五十音順あ

五十音順

青渭神(あおいのかみ) []
この神とは、武蔵国式内社めぐりで稲城市の青渭神社で出会った。
ちなみに、この神社の祭神は青渭神、猿田彦命、天鈿女命の三柱であるが、この地は多摩川の氾濫原であり、長く沼地であった。その為、かつては大沼明神、青沼大明神などとも呼ばれていた。この地は水に関わりが深い土地であり、青渭神は水神であると考えられている。

それで「渭」という字の意味を調べたが、これがなかなか難しい。
「行く」とか「流水する」とかいう意味にも用いられたらしいが、普通は川の名のことであり、すなわち唐時代の文学に名高い「渭水」または「渭川」のことだと、それで終わり。
なかなか意味の説明にはたどりつかない。

武蔵国には、入間郡にも「国渭地祇神社」という神社がある。
しかし、どうも「渭」という字は難しいようだ。

あるサイトの方が、「渭」の音がヰであるところから、ある学者が、しゃれて「井」の字に変えて使用したのではないかと書いていたが、それが当たっているのではないかと思う。

青渭神社は、論社が三社あって、稲城市の青渭神社の他に、
青梅市の青渭神社は、奥宮のある惣岳山の山頂近くには真名井という霊泉がある。青渭の井とも呼ばれ、社名の由来になったといわれている。
調布市深大寺の青渭神社は、あの辺は湧水の盛んなところで、ご祭神は水波能売大神と青沼押比売命とされているが、いずれも「水神」である。

水神といっても、色々あるが、三社とも地形からみて、「渭水」のような大河に住む水神ではなくて、「井」を守る水神のほうがふさわしい。
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青景隆著(あおかげ たかあきら) [????~1556]
周防・大内氏臣。当主義隆の下、奉行人を務めるが、義隆が相良武任を重用した為、これを陶隆房(晴賢)に讒言し、隆房を謀反に走らせる一因を作ったといわれる。隆房謀反時はこれに従い、行動を共にした。安芸・毛利氏との戦いにて戦死。
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青橿城根尊(あおかしきねのみこと) []
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青橿城根尊 (あおかしきねのみこと) []
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青木一重(あおき かずしげ) [1551~1627]
駿河・今川氏臣、後松平氏臣。姉川の合戦では越後・朝倉氏下の猛将真柄直隆を討つ功をたてた。後に丹羽長秀に仕え、長秀死後は羽柴秀吉に仕えた。関ヶ原の合戦後大坂方として七手組組頭となるが、冬の陣和睦後に和睦の使者として駿府に赴きそのまま抑留された。大坂落城後出家するが、後摂津・麻田に1万石を得た。
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青地茂綱(あおち しげつな) [????~1570]
近江・六角氏臣。近江の豪族青地氏の養子となる。後に尾張・織田氏に仕えた。伊勢・北畠氏攻略等に参戦。近江・宇佐山城において織田信治、森可成と共に、寡兵にて近江・浅井氏らの攻撃をよく凌いだが、敵わず落城し戦死する。
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青沼馬沼押比売神(あおぬまぬおしひめのかみ) []
青沼馬野は地名で、押比売は大姫という意味があるという。
古事記』に登場するのは、「4-5 大国主神の神裔」の段である。
(現代語訳)
 さてこの大国主神が、宗像の沖つ宮に鎮まる神の、多紀理比賣命を妻として生んだ子は、阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネノ)神、次に妹の高比賣命で、またの名を下光比賣(シタテルヒメノ)命という。この阿遅鉏高日子根命は、賀茂の大御神といっている。
 大国主神が、また神屋楯比賣(カムヤタテヒメノ)命を妻として生んだ子は、事代主神神である。
(中略)
この神が、葦那陀迦(アシナダカノ)神、またの名は八河江比賣を妻として生んだ子は、速甕之多気佐波夜遅奴美(ハヤミカノタケサハヤヂヌミノ)神である。この神が、天之甕主(アメノミカヌシノ)神の女の前玉比賣(サキタマヒメ)を妻として生んだ子は、甕主日子神である。この神が、淤加美神の女の比那良志比賣(ヒナラシビメ)を妻として生んだ子は、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミノ)神である。この神が、比比羅木之其花麻豆美(ヒヒラギノソノハナマヅミノ)神の女の活玉前玉比賣(イクタマサキタマヒメノ)神を妻として生んだ子は、美呂浪神である。この神が、敷山主神の女の青沼馬沼押比売(アヲヌウマヌオシヒメ)を妻として生んだ子は、布忍富鳥鳴海(ヌノオシトミトリナルミノ)神である。(以下略)




これらの家系三神の神名の由来は、よくわかっていないが、山⇒沼⇒海とあるところから、自然における上から下への流れを描いていることはわかります。

余談ですが、美呂浪神の三代前の神の后が前玉比賣である。この神は「さきたま古墳群」の中にある「前玉神社(延喜式内社)」の祭神である。
そして「前玉」から「埼玉」と字が変化して「埼玉県」となっているわけです。
この神裔からわかることは、「さきたま古墳群」を作り上げた豪族は「出雲族系」ということになります
100m前後の大型前方後円墳は、畿内でも大和地方を除くとそう多くなく、山陰、北陸、四国、東海地域ではほとんど築かれず、千葉・埼玉・群馬の関東地方に多いことがわかりました。
つまり古墳時代には、大和地方と関東地方が突出していたようです。

この神を祭神としている神社ですが、
本居宣長の『古事記伝』に、「武蔵国多摩郡の青渭神社に祀られている。」とあります。
その論社は三社あり、参拝して調べてみると、現在は以下のような祭神となっている。
青渭神社(東京都調布市深大寺元町5丁目17−10)は青沼馬沼押比売神を祭神としています。
青渭神社(東京都稲城市東長沼1054)は「青渭神」を祭神としています。
青渭神社(青梅市沢井3-639)は大国主命を祭神としているが、これは明治になってからこの祭神にしたのでは、と思われます。

また「青沼馬野」について本居宣長は、「甲斐国巨摩郡青沼と信濃国佐久郡青沼あり。」としているので、この二つの地域から出た姫の可能性があります。
この地域でも祀られている可能性があります。
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青幡佐久佐丁壮命(あおはたさくさひこのみこと) []
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青幡佐草壮丁命(あおはたさくさひこのみこと) []
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青幡佐草日古命(あおはたさくさひこのみこと) []
八重垣神社宮司の始祖であるという。
出雲の八重垣神社は、障壁画でも、鏡池の縁結び占いでも有名なお宮さんだが、社名にしても祭神にしても変遷があったようだ。
八重垣神社は、須佐之男命が八岐大蛇と戦うに際し、奇稲田姫を隠した「佐久佐女の森」の故地である。
八重垣神社の社名は『古事記』に記載の須佐之男命が詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の歌にちなむといわれ、現在は須佐之男命・奇稲田姫命を祭神とし、合祭神として大己貴命、相殿には青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこのみこと)を祀っている。
佐久佐女さくさめの森とよばれる奥院の森は、奇稲田姫命が八岐大蛇の難を避けるために八重垣を築いて避難したところといわれ、また、この森の中にある鏡ノ池は奇稲田姫命が避難した際に飲料に用い、姫命はその水面に姿を映して化粧を行ったと伝える。
このように、八重垣神社は奇稲田姫命との関連を物語るさまざまな伝承を有する神社なのだが、天平五年(七三三)成立の『出雲国風土記』に八重垣の社名がみえない。
『出雲国風土記』は大草郷について「須佐乎命の御子、青幡佐久佐日古命(丁壮命)坐す。故、大草といふ」と記し、同書では意宇郡に「佐久佐社」が、『延喜式』神名帳では意宇郡四八座のうちに「佐久佐神社」がみえる。
八重垣の社名は戦国期から近世にかけて佐久佐社に代わって使用されており(慶安五年「八重垣社領検地帳」佐草家文書など)、八重垣神社が他の地域から移転してきた可能性は充分に想定される。現在の祭神が『古事記』の出雲神話にちなんだ素戔嗚命・奇稲田姫命で、『出雲国風土記』に登場する青幡佐久佐日古命(丁壮命)が相殿となっていることも、社名・社格の変遷を物語っているかもしれない。
近世を通じて八重垣神社の祭神は素戔鳴尊・稲田姫・大己貴命になっていた。ところが 明治に入り、延喜式にない社名では高位の社格を得られないことから、本社と末社の関係を元にもどして 「佐久佐神社」と改め、主祭神を青幡佐久佐比古命として当局に届け出た。
しかし、久しく馴染んできた「八重垣」という社号を伏せておくに忍びず、社号を「八重垣神社」に戻すことを陳情、容れられて祭神も明治以前に復し、現在、青幡佐久佐比古命は合殿神となったということである。
……
『出雲国風土記』意宇郡大草郷の由来として、青幡の佐久佐丁壮の命が鎮座したことから大草となったとある。
また、大原郡高麻山の説明で、「神須佐能袁の命の御子、青幡の佐草壮(丁)命が、 この山の上に麻の種を初めて蒔かれた。だから、高麻山という。なお、この山の峯に鎮座されているのは、その神の御魂である」とある
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赤池長任(あかいけ ながとう) [????~????]
肥後・相良氏臣。肥後・赤池城主。大口城にて薩摩・島津氏と戦った際、1568年の堂ヶ崎の戦いにおいて勇猛で知られる島津義弘の軍を打ち破っている(が、相良方5000弱VS島津方300の一方的な戦いだったから当然でもある)。この時義弘は、家臣身代わりに逃げ延びた程であったという。
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赤尾清綱(あかお きよつな) [????~1570]
近江・浅井氏三家老“海赤雨の三将”の1人。近江・赤尾城主にして、小谷城の一部に赤尾曲輪を設ける程の重臣。当主長政を支えて各地を転戦活躍したが、浅井氏滅亡の際、長政自害の後、捕虜となり斬首された。
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赤土命(あかつつのみこと) []
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吾勝命(あかつのみこと) []
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赤衾意保須美比古佐倭気能命(あかぶすまいおおすみひこさわけのみこと) []
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赤衾伊努意保須美比古佐倭気命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと) []
赤衾伊努意保須美比古佐倭気命
あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと
別名
赤衾伊能意保須美比古佐和気能命:あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと
赤衾伊農意保須美比古佐和気能命:あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと
赤衾意保須美比古佐倭気能命:あかぶすまいおおすみひこさわけのみこと
……
淤美豆奴神の子神と伝へる。『出雲国風土記』に出てくる神。赤衾は赤食とも記す。
『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷の由来に 「出雲の郡伊農の郷に鎮座される、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后である天𤭖津日女の命が、国内をご巡行になった時に、 ここにお着きになっておっしゃったことには、「ああわが夫よ、伊農よ」とおっしゃった」とある。
また、出雲郡伊努郷の由来に 「国引きをなさった意美豆努の命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命の社が、郷の中に鎮座しておられる。」とある。
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赤衾伊能意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと) []
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赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと) []
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赤松祐高(あかまつ すけたか) [????~????]
播磨・赤松氏一族。兄広英と共に羽柴秀吉の中国侵攻に降る。後に半田山家鼻城主として1万石を得る。しかし、関ヶ原の合戦で兄広英は自害し、祐高も流浪。大阪夏の陣では大阪方として入城したが、落城後播磨に戻り自害した。
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赤松則英(あかまつ のりひで) [????~1600]
父の死により、阿波・住吉1万石を相続。関ヶ原の合戦では西軍に属して近江・佐和山城籠城。落城寸前に脱出するも、京にて自殺した。
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赤松則房(あかまつ のりふさ) [????~1598]
播磨守護・赤松氏当主だが、羽柴秀吉の中国侵攻に降り、播磨・置塩城1万石安堵された。賤ヶ岳合戦、小牧合戦に従軍。四国征伐にも従事して、阿波・住吉1万石を得た。朝鮮出兵に際し、肥前・名護屋まで出陣するも没した。
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赤松晴政(あかまつ はるまさ) [1513~1565]
父より譲られて、播磨、備前、美作守護赤松氏当主となるが、その父は翌年守護代浦上村宗に殺され、自らも軟禁状態におかれた。その後、村宗の傀儡的存在として播磨・置塩城主となる。細川高国を擁する村宗が、摂津へ出兵した際、晴政はその政敵細川晴元と通じ、大物崩れの戦いで村宗は戦死した。しかし、晴政に領国経営する権威はすでになく、子義祐と対立して放逐され、一族政秀を頼るが、復権はならなかった。
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赤松政秀(あかまつ まさひで) [????~1570]
播磨守護・赤松氏一族。龍野城主。没落した赤松氏嫡流の晴政を城に迎える。威勢を振るう守護代浦上政宗を暗殺し、勢力回復を図った。三木城の別所安治と結んで、姫路城の黒田職隆、御着城の小寺政職と争った。1570年毒殺されたといわれる。
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赤松義祐(あかまつ よしすけ) [????~1576]
播磨守護・赤松氏当主。当初、父晴政と連署体制をとり政務を執るが、後に対立し追放した。また一時期、子則房とも対立している。実権はすでに守護代浦上氏に移っており、織田信長と通じるが、時期尚早であったので、浦上宗景の攻撃を招き、敗れて没落していった。
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赤山明神 (あかやまみょうじん) []
赤山明神
せきざんみょうじん/あかやまみょうじん
……
震丹(中国)の山神。天台宗の守護神。円仁(慈覚大師)が中国から勧請した延命富貴の神。
円仁は入唐中、求法の目的を成就することを願い、赤山法華院(中国山東省)の山神である泰山府君に、 帰朝後は禅院を建立することを誓った。円仁没後の仁和四年(888)に、弟子の安恵がその意志を継いで、 叡山の鎮守である東坂本の山王社に対して、西坂本の地に鎮守として勧請し祠堂を建立して赤山禅院と号した。
以来、延暦寺の別院として重きをなし、赤山権現に対する信仰も山王信仰のそれ同様に高まり、 やがて、寺門(園城寺)の新羅明神と対比される神となった。
懸寄神とも称し、疫病・厄除けの延命神として、近世にはさらに商売の富貴の神としても信仰された。
赤山明神は天にあっては輔星(福禄寿星)、地にあっては泰山府君。 漢代(紀元前二世紀ころ)には人の寿命を司ると信ぜられ、日本に伝わって延命の神あるいは冥府の閻魔大王とも習合させられた。
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阿加流比売(あかるひめのかみ) []
→阿加流比売神
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阿加流比売神(あかるひめのかみ) []
製鉄、青銅に携わった人たちが祀る神を追跡した、谷川健一氏の「青銅の神の足跡」に登場。
日本神話に登場する、日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の玉の化身とされる女神です。
古事記』では応神天皇記に記述がある。

『日本書紀』では垂仁天皇紀に記述がある。
都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。
都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。
『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述がある。
応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けた。
古事記』の阿加流比売神の出生譚は、女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという卵生神話の一種であり、類似した説話が東アジアに多く伝わっている。例えば扶余族の高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)や新羅の始祖赫居世、倭より渡った新羅王族昔氏の伝承、伽耶諸国のひとつ金官国の始祖首露王の出生譚などがそうである。
*天之日矛(あめのひぼこ):
後に詳しく述べるが、記紀では新羅の王子として、『播磨国風土記』には神として登場する。
この事から、当然渡来系の氏族が奉じる神である。そして製鉄、製銅の地で祀られたり、話に登場することが多い。
*都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)=天之日矛の別名
……
新羅の阿具沼の辺で、一人の女が昼寝をしていた。その陰部に日光がさし女は赤い玉を産んだ。 その玉から変じた美女・阿加流比売を、新羅の王子・天之日矛は妻とした。 ある日、天之日矛は気嫌を損ね、激しく阿加流比売を罵った。 阿加流比売は「私はあなたの妻となるべき女ではない。祖国へ帰ります」と言って小舟を操り、日本に戻って難波で暮した。
阿加流比売の出自神話(赤玉誕生)は、類似の話が朝鮮に多い。 例えば、高句麗の「東明王朱蒙」や、新羅の「赫居世王」などの出生伝説も同系のものである。 日光感精による卵生説話が朝鮮に根強くあったものだろう。
阿加流比売は元来太陽神の妻であると信じられた巫女であったものと思われる。 またこの阿加流比売は、よく大国主神と多紀理毘売命との間にできた、下光比売命と混同されたり、 または大国命の婿で、天より遣わされた天若日子の従者である、天佐具売(天探女)と混同されることもある。
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阿加留姫命(あかるひめのみこと) []
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吾我津比賣命(あがつひめのみこと) []
「埼玉縣下 諸社祭神御事厯」では、こう書かれている。
吾我津比賣命は、猿田彦神の御女なり、総國風土記に載せたる伊賀國風土記に、次の如き記事見えたり、いはく『猿田彦神始此之國爲伊勢加佐波夜之國時猿田彦神女吾蛾津媛命天照大御神自天上投降給之金鈴知之守給其知守給之御斎處謂加志之和都賀野今時云手柏野者此其言謬也又此神之依知守國謂吾蛾之郡其後清見原天皇御宇以吾蛾郡分爲國之名後改伊賀吾蛾之音轉也』と見えたり、この神の御事蹟、古史に多く傳へざるを以て、委しきことを知る能はず、[古風土記逸文、日本書紀傳]
これによると伊賀國風土記では「猿田彦神の娘の吾蛾津媛命が、天照大御神が天上から投降した金鈴を知り守っていた」、「吾蛾が転じて伊賀という国名となった」。(「が」「我」「蛾」は原文のまま。)
いままで猿田彦神の系図で知っていたのは、「猿女君」と「太田命」であるが、前の話と結びつくのは「太田命」である。
倭姫命が天照大御神の奉斎地を求めて巡っているとき、五十鈴川の後江で、猿田彦神の裔、宇治土公の祖の大田命が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「さこくしろ宇遅の国」と申し上げ、御止代の神田を進った。倭姫命が「吉き宮処あるや」と問ふと、「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上は、大日本の国の中にも殊勝なる霊地あるなり。その中に、翁三十八万歳の間にも未だ視知らざる霊物あり。照耀くこと日月の如くなり。惟ふに、小縁の物に在らじ。定めて主の出現御坐さむとする時に、『献るべし』と思ひてここに敬ひ祭り申す。」
 これにより彼の処に往き到って、御覧じれば、昔、大神が誓願されて、豊葦原瑞穂国の内の伊勢のかさはや(風早)の国に美し宮処ありと見定められ、天上から投げ降ろされた天の逆太刀・逆桙・金鈴等が、そこにあったので、甚く懐に喜ばれて、言上げされた。
それで、倭姫命はこの地に天照大御神を祀ることにして伊勢神宮となったのである。
猿田彦神について
産土神社を調べたら白髭神社である。そこの祭神が猿田彦である。
なにより人目に触れる神でもある。いろいろな神社の神幸祭などの行列では先導役として鉾を持って姿を現す。
そしていま、2016年が高麗郡建郡1300年にあたるので、色々な企画がある。
白髭神社があるのが高麗郡に限られるということに注目している。
もともと白髭神社は高麗神社とのつながりが強いと云われているが、それならどうして祭神が高麗神社と同じ「白髭明神」ではないのか。
猿田彦神の性格を考えるとうなずける面もある。
「天孫降臨」を「征服」と、あるいは「侵入」と、あるいは「転進」と、あるいは「移住」と捉えるのかは立場によって違うだろう。
猿田彦は国津神であって、天孫降臨してくるのを待っていて道案内した神である。
高麗郡建郡も各所に散らばっていた高麗人を集めて作った。
密度は低かっただろうが、先住民が居たはずである。
その中で、積極的に渡来人と関わって、その技術とか文化を取り入れた人たちが居ただろう。
その人たちが崇める神としては、猿田彦神はうってつけの神様であるなあ、と思っている。
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安芸国虎(あき くにとら) [????~1569]
土佐七雄の1氏。元は安芸の郡司を務めたほどの家柄であり、祖は壬申の乱の時、土佐に流された蘇我赤兄というが、諸説あり確かなところはわからない。安芸氏は京と海産物等を取り引きして裕福な豪族であり、国虎も剛勇で知られる将であったが、同じ七雄の長宗我部氏に攻められ、矢流崩れにて敗戦した。最期は家中も離反し、自らの命と引換に降伏、自害した。
日本編集
飽咋之宇斯能神(あきぐいのうしのかみ) []
陸路と海路に関わる神。
飽きるほど食べる大人の神。
伊邪那岐神が禊祓の為、放り投げた御冠から出現。
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伊邪那美命を追いかけて行った黄泉の国から帰ってきた伊邪那岐命は禊祓をします。
古事記の現代語訳:
 このようなわけで、伊邪那岐大神が仰せられるには、「私は、なんといやな穢らわしい、きたない国に行っていたことだろう。だから、私は身体を清める禊をしよう」と仰せられ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原においでになって、禊ぎ祓えをなさった。
 それで、まず投げ捨てた御杖から成った神の名は、衝立船戸神である。次に投げ捨てた御帯から成った神の名は、道之長乳齒神である。次に投げ捨てた御袋から成った神の名は、時量師神である。次に投げ捨てた御衣から成った神の名は、和豆良比能宇斯能神である。次に投げ捨てた御袴から成った神の名は、道俣神である。次に投げ捨てた御冠から成った神の名は、飽咋之宇斯能神である。次に投げ捨てた左の御手の腕輪から成った神の名は、奥疎神、次に奥津那芸佐毘古神、次に奥津甲斐弁羅神である。次に投げ捨てた右の御手の腕輪から成った神の名は、辺疎神、次に辺津那芸佐毘古神、次に辺津甲斐弁羅神である。
このように、禊ぎ祓えのときに投げ捨てた冠から現れた神の名が、飽咋之宇斯能神です。
日本の神様読み解き事典』では、「化生する冠はカガフル(被ふる)の名詞形であり、したがって飽咋之宇斯能神の神名は、冠の口が開いていることからアキグイの名があらわれたものである。アキは穢の明けと引っ掛けたものと考えられる。」としている。
他にこういう説がある。
・食糧を心配する神
・口を開けて穢れを食う神
・秋祭りの「あき」は、「飽食(あきぐい)のまつり」を省略した語といわれ、古くはアキグイノウシノカミ・ハヤアキツヒメをおまつりする、飽食の意味をもった祭りだった。つまりイネの収穫を神に存分に食していただき、同時に人間も食して満腹の喜びにひたるという収穫祭のひとつであった。
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飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしの) []
三貴神、投げ捨てた物から化生した
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秋篠宮家(あきしののみやふみひと) [1990-]
学習院大法学部卒,オックスフォード大留学。1990年,川嶋紀子(きこ)と結婚し,秋篠宮家を創設。山階(やましな)鳥類研究所,日本動物園水族館協会各総裁。1991年,眞子(まこ)内親王,1994年佳子(かこ)内親王,2006年悠仁(ひさひと)親王誕生。

