる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗震国渤海))-奈良時代(年表)-南北国時代
728渤海、日本、送渤海使を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
731新羅、日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
731渤海、日本の戦船300艘が東部海岸に攻め寄せて辺境を襲ったがこれを撃破(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
732渤海渤海の将・張文休、水軍を率いて山東の蓬莱港を占領(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
733渤海渤海が山東半島に攻め込んだとき、唐の要請により渤海南部を攻めたが、失敗退却する
唐、大門芸に命じて渤海を攻撃させるが、大雪のため失敗(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
735渤海新羅、唐より大同江以南の領有を認められる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
737渤海、《孝成王[737~742]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
738渤海、唐から『道徳経』を下賜
大武芸卒、大欽茂即位
唐との関係を修復する(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
739渤海、遣唐判官・平群広成、渤海使とともに帰国(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
742新羅、日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
742渤海、《景徳王[742~765]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
743渤海、玄宗自らが注釈をつけた『孝経』を下賜(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
746渤海渤海人及び鉄利人1100人出羽国に漂着(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
749渤海、この頃、旧国より中京顕徳府(吉林省和龍県西古城)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
751仏国寺と石窟庵を建立(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
751仏国寺と石窟庵を建てるの再建始まる(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代
751渤海、仏国寺・石窟庵、築造開始(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
753新羅、秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
755渤海、この頃、中京顕徳府から上京龍泉府(黒龍江省寧安県東京城)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
757朝鮮で、新羅が全国を9州に分け郡県の名称を唐風に変える(-朝鮮半島-新羅、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
757渤海、全国各地の地名を唐風に改称
官僚制度も行き詰まりとその矛盾により、官僚への俸給制度を廃止して禄邑制度を復活(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
759渤海、中央官庁とそれに属する官職名についても唐風のものへの改称(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
762渤海、六城を築いて渤海への備えとした
唐により大欽茂を渤海国王に冊封(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
765渤海、《恵恭王[765~780]即位》
この頃より新羅国の動揺・衰退がはじまる(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
768渤海、律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立(~780](-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
774渤海、大興から宝暦に改元(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
777渤海、日本の舞女11人を唐に献上(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
779渤海渤海人通事、日本の朝廷で鉄利人と席を争う(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
780渤海、恵恭王、殺害される
《宣徳王[780~785]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
785渤海、宣徳王、病にて没す
上京龍泉府から東京龍原府(吉林省琿春県八連城)に遷都
《元聖王[785~798]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
788新羅、読書三品科を設ける(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗渤海)--南北国時代
788新羅,学問の成績により官吏を任命する読書三品科設置.(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
788新羅、読書三品科設置(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代
788渤海、官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定める
国の西部で盗賊が現われる(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
790渤海新羅、伯魚を渤海に派遣(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
793渤海、大欽茂卒
弟・元義が即位するが廃位され、嫡孫が即位
都を東京龍原府から上京龍泉府に戻す
中央集権的な官僚制度を整備(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
794渤海、奉恩寺を建て、王宮の西には望恩楼を築く(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
798渤海、唐により大嵩?を渤海国王に冊封(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
799渤海、《昭聖王[799~800]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
800渤海、《哀荘王[800~809]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
801渤海、耽羅国(済州島)からの朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
802新羅、冬十二月、均貞に大阿?の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
802入唐僧の順応と理貞により慶尚南道に海印寺創立(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
802渤海伽耶山に海印寺を創建(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
803渤海、日本とも国交が再開(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
804新羅、夏五月日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
804渤海、日本から黄金三百両が進上された(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
8043.28  平安仏教の黎明、遣唐使、藤原葛野麻呂に空海(くうかい・最澄(さいちょう)らが同行唐へ渡る(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗渤海、日本)-唐の時代(年表)-南北国時代
805渤海、律令体制の没落が始まる(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
806新羅、春三月日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
806渤海、日本からの使者を朝元殿で引見した(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
808新羅、春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
808渤海、日本国の使者を厚くもてなした(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
809渤海、摂政の反乱で、哀荘王は王弟とともに殺害される
唐により大元瑜を渤海国王に冊封
《憲徳王[809~826]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
810渤海、唐に王子金憲章、金銀製の仏像などを献上
日本からの最後の第15次遣渤海使(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
812渤海渤海へ使者を派遣して動向をうかがう
新羅が崇正を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
813渤海、唐により大言義を渤海国王に冊封(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
816渤海、飢饉のため、唐の浙江省東部[170人)・日本へ[200人)の難民発生する(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
818渤海、唐により大仁秀を渤海国王に冊封(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
819渤海、唐の?州で反乱が起こると3万の兵を派遣する
各地の賊徒がいっせいに蜂起、鎮圧(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
821渤海、王文矩を日本に派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
822渤海、都督職を歴任した金憲昌が反乱、鎮圧(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
825渤海、金憲昌の子の金梵文が反乱、鎮圧(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
826渤海、大同江沿いにに300里の長城を築いて、渤海の南下の備えとした
新羅渤海との国境に長城を築く
《興徳王[826~836]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
827渤海、旧高句麗系の僧丘徳が経典を持ち帰る(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
828張保皐、清海鎮設置(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗渤海)--南北国時代
828新羅の張保皐,清海鎮設置.南海と黄海の海上交通を支配.貿易独占(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
828張保皐、青海鎮設置(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代
828渤海、金大廉が持ち帰った茶の種子を地理山に植える(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
830渤海、大仁秀卒、大彜震が即位
咸和と改元(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
832渤海、春夏の旱魃、7月の大雨で凶作(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
833渤海、凶作で民が飢餓に苦しみ流行り病で多くの死者
賀守謙を幽州盧龍節度使に派遣
唐により張建章の渤海遣使(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
834百官の服色制度公布.冠帽や服装の型,色,形によって官位を見分ける(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
834百宮の服色制度の公布(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代
834渤海、奢侈を禁じるとともに王都の住民に対する身分序列を明確化「頭品制度」(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
836渤海、《僖康王[836~838]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
838渤海、金明・利弘らが軍を起こして王の側近の貴族を殺害する反乱、僖康王自殺
《閔哀王[838~839]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
839渤海、張保皐のもとに集結した祐徴らの一派、祐徴派の金陽軍により閔哀王殺害される
《神武王[839]即位》病に倒れ没する
《文聖王[839~857]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
840渤海新羅からの人質や学生あわせて105名の帰国(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
846渤海、張保皐(弓福)の乱起こる(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
853渤海、張建章が幽州に戻り『渤海記』を著す(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
857渤海、《憲安王[857~861]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
858渤海、晩霜、干害(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
859渤海、穀物が高騰し、国民が餓える(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
860渤海、憲安王、病にて没す(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
861渤海、《景文王[861~875]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
864新羅、夏四月に日本国の使臣が来た。(平安時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅、日本)--南北国時代
864渤海、日本からも国使を迎える(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
867渤海、王都金城で疫病が流行り、洪水が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
869渤海、唐に王子の金胤らを派遣し、馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、様々の進奉を行なう(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
870渤海、王都が地震・洪水、冬には疫病が流行る(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
873渤海、飢餓と疫病が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
875渤海、《憲康王[875~886]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
876渤海、皇龍寺で百高座を設けて講義・討論を行なう(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
878渤海、日本からの使者を朝元殿で引見する(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
879新羅、八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
882新羅、夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
882渤海、日本国王が黄金300両と明珠10個とを進上する(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
886渤海、《定康王[886~887]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
887新羅、《真聖女王[887~897]即位》
国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
887渤海、定康王、病死
《真聖女王[887~897]即位》
国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
888新羅,歴代の郷歌を集めた「三代目」編纂(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代
888新羅、「三代目」編纂(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代
892後百済 892年 - 936年(-朝鮮半島-後百済、朝鮮)--南北国時代→後三国時代
892後百済、甄萱が完山に後百済を興す(-朝鮮半島-後百済、朝鮮)--
892後三国時代[892年-936年]
892新羅が衰退(後三国時代へ)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代→後三国時代
894高句麗[894年-918年]→高麗
9~10世紀頃繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。9世紀地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。900年即ち、甄萱がに
後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。(-朝鮮半島-朝鮮、後高句麗)--後三国時代
894高句麗[894年-918年]高麗(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--後三国時代
896王建,弓裔に帰服しその部将となる(-朝鮮半島-朝鮮)--後三国時代
896赤袴の乱.真聖女王10年,王都西部で民乱起こる(-朝鮮半島-朝鮮)--後三国時代
896甄萱が後百済を建国(-朝鮮半島-朝鮮、後百済)--後三国時代
897新羅、《孝恭王[897~912]即位:酒色におぼれる》
大規模な内乱(後三国時代)に突入しており、後百済の甄萱や後高句麗の弓裔などの勢力が急激に領土を侵食していた
(赤袴賊と呼ばれる集団による反乱をみる)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
900朝鮮で、甄萱が後百済王と称する,後百済建国.現在の全羅道と忠清道を支配(-朝鮮半島-朝鮮、後百済)-総合年表(北・東・東南アジア)-後三国時代
900甄萱、後百済建国(-朝鮮半島-朝鮮、後百済)-国史年表-後三国時代
9009~10世紀頃繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。9世紀になると地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。即ち、甄萱が900年に後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗後百済)--後三国時代
90110世紀:長白山が過去2000年間で世界最大級の巨大噴火(半島リセット)
901弓裔、後高句麗建国(-朝鮮半島-朝鮮、後高句麗)-国史年表-後三国時代
901高句麗を建国(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--後三国時代
901弓裔,後高句麗建国.(後三国時代のはじまり)(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--後三国時代
901高句麗建国(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--後三国時代
902高句麗、弓裔が後高句麗を興す(-朝鮮半島-朝鮮、後高句麗)--
904高句麗、弓裔が国号を摩震とする[911:泰封と改名)(-朝鮮半島-後高句麗、朝鮮、摩震)--
904朝鮮で、弓裔が後高句麗王と称する(後三国時代(-朝鮮半島-唐、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
906渤海、宰相の烏?度を唐に遣使
その子の光賛、賓貢に及第(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
皇帝を頂点とする中央集権型の国家体制を確立し、その政治体制は朝鮮や日本などの周辺国家にも広く影響を与えました。外戚をはじめとする貴族・権臣勢力や、安史の乱以降は藩鎮勢力、晩期になると宦官達にも悩まされ、皇帝は権限を失い国家は衰退します。王仙芝、黄巣の乱などの混乱の末、哀帝(李祝)が朱全忠(後梁の太祖)に位を譲り、滅亡しました。
911渤海、大光賛を後梁に派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
912新羅、《神徳王[912~917]即位》
高句麗の弓裔、後百済の甄萱などの勢力に浸食されるだけ(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
917新羅、《景明王[917~924]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
9189世紀になると新羅は内紛のため分裂状態となり、918年に後高句麗の将軍王建が高麗をたて、朝鮮半島を統一した。高麗は仏教を保護し、唐と宋の制度を取り入れて栄えた。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗高麗)--後三国時代
918朝鮮で、王建が弓裔を追放し高麗を建国(~1392)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
918王建、高麗建国(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-後三国時代
918高麗王朝[918~1392年]
中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--後三国時代
918中世社会?[~1392](中世社会-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--後三国時代
918高麗、後高句麗の豪族の王建が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗(首都:開城)を建国する(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
918高麗(高 )[918~1392](-朝鮮半島-朝鮮、高麗(高 ))--
918渤海、遼に使節を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
高麗時代[918ー1392]
高麗・・・モンゴル人→女真人→満州人
高麗は、918年に建国されました。この時期、国教として定められていた仏教は、政治と文化に大きな影響を及ぼしながら更に発展しました。高麗青磁やユネスコ世界文化遺産にも指定されている八万大蔵経、直指心経などの重要な遺産もこの時期に作られました。特に、直指心経は世界最初の金属活字で印刷された仏教経典で、グーテンベルク聖書よりも78年前に作られたものです。そんな高麗も14世紀後半からは次第に国力が衰えていきました。676年に新羅によって朝鮮半島初の統一がなされますが、8世紀末から9世紀まで王位継承の争いが起こり、地方でも農民が反乱を起したり、飢饉に見舞われたりと新羅は国力を失っていきます。そんな中、有力な豪族たちが新羅を分裂させ国を建国していきました。後三国時代といわれる時代です。この争いを制したのは高麗高麗は935年に新羅を併合すると、936年には後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一しました。高麗の建国者は王建(おうけん)。首都は開城(かいじょう)です。この高麗。現在、韓国のことをKoreaといいますよね。これは、高麗を表すKoryoが変化したものだといいます。当時、高麗は青磁(せいじ)という陶磁器を輸出し世界に名を知られることになりましたので、この高麗のイメージが強かったのでしょうね。また、高麗は日本ともちょっと因縁があります。そう元寇です。高麗は1259年にフビライ・ハンの率いるモンゴル(元)軍の侵攻により属国となります。これに対して、高麗は三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる選抜部隊が奮闘し対抗するのですが、これも1273年には完全に鎮圧されてしまいます。そして、1274年には元により高麗水軍を前面に立てた日本攻撃が始まるのです。文永の役ですね。さらに1281年には再び日本に攻めてきます。弘安の役です。この高麗は、1356年に元から独立しますが、同時期に頻繁に発生していた倭寇(わこう・海賊)に悩まされ、高麗は徐々に衰退していくことになります。中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。
919開城に都をおいた(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--後三国時代
919高麗,開城を都に定める(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--後三国時代
919渤海、最後の渤海使を日本に派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
920新羅、景明王は王建と好みを通じて後百済に対抗したが、924年に亡くなった(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--
922高麗契丹と国交を結ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
923高麗、此の頃後梁に入朝する(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
924渤海渤海軍、契丹軍(遼国)占領中の遼東に反攻(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
925渤海契丹軍(遼国)、渤海扶余府に侵攻
礼部卿の大和釣ら100戸を率いて高麗に投ず(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
926渤海滅亡(-朝鮮半島-朝鮮、契丹震国渤海)--後三国時代
926渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げる(-朝鮮半島-朝鮮、契丹震国渤海)--後三国時代
926渤海滅亡(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))-国史年表-後三国時代
930渤海、日本との通交が絶える(-朝鮮半島-朝鮮、震国渤海))--
933高麗、後唐の冊封を受ける(-朝鮮半島-高麗、朝鮮)--
935新羅の敬順王,高麗に投降、高麗新羅を併合し、新羅滅亡(-朝鮮半島-高麗、朝鮮、新羅)-総合年表(北・東・東南アジア)-後三国時代
935新羅滅亡(-朝鮮半島-高麗、朝鮮、新羅)-国史年表-後三国時代
935朝鮮の新羅が滅び、高麗が統一(-朝鮮半島-朝鮮、高麗新羅)--
935新羅を降伏させた(-朝鮮半島-朝鮮、高麗新羅)--後三国時代
936高麗朝鮮半島統一(-朝鮮半島-高麗、朝鮮)--
936高麗王朝 成立。高麗後百済を滅ぼし朝鮮半島統一(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-
936高麗、後三国の統一(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-後三国時代高麗時代
936後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一(後三国統一)をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗後百済)--後三国時代高麗時代
936高麗後百済を滅ぼして朝鮮半島を再統一(-朝鮮半島-朝鮮、高麗後百済)--後三国時代高麗時代
936こうして、新羅後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、918年、新たに高麗(コリョ)を建国し、自ら王を名乗る。王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、935年には、新羅を併合、そして、936年には、後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。高麗時代(-朝鮮半島-朝鮮、新羅後百済、後高句麗)--後三国時代高麗時代
940高麗、州府郡県の名号を改める(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
945高麗、王位をめぐり、王規の乱おこる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
956もともと官民でありながら奴婢になった者を開放させる,奴婢按検法実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
956奴婢按検法を実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
956奴婢按検法実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
958科挙制実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
958科挙制度を実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
958光宗の代,実力本位で官吏を採用する,科挙制度実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
958高麗、文班と武班による両班制度・科挙制度の導入(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-
976田柴科制度を実施、地位により田地と柴地に差異を設けて分ける(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-高麗時代
976田柴科実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
976高麗、田柴科制度(両班・胥吏・軍人に国家から耕作地と燃料採取地を支給)の創設
 
この時代の特徴:
 上級官僚の貴族化
 地方豪族の台頭化
 北界(契丹・金など)の軍事体制として、屯田兵の設置
 仏教寺院の勢力が強大になり、僧兵の出現をみる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
983十二牧設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
983全国に十二牧設置,三省,六部,七寺を定める(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
983全国に一二牧設置、三省六都を定める(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
983高麗、地方行政機構の整備(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
992中央に国子監設置.地方に郷校設置し儒学など強化(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
992国子監設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
993高麗契丹軍、鴨緑江を越えて高麗を侵攻(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
993契丹が何度も侵入し、高麗と激しい戦闘を繰り返した。契丹が西に去ると今度は女真が台頭し金を建国した。高麗は、金に朝貢して国内を安定させた。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗契丹)--高麗時代
993契丹高麗に侵攻(-朝鮮半島-朝鮮、高麗契丹)--高麗時代
993契丹の第一次侵攻.高麗国境を襲う.和約を結ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、高麗契丹)--高麗時代
993926年、渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げ、993年から、1019年まで、実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗契丹震国渤海)--高麗時代
994高麗契丹に服属(-朝鮮半島-高麗、朝鮮、契丹)-宋の時代(年表)-
995高麗、州県制を施行する(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
996朝鮮における最初の鋳造貨幣,鉄銭(乾元重宝)の鋳造(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
996鉄銭(乾元重宝)の鋳造(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
997高麗(朝鮮の一国)使の来日(平安時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
998品階(階級)制を布く.王侯貴族,文武臣,僧侶など18科に分ける(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1009康兆の政変.武臣の康兆が王権交代を図る.後に契丹に殺される(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1009康兆の政変(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1009高麗、《顕宗の即位》(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1010高麗契丹の侵入を撃退(~1011](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1014高麗、武臣が乱をおこす(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1018高麗、地方官制が改められ、郡県制の確立
 
契丹の再侵入
 &br姜邯賛の活躍により契丹軍を殲滅(亀州大捷)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1019亀州大捷.契丹軍,開京付近まで侵攻するが,帰州で敗退(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1019帰州大捷.契丹軍,開京付近まで侵攻するが,帰州で敗退(-朝鮮半島-朝鮮、高麗契丹)--高麗時代
1019姜邯賛が契丹を破る(亀州の戦い)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗契丹)--高麗時代
1019亀州大捷(-朝鮮半島-朝鮮、高麗契丹)-国史年表-高麗時代
1019刀伊(女真族)の侵入1019年(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、刀伊)--高麗時代
1033高麗高麗の長城の建設開始(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1076高麗、両班田柴科を改定し、官制を改める(-朝鮮半島-高麗朝鮮半島)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1076田柴科改定,官制改革.文武官僚の地位にしたがって柴地を与える(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1076田柴科改定、官制改革(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1076高麗、管制、田柴科制改められ、中央管制が確立(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1086義天,教蔵都監を設置して「続蔵経」を組み版(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1086義天、教蔵都監を設置して置き「続蔵経」を組み版刻む(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1087高麗大蔵経」完成(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1095高麗、李資義の乱(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1097鋳銭都監設置.災害などの貧民救済に備える(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1097鋳銭都監設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1102海東通宝鋳造.農業中心社会のため広く流通せず(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1102海東通宝鋳造(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1106高麗、監務の地方派遣はじまる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1107高麗、尹?、長城を越えて女真を攻める(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1107尹グァン、女真征伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、女真)--高麗時代
1107尹グァン,別武班を率いて女真征伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、女真)--高麗時代
1107尹權、女真征伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、女真)-国史年表-高麗時代
1115高麗、(女真族の阿骨打による金国の成立)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1126金(属国):1126年~1234年
1126李資謙の乱(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1126李資謙の乱.門閥社会が進んだ結果の権力争い(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1126李資謙の乱(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1126高麗、李資謙の乱、金に服属(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1127地方郡県に国立の儒学校,郷校設立(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1129李資謙の乱が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1135西京遷都運動(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1135妙清の西京遷都運動.金富軾の官軍に鎮圧される(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1135妙清の乱が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1135妙清の西京遷都運動(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1135高麗、妙清の乱(~1136]、李氏の没落(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1145金富軾「三国史記」編纂(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1145高麗、三国史記編纂される(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1146第四代国王世宗がハングル(訓民正音)を制定するも集賢殿の副提学であった雀萬理は昔から、中華の土地では風土が異なってる方言を文字にした例はないと批判。これに対し世宗は「これは文字ではないので中華に対しての反逆ではない。訓民正音である。」訓民正音とは愚かな民に発音を教える記号。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1147同性婚,近親婚を禁止(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1170武臣政変(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1170高麗の鄭仲夫がクーデター、文臣を虐殺。武臣政権が成立(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-高麗時代
1170武臣政変.文臣中心から武臣政権になり,権力争い起こる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1170武臣政変(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1170高麗、庚寅の乱(武人政権の成立、以後武人政権が続く)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1171武人たちがクーデター(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1172高麗、民衆反乱[~1202](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1173高麗で、文臣が再び虐殺される(-朝鮮半島-高麗朝鮮半島)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1174鄭仲夫、政房設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1174高麗、以降、武人政権内での、私兵の組織化が本格化する(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1174朝鮮南部に草賊蜂起し、これ以後約30年間全国で騒擾が相次ぐ(-朝鮮半島-朝鮮、東アジア)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1176公州(忠南道)鳴鶴所の亡尹・亡所尹が公州占領する民乱(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1179慶大升,都房(私兵集団)政治(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1179慶大升、都房政治(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1182全州(全羅南道)民乱.官奴が中心になり州の官吏を襲撃(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1185平氏滅亡1185(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1192源頼朝征夷大将軍となる1192(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1196崔忠献、武臣政権を奪取[~1258]
崔忠献執権.慶大升死後政権を執る(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1196崔忠献執権(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1196高麗、崔忠献によるクーデター、崔氏政権の始まり(~1258)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1198万積の乱.公私奴隷開放をかかげ開京で乱を起こそうとして失敗(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1198万積の乱(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1219北条氏の執権政治始まる1219(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1219蒙古と通交(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1219蒙古モンゴルと通交(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1224モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1231モンゴルの朝鮮侵入開始(~59)。高麗政府が江華島に避難(-朝鮮半島-朝鮮、モンゴル)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1231モンゴルの侵入が始まった。高麗は都を江華島に移して抗戦したが、国土はモンゴル軍に蹂躙された。
モンゴル侵入北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗モンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、
モンゴルが高麗に侵攻
北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗モンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、1224年、モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、1259年、高麗はモンゴルに服属することになる。
蒙古の使者殺害を機に,蒙古が高麗へ第一次侵入.講和を結ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1231蒙古モンゴルの第一次侵入(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1232貞永式目制定1232(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1232江華島に遷都.蒙古と戦う
崔氏政権、王都を開京から江華島に遷す(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1232江華島に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1232高麗モンゴル帝国の侵略始まる、首都を江華島に遷す(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1234西洋より200年も早く金属活字で「詳定古今礼文」刊行(現存しない)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1234金属活字で「詳定古今礼文」を刊行(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1236高麗大蔵教(経・律・論など三蔵の仏教経典の総称)刻印(木版印刷)[~1251]
高麗大蔵経の製作を開始する(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1236高麗「大蔵経」を刻印刻む[-1251](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1258高麗の崔氏政権が滅ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-高麗時代
1259高麗モンゴル帝国(元)に屈し、属国化(皇帝の娘婿の国になる)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-
12591259年~1356年:モンゴル(属国)
高麗,蒙古軍に降伏
高麗はモンゴルに服属することになる。
高麗モンゴル帝国に服属し、30年に及ぶ抵抗は終わった。元の属国となった高麗は、二度の日本侵攻(元寇)の前線基地となり、多大な負担を強いられた。
高麗王朝、モンゴルに降伏
