0o0dグッ

古代朝鮮半島を支配していたのは日本だった

古代朝鮮半島を支配していたのは日本だった

「渡来人」などという造語で歴史を語る危険にナゼ気付かないのか

佐藤洋二郎(作家。日大芸術学部教授)

歴史通2015年7月号

■『羅王家に流れる人の血』

今日、わたしたちが使っている多くの日本語は、明治以降、この国にしい文化が入り、西周(にしあまね)や中江兆民(なかえちょうみん)、福沢諭吉ら当時の知識人が、全体の意味やニュアンスを考慮して翻訳・意訳したものだ。それゆえに本来の言葉の意味と合致していないものもある。そして言葉は時代とともに変容するし変質もする。

歴史という言葉がある。その歴史の「歴」という文字は物事を歴然と、つまりはっきりさせることであり、「史」は文章のことだ。だから歴史とは、文章で物事をはっきりさせるということになる。そして文字が残されていなければ歴史は遡っていけない。だが、神話や民話、伝承や伝説となると、書き残された文字があるとしても、それは即歴史となるわけではない。歴史となるには物的証拠が必要なのだ。

歴史は勝者が書き残すし、それらの行為はわたしたち人間が行う。その上、人間の感情は一筋縄ではいかない。そこには自分たちの正統性の主張や誇張も入るだろう。だが年月が経てばそのことを知っている者もいなくなるし、確認する手立ても少なくなってくる。それは警察官の取り調べに似ていて、容疑者が自白してもすぐに犯人とはならない。自白した通りに殺人現場に行き、物的証拠が出てきて、それらが合致してはじめて犯人となる。わたしは歴史認識をそのように考えているので、書き残された文字から探って行き、なおかつその場所を訪ねるというのが正鵠(せいこく・物事の急所・要点)を射ていると考える。

そんな気持ちで三十年以上神社を歩いている。そこには「正史」と違う伝説や伝承があり、それを探っていくのが愉しい。「朝鮮半島」と「日本」の関係も、「正史」とは違う別の角度から歴史が見えてくる。

朝鮮半島と日本は地理的に近いこともあり、あるときは親しくなったり、齟齬(そご)したりしてお互いの歴史を構築しているが、昨今の日歴史認識は著しく乖離(かいり)している。民主主義の基本は公明、公正、公平だと考えているが、それは歴史認識にも言えることだ。それぞれの国家としての面子や自尊心もあるだろうから、勢い手の言い分を認めようとせず、認めれば自国の歴史を歪めてしまうこともある。行きすぎれば民族主義に走るし、差別感も芽生える。民主主義と同じように、重なる歴史は公明に公平に公正に見ることが、真の歴史を知ることにつながる。ちなみに「公」という文字は、人が両肘を上げている格好だといわれている。肘を上げればものをたくさん持つことができない。

つまり欲張りではないということだ。逆に「私」という文字は禾編(のぎへん)だ。それは穀物を表す。転じて財産の意味になる。その財産を持ち、人に肘鉄(ひじてつ)を食らわすのが「私」という文字だ。つまり欲張りということだ。私利私欲に走る人間は公人というわけにはいかない。今日の政治家は汚職や不法献を繰り返す私人ばかりで、政治がうまく機能しないのはそのためではないか。そういう施政者が歴史をつくっていくのも事実だ。万民のためにいい政治を行うという志のある人物もいたのだろうが、世の中が安寧(あんねい)で穏やかであれば、歴史もまた落ち着き、書き残すことも少ない。

日本史でも世界史でも、そこに列記されているのは社会の異常なことばかりだ。大化改、鎌倉幕府立、明治維などと羅列していけば、政治や世の中が反転したことがわかる。それらのことが書き継がれてきたのが歴史ということになる。さて、今日わたしたちが歴史を語ることができるのも、「記紀」をはじめ、さまざまな書物が残っているからだ。

朝鮮の正史として『三国史記』がある。高麗(こうらい)17代仁宗(じんそう)の勅命で、富軾たちが三国時代から統一羅末期までのことを編纂した朝鮮半島の最古の歴史書だ。1143年に編纂が開始され、2年後に完したものである。初めて編まれた正史としては実に年代がしい。720年立の『日本書紀』より四百年以上も後のことだ。それより以前に古い書物があって、それに依拠して書かれたのかもしれないが、それは現存しないようだ。