秋篠宮家(平成2(1990)年6月29日創設)


初代 礼宮文仁親王 (上皇第二皇男子)(昭和40/1965 - )
妃 川嶋紀子 (川嶋辰彦女)(昭和41/1966 - ) 第一皇女 眞子内親王 (平成3/1991 - )  
第二皇女 佳子内親王 (平成6/1994 - )  
第一皇子 悠仁親王 (平成18/2006 - )
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秋田実季(あきた さねすえ) [1576~1659]
出羽檜山城主安東愛季の次男。豊臣秀吉から所領安堵され、湊を拠点に領国を経営。関ヶ原合戦後、宍戸に転封。
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秋月種実(あきづき たねざね) [1545~1596]
筑前秋月城主。毛利氏を頼り、大友氏と争う。一時、大友氏に降伏するが、のち反旗を翻す。島津氏の北上に対し降伏、秀吉の九州征伐に対抗するが、まもなく降伏。日向高鍋に転封された。
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昭徳王(あきのり) [1881~1883 2歳没]
    墓所:豊島岡墓地
    1881 :誕生
    1883 :死去(2歳)
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章憲王(あきのりおう) [1929/ 8/17~1994/11/ 4]
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飽速玉命(あきはやたまのみこと) []
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飽速玉男命(あきはやたまをのみこと) []
飽速玉男命
あきはやたまをのみこと
別名
飽速玉命:あきはやたまのみこと
……
天湯津彦命五世の孫。
成務天皇の時、勅により初代安藝(安芸、阿岐)国造となった。
「飽」は借字で「明」、「速」は「映」、よって明るく映える玉を意味する。
速玉の神名から、速玉男命と同神とする場合もある。
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彰仁親王(あきひと) [1846/ 2/11~1903/ 2/26 57歳没]
小松宮 1代
日本編集
秋比女神(あきひめのかみ) []
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秋毘売神(あきびめ) []
大年神の系譜
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秋毘売神(あきびめのかみ) []
この神の名が記されているのは、『古事記』の「大国主神」の巻で「大年神の神裔」の段です。
(読み下し文)
「 かれ、その大年神、神活須毘神之女、伊怒比賣を娶して生みし子は、大國御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。五神 また香用比売を娶して生みし子は、大香山戸臣神、次に御年神。二神 また天知迦流美豆比賣を娶して生みし子は、奥津日子神、奥津比売命、亦の名は大戸比売神。こは諸人のもち拝く竈の神なり。次に大山咋神、亦の名は山未之大主神。この神は、近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。次に庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、亦の名は土之御祖神。九神。
 上の件の大年神の子、大国御魂神より以下、大土神以前、併せて十六神。
 羽山戸神、大気都比売神を娶して生みし子は、若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那売神、次に弥豆麻岐神、次に夏高津日神、亦の名は夏之売神、次に秋毘売神、次に久々年神、次に久久紀若室葛根神。
 上の件の羽山の子以下、若室葛根以前、併せて八神。」
すなわち、大年神の子で山裾の肥沃な土地の神である羽山戸神と穀物神である大気都比売神が婚姻して以下の八人の御子神が生まれた。
若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神。
これらの神々は植物(特に稲)の成育を示すと思われる。
秋の稲作の神。あるいは稲の取り入れを行う女性の神格化であろう。
母の大気都比売神は、食物起源神話のヒロイン。
この母親の大気都比売神は、須佐之男命に、殺されてしまいます。
古事記』(読み下し文)
「 また食物を大気都比売神に乞ひき。ここに大気都比売、鼻・口また尻より種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出して、種々作り具へてた進(たてまつ)る時、速須佐之男命その態(わざ)を立ち伺ひて、穢汚(けが)して奉進るとおもひて、すなはちその大宜津比賣神を殺しき。かれ、殺さえし神の身に生りし物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。かれ、ここに神産巣日の御祖命、これを取らしめて種ど成したまひき。」
しかし、殺された母神の体から、いろいろな穀物が生えてきました。
その大気都比売神が夏高津日神と秋毘売神の女神を生んで農事に最も大切な季節の夏と秋を守護する力を与えたわけですね。
……
古事記』によると、大年神の子で山裾の肥沃な土地の神である羽山戸神と穀物神である大気都比売神が婚姻して以下の八人の御子神が生まれた。
若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神。
これらの神々は植物(特に稲)の成育を示すと思われる。
秋の稲作の神。あるいは稲の取り入れを行う女性の神格化であろう。
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秋元家(館林藩)(あきもと) []
秋元家  館林藩 立て釻木瓜       6万石
上野邑楽郡館林(群馬県館林市 )   譜代 城主
移封加減増履歴・慶長6年→上野惣社1万石・元和8年→1万5000石・寛永10年→甲斐谷村1万8000石・元禄7年→3万石・元禄13年→4万石・宝永元年→武蔵川越5万石・正徳元年→6万石・明和4年→出羽山形・弘化2年→上野館林
専売品&専売開始年・金物(天保元年、飛び地三木で計画するも失敗)
江戸城詰席・雁之間 子爵 上屋敷・呉服橋之内
参勤・参府12月、帰国翌年4月
人口・全領地総計7万5057人、家数1万5868軒                    明治2年現在
戦国時代は上野国惣社に領地を有し、深谷上杉氏に属した後に、豊臣秀吉から徳川家康に仕えている。
 
秋元氏

秋元師朝

  生没年:
  父:
  正室:
    元朝

秋元元朝

  生没年:
  父:秋元師朝
  正室:
    国朝

秋元国朝

  生没年:
  父:秋元元朝
  正室:
    春朝

秋元春朝

  生没年:
  父:秋元国朝
  正室:
    兼朝

秋元兼朝

  生没年:
  父:秋元春朝
  正室:
    政朝

秋元政朝

  生没年:
  父:秋元兼朝
  正室:
    1525-1587 景朝

秋元景朝

  生没年:1525-1587
  父:秋元政朝
    初名:元景、行朝
    深谷上杉家
  正室:妙耕院(父:古幡良家、義父:関東管領 上杉憲政)
    1546-1628 長朝

秋元長朝

  生没年:1546-1628
  父:秋元景朝
    越中守
    1601-1628 上野総社藩初代藩主
  正室:
    1580-1642 泰朝
    娘(小笠原某室)
    娘(渋川某室)

秋元泰朝

  生没年:1580-1642
  父:上野総社藩初代藩主 秋元長朝
    但馬守
    1628-1633 上野総社藩二代藩主
    1633-1642 甲斐谷村藩初代藩主
  正室:(父:大河内秀綱)
    1610-1657 富朝
    忠朝
    (養子)正朝

秋元忠朝 

  生没年:
  父:甲斐谷村藩初代藩主 秋元泰朝
  正室:久満(父:武蔵川越藩初代藩主 松平信綱)
    時朝
    娘(武蔵川越藩初代藩主 秋元喬知室)

秋元時朝 

  生没年:
  父:秋元忠朝
  妻:
    貞朝

秋元貞朝 

  生没年:
  父:秋元時朝
  妻:
    1717-1775 凉朝

秋元富朝

  生没年:1610-1657
  父:甲斐谷村藩初代藩主 秋元泰朝
    1635 従五位下
    1635 越中守
    1642-1657 甲斐谷村藩二代藩主
  正室:(父:日向県藩初代藩主 有馬直純)
    娘(下総佐倉藩初代藩主 戸田忠昌室)
    1649-1714 (養子)喬知

秋元喬知

  生没年:1649-1714
  父:下総佐倉藩初代藩主 戸田忠昌
  義父:甲斐谷村藩二代藩主 秋元富朝
    1657-1704 甲斐谷村藩三代藩主
    1660 従五位下
    1660 但馬守
    1665 摂津守
    1677 奏者番
    1681 寺社奉行
    1682 若年寄
    1685 但馬守
    1699-1707 老中
    1699 従四位下
    1700 侍従
    1704-1714 武蔵川越藩初代藩主
    1912 贈従三位
  正室:(父:秋元忠朝
    武朝
    1683-1738 喬房
    娘(丹波福知山藩二代藩主 朽木稙元室)
    娘(秋田就季室)
    娘(義父:下総佐倉藩初代藩主 戸田忠昌)
    (養子)深受院(父:秋元成朝、越前丸岡藩二代藩主 有馬一準室)

秋元喬房

  生没年:1683-1738
  父:武蔵川越藩初代藩主 秋元喬知
    幼名:源之助
    初名:尚朝
    1697 従五位下
    1697 伊賀守
    1699 詰衆
    1714-1738 武蔵川越藩二代藩主
    1723 奏者番
    1725 但馬守
  正室:(父:下野宇都宮藩初代藩主 奥平昌章)
    娘(武蔵川越藩三代藩主 秋元喬求室)
    1716-1744 (養子)喬求

秋元喬求

  生没年:1716-1744
  父:下野宇都宮藩二代藩主 戸田忠余
  義父:武蔵川越藩二代藩主 秋元喬房
    幼名:彦七
    1730 従五位下
    1730 越中守
    1738-1742 武蔵川越藩三代藩主
  正室:(父:武蔵川越藩二代藩主 秋元喬房
    1739-1759 逵朝
    1717-1775 (養子)凉朝

秋元凉朝

  生没年:1717-1775
  父:秋元貞朝
  義父:武蔵川越藩三代藩主 秋元喬求
    1742-1767 武蔵川越藩四代藩主
    1746 奏者番
    1746 寺社奉行
    1747 若年寄
    1747-1764 老中
    1767-1768 出羽山形藩初代藩主
    従四位下
    摂津守
    但馬守
  正室:
    娘(阿部正陳室)
    1739-1759 (養子)逵朝
    1738-1810 (養子)永朝
    -1801 (養子)幸子(讃岐丸亀藩五代藩主 京極高中室、父:陸奥三春藩五代藩主 秋田延季)

秋元逵朝

  生没年:1739-1759
  父:武蔵川越藩三代藩主 秋元喬求
  義父:出羽山形藩初代藩主 秋元凉朝
    1755 従五位下
    1755 越中守
  正室:

秋元永朝

  生没年:1738-1810
  父:上田義当、母:上田義行女
  義父:出羽山形藩初代藩主 秋元凉朝
    通称:岩五郎
    1760 従五位下
    1760 摂津守
    1768-1810 出羽山形藩二代藩主
    1774-1788 奏者番
    1780 但馬守
    1798 従四位下
  正室:八重(父:越後与板藩四代藩主 井伊直存)
    1765-1790 修朝
  継室:美也(父:常陸笠間藩二代藩主 牧野貞長)
    1776-1800 知朝
    1792-1847 久朝
    了智院(三河岡崎藩二代藩主 本多忠典室)
    -1835 喜哉(婚約者:土井利行、近江膳所藩十代藩主 本多康完および周防徳山藩八代藩主 毛利広鎮室)

秋元修朝

  生没年:1765-1790
  父:出羽山形藩二代藩主 秋元永朝
    1780 従五位下
    1780 摂津守
  正室:世津(父:伊予松山藩八代藩主 松平定静)

秋元知朝

  生没年:1776-1800
  父:出羽山形藩二代藩主 秋元永朝
    1793 従五位下
    1793 伊賀守
  正室:浅野幾(父:安芸広島藩七代藩主 浅野重晟)

秋元久朝

  生没年:1792-1847
  父:出羽山形藩二代藩主 秋元永朝
    通称:臣三郎
    1807 従五位下
    1807 左衛門佐
    1810-1839 出羽山形藩三代藩主
    1823 但馬守
    1839 若狭守
    1846 大膳亮
  正室:浅野豊(父:安芸広島藩八代藩主 浅野斉賢)
    1820-1876 (養子)志朝

秋元志朝

  生没年:1820-1876
  父:周防徳山藩八代藩主 毛利広鎮
  義父:出羽山形藩三代藩主 秋元久朝
    幼名:撰佐
    1836 従五位下
    1836 左衛門佐
    1839-1845 出羽山形藩四代藩主
    1839 但馬守
    1845-1864 上野館林藩初代藩主
    1864 従四位下
    1864 刑部大輔
    1896 贈従三位
  正室:上杉良(父:出羽米沢藩十一代藩主 上杉斉定)
  継室:本多秀(父:三河岡崎藩四代藩主 本多忠考)
    銑次郎
    甚九郎
    孫三郎
    1848-1883 (養子)礼朝

秋元礼朝

  生没年:1848-1883
  父:遠江掛川藩五代藩主 太田資始
  義父:上野館林藩初代藩主 秋元志朝
    幼名:五十橘
    従五位下
    但馬守
    1864-1869 上野館林藩二代藩主
    1866 奏者番
    1869-1871 館林藩知事
    従四位
    1915 贈正四位
  正室:戸田操(父:下野宇都宮藩四代藩主 戸田忠温)
    1857-1917 (養子)興朝

秋元興朝

  生没年:1857-1917
  父:宇都宮藩家老 戸田忠至
  義父:上野館林藩二代藩主 秋元礼朝
    幼名:和三郎
    1871 従五位
    1884-1917 子爵
    貴族院議員
  正室:南部宗子(父:陸奥盛岡藩十四代藩主 南部利剛)
  継室:山内八重子(父:土佐高知藩十五代藩主 山内豊信(容堂))
    1886-1930 光子(夫:子爵 秋元春朝
    1881-1948 (養子)春朝

秋元春朝

  生没年:1881-1948
  父:子爵 毛利元功
  義父:子爵 秋元興朝
    幼名:寛三郎
    貴族院議員
    1917-1947 子爵
  妻:秋元光子(父:子爵 秋元興朝
    1905-1967 順朝
    1909-1984 英子(夫:子爵 佐竹義勝および松浦義教)
    1912-1975 道子(夫:上野祝二)

秋元順朝 

  生没年:1905-1967
  父:子爵 秋元春朝
    埼玉銀行頭取
  妻:伊達欽子(父:男爵 伊達宗曜)
    1936- 和朝
    1939- 泰子(夫:岩沢文武)
  後妻:吉野弘子1914-(父:吉野大作)
    1951- 恒朝

秋元和朝 

  生没年:1936-
  父:秋元順朝
  妻:菅原和子1943-(父:菅原太郎)
    1968- 順子
    1972- 壮朝

藩祖・長朝(ながとも)
秋元元景の長男(元景は深谷上杉氏の重臣、その後、秀吉、家康に仕える) 母は上杉憲政の養女(憲政は山内上杉氏の出で関東管領、長尾景虎=上杉謙信に管領職を譲った人)
生没・天文15年(1546)~寛永5年(1628)
慶長6年(1601)上野惣社で1万石を領有す
従五位下越中守
元和8年(1622)隠居
正室・なし
子女・2代泰朝 女子→渋川義勝室(義勝は下野小俣城主、上杉氏から北条氏に仕える)

2代・泰朝(やすとも)
長朝長男 母は某氏
生没・天正8年(1580)~寛永19年(1642)
家督・元和8年(1622)相続
従五位下但馬守
正室・大河内秀綱の娘(秀綱は松平信綱の祖父)
子女・3代富朝 忠朝(別家)

3代・富朝(とみとも)
泰朝長男 母は正室大河内秀綱の娘
生没・慶長19年(1614)~明暦3年(1657)
家督・寛永19年(1642)相続
従五位下越中守
正室・丸岡藩有馬直純の娘
子女・女子→宇都宮藩戸田忠昌室
養女(2代泰朝の子忠朝の長女)→旗本上田重則室 養子喬知(4代)

4代・喬知(たかとも)
宇都宮藩戸田忠昌の長男 母は富朝の娘
生没・慶安2年(1649)~正徳4年(1714)
家督・明暦3年(1657)相続
元禄12年(1699)老中に進む
従四位下摂津守
正室・2代泰朝の子忠朝の次女
子女・女子→福知山藩朽木稙元室
女子三春藩秋田広季室
女子→宇都宮藩戸田忠昌養女 5代喬房
養女(秋元成朝の娘)→丸岡藩有馬一準と婚約するも病没

5代・喬房(たかふさ)
喬知次男 母は正室秋元忠朝の娘
生没・天和3年(1683)~元文3年(1738)
家督・正徳4年(1714)相続
従五位下但馬守
正室・中津藩奥平昌章の娘
子女・養子喬求(6代) 女子→6代喬求室

6代・喬求(たかもと)
宇都宮藩戸田忠余の次男 母は某氏
生没・享保元年(1716)~延享元年(1744)
家督・元文3年(1738)相続
従五位下越中守
寛保2年(1742)隠居
正室・喬房の娘
子女・養子凉朝(7代) 逵朝(凉朝養子)

7代・凉朝(すけとも)
一門の旗本秋元貞朝の三男 母は某氏 
生没・享保2年(1717)~安永4年(1775)
家督・寛保2年(1742)相続
宝暦10年(1760)老中に進む
明和元年(1764)老中辞職
明和5年(1768)隠居
従四位下但馬守
正室・なし
子女・養子逵朝(病没) 養子永朝(8代)
養女(三春藩秋田延季の娘)→丸亀藩京極高中室

8代・永朝(つねとも)
旗本上田義当の四男(義当は3代富朝の養女の婚姻相手である旗本上田重則の孫) 母は広島藩家老上田重羽の娘(両上田家は縁戚関係にある)
生没・元文3年(1738)~文化7年(1810)
家督・明和5年(1768)相続
従五位下但馬守
正室・彦根藩井伊直幸の娘
継室・笠間藩牧野貞長の娘
子女・修朝(病没) 女子→岡崎藩本多忠典室
女子→徳山藩毛利広鎮室 知朝(病没)
女子→刈谷藩土井利行と婚約するも、膳所藩本多康完室 9代久朝

9代・久朝(ひさとも)
永朝五男 母は継室牧野貞長の娘 
生没・寛政4年(1792)~弘化4年(1847)
家督・文化7年(1810)相続
従五位下大膳亮
天保10年(1839)隠居
正室・広島藩浅野斉賢の娘
子女・養子志朝(10代)

10代・志朝(ゆきとも)
徳山藩毛利広鎮の八男 母は8代永朝の娘 
生没・文政3年(1820)~明治9年(1876)
家督・天保10年(1839)相続
従五位下刑部大輔
山陵修復に努め、公武間を斡旋する
元治元年(1864)隠居
正室・米沢藩上杉斉定の娘
継室・岡崎藩本多忠考の娘
子女・養子礼朝(11代)