1270開京に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1270高麗、開城に復都する(武人の執権の終わり)
 &br武人派の軍隊三別抄の反乱[~1273](至元7](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1270開京遷都
三別抄(精鋭軍隊)の対蒙抗争.開京遷都に反旗を翻すが失敗
武臣政権が終わり、開京に再遷都。三別抄の戦い始まる。
蒙古と講和を結び,開京遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、モンゴル)--高麗時代
1270三別抄の対モンゴル抗争(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、モンゴル)-国史年表-高麗時代
1271~1368げん 元国号の元は1271年に定められた。モンゴル帝国第5代ハーンのフビライ(世祖)が大都(北京)に遷都して、中国を支配。1279年南宋を滅ぼし、領域は中国全土からモンゴル本土を含み、朝鮮、チベットをも服属させた。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。
1274高麗、元の2度[1281]の日本侵攻(元寇)への協力と出兵により甚大な被害をこうむる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1274文永の役(元寇)・水際撃退1274(鎌倉時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))-対馬-高麗時代
1274モンゴル軍と高麗軍が日本へ侵略
一方モンゴルのグビライは、日本を服従させようとして、2度にわたり、日本侵攻を行ったが失敗した。このとき、高麗は全線基地としての役割を命じられるが、多大な負担を強いられた。[~1281]
高麗と元の第一次日本侵略征伐(文永の役)(元寇)(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))-対馬-高麗時代
1274元寇(文永の役)、元・高麗軍4万人が小茂田浜に来襲、対馬守護代宗資国以下80余騎戦死。島民被害甚大。
資(助)国:宗氏系譜の祖 文永11 資国[1](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))-対馬-高麗時代
1274文永の役(元寇)第一回蒙古襲来。2万人。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))--
1274征日本派遣軍失敗(文永の役)。元の左丞相バヤン、襄陽から南宋総攻撃の途に上る[9月)。マルコ・ポーロ、元朝廷に至る(至元11](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))-元の時代(年表)-
1274元・高麗軍が対馬・壱岐を襲撃し、九州に上陸する(文永の役)(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))--
1274高麗・元の第一次日本征伐(元寇)(-朝鮮半島-日本、朝鮮、高麗、モンゴル)-国史年表-高麗時代
127410.5  元軍が対馬・壱岐に初来襲。(元寇)(鎌倉時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル、元)-対馬-高麗時代
元寇-文永の役(ぶんえいのえき)元・高麗軍(約3万人)は対馬・壱岐に続いて博多湾から上陸するが日本軍の奮闘と暴風雨で退却。
1280僧一然「三国遺事」編纂(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1281弘安の役(元寇)・艦隊決戦1281(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1281モンゴル軍と高麗軍が再び日本侵略
元の第二次日本侵略(弘安の役)(元寇).暴風雨に遭い撤退(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、モンゴル)--高麗時代
1304安コウの主張により国学に大成殿設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1304安王向の主張によりで国学に大成殿設置を建てる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1314萬巻堂設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1314萬巻堂の設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1333鎌倉幕府滅亡1333(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1338室町幕府成立1338(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1350倭寇の動きが活発化し、また紅巾賊に都を占拠される事件も発生した。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1351高麗、恭愍王即位[~1374年)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1354高麗、共愍王による反元運動が始まる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1356双城摠管府回復
恭愍王、反元(モンゴル)運動を開始(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1356高麗、元軍が高麗から撤退(双城摠管府を回復)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1359紅巾軍が朝鮮侵入(~60)(-朝鮮半島-元、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1359紅巾賊(明の成立の契機となった宗教的農民反乱軍)の侵入[~1361](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1359高麗、紅巾軍侵入する[1362](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1363文益漸,元から木綿の種を伝え,衣生活に大革新をもたらす(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1363文益斬、元から木綿の種を伝えるもたらす(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1364高麗,倭冦対策で倭人万戸府設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1365高麗、辛?による改革政治(~1371](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1370倭寇(わこう-日本の海賊)が中国・朝鮮などの東アジア広域で襲撃(倭寇の最盛期)-1390(室町時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1374高麗、恭愍王が暗殺される。?王が即位[~1388](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1376崔瑩,倭冦征伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1376崔瑩、倭寇征伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1377「直指心経」印刷.世界最初の金属活字本として公認(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1377崔茂宣の建議で火薬武器製造(火桶都監設置)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1377「直指心体要節」印刷(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1380李成桂,倭冦討伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1388威化島回軍武人李成桂はクーデターを興して政権を掌握すると、親明派の支持を受けて体制を固め、
威化島回軍.李成桂反対派の崔瑩を除去.昌王を王位に就ける
李成桂、威化島で引き返して政権を奪う(威化島回軍)
14世紀に入り元が衰え始めると、高麗は元と断交し、北方を奪還して、モンゴル侵入以前の領域を回復する。一方、活発化してきた倭寇に苦しむことになる。しかし、高麗軍の有力武将らが、次第に倭寇に打撃を加え、その脅威は減少する。やがて、中国が明に変わると、高麗内で親元派と親明派との抗争が絶えなかった。1388年、武人李成桂はクーデターを興して政権を掌握すると、親明派の支持を受けて体制を固め、1392年、自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代
1388威化島回軍(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代
1388高麗、親明派の武将李成桂が威化島で回軍、クーデターを起こし実権者になる(威化島回軍)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1389李成桂一派により,昌王廃位恭譲王即位
倭冦の拠点である対馬征伐(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗)-対馬-高麗時代
1389朴威、対馬征伐(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗)-対馬、国史年表-高麗時代
13921392年~1637年:明(属国)
1392高麗、鄭夢周が暗殺される(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--
1392高麗滅亡、李氏朝鮮成立(~1910](高麗滅亡、李氏朝鮮-朝鮮半島-朝鮮、高麗李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
1392''朝鮮王朝、朝鮮時代[1392~1897]
朝鮮時代[1392~1897]''
1392朝鮮の歴史朝鮮半島の歴史/1392(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
1392朝鮮王朝[1392~1910年]
15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
1392CENTER:朝鮮半島の歴史/1392(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
13921392年朝鮮建国高麗(??)の武将、李成桂(???)は、自ら高麗王につき、翌1393年には、国名を「朝鮮」(??)と改称し、首都を漢陽(今のソウル)に移した。その後、数代にわたり、国としての各種制度・体制を整備していくが、王位継承のもつれから、うちのめされた李成桂は、晩年、仏門に帰依することになる。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
13921392李成桂が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位、明より権知高麗国事として認められる、(権知高麗国事:高麗の政治をあずかっていると云う地位)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
1392高麗滅亡.李成桂,朝鮮建国(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
1392科田法実施.全国の土地の大部分を国家の収租地とする(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
1392近世社会?(~1863](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
1392李成桂、王位に就く、高麗王朝滅亡。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
1392高麗滅亡.朝鮮建国(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-高麗時代李氏朝鮮時代
1392李氏朝鮮[1392~1897]
・一割もいない両班・貴族階級が、中人、常民、賎民、奴婢を支配・樽も車もなく、庶民は白い服しか着なかった・商店も貨幣もない実物経済、御用証人のみ
朝鮮は、14世紀末に建国されました。儒教が国の基本理念となり、朝鮮社会全般に大きな影響を与えました。1443年には世宗大王によりハングルが作られました。1592年に壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が始まると共に諸外国の勢力が侵入してきたことにより、朝鮮の国力は次第に衰退していきました。
モンゴル帝国(元)からの独立を勝ち取った高麗。しかし、この高麗も倭寇(海賊)などの活動により衰退していくことになります。この倭寇の撃退で名を馳せたのが高麗の武将・女真人の李成桂(りせいけい)でした。
李成桂は、1392年に自ら高麗の王に即位します。李成桂は、王に即位すると国号を「朝鮮」としました。ちなみに、朝鮮という呼び名は、以前にも「箕子朝鮮・きしちょうせん」や「衛氏朝鮮・えいしちょうせん」という呼び名がありましたので日本では、これらと分けるために李朝朝鮮または李氏朝鮮と呼ぶことがあります。
この李氏朝鮮の首都は漢城(ソウル)です。
李成桂は、進んで明(中国)の文化や制度を取り入れ、明にならい朱子学(しゅしがく)を官学化したりもしました。今の韓国の国旗は「太極旗」といいますが、あれは朱子学の世界観を図解化したものですね。
15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。(-朝鮮半島-箕氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
1392李氏朝鮮の建国(女真人)(-朝鮮半島-李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
1392李氏朝鮮 1392年 - 1910年(-朝鮮半島-李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
13921392年自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。(-朝鮮半島-李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
13921392年日本では、南北朝が合一。元が滅んで明の時代になると、倭寇や元を見限り明につき元との戦いで功績をあげた李成桂が立ち上がり、1392年に高句麗を王となる。李成桂は、王位につくやすぐさま、当時誕生したばかりの明王朝に伺いを立て国号を決めて貰っている。李成桂は明から権知朝鮮国事(朝鮮・李氏朝鮮初代の王)に封ぜられた。この時、李成桂は、箕氏朝鮮の旧号「朝鮮」と李成桂の生地「和寧」の二つの名前を持ち出し、明の太祖の朱元璋から「朝鮮」の国号を使うことを許されている。世界史の中で様々な国が存在するが、他国に自国の国号を決めて貰った国など、後にも先にも朝鮮ただ一カ国である。本来ならこの一時を持って、朝鮮が中国の属国であった事を、何よりも物語っているのだが、韓国人はこれでもまだ朝鮮が中国の属国であったことを認めないのである。都は漢陽(ソウル)である。朝鮮は約500年続き、明の朝貢国の時代[1393~1637年)、清の朝貢国の時代[1637~1894年)、欧米や日本が干渉した時代[19世紀後半~1910年)に分けられる。李成桂は儒教を崇拝し、仏教を排斥する政策をとった。しかし、彼は晩年に仏門に帰依するなど儒教も仏教も保護された。明の朝貢国の時代には、文禄・慶長の役と清の侵攻の大きな戦争が発生し国土は焦土と化した。李氏朝鮮[1393~1896](-朝鮮半島-李氏朝鮮)--高麗時代李氏朝鮮時代
1392「朝鮮」、建国高麗滅び、李成桂が朝鮮建国(李氏朝鮮)(~1910)。(-朝鮮半島-李氏朝鮮)-明の時代(年表)、総合年表(北・東・東南アジア)-
13931393李氏朝鮮[1393~1896](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
13931393李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる、明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の二案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ、内乱(~1400](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1393国号を朝鮮とする(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1393李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる、明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の二案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ、内乱(~1400](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1394開城から漢陽(現ソウル)遷都(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1394漢陽(現、ソウル)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1394都を漢陽と定める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1394漢陽遷都(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1396倭寇の本拠地、対馬に軍隊を派遣、政治と軍事を分離した議政府をつくり、中央集権制度の確立(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬-李氏朝鮮時代
1396李氏朝鮮、漢城(ソウル)に遷都(-朝鮮半島-李氏朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
13963.  大内義弘、朝鮮に捕虜を送還する(-朝鮮半島-日本、日本、朝鮮)-室町時代(年表)-
1398第一次王子の乱.五男芳遠,世子冊封に不満を抱き反乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1399奴婢弁正都監設置.奴婢の戸籍を管理(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1399日朝貿易対馬の宗氏が朝鮮と通交。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)--
1400第二次王子の乱.芳遠の実兄芳幹の乱.芳遠により鎮圧(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
14011401明より朝鮮国王の冊封をうける(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1401申聞鼓設置.民衆が自由に請願できる制度(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1401明より朝鮮国王の冊封をうける(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
14021402年号牌法の実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
140216歳以上の男性に身分を問わず身分証(牌)を携帯させる,号牌法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1402号牌法を実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1402号牌法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1403朝鮮で活字ができる(-朝鮮半島-朝鮮)--
1403李氏朝鮮、鋳字所を設置、銅活字を造る(-朝鮮半島-李氏朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-李氏朝鮮時代
1403鋳字所設置(-朝鮮半島-李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1404室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1408李成桂死去.73歳(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1408倭寇を鎮めて李氏朝鮮と通交、現在の峰町佐賀を府とする。 応永15 貞茂[7](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1411漢陽に,人文機関である五部学堂設置.文化水準を高める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1411漢陽に五部学堂設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1413「太祖実録」を編纂.以来,歴代王朝の実録編纂続く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1413両界地域に道制を施行する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1413「太祖実録」を編纂(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1413朝鮮八道の地方行政組織を完成.中央集権体制を確立(-朝鮮半島-李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1413朝鮮八道の地方行政組織完成(-朝鮮半島-李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1416四都設置[-1443](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1418《太宗が譲位して、世宗が即位[~1450]》、(儒教の推進による王道政治、現在の朝鮮領土の原型ができる)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1418世宗が即位(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1418朝鮮王朝第4代王,世宗即位(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1418世宗即位(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1419応永の外寇(室町時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬-
1419朝鮮、倭寇征伐を理由として対馬を侵略する。日本、侵略した朝鮮を撃退。 (応永の外寇)(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)--
応永の外寇(世宗己亥の東征)。李氏朝鮮による対馬侵攻。李従茂に率いられた1万7千人の大軍が倭寇の活躍を封じるため倭冦の本拠地と見なした対馬の浅茅湾に来襲、仁位郡の糠岳付近で合戦。侵略した李氏朝鮮を宗貞盛が撃退。日本の勝利。 応永16 貞盛[8]
14196.  明が倭寇を破り、朝鮮が対馬を攻撃。前期倭寇が衰える(-朝鮮半島-明、朝鮮、対馬)-総合年表(北・東・東南アジア)、室町時代(年表)-
1420集賢殿拡張.学問的作業だけでなく人材の養成と新文化の定着を図る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1420集賢殿拡張(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1420朝鮮使節来朝(-朝鮮半島-日本、日本、朝鮮)-室町時代(年表)-
14225.  足利義持、朝鮮に大蔵経を求める(-朝鮮半島-日本、日本、朝鮮)-室町時代(年表)-
1423高麗史」編纂.高麗時代の歴史を自主的な視点で整理(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
14248.  足利義持、朝鮮に大蔵経板木を求める(-朝鮮半島-日本、日本、朝鮮)-室町時代(年表)-
1426三浦に倭館を設置し、常住を許可する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1433鴨緑江方面に四郡設置.女真族の侵入を防ぐ(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1433朝鮮初期の医書「郷薬集成方」完成.旧来の朝鮮医書の集大成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1433四軍設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
14331.  足利義教、朝鮮使と室町殿で会見(-朝鮮半島-日本、日本、朝鮮)-室町時代(年表)-
14341437六鎮設置[-1449](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1437豆満江方面に六鎮設置.北方の城壁となし安全を図る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1438日時計製作(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1441世界初の測雨器製作.全国各地の降雨量測定(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1441測雨器製作(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1442朝鮮独自の暦書「七政算内編」作製(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
14431443年第四代国王、世宗(??)の時代は、朝鮮時代の中でも王権が強固で権威も行き届いており、もっとも安定した時代とされている。この年、世宗王はハングルの基になる訓民正を制定するも、集賢殿の副提学であった雀萬理は「昔から中華の土地では風土が異なっても方言を文字にした例はない」と批判。これに対し世宗は「これは文字ではないので、中華に対しての反逆ではない。訓民正音である。」※訓民正音とは愚かな民に発音を教える記号のこと。
また、この李朝で何と言っても覚えておきたいのがハングル(訓民正音)の制定です。これを制定したのは14431146年のこと。制定したのは第4代国王・世宗(せいそう)の時代でした。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1443訓民正音(ハングル)を草案(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1443訓民正音(ハングル)創製(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1443訓民正音の制定[1446年公布)、歳遺船(年間渡航許可船)の制度を定める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1443第四代国王、世宗(??)の時代は、朝鮮時代の中でも王権が強固で権威も行き届いており、もっとも安定した時代とされている。この年、世宗王はハングルの基になる訓民正音が作られた。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1443「訓民正音」創製(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1443対馬の宗貞盛、朝鮮と交易の役を定める(室町時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1443対馬の宗氏、李氏朝鮮と通交条約である嘉吉条約(癸亥約条)を結び、歳遣船の定数を定める。歳遣船定数 50 隻。※応仁の乱の最中も無関係に通商。李氏朝鮮、対馬の宗氏に通交貿易の条件を与える 嘉吉3(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬、総合年表(北・東・東南アジア)、室町時代(年表)-李氏朝鮮時代
嘉吉条約(かきつじょうやく) [嘉吉3 [1443] 年]
嘉吉3 [1443] 年,対馬島守宗貞盛と朝鮮との間に締結された条約。朝鮮では正統癸亥 (きがい) 約条と呼ぶ。朝鮮側が日鮮貿易の統制をはかったもので,内容は来航者の詐称を防止するため,銅印を大名,豪族,商人などに授け,実名を刻んだり,九州地方の大名,土豪の使送船は九州探題,また対馬島内に住む大名や土豪などの使送船は宗氏の書契を持参すべきであると決めたりしたものであった。また室町幕府に対しては,象牙を用いて円形の勘合符を製し,左半を朝鮮にとどめ,右半を幕府に贈った。将軍,管領,有力大名のほかは,毎年渡航する航数をそれぞれ条約により限定した。これにより宗氏の歳遣船 (さいけんせん) は 50隻に制限され,歳賜米や豆も合せて 200石までと決められた。
1443年(嘉吉3,朝鮮世宗25]に,朝鮮から対馬の宗貞盛らにあたえられた通交貿易の条件。朝鮮側では,癸亥(きがい)約条という。おもな内容は,[1]宗氏から毎年朝鮮に派遣する歳遣船(さいけんせん)の数を50に限定する,[2]宗氏から朝鮮に対して緊急に報告しなければならないことがおきたときは,歳遣船の定数外に特送船を派遣することができる,(3]朝鮮から毎年宗氏に送る歳賜米・豆はあわせて200石に限定する,の3点である。
対馬(つしま)島主宗貞盛(そうさだもり)と李氏(りし)朝鮮との間で1443年(嘉吉3]に定められた日朝通交の条約。朝鮮側では癸亥約条(きがいやくじょう)という。応永(おうえい)の外寇(がいこう)後、対馬と朝鮮の通交は一時とだえたが、世宗(せいそう)の平和通交による交隣政策によって、嘉吉条約をはじめ数多くの通交統制規定が定められた。条約の内容は、[1]島主宗氏は毎年50船を朝鮮に派遣できる、[2]宗氏には世宗10年[1428]以来実施されている歳賜米(さいしまい)・豆あわせて200石が与えられる、などである。この条約は、朝鮮側が日朝貿易の統制を図ったものであったが、これによって、宗氏歳遣船(さいけんせん)が制度的に確立し、朝鮮通交での宗氏の独占的立場が定まったのである。
[対馬島宗氏の独占]
 やがて朝鮮貿易の利益に目をつけ,日本からの渡航者が増大したため,応接する朝鮮側の負担が大きくなったので渡航者の制限がはかられるようになり,朝鮮ではとくに地理的に最も近い対馬島の宗氏の特殊権益を認めることによって,統制化を進めていった。1443年(嘉吉3]宗氏との間で歳遣船隻を定約した嘉吉条約(癸亥(きがい)約条),渡航証としての文引(ぶんいん)(図書・文引)の制度強化などがそれである。これによって,日朝間に占める宗氏の位置は決定的なものとなり,一方,諸大名・豪族等の勢力が後退して,それらの名義を借りた偽使が対馬から派遣される状態になっていった。
※「嘉吉条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
1445義塩法制定.義塩色という官庁を設け,塩の流通を国家が管理(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1446朝鮮で、訓民正音(ハングル)頒布(-朝鮮半島-朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1446「訓民正音」としてハングル文字が公布(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1446義塩色廃止.私売買を禁止.民衆の不満を買う(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1446訓民正音(ハングル)を公布(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1446「訓民正音」領布(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1450世宗死去.53歳(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1452成職が封を継ぎ、貞盛死去する。朝鮮国王が1隻は弔礼の、1隻は襲封祝賀の使船2隻を送る。将軍や島主の代 替わり毎の告慶 参判使の始まり 享徳元 成職[9](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1453癸酉靖難、首陽大君の王位纂奪、首陽大君(のちの第7代国王・世祖)が朝廷大臣たちを殺し,政権を掌握(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1453朝鮮で癸酉靖難起こる。首陽大君(後の世祖)、実権を握る(朝鮮-朝鮮半島-明、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1455首陽大君,端宗を退け第7代王世祖に上がる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1456丙子冕獄(死六臣が処刑される)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1456対馬島人源茂崎が漂民救助の功により朝鮮国王より官職図書(司直の職)を授けられる。(初の受職人)。 康正2(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1466現職官吏だけに土地を支給する,職田法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1466職田法(官職についているものだけに田地の給付)の制定(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1466職田法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1467応仁の乱起こる[~77]1467(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1467李施愛の乱.中央文臣中心の政治に地方豪族が不満(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1467朝鮮で、李施愛の乱起こる
(-朝鮮半島-明、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1468世祖が崩御し睿宗即位[1469年に崩御)、南怡の謀叛事件が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1469「経国大典」完成.朝鮮独自の法典を編纂.統治規制を成文化.(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1470成宗の治世に『経国大典』頒布、朝鮮王朝の諸法体系化の完成をみる[~19世紀末)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1470「経国大典」完成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1474義政、朝鮮に明の勘合符を求める(室町時代-朝鮮半島-日本、朝鮮、明)--
1481足利義政、勘合船を朝鮮に派遣(室町時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1481朝鮮で、『東国輿地勝覧』刊行
(-朝鮮半島-明、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1485経国大典完成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
14851169「経国大典」完成[-1449](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1485朝鮮で、『経国大典』施行
(-朝鮮半島-明、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1498士林派に対する弾圧が始まる(戊午士禍)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1498戊午士禍(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1498朝鮮で、金宗直らが処刑される〔戊午の士禍〕(-朝鮮半島-明、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-
1503幕府、勘合符を朝鮮に求める(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1504甲子士禍.燕山君,母の廃妃関連者を処刑(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1504甲子士禍が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1506燕山君がクーデターにより失脚し、中宗が即位(中宗反正)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1506朴元宗の乱.燕山君廃位追放.晋城大君が中宗に即位(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1509対馬島民、朝鮮を侵す(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1510三浦の乱が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1510在朝日本人の貿易活動等を統制したため、三港で日本人と援軍の宗軍による暴動が起こる(三浦の乱)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1510三浦の乱、日本人居留民と朝鮮人が交戦。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1510三浦倭乱.三浦で起こった日本人居留民の暴動事件.日本との通交中断(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1510三浦の乱(さんぽのらん)李氏朝鮮の三浦(釜山浦・薺浦・塩浦)で起きた対馬の宗氏・恒居倭人(こうきょわじん-貿易の為に朝鮮に居留している日本人)の反乱。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1510三浦倭乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1510朝鮮で三浦の乱が起こり、国交が断絶する。
三浦倭変:日本人居留民の反乱
永正7 義盛[12](戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1510三浦の乱三浦の居留民と、朝鮮との間の争い勃発。以後、朝鮮貿易は衰退。(-朝鮮半島-日本、対馬、日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1512壬申約条締結.足利幕府と結ぶ.倭人の出入りを制限(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1512壬申約条(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1512対馬の宗氏、朝鮮と壬申約定を締結す(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1512朝鮮との間に永正条約を締結して、国交を回復する。歳遣船定数 25 隻 永正9(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1519己卯士禍.趙光祖の改革に対する中宗と勲旧勢力の親衛クーデター(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1519己卯士禍が起こる、(趙光祖の改革政治が挫折)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
15431543年白雲洞書院設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1543白雲洞書院(最初の書院)建造.儒教精神の定着に力を注ぐ(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1543白雲洞書院を建造建てる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1544台湾へのオランダ進出
この台湾に大きな変化が起きたのは16世紀。当時は、倭寇といった海賊がたくさんいたんですが、彼らは台湾を根拠地として移り住んでいたんです。この倭寇は前期が主に日本人、後期は主に漢人や朝鮮人ですね。彼らはやがて恒久的に台湾へと移住しはじめるようになります。
さらに、ヨーロッパからも多くの人々が台湾に来航してくるようになります。ヨーロッパで最初に台湾を訪れたのはポルトガル人。1544年のことです。しかし、最初に拠点を築いたのはオランダ人。オランダ東インド会社は1624年に台湾島の大員という場所を中心に制圧してゼーランディア城という要塞を築きました。1626年にはスペインも台湾の北部に要塞を建てて島の開発を進めましたが、オランダはスペイン勢力を駆逐し台湾はオランダの一大拠点となります。
オランダは、この台湾に中国から大量の漢民族を労働力として募集し土地開発を勧めます。
ですが、中国でもこの頃大変な事態が起きていました。明朝の滅亡[1644年)です。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)--
1545乙已士禍(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1545仁宗崩御(在位1544年~1545年)、明宗即位乙巳士禍が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1547丁未約条.倭人との交易を許すが規制を強化(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1549ザビエル来日1549(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1554軍事機構,備辺司設置.倭冦と女真族の侵入に備える(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1554備辺司設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
15551555備辺司設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1555乙卯倭変.三浦倭乱による貿易規制に対し,倭人が全羅道の一部を占領(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1555備辺司設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1555乙卯倭変(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
15591559林巨正の乱[~1562](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1559林巨正の乱[~1562](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1559林巨正の乱.民衆を代弁する義賊.3年間[~1562]政府を悩ます(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1564永正条約による歳遣船25隻の貿易制限を、朝鮮との交渉により30隻に拡大することに成功する。歳遣船定数 30 隻 永禄7 義調[16](戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
15671567《宣祖即位》、勲旧派の終焉、以後、士林派(新進官僚による政治勢力)同士の対立が続く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1567《宣祖即位》、勲旧派の終焉、以後、士林派(新進官僚による政治勢力)同士の対立が続く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1572揚古利[1572~1637]舒穆禄氏。満洲正黄旗の出身。幼くして父に従ってヌルハチに帰順し、額 となった。女真各部や明に対する征戦に従って、戦功を挙げ、左翼兵の統括を命じられ、一等総兵官に任ぜられた。崇徳二年[1637]、太宗ホンタイジが朝鮮を攻めるのに従い、戦後に戦場を巡視していたところを朝鮮兵に射殺された。武勛王に追封された。(-朝鮮半島-清、朝鮮)-中国史人物事典-
朱翊鈞[1563~1620]
明の十四代万暦帝。廟号は神宗。在位1572~1620。穆宗(朱載 )の三男。隆慶二年[1568]、皇太子に立てられた。六年[1572]、穆宗が崩ずると帝位についた。高拱・張居正・高儀らが補政した。張居正の改革により、税収は増え、国勢は一時回復した。北方には李成梁を起用して、国境も安定した。万暦十年[1582]、張居正が亡くなると親政をはじめた。張居正の官爵を奪い、一家を断絶させた。日本の朝鮮侵攻に対する援朝軍の派遣や東北での後金勃興に対処するため軍費が増大し、財政が逼迫した。東林党が内閣と争い、四十三年[1615]には挺撃の案が起こるなど、政府内の党争は激化した。帝は治世の後半二十五年間にわたって朝廷に出なかったという。
1573室町幕府滅亡1573(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
15751575東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)、陶山書院建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1575東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)、陶山書院建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1575東人派と西人派の対立(党争の始まり)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1582マリ,済州島漂着(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1582マリ、済州島漂着(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
15871587年九州の平定。伴天連追放令(豊臣秀吉)朝鮮国王に入貢要求。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
15881588年海賊停止令。琉球国王に入貢要求。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
15891589鄭汝立の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
15891589年中国征服を狙う豊臣秀吉は、朝鮮に明征討の先鋒になるよう要求してきた。朝鮮は日本の真意を確認するため通信使を派遣した。帰朝した通信使は、「日本は侵攻の準備をしている」と報告したが、「秀吉を恐れる必要はない」との報告もあり、結局、防衛準備を行わなかった。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1589鄭汝立の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
158911.  秀吉、宗義智を朝鮮に遣わし来貢を促す(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-安土桃山時代-
1590豊臣秀吉の全国統一1590(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1590義智、豊臣秀吉の命により朝鮮に渡り、通信使黄允吉、金誠一等を伴って帰国し、京において秀吉が引見する。 天正18 義智[19](戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
15911591年豊臣秀吉、インド副王(ポルトガル総督)に入貢要求。この時、スペイン国王にも入貢要求フィリピンに入貢要求。唐陣(朝鮮出兵)を命じる。(インド-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮、インド、スペインフィリピン、日本)--李氏朝鮮時代
1591義智、朝鮮国に対し秀吉の意を伝えるために釜山に渡るが、朝鮮側を説得できず。秀吉、朝鮮出兵を命ず。府中(厳原)に清水山城を築く。 天正19(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1592文禄の役
この頃、日本では、豊臣秀吉が日本を統一し、更に勢力拡大のため、大陸進出をはかろうとしていた。そして、1592年、いわゆる文禄の役が発生し、たちまちにして、首都漢城(ソウル)を攻略してしまう。当時腐敗が進んでいた朝鮮は、なすすべもなく、国土を疲弊してしまった。やがて、中国から明の援軍が進出して、戦線は膠着し、和議交渉を試みるが失敗に終る。1597年、日本は再度侵攻し、慶長の役が勃発する。しかし、秀吉の健康が損なわれ、戦争が泥沼状態になり、やがて、秀吉の死去によって、この7年に及ぶ戦乱は終結する。この動乱により、朝鮮は、政治的にも、経済的にも、また社会的にも、壊滅的な状態に追いやられ、破綻寸前に陥った。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