『三国史記』の新羅本紀第一の第四代「脱解尼師今(だつかいにしきん・在位57―80)」の部分に、「脱解が王位に即いたとき、その年は62歳であった。姓は昔(せき)氏で、王妃は阿考夫人である。脱解はむかし「多婆邦国(たばなこく)」で生まれた。その国は“倭国の東北”一千里のところにある。」と記されている。

原文は「女王国東渡海千余里 復有国皆種」で、「女王国から東に千余里の海を渡って行くと、また国があり、彼らは皆種(わしゅ)である。」ということだが、その国にいた人間が「羅(しらぎ)」の「第四代の王」になり、その血脈が代々羅の王家に流れている。また当時の政治の最高指揮官である「瓠公(ここう)」という人物は「もともと「人」で、むかし瓢(ひさご)を腰にさげ、羅にきた。それで瓠公と称した。」とある。その男を脱解が登用して政治を行ったのだが、すると、「羅」の国の土台は「日本人がつくった」ということになる。今日の「国」の大もとは「日本人がつくった」という記述を、国の人々はどう説明するのだろう。「天皇は百済(くだら)人だ、日本は国がつくった。」などと言うが、その根拠はどこにあるのか。

■『“渡来”はしい造語』

また近年、古代史において「渡来」という文字が多用されるのはどういうことだろう。わたしは歴史的には首を傾げざるを得ない言葉だと思っている。「帰化人」が適切ではないという理由で達寿氏たちが提唱し、定着したのが「渡来人」という言葉だが、わたしは「記紀」にも載っていないこの言葉に疑間を抱いている。

『日本書記』には「帰化」、「来帰」、「来朝」、「帰朝」という文字が多く見られるが、「渡来」という言葉は、わたしには見つけられなかった。一方、『三国史記』には「来投」、「投亡」、「亡人」という文字が見られる。これらの意味は「飢餓」や「貧困」、「戦禍」によってその地を離れることだ。そうして半島を離れた人々が日本にやってきた。それを「渡来人」という一言で片づけていいものか。

宋書』や『南書』によれば、「王」は「朝鮮全土」の「統治者」として認められている。そんな強国に、半島人がたな文化とともに渡来してくるとはとうてい思えない。本来、「渡来人」という言葉には「海をえてやってきた人」という以上の意味はないが、迫害を受けて逃げてきた者や、豊かな土地を求めて入植した者もいるだろう。自国で何不自由なく暮らしている人間が、なにも危険をおかしてまでやってくる理由はない。さまざまな境遇の人々がやってきたと考えるのが筋だ。

それに対して「帰化」は、来、中華思想により、異民族が君主の徳によって感化されて従うことを意味する。「帰朝」は本国に戻ってくることだ。『日本書記』にはそれらの言葉が書き残されているのに、今日、「渡来」や「渡来人」という言葉が主流になり、わたしたちはそこから歴史を見ようとしている。いったい歴史学者たちはしい造語を使って、どんな教育をしようとしているのだろう。「帰化」「帰朝」という言葉が使われたのには理由がある。まして上代は現在より「言霊(ことだま)」を大切にしていたはずだ。日本人の精神的バックボーンになっているのが、この「言霊」と「怨霊」だということは多くの人たちが知っている。その彼らが「帰化」や「来化」、「帰朝」と頻繁に記しているのだ。

半島から「日本に戻ってきた」、日本に帰属したという意識で書かれていると考えるのが筋ではないか。それを当時の書物に一言も載っていない「渡来人」などという言葉を使って、歴史を探っていこうとするのはどうかしている。半島にも「倭国」があり、あるいはそれに附随する国があったから、彼らはそう書いているのだ。文字を軽んじると歴史は歪んでくる。日本についての記述は中国の書物にはたくさん出てくるし、すでに「倭国」としての存在も書かれている。

論衡(ろんこう)』には「時天下太平 人来献暢草」、の時代は天下太平にして、人がきて暢草(ちょうそう)を献じたとある。暢草は酒に浸す薬草のことを指すらしいが、朝貢についても事細かに記されている。『普書』や『梁書』には、※「人の祖先はの太伯の子孫」と書かれている。

■『半島に侵攻を繰り返す』

その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「服」という。揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。日本での稲作が九州の祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいはり立つ。神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。ちなみに「東遷(とうせん)」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。「東を征伐する」と都を「東に遷す(うつす)」とでは意味が違いすぎる。国人は稲作も半島から伝播(でんぱん)したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。