11代・礼朝(ひろとも)
掛川藩太田資始の五男 母は某氏 
生没・嘉永元年(1848)~明治16年(1883)
家督・元治元年(1864)相続
戊辰戦争では藩兵を東北へ進め功を立て、賞典禄1万石を与えられる
従五位下但馬守
正室・宇都宮藩戸田忠温の娘
日本編集
秋元義久(あきもと よしひさ) [????~1564]
安房・里見氏臣。第2次国府台合戦後、相模・北条氏の大軍に包囲される。果敢に抵抗したが、やがて落城、討死した。
日本編集
秋山信友(あきやま のぶとも) [1531~1575]
甲斐武田氏の武将。美濃岩村城を攻略、信長の叔母を室にするが、長篠で武田軍が敗退すると、織田軍の攻撃を受け、殺された。
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甲斐源氏流。甲斐・武田氏臣。若くして抜擢され一手の将となる。武勇のみでなく知略に優れており、美濃・岩村城を謀略にて無血開城させて城代となった。この時城主の未亡人(織田信長の叔母)を娶っている。三方ヶ原の戦いでは"武田の猛牛"と呼ばれて怖れられた。しかし長篠の敗戦後、岩村城は孤立して織田軍が度々来攻したが、堅守して陥ちなかった。しかし5ヶ月の籠城の末、信長の提示した和議に応じ、城を出たところを捕らえられ、岐阜で磔にされた。兵も皆、山道で焼き殺されたという。49歳。
日本編集
秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびおとこ) []
この神については、『古事記』「応神天皇」の巻の、その9「秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫」の段で語られる。
現代語訳では:
さて、この伊豆志の神の女(むすめ)で、名は伊豆志哀登売神(いずしをとめのかみ)という神がおられた。ところで多くの神々が、この伊豆志哀登売を妻に得たいと望んだが、だれも結婚することができなかった。
ここに二柱の神があって、兄は秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびをとこ)といい、弟は春山之霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)といった。そしてその兄が弟に向かって、「私は、伊豆志哀登売を妻に願ったが、結婚できなかった。おまえはこの少女(おとめ)を妻にできるか」と言った。弟が答えて、「たやすく妻にすることができます」と言った。そこでその兄がいうには、「もしもおまえが、この少女を娶る(めとる)ことができるならば、私は上衣と袴を脱ぎ、身の丈を計って、それと同じ高さの甕に酒をかもし、また山や河の産物をことごとくととのえ準備をして賭の物としよう」といった。
そこでその弟は、兄の言ったとおりくわしくその母に伝えると、即座にその母は藤の蔓を取ってきて、一夜の間に、上衣・袴および 磯・沓を織り縫い、また弓矢を作って、その上衣や袴などを弟に着せ、その弓矢を持たせて、その少女の家に行かせると、その衣服や弓矢はすべて藤の花に変化した。そこでその春山之霞壮夫は、その弓矢を少女の家の厠に掛けておいた。そこで伊豆志哀登売はその花を見て不思議に思い、それを持って来るとき、霞壮夫はその少女のあとについて、少女の家にはいるとすぐに契りを結んだ。そして一柱の子を生んだ。そして弟はその兄に、「私は伊豆志哀登売を自分のものにした」と申した。
 そこでその兄は、弟が少女と結婚してしまったことに腹を立てて、例の賭の品物を渡そうとしなかった。そこで弟が嘆いてその母に訴えたとき、母親が答えていうには、「この現世のことは、よく神の教えを見習うべきです。それなのに兄は、現世の人々のやり方に見習ったのでしょうか、その賭の物を償おうとしないのは」といって、その兄である子を恨んで、すぐに出石川の中州に生えている一節竹を取って、編み目の荒い籠を作り、その川の石を取って塩にまぜ合わせてその竹の葉に裹(つつ)んで、弟に呪詛させて言うには、「この竹の葉が青く茂るように、この竹の葉がしおれるように、茂ったりしおれたりせよ。またこの塩の満ちたり干たりするように、生命力が満ちたり干たりせよ。またこの石が沈むように病に沈み臥せ」といった。このように呪詛させて呪いの品を竈の上に置いた。このためにその兄は、八年もの長い間、体はひからびしなえ、病み衰えた。それでその兄が嘆き悲しんで、その母親に許しを乞うと、母親はすぐにその呪いの品を取り返させた。そしてその兄の体は、本どおりに安らかに健康になった。これが「神うれづく」という言葉の起りである。
この話の前に、新羅の王子であり渡来した天日槍(あめのひぼこ)の話を書き、それに続いて帰化人であった出石族が伝承していた説話に基づいて、この話が構成されたとされる。
春秋の自然美の優劣を競うかのような話である。
春山之霞壮夫が弓矢を少女の厠ににかけ、その少女と結婚するというストーリーは、三和の大物主神が丹塗矢となって、厠にいる勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)の女陰(ほと)をつく話の変形だと思う。
母親の言葉の中で、神の世界と人間の世界を比較して、人の世になったら約束を履行しなくなった、と言わせている。
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晃親王(あきらしんのう) [1816/10/22~1898/ 2/17 81.3歳没]
⼆歳年下の叔⺟・伏⾒宮貞敬親王の第11王⼥・幾佐宮隆⼦⼥王と共に出奔し、勧修寺門跡の地位を停⽌されるが、後に勅許により復飾し⼭階宮となる。

武官にはならず⽂官で通した。
墓所:京都市東⼭区泉涌寺⼭内町

1816/10/22:誕⽣
1817/ 9/13:勧修寺を相続(0.9歳)
1818/ 6/16:光格天皇の養⼦となる(1.7歳)
1823/11/25:親王宣下、清保親王(7.1歳)
1824/ 5/21:勧修寺に⼊寺、済範親王(7.6歳)
1842/ 8/27:年下の叔⺟との不祥事により伏⾒宮除籍、東寺に幽閉される(25.10歳)
1864/ 2/16:謹慎を解かれ伏⾒宮に復帰し復飾(47.3歳)
1864/ 2/24:⼭階宮の称号を賜わる(47.4歳)
1864/ 3/ 1:「晃(あきら)」の名を賜わる(47.4歳)
1864/ 3/ 6:孝明天皇の猶⼦となり親王宣下(47.4歳)
1872/ 3 :東京移住(後に京都に戻る、55.5歳)
1873/ 7/ 3:菊麿(1王⼦) 誕⽣(56.8歳)
1875/12/31:勲⼀等旭⽇⼤綬章(59.2歳)
1885/12/ 2:菊麿復籍し継嗣となる(69.1歳)
1886/12/29:⼤勲位菊花⼤綬章(70.2歳)
1898/ 2/17:死去(81.3歳)
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芥川長光(あくたがわ ながみつ) [????~????]
芥川氏は鎌倉期から続く西国御家人の流れ。長光は三好氏であるが、摂津の一勢力である芥川氏と縁戚関係を結ぶ等して、芥川氏を名乗ったものと思われる。しかし、1520年細川高国勢と戦って敗れ、父之長、弟長則らと共に捕らえられ、京・百万遍で自害。
日本編集
明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと) []
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曙立王(あけたつのみこ) []
曙立王
あけたつのみこ
曙立王は、彦坐王の子である大俣王の子で菟上王の兄。 伊勢の品遅部君・伊勢の佐那造の祖。
垂仁天皇が物言わぬ皇子品牟都和気命に心痛めていた時、 垂仁天皇の夢占いに、出雲大社に参詣せよとあり、 誰に付き添わせるか占ったところ曙立王の名が出た。
天皇は曙立王に命じて誓約(うけい)をさせた。 曙立王が「出雲大神に拝することによって本当に霊験があるならば、 鷺巣池の木に住む鷺よ、誓約によって落ちよ」と言ったところ、鷺が落ちて死んだ。「誓約によって生きよ」と言うと生き返った。 また甘橿丘の樫の木を誓約によって枯らし生き返らせた。 そこで、垂仁天皇は曙立王に名を賜わり、倭者師木登美豊朝倉(やまとはしきとみとよあさくらの)曙立王と言った。
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明智秀満(あけち ひでみつ) [?~1582]
明智光秀の女婿。丹波福知山城主。光秀に従い、本能寺の変後、近江佐和山城で自刃。
日本編集
明智光秀(あけち みつひで) [1528~1582]
美濃土岐氏の一族、織田信長に従い、足利義昭の上洛に尽力。後、織田家五大軍団長の一人。本能寺で、信長を自刃させた後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、敗走中農民に殺された。
日本編集
阿衡事件(あこうじけん) [887[仁和3]年]
藤原基経が関白に任命された時、任命の詔に「阿衡の任をもって卿の任とせよ」とありましたが、基経は”中国では阿衡とは名ばかりの仕事で関白の仕事を侮辱したものである”としてこの詔を作成した橘広相を朝廷から追放させました。
 この事件は基経の権威を天皇に認めさせ、橘氏を没落させたものとして知られています。
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朝香宮家(あさか) [1906-1947 朝香宮家]
朝香宮家(1906-1947皇籍離脱)


初代 鳩彦王 (久邇宮朝彦親王第八男子)(明治20(1887)年10月2日 - 昭和56(1981)年4月12日)
妃 富美宮允子内親王 (明治天皇皇女)(明治24/1891 - 昭和8/1933) 第一王女 紀久子女王 (明治44/1911 - 平成元/1989) 侯爵鍋島直泰夫人
第一王子 孚彦王 (大正元/1912 - 平成6/1994) 二代
第二王子 正彦王 (大正3/1914 - 昭和19/1944) 称音羽姓、侯爵
第二王女 湛子女王 (大正8/1919 - ) 伯爵大給義龍夫人
二代 孚彦王 (大正元(1912)年10月8日 - 平成6(1994)年5月5日)
妃 藤堂千賀子 (藤堂高紹女)(大正10/1921 - 昭和27/1952) 第一王女 冨久子女王 (昭和16/1941 - 平成21/2009) 伯爵南部利久夫人/鈴木克久夫人
第一王子 誠彦王 (昭和18/1943 - ) 三代
第二王女 美乃子女王 (昭和20/1945 - ) 坂本喜春夫人
三代 誠彦王 (昭和18(1943)年8月18日 - )
夫人 内海貴子 (内海勝正女)(昭和23/1948 - ) 長男 明彦 (昭和47/1972 - )
長女 美貴子 (昭和49/1974 - )


音羽侯爵家

侯爵 音羽孚彦 (大正3(1914)年1月5日 - 昭和19(1944)年2月6日)
夫人 大谷益子 (大谷尊由女)(大正7/1921 - )
*夫の死後侯爵家より離籍、小坂善太郎と再婚


朝香宮家

鳩彦王

  生没年:1887-1981
  父:久邇宮 朝彦親王
    1906-1947 朝香宮
    陸軍大将
  妃:富美宮 允子内親王(父:明治天皇
    1911-1989 紀久子女王(夫:侯爵 鍋島直泰)
    1912-1994 朝香孚彦
    1914-1944 音羽正彦
    1919- 湛子女王(夫:伯爵 大給義龍)

音羽正彦

  生没年:1914-1944
  父:朝香宮 鳩彦王
    陸軍少佐
    1936 臣籍降下
    1936-1944 侯爵
  妻:大谷益子(父:大谷尊由)
    絶家

朝香孚彦

  生没年:1912-1994
  父:朝香宮 鳩彦王
    陸軍中佐
  妻:藤堂千賀子(父:伯爵 藤堂高紹)
    1941- 冨久子(夫:南部利久および鈴木克久)
    1943- 誠彦
    1945- 美乃子(夫:坂本喜春)

朝香誠彦

  生没年:1943-
  父:陸軍中佐 朝香孚彦
  妻:内海貴子1948-(父:内海勝正)
    1972- 明彦
    1974- 美貴子
日本編集
朝倉景鏡(あさくら かげあきら) [????~1574]
越前朝倉氏の一族。朝倉景職の孫。義景に従い、しばしば大将として、近江、美野などに出陣。1573年義景を裏切り、自害させ、織田信長に降る。1574年一向一揆と対立、敗死した。
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越前・朝倉氏一族。一族の筆頭として大きな力を持ったが、朝倉家滅亡の際には、主君義景を自害に追い込み、その首を持参して織田信長に降伏。翌年、景鏡も蜂起した一揆勢に襲われ、主従3騎になるまで戦い、果てには多数の敵中に突撃して戦死した。
日本編集
朝倉景隆(あさくら かげたか) [????~????]
越前・朝倉氏庶流。越前朝倉氏の一族。1555年、1564年と2回にわたり、大将として加賀一向一揆と戦っている。
日本編集
朝倉景高(あさくら かげたか) [????~????]
越前・朝倉氏一族。1517年、美濃・土岐頼芸に敗れて越前に逃れてきた土岐政頼を支援し、総大将として3千の兵を率い美濃を攻めるが敗れる。その後、朝倉氏の要職大野郡司を務めた。1540年頃、不和となった兄孝景に背いたことから、国を逐われ、一向一揆と結んだという。一方で公家の娘を室とし、公家や将軍家との文化交流盛んな風流人でもあった。
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朝倉景健(あさくら かげたけ) [????~1575]
越前・朝倉氏庶流。度々当主義景に代わり総大将として出陣、多くの戦いに奮戦した。しかし近江・姉川の合戦においては、数に劣る三河・徳川軍相手に総崩れとなり敗戦の因となった。主家滅亡後は尾張・織田氏に降り、所領を安堵されるが、後に謀られ自殺に追い込まれた。
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朝倉景建(あさくら かげたけ) [?~1575]
越前朝倉氏の一族。各地を転戦し、姉川の戦いで総大将。近江坂本では、森可成や信長の弟信治を討ち取る。1573年義景を助け奮戦するが、義景自刃後、信長に降伏。後、一向一揆と対立、配線の責任を問われて自殺。
日本編集
朝倉景綱(あさくら かげつな) [????~????]
朝倉氏一族。越前・織田城主。1573年当主義景が越前・刀禰坂で敗れた時には、これを見捨てて居城に退却した。主家滅亡後、一向一揆勢に攻められて落城、妻子のみ引き連れて落ち延びたといわれる。
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朝倉景恒(あさくら かげつね) [?~1570]
朝倉氏の家臣。教景の孫。足利義昭を織田信長の下に送ったとき、警護した。1570年信長の越前攻めに際し、金ヶ崎城主として奮戦、開城後遁世した。
日本編集
朝倉景連(あさくら かげつら) [????~1570]
朝倉氏の家臣。氏景の孫。北陸方面の責任者として加賀一向一揆と戦う。一乗谷の奉行人を勤めた。
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越前・朝倉氏一族。一族の重鎮宗滴死後、家臣団をまとめ、一向一揆との戦いに活躍した。1561年当主義景が犬追物を興行した際、景連は500余人の人々を着飾らせて参加し、見物人の目を驚かせたという。
日本編集
朝倉景紀(あさくら かげのり) [????~1573]
越前・朝倉氏一族。越前・敦賀城主。一族の重鎮宗滴の養子となり、共に各地を転戦した。将軍足利義昭が当主義景を頼った際には、敦賀城に迎えた。近江・姉川の合戦にも第2陣の大将として参加している。
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朝倉景盛(あさくら かげもり) [????~????]
越前・朝倉氏傍流。朝倉氏は北近江・浅井氏と共に尾張・織田氏らの軍と戦っていたが、不利な戦況の中、景盛はわずかな手勢で単独夜襲をかけ、これを成功をさせる。しかし、この混乱に続く朝倉・浅井軍はなかった為、所詮は局地的な勝利でしかなく、朝倉家はまもなく滅亡した。
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朝倉孝景(あさくら たかかげ) [1493~1546]
越前・朝倉氏当主。一向一揆と戦いながら越前の領国化を進めた。文武に秀で朝倉政権を盤石なものとし、又、歌道にも通じた風流を解する将でもあった。
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朝倉教景(あさくら のりかげ) [1477~1555]
朝倉氏の一族。宗滴と号す。敦賀郡司。1506年越前一向一揆を鎮圧、加賀一向一揆を破る。1517年丹後、1525年近江、1527年京、1531年加賀に出陣、各地で活躍する。1544年には美濃斎藤氏と組んで、織田信秀を破り、1555年には上杉謙信と組んで、加賀一向一揆を破った。しかし、間もなく陣没。
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越前・朝倉氏一族。若くして仏門にはいるが、一族景豊の謀反から朝倉宗家を救い、その功で敦賀郡司となる。以後、加賀の一向一揆を相手に戦い、あるいは近江、若狭、美濃と各地を転戦し、朝倉家の重鎮として晩年まで活躍する。1555年、79歳の老躯で総大将として加賀一向一揆と戦い、陣中にて発病、一乗谷にて亡くなった。彼についてはその死後、彼の従臣萩原八郎右衛門尉宗俊が「宗滴夜話」をまとめた。
日本編集
朝倉義景(あさくら よしかげ) [1533~1573]
越前一乗谷城主。朝倉孝景の子。足利義昭を迎えるも上洛の意思なく、義昭は信長の元に去り、信長に上洛される。後、浅井長政と組んで信長と争い、滅亡。
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越前・朝倉氏最期の当主。溺愛する息子を失い、国政に対する気力を無くしていき、一方で学問や芸能に深くのめり込んでいった。都を追われた将軍足利義昭が頼って来た際、上洛を促されるがこの機会を活かさず、義昭に見限られる。その義昭を奉じて上洛した尾張・織田氏に攻められるが、盟友北近江・浅井氏の来援に助けられ危機は逃れた。しかし、その後も自ら積極的に出ることはあまりなく、浅井氏の要請に対し家臣に軍を率いらせるのみで、士気は振るわなかった。その為、織田方との決戦である姉川の合戦においては、数に劣る三河・徳川軍相手に敗走してしまう。最期は一族景鏡、重臣魚住景固らに迫られ、自害して果てた。
日本編集
浅野長晟(あさの ながあきら) [1586~1632]
関ヶ原戦後、徳川家康に仕え、1610年備中足守、1613年兄幸長の死去後、紀伊和歌山藩主、次いで1619年安芸広島藩主。
日本編集
浅野長政(あさの ながまさ) [1547~1611]
浅野長勝の養子。妻は豊臣秀吉の正室おねの妹。豊臣五奉行の一人。甲斐府中城主。
日本編集
浅野幸長(あさの よしなが) [1576~1613]
豊臣秀吉に仕え、各地を転戦。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後、紀伊和歌山城主。
日本編集
朝彦親王(あさひこ、ともよし) [1824/ 3/27~1891/10/25 67.6歳没]
久邇宮 1代
日本編集
阿佐比古命(あさひこのみこと) []
記紀には登場しない。
記紀にて「天の岩戸」の場面などに登場する「経津主命」の御子神であり、下總國匝瑳(そうさ)郡の延喜式内社・老尾神社の祭神。
ちなみに下総国一之宮・香取神宮の祭神は経津主命。
経津主神は物部氏の最も主要な奉斎の神であり、物部氏の氏神と表現してもよい。
そして、経津主神を遠祖とする氏に関しては、歴代をあげる系図を伝えるのは下総の香取連くらいとのこと。
匝瑳郡唯一の式内社・老尾神社(匝瑳明神)の祠官家に香取連があること、香取・匝瑳両郡には玉作という郷村があることなどから、物部系の匝瑳連が奉じた神だと思われる。
老尾神社の「老尾」がいまの鎮座地・匝瑳市生尾に通じ、祭神を朝彦命あるいは阿佐比古命(いずれにせよ、麻比古で、安房忌部の祖・大麻比古に通じる)とすることから、原義は「生ひ麻(おひを)」とみられ、匝嵯も「狭布佐(さふさ。細い麻の義)」とみられます。
『下総国旧事考』には、老尾神社の祭神が朝彦命または苗加(なへます)命というと見えるそうで、「苗加命」とは香取連の系図に見える「苗益命」に当たります。
よって、香取神宮に「経津主命」を祀った物部系の氏族「香取連」と同系で、麻に関係の深い物部系の「匝瑳連」が、当地方の守護神として祀った神である。
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朝比奈信置(あさひな のぶおき) [1528~1582]
今川氏真に仕え、今川氏の没落後は武田信玄に仕える。武田氏の滅亡後、降伏するが殺された。
日本編集
朝比奈泰朝(あさひな やすとも) [1538?~????]
今川氏の重臣。1568年武田信玄の駿河侵攻に際し、今川氏真に最後まで従い、相模小田原城に退去。
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駿河・今川氏重臣筆頭。遠江・掛川城主。桶狭間の合戦の時は、尾張・鷲津砦を攻略したが、当主義元戦死の報で撤退する。その後も今川氏の為尽力、氏真が駿府城を逐われると掛川城に迎えて戦った。今川氏が滅亡し氏真が相模・北条氏を頼ると、これに従い小田原に赴き、北条氏に仕えて働いた。その後、徳川氏臣酒井忠次に仕えたとも。
日本編集
朝比奈泰能(あさひな やすよし) [1517~1557]
朝比奈泰煕の子。遠江掛川城主。
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駿河・今川氏重臣筆頭。父死後伯父泰以の補佐を受け、若くして今川氏西方の要衝遠江・掛川城主となる。1548年小豆坂の戦いでは、軍師太原雪斎の副将格として参陣、尾張・織田氏に大勝した。桶狭間の合戦前には没したと思われるが、以後も書にその名は散見される。子泰朝との混同か。
日本編集
浅井斎宮助(あざい いつきのすけ) [????~1570]
近江・浅井氏庶流。父は大和守政信とも、その弟時政ともいう。家中において手柄話を高言していたところを、兄雅楽助に叱責を受け、以降10年来仲違いする。しかし、姉川の合戦前夜に酒を酌み交わして遺恨を捨て、同合戦において、氏家卜全に討たれたという。
日本編集
浅井井規(あざい いのり) [????~1573]
近江・浅井氏庶流。1571年織田氏に寝返った鎌刃城・堀秀村を攻めたが、横山城から救援に駆けつけた木下秀吉の軍に敗れた。1573年織田信長の侵攻を受け、小谷城に籠城。この時、秀吉に内通して兵を京極丸に手引きをしたが、落城後、信長は赦さず殺害された。
日本編集
浅井井頼(あざい いより) [????~????]
北近江・浅井長政3男といわれるが、確かではない。真田十勇士の1人根津甚八のモデルともいわれる。羽柴秀保、秀長、増田長盛に仕えた。関ヶ原の合戦で浪人するが、大坂の陣の時、大坂方として城へ入ったという。戦後、異母姉を頼って京極氏の下、客分として過ごす。しかし淀殿の弟であれば、せめて大野治長と同様な位の扱いをされて有名になっていそうなものだが…。
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浅井雅楽助(あざい うたのすけ) [????~1570]
近江・浅井氏庶流。父は大和守政信とも、その弟時政ともいう。弟斎宮助に高言あり、これを叱責して以降、10年間反目していた。しかし、死出の決意をもって、姉川の合戦前夜に酒を酌み交わして復縁し、決意通り姉川の合戦にて討死した。
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浅井惟安(あざい これやす?) [????~1573]
当主久政の近習を務め、久政隠居後もこれに従う。小谷城落城時は、京極丸を守って久政自害の時まで付き従い、介錯を務めた後自害。子孫は美濃に落ちのびたという。
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浅井亮親(あざい すけちか) [????~1573]
北近江・浅井氏の一族であり奏者を務める。浅井氏が尾張・織田氏に反旗を翻す際はこれに反対した。小谷城落城の時、捕虜となり首討たれた。
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浅井亮政(あざい すけまさ) [1491~1542]
浅井直種の子。浅井直政の養子となり、宗家を継ぐ。近江小谷城主。京極氏の家臣だったが、主家の内紛に乗じて次第に台頭し、江南の六角氏と争いつつ、戦国大名に成長した。
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近江・浅井氏庶流の出だが、本家直政の娘婿となり跡を継ぐ。北近江半国守護京極氏の被官として力をつけていく。京極家中の実力者であった上坂信光(泰舜斎)が専横を強めると、反上坂派をまとめ信光を打ち破った。その後、小谷城を拠にして独立性を強めていくが、浅井氏強大化をおそれる南近江・六角氏の侵攻を再三受ける。一時は越前に逐われたこともあったが、越前・朝倉氏と結びその来援を得て危機を逃れ、戦国大名浅井氏の地盤を築いた。
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浅井輝政(あざい てるまさ) [????~1573]
北近江・浅井長政嫡男。輝政という記載は複数見られず、この名乗りが与えられていたかは疑わしい(唯一「浅井氏家譜大成」に載る)。浅井家滅亡と時を前後して、越前・朝倉氏に預けられていた万福丸も捕らえられ、関ヶ原にて串刺しにされた。
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浅井長時(あざい ながとき) [????~1584]
父は尾張・織田信長の赤母衣衆。その子信雄の家老を務めるが、羽柴秀吉に内通したと疑われ、信雄と不和となる。信雄から和解の為、同じく信雄と不和になった岡田重孝、津川義冬と共に伊勢・長島城に呼び出され、ここにおいて3家老共に誘殺された。逃げようとしたところを森久三郎に討たれたという。
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浅井長政(あざい ながまさ) [1545~1573]
近江小谷城主浅井久政の子。信長の妹お市の方と政略結婚し、領国を拡大する。後、朝倉氏に荷担して信長と敵対、小谷落城に際し自刃。
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南近江・六角氏に臣従する父久政を隠居させ、若くして近江・浅井家を継ぎ、六角氏に敵対。来襲した倍する六角軍を野良田合戦にて撃破する。その後、周辺国人を制圧しつつ六角氏、美濃・斎藤氏らと再三争った。また、尾張・織田信長と、その妹市を娶って同盟を結び、これに協力する。しかし、信長が浅井の同盟国越前・朝倉氏に無断で攻め込んだことから反旗を翻した。姉川の合戦において数に勝る信長軍をあと一歩のところまで苦しめるが、及ばず敗北。最期は小谷城を囲まれ、妻と娘らを信長に託し、自害して果てた。
日本編集
浅井久政(あざい ひさまさ) [?~1573]
京極、六角氏らの勢力に圧されつつ、朝倉氏の助力によってかろうじて領国を維持した。1560年、長政に家督を譲り隠居したが、1573年小谷落城に際し自刃。
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父亮政の死後、北近江・浅井家を継ぐ。父のような覇気はなく、能や鷹狩に熱中して積極的に戦を行うことはなかったが、内政にはそれなりの手腕があった様で、結果的に国は富んだ。しかし南近江・六角氏の侵攻を防ぎきれず、その傘下となる。これを不服とした子賢政(長政)により、六角の支配から脱するが久政は隠居の身となった。その後、浅井氏は尾張・織田氏と結び勢力を拡大するが、織田氏に敵対する将軍足利義昭の御内書を受けた久政が、政治に口出しするようになり、結果的に浅井氏は織田氏に滅ぼされ、子の長政と共に小谷城にて自害した。
日本編集
浅井政重(あざい まさしげ) [????~????]
近江・浅井氏庶流か。9歳で羽柴秀長に仕える。13歳から徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦、大坂冬の陣、夏の陣に参戦。
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浅井政澄(あざい まさずみ) [????~????]
北近江・浅井氏家臣として姉川の合戦では第2陣をつとめ戦う。その後、浅井氏を見限り織田信長に仕える。
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浅井政高(あざい まさたか) [????~1615]
近江・浅井氏一族。羽柴秀吉に仕え、その死後は秀頼に仕える。大坂冬の陣で討死したと伝えられる。56歳。
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浅井政弘(あざい まさひろ) [????~????]
近江・浅井氏一族。早世したという。
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浅井盛政(あざい もりまさ) [????~????]
近江・浅井氏庶流。浅井氏滅亡により、羽柴秀吉に仕え、その臣藤堂高虎の客将となるが、序列の不満等から出奔した。
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浅井吉政(あざい よしまさ) [????~????]
近江・浅井氏庶流。主家滅亡後、織田氏に仕える。賤ヶ岳合戦においては柴田勝家または佐久間盛政に与して、羽柴秀吉臣加藤孫六嘉明に討たれたという。
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|旭姫(あさひひめ) []
豊臣秀吉の異父妹。豊臣秀長と同腹の妹。父は竹阿弥
尾張の百姓家に嫁ぎ、夫は秀吉に取り立てられ佐治日向と名乗る
佐治日向没後に副田甚兵衛に嫁いだ。小牧・長久手の後に徳川家康を上洛させるため離縁され、家康に嫁いだ
家康上洛後に駿府城に住み、駿河御前と呼ばれた
大政所の看病のため上洛し、その後は駿府に戻らず翌年聚楽第で病死した||