15921592壬辰の倭乱・丁西の倭乱[~1598:豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻で、全国土が戦乱の被害をうける)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1592壬辰倭乱(文禄の役)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
15921592年壬辰倭乱この朝鮮に対して豊臣秀吉が侵略のために軍を派遣します。「文禄・慶長の役」ですね。朝鮮の人々がいうところの「壬辰・丁酉(じんしん・ていゆう)の倭乱」です。この秀吉軍に激しく対抗し、活躍したのが朝鮮海軍の李舜臣(イスンシン)でした。韓国には現在でも英雄であり、銅像がいたるところに立っています。この秀吉の朝鮮侵略の計画は、秀吉の死により日本軍の撤退という形で終わりを告げますが、朝鮮にとっても大きな打撃となりました。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
15921592年(文禄元年)文禄の役この頃、日本では、豊臣秀吉が日本を統一し、更に勢力拡大のため、大陸進出をはかろうとしていた。日本軍が釜山に上陸し、いわゆる文禄の役が発生し、体制の整わない朝鮮軍は各地で破れ、たちまちにして、首都漢城(ソウル)を攻略し、数ヶ月で朝鮮全土が制圧された。釜山近くの蔚山城の戦いが有名。加藤清正はこの時虎退治をした。当時腐敗が進んでいた朝鮮は、なすすべもなく、国土を疲弊してしまった。朝鮮の国境、豆満江を越えて、満州のオラニンイ(ワルカ)へ支援要請を受けた明軍が到着し、義勇軍が立ち上がると戦線は膠着した。そして、一旦休戦し3年におよぶ和平交渉が始まったが決裂。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1592閑山島大捷.李瞬臣勝利(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1592壬辰の倭乱・丁西の倭乱[~1598:豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻で、全国土が戦乱の被害をうける)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1592壬辰倭乱(文禄の役).1回目の倭国秀吉軍の侵略.漢城陥落(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1592壬辰倭乱、閑山島大捷(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1592文禄の役(壬辰の倭乱)[~1595]。義智、小西行長とともに朝鮮へ出兵。諸将の各隊に対馬より通詞を派遣。
第1軍:小西行長他18,700人 文禄元 (戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1592文禄の役、豊臣秀吉の朝鮮出兵(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1592文禄の役(ぶんろくのえき)豊臣秀吉が朝鮮へ出兵する。日本と明・李氏朝鮮の戦い。日本軍は朝鮮の首都:漢城を占拠して加藤清正が王子二人を捕虜にした。快進撃を続けたが明軍により食料倉庫を狙われ和議交渉を進める。-1593(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1592文禄の役日ノ本を統一した秀吉は海外へと目を向け、朝鮮へ出兵する。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1592文禄の役秀吉が朝鮮出兵を命ずる。15万人の軍。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
15921.5  豊臣秀吉が、朝鮮を経て明へ出兵する為の出陣令を発布、諸大名に朝鮮出兵を命ずる。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
15923.26  豊臣秀吉が朝鮮出兵の指揮をとる為京都から肥前へ出発(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
15924.13  朝鮮出兵第一陣の小西行長らが釜山に上陸。文禄の役が始る(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
15925.3  朝鮮出兵の一番隊、小西行長・加藤清正が漢城(現在のソウル)に入城(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--李氏朝鮮時代
1593幸州大捷(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1593幸州大捷(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1593朝鮮での戦、上手くいかず。日本へ兵を撤退させる。
豊臣秀頼(秀吉の子)が誕生する。秀頼を豊臣家の跡継ぎにしたい秀吉は秀次を邪魔者とばかりに追いやっていくこととなる。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1595達海[1595~1632]覚爾察氏。満洲正藍旗の出身。満漢の文字に通じ、後金と明・朝鮮・モンゴルの間の文書の往来は多くかれの手によって成った。天聡初年、値文館に入り、漢文書籍を翻訳した。天聡六年[1632]、満文字体の改定にあたり、十二字頭を増し、圏点を加えて、新満文あるいは圏点満文と称した。(-朝鮮半島-清、朝鮮)-中国史人物事典-
15969.1  明からの国書の非礼に怒った豊臣秀吉が朝鮮再征を決意(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
15971597年慶長の役日本は再び侵攻してきた。北上する日本軍を漢城付近で明軍が迎え撃ち、泥沼の戦いが続いた。しかし、秀吉の健康が損なわれ、戦争が泥沼状態になり、やがて、秀吉の死去によって、この7年に及ぶ戦乱は終結する。この動乱により、朝鮮は、政治的にも、経済的にも、また社会的にも、壊滅的な状態に追いやられ、破綻寸前に陥った。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1597丁酉再乱(慶長の役).2回目の秀吉軍の侵略.(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1597丁酉倭乱(慶長の役)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1597丁酉再乱(慶長の役)が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1597豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵(慶長の役)(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
15971.  慶長の役[~1598]。義智、1千の兵を朝鮮に出兵。 慶長2(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
15971.  慶長の役(けいちょうのえき)再び、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵する。明軍の影響で日本軍は苦戦する。戦争中に豊臣秀吉が病死して日本軍は撤退する。-1598(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
15971.  慶長の役 再び豊臣秀吉は朝鮮に兵を送る。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
15971.  慶長の役秀吉が再び朝鮮に出兵する。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1598秀吉死去.倭軍撤収始める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮、日本)--李氏朝鮮時代
1598秀吉死す[1536→)朝鮮から撤兵ほぼ終了(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1598豊臣秀吉、死去。
これにて朝鮮出兵も中断。日本へ兵を撤退させる。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
15988.  秀吉没。豊臣氏五大老、朝鮮出兵の諸軍を召還(-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
15988.25  豊臣秀吉の死去に伴い、徳川家康ら五大老が朝鮮撤兵を決定し使者を朝鮮に派遣(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
15991599年秀吉が死去し、日本軍は撤退した。現地の土地を出兵した者がのぞまないため、負けという形になった。この戦乱で朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力は弱体化し、滅亡の遠因になった。
朝鮮出兵→本当は「明」への出兵、唐陣。「明」←→中原のみの国(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
15991599年秀吉が死去し、日本軍は撤退した。現地の土地を出兵した者がのぞまないため、負けという形になった。この戦乱で朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力は弱体化し、滅亡の遠因になった。朝鮮出兵→本当は「明」への出兵、唐陣。「明」←→中原のみの国(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1599露梁大捷.李瞬臣流れ弾に当たり戦死.7年間の戦乱を終える(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1599徳川家康より朝鮮との国交回復を命ぜられる。家臣を朝鮮に度々派遣するも帰国せず。 慶長4(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1600関が原の戦い1600(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1603徳川家康征夷大将軍になる 江戸幕府を開く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1607日本と国交回復.朝鮮通信使始まる(~1811](-朝鮮半島-朝鮮、日本、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1607回答兼刷還使を日本へ派遣する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
16071607年日本との関係は。秀吉の死後、朝鮮通信使が日本に送られ関係を修復しました。朝鮮通信使→人質奪還のための使節。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1607朝鮮との国交修復。将軍秀忠の襲職を賀する朝鮮通信使(回答兼刷還使)が来日し、義智、江戸まで護衛する。 慶長12(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1607朝鮮使、初めて江戸に来る 了以、富士川の水路を開く(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1608京幾道で大同法を実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1608京畿道に大同法実施.土地の結数によって米,布,銭で税を貢納(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1608光海君が即位。北人政権が成立。京畿道に大同法を実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1608京畿道に大同法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1609日本と己酉約定締結(-朝鮮半島-朝鮮、日本、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1609その後も、王位継承をめぐる争いは、断続的に発生し、紆余曲折があるが、1609年になって、日本と和約し、外交面での修復が展開されていく。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1609日本と和約し外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1609日本と己酉約条締結(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1609義智、僧玄蘇らを朝鮮に派遣し、朝鮮国と慶長条約(己酉約条)を締結する。
歳遣船定数20隻
慶長14 (戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1609李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で己酉約条(慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬-李氏朝鮮時代
1609己酉約条締結.対馬の宗氏に通交貿易許す.富山(釜山)浦に再び倭館設置(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬-李氏朝鮮時代
1609オランダ商館を平戸(長崎県)に設置する-島津氏が琉球王国を攻略して服属させる-己酉約条(きゆうやくじょう)-日本と李氏朝鮮との間の貿易再開(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1610朝鮮の伝統医学の集大成「東医宝鑑」完成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1610「東医宝鑑」完成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1611量田実施.農地の実情を調査し国家財源の増大に努める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1611朝鮮国と慶長条約(己酉約条)を締結する。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-対馬-
1613七庶の獄(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1616光海君の明・金中立外交(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1616琉球から煙草輸入される(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1616中国では明が衰え、満州に後金が独立した。#style(class=box_black_swm){{満州・・・非漢字国満州人満州語・・アルタイ語系文字}}(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮後金:清)--李氏朝鮮時代
1618李永芳(?~1634]遼東鉄嶺の人。明の撫順游撃。万暦四十六年[1618]、後金に降った。太祖ヌルハチにより三等総兵官に任ぜられた。明の巡撫王化貞らが彼を招撫しようとしたが、応じなかった。太宗が即位すると、アミンに従って朝鮮を攻めた。↓次の時代・清-清初(-朝鮮半島-清、朝鮮)-中国史人物事典-
1619サルホの戦いで後金軍に敗れる(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮後金:清)--李氏朝鮮時代
1623仁祖反正で光海君廃位(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1623仁祖反正(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1623仁祖反正.西人派が北人派を一掃し,仁祖を王に擁立する武力政変(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1623仁祖反正(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1624李 の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1624李 の乱.仁祖反正後の論功行賞に対する不満(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1624李 の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
ホンタイジ[1592~1643]
名は知られていない。通称はホンタイジ(皇太極)。清の第二代太宗。在位1626~1643。太祖ヌルハチの八男。はじめ正白旗の旗主たる貝勒(ベイレ)となり、ダイシャン(代善)・アミン(阿敏)・マングルタイ(莽古爾泰)と並ぶ四大貝勒の末席を占めた。兵を率いて征戦におもむき、しばしば戦功があった。天命十一年[1626]、ヌルハチが没すると、後金のハーン位を継いだ。明制にならって三院・六部・都察院・理藩院を設けた。来帰した漢人武将やモンゴル諸王の軍によって自己の軍事力を強化し、三大貝勒の権力を抑制した。漢人官僚を登用し、人材と文化の吸収につとめ、漢土統治の基礎を築いた。また八旗の軍制を拡大して、蒙古八旗・漢軍八旗を新たに編成した。天聡九年[1635]、チャハル部を逐って内モンゴルを平定し、大元伝国の璽を入手し、朝鮮を従属させた。女真の称を満洲に改めた。翌年四月、大清皇帝の位につき、国号を大清(清、ダイチン・グルン)と改め、崇徳と改元した。崇徳五年[1640]、松錦の戦いで明軍主力に大打撃を与えた。明朝打倒をめざし、山海関に迫ったが、関を越えることなく翌年に没した。
1627朝鮮に侵入する(天聡1](-朝鮮半島-清、朝鮮)-清の時代(年表)-
1627丁卯胡乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1627丁卯胡乱(後金の朝鮮侵攻)(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮後金:清)--李氏朝鮮時代
1627丁卯胡乱、後金(後の清)鴨緑江を越え朝鮮侵入(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮後金:清)--李氏朝鮮時代
後金(後の清)のヌルハチホンタイジ(女真人・満州人)は明と同盟関係にある朝鮮に侵攻してきた。朝鮮軍は敗北を重ね、皇帝は江華島へ避難した。その後、後金に服従することで講和が成立、交易開始、後金軍は撤退した。
1628オランダ人ベルテブレ,済州島漂着.帰化し朝鮮人女性と結婚(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1628ベルテブレ、済州島漂着(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1629平安道・黄海道の流浪民の明火賤集団により漢城攻略(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1631鄭斗源,明から千里眼,時計,鉄砲を伝える(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1631鄭斗源が明から千里鏡、時計自鳴鍾、鉄砲火砲などを輸入(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1635朝鮮貿易復活。歳遣船1船を釜山に出す。 慶長16
重臣柳川調興が宗氏の国書改ざんを幕府へ直訴したが(柳川事件)、将軍家光の裁きにより調興は津軽へ、外交僧規伯玄方は盛岡に流罪となる。 寛永12(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1636金、国号を清と改める。朝鮮を属国とする(崇徳1](-朝鮮半島-清、朝鮮)-清の時代(年表)-
1636丙子胡乱、清国への朝貢を行う(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1636丙子胡乱.清が君臣関係を要求し侵略.世子を人質として清へ送る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1636丙子胡乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1636清のホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)、朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城、(後金、国号を清とする)(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮後金:清)--李氏朝鮮時代
16361636年丙子胡乱後金は国号を清とし、清に服従することと明討伐の派遣軍3万の提供を要求してきた。朝鮮はこれを拒否、清は12万の大軍で侵攻してきた。朝鮮軍はなすすべもなく40日あまりで降伏した。朝鮮は明と断交すること、王子を人質に差し出すこと、莫大な賠償金を支払うなどの屈辱的な講和条約を結ばされた。また、朝鮮王の仁祖は、清の皇帝の前で三跪九叩頭の礼を行い、服従する誓いをさせられた。【三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)】中国皇帝に臣下の礼をとるため、三度ひざまずき、九度頭を地にこすりつける儀式。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮後金:清)--李氏朝鮮時代
後金から清へ
 ヌルハチの建国したアイシン(後金)はしだいに周辺民族を制圧して、第2代のホンタイジの時の1636年に、中国風に国号を清に改め、さらに明が李自成の反乱で滅亡した後に北京に入り、李自成を討って1644年に中国全土を統一した。
16371637年~1897年:清(属国)
1637仁祖(朝鮮王)降伏、明に替わり、清の皇帝を認める(大清皇帝功徳碑)、以後、1895年の下関条約締結まで、朝鮮は清に臣従する、小中華思想(朝鮮のみが、中華文明の継承者であるとする)が髙揚(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1637清の北京に国家使節として燕行使派遣.1894年まで続く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1641鎖国体制(幕府の対外政策)の完成-オランダ商館を出島へ移す。オランダと中国は幕府直轄の出島、朝鮮とは対馬藩、琉球は薩摩藩、アイヌは松前藩で貿易が行われた。(江戸時代-朝鮮半島-日本、日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1645昭顕世子,清から化学,カトリック教などの洋書を伝える(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1645昭顕世子が清からカトリック書や科学書などを持ち帰る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1645昭顕世子が清から科学書籍、カトリック書籍などの洋書を輸入(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1646林慶業の乱.下層民衆の反乱.失敗に終わる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1653ハメル,済州島漂着.後に脱出し「朝鮮幽囚記」を著す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1653時憲暦採択.太陰暦と太陽暦を合わせて,二十四節気と1日の時間を計算(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1653ハメル、済州島漂着(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1653時憲暦採択(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
16541654年羅禅征伐(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1654第一次羅禪(ロシア)征伐.黒龍江へ侵略した羅禪を清の要請で撃退(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1658第二次羅禪征伐.朝鮮の鳥銃軍,再度ロシアを撃退(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1658第二次羅禅征伐(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1659胡西地方に大同法実施.民衆の税負担を減らす(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1659湖西地方に大同法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
16601660己亥礼訟(礼論が起こる)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1660己亥礼訟(礼論が起こる)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1662堤堰司設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1662堤堰司設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1674甲寅礼訟により、南人が政権を握る(両班制度の中の党派争い)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1674甲虎礼訴が起こり、南人政権が成立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1678常平通宝鋳造.朝鮮後期の法貨の誕生(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1678常平通宝鋳造(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
16801680庚申換局(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1680西人政権(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1680庚申換局.南人派が失脚し西人政権樹立.一党専制化始まる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1680庚申換局(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1680酉人政権が成立(庚申換局)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
16831683西人が老論と少論に分裂(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1683西人が老論と少論に分裂(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1688京畿道楊州で弥勒信仰者が漢城に侵攻しようとするが失敗(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
16891689己巳換局(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1689己巳換局(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1689己已換局、西人政権が再び南人政権へ(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1689雨森芳洲、対馬の儒学者として仕え朝鮮外交に活躍。 元禄2(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1694粛宗の治世に甲戌の獄起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1694申戌換局.南人派が小論派除去に失敗して打撃を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1694甲戌換局、西人が再び政権を掌握(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1696安龍福,鬱陵島から日本人追放.独島(竹島)を朝鮮領土として主張(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1696安龍福、欝陵島から日本人を追放追い払う(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1697義賊,張吉山の乱.反政府活動を続けるが最後まで逮捕されず(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
170017世紀末
党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
170017世紀この頃の朝鮮半島は中国の清による冊封体制の中にありました。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
170017世紀前半清から攻撃を受け、朝鮮は清の属国となりました。朝鮮の朝貢物は女性(生口)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
170017世紀末党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1703朝鮮国訳使官使船、鰐浦沖で遭難し乗員112名全員死亡。 元禄16(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1708全国的に大同法施行.土地所有の程度により税を負担(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1708全国に大同法施行(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1711新井白石、朝鮮使の待遇を改める(江戸時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
17121712白頭山に定界碑を建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1712清との領界を定める白頭山定界碑建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1712白頭山に定界碑を建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1712白頭山定界碑建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1715原田三郎右衛門が陶山訥庵の入手した甘藷の種の栽培に成功する。
甘藷は後に対馬から朝鮮へ伝わる。 正徳5(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1716享保の改革1716(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
17211721景宗の治世に、壬寅の獄起こる[~1722辛壬士禍)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1721景宗の治世に、壬寅の獄起こる[~1722辛壬士禍)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1724《英祖即位(在~1776]》(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
17251725年蕩平策実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1725圧膝刑や死者に罪を追加して再度殺す刑罰を禁止(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1725蕩平策実施.党争の悪弊を正し,王権の伸張と不偏不党を図る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1725老論政権成立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1725蕩平策実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1727丁未換局、少論政権成立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
17281728李麟佐の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1728李鱗佐の乱.政界から追放された過激派勢力が政権を奪取しようとする(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1728李麟佐の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1729三覆法制定.死刑囚への初審,再審,三審を認める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
17501750年均役法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1750均役法実施.奴婢以外の成年男子に軍役を課し,身役と賦役の弊害を正す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1750均役法実施される(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1750均役法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1759「東史綱目」完成.正史の間違いを批判.野史も取り入れる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1759府中大火。消失家屋1千戸。幕府より米1万石の支援救援を受ける。幕府より朝鮮人参貿易資金8万両を借入れ。 宝暦9 義蕃[27](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
17621762英祖の治世に荘献世子事件起こる、精神を病んだ荘献世子が異常な行動を取り、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1762英祖の治世に荘献世子事件起こる、精神を病んだ荘献世子が異常な行動を取り、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
17631763年朝鮮通信使が日本からサツマイモを持ち帰り、朝鮮で食糧対策の一環として取り入れられた。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1763さつまいも日本より伝来(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1763朝鮮通信使が日本からサツマイモを持ち帰り、朝鮮で食糧対策の一環として取り入れられた。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1763さつまいもの伝来(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1763江戸神田に朝鮮人参座創設(江戸時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1772老中田沼意次、田沼時代が始まる1772(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1774個人の家での刑罰「濫刑」や,男性器を切り取る「鯨刺」禁止(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
17761776年奎章閣設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1776昌徳宮の北苑に奎章閣設置.文芸の中心機関となる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1776奎章閣設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1776朝鮮私貿易断絶のため、対馬藩に手当金給付(江戸時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1776朝鮮貿易のうち私貿易の断絶を申告し、幕府より毎年1万2千両の給付を受ける。 安永5 義暢[28](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1782天明の大飢饉[~87]1782(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
17841784李承薫が天主教の書籍を持ち込む(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1784李承薫、北京で洗礼を受けて帰国、伝道を行う(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1784李承薫,北京で西洋の神父より洗礼を受け帰国,天主教伝道(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1784李承薫が天主教の書籍を持ち込む(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1784李承薫の天主教カトリック伝道(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1785「大典通編」完成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
17861786年西学禁止(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1786西学(天主教)禁じる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1786西学が禁止される(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1786西学を禁じる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1787寛政の改革(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1791辛亥通共政策(商業における自由売買を決める)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
17961796正祖による水原城(華城)建設、(朝鮮後半の全盛期)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1796正祖による水原城(華城)建設、(朝鮮後半の全盛期)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
180018世紀中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
180018世紀末中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1801日本統治時代
19世紀末、日本は日清戦争に勝利し、台湾の統治権を得ました。これ以後約50年間、台湾は日本の植民地となりました。日本の統治に対して、当初は台湾住民の抵抗が強く、約5年間続いた紛争では、1万人以上の台湾人が戦死したり虐殺されるなどしました。
台湾に対する日本の植民地政策は、植民地経営での欧米との対抗意識や、南進政策もあり、道路、鉄道、港湾、上下水道、電気、通信などのインフラの整備や、教育の普及、治安の維持に注力するもので、そのレベルは当時の日本本土を上回るものでした。
台湾人は二等国民とされ、日本人や朝鮮人らと差別されましたが、こうした植民地政策により、台湾の公共インフラや教育水準はこの時期に飛躍的に向上し、経済的にも発展しました。
日本統治時代は、台湾人の日本同化政策により、台湾での学校教育は日本語で行われたため、この時代に学校教育を受けた世代は、日本語を話すことができます。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)--
18011801年辛酉迫害(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1801辛酉邪獄(天主教徒[カトリック]と中国人神父の殺害)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1801辛酉迫害(辛酉邪獄)、天主教に寛大であった時派への弾圧(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1801辛酉迫害(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18041804《純祖の治世、安東金氏による権勢政治[~1863年)》、士林派の終焉(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1804《純祖の治世、安東金氏による権勢政治[~1863年)》、士林派の終焉(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1811洪景来の乱[~1812地方差別に反発した一揆)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1811洪景来の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1811洪景来の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1811没落両班,洪景来の乱.農民とともに平安道で起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1811洪景来の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1811朝鮮信使の江戸参礼を改め、聘礼式を府中(厳原)において行う。 文化8(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
1811最後の朝鮮通信使,対馬に来着(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬-李氏朝鮮時代
1825異国船打払令1825(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1831天主教朝鮮教区設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1831カトリック朝鮮教区設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1832イギリス商船、ロード・アーマスト号来航し通商を求める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1834朝鮮の凶作及び王城焼失により貿易途絶し、幕府より1万両を借入れ。 天保5(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
18391839己亥迫害(漢城の天主教徒の弾圧)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1839己亥邪獄.フランス人神父と信者多数処刑(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1839己亥迫害(漢城の天主教徒の弾圧)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1839斥邪綸音公布.民衆に公式にカトリック教を禁じる教書を下す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1839已亥迫害(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1839己亥迫害(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1845イギリスの軍艦サマラン号が済州島と西海岸を不法に測量する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18461846丙午迫害(天主教徒の漢江畔での処刑)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1846フランス軍,カトリック教弾圧に抗議し忠清道に入り書簡を渡す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1846丙午迫害(天主教徒の漢江畔での処刑)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1854日米和親条約締結1854(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1856ハリス来日1856(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1858日米修好通商条約締結1858(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1859安政の大獄1859(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1860崔済愚,東学(西教のカトリック教に対し,東方の道を立てる)創始(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1860崔済愚、東学創始(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1861金正浩,「大東輿地図」作成.産業,文化への関心を反映(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1861金正浩、「大東輿地図」をつくる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1862慶州道の晋州地方から農民蜂起始まる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18621862年壬戌農民蜂起(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1862壬戌農民蜂起(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18631863《哲宗崩御し、高宗即位》、大院君政権の成立(王権強化)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1863近代社会?(~1945](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18631863年興宣大院君、執権。大院君の鎖国政策。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1863高宗即位.父の興宣大院君執権.実権を握る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1863高宗即位。興宣大院君執権(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1864朝鮮で大院君が政権を掌握(-朝鮮半島-朝鮮)--
18644.  崔済愚処刑。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18651865年閔妃が王妃に。#style(class=box_black_swm){{閔妃・・・1851ー95年閔茲暎、公宗の王妃。後の明成皇后。}}(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18651865年閔妃が王妃に。
閔妃・・・1851ー95年閔茲暎、公宗の王妃。後の明成皇后。}}(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1865壬辰倭乱で焼失した景福宮再建[~1872](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1865景福宮再建[-1872](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1866平壌洋擾.アメリカの武装商船ゼネラル・シャーマン号焼打ち(-朝鮮半島-朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18661866キリスト教を弾圧し、信者1000人の死傷者を出した(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18661866年高宗の王妃に。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1866キリスト教を弾圧し、信者1000人の死傷者を出した(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1866ドイツの冒険商人,交易を拒否され大院君の父の墓をあばこうとして失敗(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1866丙虎邪獄。シャーマン事件(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1866丙寅迫害.天主教に対する弾圧.9人のフランス人神父と数千人の信徒が処刑(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1866丙寅洋擾.丙寅迫害に対してフランス侵略するが撃退(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1866丙寅迫害、丙寅洋擾(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18661866丙寅教獄(フランス人神父を含む多数の天主教徒の処刑により、フランス艦隊の江華島攻撃)、丙寅洋擾(アメリカ武装商船シャーマン号が朝鮮軍人の拉致や発砲を行うも、逆に焼討ちにあい全員殺害される)(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、アメリカ、フランス)--李氏朝鮮時代