文化面においても、『隋書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者日 聞海西菩薩(ぼさつ)天子重興仏法 故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、王の「多利思北孤(たりしひこ)」が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。『隋書』や『志』には人は鉄を使うと記されている。鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、人は二千年前に「製鉄」をしていた。

仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。そして『三国史記』や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。その逆は無きに等しい。わたしは室町期に李氏朝鮮が「対馬」を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。「倭寇」の侵入が彩しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。この「倭寇」の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。

※「応永の外寇」、李氏朝鮮の初期の1419年(応永26年・15世紀)に「倭寇」の被害に悩む李氏朝鮮が、その根拠地とみなした「対馬」。朝鮮は「倭寇」征伐ということで、200隻以上の軍船と1万7000くらいの兵士で「対馬」に侵攻して襲撃している。朝鮮軍は一般民衆の船舶を奪う、民家を焼き払う、104人の民衆を「虐殺」するなど非道の限りを尽くすが結果的には「宗氏(対馬を支配した大名)」と「九州探題(室町幕府の職名)」の兵士により撃退された。巨済島に全面撤退した。ついでに「倭寇(わこう)」は時代によってメンバーの国籍は様々。日本人もいたし、支那人や高麗人や仏郎機人(フランキ。ポルトガル人・スペイン人)も多かった。

なおかつあれだけ侵攻していた羅には、日本が羅連合軍に敗れた「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい。とは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、羅連合軍との戦争のことである。)」から、国家間の交流は乏しくなっている。「南都六宗(なんとろくしゅう・奈良時代に行われていた倶舎,実,律,法,三論,華厳の各仏教学派の総称)」や鎌倉仏教との関わりも、日本は朝鮮よりから影響を受けている。文化の輸入も遣使や遣使とともに中国からだったはずだ。

隋書』にも見えるように、「朝鮮半島」から「文化が入ってきた」という説は立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。日本の「律令(古代国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)」も「冠位(かんい・冠の色や材料によって表す官人の朝廷における位階,およびその制度。推古天皇の時(603年),冠位十二階を定めたのに始まる)」も朝鮮を真似てつくったわけではない。

それなのに※「文禄・慶長の役」のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器(とうじき)などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた。」と高麗大学教授で国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(一九三一年生まれ)は言っている。

※「文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)」は1592年(日本:文禄年、明および朝鮮:万暦20年)から1598年(日本: 慶長3年、明および朝鮮:万暦26年)にかけて行われた戦争。日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と明および李氏朝鮮の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を戦場にして戦われた。日本と中国・朝鮮連合軍との間で展開したこの国際戦争は16世紀東アジア最大の戦争とされる。

『三国史記』や『三国遺事』よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。日本が執拗に羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。八四五年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、が多く産出している。」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。

羅は黄の国でもあったのだ。『日本書記』にも、黄があるから神功皇后(じんぐうこうごう)たちが攻めたとある。だから日本は侵攻を繰り返したのだ。そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。

少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。

■『怒りっぼく復讐心に満ちている』

当時の交通は海路を利用した。朝鮮半島には痩せた土地が多い。わたしは中国は全州、国にも二十回以上は行っているが、やはり国よりも日本のほうが国土は豊かだ。気候も日本のほうが温暖である。『朝鮮紀行』を書いたイギリスの女性紀行作家イザベラ・バード(一八三一年生まれ)は、「朝鮮はまぎれもなく山岳国であり、平野らしい平野」はないと言っている。豊かな国であれば人口も増え、自ずから国力も増す。日本が朝鮮半島を攻め続けていたのは、そういう圧倒的な国力があったからだ。

あるいは半島に倭国や「任那(みまな・「にんな」ともいう。4~6世紀頃,朝鮮半島南部に日本 () が領有していた属領的諸国の総称)」が実在したから、何度も攻撃できた。そう考えるのが自然ではないか。はじめから存在しなかったというのでは、学問・研究とは言えない。端から放棄していると思われてもしかたがない。あったかなかったかを調査研究するのが歴史学者のあり方ではないか。

「任那」は『日本書記』にも多く出てくるし、『肥前風土記』や『撰姓氏録』にも出てくる。『三国志』、『宋書』、『梁書』などにもその存在が記されている。資料がないのは「国だけ」なのだ。国の史料にないからといって、実在しなかったという根拠にはならない。書き換えたり、消し去ったりした者たちの根拠のない反論は、歴史を貶めることになる。