浅見道西(あさみ どうせい) [????~????]
近江・浅井氏臣。浅見、浅井氏は共に元々近江守護・京極氏臣であったが、浅井氏の台頭と共にその勢力下に組み込まれた。浅井氏滅亡時に、織田氏に通じて離反するが、所領を没収された。後に柴田勝家に仕え、賤ヶ岳の戦いにも参加。
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浅利信種(あさり のぶたね) [????~1569]
甲斐・武田氏臣。飯富虎昌と同じく“赤備え”として有名であった。相模・北条氏攻めの帰路、三増峠にて猛追撃を受け苦戦、本隊を退避さすため、殿として踏みとどまり戦死した。
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阿佐利命(あさり のみこと) []
阿佐利命:あさりのみこと
 → 物部阿佐利命:もののべのあさりのみこと
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薊瓊入媛命(あざみにいりひめのみこと) []
記・紀にみえる第11代垂仁(すいにん)天皇の妃。
垂仁天皇の皇后狭穂(さほ)姫が兄狭穂彦の謀反(むほん)に連座して自殺する前に、後宮にいれることを進言した丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)の5人の娘のひとり。
丹波道主命の5人の娘とは、第一が日葉酢媛、次に渟葉田瓊入媛、次に眞研野媛、次に薊瓊入媛、次に竹野媛である。
そして、日葉酢媛命を立てて皇后とし、また渟葉田瓊入媛、眞研野媛、薊瓊入媛を妃とした。唯、竹野媛は容姿が醜かったので本土に帰された。還されることを恥じて葛野の地に到着した時に輿より自ら堕ちて亡くなられた。その地を堕国と言う。今、乙訓と言うのは是が訛ったものである。皇后は五十瓊敷入彦命を生んだ。次に大足彦尊、次に大中姫命、次に倭姫命、次に稚城瓊入彦命を生んだ。
大足彦尊が第12代景行天王となる。
薊瓊入媛の生んだ「五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)は、垂仁天皇の皇子として越国(現在の北陸地方)の開発に尽力した。
ここまで読んで、薊瓊入媛は神様なのか? という疑問をお持ちの方も居るでしょう。
群馬県伊勢崎市の「大國神社(式内社)」のご祭神が大國主命なのですが、配祀されているのが「日葉酢媛命 、渟葉田瓊入媛命、眞砥野媛命、薊瓊入媛命、竹野媛命 」の五人の媛でした。
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足利晴氏(あしか がはるうじ) [1508~1560]
はじめ、北条氏と組んで国府台合戦で勝利するが、後に上杉憲政に与して、北条氏に敵対、捕らえられて幽閉、死去。
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足利義昭(あしかが よしあき) [1537~1597]
15代将軍。一乗院門跡となっていたが、兄義輝暗殺後、織田信長を頼り、1568年に将軍職を継ぐ。後、信長と不和となり、1573年京を追放され毛利氏を頼る。晩年、豊臣秀吉から捨扶持を貰い、京に戻って出家し昌山と号した。
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将軍家足利氏一族。幼少の頃、近衛家の猶子となって大和・興福寺一乗院へ入る。1565年松永久秀らに実兄の将軍義輝を殺害され、義昭自身も幽閉されるが、細川藤孝らの手引きで近江・和田惟政の下に逃れ、さらに越前・朝倉義景を頼る。1568年尾張・織田信長に担がれ上洛し、室町幕府 15代将軍に就くが、傀儡に過ぎず、信長と不仲になる。御内書を濫発して反信長勢力の挙兵を再三行うが、1573年には信長に京都を逐われ、後に安芸・毛利氏に身を寄せてからも、反信長勢力の決起を謀り続けた。豊臣秀吉による天下統一後は、山城・槇島城に1万石を得た。
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足利義氏(あしかが よしうじ) [1541~1582]
北条氏の庇護の下、鎌倉に住した。後、古河に戻り、最後の古河公方。
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足利義維(あしかが よしつな) [1509~1573]
12代将軍義晴の弟。阿波平島に住し、平島公方と呼ばれた。
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足利義輝(あしかが よしてる) [1536~1565]
13代将軍。将軍権力の回復を図り、三好三人衆、松永久秀と対立、暗殺された。
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1546年元服して室町幕府第13代将軍となる。三好長慶らと対立し、管領細川晴元と共にしばしば近江に逃れる。その後和解し入京、積極的に御内書を出して大名の同士の調停をする等、将軍家の権力回復を図る。しかし、傀儡将軍として足利義栄を擁立した松永久秀、三好三人衆らに二条御所を急襲されて、自ら太刀を取って奮戦するが、殺害された。塚原卜伝に秘伝“一ノ太刀”を授けられた剣豪将軍。
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足利義晴(あしかが よしはる) [1511~1550]
12代将軍。管領細川高国に擁立され、将軍となる。後、三好元長に京を追われ、元長の死後京に戻るが細川晴元と対立、近江坂本に逃げ、同地で死去。
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将軍家足利氏一族。父義澄の逃亡先近江・九里備前守の館にて出生し、さらに播磨に逃れて赤松義村の下で養育される。管領細川高国が将軍義稙を阿波へ逐うと、高国に迎えられて上洛し、第12代将軍の座に就く。しかし、弟義維を擁する細川晴元三好元長らと対立し、1528年三好元長に逐われて近江・朽木稙綱を頼る。元長が本願寺教光らに攻められ自刃すると、晴元に擁されて帰洛したが、この晴元と対立して再び近江坂本に下り、将軍職を辞す。近江・穴太で没。再三近江に逃れ、むしろ在京期間の方が少なかったことから、“江州大樹”と呼ばれた。
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足利義栄(あしかが よしひで) [1540~1568]
14代将軍。義輝死後、三好氏によって擁立されたが、まもなく織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると阿波に逃れ、まもなく死去。
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足利義冬(あしかが よしふゆ) [1509~1573]
足利幕府第10代将軍義稙の猶子。義稙失脚、死去に伴い阿波に移り、細川持隆の庇護を受けた。1527年細川氏らの支援を受けて上洛し、兄義晴を近江に逐って将軍就任を目論むが、後見人三好元長を失って再び阿波に戻る。その後、自身の将軍就任は叶わなかったが、嫡子義栄の将軍とすることに成功した。初代阿波(平島)公方。
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足柄之坂本神(あしがらのさかもとのかみ) []
倭建命の東征のおりに登場する神々の一柱。
倭建命が足柄峠の頂上で、弟橋比売を思い起こし、「吾妻はや」と長歎息したという話の前後のことである。
 命は足柄山の坂本というところに到着した。ここは東海道の古道で、のちにいう足柄道の宿場であり、現在は神奈川県南足柄市関本にあたる。一行がここで食事をしていると、一匹の白鹿が寄ってきた。命はそばにまつわる白鹿を、食べかけていた山蒜の片端で打ちつけた。これが白鹿の目にあたり、その場で死んだが、実はこの白鹿は足柄山の神(坂の神と『古事記』には書かれている)の化身であった。
(足柄山の神とはその地の酋長だろう、と「日本の神様読み解き事典」では解釈している。)
そしてその坂の上に立って、三度ため息をついて「あづまはや(私の妻よ、ああ)」と仰せられた。それで此の国を「阿豆麻(あずま)」という。
 命は、この地を発って甲斐国に向かった。そして酒折宮で泊まったときのことである。
命はいささかの疲れと寂莫を感じつつ、
「新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」
と詠われた。そのとき、篝火を焚いて夜警に任じていた一人の翁が、
「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」
と即座に次いだ。
命はこの美事な対応をことのほか歓び、翁を東国造にした、と『古事記』にある。
一方で、神奈川県南足柄市苅野にある足柄神社の社伝によると、
日本武尊が足柄峠を越えようとしたとき、樹木や草が生い茂り、前に進むことが出来ず、道に迷っているときに、白鹿が導くように尊の前方を走ったので、その白鹿に従って進み、ついに難所の足柄峠を越えることができたといい、この白鹿は神霊の化身と考え待僕を同所に三年間滞在させ、神霊を齋祀されたと云はれている」とある。
但し、このお宮の祭神は瓊瓊杵尊日本武尊である。
古事記』では、日本武尊に抵抗した神となっているが、地元のお宮の社伝では日本武尊を助けた良い神となっている。
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芦田均(あしだ ひとし) [1887.11.15-1959.6.20]
第47代首相 昭23(1948).03.10 ~昭23.10.5
政治家,法学博士,外交史家。内閣総理大臣。1912年東京帝国大学卒業後,外務省に入り,外交官補,大使館書記官,大使館参事官を歴任。1932年退官して立憲政友会から衆議院議員総選挙に立候補して当選。1933~40年ジャパン・タイムズ社長。第2次世界大戦後,日本自由党の結成に参加したが脱党。1947年民主党結成に参加し総裁となり,日本社会党と国民協同党との連立内閣,片山哲内閣では副総理および外務大臣を務めた。1948年には同じ 3党連立で芦田内閣を組織し,修正資本主義,中道政治を標榜した。占領下(→対日占領)における労働運動の高まりに対し,政令201号を発してこれを抑えた。しかし同 1948年10月,昭和電工事件に連座し内閣総辞職。のち党総裁の地位も退いた。
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蘆名盛氏(あしな もりうじ) [1521~1580]
蘆名氏16代。会津黒川城主芦名盛舜の子。会津盆地を平定し、さらに近隣の諸大名を従属させ蘆名氏の全盛時代を築いた。
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会津・蘆名氏16代当主。会津黒川城主芦名盛舜の子。領内の反乱を治め、会津盆地を平定し、陸前・伊達氏の内紛・洞の乱(天文の乱)に乗じて近隣の国人を攻略する。又外交を駆使して近隣の大名と結び、常陸佐竹氏と度々争って、蘆名氏歴代で最大の版図を築いた。嫡子盛興に家督を譲るが早世、再び政務を執り、二階堂氏から嗣子を迎える。
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蘆名盛興(あしな もりおき) [1547~1575]
蘆名氏17代。会津黒川城主。盛氏の子。佐竹氏との戦いの中、父に先立って没した。
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会津・蘆名氏17代当主。父隠居によりその後を継ぐ。1566年松山城横田氏攻略、これを捕縛。しかし29歳の若さで亡くなり後嗣なかった為、再び老父が政務を執り、後継者を二階堂氏から迎えることになった。一説には、常陸・佐竹氏との抗争にて討死したとも。
日本編集
蘆名盛舜(あしな もりきよ) [1490~1553]
兄民部少輔盛滋に当時子がなかった為、その跡を継いで会津・蘆名氏15代当主となる。一族猪苗代氏が謀反を起こした時、これを鎮めて打ち倒す。陸前・伊達稙宗の葛西氏攻略に協力して勢力を拡張した。
日本編集
蘆名盛重(あしな もりしげ) [1576~1631]
11歳で後嗣絶えた会津・蘆名氏に迎えられて20代当主となるが、家臣の内訌が続いた。その為、1589年摺上原の戦いでは、離反者を出して陸奥・伊達氏に敗れ、常陸・佐竹氏に戻る。翌年、豊臣秀吉から、常陸・江戸崎に4万5千石を得るが、関ヶ原の戦い不参加の為に、徳川家康より所領没収された。以後兄義宣に従い、秋田にて56歳で没。
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蘆名盛隆(あしな もりたか) [1561~1584]
蘆名氏18代。会津黒川城主。二階堂盛義の子。蘆名盛興の養子。家臣に暗殺された。
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父は会津・須賀川城主。人質として蘆名氏の黒川城にあったが、当主盛興が夭折した為、その娘を娶って会津・蘆名氏18代当主となる。しかし、人質から当主となった盛隆に家臣団は反発。1584年、留守中を、松本、栗原氏による謀反を受けて黒川城を占拠された。同年、奪取し返した黒川城内にて、寵臣大庭三左衛門に殺された。24歳。その後遺児も夭折
日本編集
葦那陀迦神(あしなだか) []
大国主の系譜
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足名椎神(あしなづち) []
やまたのおろち退治
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足名椎神(あしなづちのかみ) []
足名椎神
あしなづちのかみ
別名
脚摩乳命/足摩乳命:あしなづちのみこと
足名鉄神:あしなづちのかみ
足名槌命:あしなづちのみこと
……
大山津見神の子。
出雲国肥河の川上に住いする翁嫗の夫婦神で、夫は足名椎、妻は手名椎といい、八人の娘をもっていたが、 八俣大蛇に、年に一人ずつ人身御供に求められ、すでに七人の娘を奪われていた。 最後に一人残った櫛名田比売命もやがて捧げねばならず、泣いているところを、 高天原を追われて出雲へ降った須佐之男神に助けられた。
後に須佐之男之宮の首となり、稲田宮主須賀之八耳神の名を与えられる。
愛娘櫛名田比売命を愛撫する意味から、この両神の名に、手足で撫でる意味。 あるいは手足の機能を意味しているとも考えられる。
また、足無椎として、蛇神=水神とも考えられる。
『日本書紀』では、脚摩手摩と一人の神として記され、 妻は稲田宮主簀狭之八箇耳とある。
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足名鉄神(あしなづちのかみ) []
足名鉄神:あしなづちのかみ
 → 足名椎神:あしなづちのかみ
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脚摩乳命(あしなづちのみこと) []
脚摩乳命:あしなづちのみこと
 → 足名椎神:あしなづちのかみ
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足名槌命(あしなづちのみこと) []
足名槌命:あしなづちのみこと
 → 足名椎神:あしなづちのかみ
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足摩乳命(あしなづちのみこと) []
足摩乳命:あしなづちのみこと
 → 足名椎神:あしなづちのかみ
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足名椎命・手名椎命(あしなづちのみこと・てなづちのみこと) []
川越氷川神社の祭神です。
氷川神社なので、当然主祭神は素盞鳴尊ですが、加えて脚摩乳命(あしなづちのみこと)と 手摩乳命(てなづちのみこと)。さらにその娘であり、素盞鳴尊の妃神である奇稲田姫命。そして、素盞鳴尊と奇稲田姫命のご子孫の大己貴命(おおなむちのみこと)の五柱の神様が祭神となっています。
古事記』では「足名椎命」・「手名椎命」と表記、『日本書紀』では「脚摩乳尊」・「手摩乳尊」と表記する。
古事記』の記述で、「天照大御神と須佐之男命」の巻の「八俣の大蛇」を、長いですが<読みくだし文>でみましょう。
「かれ避追(やら)はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りましき。この時、箸その河より流れ下りき。ここに須佐之男命、人その河上にありと以為(おも)ほして、尋ね覓ぎ上り往きたまへば、老夫と老女と二人ありて、童女を中に置きて泣けり。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまひき。かれ、その老夫答へ言さく、「僕は国つ神大山津見神の子なり。僕が名は足名椎と謂ひ、妻が名は手名椎と謂ひ、女が名は櫛名田比売と謂ふ」とまをしき。
 また「汝の哭く由は何ぞ」と問ひたまへば、答へ白さく、「我が女は本より八稚女ありしを、この高志の八俣のをろち年ごとに来て喫へり。今そが来べき時なるが故に泣く」とまをしき。ここに「その形は如何に」と問ひたまへば、答へて白さく、「その目は赤かがちの如くして、身一つに八頭八尾あり。またその身に蘿と檜・椙と生ひ、その長(たけ)は谿八谷・峡八尾に度りて、その腹を見れば悉に常に血に爛れたり」とまをしき。 ここに赤かがちと謂へるは、今の酸醤(ほおずき)なり。
ここに速須佐之男命、その老夫に詔りたまはく、「この汝の女は、吾に奉らむや」とのりたまへば、「恐し。また御名を覚らず」と答へ白しき。ここに答へて詔りたまはく、「吾は天照大御神のいろせなり。かれ、今天より降りましぬ」とのりたまひき。ここに足名椎・手名椎白さく、「然坐さば恐し。立奉らむ」とまをしき。ここに速須佐之男命、すなはちゆつ爪櫛にその童女を取り成して、御みづらに刺して、その足名椎.手名椎神に告りたまはく、「汝等八塩折の酒を醸み、また垣を作り廻し、その垣に八門を作り、門ごとに八さずきを結ひ、そのさずきごとに酒船を置きて、船ごとにその八塩折の酒を盛りて待て」とのりたまひき。
かれ、告りたまひし随(まにま)に、かく設け備へて待ちし時、その八俣のをろちまことに言の如来つ。すなわち船ごとに己が頭を垂れ入れて、その酒を飲みき。ここに飲み酔ひて留まり伏し寝ねき。ここに速須佐之男命、その佩かせる十拳剣を抜きて、その蛇(をろち)を切りはふりたまひしかば、肥河血に変りて流れき。かれ、その中の尾を切りたまひし時、御刀の刃毀(か)けき。ここに恠(あや)しと思ほして、御刀の前もちて刺し割きて見たまへば、都牟羽の太刀あり。かれ、この大刀を取り、異しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。こは草なぎの大刀なり。
 かれ、ここをもちてその速須佐之男命、宮造るべき地を出雲国に求(ま)ぎたまひき。ここに須賀の地に到りまして詔りたまはく、「吾ここに釆て、我が御心すがすがし」とのりたまひて、そこに宮を作りて坐しき。かれ、そこは今に須賀といふ。この大神、初め須賀宮を作りたまひし時、そこより雲立ち騰りき。ここに御歌を作(よ)みたまひき。その歌に白はく、
    八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を (一)
 ここにその足名椎を喚びて、「汝はわが宮の首に任けむ」と告りたまひ、また名を負せて稲田宮主須賀八耳神と号(なづ)けたまひき。」
要約すると、アシナヅチはオオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住んでいた。8人の娘(八稚女)がいたが、毎年ヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまい、スサノオが二神の元にやって来た時には、最後に残った末娘のクシナダヒメを食いにオロチがやって来る前だった。二神はスサノオがオロチを退治する代わりにクシナダヒメを妻として差し上げることを了承し、オロチ退治の準備を行った。このとき、スサノオによって娘のクシナダヒメは櫛に変えられた。
スサノオが無事オロチを退治し須賀の地に宮殿を建てると、スサノオはアシナヅチを呼び、宮の首長に任じて稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)(『日本書紀』では稲田宮主神)の名を与えた。
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葦原色許男神(あしわらしこをのかみ) []
葦原色許男神:あしわらしこをのかみ
 → 大己貴命:おおなむちのみこと
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葦原醜男神(あしわらしこをのかみ) []
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阿治志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ) []
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阿治志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ) []
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阿遅鉏高日子神(あじしきたかひこのかみ) []
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阿遅須枳高日子(あじすきたかひこ) []
この神を阿遅鉏高日子根神と同神とする説もある。
記紀には阿遅鉏高日子根神しか登場せず、阿遅須枳高日子は『出雲国風土記』にしか登場しない。
出自を見ると、両神ともオオアナムヂ(=大国主命)と妻の筑紫のタキリビメ(多紀理比賣)の間に誕生したとある。
しかし両神の伝承の内容を見ると、まったく違うので私は別々に挙げておく。
以下の記事は、主として山陰中央新報社の「神話のふるさと」に拠りました。
アジスキタカヒコの名は「立派な鋤を持った高く輝く太陽の子」の意味で、土地を切り開く農業の神や金属の神と考えられてきた。
『出雲国風土記』の仁多郡三沢郷の条で、葦原中つ国の国造りを成し遂げたオオアナムヂの御子神で、言葉が話せないアジスキタカヒコ(阿遅須枳高日子)が、聖水を浴びることで災厄をはらい落とすという神話が登場する。
風土記によると、アジスキタカヒコは、顎ひげが長く伸びる大人になるまで昼夜を問わず泣き続け、言葉が話せなかった。そこで、オオアナムヂが泣くわけを知りたいと祈ると、御子神が言葉が話せるようになった夢を見た。夢からさめて御子神に言葉をかけると、その時、初めて 「御沢」と言った。オオアナムヂが場所を尋ねると、アジスキタカヒコは石の多い川を渡り、坂を上った所で止まり「ここです」 と言った。そこに湧き出ている泉で水を浴び体を清め、もろもろの災いのもとを洗い流したので健康な身となった。
この故事から、出雲国造が新任の際、天皇の治世を祝福する神賀詞を奏上するため上京する時は、ここの水をみそぎ初めの水に用いる、と伝える。
この 「御沢」の候補地は三カ所。島根県奥出雲町三沢の三津池と同町三沢の三沢池、雲南市木次町平田の前の舞の古井だ。
要害山三沢城跡保存会会長で三津池と三沢他の双方を清掃し研究する田部英年さんは、「御沢」の候補地三カ所とも、同町三沢に鎮座しアジスキタカヒコを主祭神とする三沢神社を取り巻くように位置することを指摘。「三つのどれかが神話の舞台になったのは間違いないだろう」と話す。
風土記にアジスキタカヒコは、意宇郡や楯縫郡などの五カ所に名が記され、祭神とする阿受伎社などが三十九社もみられる。
神門郡の高岸郷にも、昼夜となくひどく泣くので、オオアナムヂが高い家を建ててはしごをかけ、それを上ったり下りたりして育てた、と出てくる。
 風土記研究者の故加藤義成さんは「出雲国風土記参究」 で、三沢郷の神話の裏に、仁多郡産の優秀な鉄を使い農具や利器を作る際、清浄な泉の水で身を清めた厳粛な姿を想起。アジスキタカヒコが高岸から三沢に上った伝承を「製鉄指導者が斐伊川を上って来た面影をしのばせるものであろう」 と推測する。
 民俗学者の谷川健一さんも「出雲の神々」で風土記に記されている仁多郡の鉄に注目し、言葉を話せないアジスキタカヒコを「鉱毒により職業病になやまされたたたら師たちのことを暗示している」と考察している。
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味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ) []
記・紀にみえる神。
大国主神(おおくにぬしのかみ)と田霧姫命(たぎりひめのみこと)の子。天稚彦(あめわかひこ)が死んだとき弔問にいったところ,顔がにているため死者が生きかえったとまちがえられ,おこって刀をぬいて喪屋をきりたおしたとつたえる。岐阜県美濃市の喪山はこの喪屋という。「古事記」では阿遅志貴(あじしき)高日子根神。
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古事記』『日本書紀』や『風土記』にみえる神で大国主命の子。『古事記』では阿遅志貴高日子根神と記す。記紀では友人の天稚彦の葬儀に訪れたとき,その家族から死者が生き返ったと勘違いされたことに怒り,葬儀の建物を切り倒して足で蹴とばし,そのまま飛び去ってしまった。そのとき,ふたつの谷に渡るほど長大な姿で光り輝いたという。また『出雲国風土記』は髭が長く伸びるほどに成長しても,昼夜を分かたず泣いていた(言葉を話さない)と伝える。これらの話のうち,建物を壊して飛び去ったり,いつまでも言葉を話さないというのは雷神としての性格の表れと考えられている。また,ぴかぴか光る長大な姿というのは正体が蛇であることを示しており,神名の「あじすき」は切れ味の良い金属製の鋤(農具)に由来する。これらはいずれも雷と縁のあるもので,この神が農耕の守護神たる雷神であることを示している。
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日本神話にあらわれる神の名。アジスキはアジシキ(シキは鉏(すき)の音転)ともいう。立派な鉏の、高く輝く太陽の子の神の意。《播磨国風土記》には鉏を占居神としてまつる話を載せる。大国主神(おおくにぬしのかみ)と田霧姫命(たきりびめのみこと)の子。記紀神話では天稚彦(あめわかひこ)の喪を弔い、容貌の類似から遺族に死者と誤られ、それに怒って天に飛び去る。これは雷神の表象である。奈良県御所(ごせ)市高鴨神社にまつり、葛城迦毛大神(かつらぎのかものおおかみ)ともいう。
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大国主命の子。母は田霧姫命(たぎりひめのみこと)で、古事記、日本書紀、出雲国風土記などにみえる。奈良県御所市の高鴨神社の祭神。迦毛大御神(かものおおみかみ)。高賀茂大神。
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味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ) []
農業神。武神。賀茂大神。
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阿泥素企多伽避顧禰神(あじすきたかひこねのかみ) []
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阿遅鋤高日子根神(あじすきたかひこねのかみ) []
雷神、農業神
 鋤という文字からも連想されるとおり、阿遅鋤高日子根神は農業の神である。あの大国主命を父に持つという点から見ても、それは間違いあるまい。また、穀霊の天若日子神と非常に親しい友人であったという点も見逃せない。 天若日子神が死んだときに、わざわざ天上から地上に弔問に訪れるほどであったという。そのときに死者と間違われて非常に怒ったという話が残っている。その話は天若日子神を参照していただくとして、重要なのはこの2人が非常によく似ているという点だ。なにしろ実の父や妻でさえも見間違えるというのだから相当だ。
 神話において、姿形の似ている神というのは、その神としての性質もよく似ていることが非常に多い。この2神の場合は、生者が死者と間違われるという点で、本質的な同一神であることを示す象徴性が感じられる。つまり、この2神はいずれも穀霊だということである。そこから、この話は一般に穀物の死と再生という農民の信仰がもとになったものと考えられている。また、この話の中で生者の立場をとる阿遅鋤高日子根神は、春に芽を出してすくすくと育つ生命力を象徴していると言えるだろう。
 古代において、鋤という道具は、単なる道具である以上に田の神を祀るときの呪具としても用いられた。阿遅鋤高日子根神の字を見ても分かるとおり、もともとはこの鋤を御神体とする農業神として祀られたものであろう。さらに、「日本霊異記」の道場法師のエピソードに興味深いものがある。昔、農夫が畑で鋤柄の金杖を持って立っていると、突然雷雨が襲ってきて彼の前に落雷した。そのあとを見ると頭に蛇を巻き付けた奇妙な姿をした子供が立っていた。その子供は、後に元興寺の童子となり、出家して道場法師と名乗った。そして、元興寺の田が渇水に悩まされていたときに鋤柄の杖を水門の口におき、たちまち田に水を引き入れたという。
 この話は、鋤が神霊の依り代と考えられていたことを如実に物語っており、この鋤に宿る神霊は雷神(=水の神)である。道場法師の出現とその霊力の発揮は、農耕を助ける鋤と雷神の霊力を結びつけたものといえる。このような文献が残っているくらいだから、鋤と雷の密接な関係は農民の間でもかなり一般的な信仰としてあったのだろう。
 阿遅鋤高日子根神は本来は穀霊であるが、この穀霊がすくすくと成長するためには雷(水の神)との密接な結びつきは欠かせないものである。稲の無事な成長を願う農民は鋤と雷が通じ合うことを切実に願った。そういった信仰から、次第に阿遅鋤高日子根神は雷神を呼ぶ神、ひいては雷神と同様の霊力を発揮する農業神として信仰されるようになったのであろう。
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大国主神が胸形三神の奥津宮に坐す多紀理毘売命を娶って生れた御子が、阿遅鋤高日子根神と、その妹神・高比売命(下光比売命)。
阿遅鋤高日子のまたの名を迦毛大神。
迦毛は鴨・賀茂であり、『姓氏録』に「賀茂朝臣、大神朝臣同祖、大国主神之後也」。
『続日本紀』に、「高鴨神」が大和の葛城山で、大泊瀬天皇雄略天皇)と獲物を争い、 怒った天皇は、高鴨神を土佐に流したとある。 高鴨神は、はじめ、幡多郡の賀茂社へ流され、次いで土佐神社へ移り祀られた。 天平宝字八年(764)、高鴨神は、加茂朝臣田守を遣わして、大和国葛城へ復祀した。
この高鴨神を阿遅鋤高日子根神とする説がある。
『出雲国造神賀詞』に、大穴持命の子・阿遅須伎高孫根命を「葛城」に、 事代主命を宇奈堤に、賀夜奈流美命を飛鳥へと、 それぞれの神奈備において天皇の守護神としたとある。
妹神・下光比売命は、天若日子の妻。阿遅鋤高日子神は天若日子と非常に似ており、 天若日子の死に際し天若日子の親族により間違われて騒動が起きた。
……
大国主神が胸形三神の奥津宮に坐す多紀理毘売命を娶って生れた御子が、阿遅鋤高日子根神と、その妹神・高比売命(下光比売命)。
阿遅鋤高日子のまたの名を迦毛大神。
迦毛は鴨・賀茂であり、『姓氏録』に「賀茂朝臣、大神朝臣同祖、大国主神之後也」。
『続日本紀』に、「高鴨神」が大和の葛城山で、大泊瀬天皇雄略天皇)と獲物を争い、 怒った天皇は、高鴨神を土佐に流したとある。 高鴨神は、はじめ、幡多郡の賀茂社へ流され、次いで土佐神社へ移り祀られた。 天平宝字八年(764)、高鴨神は、加茂朝臣田守を遣わして、大和国葛城へ復祀した。
この高鴨神を阿遅鋤高日子根神とする説がある。
『出雲国造神賀詞』に、大穴持命の子・阿遅須伎高孫根命を「葛城」に、 事代主命を宇奈堤に、賀夜奈流美命を飛鳥へと、 それぞれの神奈備において天皇の守護神としたとある。
妹神・下光比売命は、天若日子の妻。阿遅鋤高日子神は天若日子と非常に似ており、 天若日子の死に際し天若日子の親族により間違われて騒動が起きた。
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阿遅須伎高孫根乃命(あじすきたかひこねのみこと) []
阿遅鋤高日子根神
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阿遅須伎高日古尼命神(あじすきたかひこねのみこと) []
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阿遅須岐高孫根乃命(あじすきたかひこねのみこと) []
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阿遅須岐高日古尼命(あじすきたかひこねのみこと) []
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阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと) []
阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと)は所造天下大神(大国主)の子であり、『記紀』に登場する阿遅鋤高日子根神(アヂスキタカヒコネ)と同神とされ、葛城の賀茂氏の祖神であるとも云われている尊い神とされています。
なお、『古事記』では天照大御神(アマテラス)と並んで「迦毛大御神(かものおおみかみ)」と称され、アマテラスの他に端から「大御神」と称された唯一の神です。
古事記』においては、大国主神(オオクニヌシ)と宗像三女神の一柱である多紀理毘売命(タキリビメ)の間に生まれたとされ、同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)が居るとされています。
『記紀』においては「葦原中国平定」に登場し、そこでは高天原から遣わされてタカヒメと結婚したアメノワカヒコと親友となったとされていまが、アヂスキタカヒコネはアメノワカヒコと容姿が酷似していたとされています。
『出雲国風土記』においては妻子や幼少期の説話も記されており、そこでは『記紀』に見られるスサノオや垂仁天皇の皇子・譽津別王(ホムツワケノミコト)の説話に類似した内容が見られます。
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阿遅須伎神(あじすきのかみ) []
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飛鳥井家(あすかい) []
飛鳥井家  羽林家 旧家 内々    928石
藤原氏北家師実流難波支流 伯爵
居所・日御門通北行当り(京都市上京区)