18661866年丙寅迫害→丙寅洋擾カトリック虐殺→舐めきって準備不足の仏に勝利?ジェネラルシャーマン号事件。アメリカ商船を奇襲、虐殺。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、アメリカ、フランス)--李氏朝鮮時代
1866丙寅教獄(フランス人神父を含む多数の天主教徒の処刑により、フランス艦隊の江華島攻撃)、丙寅洋擾(アメリカ武装商船シャーマン号が朝鮮軍人の拉致や発砲を行うも、逆に焼討ちにあい全員殺害される)(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、アメリカ、フランス)--李氏朝鮮時代
186610.  フランス艦隊江華島攻撃(丙寅洋擾)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18671867年(明治元年)明治政府は宗氏を通じ、王政復古を朝鮮に通達。「皇」「勅」の字の多用に朝鮮が怒り、受け取り拒否。以後、朝鮮は日本使者に非礼。帰国後、全員が「即時征韓論」を唱える。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1868宗義達、藩兵を率いて大坂行在所に至り八幡の守衛に就く。京に上り、朝鮮通交につき建言。朝鮮国に政権が天皇に帰したことを通告。 明治元(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)--
18684.  宗義達(対馬藩主)朝鮮通交事務取扱となる。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
明治時代
(めいじじだい)
字義どおりには,1868年(慶応4・明治1]9月8日の明治改元から、1912年7月30日明治天皇の崩御にともない皇太子嘉仁(よしひと)親王が践祚し、大正と改元したときまでを指す。これは、明治天皇の践祚が1867年1月9日であるため、天皇の在位期間と一致せず、一世一元制の採用以前の時期を包摂できない。歴史学上での時期区分からすれば,1853年(嘉永6]ペリーの来航に始まる幕末・維新期の激動の時代から、明治天皇の没後に新しい時代の台頭を象徴する事件として生起した大正政変のころまでを指すのが適切であろう。

一八六八年から一九一二年に至る、「明治」の元号による四五年間の称。明治新政府の成立以来、開国進取・富国強兵が国是とされ、版籍奉還、廃藩置県などが行なわれて、封建制度にかわる中央集権体制が確立した。また、明治一八年に内閣制度、同二二年には大日本帝国憲法が制定され、欧米諸国の制度・文物の移入による諸改革が急速に行なわれた。
※将来之日本[1886]〈徳富蘇峰〉一「今日の老輩にして封建時代の破壊より、明治時代の今日に至る迄を経過したるの人は」
1868年の明治新政府の発足から,1912年明治天皇の崩御に至るまでの44年間をさす
この時代の日本国民は,国内政治・国際政治において大きな変革を経験した。世界の各国の進歩からとり残されていた鎖国下の封建日本は,この半世紀間に欧米諸国にならって立憲制を採用し,資本主義体制を確立して近代国家へと発展した。日清・日露両戦争に勝ち,アジア大陸の一角,朝鮮に植民地を得て列強の一つとして強大な軍備をもち,他国を脅かす存在となった。しかし明治末年には政治・経済上の行きづまりをみせ,国際的にはアメリカと対立するに至った。
18691.  樋口鉄四郎(対馬藩家老)を朝鮮へ派遣、「皇」「勅」書契問題おこる。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
18701.  佐田白茅を朝鮮へ派遣。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
187010.  吉岡弘毅を朝鮮へ派遣。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1871辛未洋擾.アメリカの艦隊が江華島に侵入,撃退(-朝鮮半島-朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18711871年辛未洋擾、米軍、江華島で報復。朝鮮軍敗北も「賛国維持」で勝利と宣伝。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1871辛未洋擾(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18716.  アタリカ艦隊江華島攻撃(辛未洋擾)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18719.13  天津で初の対等条約である日清修好条規が結ばれる。・通商章程調印。(-朝鮮半島-清、清、朝鮮)-日韓併合-
18719.13  日清修好条規
日本と中国清朝との間に締結された最初の修好通商条約。1871年9月13日(明治4年7月29日)日本側全権大蔵卿伊達宗城と清国側全権直隷総督李鴻章との間に調印,73年3月9日批准,94年8月1日,日清開戦により失効した。明治政府は係争中の対朝鮮修交問題を有利に解決するため,朝鮮の宗主国である清国と対等条約を締結することを希望した。しかし日清間には16世紀末以来正式国交がなかったので,1870年7月27日(明治3年6月29日)予備交渉のため外務権大丞柳原前光,同権少丞花房義質に国交と通商の下交渉ならびに貿易状況の調査を目的に清国差遣を命じた。(-朝鮮半島-清、朝鮮)--
187111.  岩倉具視らを欧米へ派遣。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18729.  花房義質を朝鮮へ派遣、朝鮮政府退去を要求。草梁倭館を接収、日本公館とする。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1873朝鮮で閔氏が政権を奪取(-朝鮮半島-朝鮮)--李氏朝鮮時代
1873《大院君追放、閔妃を中心にした閔氏政権の成立》(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18731873年大院君失脚により、閔一族の権勢。高宗、親政。
同族争いの歴史
輿宣大院君━┳━┃高宗━━━閔妃(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18731873年(明治6年)征韓論争(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1873大院君政権が倒れ、閔氏政権が成立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18738.  閣議、参議西郷隆盛の朝鮮派遣決定。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
187310.  西郷の朝鮮派遣を無期延期、征韓派5参議下野(明治6年10月政変)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
187312.  閔氏政権成立。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18741874(明治7)年の日本の台湾出兵は、近代日本の最初の海外出兵であった。当時日本では、西郷隆盛らが盛んに征韓論という朝鮮半島への出兵を主張していたが、大久保利通ら政府首脳は内治優先を主張して鋭く対立し、ついに西郷らの下野、そして1877(明治10)年の西南戦争という内戦に向かっていく。その一方で行われた台湾出兵は、琉球帰属問題という朝鮮問題と並ぶもう一つの領土問題の懸案だった。こちらに対しては内治派の大久保らも出兵を推進しており、明治政府の基本姿勢は翌75年の江華島事件とともに、対外膨張路線であったことが明らかである。そして台湾出兵は、琉球帰属問題の解決後の琉球処分(琉球併合)、さらにその後の台湾領有に向けての第一歩となった。(-朝鮮半島-台湾、日本、朝鮮)--
1874純宗、出産。高宗、妾に男子有り。(明治7年)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18745.  日本軍、台湾出兵。~10(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18749.  日本公館長森山茂と東莱府使との閧に交渉開始合意。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1875清に息子を王世子と認めてもらう。(明治8年)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1875日本の軍艦雲揚号江華島へ侵入.武力示威を展開.永宗島占拠(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1875雲揚号事件(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18752.  森山茂理事官、釜山着任、朝鮮政府と意見対立(7月 金継運との会見拒否、9. 帰国)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18759.20  江華島事件(日本が朝鮮との国交通商を要求し武力示威した事件)(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代
18759.20  1875年(明治8年)日本軍と朝鮮軍との間で江華島事件(こうかとうじけん)がおきます。これは、日本軍が朝鮮付近の海を測量したのに対して朝鮮軍との間に衝突が起きたのですね。日本に媚びる。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代
18759.20  江華島事件。雲揚号が江華島へ侵攻(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代
18759.20  江華島事件鎖国中の朝鮮と江華島事件が起き、朝鮮砲台占拠。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代
18759.20  江華島事件-日本と李氏朝鮮との戦い。日本の勝利(明治時代-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--
18759.20  「雲揚」、江華島・永宗島攻撃(江華島事件)。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)-日韓併合-
18759.20  江華島事件(こうかとうじけん)
1875年9月 20日,朝鮮半島の西沿岸で水路測量の名目で示威活動中の日本艦『雲揚』の端艇がカンファ (江華) 島付近でチョウォチン (草芝鎮) 砲台から砲撃され応戦した事件。別名『雲揚』号事件。これを好機として,日本は強硬策をとり,列国の支持を得て,黒田清隆,井上馨を両全権として朝鮮に派遣し,武力的威嚇のもとに交渉を行い,76年2月 27日,日鮮修好条規 (→江華条約 ) を調印させた。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--
187510.  参議木戸孝允、朝鮮政策につき意見書提出。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)-日韓併合-
187512.  参議黒田清隆を朝鮮派遣全権大使に任命。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)-日韓併合-
1876日朝修好条規朝鮮と日朝修好条規(江華条約)を締結。外国に対して締結した初めての不平等条約。(-朝鮮半島-、朝鮮)--
1876日本と江華島条約(日朝修好条規)締結(-朝鮮半島-朝鮮、日本、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1876日朝修好条規を結ぶ、釜山など三港の開港と自由貿易、開港場の居留地、日本商民への領事裁判権の承認、日本貨幣の流通、輸出入品への関税免除など、参考:、[1880]日本公使の常駐、元山の開港、無関税規定の改定、[1883]仁川の開港(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18761876年王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1876日朝修好条規清の宗主権を否定両班でない階層は、親日派で近代化を目指す宮中で興宣大院君と閔妃が権力争いを繰り返す日清の条約の後
※両班朝鮮の身分制度・・・千年にわたる、非人間的な身分制度
貴族・・・王族及びその縁者両班・・・特権階級併合前の李氏朝鮮末期、戸籍上の半数中人・・・官僚機構をになう専門職常民・・・多くが小作農、実質的な人権がない常奴の蔑称も七賎・・・賎民階層(商人、船夫、獄卒、逓夫、僧侶、白丁、巫女、李朝時代には妓生(きいせん))白丁は戸籍が無く、性も無い、その他いくつもの禁止事項が。奴婢・・・家畜同然で、他人に売買はされる存在。(明治9年)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1876日朝修好条規締結1867(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1876江華条約(日朝修好条規)調印。釜山港開港(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1876江華島条約を締結(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1876江華島条約江華島事件の翌年には、日本は朝鮮との間に不平等条約「日朝修好条規」を結ぶことに成功しました。この日朝修好条規により朝鮮は日本に対して釜山、元山、仁川を開港し、開港地には日本の居留地を設定しなければならず、領事裁判権を認め、関税自主権も失うことになります。これによって、日本人が朝鮮に渡って、米の流通を牛耳ってしまうんですね。そして、大量の穀物などが日本に輸入され、朝鮮では穀物の価格がどんどん高くなってしまう事態となります。1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代
1876王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。しかし、やがて、1875年、日本軍は、開国を求めて、江華島に侵入し、1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代
1876朝鮮国の開港に関する江華島条約締結(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬-
18761.  森有礼公使、李鴻章と会談。清国政府、朝鮮国王に開国を勧告。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18762.  黒田全権ら江華島に上陸[11日より交渉開始)。日朝修好条規調印(27日)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18762.  日朝修好条規の締結(朝鮮の開国)-日本と李氏朝鮮との条約(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
18765.  第1回修信使(金騎秀)来日。8日朝修好条規付録、日本国人民貿易規則(通商章程)調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1877花房義質代理公使を開港交渉のため朝鮮へ派遣、成功せず。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1877西南戦争1877(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1877釜山に日本人居留地設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18789.  朝鮮政府、釜山港輸出入品につき朝鮮商人に課税[12月廃止)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1879池錫永,種痘法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1879池錫永、種痘法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18794.  琉球藩廃止、沖縄県設置。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18796.  花房代理公使、朝鮮政府と開港交渉(仁川開港を断念)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18804.  花房義質、弁理公使となる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18805.  元山開港。米シュウフェルト提督釜山入港、国書奉呈拒否される。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18808.  金弘集来日。シュウフェルト天津着、以後李鴻章と朝鮮の通商条約締結交渉に入る。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
188012.  花房弁理公使、朝鮮国王に国書奉呈。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18811881年調査視察団(紳士遊覧団)、領選使派遣(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1881日本へ紳士遊覧団および清国へ領選使派遣.開化政策を推進(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1881紳士遊覧団および領選使派遣(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18811.  朝鮮統理機務衛門設置。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18815.  朴定陽ら来日。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
188111.  趙秉稿来日。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1882朝鮮で壬午軍乱(-朝鮮半島-朝鮮)--
1882米英独などアメリカ、イギリス、ドイツと通商条約締結(-朝鮮半島-朝鮮、アメリカ、イギリス、ドイツ、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18821882年米朝修好通称条約壬午事変(じんごじへん)壬午軍乱(じんごぐんらん)壬午事変というのは、朝鮮にて当時、政権を握っていた閔氏(びんし)人物が日本と友好であったが為、それに反発するグループがクーデターを起こした事件です。結局、これには日本軍、清軍が介入し鎮圧。この事件後、日本はソウルにおける日本軍の駐留権を認めさせ、清も朝鮮に対して軍隊を指導するなど内政干渉を強めていきます。ちなみに、この事件の後、それまで親日的であった閔氏は内政干渉を強める清よりへと傾いていきます。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18821882年大院君、復権。
壬午事変前の改革
閔氏政権vs金弘集
・開化政策
・清を見習う日本を見習う日本人顧問を呼んで新式訓練(別技軍)
壬午事変
・給与13ヶ月分に旧式軍人が激怒7月23日蜂起
・金弘集ら事大党、日本公使館を焼くなどクーデター
・大院君が担がれる
・閔妃は女官に紛れ脱出→日本を見捨て清(袁世凱)を頼る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18821882年8月30日済物浦条約日本は軍艦5隻に陸軍一個大隊と海軍陸戦隊を載せ、仁川から一気にソウルまで駆け上がり、居留民保護。以下を朝鮮に認めさせる・謝罪・責任者処罰・賠償・公使館警備のための軍隊駐留(再発防止)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1882壬午軍乱.旧式軍隊への差別待遇に対する不満爆発(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1882大院君、開化政策の否定とする、壬午軍乱(軍内における棒給などの不満による暴動で、閔政権打倒される)起こる、朝米(朝英・朝独)修好通商条約の締結、清国は壬午軍乱を鎮圧し、ソウルに軍隊を駐留させ、朝中商民水陸貿易章程を締結する、清国による内政干渉がはじまる
壬午事変後の朝鮮
・朝清商民水陸貿易章程で経済的に属国化
・馬建忠とメレンドルフが顧問に。閔妃はメレンドルフ(高宗側近)と組みロシアに色目。・・・清の不信。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1882米・英・独と通商条約締結.日本とロシアを牽制(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1882壬午軍乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1882壬午軍乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18823.  金玉均来日(8月まで滞在)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18825.  朝米修好通商条約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18826.  朝英仁川条約調印(イギリス批准せず)。朝独修好通商条約調印(ドイツ批准せず)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18827.  朝鮮国に壬午事変勃発。翌月、済物浦条約締結。(-朝鮮半島-朝鮮)--
18827.  壬午軍乱おこる。8日朝修好条規続約・済物浦条約調印。清国軍、大院君を拉致、天津へ連行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18827.  壬午事変(じんごじへん)-李氏朝鮮で発生した襲撃事件(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
18827.22  朝鮮、壬午の変、日本の出兵に対抗し、8月7日、清も出兵(-朝鮮半島-清、朝鮮)--
18829.  仁川開港。朝清商民水陸貿易章程調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
188210.  朴泳孝・金玉均ら来日。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
188212.  横浜正金銀行、朝鮮政府と17万円借款協定成立。ドイツ人ノレンドルフ朝鮮政府統理衛門に傭聘。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1883元山学舎設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1883太極旗使用(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1883典圜局設置.貨幣発行(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1883博文局設立.開化党,朝鮮初の近代的新聞「漢城旬報」発刊(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1883「漢城旬報」発刊(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1883曲圜局設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1883元山学舎設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1883大極旗使用(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18836.  金玉均来日、借款を求めるが交渉不成立[1884年5月帰国)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
188310.  駐清英国公使パークス、横浜駐在独領事ツァッペとともに漢城入京、メレンドルフと条約再交渉(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
188311.  清仏戦争はじまる。[~1885年4月)(光緒10](-朝鮮半島-清、李氏朝鮮、日本)-日韓併合-
188311.  朝英修好通商条約・朝独修好通商条約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1884朝鮮で甲申政変(-朝鮮半島-朝鮮)--
1884甲申政変(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1884甲申政変.開化党による政変革命.清国軍の介入により3日天下に終わる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1884甲申政変(甲申事件)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1884朝露修好通商条約の締結、甲申政変(甲申事変)、開化派のクーデターは失敗に終わり、事大派の勝利となる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1884郵政局設置.近代的郵政事業を目指す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1884郵政局設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1884甲申政変(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18846.  朝伊修好通商条約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18847.  朝露修好通商条約調印。日本公使館新築(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
188411.  甲申政変-李氏朝鮮内でのクーデター(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
188412.  朝鮮国内にて甲申事変。(-朝鮮半島-朝鮮)--
188412.4  甲申政変おこる。朴泳孝・金玉均ら日本へ亡命。井上馨外務卿を特派全権大使として朝鮮へ派遣。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
188412.4  甲申事変(こうしんじへん)そして、そのすぐ後、甲申事変が起きます。これは、朝鮮にて清の影響力が強まる中、日本と組んで近代化を目指した方がいい!というグループがクーデターを起こすのです。もちろん彼らは自分達だけでは無理なので日本の軍にも期待しています。それに対して、閔氏は清に援軍を要請します。朝鮮の人々の中でも日本につくか?清につくか?で争いが頻発した時代ですね。しかし、日本も清も本気で戦争を始められる状態では当時なかった。1884年といえば清はベトナムをめぐって清仏戦争を起こしていて、日本も自由民権運動の真っ只中。そこで、両国間の間で天津条約(てんしんじょうやく)というのが結ばれます。これは、とりあえず、両国とも軍を朝鮮から軍を引き上げましょう。また、今後朝鮮への出兵する際には事前に通告をし合うことにしましょう。と約束事を設けたんですね。閔妃失脚も、清の力で復権。
甲申事変金玉均、竹添進一郎日本公使館の協力を得て、閔氏政権に対して、クーデター
1.国王殿下の呼称の廃止皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。
2.清国に対して、朝貢の礼を廃止する事。
3.内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。
など、14項目の政策を発表清は、清仏戦争の敗北により、全力を朝鮮に。閔妃は、再び清を頼る。日本軍150対清国1500で銃撃戦。清軍、日本公使館焼き討ち。市街で居留民虐殺。竹添、長崎へ脱出。金玉均、朴永孝も日本へ亡命。3日で、クーデター失敗。清は、大院君を送り出す。
甲申事変後の処理
・閔妃の復讐・開化は要人の家族、凌遅刑
・金玉均、暗殺団、組織漢城条約(日本に対して)
・謝罪
・賠償金
事大主義
強い方に付く、勝ちそうな方に付く。親清・親露・親日の見方はできない。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1885日本と漢城条約の締結、英艦隊、巨文島を占領する、(日清間に天津条約の締結)(-朝鮮半島-朝鮮、日本、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18851885日本と漢城条約の締結、英艦隊、巨文島を占領する、(日清間に天津条約の締結)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18851885年4月天津条約・朝鮮より、両軍の撤兵・軍事顧問団不派遣・出兵前に事前通告の原則(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18851885年巨文島事件(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18851885年ロシアを後盾にしようとして失敗。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1885ソウル・仁川間電信開通(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1885巨文島事件.イギリス巨文島を占領,ポール・ハミルトンと命名(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1885広恵院設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1885培材学堂設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1885巨文島事件(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1885培材学堂設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1885ソウル・仁川間電信開通(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1885広恵院設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18851.  漢城条約調印。竹添公使召還。呉大澂、漢城入京。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18853.  福沢諭吉「脱亜論」発表。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18854.  イギリス海軍巨文島占拠。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18854.  天津条約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18854.  天津条約-日本と清との朝鮮に関する条約(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
18854.18  日本と天津条約に調印、朝鮮を日中両国共同の「保護国」化(-朝鮮半島-清、朝鮮)--
18856.  スベエル、ロシア軍人傭聘協定締結のため漢城入京。メレンドルフ解任。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18857.  榎本武揚駐清公使、李鴻章に日清共同朝鮮内政改革案を提示。日本守備隊・清国軍、朝鮮より撤退。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18859.  幽閉中の大院君赦免[10月帰国)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1886育英公院,梨花学堂設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1886育英公院、梨花学堂設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18866.  朝仏修好通商条約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1887清国の仲介により,巨文島よりイギリス軍撤退く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1888ドイツでヴィルヘルム2世が即位し、国際政治が大変動。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18891889年威鏡道、防穀令実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1889凶作を理由に咸鏡道に穀物輸出禁止令.日本の反対で解除(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1889咸鏡道に防穀令実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1889防穀令事件-日本と李氏朝鮮の穀物輸出問題。日本は賠償金獲得
日本法律学校(日本大学)が設立(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
18892.  大日本帝国憲法公布。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18892.  大日本帝国憲法発布1889(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18895.  黄海道で防穀令施行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18899.  咸鏡道で防穀令施行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1890山県有朋による「外交政略論」の提出、(朝鮮を日本の利益線とみなし、その防護が国家目標であるとする)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18903.  第1回帝国議会召集。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189011.  黄海道で防穀令施行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189112.  朝鮮政府に防穀損害賠償要求(防穀令事件)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189212.  東学教徒、崔済愚の伸寃運動開始。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18933.  東学教徒報恩集会。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1894日清戦争は朝鮮を巡る両国の対立から起こった戦争であるが、台湾は沖縄に近く、砂糖などの生産地、地下資源など日本にとって有用であるとして日本の戦争目的の一つには早くから台湾領有の意図があった。また、イギリス・フランスも関心を寄せ、日本の台湾進出を警戒していた。清朝は独力で台湾を保持するのは困難と考え、まずイギリスへの売却交渉を子なったが合意に至らなかった。またフランスは海軍を台湾に派遣するなど積極的で、清朝も一時的譲渡など交渉を行ったが、マダガスカルで反仏暴動が起こったため、台湾譲渡は実現しなかった。そのような情勢の中、日清戦争は講和交渉に入ったが、その最中の1895年3月、日本軍は台湾と大陸の間にある澎湖島を占領して清を牽制し、下関条約で遼東半島とともに台湾を譲渡することを合意させた。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)--
1894東学党の乱(-朝鮮半島-朝鮮)--
1894朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)(-朝鮮半島-朝鮮)--
18941894年東学農民運動、甲午改革(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18941894年閔妃、金玉均を暗殺。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18941894年6月2日伊藤内閣、解散と開戦を同時決定。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18941894年7月23日王宮占領。高宗拘束。大院君、第三次政権樹立も、1ヶ月で日本に呆れられる。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18941894年9月15日平壌攻略。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18941894年9月17日黄海海戦勝利。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1894甲午改革.日本の圧力で閔氏政権を倒し,第一次金弘集内閣成立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1894甲午農民政争が始まる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1894東学農民運動.反封建,反侵略の近代民族運動に移っていく(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1894東学農民運動、甲午改革(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18943.  朝鮮国内で東学党の乱。(-朝鮮半島-朝鮮)--
18943.  朝鮮で東学党の乱(一次・二次甲午農民戦争)、農民が減税などを訴え起こした乱です。党派間のクーデターによる混乱や、外国との開国通商による物価高騰に苦しめられた農民が中心になって蜂起し、官軍と起こした内戦である。大院君派と閔妃派の対立が深まり、大院君、東学党の大幹部の全?準を食客に。大院君は儒教原理主義を押し立て、清の後ろ盾を頼る。しかし、日本にも色目。閔妃はロシアに色目を使うも、清に媚びる。閔妃が清に出兵要請。東学党二代目教祖雀時亮→排外的西洋文化が、古来文化をこわす。地方役人の賄賂に、地方農民が怒り乱となった。これを鎮圧させる為に閔妃は清に援軍を要請します。これを見た日本も日本の公使館を守るなどの理由で出兵。官・農民間の和議が成立して終結する。閔妃、失脚。しかしその後も、清軍と日本軍は、双方が朝鮮に駐屯を続け、ついに、日清戦争が勃発する。日清戦争で陸上戦闘の主戦場となるこの戦争は1895年、日本軍の勝利に終わり、朝鮮は日本の影響下におかれることになる。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮、日本、ロシア、清)--李氏朝鮮時代
18943.29  朝鮮、甲午農民戦争始まる、6月2日、日本が朝鮮に出兵(-朝鮮半島-清、朝鮮)--
18944.  甲午農民戦争。 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18946.  朝鮮政府、清国に援兵要請。清国・日本、朝鮮に出兵。全州和議、全羅道に執綱所設置。日本政府、清国と朝鮮内政共同改革を提議、拒否される。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18946.5  朝鮮王朝が清軍に出兵を依頼、朝鮮に出兵。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18946.8  清出兵に伴い日本軍、朝鮮に出兵。日清英露の四国で協議。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18947.  大鳥公使、朝鮮政府に内政改革案を提示。日英通商航海条約調印。日本軍が王宮占領、大院君摂政となる(甲午政変)。豊島沖海戦(日清戦争はじまる)。甲午改革はじまる。8対清宣戦布告。第1次金弘集内閣成立。大日本大朝鮮両国盟約(攻守同盟)調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18947.22  日本、朝鮮に清軍の撤退を要求。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18947.23  李氏朝鮮で親日政権が誕生する(日本が朝鮮王宮を占拠)(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
18948.1  日清戦争(中日甲午戦争)始まる。日清両国、宣戦布告。[~95.03.30](光緒20](-朝鮮半島-清、日本、朝鮮、李氏朝鮮、台湾)--李氏朝鮮時代
18948.1  日清戦争
李氏朝鮮での甲午農民戦争が発端となり日本と清は朝鮮半島を巡り戦争となる。日本海軍が豊島沖で清国艦隊を攻撃し、開戦。黄海海戦などで日本が勝利し、清が和平を求めた。(-朝鮮半島-清、日本、朝鮮、李氏朝鮮、台湾)--李氏朝鮮時代
18948.1  大院君へ引退勧告。(明治27年)(-朝鮮半島-清、日本、朝鮮、李氏朝鮮、台湾)--李氏朝鮮時代
18949.  平壌占領。黄海海戦。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189410.  農民軍各地で決起。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189411.  井上公使、内政改革要領を朝鮮国王に奏上。日本軍、旅順口占領。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189411.7  大連占領。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
189411.7  旅順占領。この日清戦争については、日本の大勝利により下関条約が結ばれます。大院君、日清戦争中、開化派を弾圧。日本が激怒も、涙の弁明で命乞い。幽閉。
「朝鮮雑記・・・日本人が見た1894年の李氏朝鮮」祥伝社・本間九介(安達九郎)匙や箸などを使わず、すべて手で。小便で顔を荒い、婦女子が陰部を洗う(梅毒など伝染病予防)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
189412.  農民軍公州で敗退、全璋準捕われ処刑。軍国機務処廃止。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1895同じ日本の植民地であった朝鮮(韓国)とは異なり、現在の台湾には日本統治時代に功績のあった日本人を顕彰する銅像や記念碑などが多く存在しており、約50年にわたる日本統治時代を全否定するような歴史解釈は見られません。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)--
1895朝鮮で閔妃殺害事件(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--
18951895年10月8日乙未改革閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)日清戦争による日本の勝利に伴い、朝鮮半島は清の冊封体制から逃れた訳ですが、国内ではこのままでは日本のいいなりになってしまうと危機感が広がっていくわけです。そして、朝鮮の宮廷内では、ロシアと手を組んで日本に対抗しようという動きが出てきます。当時、日本は日清戦争によって獲得した遼東半島をロシアが中心となった三国干渉により清に返還していますから、朝鮮王朝としてはロシアを味方につければ日本もおとなしくなるだろうという考えがあったわけです。当然、日本はこの事態に激怒するわけですが、それにしても恐ろしい事件を引き起こすことになります。1895年10月8日、閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)です。大院君、三浦梧楼公使と閔妃殺害を計画。閔妃殺害事件後、幽閉。
閔妃の本当の写真は?
閔妃は国王の王妃です。彼女がロシアと手を組もうとしている朝鮮宮廷内の動きの背後にいるのではないか?という日本側の憶測により、閔妃を殺害した上でガソリンにて遺体を妬いてしまうという暴挙をおこします。この閔妃殺害には陸軍600人、民間人47人が参加したとされ、首謀者とされたのが三浦梧楼(ごろう)という人物です。彼は、ソウル公使であったのですが、彼ひとりでこの大事件を画策したというのにはさすがに無理がありますね。そして、結局彼らは証拠不十分ということで処罰されることはありませんでした。この事件の背後にいたのは、日本政府?または、殺害事件の前にも暗殺未遂事件が起きていることから閔妃に不満を持つ宮廷内の人物が日本側と手を組んで?など近年ではさまざまな憶測が飛び交っています。
背後に誰がいたのか?それは定かではありませんが、しかし、首謀者が三浦梧楼とされ、彼は処罰されずということで朝鮮国内では日本に対して不満が爆発していくきっかけとなっていきました。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18951895年4月三国干渉で親露政策。ドイツフランスロシアロシアと友好関係維持→遼東半島が日本領になると南下政策に支障。日本に圧力→遼東半島を清国に返還。清国より賠償金上乗せ。「朝鮮には貨幣がない」(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1895乙未事変.日本公使三浦梧楼の指揮により王妃閔妃暗殺(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1895断髪令発布(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1895日本軍の弾圧(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1895閔妃殺害事件(乙未事変)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
1895乙未事変(閔后弑殺)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
1895兪吉濬「西遊見聞」を書く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代
18952.  北洋艦隊降伏。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18953.  日本銀行、朝鮮政府と300万円借款契約(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18954.17  下関条約
伊藤博文首相、陸奥宗光外相と、李鴻章が交渉。
朝鮮の独立承認
遼東半島、台湾・ぼう湖諸島の割譲。
2億両(3億1000万円)の賠償金。  (-朝鮮半島-清、日本、朝鮮)--
18954.17  日清講和条約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18954.17  1895日清講和条約(下関条約成立、朝鮮が独立国であることを確認)朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が日本軍守備隊や警察、訓練隊等により殺害される(乙未事変)三浦梧楼の指揮によって殺害されたとする説が一般的だが、他方日本の保守派・右派の間では、それについて確認がとれていないことを強調する立場もある(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18954.17  下関会議。#style(class=box_black_swm){{下関条約の内容1:朝鮮の独立を認めること。(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)3:台湾を日本に譲り渡す。(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。(これは台湾と中国本土の間の島々。)5:賠償金2億両を日本に支払う。(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)6:日清通商航海条約を結ぶ(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)沙市、重慶、蘇洲、杭洲の開港。?}}朝鮮において重要なのは最初の朝鮮の独立を清に認めさせたというところ!これにより、清による朝鮮の冊封体制は完全に消滅。1897年には朝鮮は大韓帝国と改称することになります。そして、韓国併合。つまりは、日本による朝鮮の植民地化へと進んでいくのです。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18954.17  下関会議。
下関条約の内容1:朝鮮の独立を認めること。(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)3:台湾を日本に譲り渡す。(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。(これは台湾と中国本土の間の島々。)5:賠償金2億両を日本に支払う。(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)6:日清通商航海条約を結ぶ(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)沙市、重慶、蘇洲、杭洲の開港。?