冒頭にも書いたが「歴史」は書き残された文章によって遡ることができる。日本独自の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)という物的証拠も多くある。それに「好太王碑(こうたいおうひ)文」もある。文字と物的証拠が合致しているのに、なにもかも否定する根拠はなんなのか。自分たちも言葉と物的証拠を提示して反論しないと、建設的な研究にはならない。前方後円墳を潰したり、自国に不利な文字を消したり、歪曲した解釈をして、歴史を誤っているのは国人のほうではないのか。

中国の『隋書』にも「使持節都督羅任那加羅六国諸軍事安東大将軍倭国王」、「王」が「朝鮮半島の支配権」を認めたと、似た記述が何度も出てくる。また六〇〇年初めの『遣羅史』には、「羅百済皆以為大国球物並敬仰之恒通使往来」とある。「羅」や「百済」は、「倭国を大国」だと認めている。にもかかわらず、畏敬(いけい)する国に文化や技術を持って「渡来」してきたと言うのである。

そのほか中国の『北史』や『書』にも、日本のことはいくらも出てくる。早くから認知されているのだ。なおかつ「人質」や「貢ぎ物」を受け取り、朝鮮半島全域を支配する力があった国に対して、なにを根拠に優位性を唱えるのだろう。朝鮮半島の歴史を調べるとすぐに判然とすることだが、彼らの悲劇と苦悩は、中国と日本という強国に挟まれていたことにある。有史上、それはずっと続き、近代まで変わることがない。フランス人司祭のシャルル・ダレ(1829―1878)は、ソウルで処刑された「ダブリュイ主教」たちが集めた資料を編纂した『朝鮮事情』に、「豊臣秀吉の死によって、日本軍が征服地を放棄して引き揚げることがなかったら、おそらく日本は朝鮮全土を制圧していたであろう。」と書いている。

イザベラ・バードも、「朝鮮には階級がふたつしかない。「盗む者」と「盗まれる側」である。両班から登用された官僚階級は公認の吸血鬼で、人口の五部の四をゆうに占める下人は文字どおり下の人間で、吸血鬼に血を提供することをその存在理由とする。」、「朝鮮ではなにもかもが低く貧しくお粗末なレベルなのである。階級による特権、貴族と官僚による搾取、司法の完全なる不在、労働と少しも比例しない収入の不安定さ、いまだ改革を知らない東洋諸国の政府が拠りどころにする最悪の因習を繰り返してきた政府、策略をめぐらすどろぼう官僚、王宮と小さな「後宮(こうきゅうとは、王や皇帝などの后妃が住まう場所)」に「蟄居(ちっきょ)」したせいで衰弱した政府」(『朝鮮紀行』)と書いている、内側から腐敗し、「国家として崩壊」していたのだ。

ダレの『朝鮮事情』には「彼らは、怒りっぽいが、それと同程度に、“復讐心”に満ちている。たとえば、「五十」の陰謀のうち「四十九」までが何人かの陰謀加担者によって事前に暴露される。これらはほとんどいつも、個人的な恨みを満足させるためのものであったり、かつての少し辛辣(しんらつ)な言葉に対する仕返しのためであったりする。敵対する者たちの頭上に懲罰を加えることができるならば、自分が罰せられることなど、彼らにとってはなんでもないことである。」、「朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い」とあるが、まるで現代の国について語っているようだ。

朴槿惠(パク・クネ)氏は千年経っても恨みは晴れないと言ったが、国家の最高責任者がそういう意識では、未来がどうなるかは明らかだ。多大な影響の下に日本を模倣(もほう)していた国が、「改竄(かいざん)」や「捏造」、「歪曲」を繰り返し、証拠となる文字や物的証拠を無視して恨みごとを言う。国の一九九六年版の高校生用『国史(上)』には、「乱でわれわれが勝利を収めることができたのは、わが民族の持つ潜在力がすぐれていたためである。すなわち、官軍レベルの国防能力では、わが方が日本に遅れをとっていたが、全国民的レベルでは、日本を凌駕した。」と書かれている。そうではない。「明の援軍」を頼んで戦ったのが史実だ。