13代・飛鳥井雅庸(あすかい まさつね)
12代飛鳥井雅敦の子 母は某氏
生没・永禄12年(1569)~慶長20年(1615)
従二位権大納言
正室・飯山藩本多康重の娘
子女・14代飛鳥井雅賢 飛鳥井雅宣 飛鳥井雅章

14代・飛鳥井雅賢(まさかた)
雅庸の子 母は某氏
生没・天正12年(1584)~寛永3年(1626)
従四位下左近衛権少将
正室・不詳
子女・養子飛鳥井雅宣(15代)

15代・飛鳥井雅宣(まさのぶ)
13代飛鳥井雅庸の子 母は某氏
生没・天正14年(1586)~慶安4年(1651)
難波家を相続するも、慶長18年(1613)当家に戻り家督を相続する
従一位権大納言
正室・不詳
子女・養子飛鳥井雅章(16代)

16代・飛鳥井雅章(まさあき)
13代飛鳥井雅庸の子 母は某氏 
生没・慶長16年(1611)~延宝7年(1679)
従一位権大納言
正室・烏丸光賢の娘
子女・17代飛鳥井雅知 飛鳥井雅直 飛鳥井雅豊 
飛鳥井宗種(難波宗勝養子) 飛鳥井宗量(難波宗種養子)
飛鳥井宗尚(難波宗量養子) 女子→中院通躬室
女子→平松時量室 女子→坊城俊広室 
養女(烏丸光賢の娘)→吉田兼起室

17代・飛鳥井雅知(まさとも)
飛鳥井雅章の子 母は正室烏丸光賢の娘
生没・寛永7年(1630)~正保2年(1645)
正五位下左近衛権少将
正室・不詳
子女・養子飛鳥井雅直(18代)

18代・飛鳥井雅直(まさなお)
16代飛鳥井雅章の子 母は正室烏丸光賢の娘
生没・寛永12年(1635)~寛文2年(1662)
従四位上左近衛権中将
正室・福井藩松平忠昌の娘
子女・養子飛鳥井雅豊(19代)
女子→福井藩松平綱昌室

19代・飛鳥井雅豊(まさとよ)
16代飛鳥井雅章の子 母は某氏
生没・寛文4年(1664)~正徳2年(1712)
従二位権中納言
正室・不詳
子女・養子飛鳥井雅香(20代) 女子→雅香室

20代・飛鳥井雅香(まさか)
花山院持実猶子(西園寺致季の子) 
母は興正寺昭超の子園尊の娘
生没・元禄16年(1703)~明和2年(1765)
従一位権大納言
正室・雅豊の娘
子女・21代飛鳥井雅重 飛鳥井良胤

21代・飛鳥井雅重(まさしげ)
雅香の子 母は正室雅豊の娘
生没・享保6年(1721)~安永6年(1777)
従一位権大納言
正室・高槻藩永井直期の娘
継室・尼崎藩松平忠喬の娘
子女・22代飛鳥井雅威 飛鳥井宗章(中御門宗美養子)
重子→恭礼門院(桃園天皇女御、後桃園天皇生母、後に皇太后、一条兼香の娘富子の院号)付き女房 女子→勧修寺経逸室
女子→紀伊田辺藩安藤道紀室

22代・飛鳥井雅威(まさたけ)
飛鳥井雅重の子 母は正室永井直期の娘
生没・宝暦8年(1758)~文化7年(1810)
正二位権大納言
正室・膳所藩本多康伴の養女
子女・23代飛鳥井雅光 飛鳥井実清(河鰭公陳養子)
女子→勧修寺経則室 女子→烏丸資董室
備子→光格天皇典侍

23代・飛鳥井雅光(まさみつ)
飛鳥井雅威の子 母は正室本多康伴の娘
生没・天明2年(1782)~嘉永4年(1851)
従一位権大納言
正室・不詳
子女・24代飛鳥井雅久 女子→高倉永胤室