朝鮮において重要なのは最初の朝鮮の独立を清に認めさせたというところ!これにより、清による朝鮮の冊封体制は完全に消滅。1897年には朝鮮は大韓帝国と改称することになります。
そして、韓国併合。つまりは、日本による朝鮮の植民地化へと進んでいくのです。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18954.17  日清講和条約(下関条約成立、朝鮮が独立国であることを確認)朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が日本軍守備隊や警察、訓練隊等により殺害される(乙未事変)三浦梧楼の指揮によって殺害されたとする説が一般的だが、他方日本の保守派・右派の間では、それについて確認がとれていないことを強調する立場もある(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代
18954.17  下関条約
第一条清は朝鮮を独立国と認める。
第二条清は遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に譲渡する。
第三条清は日本へ賠償金2億両(銀)を支払う。(最終的には金払い)(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
三国干渉
日清戦争に勝利した日本が、1895年、下関条約で中国から遼東半島を獲得したことに対して、ロシア・フランス・ドイツの三国が干渉し、その返還を迫ったこと。ロシア(ニコライ2世)の蔵相ウィッテが主唱して、フランスとドイツに働きかけ、日本の遼東半島の領有は極東の平和を妨げるという理由でそれを放棄するよう、下関条約調印のわずか6日後の4月23日に日本に勧告した。日本は当時の国際的な力関係から、この圧力に抗しきれず、同年11月に遼東半島還付条約を清と結んで遼東半島を清に還付し、かわりに3千万両を受けることとした。日本国内では「臥薪嘗胆」が叫ばれ、特にロシアに対する反発が強まった。
18954.23  三国干渉起こる(明治28)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本、清)-日韓併合、日露戦争史(年表)-
18957.  三国干渉の影響で朝鮮は親露政権となる(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
18958.  三浦梧楼駐朝公使となる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189510.  閔妃殺害(乙未事変)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189512.  断髪令公布。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1896徐載弼,アメリカより帰国し「独立新聞」発刊(-朝鮮半島-朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代大韓帝国時代
18961896山県・ロバノフ協定(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代大韓帝国時代
18961896年大院君、隠居。「独立新聞」創刊独立協会設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代大韓帝国時代
18961896年露館播遷高宗、暗殺を恐れロシア公使館に逃げ込む。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代大韓帝国時代
1896俄館播遷.親露派により国王をロシア公使館へ移す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代大韓帝国時代
1896義兵が起こる
露館播遷
独立協会設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代大韓帝国時代
1896山県・ロバノフ協定(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代大韓帝国時代
1896太陽暦採用(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代大韓帝国時代
1896独立協会を設立.独立門を建てる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代大韓帝国時代
1896俄館播遷(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代大韓帝国時代
1896「独立新聞」発刊(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代大韓帝国時代
1896独立協会の設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代大韓帝国時代
18961.  各地に義兵闘争おこる(乙未義兵)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18962.  「俄館播遷」。金弘集ら殺害される。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18964.  徐載弼「独立新聞」発行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18965.  小村・ウェーバー協定調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18966.  山県・ロバノフ協定調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18966.  山縣・ロバノフ協定(朝鮮に関する日露協定)。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
18967.  徐載弼・尹致昊ら独立協会結成。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189611.  漢城に独立門建立。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189612.  「大朝鮮独立協会会報」発刊。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1897一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人と日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。(-朝鮮半島-大韓帝国、朝鮮)--大韓帝国時代
1897大韓帝国樹立
一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人と日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。
日清戦争[1894~1895]の清の敗北を受けて締結された下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、朝鮮国から大韓帝国と国号を改める(財政基盤の脆弱性により借款がうまくゆかず、各地で抗争が起きる)
大韓帝国成立一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人と日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。日本はロシアの南進を防ぐべく、朝鮮半島の近代化を進めた武断政治とよばれる強権統治をおこない、活発な抗日独立運動がおこった。日清戦争後の下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(通称・韓国)として独立し、高宗は韓国皇帝を称した。これ以後日本の強い影響下に置かれた。
大韓帝国の設立.内外に自主国家であることを宣言http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png
国号を大韓帝国に改める&size(6)
{(-朝鮮半島-大韓帝国、朝鮮)--大韓帝国時代};
1897下関条約により清の属国から開放される←←←ココ重要!
1897朝鮮が国号を韓と改める(-朝鮮半島-朝鮮、韓)--
1897朝鮮人民共和国 1945年(-朝鮮半島-朝鮮人民共和国)-消滅した政権一覧-
189710.  下関条約により李氏朝鮮は清から独立する
初代皇帝は高宗とし国号は大韓帝国となる(明治時代-朝鮮半島-大韓帝国、日本、朝鮮)--
1898フランスへの売却をとめた後藤新平の統治施策
日本統治下における台湾での教育行政も、朝鮮と同様に「日本人の優位確保」と「現地住民の日本的慣習への同化」に重点が置かれましたが、朝鮮の場合と違っていたのは、日本人と台湾人(漢人)に加えて、主に山岳で暮らす原住民が、異なる文化を守りながら暮らしていたことでした。
そのため、日本統治時代の台湾には、日本人、台湾人、原住民の三種類の学校があり、日本人学校は設備も教員の質も高くされていました。一方、伝統的な固有文化を重んじる原住民の教育施設には、監視の意図も含めて日本の警察が関わることもありました。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)--
1898釜下鉄道会社設立
独立協会,万民共同会開催.ロシアの侵略策動を糾弾し自主国権運動展開
1898独立教会、官民共同会を開き国政改革を求めるも、土地改革構想を提示しえず、農民層を陣営に取り込めず失敗し、守旧派の弾圧を受け解散する
万民共同会開催「皇城新聞」創刊朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。閔妃を明成皇后に祭り上げる。親露派が親日派を圧倒。
大院君、死去。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1898万民共同会開催(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
18984.  西・ロ-ゼソ協定調印。米西戦争おこる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18984.  朝鮮の主権を日露両国確認。(-朝鮮半島-朝鮮、日本、ロシア)--
18987.  量田事業開始。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18989.  金鵄陸ら、皇帝・皇太子殺害を計画(毒茶事件)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189810.  官民共同会開催。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189811.  独立協会に解散命令。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
18991899年京仁線開通
外国人の手により京仁線開通.
利運社,通運社などの陸運会社設立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1899京仁線開通(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
18999.  韓清通商条約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
189912.  「独立新聞」発刊。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1900韓国の歴史http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png&size(6){(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代};
1900京仁鉄道の開通(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1900万国郵便連合加入(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
1900日英露独墺伊仏英、八ヶ国連合軍出兵。(明治33年)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1900漢江に1100mの鉄橋を架ける。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1900しかし、19世紀に入ると東アジアでは激動の時代となります。アヘン戦争などによる清の国力低下。フランスやアメリカも朝鮮を狙い始め、また日本も朝鮮に国交を強く要求します。しかし、朝鮮は清による冊封体制の下にあることを理由に日本との国交を拒否し、日本と朝鮮との間では対立が激しくなっていくのです。(-朝鮮半島-朝鮮:大韓帝国、日本、アメリカ、フランス)--大韓帝国時代
1900満韓交換論
伊藤博文による交換論(満州はロシア帝国、朝鮮半島は日本)(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19004.  露清密約、満州全域に露軍駐留。
大韓共同郵船会社,仁川輪船株式会社,海西鉄鉱会社設立
万国郵便連合加入(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19006.  義和団事件。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
190011.  満州に関する露清協定締結。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19011901貨幣条令を公布し、金本位制を採用
1901年北京議定書(日本は駐留権)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19016.  桂太郎内閣成立、政綱に韓国保護国化を掲げる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
190110.  朴斉純外相来日、中立化案を打診。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19021902(日英同盟の締結)、日本の第一銀行、朝鮮国内で銀行券を発行(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1902ソウル・仁川間長距離電話開通
日英同盟成立
1902(日英同盟の締結)、日本の第一銀行、朝鮮国内で銀行券を発行
1902年1月30日桂太郎首相、ロシアに満韓交換論を提示。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1902日英同盟成立1902(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1902ソウル・仁川間に長距離電話開通(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
1903ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避
1903YMCA発足(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1903遂安金鉱合資会社設立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1903YMCA発足(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
19038.  日本政府、日露協商基礎条項提示。ロシア、極東総督府設置。駐日公使高永喜、戦時局外中立の承認を求める韓帝密書を小村外相に手交。韓帝、中立承認を各国に打診。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19039.  「皇城新聞」に「満韓交換の風説を破る」掲載。小村・ローゼン会談開始(30日、両者間に日露協商確定修正案まとまる)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
190310.  小村寿太郎外相と駐日ロシア公使ローゼンとの間で朝鮮満州をめぐる交渉開始。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
190312.  閣議、日露開戦時の対清韓方針決定。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1904日露戦争勃発。日本側の勝利に終る。翌年、第二次日韓協約締結。日本の一連の責任者伊藤博文は、朝鮮の保護国化を推進し、日本政府の早期併合論に反対を唱えていた。しかし、1909年朝鮮の民族主義運動であった安重根(???)によって暗殺されるや、決定的に韓国併合に進んで行った。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19041904.02.09日露戦争の始まり、日本、ソウルを制圧し、日韓議定書の調印(朝鮮の内政干渉、軍の駐留権、土地収容権などの確保)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19041904.08.22第一次日韓協約の締結、(日本人による財政顧問・外交顧問の登用、外交交渉における日本政府の事前協議など)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19041904.02.08日英同盟締結。日露戦争勃発。高宗、中立宣言。日本側の勝利に終る。日韓議定書、韓国内での日本の軍事行動の自由を保障。翌年、第二次日韓協約締結。日本の一連の責任者伊藤博文は、朝鮮の保護国化を推進し、日本政府の早期併合論に反対を唱えていた。しかし、1909年朝鮮の民族主義運動であった安重根によって暗殺されるや、決定的に韓国併合に進んで行った。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19041904年8月23日第一次日韓協約を結ぶ。韓国財政、外交顧問に日本の推薦者を置く。外交案件は事前にに日本と協議。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19041904年京釜線竣工(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19041904年一進会は日韓合邦運動を開始。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1904日露戦争が起こる1904(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1904韓日議定書締結.日本による顧問政治始まる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1904京釜線竣工(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1904親日御用団体,一進会設立.日本の政策を支持する運動を展開(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1904第一次日韓協約締結(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1904日露戦争(~1905]が起こる。
第一次日露協約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1904韓日議定書を締結(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
1904京釜線竣工(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
19041.  林公使・李址鎔外相聞に日韓議定書案まとまる。韓国政府、局外中立宣言。御前会議、対露開戦決定(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19042.8  臨時派遣隊仁川上陸、仁川沖・旅順口でロシア艦を攻撃~2.9(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19042.8  日露戦争
~1905-09-05
満州・朝鮮半島を巡る日本とロシア帝国の一連の戦い。日本はイギリス・アメリカの後押しもあり苦戦ながらも勝利した。(海軍:東郷平八郎・陸軍:乃木希典-のぎまれすけなど)(明治時代-朝鮮半島-日本、ロシア、朝鮮)--
19042.10  宣戦布告(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19042.12  清国局外中立宣言(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19042.23  日韓議定書調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19043.  韓国駐剳軍司令部設置。伊藤博文特派大使漢城入京。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19045.  鴨緑江渡河作戦、九連城占領。朝露修好通商条約廃棄。閣議、対韓施設綱領決定。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19047.  駐剳軍司令官軍律制定。「大韓毎日申報」発刊。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19048.  一進会結成。第1次日韓協約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19049.  遼陽占領。京畿道始興・黄海道谷山で民擾。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
190410.  咸鏡道に軍政施行。沙河会戦。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
190410.  目賀田種太郎財政顧問(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
190412.  スティ-ヴンス外交顧問着任)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19051905年~1945年:日本(保護国、併合)
1905日本の保護国の時期1905~1910(日本の保護国-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19051905.08(第二回日英同盟の締結)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19051905.11.17第二次日韓協約の締結(日本の保護国となる)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19051905.11.17第二次日韓協約を結ぶ。韓国は外交権を日本に譲渡、日本の保護国となる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19051905年乙巳条線(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19051905年ポーツマス条約日本の韓国における優越権を認める。日露両軍を満州から撤退する。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1905日露講和条約(ポーツマス条約)締結1905(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1905保護条約、乙巳条約(第2次日韓協約)調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1905関釜連絡船航路就航.現在,関釜フェリーとして運行(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1905第二次日韓協約(乙巳条約).日本の強制的な保護条約(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1905第二次日韓協約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1905東学の第3代教主孫秉熙,天道教創始(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1905日本,竹島(独島)の占有権を公示(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1905乙巳条約(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
1905天道教創立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
19051905年8月日英同盟改定。イギリスが日本の韓国保護国化を承認。(-朝鮮半島-朝鮮:大韓帝国、日本、イギリス)--大韓帝国時代
19051.  旅順開城。駐剳軍司令官、漢城地区の治安警察権を掌握(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19053.  奉天会戦。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19054.  全州地区も)。日本貨幣の韓国内流通公認。第一銀行、韓国政府と国庫金取り扱い、貨幣整理事業委託契約(中央銀行化)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19054.  閣議、韓国保護権確立方針決定。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19055.  イギリス外相、日英攻守同盟を提案。日本海海戦。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19056.  アメリカ大統領、日露両国に講和勧告、両国政府承諾。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19057.  高宗のロシア帝国への密使が発覚する、桂・タフト協定(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、ロシア)--大韓帝国時代
19057.  桂・タフト協定成立。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19057.29  桂・タフト協定
首相:桂太郎とタフト(アメリカ)による協定。日本はアメリカのフィリピン支配権を認める。アメリカは日本の大韓帝国支配権を認める。(明治時代-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、アメリカ、日本)--大韓帝国時代
19058.  日露講和会議[10日交渉開始、29日講和成立)。第2回日英同盟協約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19058.9  露講和条約(ポーツマス条約)調印。小村全権、韓国保護国化にっきアメリカ大統領の了解をうる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19059.  日露講和条約(ポーツマス条約)、注:それぞれにフィリピンとインドに対する支配を承認することを引き換えに、朝鮮に対する保護権確立を米・英・露に認めさせた(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19059.5  ポーツマス条約
アメリカのポーツマスで日本とロシア帝国が講和条約を結ぶ。
1.ロシア帝国は日本の朝鮮半島における優越権を認める。
2.ロシア帝国は南樺太を日本へ譲渡する。
3.ロシア帝国は南満州鉄道・遼東半島租借権・漁業権などを日本へ譲渡する
日比谷焼打事件-ポーツマス条約に賠償金がない事で暴動が発生(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
190510.  朴斉純外相、新日英同盟の条約違反を駐韓日英公使に抗議。日本閣議、韓国保護権確立実行を決定。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
190511.  伊藤博文を特派大使として韓国派遣[15日、韓帝に保護国承認を強要)。第2次日韓協約(乙巳条約)強制調印[17日)。保護条約反対の義兵闘争おこる。ハルバート、韓帝のアメリカ大統領あて親書を携えアメリカ国務長官に調停依頼。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
190512.  韓国統監府および理事庁官制公布、統監に伊藤博文任命。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1906日本、統監府を設置(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19061906.02韓国統監府の設置(統監に伊藤博文が赴任)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19061906年漢城に韓国統監府設置。初代統監に伊藤博文。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1906大韓自強会結成.愛国運動開始(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1906統監府設置.日本人次官が韓国内政全般を取り仕切る(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1906日本、韓国統監府を設置(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1906統監府設置(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
19061.  韓帝、イギリス人ストーリー記者を通じて国書を列国に送り、共同保護を要望。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
19061.  対馬で獄死。梅謙次郎、韓国政府法律顧問となる(法典編纂)。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
19062.  韓国統監府開庁。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
19063.  興業借款1000万円供与。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
19065.  閔宗植、藍浦で挙兵、洪州を占領するも日本軍と交戦して敗退[11月逮捕される)。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
19066.  崔益鉉、泰仁で挙兵、捕えられる(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
19068.  関東都督府官制公布。三七忠造、韓国政府学部参与官となる(教科書編纂)。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
19069.  日本人参与官を朝鮮各地方に配置。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
190610.  鴨緑江・豆満江森林経営に関する協同約款調印。内田良平、一進会顧問となる。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
190611.  満州鉄道会社設立。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
190612.  ロシア外相、日露協商を示唆。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合-
19071907.04~愛国啓蒙運動の活動が起こる、国債報償運動(日本からの借款を募金により返済すると云う)が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19071907.06高宗によるハーグ密使事件(オランダのハーグで開催された第二回万国平和会議の失敗)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19071907年国債報償運動(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19071907年6月ハーグ密使事件。オランダのハーグで開かれた第2回ハーグ平和会議に朝鮮(大韓帝国)の高宗皇帝が密使を送る。この事件で統監伊藤博文は皇帝に抗議。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19071907年7月19日高宗皇帝、息子の純宗に譲位。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19071907年7月第三次日韓協約。内政権が日本の管轄下に入る。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19071907年8月1日韓国軍の解散が定められる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1907ハーグ特使派遣.日本との条約無効を国内外に宣言しようとしたが失敗(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1907ハーグ密使事件、高宗退位
第三次日韓協約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1907安昌浩,新民会設立.多様な反日活動を続ける(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1907高宗皇帝退位.純宗王位に就く(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1907国債報償運動(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1907朝鮮軍隊解散(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1907日本,保安法,新聞紙法などの弾圧法規により啓蒙運動を圧迫(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1907国債報償運動(大邱)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
1907ハーグ特使派遣(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
1907高宗皇帝退位(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
1907軍隊解散(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
1907新民会設立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
19072.  ロシア外相、日露協商案を提示。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19075.  李完用内閣成立。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19076.  第2回万国平和会議に保護条約無効を訴える韓帝の密使3人、パーク着。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19076.  日仏協約
日本は南満州・朝鮮半島・台湾・福建省・蒙古、フランスはインドシナ・広東省・広西省・雲南省の支配・利益を互いに認め合う。(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19077.  高宗が退位し、純宗が即位、第三次日韓協約の締結(内政権の日本管轄、一大隊を残して韓国軍の解体)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19077.  韓帝の各国元首あて親書(常設仲裁裁判所へ保護条約無効提訴につき協力を要請)を携えたハルバート、ニューヨーク着。対韓強硬の世論高まる。閣議、韓帝譲位などの処理方針決定。高宗譲位詔勅発布、純宗即位。第3次日韓協約(丁未7条約)調印(24日)。第1回日露協約調印。韓国軍隊解散の詔勅発布。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19077.  第三次日韓協約。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--
19077.30  日露協約
日本は南満州・朝鮮半島、ロシア帝国は北満州・外蒙古(がいもうこ)の支配・利益を互いに認め合う。
日英同盟・日仏協約・日露協約を結んだ日本は三国協商(イギリス・フランス・ロシア)の一員となる。(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19078.  抗日義兵抗争(~1915](-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19078.  改元、純宗即位式。原州鎮衛隊・江華島分遣隊など軍隊解散に反対し蜂起、丁未義兵闘争おこる。李麟栄ら義兵決起[12月楊州に1万人集結、上京をめざす。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1908義兵,ソウル近郊まて進行,日本軍の反撃で撤退(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1908義兵、ソウル進攻作戦(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
19081.  裁判所構成法施行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19083.  韓国施政改善に1968万円無利子貸し付け。元外交顧問スティーブンス、サンフランシスコで田明雲らに射殺される。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19086.  韓国人憲兵補助員制度創設。「大韓毎日中報」のベセル、イギリス領事裁判で禁固処分を受ける。李完用内閣改造。宗秉峻内相となる[1909年辞任)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19089.  閣議、満洲に関する交渉方針決定。10日韓漁業協定調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
190812.  東洋拓植会社設立。日本興業銀行、起業資金1296万円借款契約。日本政府、起業公債100万円借款契約。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1909伊藤博文暗殺伊藤博文が満州のハルビンで、朝鮮の青に暗殺される。(-朝鮮半島-、朝鮮)--
1909安重根が伊藤博文を殺害(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19091909.09韓国銀行の設立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19091909.10統監伊藤博文がハルビン駅にて、愛国啓蒙運動の義兵(安重根)に暗殺される、朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19091909年12月4日一進会は韓国皇帝・曾禰荒助統監・李完用総理大臣に対して、日韓合邦に関する上奏文と請願書を提出し、合邦声明書を国民に配布。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19091909年安重根義士の義挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
19091909年韓国統監府初代統監伊藤博文がハルビン駅にて安重根により暗殺される。
伊藤博文「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ。」
朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1909安重根,ハルピン駅で伊藤博文射殺.翌年旅順で処刑http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png&size(6){(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代};
1909安重根がハルピン駅で伊藤博文を射殺(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1909日本,安奉線の鉄道敷設権を手に入れるため,清と間島を交換(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代
1909日本、清と間島を安奉線と交換(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
1909安重根、伊藤博文処断(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
1909羅喆、大?教創始(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代
1909李麟栄捕えられ処刑)。間島に統監府派出所開設(清国、撤去を要求)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1909一進会、皇帝・統監に「韓日合邦」上奏文・上申書提出(却下される)。大韓協会など、一進会非難・併合反対運動を展開。李完用、李在明に刺され負傷。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1909閣議、韓国併合方針決定。韓国司法・監獄事務委託に関する日韓覚書調印(法部廃止)。韓国中央銀行に関する日韓覚書調印。軍部廃止。9日本軍、全羅南道方面の義兵「討伐」作戦開始。満州5案件に関する日清協約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19091.  韓帝地方巡幸、伊藤統監陪従[~2月)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19092.  大竹貫一代議士、統監政治批判演説。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19094.  伊藤統監、韓国併合に同意、桂首相・小村外相と実施方針協議。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19096.  伊藤統監辞任、曽禰荒助統監就任。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19096.  伊藤博文、ハルビン駅頭で朝鮮人安重根に射殺される。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--
19097.  閣議は韓国併合方針を決定。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--
190910.  警察事務執行に関する取極書調印(警察合併)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
190910.  伊藤博文、ハルビンで安重根に射殺される。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
190910.26  伊藤博文がハルピンで朝鮮の抗日運動家・安重根に暗殺される(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
190911.  純宗、昌徳宮へ遷る。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
1910日本帝国の植民地時代(日帝時代)[1910~1945年]