シナを頼むのは近代においても変わることはなく、イザベラ・バードは「朝鮮は、数世紀来「中国の属国」であり、他の諸国とはなんら関係していなかったので、宗教、文明、思想および風俗の上で中国が朝鮮に及ぼした影響はとても大きかった。」と見ている。当時の朝鮮の人々は中国の文化や教育を懸命に勉強している。自ら「同化」を望んでいるのだ。さらに「かなり丈夫にみえる火縄銃を作る。この国には非常に質のいい銅があるにもかかわらず、彼らが使うすべてのものは、日本から運んできたものである。」、「しかし不思議なことに、にもかかわらず軍隊は概して非常に弱く、彼らは重大な危険があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。」と続く。

宣教師の証言と彼らの歴史認識にも乖離(かいり)がありすぎる。技術力はない。民衆への搾取と圧政で為政者に対する忠誠心が薄くなっている。その上、両班(貴族)たちは我先に逃げ出す。そのことを秀吉軍は知っていたから、あっという間に占領できたのではないか。

■『二大強国に挟まれた悲哀』

朝鮮は古代から中国・日本に貢ぎ物と人質を出し、が明を倒した時にはに加担したが、その後、は徳川幕府よりも過酷な貢ぎ物を要求している。

<毎年、次の如く貢納するものとする。百両、銀千両、白米一万包、絹布三百匹、普通の亜麻布一万匹、精大朝布百匹、大紙二十張一千巻、小紙一千張、鋭刀二千振、水牛角一千本、模様花五十張、染料二百斤、胡椒百枡、虎皮百張、海狸皮四百張、青鼠皮二百張等。これらの献納は、己卯年(一六三九)の秋からとする>

人口七百万前後と推定される朝鮮がこれでは国力を増せるはずがない。こういう文章を目にすると、明にも日本にも配慮しなければいけない朝鮮の潜在的な苦悩が見えてくるし、臣下の生活がどれほど圧迫を受けていたかも窺い知ることができる。朝鮮の歴史は常に二国の強国に配慮しなければ生きていけない悲哀に満ちたものだ。

明に対しては、「朝鮮国王は、しく交替するたびに、特使を遣わして皇帝にその即位の承認を求めねばならない。特使はまた、王家に関すること、朝鮮で生した主要事件について、すべて報告しなければならない。反対に、ほとんどの中国人使節が宮廷での品階では朝鮮国王より上位にいるために、朝鮮国王は、使節を迎えるときソウル城外に出てつつしんで敬礼をしなければならないし、そのうえ、使節が入城した門以外の別の門を通ってソウル城内に入らねばならない」と綴られている。現在の意識から見れば、もっと屈辱的なことも書かれている。「独立国」として扱われているとはとても思えない。テレビドラマとは大違いではないか。

そんな国から「文化」や「技術」を持って「渡来」してくるだろうか。経済も文化も、国力のあるほうに流れていくのは自明のことだ。まして日本本土は朝鮮半島から一度として攻められておらず、古代から日本が一方的に侵攻するばかりだったことを、中国、朝鮮、日本の三国の歴史書は書き残している。わたしは日本が半島を支配していたと書く中国の歴史書を信用しているし、「朝鮮半島南部」と「九州」の一部が「倭国」だったことも、書き残された文字や物的証拠から信じているので、当時の人々が、「帰化」や「帰朝」という言葉を使ったのは至極当然のことだと考えている。少なくとも残された文字から辿っていくかぎり、先端技術も文化も朝鮮半島から入ってきたとは思えない。前述の申一徹氏は七〇年代初めに次のように記している。

来、東北アジア文化圏のなかでは日本は、『人』といって中華文化の中心から遠く疎外された『絶域』に属していたという文化的『庶子』意識の劣等感が長期にわたって内在していた。伝統文化の序列は、どこまでも中国―国―日本()という厳然たる順序ができあがっていたから、古代からは(中略)国を上国とあがめていた。>

「笑止(しょうし・ばかばかしいこと。おかしいこと。気の毒に思うこと)」というほかはない。当時も現在も、日本人の誰がこんなことを考えるだろうか。開いた日が塞がらないとはこういうことを言うのだろう。それが哲学者で教育人だというのだから呆れる。一九八二年の二月号の『月刊朝鮮』には、『「縮み」志向の日本人』を書いた李御寧(イー・オリョン)氏(一九三四年生まれ)の次のような文章が載っている。

<世界には二大不思議がある。日本に行って日本人一人一人をよく見ると、どこか足りないところがあって、顔かたちはまあまあです。そんな印象なのに、どうしてこういう人々が集まって、こんな世界的な経済大国を作り上げたのか。それが不思議の一つですね。逆にもう一つの正反対の不思議があります。一人一人見れば、国人は絶対に日本人に遅れておらず、むしろ先に進んでいる人々です。そういう立派な人々が集まって形した社会がなぜ過去には日本人に支配されるほど弱い国であったのか。これまた不思議の一つですね。結局、日本の集団主義と国の個人主義も差が今日の両国の差になったのです。>