24代・飛鳥井雅久(まさひさ)
雅光の子 母は某氏
生没・寛政12年(1800)~安政4年(1857)
従一位権大納言
正室・亀山藩松平信志の娘
子女・25代飛鳥井雅典

25代・飛鳥井雅典(まさのり)
雅久の子 母は某氏
生没・文政8年(1825)~明治16年(1883)
正二位権大納言
正室・花山院家厚の娘
子女・飛鳥井雅望 飛鳥井雅之(藤枝家家祖) 飛鳥井基静 飛鳥井恒麿
女子→櫛羅藩永井直哉室
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飛鳥井雅庸(あすかい まさつね) []
13代・飛鳥井雅庸
12代飛鳥井雅敦の子 母は某氏
生没・永禄12年(1569)~慶長20年(1615)
従二位権大納言
正室・飯山藩本多康重の娘
子女・14代飛鳥井雅賢 飛鳥井雅宣 飛鳥井雅章

14代・飛鳥井雅賢(まさかた)
雅庸の子 母は某氏
生没・天正12年(1584)~寛永3年(1626)
従四位下左近衛権少将
正室・不詳
子女・養子飛鳥井雅宣(15代)

15代・飛鳥井雅宣(まさのぶ)
13代飛鳥井雅庸の子 母は某氏
生没・天正14年(1586)~慶安4年(1651)
難波家を相続するも、慶長18年(1613)当家に戻り家督を相続する
従一位権大納言
正室・不詳
子女・養子飛鳥井雅章(16代)

16代・飛鳥井雅章(まさあき)
13代飛鳥井雅庸の子 母は某氏 
生没・慶長16年(1611)~延宝7年(1679)
従一位権大納言
正室・烏丸光賢の娘
子女・17代飛鳥井雅知 飛鳥井雅直 飛鳥井雅豊 
飛鳥井宗種(難波宗勝養子) 飛鳥井宗量(難波宗種養子)
飛鳥井宗尚(難波宗量養子) 女子→中院通躬室
女子→平松時量室 女子→坊城俊広室 
養女(烏丸光賢の娘)→吉田兼起室

17代・飛鳥井雅知(まさとも)
飛鳥井雅章の子 母は正室烏丸光賢の娘
生没・寛永7年(1630)~正保2年(1645)
正五位下左近衛権少将
正室・不詳
子女・養子飛鳥井雅直(18代)

18代・飛鳥井雅直(まさなお)
16代飛鳥井雅章の子 母は正室烏丸光賢の娘
生没・寛永12年(1635)~寛文2年(1662)
従四位上左近衛権中将
正室・福井藩松平忠昌の娘
子女・養子飛鳥井雅豊(19代)
女子→福井藩松平綱昌室

19代・飛鳥井雅豊(まさとよ)
16代飛鳥井雅章の子 母は某氏
生没・寛文4年(1664)~正徳2年(1712)
従二位権中納言
正室・不詳
子女・養子飛鳥井雅香(20代) 女子→雅香室

20代・飛鳥井雅香(まさか)
花山院持実猶子(西園寺致季の子) 
母は興正寺昭超の子園尊の娘
生没・元禄16年(1703)~明和2年(1765)
従一位権大納言
正室・雅豊の娘
子女・21代飛鳥井雅重 飛鳥井良胤

21代・飛鳥井雅重(まさしげ)
雅香の子 母は正室雅豊の娘
生没・享保6年(1721)~安永6年(1777)
従一位権大納言
正室・高槻藩永井直期の娘
継室・尼崎藩松平忠喬の娘
子女・22代飛鳥井雅威 飛鳥井宗章(中御門宗美養子)
重子→恭礼門院(桃園天皇女御、後桃園天皇生母、後に皇太后、一条兼香の娘富子の院号)付き女房 女子→勧修寺経逸室
女子→紀伊田辺藩安藤道紀室

22代・飛鳥井雅威(まさたけ)
飛鳥井雅重の子 母は正室永井直期の娘
生没・宝暦8年(1758)~文化7年(1810)
正二位権大納言
正室・膳所藩本多康伴の養女
子女・23代飛鳥井雅光 飛鳥井実清(河鰭公陳養子)
女子→勧修寺経則室 女子→烏丸資董室
備子→光格天皇典侍

23代・飛鳥井雅光(まさみつ)
飛鳥井雅威の子 母は正室本多康伴の娘
生没・天明2年(1782)~嘉永4年(1851)
従一位権大納言
正室・不詳
子女・24代飛鳥井雅久 女子→高倉永胤室

24代・飛鳥井雅久(まさひさ)
雅光の子 母は某氏
生没・寛政12年(1800)~安政4年(1857)
従一位権大納言
正室・亀山藩松平信志の娘
子女・25代飛鳥井雅典

25代・飛鳥井雅典(まさのり)
雅久の子 母は某氏
生没・文政8年(1825)~明治16年(1883)
正二位権大納言
正室・花山院家厚の娘
子女・飛鳥井雅望 飛鳥井雅之(藤枝家家祖) 飛鳥井基静 飛鳥井恒麿
女子→櫛羅藩永井直哉室
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阿須波神(あすは) []
大年神の系譜
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阿須波神(あすはのかみ) []
阿須波神は大年神の御子神。
古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)。
これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々だと思う。
阿須波神は足盤、足場の神・足下の神。足で踏んで立っているところを守る神とされ、 『万葉集』巻二十・防人の歌にも「庭中の阿須波の神に木柴さし、吾は斎はむ帰り来までに」と詠まれている。
延喜式神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神五座」として、 「生井神(いくゐ)・福井神(さくゐ)・綱長井(つながゐ)神・波比砥(はひき)神・阿須波神」の五神の名を掲げている。
生井(いきいきした井)・福井(栄える井)・綱長井(生命の長い井)の三神は井の神。ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神をさす。 これらを総合して、ヰカシリ(居処領)の神と言った。
「座」は「居処」、「摩」はシリの音転スリの宛字。つまり敷地の神で、注に「大宮地の神の霊」とある通りである。
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「座摩巫祭神五座」のうちの一柱の神
延喜式神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神(いかすりのみかんなぎにまつるかみ)五座」として、 「生井神(いくゐ)・福井神(さくゐ)・綱長井(つながゐ)神・波比砥(はひき)神・阿須波神」の五神の名を掲げている。
平安時代の宮中(平安京大内裏)では、神祇官西院において「御巫(みかんなぎ)」と称される女性神職、具体的には大御巫2人(のち3人)・座摩巫1人・御門巫1人・生島巫1人により重要な神々が奉斎されていた。座摩神はそれらのうち座摩巫(いかすりのみかんなぎ、坐摩巫)によって祀られた神々である。
「いかすり」は「居処領(いかしり)」または「居所知」の転と見られ、総じて宮所守護の神々とされる。生井神・福井神・綱長井神は井戸の神々であるが、井泉をもって宮殿の象徴とする様は『万葉集』の「藤原宮御井歌」にも見える。波比祇神・阿須波神については具体的には明らかでないが、宮中の敷地を守る神々とされる。『古語拾遺』では、これら座摩神を「大宮地の霊(おおみやどころのみたま)」と記している。
座摩神について『延喜式』では祈年祭祝詞・六月月次祭祝詞・神名帳に記述が見えるが、いずれも大御巫8神に次ぐ2番目に位置づけられている。また『延喜式』臨時祭の御巫条・座摩巫条によると、他の御巫は庶民から選んで良かったのに対して、座摩巫だけは都下国造一族の7歳以上の女子から選ぶと規定されている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、宮中神36座のうちに「座摩巫祭神五座 並大 月次新嘗」として、大社に列するとともに月次祭・新嘗祭では幣帛に預る旨が記されている。
座摩神含む神祇官の祭祀は中世には衰退するが、南北朝時代までは古代の形が維持されていた。しかしながら、その後応仁の乱頃までには完全に廃絶したとされる。
宮中諸神では、大御巫の祀る8神の祭祀は神殿(宮中三殿の1つ)に継承されているが、座摩神含む他の諸神もこの神殿の「天神地祇」のうちに含まれると考えられる。
阿須波神は足盤、足場の神・足下の神。足で踏んで立っているところを守る神とされ、 『万葉集』巻二十・防人の歌にも「庭中の阿須波の神に木柴さし、吾は斎はむ帰り来までに」と詠まれている。
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安曇磯良(あずみのいそら) []
安曇磯良
あずみのいそら
別名
磯武良:いそのたける
阿曇磯良:あずみのいそら
阿度部磯良:あとべのいそら
……
海部の祖神として筑前志賀島を中心に、海路の要所に祭られているが、記紀には登場しない神。
磯武良とも呼ばれ、磯(イソ)の武良(タケル)は、 『古事記』に波限(ナギサ)建(タケ)、『日本書紀』に波瀲(ナギサ)武(タケ)とされる 鵜葺草葺不合尊(彦火火出見尊と海神族の子)に対応する。
ともに海神族の長という意味だろう。
磯武良は、神功皇后の軍船を導く海人である。 海を渡る軍船が、海路の要所に海神(磯武良)を祭り、海路の安全と、戦争の勝利を祈願したと考えられている。 また、磯武良が琴崎の海辺で、水底に潜って碇をあげた話や、 志賀の海で、神功皇后に暇を賜った磯武良が、水中に帰って行つたという話があるらしい。
対馬の琴崎大明神の縁起には、海神の姿を「金鱗の蛇」と表現してみる。 仁位の海宮に、磯良明神(磯良恵比須)と呼ばれる(磯良の墓ともいう)岩があるが、それが渚に横たはり、恰も龜甲のやうで、 鱗状の龜裂がある。これは神話の豐玉姫が、蛇体で出産したことに対応する。
対馬・和多都美神社の磯良恵比須
安曇磯良は長く海中に住んでいたため、牡蠣などが顔面に貼りついて、醜い姿であったという。
『太平記』に、神功皇后が三韓征伐に際し、 天神地祇を常陸の鹿島に招いて軍評定を行ったが 阿度部の磯良一人だけ来なかった。 諸神が神遊の庭をもうけ、「風俗・催馬楽」を歌わせたところ、 磯良は感にたえかねて姿を現した。 その容姿は貝類や海藻に包まれた怪物であったため、それを恥じて遅れたのだといい、 竜宮城の干珠・満珠を用いて、神功皇后の遠征の水先案内となった、とある。
安曇磯良は、筑前国では志賀大明神。常陸国では鹿島大明神。大和国では春日大明神とも称され、 志賀島(シカノシマ)を鹿島と考える伝承がある。
袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。
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阿曇磯良(あずみのいそら) []
阿曇磯良:あずみのいそら
 → 安曇磯良:あずみのいそら
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麻生太郎(あそう たろう) [1940.9.20-]
政治家。内閣総理大臣(首相。在任 2008~09)。元衆議院議員麻生太賀吉の長男として生まれた。母方の祖父は吉田茂元首相,妻の父は鈴木善幸元首相,妹は三笠宮寛仁の妻。1963年学習院大学政経学部を卒業,1973年家業の麻生セメントの代表取締役社長に就任,1978年日本青年会議所会頭の座についた。この間の 1976年,モントリオール・オリンピック競技大会の射撃(クレー射撃。スキート)に日本代表選手として出場。1979年衆議院議員に初当選し,1996年橋本龍太郎内閣で経済企画庁長官として初入閣した。その後,経済財政政策担当大臣,自由民主党政務調査会長,総務大臣,外務大臣を歴任,2007年安倍政権下で自民党幹事長となり,翌 2008年に福田政権下で再び幹事長を務めた。同年 9月,突然辞意を表明した福田康夫首相の後継者争いで圧勝し,第92代,59人目の首相に就任した。2001年に自民党総裁選挙に初立候補して小泉純一郎に敗れて以来,4度目の挑戦で総裁・首相の座を手にした。2009年8月の衆議院選挙で自民党が惨敗,野党に転落して総裁・首相職を辞した。
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阿蘇都彦(あそつひこ) []
阿蘇都彦:あそつひこ
 → 健磐龍命:たけいわたつのみこと
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阿蘇津彦命(あそつひこのみこと) []
阿蘇津彦命:あそつひこのみこと
 → 健磐龍命:たけいわたつのみこと
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阿蘇津姫命(あそつひめのみこと) []
阿蘇津姫命:あそつひめのみこと
 → 健磐龍命:たけいわたつのみこと
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阿蘇神(あそのかみ) []
阿蘇神:あそのかみ
 → 健磐龍命:たけいわたつのみこと
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阿多盛淳(あた もりあつ) [????~1600]
薩摩・島津氏家臣。関ヶ原の戦いにおいて、敗れた西軍についた島津軍が退却する際、大将島津義弘を逃がす為義弘を名乗って、追いすがる東軍井伊、藤堂、朽木勢と戦い討ち死にした。
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吾田片隅命(あたかたすみのみこと) []
吾田片隅命
あたかたすみのみこと
別名
阿多賀田須命:あたかたすみのみこと
……
素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神。大国主神の六世の孫裔ともいう
素盞鳴尊の御子・宗像三女神の七代孫とする説もあり、 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあり、宗形朝臣の祖。大神朝臣の祖。
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阿多賀田須命(あたかたすみのみこと) []
阿多賀田須命:あたかたすみのみこと
 → 吾田片隅命:あたかたすみのみこと
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安宅清康(あたぎ きよやす) [????~1581]
阿波・三好氏一族。1578年兄信康の死により家督を継ぐ。安芸・毛利氏に和する動きを見せたことから、織田信長の攻撃を受け、1581年信長臣羽柴秀吉の攻撃を受けて開城降伏。信長を安土に訪れ、帰国後病死した。
日本編集
安宅信康(あたぎ のぶやす) [1549~1578]
三好三人衆、石山本願寺と結び、織田信長と戦うが、1575年敗れて帰順。その後、織田氏の水軍の将となり、1577年安芸・毛利氏の水軍と戦う(第1次木津川口の合戦)。
日本編集
安宅冬康(あたぎ ふゆやす) [1528~1568]
元は紀伊・安宅荘に興った淡路水軍安宅氏一族。阿波・三好氏一族とも、安宅氏から三好氏に入嗣後に復姓したとも言われ、定かでない。安宅水軍を統括して淡路海域の制海権を抑えると共に、和泉・岸和田城にも進出して、陸海戦共に兄三好長慶の畿内制圧を助けた。だが、重臣松永久秀の讒言により、長慶から謀反を疑われ、河内・飯盛城に誘殺された。和歌を嗜み、書を能した教養人でもあった。
日本編集
阿田都久志尼命(あたつくしねのみこと) []
阿田都久志尼命:あたつくしねのみこと
 → 櫛御方命:くしみかたのみこと
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新彦明神(あたらひこみょうじん) []
新彦明神:あたらひこみょうじん
 → 健磐龍命:たけいわたつのみこと
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新比咩明神(あたらひめみょうじん) []
新比咩明神:あたらひめみょうじん
 → 健磐龍命:たけいわたつのみこと
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阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこね) []
葦原中国平定
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阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ) []
友人である天若日子の喪を弔いに出向いた際、阿遅志貴高日子根の容貌が天若日子と酷似しており、天若日子の親族から天若日子と間違われたため怒って喪屋を破壊し、飛び去った。
アヂは可美(ウマシ)の意の美称、スキは鉏、タカヒコネは敬称、農具を神格化した名という。一方、アヂを味鴨、スキを村の意の朝鮮語と見る説、アヂを多数の意、スキを刃の意味と見る説もある。シキの場合は石木、石城、或いは大和国の地名とも。シキとスキの関係にも、音の交替説、またキの甲乙違いで別語とする説があり、名義ともに一定しない。神格としては、農耕神・水神・蛇神・雷神・剣神など諸説ある。出雲系の神とされるが、記に「迦毛大御神」、出雲風・意宇郡に「坐葛城賀茂社」、祝・出雲国造神賀詞に「葛木乃鴨乃神奈備尓坐」、神名式・大和国葛上郡に「高鴨阿治須岐託彦根神社四座」とあり、この神の本縁は大和国葛城地方、鴨氏の祭神と思われる。「大御神」は、記では他に「天照大御神」、「伊耶那岐大御神」、「伊勢大御神宮」に用いられるのみであり、記の神への敬称・尊称としては最高のものであり、この敬称をこの神が持つことは、この神とこの神を祭った氏族との、ある時期における勢力の強大さを物語っているとする説、出雲風・意宇郡に神戸が賀茂の阿遅須枳高日子命のために設置されているとしており、大和王権において極めて重要な神であったことと呼応しているという説が存在する。
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阿泥素企多伽避顧禰(あぢすきたかひこね) []
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阿遅高日子根神(あぢすきたかひこね) []
大国主の系譜
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阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ) []
古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される。別名、迦毛大御神(かものおおみかみ)。
『出雲国風土記』に登場する阿遅須枳高日子(あじすきたかひこ)を同神とする説もあるが、両神の伝承の内容を見ると、まったく違うので私は別々に挙げておく。
大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。
農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)、鴨神社(岡山県玉野市長尾)などに祀られている。
別名は賀茂社の神の意味である。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祭っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もある。
古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけである。
神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」はを磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある。アメノワカヒコとそっくりであったとの記述から、元々アメノワカヒコと同一の神で、穀物が秋に枯れて春に再生する、または太陽が冬に力が弱まり春に復活する様子を表したものであるとする説もある。
古事記』では、葦原中国平定において登場する。
天照大御神から葦原中国平定を二番目に命じられた天若日子が、大国主神の娘下照比賣と結婚してしまい復命しない。そして高木神の返し矢で天若日子は死んでしまう。
それに続く話である。
(現代語訳) さて天若日子の妻の下照比賣の泣く声が、風の吹くにつれて響いて天上に届いた。そこで天上にいる天若日子の父の天津国玉神神や、その妻子がこれを聞いて、降って来て泣き悲しみ、やがてそこに喪屋を作り、川雁を食物を運ぶ係とし、鷺を掃除係の箒持とし、翡翠を御饌の係とし、雀を米つき女とし、雉を泣き女とし、このように葬儀の役目を決定して、八日八夜の間歌舞して死者を弔った。
そのとき、阿遅志貴高日子根神がやって来て、天若日子の喪を弔問するとき、天上から降って来た天若日子の父、またその妻がみな泣いて、「わが子は死なずに生きていたのだ。わが夫は死なずに生きておられたのだ」と言って、手足に取りすがって泣き悲しんだ。
このように阿遅志貴高日子根神を、天若日子と間違えたわけは、この二柱の神の顔や姿がたいへんよく似ていたから、それで間違えたのである。そこで阿遅志貴高日子根神はひどく怒って言うには、「わたしは親しい友だちだから、弔問にやって釆たのだ。なんだってわたしを汚らわしい死人に見立てるのか」と言って、身につけておられた十拳剣を抜いて、その喪屋を切り倒し、足で蹴飛ばしてしまった。これが美濃国の藍見河の川上にある喪山という山である。そのとき手にして喪屋を切った大刀の名は大量(おおはかり)といい、またの名は神度剣(かむどのつるぎ)という。そして、阿遅志貴高日子根神が怒って飛び去ったとき、その同母妹の高比売命は、兄神の御名を明かそうと思った。そして歌った歌は、天上にいるうら若い機織女が、頸にかけている緒に貫き通した玉、その緒に通した穴玉の輝かしさよ、そのように谷二つを越えて輝きわたる神は、阿遅志貴高日子根神である。
歌った。この歌は夷振(ひなぶり)の歌曲の歌である。
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敦明親王(あつあきらしんのう) [994-1051]
平安時代中期。
正暦(しょうりゃく)5年5月9日生まれ。長和5年後一条天皇の皇太子にたてられたが,藤原道長の圧迫をうけ,翌年その地位を辞した。一品(いっぽん)。太上天皇に准じられ小一条院の院号をうける。道長の娘を妃とし,長久2年出家した。「金葉和歌集」などに和歌がある。永承6年1月8日死去。58歳。
日本編集
敦固親王(あつかたしんのう) [?-926]
平安時代前期-中期。
寛平(かんぴょう)3年(891)親王となる。管弦に長じ,とくに琵琶(びわ)を得意とした。延長4年12月28日死去。
日本編集
敦子女王(あつこ) [1907/ 5/18~1936/ 2/24 28.9歳没]
    知子と双子
    1907/ 5/18 誕生
    1926/10/27 結婚(19.5歳)
    1936/ 2/24 死去(28.9歳)
日本編集
阿閉貞大(あつじ さだひろ) [????~1582]
もと浅井氏の臣。
1573年8月信長江北攻めで、退却する朝倉を攻める先手を命じられたのに、信長に遅れをとってしまい、厳しく叱責される。
1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。
1578年8月信長主催の安土の相撲に奉行として参加。永田正貞・阿閉貞大の強力を聞き及んでいた信長は二人の相撲を所望。まず堀秀政・蒲生賦秀・万見重元・布施公保・後藤高治と対戦した後二人で対戦し、永田の勝ちとなる。
1581年9月北畠信雄の伊賀攻めに甲賀口先手として参戦。
1582年の本能寺の変後明智光秀に与力し、長浜城を攻撃。光秀の死後居城の山本山城を宮部継潤・中村一氏に包囲され、捕らえられ殺される。
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阿閉貞征(あつじ さだゆき) [????~1582]
阿閉氏は京極氏被官であったが、北近江の実力者浅井氏に台頭を見てこれに臣従する。貞征は姉川の合戦では第3陣として戦っている。しかし浅井氏は敗れ、落目となっていく中、尾張・織田氏家臣木下秀吉の諜略を受けこれに寝返った。浅井氏滅亡後は織田氏家臣明智光秀の部将となり、山崎の合戦では先鋒の一手を担ったが敗戦、一族共に殺された。
日本編集
熱田大明神(あつただいみょうじん) []
熱田大神
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熱田大神(あつたのおおかみ) []
三種の神器の1つ草薙剣の神霊、剣神、戦神。
熱田大神は、三種の神器のひとつである草薙剣を祀る熱田神宮の祭神である。 草薙剣についてはその項を参照していただくとする。しかし神話研究では、本来三種の神器の宝剣と熱田の御神体とは別々のもので、あとから日本武尊の伝承が付け加えられて混同されるようになったとも考えられている。
草薙剣が熱田大神として祀られるようになった経緯は、「古事記」に次のように記されている。 日本武尊は父、景行天皇の命を受けて東国討伐に出かけることになり、その前に伊勢神宮に参拝した。そこで斎王となっていた叔母の倭姫(ヤマトヒメ)から授かったのが草薙剣だった。やがて無事東国を平定して尾張国まで戻ってきた日本武尊は、そこで尾張国造の娘、宮簀姫(ミヤズヒメ)と結婚した。その後、姫に大事な護身の剣を預けて伊吹山の邪神を退治に出かけるが、逆に邪神の毒気に当たって病気になり、無念の死を迎えてしまった。それを悲しんだ宮簀姫は、尾張一族の祭場だった熱田の地に社を建て神剣を祀ったという。
さて、このことに関して、「尾張国風土記」逸文には、次のように記されている。 日本武尊が宮簀姫と結婚し、その館に泊まった夜、草薙剣が不思議な輝きを放っているのを見る。それで剣の神気を感じた尊は、姫に対して「この剣を大切に祀って私の御影としなさい。」と言った。その言葉に従って、姫は尊の亡き後社を建ててこの剣を祀ったのだという。
この逸文の中心的なテーマは日の御子と熱田神宮を代々奉祀した尾張氏の祖である宮簀姫との神婚だ。神婚というのは、神とそれに奉仕する巫女との結婚であるから、宮簀姫というのは尾張一族が奉斎した太陽神に仕える巫女だったと考えられる。ということは、熱田の地でもともと祀られていたのは、伊勢と並ぶ有力な太陽神だったのである。
また、この太陽神と草薙剣については、尾張国と皇室との結びつきを表すともいえる。皇室の支配を象徴する草薙剣と尾張の太陽神の結合、神格化は、尾張の有力な地方神が大和朝廷を支える重要な神となったことを指す。以来、皇室に重く崇敬されることになり、熱田大神は伊勢神宮に次ぐ由緒を持つことに至ったのである。熱田大神が草薙剣を御霊代とする天照大神であるという説があるのも、この神が持つ太陽神としての性格の故である。
太陽神というのは、本来農業の神であるわけだが、剣の神というのは戦神である。熱田大神はその両方の性格を兼ね備えているわけだが、今日、一般に信仰されている神様としての機能は、戦神日本武尊の性格を反映した部分だけのようである。
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敦儀親王(あつのりしんのう) [997-1054]
平安時代中期
長徳3年5月19日生まれ。寛弘(かんこう)8年親王となる。三品に叙せられ,中務卿,式部卿をつとめ,長元3年出家した。天喜(てんぎ)2年7月11日死去。58歳。法名は悟覚。号は南泉房。
日本編集
敦平親王(あつひらしんのう) [999-1049]
平安時代中期。
長保元年生まれ。寛弘(かんこう)8年親王となり,大宰帥(だざいのそち),式部卿をつとめる。子に伊勢斎宮の敬子(けいし)女王,養子に敦輔(あつすけ)王がいる。永承4年3月18日死去。51歳。
日本編集
敦実親王(あつみしんのう) [893-967]
[893~967]宇多源氏の祖。和歌・音楽などの諸芸に通じた。
日本編集
敦道親王(あつみちしんのう) [981-1007]
平安時代中期。
天元4年生まれ。大宰帥(だざいのそち)となり,帥宮(そちのみや)とよばれた。容姿端麗で和歌にすぐれ,恋仲であった和泉式部(いずみしきぶ)との贈答歌が「和泉式部日記」におさめられている。寛弘(かんこう)4年10月2日死去。27歳。
日本編集
敦康親王(あつやすしんのう) [999-1018]
平安時代中期。
長保元年11月7日生まれ。長保2年親王となる。大宰帥(だざいのそち),式部卿。一品(いっぽん)。寛仁(かんにん)2年12月17日死去。20歳。
日本編集
敦慶親王(あつよししんのう) [887-930]
平安時代前期-中期。
仁和(にんな)3年12月生まれ。中務卿(なかつかさきょう),式部卿などを歴任。容姿端麗で玉光宮と称され,和歌,琴,弓などにもすぐれていた。歌は「後撰和歌集」にある。延長8年2月28日死去。44歳。
日本編集
小豆島(あづきしま) []
「国生み」から生まれた国、六島
淡路島の西にある小豆島
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小豆嶋(あづきしま) []
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阿度部磯良(あとべのいそら) []
阿度部磯良:あとべのいそら
 → 安曇磯良:あずみのいそら
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安並和泉守(あなみ いずみのかみ) [????~????]
土佐・一条氏家老。遊興に耽る当主兼定を他の家臣と共に豊後へ追放するが、その後専横な振る舞いが目立ち、これに反発した国人衆の攻撃をうけて奮戦するも討たれた。
日本編集
穴山信君(あなやま のぶきみ) [1541~1582]
(1541-1582)信友の子。江尻城主。梅雪と号す。武田信玄、勝頼につかえた。親類衆筆頭。勝頼の代に、徳川家康に降伏。後、本能寺の変に際し、堺からの帰路、伊賀越えの途中で土民に殺された。
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甲斐・武田氏親族衆筆頭。風雅を解し、又、内政に優れ民心を得ていたという。武田氏滅亡の際、家名存続の為、徳川家康に通じて本領安堵を得た。織田信長に謁見の為上京中、堺において本能寺の変を知り、引き返す途上の山城・宇治田原にて土民に殺される。42歳。徳川家康と一緒に堺にいたのに、なぜか一緒に逃げませんでした。一緒に逃げてればねぇ…。
日本編集
穴山信友(あなやま のぶとも) [?~1560]
正室は武田信虎の娘。信濃諏訪氏との戦いに活躍。
日本編集
淡道之穗之狹別島(あはぢのほのさわけのしま) []
「国生み」から最初に生まれた国、淡路島のことです。
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秋月家(高鍋藩)(あはづき) []
秋月家  高鍋藩  七宝に花角  2万7000石
日向児湯郡高鍋(宮崎県児湯郡高鍋町)
                       外様 城主
移封加減増履歴・日向高鍋3万石・元禄2年→2万7000石
専売品&専売開始年・楮/紙(天保7年) 蝋(天保10年)