1910#style(class=box_black_swm){{建築や燃料のため木を伐り、又、「火田民」による焼畑農業によるやせた土地を、植林する事なく放置されていたため、山々にはほとんど木が生えていなく、盗伐が多いため「山覧」をおき、一般人が植林した山に入る事を禁じた。火田民に農業用地を与え、焼畑農業を禁止し、定住型の農業を進め、5億9000万本の植林をすすめた。鉄道網100kmから総延長6000kmに増やした併合時の人工約1300万人あまり、1942年には2550万人以上平均寿命24才から、42才に}}(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910#style(class=box_black_swm){{植民地・搾取する土地朝鮮に搾取できるものが何一つない歴代シナ王朝→反抗時の軍事制裁はすれども占有はせず日本→使命感に燃えてせっせと投資}}(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910#style(class=box_black_swm){{理想の朝鮮統治とは石橋湛山朝鮮放棄論結論・・・日本人との同化は無理吉野作造外的施設だけでなく朝鮮人の心を得なければならない朝鮮人は日本臣民だが大和民族ではない}}(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
19101910合邦条約を締結。一進会の李容九、宋秉畯などが併合に関する各種の請願書や声明文を発表。(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
19101910.03土地調査事業の推進(土地所有権・地価・地形など)国有地は東洋拓殖株式会社などの日本人地主に多く払い下げられる終了した時点[1918]では水田65%、畑43%が小作地となり農民の77%が小作農・自作農となる1910年代には、本格的な産業政策の展開が見られなかったので、土地を失った農民は中国国境の豆満江・鴨緑江を越えた間島(現、延辺朝鮮族自治州など)に毎年2~3万人の移住が続き、40万人近い朝鮮人が在住していた1920年代には、日本に4万人程度、またロシア領沿海州・中国・アメリカなどに移民(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
19101910.07憲兵警察制度の発足集会取締り令の公布(政治結社・報道の規制)(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910併合後李容九は「日本にだまされた」と述べたと伝えられる。(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910併合直後一進会は他の団体とともに解散を命じられた。(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910「東医宝鑑」完成(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
19101910年日帝の国権侵奪(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910会社令発令.朝鮮人会社の設立を抑制(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910日韓併合条約調印(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910国権剥奪(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-大韓帝国時代日韓併合時代
1910日韓併合日本帝国の植民地時代(日帝時代)[1910~1945年]
日本はロシアの南進を防ぐべく、朝鮮半島の近代化を進めた武断政治とよばれる強権統治をおこない、活発な抗日独立運動がおこった(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910韓国併合韓国を併合しソウルに朝鮮総督府を置いた。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)--
1910韓国併合の歴史日清戦争では、清に朝鮮の独立を認めさせ、1904年の日露戦争勃発時には第一次日韓協定により韓国の財政、外交に関して日本が介入することを認めさせ、日露戦争に勝利した日本は1905年に第二次日韓協定によって韓国の外交権を奪いました。ちなみに、日韓協定は、日朝協定ではないですよ。1897年の日清戦争後に国号を韓国と変えていますから。1904年の日韓新条約、ついで日露戦争終結後の協約により、韓国は日本の「保護国」となっていた(当時、フランスの保護下にあったモナコのように、独立国でありながら他国に外交権を委任することはヨーロッパによく見られたことだった)。日露戦争に勝ったことで日本はロシアの朝鮮半島南下を食い止めることができた。明治維新以来、日本にとって最大の懸案であった朝鮮半島の自立と近代化がこれで進展することになった。そして、この第二次日韓協定によって日本はソウルに統監府(とうかんふ)というのを置き、初代統監に伊藤博文がつきました。これは、もう事実上日本が韓国の政治全般に介入することを意味しています。このような日本の動きに対して、アメリカはフィリピンのアメリカ支配を認める代わりに日本の韓国支配を認めるという協定を1905年に日本との間に結びます。桂・タフト協定といって桂さんは当時の日本の首相。タフトは米陸軍長官です。また、ロシアも日露戦争後のポーツマス条約によって日本による韓国保護国化を認めざるをえなくなります。1907年には、この韓国の現状を世界に訴えようとハーグ密使事件というのがおきます。韓国皇帝がハーグの万博平和会議に密使を送り助けを求めたのです。しかし、韓国には外交権がないという理由で各国は無視。逆に日本は、この韓国の行動に対して韓国軍の解散を強制します。これが第3次日韓協定です。当然、このような日本の行動に韓国国内では不満を募らせる人々もおり1909年に初代統監府であった伊藤博文が韓国の安住根(あんじゅうこん)によって暗殺されます。協約によって韓国統監となった伊藤博文は併合しないと主張していたのだが、条約を守ろうとしない韓国を併合せざるを得なくなる。そして韓国人テロリストが伊藤博文を暗殺するというとんでもない事件が起こった。日本政府が驚愕し、日本人が激怒したのはもちろんのこと、韓国政府、朝鮮人は震え上がった。伊藤博文の暗殺を受けて、日本と韓国の双方から提案があり、韓国併合の話が持ち上がった。会員100万人といわれる韓国最大政党である「一進会」も併合推進派だった。慎重な日本政府は列国に打診した。欧米先進国の仲間入りを願っていた日本は、国際社会の反応を心配したのだ。アメリカとイギリスは、このまま放っておけばさらに混乱すると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対もまったくなかった。各国の賛成を得て、また一進会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。日本政府は、当時最も穏やかな併合だったイギリスのスコットランド併合を参考に韓国の併合を進めることにした。この事件の翌年の1910年には日韓併合条約により韓国は完全に日本の植民地となり韓国併合となったのです。そして明治43年[1910]、日韓併合条約が締結された。植民地政策といえば宗主国が植民地から搾取するのがお決まりのパターンだった(西欧の植民地支配)が、日韓併合後は日本からの一方的な持ち出しだった。しかも朝鮮から日本に入る人数が日本から出かける人よりも相対的に多かった。終戦後、日本は莫大な資産を朝鮮半島に置いてきた。日本が朝鮮半島で迷惑をかけたと考えられるものと差し引き計算すると、日本が置いてきた資産のほうが北朝鮮に関しても、今の貨幣価値で8兆7000億円多い。ところが首相だった小泉は「過去の植民地政策」に謝罪してしまった。謝罪する理由などまったくないにも関わらずである。当時の朝鮮が明治政府や民間の立場からの福沢諭吉たちの切なる勧告を受け入れて近代化を進めていたら、日本は日清戦争も日露戦争も戦わなくてよかった。併合する必要などまったくなかった。それもこれも清国への属国意識に染まって自立の意思に欠け、清国に、あるいは南下侵略の意図をあらわにするロシアになびき、朝鮮が近代化を遅らせたためだけに起こったことである。そのために日本の負担は大変のものだった。日本にとってはきわめて遺憾なことだった。韓国側からすれば主権が奪われたのだからやはり遺憾なことだったであろう。韓国併合に成功した日本は、まず言論、出版、集会、結社などの自由を排除。また、日本語や日本史の教育を推し進め、土地調査により所有者が不明な土地は没収していきました。このような日本支配により、1919年には三・一運動というのがおきます。200万人以上が参加し朝鮮の独立を訴えたのです。こうした運動により日本も武力行使を控えるなどの行動にでますが、日中戦争、太平洋戦争に突入していくと危機を乗り越えるために日本は朝鮮への強要をさらに強めていくことになるのです。1938年には学校教育にて朝鮮語の教育をなくし、日本語を常用することを強制します。また、日本風の名前に改名することをも強制し、朝鮮半島の人々を日本へと連れて行き重労働を強いることなどもしました。昭和59年、韓国大統領(全斗かん)が初めて来日し、昭和天皇と会見した。天皇がどういう発言をするか注目が集まったが、「日韓両国の間には今世紀の初め、まことに遺憾な状態がありました。こういうことは繰り返してはなりません」という趣旨の発言をされた。これ以上ないと思える言い方であった。ところが、日本の首相は小泉をはじめ、日韓併合について安易に謝罪ばかりを繰り返している。これは明治天皇、明治の元勲、それに日進日露の戦争で戦死した人たちを冒涜することである。反日史観・自虐史観では、この併合を「侵略」という。馬鹿らしいことである。政府が直接介入していたか?定かではありませんが、従軍慰安婦問題などもこの頃の問題ですし、竹島問題も韓国併合が焦点となり問題を複雑にしています。韓国併合の理由韓国併合の理由は何だったか。簡単にいえばひとつはアジアの安定、東洋の平和であった。もうひとつは日本の安全、自衛であった。このことは韓国併合の御詔勅に書かれている。御詔勅というのは美辞麗句を連ねた無意味な文書のように考える者もいるが、そうではない。御詔勅というのは、実にその当時の日本の置かれた立場、日本の主張を的確に簡潔に表現している。韓国併合の結果、アジアは安定した。言い換えれば、それまでの禍乱(からん)というものはすべて朝鮮に原因があったと言ってもいい。日清戦争、日露戦争、これすべて朝鮮が主たる原因だった。日本は三たびこの朝鮮のために国運を賭した戦争というものを戦いたくなかったから、ついに空名にしか過ぎない韓国の独立を取り消して併合したのだ。1919年、こうした日本の統治に対しては朝鮮の反発が強かった。この年、宗教指導者らが中心となって、大規模な独立運動を展開した。3月1日に起こったので、3・1運動と呼ばれるものである。この運動は朝鮮総督府当局による武力による弾圧で、間もなく終息していき、運動は挫折した。しかし、独立派の中心的人物などが、中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府と呼ばれる亡命政府を設立した。初代大統領は李承晩で、以降、最後の第13代金丸まで、25年間にわたり継続する。1945年の朝鮮解放により解体した。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本、清)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910日韓併合~1945(明治時代-朝鮮半島-朝鮮、日本)--
1910韓国併合・日帝時代[1910ー1945]
日本統治時代(日帝強占期)1876年、朝鮮王朝は日本から門戸を開放するよう強要され、1910年に日本により併合されました。そして、1945年に日本が降伏するまでの間、韓国は日本の統治を受け続けました。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910日韓併合条約を締結し、大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本は朝鮮半島を領有することになる。いわゆる日帝時代、日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。文盲率90%(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910併合10年後一進会会員から同会の顧問だった日本側リーダーの杉山茂丸に対して、「併合の結果は日韓国民の聞に著しい差別をもたらすものであり、無差別平等の対等合邦ではなかった」と、その責任を問う問責状が送付されている。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910日韓併合条約締結。韓国は朝鮮と改称され、日本の植民地領地となる。これにより、518年に及ぶ朝鮮王朝は滅亡した。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910「韓国併合に関する条約」調印。日韓併合。朝鮮総督府設置(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--大韓帝国時代日韓併合時代
1910大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本は朝鮮半島を領有することになる。いわゆる日帝時代、植民地併合時代のスタートであり、日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--大韓帝国時代日韓併合時代
19102.  小村外相、在外使臣に韓国併合方針を伝え、各国の反応を打診。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19103.  安重根、旅順で処刑。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19105.  寺内正毅を陸相のまま統監に任命(7月23日着任)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19106.  閣議、併合後の韓国施政方針決定。韓国警察事務委託に関する日韓覚書調印(憲兵警察制)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19107.  第2回日露協約調印。閣議、併合条約案等を決定。8日本政府、イギリスにたいし、併合後の関税据え置きを表明。寺内統監、李完用首相に併合に関する覚書を手交[16日)、韓国閣議で併合条約調印を了承[18日)。枢密院会議、併合条約案を可決(22日)。韓国併合に関する条約調印(22日)。公布(29日)、即日施行。韓国併合に関する宣言発表(29日)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19108.  日韓併合条約の締結(大日本帝国に併合され、京城に朝鮮総督府の設置)(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代日韓併合時代
19108.  日韓併合(韓国併合に関する日韓条約)。朝鮮総督府設置、初代総督寺内正毅。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--
19108.8  「条約案」が韓国閣議を通過。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--大韓帝国時代日韓併合時代
19108.22  李完用総理大臣と寺内正毅統監との間で「韓国併合に関す条約」が締結。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--大韓帝国時代日韓併合時代
韓国の保護国化は世界が認めていた
Categories: 日韓併合
かつて日本が韓国を保護国にして、その後併合したことについて、韓国人は今でも怒っている。現代の日本人をも恨んでいるのだ。
しかし、当時のアメリカ大統領もロシアもイギリスも、日本のほうを認めていたのだ。

“19世紀後半から朝鮮半島は、西風東漸の影響を排除することが出来ず、列強蚕食(※列強国にだんだんと侵食されること)の場となっていた。
英米仏の勢力以外にも、3つの勢力が出現した。
それは旧宗主国、清の支配の強化、それに南下するロシア、さらに日本である。
まず、日清戦争で清が敗退し、日露戦争では、ロシアが敗退し、日本が残ったのだ。
東アジアの不安定要因は、朝鮮半島にあると列強諸国は見ていた。
日露戦争後の列強諸国のパワー・オブ・バランスから見れば、アジアの「永久安定」のためには、「朝鮮半島の日本保護国化」がどうしても必要であった。
だから、日露戦争後に締結されたポーツマス条約[1905年)では、ロシアもそれを承認し、アメリカのルーズベルト大統領も「自立できない国家はそれしか無い」とそれを認め、東洋平和のために「将来の禍根を根絶するためには、韓国の保護化が絶対必要」と小村寿太郎外相に述べていた。
かくて、桂・タフト米陸軍長官との協定でも、イギリス政府は朝鮮の日本の保護国化を承認したのだった。”
(「中国・韓国の歴史歪曲」~なぜ、日本人は沈黙するのか~ 黄 文雄 著)からの引用。
19108.22  朝鮮併合-日本が大韓帝国を併合する(世界最貧国から近代化)
朝鮮総督府を設置する(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19108.28  1910.08.28(明治42年)日本側から韓国政府へ「条約案」を提示。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--大韓帝国時代日韓併合時代
19109.  朝鮮総督府官制公布。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
191011.  喜田貞吉述『韓国の併合と国史』刊行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合-
19111911「同化政策」による第一次朝鮮教育令の公布私立学校の廃止(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1911鴨緑江に旋回式鉄橋、鴨緑江橋梁を架ける。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1911105人事件.日帝による総督暗殺事件でっちあげにより新民会員105人逮捕(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1912土地調査事業開始[~1918]多くの農民が土地を奪われる(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1912土地調査事業開始始まる[-1918](-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
19131913年(大正2年)大正政変第一次護憲運動が起る(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19141914年(大正3年)第一次世界大戦勃発(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1914第一次世界大戦参戦(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1914沿海州ウラジオストックに大韓光復軍政府樹立(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1914大韓光復軍政府樹立(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1916朴重彬,円仏教創始.開墾事業と貯蓄運動を勧め新生活運動展開(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1916朴重彬、円仏教創始(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1917シベリア出兵(大正6年-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19181918産米増殖計画の実施(日本国内各地で米騒動おこる、台湾では蓬莱米増産計画)土地を失った農民は都市に流出、日本・中国東北に移住してゆく[1920~1932朝鮮米の生産高は1.2倍、輸出高は2.5倍になる)韓人社会党の結成(ハバロフスクで李東輝らが組織)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19181918年(大正7年)ヴェルサイユ講和条約調印日本・・・人種差別撤廃を主張(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19191919.03.01三・一独立運動の始まり(米国大統領ウィルソンによる民族自決主義の提唱、ロシア革命の勃発)運動は全国に拡大して行き、3月下旬から4月上旬に最高潮200万人に達し、後に帝国主義批判の論理をもった社会主義思想の浸透となる(死者7,509人負傷者15,961人逮捕者46,948人)上海で大韓民国臨時政府の発足(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19191919年3・1運動、大韓民国臨時政府樹立排日、反日・・・日本を敵視(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19191919年三・一事件起る(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1919朝鮮で三・一事件(万歳事件)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19191919.03.01こうした日本の統治に対しては朝鮮の反発が強かった。この年、宗教指導者らが中心となって、大規模な独立運動を展開した。3月1日に起こったので、3・1運動と呼ばれるものである。この運動は朝鮮総督府当局による武力による弾圧で、間もなく終息していき、運動は挫折した。しかし、独立派の中心的人物などが、中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府と呼ばれる亡命政府を設立した。初代大統領は李承晩(???)で、以降、最後の第13代金丸(??)まで、25年間にわたり継続する。1945年の朝鮮解放により解体した。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19193・1運動.挙族的な万歳示威運動.全国に波及(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1919高宗死去(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1919高宗死亡。三・一独立運動が広がる。大韓民国臨時政府設立(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1919上海に大韓民国臨時政府樹立(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1919大韓愛国婦人会組織(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19193.1運動(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1919大韓民国臨時政府樹立(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1919大韓愛国婦人会組織(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
19191919全露高麗共産党の結成(イルクーツクで金哲勲らが組織)その後、イルクーツク派系の火曜会上海派系のソウル青年会東京留学生中心の北風会などが生まれる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--日韓併合時代
19193.1  三・一独立運動-朝鮮での独立運動(主要人物33人は宗教関係者)(大正時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1920#style(class=box_black_swm){{1920年の朝鮮半島■日本の海外領(外地teritory)※インド帝国は植民地(Colony)カナダは海外領■日露戦争で南満州を獲得■開拓農民として朝鮮人が入植漢人の大量流入。朝鮮人vs漢民族保護国保護領植民地属領大韓民国建国の抗日闘争コミンテルンの暗躍■1922年ソビエト社会主義共和国連邦の樹立■朝鮮共産党(コミンテルン朝鮮支部)を組織■抗日パルチザンの金日成を取り込むレーニンとスターリン金日成}}(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1920#style(class=box_black_swm){{日英同盟を切られる■1921年~1922年ワシントン会議■四ヶ国条約(日・米・英・仏)日英同盟撤廃■九ヶ国条約(日・米・英・仏・伊・白・蘭・葡・中)中華民国の主権を保証(日本批判)■五ヶ国条約(日・米・英・仏・伊)主力艦保有のの制限↓日英米が互いに孤立、敵視ソビエト連邦の暗躍を許すシナ大陸の動乱を放置五族(日・朝・満・蒙・漢)協和■1932年1月8日桜田門事件→李奉昌4月29日上海天長節爆弾事件→尹奉吉}}(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19201920~満州東部の間島で大韓独立軍の抗日武装闘争の激化「文化政治」に移行(基本方針としては同化主義を掲げ、具体的な政策では民族主義への配慮を行わざるを得ないと云う特徴)1.従来の憲兵警察制度を廃止し、普通警察制度を発足2.朝鮮総督の文官の任用を認める3.諮問機関として、民選の府協議会・面協議会が置かれる4.禁止していた朝鮮語の新聞・雑誌の刊行の認可(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19201920年清山里大捷、「朝鮮日報」「東亜日報」創刊(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19201920年代まで文盲率80%~99%?「訓民正音」の名で民衆に与えるも、学校というものが存在しない朝鮮では一般民衆には普及しなかった。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1920「朝鮮日報」,「東亜日報」創刊(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19203・1運動で活動した「朝鮮のジャンヌダルク」柳寛順16歳で獄死(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1920青山大捷.金佐鎮の独立軍,満州の青山里で日本軍に勝利(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1920朝鮮日報、東亜日報創刊。
独立軍、青山里の戦いで勝利。琿春事件(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1920金佐鎮、青山里大捷(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1920「朝鮮日報」「東亜日報」創刊(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
19203.1運動朝鮮で3.1運動(独立運動)。日本は軍事力で鎮圧。(-朝鮮半島-、朝鮮)--
19221922年第二次朝鮮教育令法的に大学設立が可能に(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1922天道教少年部「子どもの日」制定.少年運動展開(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1922「子どもの日」制定(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
19231923.09(関東大震災のあと、大規模な朝鮮人虐殺事件が起こる)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1923関東大震災1923(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19239.1  関東大震災(震災恐慌)
日本史上最大の地震。朝鮮人暴徒化説・朝鮮人虐殺説がある。(大正時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19241924.04朝鮮労農総同盟の発足ソウル青年会の主導下に朝鮮青年総同盟が結成され、労働運動・農民運動などの民衆運動の中核的な存在となる(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19241924年日本で6番目の帝国大学である京城帝国大学をつくる。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1924京城帝国大学創立(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1924社会主義思想流入による青年運動の分裂収拾のため朝鮮青年総同盟結成(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19251925朝鮮共産党・髙麗共産青年会が発足するも、1928年には崩壊される(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19251925年京城駅が完成(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1925治安維持法施行(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1925朝鮮共産党結成(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19261926年6・10万歳運動(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1926映画「アリラン」上映(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1926活動写真「フィルム」検閲規制施行(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1926青年学生による6・10万歳運動.多くの学校に広がっていく(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19266.10万歳運動(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
19266.10  6・10万歳運動(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19271927朝鮮労働総同盟と農民総同盟に分離民族解放運動の結節点として「新幹会」の発足をみるが、[1931年に解散)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1927新幹会創立(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1927京城放送局がラジオ放送開始(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1927新幹会結成(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1927民族主義陣営と社会主義陣営が統合し新幹会組織.民族唯一党運動推進(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1927新幹会組織される(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1928上海で李東寧、金九らが韓国独立党結成(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--日韓併合時代
19291929.01元山ゼネスト[2,200人の労働者がゼネストに突入し、交通・港湾荷役は完全に停止する)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19291929年光州学生抗日運動(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1929元山労働党ゼネスト。光州学生運動(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1929光州学生抗日運動(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1929日本人学生が韓国人女性を愚弄した事件をきっかけに光州学生運動起こる(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--日韓併合時代
193019301930年前半では、昭和恐慌で工業が活気を帯びる(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1931万宝山事件(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19317.  万宝山事件-満州での朝鮮人と中国人の争い(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19321932年李奉昌、尹奉吉義挙(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1932五・一五事件。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1932李奉昌義挙.日本の桜田門で天皇暗殺未遂(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1932尹奉吉義挙.上海虹口公園での投弾テロ(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1932李奉昌、尹奉吉義挙(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1932#style(class=box_black_swm){{中華民国は、満州国設立により日本が侵略目的で中国人留学生を受け入れたと言う。現代中国の思想は日本からはいった歴史プロパガンダ・・・中国ファンタジー・・・韓国ヒストリー・・・・日本現代の中国史は毛沢東が書いた歴史→日本の影響、おかげで発展した事を否定}}(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--日韓併合時代
1933国際連合脱退1933(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1933朝鮮語学会,ハングル綴字法統一案制定(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1933ハングル綴字正書法統一案制定(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1934震檀学会組織される(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1934震檀学会組織.日本人御用学者の韓国学に反発.震檀学報発刊(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--日韓併合時代
19351935(中国、抗日統一戦線の樹立を提唱)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19361936年就学児童、110万人になり、文盲率が40%までに。日本がつくったのは小学校だけでなく、24の専門学校、75の中学校、75の高等女学校、133の実業高校、145の実業補習学校、1つの大学予科、36年で建てた公立学校の総数は5000校、22の師範学校(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1936二・二六事件1936(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1936孫基禎,ベルリンオリンピック大会マラソン優勝.日章旗抹消事件(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1936日章旗扶梢事件(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1936孫基禎、ベルリンオリンピック大会のマラソンで優勝(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
19371937祖国光復会(朝鮮民族解放同盟)の師団長(金日成)が日本軍を撃破する(ソビエト連邦の対日参戦の直前に組織された朝鮮工作団の責任者に選ばれた金日成は、日本の降伏後にソビエト連邦軍と共に元山に上陸する)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19371937.10皇国臣民の誓詞が発布される(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19377.  日中戦争の勃発)朝鮮は軍需物資の生産を担う兵站基地となる一面に一神社を設置し参拝の強制創氏改名の強要従軍慰安婦は日本人は将校用、朝鮮人は兵隊用と差別される(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1938張鼓峰事件(朝鮮北端で日ソ両軍が衝突)(-朝鮮半島-、朝鮮)--
19381938年電化による鉄道を走らせた。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19381938年7月29日通州事件(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19381938年7月7日盧溝橋事件(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19381938年8月13日北支事変(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19381938年9月3日支那事変日本は朝鮮人のテロにもめげず・・・(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1938国家総動員法施行1938(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1938朝鮮語教育廃止(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1938ハングル教育禁止(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1938朝鮮教育令改正,ハングル教育禁止
→韓国、北朝鮮の日本語を強要されたという嘘(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--日韓併合時代
19391939日本人労働者不足を補うために85,000人の朝鮮人が日本に強制移動される[1939~1945約113万人)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19391939年名古屋帝国大学(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1939ハングルを弾圧(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1939国民徴用令公布(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1939国民徴用令実施.強制連行はじまる(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1939創氏改名公布.死をもって抵抗する者あり
創氏改名の真実(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1940創氏改名(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1940創氏改名実施。皇民化教育の強化(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1940民族抹殺政策強化.皇民化教育の強化(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1940民族抹殺政策強化(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
19401940.09大韓民国臨時政府は重慶に移転し、韓国光復軍を創設(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--日韓併合時代
19401940年韓国光復軍設立(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--日韓併合時代
1940大韓民国臨時政府,重慶で韓国光復軍結成(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--日韓併合時代
1940韓国光復軍結成(-朝鮮半島-朝鮮、日本)-国史年表-日韓併合時代
19402.  創氏改名
朝鮮人が日本風の氏を創り、それに伴い名の改名が可能となる。~08(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1941臨時政府の対日宣戦布告(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1942朝鮮語学会事件(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1942徴兵制の実施を閣議決定。朝鮮語学会事件(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1942朝鮮での徴兵制実施(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1942朝鮮語学会事件.独立運動団体とみなされ逮捕,投獄,解散させられる(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1942朝鮮語学会事件(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代
1943訓民正音(ハングル)を創制(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
19433.2  ビスマルク海海戦(~3]朝鮮半島に徴兵制敷かれる(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19441944.02朝鮮徴兵令施行(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1944学徒軍事教育要綱発表。
学徒動員非常措置法実施。
全面徴用の実施。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代
1945冷戦
東西冷戦(アメリカ陣営:西側vsソビエト陣営:東側)。
ヤルタ会談からはじまりマルタ会談で東西冷戦は終結した。
[西側]-資本主義、第一世界
1.西側(政治):トルーマン・ドクトリン
2.西側(経済):マーシャル・プラン
3.西側(軍事):北大西洋条約機構(NATO)
4.西側(陣営):西ヨーロッパ、西ドイツ、日本、韓国、台湾、カナダ、南米諸国など
[東側]-社会主義、第二世界
1.東側(政治):コミンフォルム
2.東側(経済):COMECON(コメコン)
3.東側(軍事):ワルシャワ条約機構(WTO)
4.東側(陣営):東ヨーロッパ、東ドイツ、中国、北朝鮮、キューバ、ベトナム、ラオス、カンボジア、モンゴルなど
[中立]-第三世界
1.中立(陣営):インド・アフリカなどの発展途上国など
代理戦争
朝鮮戦争、ベトナム戦争、キューバ危機、アフガニスタン紛争など~1989(昭和時代-朝鮮半島-アメリカ、ソビエト、[西側]西ヨーロッパ、西ドイツ、日本、韓国、台湾、カナダ、南米諸国など、[東側]東ヨーロッパ、東ドイツ、中国、北朝鮮、キューバ、ベトナム、ラオス、カンボジア、モンゴル)--
19451945年~1948年:アメリカ(非独立)←←←ココも重要!