もっと自国の歴史を知ってもらいたいと思うのは、わたしだけではないだろう。中国・日本の両国にいったい何度侵攻されているのか、何人の人質を送っているのか。どれほど多大な貢ぎ物を差し出しているのか。それもずっと。古代は日本に支配されていた史実を、学者であるにもかかわらず、知らないのだろうか。これほど言葉を軽んじ、推量や思惑でものを言うのは、それだけで「捏造・歪曲」に等しい。他国に対して自国が優秀だという意識が強すぎるのは「歴史的コンプレックス」を露呈していることになる。

わたしは国の作家たちと何度も酒をともにしたことがあるし友人もいる。個人的には「好」だが、最近の言動は日に余る。行き過ぎは国家間の友好を損なう。日の大学教授たちのマイノリティ文学に加えてもらい、ブラジルで一緒においしい酒を飲んだこともある。国の大学で講演をしたこともある。だが、大学でのシンポジウムの後で、日歴史認識のやりとりを目の当たりにして、彼らの多くが自らに関わる書物や自国の「正史」を読んでいないことに気づかされた。わたしが知るかぎりでは、日本は公然と国を貶めたり、「口撃」したりはしていないはずだ。それに対して、失礼な言い方だが、国は政治家や知識人が、自らメディアに対して悪意ある言を繰り返している。

それでは政治は前に進まない。ここに述べられている当時の紀行作家や宣教師たちの声や、中国・日本の歴史書に記されていることを、もう一度探ったらどうか。自らの「歴史」をなくしたなら、別の史実から探っていくしかないではないか。人間は自分の背中は見えない。糸くずやシャツが出ていれば、人に教えてもらわなければいけない。他者に配慮することや謙虚になることは人間だけの特権であり、やさしさではないのか。申一徹教授には、なによりも言葉が歴史をつくるということを強く意識してもらいたい。哲学者なら哲学という言葉の意味を記憶して、言してもらわねばならない。哲学とはギリシア語の「sophia(智)をphilein(愛する)」ことではないか。物事の根本原理を探求することではないか。また、わたしには大均(てい たいきん)氏の文章が知識人の言葉だとはとても思えない。こういう乱暴な言葉に出会うと、日本人なら誰でも身構えるから、一層嫌が増えることを危惧する。そもそも「歴史」に国家の悲劇はつきものだ。日本も原爆を落とされている。過去に恨みの目を向けるだけでは「歴史」は構築できないはずだ。歴史人類の共通の文化遺産なのだ。少しでも客観的な目が必要なのは言うまでもない。

羅はの属国」との記述が国の古代史研究の第1級資料から見つかる。

職貢図」から羅・高句麗題起が見。

2011-08-23

しくあらわれた職貢図羅題記。青黛文集から捜し出して、ユン・ヨング博士公開。

羅はの属国」論議告。

羅(しらぎ/しんら、356年4世紀~935年10世紀)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。)((わ、やまと)紀前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。)

(ソウル=聯合ニュース)キム・テシク記者。国古代史研究の第1級資料の中の一つと見なされる職貢図から永遠に消えたと見なされた羅と高句麗に対する簡略な説明の題記が最近見された。「特に今回見された羅に対する題記には羅がの属国という一節があっていわゆる任那日本府説とかみ合わさって論議がおきる展望だ。」

国古代社専攻の仁川(インチョン)都市開公社ユン・ヨング博士は去る20日西江(ソガン)大茶山館で行われた羅史学会(フェチャン、キム・チャンギョム)第107回学術表会を通じて中国で最近見報告された職貢図題起を分析、紹介した。

ユン博士は今回公開された職貢図題記を南京博物館旧蔵本の職貢図版本と比較した結果、「羅と高句麗を含んだ7ヶ国の題起は完全にしく出現した資料で、合わせて百済と倭国をはじめとして既に知らされた9ヶ国の題起も内容で差が小さくない」と話した。(中略)ユン博士はこの内容中でも羅が倭国に属したりもしたという言及がしく現れた大きな課題であり、これをどのように受け入れるかによって歴史学界で論議が広がることがありうると付け加えた。(以下略)聯合ニュース