江戸城詰席・柳之間 子爵    
上屋敷・麻布百姓町(安永・文久)→鍛冶橋内(明治)
人口・城下町人1355人、家数307軒
                      明治2年現在
 

藩祖・種長(たねなが)
秋月種実の長男 母は田原親広の娘
生没・永禄10年(1567)~慶長19年(1614)
父種実は筑前筑後豊前に36万石を領有していたが、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐の際に降伏して日向財部(高鍋)3万石に減封される
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍に属すも、形勢不利を知ると東軍に内応して本領を安堵される
従五位下長門守
正室・彦山の僧都舜有の娘
子女・養子種貞(長野鑑長の子、病により養嫡子を廃す、子に2代種春) 女子→種貞室 
女子→平松時庸室 養子種春(2代)

2代・種春(たねはる)
種貞長男 母は種長の娘
生没・慶長15年(1610)~万治2年(1659)
家督・慶長19年(1614)相続
従五位下長門守
正室・佐久間勝之の娘(勝之は信濃長沼藩主、子孫は将軍綱吉の勘気をこうむり除封)
子女・女子→六条有綱室、後に離縁 3代種信

3代・種信(たねのぶ)
種春長男 母は正室佐久間勝之の娘
生没・寛永8年(1631)~元禄12年(1699)
家督・万治2年(1659)相続
従五位下佐渡守
元禄2年(1689)隠居
正室・平戸藩松浦隆信の娘
子女・4代種政 女子→岡部藩安部信峯室
種封(別家旗本) 女子→平戸藩松浦鎮信養女
女子→狭山藩北条氏朝室

4代・種政(たねまさ)
種信次男 母は正室松浦隆信の娘 
生没・万治元年(1658)~享保元年(1716)
家督・元禄2年(1689)相続、3000石を弟種封に分与する
従五位下長門守
宝永7年(1710)隠居
正室・平戸藩松浦棟の娘
子女・5代種弘 女子→竜野藩脇坂安清室

5代・種弘(たねひろ)
種政長男 母は正室松浦棟の娘
生没・貞享4年(1687)~宝暦3年(1753)
家督・宝永7年(1710)相続
従五位下長門守
享保19年(1734)隠居
正室・岡藩中川久通の娘
子女・女子→人吉藩相良長在室 6代種美

6代・種美(たねみ)
種弘長男 母は某氏
生没・正徳5年(1715)~天明7年(1787)
家督・享保19年(1734)相続
従五位下長門守
宝暦10年(1760)隠居
正室・秋月藩黒田長貞の娘
子女・7代種茂 治憲(米沢藩上杉重定養子)
頼定(人吉藩相良頼央養子)

7代・種茂(たねしげ)
種美長男 母は正室黒田長貞の娘
生没・寛保3年(1743)~文政2年(1819)
家督・宝暦10年(1760)相続
従五位下佐渡守
天明8年(1788)隠居
正室・川越藩松平明矩の娘
子女・8代種徳 長舒(秋月藩黒田長堅養子)

8代・種徳(たねのり)
種茂長男 母は正室松平明矩の娘
生没・宝暦13年(1763)~文化4年(1807)
家督・天明8年(1788)相続
従五位下山城守
正室・津和野藩亀井矩貞の娘
継室・信濃松本藩戸田光和の娘
子女・9代種任 女子→小松藩一柳頼親室

9代・種任(たねただ)
種徳次男 母は某氏
生没・寛政3年(1791)~安政3年(1856)
家督・文化5年(1808)相続
従五位下筑前守
天保14年(1843)隠居
正室・鳥取藩池田治道の娘
継室・竜野藩脇坂安董の娘
子女・10代種殷 種樹 
女子→小野藩一柳末延室
女子→小松藩一柳頼紹室
女子→黒羽藩大関増儀室

10代・種殷(たねとみ)
種任の子 母は某氏
生没・文化14年(1817)~明治7年(1874)
家督・天保14年(1843)相続
従五位下長門守
正室・秋月藩黒田長韶の娘
継室・米沢藩上杉斉定の娘
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吾平津姫命(あひらつひめのみこと) []
吾平津姫命:あひらつひめのみこと
 → 阿比良比売命:あひらひめのみこと
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阿比良比売命(あひらひめのみこと) []
阿比良比売命
あひらひめのみこと
別名
吾平津姫命:あひらつひめのみこと
……
阿多の小椅の君の妹。神武天皇が日向にいた頃の妃。多芸志美美命(手研耳命)と岐須美美命(『日本書紀』には登場しない)を生んだ。
阿比良は、大隅国の郡名。
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阿毘古(あびこ) [????~????]
中臣連始祖とする説あり。
中臣阿毘古(ナカトミノアビコ)
父・中臣阿麻毘舎卿の子

中臣連始祖。連
大伴、物部、忌部とともに古代における最も有力な氏族にして五伴緒の一つ。
中臣は氏族の掌握した神事祭祀に興ることより神と人との間に立つを意味するという。

子・
中臣阿毘古の子・・・中臣真人
???~???

阿毘古
①父:阿麻毘舎 母:不明
②子供:真人
③中臣連始祖とする説あり。

大小橋命━━━中臣阿麻毘舎卿━━━中臣阿毘古━━━中臣真人━━━中臣鎌

伊達家
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アブル・ワファ(あぶるわふぁ) [940~997/998]
ペルシア系のイスラム教徒で、バグダードの天文台で活躍した偉大な天文学者、数学者。ギリシアの科学書をアラビア語に翻訳し注釈した最後の一人で、ユークリッド、ディオファントス、フワーリズミーの著作を注釈した。『アルマゲスト』Almagestの翻訳とみられる『完全な書』Kitāb al-kāmiilを書いた。とくに三角法の分野でいくつかの注目すべき改良を行った。
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阿部家(あべ) []
阿部家 佐貫藩 丸に鷹の羽違 1万6000石
上総天羽那佐貫(千葉県富津市)   譜代 城主

移封加減増履歴・寛文11年→上総大多喜1万6000石・元禄15年→三河刈谷・宝永7年→上総佐貫
江戸城詰席・雁之間 子爵    上屋敷・外桜田
参勤・参府8月、帰国2月
人口・士族401人、家数91軒。卒族111人、家数29軒。平民1万6908人、家数3314軒
                      明治2年現在

藩祖・正春(まさはる)
福山藩阿部重次の次男 母は伊予松山藩松平定勝の娘
生没・寛永14年(1637)~享保元年(1716)
慶安4年(1651)父の遺領から上総大多喜1万6000石を分与される
万治2年(1659)兄定高の死没により、本家4代藩主となる
寛文11年(1671)兄の子正邦の成長により、本家家督を譲り、旧領に復す
従五位下伊予守
宝永6年(1709)隠居
正室・烏丸資慶の娘
継室・勘解由小路資忠の娘
子女・女子→飯野藩保科正賢室 
2代正鎮 正長(別家・旗本)

2代・正鎮(まさたね)
正春六男 母は正室烏丸資慶の娘
生没・元禄12年(1699)~宝暦元年(1751)
家督・宝永6年(1709)相続
従五位下因幡守
正室・岩村藩松平乗紀の娘
子女・養子正興(3代) 女子→正興室
正賀(正興養子、4代)

3代・正興(まさおき)
福山藩阿部正福の四男 母は福地氏
生没・享保18年(1733)~明和元年(1764)
家督・宝暦元年(1751)相続 
従五位下因幡守
正室・正鎮の娘
継室・烏山藩大久保忠胤の娘
子女・養子正賀(4代) 女子→旗本阿部正保室

4代・正賀(まさよし)
2代正鎮の四男 母は某氏
生没・延享3年(1746)~安永9年(1780)
家督・明和元年(1764)相続
従五位下駿河守
正室・豊後府内藩松平近貞の娘
継室・村上藩内藤信興の娘
子女・養子正実(5代) 
養女(旗本阿部正保の娘)→5代正実と婚約するも、芝村藩織田長宇室

5代・正実(まさざね)
白河藩阿部正允の五男 母は某氏  
生没・明和元年(1764)~天保2年(1831)
家督・安永9年(1780)相続
従五位下兵部少輔
寛政4年(1792)隠居
正室・なし
子女・養子正簡(6代)

6代・正簡(まさひろ)
旗本阿部正保の長男 母は某氏
生没・安永元年(1772)~文政8年(1825)
家督・寛政4年(1792)相続
従五位下駿河守
正室・旗本石谷清定の娘
継室・信濃松本藩戸田光悌の娘
子女・7代正暠 女子→与板藩井伊直暉室

7代・正暠(まさあきら)
正簡長男 母は某氏 
生没・文化3年(1806)~嘉永6年(1853)
家督・文政8年(1825)相続
従五位下因幡守
天保7年(1836)隠居
正室・岡崎藩本多忠顕の娘
子女・養子正身(8代) 女子→正身と婚約

8代・正身(まさちか)
津和野藩亀井茲尚の次男 母は某氏
生没・文政元年(1818)~明治元年(1868)
家督・天保7年(1836)相続
従五位下駿河守
安政元年(1854)隠居
正室・なし
子女・9代正恒

9代・正恒(まさつね)
正身長男 母は某氏 
生没・天保10年(1825)~明治32年(1899)
家督・安政元年(1842)相続
従五位下駿河守
明治14年(1881)隠居
正室・福江藩五島盛成の娘
子女・10代正敬(正室は篠山藩青山忠敏の娘)
女子→福江藩五島盛主室 
女子→松代藩真田幸教の子幸世室
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阿部家(あべ) []
阿部家(白河藩)
阿部家(佐貫藩)
阿部家(福山藩)
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阿部家(白河藩)(あべ) []
阿部家 白河藩 丸ニ鷹ノ羽違い   10万石
陸奥白河郡白河(福島県白河市)   譜代 城主
正保城絵図・白河城
移封加減増履歴・寛永3年→1万石・寛永12年→下野壬生2万5000石・寛永16年→武蔵忍5万石・正保4年→6万石・寛文3年→8万石・寛文11年→9万石・延宝5年→8万石・貞享3年→9万石・元禄7年→10万石・文政6年→陸奥白河・慶応2年→陸奥棚倉
江戸城詰席・雁之間 子爵 上屋敷・山下御門内
参勤・参府は5月で丑卯巳未酉亥の年、帰国も5月で子寅辰午申戌の年
人口・全領地総計8万8263人、城下町家中屋敷数1237軒、町屋敷数960軒    元禄4年現在
■福山藩阿部家の分家である。阿部正次の弟忠吉は家康・秀忠に仕え5000石を知行。その子忠秋は幼少より家光に近侍して老中へ進む。寛永3年1万石を与えられ大名に列した。
慶応2年陸奥棚倉に移封される。奥羽列藩同盟に参加して除封されるも、明治元年17代当主正功に棚倉6万石が与えられる。

藩祖・忠秋(ただあき)
福山藩阿部正次の弟忠吉の次男 
母は松平(長沢)康高の娘
生没・慶長7年(1602)~延宝3年(1675)
寛永12年(1635)老中に進む
寛文6年(1666)老中を免職
寛文11年(1671)隠居
従四位下侍従兼豊後守
正室・臼杵藩稲葉道通の娘
継室・松本藩戸田康長の娘
子女・養子正能(2代) 
養女(福山藩阿部政澄の娘)→丸岡藩有馬康純室

2代・正能(まさよし)
福山藩阿部正次の子正澄の長男
母は加藤清正の娘
生没・寛永4年(1627)~貞享2年(1685)
承応元年(1652)養子となる
家督・寛文11年(1671)相続
延宝元年(1673)老中に進む
延宝4年(1676)老中を辞任
従四位下侍従兼播磨守
延宝5年隠居
正室・田辺(舞鶴)藩牧野信成の娘
子女・3代正武 女子→棚倉藩松平康官室

3代・正武(まさたけ)
2代正能の長男 母は正室牧野信成の娘
生没・慶安2年(1649)~宝永元年(1704)
家督・延宝5年(1677)相続
天和元年(1681)老中に進む
従四位下侍従兼豊後守
正室・彦根藩井伊直澄の養女
子女・4代正喬 女子→会津藩松平正容室 
女子→松本藩戸田光熙室 正晴(別家旗本)

4代・正喬(まさたか)
3代正武の長男 母は彦根藩井伊直澄の養女
生没・寛文12年(1672)~寛延3年(1750)
家督・宝永元年(1704)相続
正徳元年(1711)老中に進む
享保2年(1717)老中を免職 
従四位下侍従兼豊後守
寛延元年(1748)隠居
正室・彦根藩井伊直該の娘
子女・女子→中津藩奥平昌成室 正秋(廃嫡)
正直(病没) 養女(2代正能の子正房の娘)→鯖江藩間部詮言室 養子正允(5代) 
養女(3代正武の三男正晴娘)→与板藩井伊直存室 正敏(5代正允養子、6代)

5代・正允(まさちか)
3代正武の三男正晴の長男 母は遠山氏
生没・享保元年(1716)~安永9年(1780)
享保18年(1733)養子となる
家督・寛延元年(1748)相続
安永8年(1779)老中に進む
従四位下侍従兼豊後守
正室・彦根藩井伊直定の養女
子女・養子正敏(6代) 
女子→松本藩戸田光徳室 
女子→会津藩松平容頌室 
女子→中津藩奥平昌鹿室 
正実(佐貫藩阿部正賀養子)

6代・正敏(まさとし) 
4代正喬の六男 母は草本氏
生没・享保15年(1730)~天明7年(1787)
寛保2年(1742)養子となる
家督・安永9年(1780)相続
従四位下能登守
正室・山形藩水野忠辰の養女
子女・女子→松本藩戸田光悌室
女子→三日月藩森俊詔室
女子→岩村田藩内藤正興室 7代正識