1945朝鮮が南北に分割占領される(-朝鮮半島-朝鮮)--
1945連合軍軍政期(連合軍軍政期-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19451945.08ソビエト連邦が日本に宣戦布告し、朝鮮半島東北部に侵攻トルーマン大統領が「連合国一般命令を」ソビエト連邦に通告し同意させる(北緯38度線で朝鮮を分割し、日本軍を分割武装解除することの内容)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19451945.08.15第二次世界大戦で大日本帝国敗北朝鮮半島での日本の植民地支配終了、連合軍の管轄になる(北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19451945.08.15日本はポツダム宣言の受諾管轄はアメリカ軍とソビエト連邦軍になる(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19451945.09ホッジ中将の米第24軍団第一陣、仁川に上陸し翌日、朝鮮総督府が降伏文書に調印するアメリカが在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を設置(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19451945.11.20第一回全国人民委員会代表者会議(人民共和国による)をソウルで開く(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19451945.12モスクワ協定(米・英・ソ三国外相会議)において、信託統治期間を5年間とし、朝鮮における民主的な臨時政府樹立のために米・英・ソ・中の4大国が朝鮮を信託統治し、その準備を米ソ共同委員会で行うとした(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19451945.12.19米軍政府がソウルの人民共和国政庁を急襲し、解体を宣告する同じ頃、北朝鮮でもソビエト連邦軍の規制が始まり「北朝鮮共産党」に改組され、党首を金日成とする(統一戦線的な北半部の建国の動きを、ソビエト連邦型の共産党独裁政権作りに変質させる)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19451945年かわって米ソ両大国が進駐し、38度線を境に国土が分断されることになった。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19451945年8月18日停戦命令、しかしソビエト連邦は新侵攻を止めず、マッカーサーは、北緯38度線までソビエト連邦軍の駐留を認める。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19451945年9月8日米軍仁川上陸ジョンホッジ中将朝鮮の開放を謳いつつ、日韓の対立を煽る。しかし、開放せず3年間、軍政を敷く。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
1945終戦。ポツダム宣言受諾(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
1945解放、大韓民国[1945年~](-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
1945八・一五民族光復(朝鮮解放)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
1945*1945年第二次世界大戦終戦により、日本による朝鮮半島の実効支配が終了する。これにより、朝鮮半島は解放された。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
1945現代*1945年第二次世界大戦での日本の敗戦により、朝鮮半島は解放され、かわって米ソ両大国が進駐し、38度線を境に国土が分断されることになった。(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
1945現代社会?[1945~)(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
1945光復第二次世界大戦での日本の敗戦により、日本による朝鮮半島の実効支配が終了する。これにより、朝鮮半島は植民地支配から解放された(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
1945在日朝鮮人を乗せ青森から釜山に向かった浮島丸爆沈.原因不明(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
1945日本の植民地支配からの開放。
呂運亨ら建国準備委員会を結成
モスクワで三国外相会議開催(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19458.15光復(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-日韓併合時代軍政期・後南北国時代
1945ソ連、日本に宣戦布告8月8日 日ソ中立条約を破棄し、ソ連が日本に宣戦布告。     満州国朝鮮半島に侵攻。(-朝鮮半島-、朝鮮)--
1945解放、大韓民国[1945年~]
日本の降伏により、朝鮮は植民地支配から解放されたが、北緯38度線を境界としてアメリカとソビエト連邦に分割統治され、国土は南北に分断された。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19458.15  光復.日本の降伏により植民地支配から開放(-朝鮮半島-朝鮮)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19459.2  マッカーサー元帥、朝鮮半島の分割占領を発表(-朝鮮半島-ベトナム、朝鮮)--
19459.6  民族主義者、呂運亨らにより「朝鮮建国準備委員会」の結成全国人民代表大会で臨時政府の樹立を決定し「朝鮮人民共和国」を興す(-朝鮮半島-朝鮮人民共和国)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
194510.  米政府による「朝鮮人民共和国」および「朝鮮建国準備委員会」の否定北朝鮮共産党臨時人民委員会が樹立(-朝鮮半島-朝鮮人民共和国)--日韓併合時代軍政期・後南北国時代
19461946.05米ソ共同委員会は無期休会となり、38度線の無許可越境を禁止する(-朝鮮半島-朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1946日本国憲法公布1946(-朝鮮半島-朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1946第一次米ソ共同委員会開催.朝鮮統治について合意みず決裂(-朝鮮半島-朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1946北朝鮮臨時人民委員会構成.金日成を委員長に選任http://www.0o0d.com/img/flags/16/North-Korea.png&size(6){(-朝鮮半島-朝鮮)--軍政期・後南北国時代};
1946第一次米ソ共同委員会開催(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-軍政期・後南北国時代
194612.  首相官邸デモ事件-在日朝鮮人による暴動(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19471947.02北朝鮮人民委員会の樹立(北朝鮮のみの事実上の単独政府)(-朝鮮半島-朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19471947.05米ソ共同委員会が再開されるも調整がつかず、米が国連総会に審議を持ち込む、そこで、国連監視のもとで1948年3月までに南北統一選挙を実施し、政府を樹立すると云う米案が採択されたが、ソビエト連邦はモスクワ協定を無視したことを批判し、米ソ両軍の撤退と朝鮮人による自主的政権作りに委ねることを提案(-朝鮮半島-朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1947国連総会で国連監視下の朝鮮総選挙案採択(-朝鮮半島-朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1947南北朝鮮の成立南部に大韓民国、北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立。(-朝鮮半島-、朝鮮)--
1947国連韓国委員団構成.ソビエト連邦が入北を拒否,北韓での選挙不可能となる(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--軍政期・後南北国時代
1947国連韓国委員団構成組織される(-朝鮮半島-朝鮮、日本)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1948軍事独裁政権誕生
1948済州島4.3事件7万人虐殺→→大量の韓国人が日本に密入国
1948朝鮮民主主義人民共和国の成立(首相金日成)(-朝鮮半島-朝鮮)--
1948朝鮮が大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分裂(-朝鮮半島-朝鮮)--
1948大韓民国成立(アメリカ軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948大韓民国成立、朝鮮民主主義人民共和国成立、「ハングル専用法」成立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1948大韓民国の成立(大統領李承晩)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19481948.02.26アメリカは国連小総会の開催を提案し、南朝鮮だけで政権作りのための「単独選挙」案を採択する(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19481948.04.03済州島四・三事件[~10反政府闘争)が起こり、多数の済州島民が日本に密入国する[35,000~40,000人追放および処刑)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19481948.08.15辛うじて過半数を確保した右派勢力は、李承晩を初代大統領に選出し、大韓民国政府の樹立が宣布される(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1948李承晩政権…第三代大統領[1948~1960](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19481948年8月アメリカ占領下の南部、李承晩(???)がCOLOR(blue)大韓民国(韓国)の成立COLOR(black)を宣言。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19485・10南韓単独の総選挙実施(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1948済州島人民蜂起。大韓民国樹立。朝鮮民主主義人民共和国樹立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1948済州島暴動.南朝鮮単独選挙に反対する島民の武装闘争(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1948人民共和国,北韓単独政府樹立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1948大韓民国政府樹立.李承晩大統領就任(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19485.10総選挙実施(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1948大韓民国政府樹立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19481948国連臨時朝鮮委員会が派遣されるも、北朝鮮人民委員会は入国を拒否する(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1948北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)[1948~)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19481948.09北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣布、初代首相に金日成、副首相に朴憲永が就任する
1948.09.09朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣布初代首相に金日成、副首相に朴憲永が就任する(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19481948年9月これに対抗してソビエト連邦占領下の北部、金日成(???)が朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の成立を宣言する。間もなく、米ソ両軍は朝鮮半島から撤収し、韓国・北朝鮮の双方はそれぞれの路線で国としての体裁を整えていくことになる。(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1948韓国政府の樹立1945年8月15日に韓国は日本の統治から解放されました。しかし38度線を境に南韓(韓国)と北韓(北朝鮮)に分断され、南北はアメリカとソビエト連邦の臨時的な軍事統治下に置かれることになりました。1948年5月10日に国連の支援の下、韓国では大統領選挙が行われ李承晩が大統領に当選しました。そして同年8月15日、韓国政府の樹立を知らせる公式宣言が発表されました。一方1946年2月、北韓は金日成を中心とした北朝鮮人民委員会を組織し、1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を樹立しました。(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1948*1948年8月、李承晩(???)が大韓民国(韓国)の成立を宣言、これに対抗して9月には、金日成(???)が朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の成立を宣言する。間もなく、米ソ両軍は朝鮮半島から撤収し、韓国・北朝鮮の双方はそれぞれの路線で国としての体裁を整えていくことになる。(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19488.15  大韓民国樹立(-朝鮮半島-朝鮮)--
19489.  朝鮮民主主義人民共和国が樹立する(金日成、ソビエト陣営)
全日本学生自治会総連合(全学連)が結成する(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19489.2  北朝鮮で南北双方の代議員572名による最高人民会議が開催され、すでに4月に採択されていた憲法を正式に制定(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19489.9  朝鮮民主主義共和国樹立(-朝鮮半島-朝鮮)--
19491949.06統一した共和国建設を指導する朝鮮労働党の結成(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19491949.02ソビエト連邦軍撤退後の北朝鮮では、武器・弾薬の供与、軍事顧問の指導を受け朝鮮人民軍が創設される「2ヵ年経済計画」「技術・借款協定」の締結(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19491949.06北朝鮮、朝鮮労働党の成立(金日成が中央委員長に就任)、朝鮮戦争後、金日成が朴憲永などを粛清(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19506-27朝鮮戦争派兵命令(-朝鮮半島-アメリカ、朝鮮)--
19506国連安保理事会、朝鮮戦争出兵決議(-朝鮮半島-ヨーロッパ、朝鮮)--
1950保導連盟事件30万人虐殺
1950朝鮮戦争400万人死亡→→大量の韓国人が日本に密入国
1950朝鮮戦争の勃発(~1953](-朝鮮半島-朝鮮)--
1950朝鮮戦争6月 北朝鮮が38度線を越えて南に侵攻。朝鮮戦争勃発。1951休戦会議、1953板門店で休戦協定。(-朝鮮半島-朝鮮)--
19501950.01.07米政府は中国革命不介入の態度を表明し、一週間後、国務長官のアチリンは米防衛線内に台湾と韓国は含まれて居ない旨を発言するまた中国軍から朝鮮人歴戦部隊が共和国人民軍に編入され、ソビエト連邦が大規模な軍事援助を約束したことにより「南部解放」を決断する(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19501950.02中ソ両国の友好同盟・相互援助条約の締結(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19501950.04平壌に派遣されたソビエト連邦軍事顧問団は金日成に「先制打撃作戦計画」を渡す(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19501950.06.25朝鮮戦争の勃発(人民軍各師団が38度線を越え大挙して南下を開始する)戦争勃発から2ヶ月で韓国の大半は共和国人民軍の勢力下に入る(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19501950.07.07国連安保理事会において、国連軍の編成が決定(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19501950.09.15韓国西岸の仁川に上陸作戦を敢行し、成功する(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19501950.10.01国連軍司令官マッカーサーは、国連軍の38度線突破を指令する攻勢を転じた国連軍は北進を続け、中朝国境の鴨緑江に迫る勢いを見せる(此の時点でスターリンは共和国の亡命政権を中国東北部に樹立することを中国指導部に打診していた)中国は共和国人民軍を支援して、100万の中国人民軍を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19501950年末対韓援助が削除され、韓国経済は破綻の様相を呈する(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1950米韓相互防衛条約(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1950北韓共産軍の南侵により朝鮮戦争勃発(6・25戦争)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19506.25戦争(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19501950.05.30韓国総選挙結果で李承晩与党勢力の大敗朝鮮戦争(韓国では「韓国動乱」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ばれる内戦)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19501950年米国が自らの国防政策における太平洋地域における防衛ラインに韓国を含めなかったことが、北朝鮮の誤解を招き、北朝鮮は、ソビエト連邦のスターリン、中国毛沢東の合意をとりつけて、38度線を突破、韓国への侵攻を決行した。朝鮮戦争勃発である。劣勢に立たされていた韓国であったが、マッカーサーの仁川上陸作戦が成功し、大規模な反攻で首都ソウルを奪還すると、戦闘は膠着状態に陥る。(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19501950年6月25日6・25戦争こうしてにらみ合いが続く中、ついに北朝鮮軍が砲撃を開始!朝鮮戦争が始まります。当初は、北朝鮮が圧倒的に有利に戦線を進めていましたが、アメリカを中心とした国連軍が韓国軍を支援、北は中国が支援しやがて戦局は硬直状態となります。(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1950韓国戦争[1950ー1953]1950年6月25日の明け方、北韓は38度線を越え南への侵攻を強行し南北を武力をもって統一しようとしました。これを受け、共産主義勢力から韓国を守るためダグラス・マッカーサー国連軍最高指令官の指揮の下、世界16カ国からの軍事的支援が投入されました。一方、中国とソビエト連邦は北韓に軍事的支援を行ないました。戦争は3年間続き、1953年7月27日にDMZに位置する板門店で休戦協定が結ばれ終戦となりました。戦争は韓半島を荒廃させただけでなく、南北間の敵対感情を高め、統一をより一層難しいものにしました。朝鮮戦争の原因朝鮮半島は現在でも韓国と北朝鮮と同じ民族でありながら38度線を挟んで対峙しています。このような事態となった原因はどこにあったのでしょう?朝鮮半島は1910年に日本による韓国併合によって日本の植民地となりましたされました。しかし、その日本が第二次世界大戦に破れ、朝鮮半島の統治権を放棄します。ちょっと時代が前後しますが、第二次世界大戦の末期。ソビエト連邦は日本に宣戦布告して満州や朝鮮半島の北部に侵攻していました。まぁ、ソビエト連邦は以前から南下政策といって南へ南へ領土を広げていく戦略を抱いてのですが、日露戦争に事実上敗北するなどして日本に朝鮮半島も満州も取られてしまっていたのですね。しかし、日本が戦争に負けそうなのを見て、これはチャンス!となった訳です。しか~し!アメリカがそれを黙ってみているわけもありません。アメリカはソビエト連邦が単独で朝鮮半島を占領することに危機感を抱き38度線にて分割することを提示しソビエト連邦もそれを認めます。そして、日本は第二次世界大戦に敗北。アメリカ、ソビエト連邦はそのまま軍を滞在させ事実上の支配を続けていくのです。これが、現在も続く朝鮮半島を北と南に別けた原因ですね。その後、アメリカとソビエト連邦の間で冷戦が始まります。大国同士のにらみ合い状態です。すると、朝鮮半島では北と南で別々に選挙を行って別々の国家を樹立することになります。北の代表はニュースなどで知っているでしょう。金日成(キムイルソン)です。南は?李承晩(イスンマン)です。こちらも竹島問題などを調べていくと必ず出てくる名前ですね。詳しくは竹島問題にて。(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1950*1950年米国が自らの国防政策における太平洋地域における防衛ラインに韓国を含めなかったことが、北朝鮮の誤解を招き、北朝鮮は、ソビエト連邦のスターリン、中国毛沢東の合意をとりつけて、38度線を突破、韓国への侵攻を決行した。朝鮮戦争勃発である。劣勢に立たされていた韓国であったが、マッカーサーの仁川上陸作戦が成功し、大規模な反攻で首都ソウルを奪還すると、戦闘は膠着状態に陥る。1951年、ソビエト連邦の提案で、板門店で休戦協定が締結され、双方多大な犠牲を払った3年間にわたる戦争が休戦を迎えることになった。だが、現在でも未だに戦争中であり、それが休戦しているに過ぎない、という状態は、依然として継続しているのである。(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19506.  朝鮮戦争
北朝鮮の南進によりはじまった戦争。一時期に韓国が滅亡的な状況になるがアメリカなどの国連軍の後押しもあって北緯38度線で休戦となる。日本は占領軍の要請により少数ながらも参戦。
日本経済は朝鮮特需により景気が回復する。1950年代半ば頃には国民所得が第二次世界大戦前の水準に回復した。~1953(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19506.25  朝鮮戦争勃発~1953 (-朝鮮半島-朝鮮)--
19506.25  6・25戦争(朝鮮戦争)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
195010.25  中国、朝鮮戦争に参戦(中華人民共和国-朝鮮半島-中華人民共和国、朝鮮)--
1951国民防衛軍事件10万人虐殺
1951居昌事件8500人虐殺
19511951ソビエト連邦の提案で、板門店で休戦協定が締結され、双方多大な犠牲を払った3年間にわたる戦争が休戦を迎えることになった。だが、現在でも未だに戦争中であり、それが休戦しているに過ぎない、という状態は、依然として継続しているのである。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19511951.01.04ソウルが再び、中朝連合軍に占領される(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19511951.04.11強硬論を主張するマッカーサーは国連軍司令官を解任され、その後戦況は膠着状態に入る(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19511951.07.10休戦交渉の開始(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1951サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約調印1951(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1951人民軍、再度ソウルを制圧。国連軍ソウルを奪還(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1951朝鮮戦争勃発。北朝鮮軍南攻、国連軍仁川へ上陸。中国人民志願軍参戦。(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19517.  韓国がアメリカにサンフランシスコ平和条約で日本が放棄する島に竹島を追加するように要請する。
アメリカは「竹島は朝鮮の一部として取り扱われた事がなく、1905年頃から日本の管轄下にある。過去に朝鮮が領有権を主張した事はない。」と却下される。(ラスク書簡)(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19517.10  朝鮮休戦会談開催(以後、断続的に会談が行われ53・07・27休戦協定に調印)(-朝鮮半島-朝鮮)--
19519.8  サンフランシスコ平和条約(発効:1952-04-28]
1.日本と連合国(約50カ国)との戦争状態の終結
2.日本の主権回復(約7年に及ぶ連合国の占領から独立)
3.朝鮮の独立を承認
4.台湾・千島列島・南樺太・南洋諸島などを放棄
5.極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決の受諾
6.南西諸島(琉球諸島・奄美群島など)・小笠原諸島などをアメリカの信託統治領とする
※ソビエト連邦・中華民国・中華人民共和国は不参加。
(韓国は参加要求したが日本と戦争していないので却下される)
 
日米安全保障条約(旧)
1.日本国内にアメリカ軍の駐留を認める
この軍隊は外国からの武力攻撃、大規模な内乱・騒じょうなどから日本の安全を寄与する為に使用することができる。(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19521952.01「海洋主権宣言」を発表し、李承晩ラインの制定(参:竹島問題)右派の一部を結集して新与党自由党を結成する(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19521952.02日韓会談、始まる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1952平和線宣言(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1952平和線宣言(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19529.9  朝鮮民主主義共和国樹立(-朝鮮半島-朝鮮)--
1953朝鮮休戦協定(-朝鮮半島-朝鮮)--
1953朝鮮戦争休戦(-朝鮮半島-朝鮮)--
1953米韓相互防衛条約の調印(-朝鮮半島-朝鮮、アメリカ)--
19531953いったん休戦となりますが、これはあくまで休戦。実は半世紀以上たった現在でも戦争は続いているのです。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19531953国際協力局(ICA)により年2~3億ドルの援助を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19531953.07.27板門店で停戦協定が調印(韓国政府は不出席)され、現在の軍事境界線の布敷をみる朝鮮戦争の犠牲者共和国人民軍戦死者508,000負傷者10万人中国軍死傷者約50万人韓国軍死傷者約99万人米軍39万7千人その他国連軍29万9千人民間人200万人以上離散家族1000万人(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1953休戦協定(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1953韓国,第一次通貨改革実施(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1953朝鮮戦争休戦協定調停(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1953板門店で休戦協定調印(米・朝・ソの三国.韓国は反対).38度線で分断(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1953休戦協定調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1953第一次通貨改革実施(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19531953.08北朝鮮、共和国の戦後復興計画として、労働党第6回中央委員会で決定、農業協同化事業が開始(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19541954李承晩政府は反共産主義政策を掲げその後1960年、学生たちの反政府運動である4・19革命により李承晩政府は倒れました。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1954韓国戦争後[1954ー現在)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1954北朝鮮,戦後経済復旧3ヵ年計画(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1955韓米余剰農産物協定に締結(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19561956.04北朝鮮、朝鮮労働党第3回大会開催(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19561956.08北朝鮮、ソビエト連邦派のパク・チャンオク、延安派のチェ・ジャンイクなどが金日成に粛清される(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1957韓国,ウリマル(国語)大辞典完刊(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1957ウリマル(国語)大辞典完刊完成(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1957北朝鮮,第一次5ヵ年計画[~1960年)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19581958.08北朝鮮、社会主義制度の確立をみる(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19581958.10北朝鮮、中国軍、共和国より完全撤退(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1959第一次在日朝鮮人帰国船新潟出航.(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19591959.08北朝鮮、日朝両国の赤十字組織で在日朝鮮人帰還協定が結ばれ、帰還事業が始まる帰還者196049,036人196122,801人19623,497人(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1960尹?善政権…第四代大統領[1960~1963]
この時期は議院内閣制のため、実質的な権力は首相の張勉にあった国家再建最高会議(軍政)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19601960四月革命で李承晩政権の崩壊(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19601960年4・19革命(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19604・19義挙.正・副大統領選の不正糾弾運動.李承晩政権倒れる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1960四・一九学生革命、李承晩大統領退陣(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1960民主党張勉内閣による韓国第二共和国樹立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19604.19義挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1960張勉内閣成立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1960ベトナム戦争
冷戦の代理戦争。北の勝利(ソビエト陣営)
アメリカ陣営:ベトナム共和国(南)、韓国、台湾など
ソビエト陣営:ベトナム民主共和国(北)、北朝鮮、中国など-1975(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1961韓国でクーデター(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19611961.07軍部のクーデターにより南北統一運動を押さえ込み、軍事政権の登場(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
196119615・16軍事政変(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19615・16軍事革命.朴正熙を中心とした反共軍事政権誕生(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1961KCIA設立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1961五・一六軍事クーデター、朴正熙政権掌握(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19615.16軍事政変(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19611961.09北朝鮮、朝鮮労働党第4回大会開催(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1961北朝鮮,第一次7ヵ年計画[~1970年)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19621962年経済開発5ヵ年計画の始まり(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1962韓国,公用年号,西紀に変更(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1962韓国,第一次経済開発5ヵ年計画(~1966](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1962金鐘泌情報部長と大平外相の会談で(「金・大平メモ」)で財産請求権問題決着(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1962第一次経済開発5カ年計画[-1966](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1962公用年号、西紀に変更(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19621962年北朝鮮、(キューバ危機:ケネディによる強硬路線にソビエト連邦弱腰になる)共和国政府はソビエト連邦の弱腰を厳しく批判し、之に対する報復としてソビエト連邦からの援助を差し止められる(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮、ソ連)--軍政期・後南北国時代
19631963年大統領に当選した朴正煕大統領は、17年間に及ぶ独裁統治を行ないました。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1963第三共和国樹立.朴正熙大統領就任(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1963朴正熙大統領当選(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1963朴正煕内閣成立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
196310.  朴正煕政権…第五代大統領[1963~1979](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1964韓国,メートル制実施(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1964メートル法実施(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19652-14ソビエト連邦、北朝鮮両首相、南ベトナム反米独立闘争支持を声明(-朝鮮半島-ヨーロッパ、朝鮮)--
19651965.02日韓基本条約の仮調印[1965.06正式調印)内容:無償3億ドル、有償2億ドルを日本が韓国に供与し戦後処理を終わらす(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19651965.08ベトナム戦争にアメリカ合衆国と共に参戦与党共和党単独で日韓条約を批准(日韓国交の正常化)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19651965年日韓基本条約が締結され、ようやく、韓国と日本との国交が回復し、韓国を朝鮮半島の唯一の合法的政府とした。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1965日韓基本条約調印1965(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1965日韓条約成立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1965韓国軍のベトナム派兵開始(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1965韓日協定調印.日韓漁業協定も付随して調印.対日屈辱外交への反対運動激化(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1965日韓基本条約調印。ベトナム派兵を閣議決定。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1965韓日協定調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19656.  日韓基本条約(+日韓請求権並びに経済協力協定)
国交正常化、戦後賠償、韓国を朝鮮における合法政府とする。
※請求権に関する問題は「完全かつ最終的に解決された」事となる
※韓国は40年後の2005年に非公開の一部を韓国国民に公開。(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
1966韓米行政協定調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1966韓米行政協定調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19675・3大統領選挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1967韓国,第二次経済開発五ヵ年計画(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1967五・三選挙で朴正熙大統領再選(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19675.3大統領選挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19676.8国会議員選挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1967第二次経済開発5カ年計画(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1967北朝鮮,主体(チュチェ)思想を党の唯一思想体系とする(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19676.8  6・8国会議員選挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19681968.01青瓦台襲撃未遂事件(北の対南工作による韓国大統領府の襲撃)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19681・21事態.北の武装工作隊31人,ソウル市で交戦(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1968韓国,国民教育憲章宣布(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1968顕忠門国立墓地の朴大統領暗殺未遂事件.爆弾仕掛け中に爆発(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1968武装ゲリラソウルに侵入。プエブロ号事件(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19681.21事態(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1968国民教育憲章宣布(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19681968.01北朝鮮、プエブロ号事件(アメリカ海軍の環境調査艦プエブロが、領海侵犯を理由に北朝鮮警備艇などから攻撃を受け拘束され、板門店での会談でアメリカは北朝鮮の用意した、スパイ活動を認める謝罪文章に調印プエブロ号の船体は返還されず、反米宣伝に利用)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1968北朝鮮,米国の情報艦艇プエプロ号を拿捕(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1968北朝鮮特殊部隊による大統領官邸襲撃未遂事件(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1969大統領三選のための憲法改憲を強行(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19701970.11朝鮮労働党第5回大会開催(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19701970年セマウル運動提唱朴正煕大統領が推進したセマウル運動[1970年に始まった全国民的近代化運動)により韓国は大きく発展し、経済発展のための体系的な管理統制による輸出の増大など数々の成果を残しました。しかし、相次ぐ民主化運動と政権の延長に反対する市民たちが増える中、(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1970大阪万国博覧会1970(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1970セマウル運動が始まる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1970韓国,セマウル(新しい村)運動開始.農漁村の生活改善,所得の増大を計る(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1970京釜高速道路開通.全国が一日生活圏に入る(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1970セマウル(新しい村)運動開始始まる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1970京釜高速国道開通(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19701970年代セマウル運動提唱韓国の経済力が伸長し、このことが北朝鮮の危機感を増大させ、日本人拉致問題をはじめ、多くの問題が発生する。しかし、今日に至るまで、何らの解決をみないままである。(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1970*1970年代韓国の経済力が伸長し、このことが北朝鮮の危機感を増大させ、日本人拉致問題をはじめ、多くの問題が発生する。しかし、今日に至るまで、何らの解決をみないままである。(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19703.  よど号ハイジャック事件-赤軍派によるハイジャック事件。北朝鮮へ(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19714・27大統領選挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19715・25国会議員選挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1971四・二七選挙で朴正煕、金大中に辛勝(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19714.27大統領選挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19715.25国会議員選挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1971北朝鮮,第一次6ヵ年計画[~1976年)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19721972.04金日成の祝賀行事の中で「主体思想」を共産主義の指導思想とする(主体思想:どのような難局に直面しても国家意思に忠実な国民)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19721972.07南北共同声明の発表(南北間で内政面での相互不干渉の確認)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19721972.10維新体制(維新憲法:独裁政権の強化)を構築(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19721972.12「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」が制定・発布される国家主席に金日成、首都がソウルから平壌に移る(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19721972年10月維新(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
197210月維新.大統領の終身執権を可能にする(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19721972.07.04南北は韓半島の統一に関する共同協議書に署名して以降、1998年には韓国人の金剛山観光の許可や、2000年と2007年の2度に渡り開催された南北首脳会談などを通し、南北間の平和共存および統一に向けた努力を続けています。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1972沖縄返還1972(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1972韓国,第三次経済開発五ヵ年計画(~1976](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1972韓国,第四共和国樹立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1972社会主義憲法制定.金日成国家主席となる.首都を平壌とする.(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1972南北共同声明。維新憲法成立。朴正煕大統領四選。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1972南北赤十字会談.離散家族探し協議(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1972第三次経済開発5カ年計画[-1976](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19727.4南北共同声明(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1972南北赤十字会談(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
197210月維新(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19721972.07北朝鮮と同時に南北共同声明(七・四共同声明)の発表(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19727.4  南北共同声明.自立的平和的に民族的統一をはかることで合意(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19731973金日成の後継者問題が浮上し、金正日が政治の表舞台に出始める(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19731973.03「三大革命」思想・技術・文化の推進を決定するも、外貨準備がなく、70年代半ばになると対外債務の不履行が国際問題となり、共和国の在外公館が麻薬取引や武器輸出により外貨獲得が発覚し、各国で共和国外交官の退去命令が出される(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19731973.08金大中、中央情報部により東京から拉致される(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1973石油ショック1973(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1973金大中事件.金大中氏東京から拉致されソウルで解放(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19736.23平和統一宣言(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19736.23  6・23平和統一宣言(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19741974.04民青学連事件が発生(学生運動への弾圧が強まる)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19741974.08大統領、狙撃事件(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1974在日朝鮮人青年文世光による朴大統領狙撃事件.陸夫人死亡(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1974文正光事件。陸英修大統領夫人死亡。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1974北韓地下トンネルの洞窟発見(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1974非武装地帯南側に,北朝鮮側からの地下トンネル発見(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1975ベトナム戦争で4万人以上の非戦闘員を殺戮及び10万人以上の女性を強姦
19751975.05大統領緊急措置第9号を布告し、反政府活動を全面禁止(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1975大統領緊急処置の九号発表(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1975大統領緊急措置9号発表(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
197511.17  ユンソナ、タレント(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国、日本)--軍政期・後南北国時代
19761976.03尹譜善・金大中らが発表した「三・一民主救国宣言」を決起として全面的な反政府運動へと発展する(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19761976.08板門店において共和国警備兵により、米兵2名殺害される(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1976板門店蛮行事件.ポプラ下枝伐採をめぐり米将校が殺害(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1976板門店蛮行事件について,金日成主席遺憾の意表明(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1976板門店うさぎ斧蛮行事件(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19771977「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」における国家の公式理念が、マルクス・レーニン主義から主体思想に変更される(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19771977.03カーター米大統領、在韓米軍の撤退を匂わす(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1977韓国,技能オリンピック世界制覇(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1977韓国,輸出100億ドル達成(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1977韓国登頂隊,エベレスト登頂成功(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1977非武装地帯の北側に迷い込んだ米軍ヘリコプター撃墜(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1977技能オリンピック世界制覇(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1977第四次経済開発五カ年計画[-1981](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1977韓国登はん隊、エベレスト登はん成功(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1977輸出100億ドル達成(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19774.  第二次世界大戦における戦後賠償が終了する(北朝鮮を除く)
戦後賠償(昭和時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
197819781978年から始まった第2次オイルショックは、輸出産業に不振を極め、経済全体に波及して深刻な不況に見舞われる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1978日中平和友好条約調印1978(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1978韓国,自然保護憲章宣布(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1978自然保護憲章宣布(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1978北朝鮮,第二次7ヵ年計画[~1984年)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1979軍出身の大統領政権誕生
1979韓国の朴大統領射殺(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1979崔圭夏政権…第十代大統領[1979~1980]
1979.12粛軍クーデター(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19791979.10釜山で反政府運動が始まり、鳥山などに拡大[10.18朴政権は非常戒厳令を発動)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19791979.10.26朴正煕暗殺事件(朴大統領、夕食中に同席した中央情報部長に射殺される)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19791979年朴正煕大統領は暗殺されてしまいました。聖水大橋を架けるが、1994年崩壊(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
197910・26事態.KCIA部長の金載圭に朴正熙暗殺(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1979YH労組事件。朴正煕大統領射殺事件、全斗煥ら粛軍クーデターで実権を掌握(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1979全斗煥,軍事クーデターで実権を掌握(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1979朴正煕暗殺(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
197910.26事態(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1980光州事件2000人虐殺
1980韓国で光州事件(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1980全斗煥政権…第十一代・十二代大統領[1980~1988](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19801980.05光州事件(光州民主化運動)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19801980.10朝鮮労働党第6回大会開催(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19801980年5・18民主化運動その後、政権を握った全斗煥大統領は、前大統領の統治方式を引き継ぎ権威主義的な体制を維持しました。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1980光州事件(光州民主抗争)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1980光州事件(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1980光州民主化運動.戒厳軍の介入で鎮圧.多数の死者を出す(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19805.18光州民主化運動(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1980北朝鮮,党大会で金正日書記を党ナンバー2に選任(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19811986年アジア大会ソウル開催決定(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19811988年オリンピックソウル開催決定(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1981韓国,世界技能オリンピック四連覇(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1981韓国,輸出200億ドル達成(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1981全斗煥大統領就任(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1981民主正義党の全斗煥大統領第五共和国樹立.(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1981全斗煥政府成立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1981世界技能オリンピック四連覇(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19811988年オリンピックソウル開催決定(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19811986年アジア大会ソウル開催決定(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1981輸出200億ドル達成(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1982韓国政府,日本に歴史教科書歪曲内容是正を要求(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1982日韓で教科書問題起こる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1982政府、日本に歴史教科書歪曲内容訂正を要求(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1983ビルマ(ミャンマー)アウンサン廟での全斗煥大統領暗殺未遂事件(-朝鮮半島-ミャンマー、朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19831983.10ラングーン事件(ビルマの首都ラングーンで共和国工作員による全斗煥大統領の爆弾テロ未遂)韓国、共和国との国交を断絶する(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1983KBS,離散家族さがしテレビ生放送(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-テレビ-軍政期・後南北国時代
1983大韓航空(KAL)機撃墜惨事.日本北方のソビエト連邦領空でソビエト連邦戦闘機に撃墜(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1983離散家族運動。大韓航空機撃墜事件。ラングーン事件(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1983KAL機撃墜惨事(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1983アウンサン事件(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1983KBS、離散家族さがしテレビ生放送(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-テレビ、国史年表-軍政期・後南北国時代
大韓航空機撃墜事件

大韓航空機が撃墜された近くの海域で、花束を投げる乗客の家族。1983年09月04日、ソ連・モネロン島(海馬島)南南東約30キロのフェリー船「第5宗谷丸」船上【時事通信社】

 1983年9月1日、ニューヨーク発ソウル行き大韓航空ボーイング747が米アラスカ州のアンカレッジ経由後、旧ソ連領空を侵犯。サハリン沖で追跡していたスホイ15戦闘機にミサイルで撃墜される。犠牲者は269人、うち日本人は28人だった。

 原因は慣性航法装置の設定に人為的なミスまたは作動に不具合が生じたためとされる。ソ連は当初撃墜の事実を認めず、後には「スパイ飛行」だったと主張。さらに、交信記録が残るブラックボックスを回収した事実も公表しなかった。

 大韓航空は78年4月20日にも、旧ソ連領空(コラ半島上空)を侵犯、戦闘機に銃撃され日本人と韓国人の乗客2人が死亡する事件を起こしている(大韓航空機銃撃事件)。また、87年11月29日には北朝鮮の工作員、金賢姫らによってバグダット発ソウル便が飛行中に爆破され、乗客乗員115人全員が死亡した(大韓航空機爆破事件)。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
19839.1  ソビエト連邦が大韓航空機を撃墜(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国、ソビエト連邦)--
19841984.09韓国政府、共和国政府からの水害救援物資送付の申し入れを受け入れる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19841984.11板門店で、第一回南北経済会談の実現(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1984全斗煥大統領、日本来日1984(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1984韓国,ロサンゼルスオリンピックで総合順位10位(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1984ロサンゼルスオリンピックで総合順位10位を占める(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1984北朝鮮,韓国への水害援助(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19851985.07ソウルオリンピックのボイコット方針を改める[1985年以降、貿易実績は増勢に転ずるも累積債務に苦しみ、ソビエト連邦などへの労働力輸出も行われる)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1985南北経済会談。赤十字会談。40年ぶりに故郷訪問団がソウルとピョンヤンを訪問(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1985南北代表151名の離散家族故郷訪問団が,ソウルと平壌を相互に交換訪問(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1985南北故郷訪問団相互交流(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1986ソウル・アジア競技大会開催(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1986金浦空港で爆弾テロ発生(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1986ソウル、アジア競技大会(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19871987.01第3次7ヵ年計画(事実上最後の経済開発計画)の遂行に着手[1993年に未完遂で終わる) (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19871987.06六月抗争 六月抗争 (野党統一民主党と在野の反政府勢力が合同し、民主憲法国民運動本部を結成し政府と全面対決の姿勢を示す) 六・二九民主化宣言(米国政府圧力による政権への牽制など) 1.反共体制を維持しながら、軍政から民政への移行をする 2.共和国を孤立させながら、韓国主導の統一を実現する 3.大統領直選制の導入 4.金大中ら政治犯の釈放 5.基本的人権や言論の自由の保障 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19871987.12大統領選挙で盧泰愚政権の誕生 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19871987年6月民衆抗争 全斗煥大統領は全国的に起こった大規模民主抗争により、政権から退きました。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1987真由美事件 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
198713代大統領選挙.盧泰愚選出(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1987ソウル大生、朴鍾哲拷問拉致事件。六・二九民主化宣言(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1987ビルマ近海での大韓航空機爆破事件.北のスパイとして男女二人逮捕(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19876.29民主化宣言6月民主抗争(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1987大韓航空機爆破事件(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国、ソビエト連邦)--
19876.29  6・29宣言.新しい民主憲法公布,大統領直接選制宣言(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
198711.  大韓航空機事件の発生 (中東への出稼ぎ労働者たちを乗せた大韓航空機がミャンマー領海上空で、共和国工作員により爆破され、犯人として金賢姫が逮捕され、機体は消息不明のまま捜索が打ち切られる)(-朝鮮半島-ミャンマー、朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19881-20アメリカ政府、北朝鮮をテロ支援国家と認定し、対抗措置決定(-朝鮮半島-アメリカ、朝鮮)--
1988盧泰愚政権…第十三代大統領[1988~1993](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19881988.09ソウル五輪の開催 内政面で苦境に立った盧大統領は、国際政局の中で積極策をとり、北方外交を展開する (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19881988年ソウルオリンピック 盧泰愚政府はソウルオリンピックを成功裏に開催し、順調に政権をスタートさせました。 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1988韓国,13代国会議員選挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1988韓国,ハングル綴字法告示(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1988韓国,第六共和国出帆(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1988韓国,貿易高1000億ドル突破.世界十大貿易圏の仲間入りを果たす(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1988ハングル綴字法告示(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1988盧泰愚政府成立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1988第24回ソウルオリンピック大会(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1988第24回ソウルオリンピック大会開催.北朝鮮不参加(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19889.17  ソウルオリンピック(-朝鮮半島-朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1989朝鮮王朝最後の皇太子妃方子死去(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1989韓国政府,ハンガリー,ポーランドなど東欧圏国家と修好(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国、ハンガリー,ポーランド)--軍政期・後南北国時代
1989ハンガリー、ポーランドなど東欧圏国家と修好(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国、ハンガリー,ポーランド)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19896.  平壌で世界青年学生祭典を開催 (この開催のために多額の経費を投じ、共和国の財政事情の悪化に拍車をかける) (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19899.  「南北交流協力に関する基本方針」の発表 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19901990.09ソビエト連邦と国交復興 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1990ソウルで第一回南北首相会談開催(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1990韓国政府,ソビエト連邦と国交樹立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1990ソビエト連邦と国交樹立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19911991.09国連加盟(大韓民国と同時加盟) (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19911991.12国連開発計画の指導に従い、豆満江下流域を「自由経済貿易地帯」にする (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19911991年南北韓の国連同時加盟 そして、国連への加入を果たしました。 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1991金正日書記,軍最高司令官に就任(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1991第6回世界青少年サッカー選手権大会に南北単一チームで参加(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1991南・北韓,国連同時加入(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1991南・北韓国連同時加入加盟(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19911991.09国連加盟(北朝鮮と同時加盟) 「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」「和解と不可侵および交流協力に関する合意書」の発表 ブッシュ米大統領、核兵器削減計画の発表(韓国から核兵器の撤去) (-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1991韓国、北朝鮮、国連同時加入 (-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19919.  韓国と北朝鮮が国際連合に加盟する(平成-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
19921992.01国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19921992.02南北首相会議で南北合意書・非核化共同宣言の発効 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19921992.08中国と国交の復興 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19921992.10「外国人投資法」 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19921992.12金泳三(民自党)大統領に就任 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1992韓国政府,中国と国交樹立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1992中国と国交樹立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1992IAEA査察団,北朝鮮の寧辺の核施設を査察(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1993初の文民政権誕生 ←←←韓国は民主化してまだたった17年の発展途上国
1993金泳三政権…第十四代大統領[1993~1998](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19931993.01「自由経済貿易地帯法」の制定 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19931993年金泳三政府は、金融取引時に実名を使用するようにする金融実名制を新たに施行し、これは当時は大々的な改革でした。 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1993金正日書記を国防委員長に選出(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1993大田世界博覧会開催(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1993金泳三政府成立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1993大田エキスポ(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1993金融実名制実施(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19931993.03北朝鮮、核不拡散条約の脱退 (-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19946-16カーター元アメリカ大統領が北朝鮮訪問、金日成主席と会談。IAEA査察官残留と核不拡散条約順守約束[~22 クリントン大統領、北朝鮮が核開発凍結に同意と発表)(-朝鮮半島-アメリカ、朝鮮)--
1994北朝鮮の金日成主席死去(-朝鮮半島-、朝鮮)--
19941994核危機が発生(米国の対北戦争を水際で回避) (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1994漢江の聖水大橋崩壊(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1994金日成主席死去.82歳(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1994世界卓球選手権大会に南北統一チーム参加(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1994北韓、金日成死亡(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1994政府組織改編(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
19941994.07.08北朝鮮、金日成死去 (-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19946.16  カーター元アメリカ大統領が北朝鮮訪問、金日成主席と会談。IAEA査察官残留と核不拡散条約順守約束[~22 クリントン大統領、北朝鮮が核開発凍結に同意と発表)(-朝鮮半島-アメリカ、朝鮮)--
19951995全斗煥、盧泰愚を光州事件などに関して訴追 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1995ソウル,三豊百貨店崩壊.高度経済成長時代の手抜き工事が原因(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1995旧朝鮮総督府建物解体開始[~1997](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1995大邸市内の地下鉄工事の最中ガス爆発発生(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1995朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)発足(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1995地方自治制実施(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1995旧総督府建物解体[-1996](-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1995韓国、国連安保理非常任理事国に選ばれる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1996韓国東岸で北朝鮮潜水艦発見(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1996北朝鮮,潜水艦事件への謝罪発表(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1997アジア通貨危機・国家財政崩壊によりIMFと日本に土下座し莫大な資金援助をおねだり(まだ半分も返済していない)
1997金正日体制[1997~現在)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1997アジア通貨危機1997(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
19972002年ワールドカップサッカー韓日共同開催決定(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1997金正日書記が,朝鮮労働党の総書記に就任(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1997大韓航空機爆破事件の犯人,金賢姫結婚(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1997北朝鮮高官黄長燁,韓国へ亡命(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1997北朝鮮日本人妻,第一次訪日(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19981998年大統領に就任した金大中大統領は、1997年に起きたIMF金融危機の克服に全力を尽くし、また2002年にFIFAワールドカップを成功裏に誘致しました。北韓に対しては太陽政策を行ない、金大中大統領はこの功績が認められ2000年にノーベル平和賞を受賞しました。 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1998金正日,国家国防委員長に推戴.国家主席は金日成一人として廃止(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1998金大中大統領,日本大衆文化の段階的開放処置発令(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1998金大中大統領就任.対北韓包容政策表明(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1998金大中政府出帆スタート(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
1998金大中政権…第十五代大統領[1998~2003]
太陽政策(北朝鮮宥和政策)を開始 金正日との初の南北首脳会談を行う[2000年6月) 日本大衆文化開放を開始(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1998韓国の現代グループ,北朝鮮の金剛山観光開始(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1998北朝鮮の潜水艇,韓国東海岸で発見.乗組員全員死亡(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1998北朝鮮の東部沿岸からミサイル発射.日本上空を越え三陸沖に落下(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
19995-25大統領の特使として、政策調整官が北朝鮮を訪問(-朝鮮半島-アメリカ、朝鮮)--
19999-17北朝鮮への経済制裁の一部解除を発表(-朝鮮半島-アメリカ、朝鮮)--
19999-24北朝鮮、米朝協議継続中はミサイル再発射を停止することを発表(-朝鮮半島-アメリカ、朝鮮)--
1999ソウルで,南北両チームによる「統一バスケットボール競技」開催(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1999南北労働者サッカー大会,平壌で開催(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
1999韓国西海の北方領海を北朝鮮警備艇が侵犯.韓国海軍と交戦となり退却(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
1999世界陸上女子マラソンで,北朝鮮のチョン・ソンオク金メダル獲得.共和国英雄の称号授与(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
200012-12イギリスと北朝鮮、国交を樹立する共同覚書に署名(-朝鮮半島-イギリス、朝鮮)--
20001-4イタリア、北朝鮮と外交関係樹立(-朝鮮半島-ヨーロッパ、朝鮮)--
2000初の南北朝鮮首脳会談(-朝鮮半島-、朝鮮)--
2000シドニー五輪の入場行進、統一旗を掲げアリランのメロディに合わせ南北選手団同時行進(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2000日本語歌謡曲全面解禁第一弾として、チャゲ&飛鳥コンサートソウル公演(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2000南北首脳会議(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
20006.15南北共同宣言(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
2000アジア・ヨーロッパ首脳会議(ASEM開催)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
20002000年北朝鮮、韓国の金大中大統領との初めての南北首脳会談を実施。6.15南北共同宣言を発表 (-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2000韓国と北朝鮮の離散家族200人、ソウルと平壌で相互に親族と再会(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2000韓国の金大中大統領,南北朝鮮の対話が評価され,ノーベル平和賞受賞(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2000南北朝鮮分断後初の首脳会談平壌で開催。金正日総書記イメージ変える(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20012-6カナダが北朝鮮と国交樹立[-7 スペインも国交樹立)(-朝鮮半島-カナダ、北朝鮮、スペイン)--
20015-2ヨーロッパ連合(EU)代表団が北朝鮮を公式訪問(-朝鮮半島-ヨーロッパ、朝鮮)--
20015-14ヨーロッパ連合(EU)が北朝鮮と外交関係樹立と発表(-朝鮮半島-ヨーロッパ、朝鮮)--
20018-4ロシアを訪問した北朝鮮の金正日総書記がプーチン大統領と会談、両国関係強化や弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約維持などを盛り込んだモスクワ宣言に署名(-朝鮮半島-ヨーロッパ、朝鮮)--
2001金正男(金正日総書記の長男)の日本密入国騒動(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2001仁川国際空港が開港(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2001DMZ内北朝鮮の哨所から韓国軍境界哨所に向かって銃撃。韓国軍が対応射撃(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20022002日韓共催サッカーワールドカップ(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2002サッカーのワールドカップ開催 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2002サッカーW杯日韓同時開催。韓国4強進出(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2002韓国第16代大統領に、新千年民主党(民主党)の盧武鉉(ノ・ムヒョン)候補が当選(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2002金正日総書記、日本の小泉総理と平壌で首脳会談、日本人拉致や不審船の行為を認める(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2002西海・延坪(ヨンピョン)島西方海上で、南北海軍の間で交戦(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2002韓日ワールドカップ開催(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
2002第14回釜山アジア競技大会開催(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
2002日本と韓国共同開催のサッカーワールドカップ開催(平成-朝鮮半島-朝鮮、日本、韓国、日本)--軍政期・後南北国時代
2002北朝鮮、小泉純一郎首相が平壌を訪問、日朝平壌宣言。日本人拉致の事実を認めて拉致被害者5名を日本に帰国させる (-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2002釜山で開催のアジア大会に北朝鮮参加。北の美女軍団韓国男性を骨抜きにする(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2002北朝鮮,IAEA査察団を国外退去,核施設稼動準備はじめる(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20021.29  ブッシュ大統領、一般教書演説で北朝鮮、イラン、イラクを「悪の枢軸」と非難(-朝鮮半島-アメリカ、朝鮮)--
200210.19  北朝鮮に拉致された日本人5人が帰国。 (-朝鮮半島-日本、朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
200211.  核兵器開発を認めた北朝鮮に対し、米朝合意[1994]に違反と反発[11-14 KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)は北朝鮮への重油供給停止を決定)。11-8 国連、1998年以来4年ぶりにイラクの大量破壊兵器査察を再開(-朝鮮半島-アメリカ、朝鮮)--
200212.19  盧武鉉が第16代韓国大統領に選出。 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2003盧武鉉政権…第十六代大統領[2003~)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
20032003盧武玄政権は、国民の政治参加こそが政治を行なう上で核心的な役割を果たすという参与政府を目指しました。若く改革的な新しい人事政策と過去の権威主義の清算、市民社会の成長などは盧武玄大統領の代表的な成果であると評価されています。また盧武玄政権中には、第2回南北首脳会談も行なわれました。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2003大邱地下鉄放火事件。死者約200人を数える惨劇になる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2003廬武鉉政府スタート(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)-国史年表-軍政期・後南北国時代
2003北朝鮮が核開発表明、日米中韓などで6カ国協議(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20042004.03国会が盧武鉉大統領に対する弾劾訴追を可決。高建が大統領職務を代行(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
20042004.04総選挙でウリ党圧勝。国民、弾劾拒否の意思を示す(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
20042004.05憲法裁判所、弾劾訴追を棄却。盧武鉉が大統領職に復帰(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2004金正日総書記の夫人、高英姫が死亡(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2004国会が盧武鉉大統領に対する弾劾訴追可決。憲法裁判所、弾劾訴追を棄却(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2004平安北道、龍川駅で大規模爆発事故が発生(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2004盧武鉉大統領の弾劾訴追が国会で可決(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
20042004日本人拉致被害者の遺骨を返還、日本側が遺骨の正式調査を行い、他人の遺骨だと発表するが、北朝鮮側はこれに反発(北朝鮮)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20042004.12日本からの人道支援の残りの15万5000トンが停止される(北朝鮮)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2005韓国・黄禹錫(ファン・ウソク)教授、ES細胞論文ねつ造(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2005北朝鮮,核兵器製造・保有を公式に認める(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20052.  核兵器製造・保有を公式に認める(北朝鮮)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2006盧武鉉政権がFTA締結に向けた交渉を開始(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
20062006.10「核実験成功」を宣言、国連安全保障理事会が決議第1718号を採択(北朝鮮)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2006北朝鮮,テポドン2を含むミサイル7発を発射。日本海に着弾(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2006北朝鮮,地下核実験を実施(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20067.  北朝鮮、日本海にミサイル発射(-朝鮮半島-、朝鮮)--
20067.  国連安全保障理事会が決議第1695号を採択(北朝鮮)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20067.  日本海に向けてミサイルを7発発射[7発とも日本海に着弾)(北朝鮮)(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
200610.  北朝鮮、核実験を実施(-朝鮮半島-、朝鮮)--
2007韓国第17代大統領選、李明博候補が圧勝。10年ぶりに右派執権へ移動(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2007京義線:開城工団行き南北貨物列車が56年ぶりに定期開通(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2007半世紀ぶりの南北縦断鉄道試運転(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2007李明博大統領就任(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2007盧武鉉大統領、歩いて軍事境界線を越え北韓入りし、金正日総書記と南北首脳会談(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
200710.  南北朝鮮首脳会談(-朝鮮半島-、朝鮮)--
200810-11アメリカ、北朝鮮のテロ支援国家指定を解除(-朝鮮半島-アメリカ、朝鮮)--
2008再び国家財政崩壊によりIMFおかわりするも却下(リーマン破綻の引き金を引いた)
2008韓国の「国宝1号」崇礼門(南大門)、放火で焼失し廃墟と化す(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2008金剛山で韓国人観光客が北側の軍境界線を越え銃撃され死亡(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2008盧武鉉元大統領死去。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2008李明博政権…第十七代大統領[2008~)
2008年韓国の第17代大統領に就任した李明博大統領は、変化と実用をモットーに公企業の民営化、自由貿易協定(FTA)などを積極的に推進しました。2012年現在までにG20首脳会議、核安全保障サミットなど重要な国際的行事を成功裏に開催しました。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2008“韓国へ偽装脱北”北朝鮮の30代女スパイ摘発、軍部関係者も逮捕(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2009盧武鉉前韓国大統領、親族の不正資金疑惑で批判を受けたことを苦に自殺(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2009 LINK 縄文と古代文明を探求しよう! ≫ NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第2回放映[2009年6月17日付)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--軍政期・後南北国時代
2009北朝鮮、2006年に続いて2回目の地下核実験を実施(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2009北朝鮮,ミサイル発射。日本上空を通過し太平洋に落下(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2010負債は国内総生産(GDP)の370%、長期対外債務が過去最大の2500億ドル超。危機に備え国際基金構想 各国が外貨準備拠出、韓国が打診するも日本、中国は軒並みスルー(大爆)
2010尖閣諸島中国漁船衝突事件2010年(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2010韓国の哨戒艦が黄海上で沈没。多国籍調査チームが北韓潜水艦の魚雷攻撃に因ると発表(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2010軍事訓練中の韓国領延坪島へ北韓軍が砲撃。韓国軍も対応射撃を行う(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2010北の後継者とみられる金正恩が人民軍大将、党中央軍事委員会副委員長に選任される(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
20112011年12月一方、北韓は、17年間政権を握っていた金正日の死去後、その息子の金正恩が権力を継承しました。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2011金正恩、朝鮮人民軍最高司令官に就任(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2011金正日[69]死去。現地指導中の急病によると発表されたが、平壌官邸での死亡説が有力(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2011金正恩[28]が金正日の死去で空席となったポストの一つ朝鮮人民軍最高司令官に就任(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
201112.  金正恩(キムジョンウン)が北朝鮮の最高指導者となる
復興庁設置法の公布 - 復興庁の設置に関する法律(平成-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
20122012年李明博大統領、竹島に上陸(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2012韓国大統領選、朴槿恵(パククネ)(60)が勝利し、史上初の女性大統領に選出される(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2012金正恩が国防委員会第一委員長に就任し、党・国家・軍の三権を握る最高指導者となる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2012金正恩は党の第一書記に推戴され、政治局常務委員・中央軍事委員会委員長にも就任(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2012李明博、韓国の歴代大統領として初めて竹島(独島)へ上陸http://www.0o0d.com/img/flags/16/South-Korea.png&size(6){(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代};
2012北朝鮮、今年2回目の長距離ミサイル打ち上げ、物体(人工衛星?)を軌道投入に成功するhttp://www.0o0d.com/img/flags/16/North-Korea.png&size(6){(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代};
2012北朝鮮、人工衛星と称するミサイル打ち上げを実施するが、軌道投入に失敗http://www.0o0d.com/img/flags/16/North-Korea.png&size(6){(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代};
20128.14  韓国の大統領:李明博が天皇に対して土下座謝罪要求をする(平成-朝鮮半島-朝鮮、韓国、日本)--
20132020年オリンピックの開催地が東京に決定する2013年(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2013金正恩第1書記の叔父の、張成沢・国防委員会副委員長が公開処刑される(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
2013LINK News U.S. 中国・韓国・在日朝鮮人崩壊ニュース ≫ 韓国人「日本人は百済系だからウリ達と兄弟ニダ!!」 ← バカ 今の韓国人は百済とは何の関係もなし!!!!! そもそも日本は百済を統治する立場に!!!!! 劣等遺伝子民族は真の歴史を知り発狂憤死すべきである!!!! 2ch「天皇が半島の子孫なら、なぜ『日王』などと呼ぶのか。嘘と妄想と手のひら返しを繰り返しすぎだろ」[2013年5月1日付)
このサイトのコメントとして、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。
『★現天皇のゆかり発言で有名になった桓武天皇の母親の高野新笠の系図
武寧王[461年日本生まれ第25代百済王(在位501-523年)]
純陀太子在日1世(日本に人質に)
斯我君在日2世
法師君在日3世
雄蘇利紀君在日4世
和史宇奈羅在日5世(和氏に改名して日本に帰化)
和史粟勝在日6世
和史浄足在日7世
和史武助在日8世
和史乙継在日9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る)
高野朝臣新笠在日10世―桓武天皇[第50代天皇(在位781-806年)]
・・・つまり桓武天皇の母親の高野新笠は10代前に渡来し、6代前に日本に帰化した百済系10世なのです。
彼女の百済系の割合は1/[2^10]=0.00098。パーセントにすると0.098%となります。
逆に日本系の割合は99.902%で、血筋から見ても帰化している事から見ても正真正銘の日本人です。
ましてや125代の今上天皇との関係は「0」と言って差し支えありません。
また「百済≠韓国」である事も強調しておきます。
さらに「武寧王の父の東城王は日本(倭)からやって来た」と韓国の古文書に書かれている事も付け加えておきます。
そして桓武天皇が即位したのは781年・・・つまり660年百済滅亡の121年後なのです。百済の政治的な関わりは「0」です。』(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--軍政期・後南北国時代
2013韓米合同軍事演習を口実に北朝鮮が韓国人の開城工業団地出入りを統制、5か月間閉鎖となる(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
2013北朝鮮が3回目となる地下核実験を成功裏に実施したと発表(-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20132.  朴槿恵政権…第十八代大統領[2013~)
朴槿恵(パククネ)が韓国の大統領となる(平成-朝鮮半島-朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20136.28  朴槿恵大統領、国賓として中国を訪問(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
201311.  朴槿恵が告げ口外交(おばさん外交)をはじめる(平成-朝鮮半島-朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20144.  世越号沈没事故(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
20147.1  安部首相が集団的自衛権の限定的容認を閣議決定(日本の転換期)
[閣議決定の一部抜粋]
我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
[わかりやすい事例 - 第三次世界大戦]
「ロシア+中国+北朝鮮 vs アメリカ」の戦争で日本の壁であるアメリカが負けた場合は日本は侵略されて植民地となる。そうなる前に日本は軍事力でアメリカを助ける事が出来る。(平成-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
2016朴槿恵大統領弾劾訴追案が国会で可決 日韓三大歴史問題
・創氏改名・・・強制では断じてない
・慰安婦・・・・戦地売春婦
・強制連行・・・徴用令?(-朝鮮半島-朝鮮、大韓民国)--軍政期・後南北国時代
20162.7  北朝鮮が長距離弾道ミサイルを発射(沖縄上空を通過)(平成-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
20172.13  北朝鮮の金正男(キム・ジョンナム)がマレーシアで暗殺される(平成-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
20179.3  北朝鮮が核実験を行う[6回目)(平成-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--軍政期・後南北国時代
20179.11  国連安全保障理事会で北朝鮮制裁決議案[9回目)が採択される(平成-朝鮮半島-日本、朝鮮)--
201711.20  アメリカは北朝鮮をテロ支援国家に再指定を発表する(平成-朝鮮半島-アメリカ、朝鮮)--
201712.2  北朝鮮は火星15の試射によりアメリカ全土を攻撃可能となる(平成-朝鮮半島-朝鮮、北朝鮮)--
20184.27  南北首脳会談 - 韓国と北朝鮮による首脳会談(平成-朝鮮半島-朝鮮、韓国、北朝鮮)--
9999国共内戦から現在
中華民国政府は台湾の領有・統治を強化する一方で、中国大陸においては厳しい立場に追い込まれていた。1946年から激化し始めた国共内戦は、当初は中華民国政府が優勢であったものの、年を経るごとに中国人民解放軍が優位な立場を占めるようになり、中華民国政府は少しずつ、しかし確実に支配地域を中国共産党に奪われていく状況にあった。このような状況は1949年になると急速に進展し、中華民国政府は4月に首都の南京を人民軍に制圧され、10月には中国大陸の大部分を制圧した中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言するまでになった。
その為、人民解放軍に対してまともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府は台湾への撤退を決定し、国家の存亡をかけて残存する中華民国軍の兵力や国家・個人の財産などを続々と台湾に運び出し、最終的には12月に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。このような中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなった為、人民解放軍による軍事行動は一時的に停止したが、1954年、1955年、1958年に台湾へ攻撃を再開し(台湾海峡危機)、1965年にいたるまで軍事干渉を続けた。以降、大規模な衝突にはいたっていないが、緊張関係は続いている。
他方、蒋介石は、二・二八事件における数々の虐殺行為や、戒厳令を敷き、白色テロによる支配を行ったため、(特に本省人の間には)根強い拒否反応を持つ者が多い。また、蒋介石が本省人知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止したために、台湾経済の発展は大きく後退したとの説もある[1]。また、蒋介石が「反攻大陸」のことを第一に考えたためアメリカや日本などの説得を無視して、国際連合を脱退したため、台湾は現在の様な国際的に国家としては承認されない状況に陥ってしまったとする見方もある。
詳細は「蒋介石」を参照
現在でも、台湾社会では世代によって民族的アイデンティティーや使用言語が異なるケースも少なくない。また、原住民を祖先とする独自の台湾人なのか、中国人の支流としての台湾人、あるいは中国人そのものなのか、という帰属意識の分岐も存在している。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)--
9999中華人民共和国建国以前
1949年の建国以前の中国共産党は、台湾を中国の固有領土と認識しておらず、その独立を支持していた。毛沢東の発言によれば、ソヴィエト連邦をモデルとした連邦国家を目指し、主要な少数民族には自治権を付与し、自治共和国を設置する。一方、以前の清の朝貢国である朝鮮と領土だった台湾については、独立を望むなら援助を与える方針であった[7]。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)--