7代・正識(まさつね)
6代正敏の次男 母は河合氏
生没・明和元年(1764)~享和3年(1803)
家督・天明7年(1787)相続
従五位下豊後守
寛政8年(1796)隠居
正室・なし(福山藩阿部正倫の娘と婚約)
子女・養子正由(8代) 
養女(6代正敏娘)→8代正由室

8代・正由(まさより)
紀伊藩徳川宗将の11男 母は村上氏
生没・明和6年(1769)~文化5年(1808)
寛政5年(1793)養子となる
家督・寛政8年相続
従四位下侍従兼播磨守
正室・6代正敏の娘
子女・養女(6代正敏の娘)→津和野藩亀井茲尚室 9代正権

9代・正権(まさのり)
8代正由の次男 母は某氏
生没・文化3年(1806)~文政6年(1823)
家督・文化5年(1808)相続
正室・なし
子女・養子正篤(10代)

10代・正篤(まさあつ)
紀伊藩徳川宗将の五男松平頼興の子 母は某氏
生没・文化4年(1807)~天保14年(1843)
家督・文政6年(1823)相続
天保2年(1831)隠居
従五位下飛騨守
正室・薩摩藩島津斉宣の娘
子女・養子正瞭(11代)

11代・正瞭(まさあきら)
吉田藩松平信明の七男 母は某氏 
生没・文化10年(1813)~天保9年(1838)
家督・天保2年(1831)相続
従五位下能登守
正室・棚倉藩松平康任の養女 
子女・養子正備(12代)

12代・正備(まさかた)
大村藩大村純昌の五男 母は某氏
生没・文政6年(1823)~明治7年(1874)
家督・天保9年(1838)相続
嘉永元年(1848)隠居
従五位下能登守
正室・高遠藩内藤頼寧の娘
子女・養子正定(13代)
女子→西条藩松平頼英室
女子→多度津藩京極高典室→小田原藩大久保忠礼室 女子→湯長谷藩内藤政養室
女子→菰野藩土方雄志室

13代・正定(まささだ)
分家・旗本阿部正蔵の長男 母は某氏
生没・文政6年(1823)~嘉永元年(1848)
家督・嘉永元年(1848)相続
正室・旗本花房職恕の娘
子女・養子正耆(14代)  

14代・正耆(まさひさ) 
福山藩阿部正粹の次男 母は某氏
生没・文政12年(1829)~元治元年(1864)
家督・嘉永元年(1848)相続
従四位下侍従兼播磨守
正室・福山藩阿部正寧の娘
子女・養子正外(15代) 正功(16代正静養子)

15代・正外(まさとう)
分家・旗本阿部正蔵の三男 母は某氏
生没・文政11年(1828)~明治20年(1887)
家督・元治元年(1864)相続
元治元年(1864)老中となるも、兵庫開港を主張して慶応元年(1865)免職
慶応2年(1866)隠居謹慎
従四位下侍従兼豊後守
正室・旗本長谷川政直の娘
子女・16代正静

16代・正静(まさきよ)
15代正外の長男 母は某氏
生没・嘉永2年(1849)~明治11年(1878)
家督・慶応2年(1866)相続
従五位下美作守
正室・須田津次郎の娘
子女・養子正功(14代正耆の次男、17代)
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阿部家(福山藩)(あべ) []
阿部家 福山藩 丸に鷹の羽違い   11万石
備後深津郡福山(広島県福山市) 譜代 城主
移封加減増履歴・武蔵鳩谷1万石・慶長15年→1万5000石・元和2年→2万2000石・元和3年→上総大多喜3万石・元和5年→相模小田原5万石・元和9年→武蔵岩槻5万6000石・寛永3年→8万6000石・慶安元年→9万9000石・万治2年→11万5000石・寛文11年→9万9000石・天和元年→丹後宮津・元禄10年→下野宇都宮 10万石・宝永7年→備後福山・嘉永5年→11万石
専売品&専売開始年・綿(寛文7年) 畳表(宝暦3年) 

江戸城詰席・帝鑑之間 伯爵
上屋敷・小川町(安永)→昌平橋内(文久)→辰之口南角(明治)
参勤・参府は6月で丑卯巳未酉亥の年、帰国も6月で子寅辰午申戌の年、累代幕府の要職に就くため定府の場合が多かった
人口・全領地16万6625人、家数1万7508軒(国元の家中は含む)   元禄10年~11年調べ
三河松平氏に仕え、正次の時に大名に列する。

藩祖・正次(まさつぐ)
阿部正次の長男 母は江原定次の娘
生没・永禄12年(1569)~正保4年(1647)
家督・慶長5年(1600)武蔵鳩谷5000石の遺領を相続、後に5000石が加増され大名に列する
従四位下備中守
正室・佐原義成の娘
子女・政澄(病没) 2代重次 
女子→村上藩内藤信照室
女子→成瀬之成室(之成は犬山藩成瀬正成の次男、下総栗原藩主だったが後に無嗣除封)
盛次(別家旗本)

2代・重次(しげつぐ)
正次次男 母は正室佐原義成の娘
生没・慶長3年(1598)~慶安4年(1651)
寛永10年(1633)六人衆(若年寄)に進み、寛永12年1万石を加増され、合わせて1万3000石となり大名に列する
寛永15年(1638)父の領地から4万6000石が分与され、合計5万9000石を領有、岩槻藩主になると共に、老中に任じられる
正保4年(1647)1万石の加増、慶安元年(1648)父の遺領3万石を相続し9万9000石となる
慶安4年(1651)将軍家光に殉死する
従四位下対馬守
正室・三浦重成の娘(重成は佐原義成の子、下総佐倉に1万余石を領有)
継室・伊予松山藩松平定勝の娘
子女・3代定高 
女子→伊予松山藩松平定行養女
正春(3代定高養子、4代藩主となるも、後に別家佐貫藩藩祖) 女子→豊後府内藩松平近陳室

3代・定高(さだたか)
重次長男 母は継室松平定勝の娘
生没・寛永12年(1635)~万治2年(1659)
家督・慶安4年(1651)相続
従五位下備中守
正室・伊予松山藩松平定頼の娘
子女・養子正春(4代) 正邦(正春養子、5代) 

4代・正春(まさはる)
2代重次の次男 母は正室松平定勝の娘
生没・寛永14年(1637)~享保元年(1716)
家督・万治2年(1659)兄定高の子正邦が幼少のため相続
寛文11年(1671)正邦が成人したため家督を譲り、別家上総佐貫藩藩祖となる
従五位下伊予守
子女・養子正邦(5代)
5代・正邦(まさくに)
3代定高の次男 母は某氏
生没・万治元年(1658)~正徳5年(1715)
家督・寛文11年(1671)相続
従五位下備中守
正室・土佐藩山内豊昌の娘
継室・春日氏
子女・女子→高田藩榊原政倫と婚約するも病没
女子→古河藩土井利実室
女子→二本松藩丹羽秀延室
女子→与板藩井伊直矩室 6代正福
女子→本荘藩六郷政長室

6代・正福(まさよし)
正邦四男 母は中村氏
生没・元禄13年(1700)~明和6年(1769)
家督・正徳5年(1715)相続
従五位下伊勢守
寛延元年(1748)隠居
正室・伊予松山藩松平定直の娘
継室・薩摩藩島津吉貴の養女(壬生藩鳥居忠英の娘)
子女・7代正右 正興(佐貫藩阿部正鎮養子)
女子→本荘藩六郷政林室
女子→高島藩諏訪忠厚室、後に黒川藩柳沢信有室
7代・正右(まさすけ)
正福次男 母は継室島津吉貴の養女 
生没・享保8年(1723)~天明6年(1786)
家督・寛延元年(1748)相続
明和2年(1765)老中に進む
従四位下伊予守
正室・二本松藩丹羽高寛の娘
子女・8代正倫
8代・正倫(まさとも)
正右三男 母は中島氏
生没・延享3年(1746)~文化2年(1805)
家督・明和6年(1769)相続
従四位下伊勢守
天明7年(1787)老中に進む
天明8年(1788)老中を辞任
享和3年(1803)隠居
正室・大和郡山藩柳沢信鴻の娘
継室・弘前藩津軽信寧の娘
子女・女子→白河藩阿部正識と婚約するも、土浦藩土屋英直室 9代正精 
女子→西尾藩松平乗寛室 
女子→淀藩稲葉正備室 
女子→郡上藩青山幸孝室
女子→美作勝山藩三浦毘次室
頼潤(沼田藩土岐頼布養子)
女子→安中藩板倉勝尚室
女子→刈谷藩土井利謙室

9代・正精(まさきよ)
正倫三男 母は継室津軽信寧の娘 
生没・安永3年(1774)~文政9年(1826)
家督・享和3年(1803)相続
文化14年(1817)老中に進む
文政6年(1823)老中を辞任
従四位下侍従兼備中守
正室・土浦藩土屋篤直の娘
継室・伊予西条藩松平頼謙の娘
子女・正粹(まさただ 廃嫡、正室は平戸藩松浦清の娘、子女に女子→吉田藩松平信宝室、正耆→白河藩阿部正定養子) 
女子→宇都宮藩戸田忠温室
女子→浜松藩井上正春室、離縁後に島原藩松平忠侯室 10代正寧 女子→関宿藩久世広周室
正弘(正寧養子、11代)
10代・正寧(まさやす)
正精三男 母は井出氏 
生没・文化6年(1809)~明治3年(1870)
家督・文政9年(1826)相続
従五位下伊予守
天保7年(1836)隠居
正室・佐賀藩鍋島斉直の娘、後に離縁
子女・養子正弘(11代) 女子→白河藩阿部正耆室、後に離縁 正教(正弘養子、12代) 
正方(正教養子、13代) 
女子→糸魚川藩松平直静養女
11代・正弘(まさひろ)
9代正精の五男 母は高野氏 
生没・文政2年(1819)~安政4年(1857)
家督・天保7年(1836)相続
天保14年(1843)老中に進む
弘化2年(1845)老中首座
従四位下侍従兼伊勢守
正室・福井藩松平治好の娘
継室・福井藩松平慶永の養女
子女・養子正教(12代) 
女子→福井藩松平茂昭養女
12代・正教(まさのり)
10代正寧の長男 母は大河内氏 
生没・天保10年(1839)~文久元年(1861)
家督・安政4年(1857)相続
従五位下伊予守
正室・新発田藩溝口直溥の娘
子女・養子正方(13代)
13代・正方(まさかた)
10代正寧の三男 母は内山氏 
生没・嘉永元年(1848)~慶応3年(1867)
家督・文久元年(1861)相続
従五位下主計頭
正室・なし(水戸藩徳川斉昭の娘と婚約)
子女・養子正桓(14代)
14代・正桓(まさたけ)
広島藩浅野長勲の弟 母は某氏
生没・嘉永4年(1851)~大正3年(1914)
家督・明治元年(1868)相続
明治2年(1869)箱館鎮圧に功を立て、賞典禄6000石を与えられる
従五位下主計頭
正室・福井藩松平茂昭の養女
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安倍晋三(あべ しんぞう) [1954.9.21-]
第90代首相 2006 .09.26 -2007.09.26,2012~2020
政治家。内閣総理大臣。外務大臣を務めた安倍晋太郎の二男で,父方の祖父寛,母方の祖父岸信介(総理大臣)も衆議院議員という政治家一家に生まれた。1977年成蹊大学法学部政治学科を卒業,南カリフォルニア大学に留学,1979年神戸製鋼所に入社。1982年父の外相就任とともに同秘書官。1993年父の死去に伴い衆議院議員総選挙に出馬,初当選。2000年第2次森喜朗内閣で内閣官房副長官に就任後,2002年小泉純一郎改造内閣まで留任。2003年小泉首相によって,衆議院議員当選 3回,閣僚未経験で自由民主党幹事長に抜擢された。2004年幹事長代理,2005年第3次小泉内閣の内閣官房長官に就任。2006年9月の自民党総裁選挙に出馬,麻生太郎,谷垣禎一を抑えて勝利し,第90代,57人目の首相に就任した。政権発足早々,中国や大韓民国(韓国)との関係改善に取り組み,法整備や制度改革を進めた。2007年7月の参議院議員通常選挙で自民党が惨敗。いったんは続投を決めたが 9月に退任した。2012年9月,再び党総裁選挙に出馬,石破茂を破り総裁の座についた。同 2012年12月に行なわれた総選挙で自民党が民主党を制して圧勝,3年3ヵ月ぶりに政権復帰を果たし,第96代,63人目の首相に就任した。
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阿部信行(あべ のぶゆき) [1875.11.24-1953.9.7]
第36代首相 昭14 .08.30 ~昭15.1.16
陸軍軍人,政治家。陸軍士官学校,陸軍大学校卒業後,ドイツ,オーストリアに駐在。その後,参謀本部課長,参謀本部総務部長,軍務局長,陸軍次官,台湾軍司令官などを歴任,1933年大将に昇進,軍事参議官となった。退役後,39年8月 30日,陸軍の支持を得て,平沼騏一郎内閣のあとをうけて首相となったが,おりからのインフレーションの悪化,貿易省設置案の失敗,官吏身分保障制撤廃案の失敗,日米通商航海条約継続交渉の失敗により,特にみるべきものがないまま,4ヵ月半で退陣した。その後翼賛政治会総裁を経て,44年7月,朝鮮総督となったが,まもなく終戦を迎えた。
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安倍晴明(あべのせいめい) []
安倍晴明
あべのせいめい
……
平安中期の陰陽家。朱雀帝より一条帝に至る六代の帝に仕え、陰陽道を確立した。
系図類によれば、八世紀はじめの右大臣阿倍御主人(阿倍内麻呂の子)の系譜を引き(あるいは藤原不比等の子・藤原仲麻呂の後裔、あるいは孝元天皇の皇子・大彦命の後裔で)、 大膳太夫益材の子とされる。
天徳四年(960)に天文得業生として歴史に姿をあらわし、以後、天文博士・主計権助などを歴任して、大膳大夫・左京権大夫となる。 極位は従四位下。賀茂忠行・賀茂保憲父子を師として天文道・陰陽道を学び、名声きわめて高く、 天文密秦(天文の変化をいらはやく察してその吉凶を占いこれを天皇に奏すること)をはじめ、 天皇・貴族の陰陽道諸祭や占いに従事した。その占験の能力についての神秘的な伝説は、古くから数多く伝えられている。
『今昔物語集』には、識神(式神:陰陽師が術を用いて駆使する神)を自在に駆使して老僧との術くらべに勝った話や、 草の葉を投げて蛙を殺した話が載せられており、後世、日本第一の陰陽家としてあがめられた。寛弘二年(1005)九月二十六日没。系図類は年85とする。
著書に『占事略決』一巻があり、尊経閣文庫、京都大学に鎌倉時代書写の古写本が蔵せられている。 別に、晴明撰と伝える『簠簋内伝用篇』五巻(『続群書類従』所収)があるが、晴明の撰であるかどうかに疑わしいところがある。
安倍晴明は、神秘的な超能力の持主としてその死後における各種の伝承や文芸作品に登場・活躍した。
『続古事談』(1219)には、彼が大舎人であったころ、慈光という人相見が「一道の達者」となるべき人物だと占った話がみえ、若くして卜占の技に長じていたことを暗示する。
ことに著名なのは花山天皇の譲位を天体の異常な現象からみごとに予告したという『大鏡』の記述である。
他に、『古事談』(1212-1215)、『宇治拾遺物語』『今昔物語集』『源平盛衰記』『発心集』(鴨長明作という)、『峯相記』などに彼の事跡が伝えられている。
その中では、藤原道長が法成寺建立の工事現場にわもむいたとき、愛犬の白犬が道長の歩行を阻んだので、晴明に占わせたところ、道長を呪詛する者ありと断じ、犯人の「道摩法師」の居所を当てたという話が興味ぶかく、 道長の政敵の一たる左大臣藤原顕光の依頼で道長を呪詛した「道摩」とは、同じ話を伝える『峯相記』では「道満」であり、陰陽師として晴明と張り合っていた法体の人物であった。 この二人の、卜占をめぐる熾烈なる抗争は古浄瑠璃『信田妻』(作者不明)や義太夫『蘆屋道満大内鑑』(竹田出雲作、1734初演)などの名作として、 既往の所伝や芸能をふまえつつ江戸時代前期に結実したが、そこでは晴明は摂津国の安倍野の武士である安倍保名が和泉国の信田(信太)森の狐(白狐)の化身である女と契って生まれた子だとしている。
晴明にかかわる伝説の地は、陰陽師の拡散と定着につれて各地にひろがったが、 ことに賎民層を多数含んだ下級陰陽師集団が生業たるト占の技の権威づけのために晴明伝説を最大限に活用した面がつよかった。 晴明神社をひかえた京都の一条戻橋のあたりは、その中心地域で、晴明伝説の豊かな母体である。一説では彼の墓は京都東福寺門前の遣迎院の竹やぶの中にあるという。
晴明若カリケル時、師ノ忠行ガ下渡二夜行二行ケル共二歩ニシテ車ノ後二行ケル、忠行、車ノ内ニシテ吉ク寝入ニケルニ、晴明見ケルニ、艶ズ怖キ鬼共車ノ前二向テ来ケリ。晴明、比ヲ見テ驚テ、車ノ後二走リ寄テ、忠行ヲ起シテ告ケレバ、其時ニゾ忠行驚テ覚テ、鬼ノ来ルヲ見テ、術法ヲ以テ忽二、我ガ身ヲモ恐レ无ク共ノ者ヲモ隠シ、平カニ過ニケル。其後、忠行、晴明ヲ難去ク思テ、此道ヲ教フル事瓶ノ水ヲ写スガ如シ。然レバ、終二晴明、此道二付テ、公・私二被仕テ糸止事无カリケリ。
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阿保親王(あぼしんのう) [延暦11(792).-承和9(842).10.22]
弘仁1 (810) 年9月薬子の変に連座して左遷,大宰権帥となる。天長の初め許されて帰京。天長3 (826) 年子の仲平,行平,業平,守平4王子に在原の姓を賜わる (→在原氏 ) 。上総太守,治部卿,上野太守,宮内卿,兵部卿,禅正尹を歴任。承和の変は彼の密告で発覚。 51歳で死去,一品を贈られた。
日本編集
天合尊(あまあい) []
第3世独天神
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甘糟景継(あまかす かげつぐ) [????~1611]
越後・長尾(上杉)氏臣。1577年、当主謙信の命で、戦死した甘糟孫右衛門継義の跡を継いで、護摩堂城主となる。1583年五泉城主となり、当主景勝の"景"の一字を拝領して景継と名乗る。上杉氏の出羽・庄内攻略後、出羽・東禅寺城主となり、1591年家老志田修理に命じて飽海郡磐井出城の阿部氏を攻略。1598年上杉氏の会津入りに際し、磐城・白石城代となる。1600年直江兼続の下で小奉行を務め、神指城を普請した。
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甘糟景持(あまかす かげもち) [????~????]
上野新田氏流。越後・長尾(上杉)氏に仕える。越後・灰尾城主。1561年川中島の合戦では、妻女山の押さえを務めて寡兵奮戦、退却時には殿も務め、追撃を寄せ付けなかった。
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尼子(あまご) []
日本編集
尼子氏(あまご) []
尼子氏の発展 守護京極氏の守護代として出雲に勢力を拡大。

 尼子氏京極氏の守護代として出雲に入国した持久以後、守護代職を世襲し、京極氏の出雲支配を助けた。しかし、応仁の乱以来、京極氏は出雲を不在にし、領国の政治は尼子氏に任せた。
 持久の子清定は応仁以来の乱世のなかを隣国の山名氏の出雲侵入を撃退し、また、国内の反京極勢力の平定に従事し、京極氏の勢力安泰に努めた。

尼子清定の活躍

 応仁の乱が起こると守護京極持清は、東軍の有力武将として京都・近江に転戦し、出雲は守護代尼子清定に全面的に一任せざるを得なかった。
 清定の妻は出雲仁多郡の豪族真木上野介の娘であった。かれは、「出雲タタラ」の本拠地である仁多郡を押さえる真木氏と結び、また、出雲美保関の代官職として山陰・北陸方面との貿易を利用し勢力を固め、一方、京極氏の守護代として京極家臣を統率、次第にその勢力を強化していった。応仁の乱以前の出雲大社・日御埼神社 の社領紛争では、京極家臣を統率してその解決につとめた。
 応仁二年(1468)六月、安来庄の十神山城を根拠とする松田備前守が富田庄堺村に攻め込んだ。出雲東部きっての豪族松田氏の富田城攻撃は西軍の山名氏の後押しによったらしい。こうして、広瀬月山富田城と安来十神山城の合戦がはじまった。清定は名ある被官ら数名が負傷したが、松田勢を撃退することができた。この松田氏の先制攻撃により清定は兵を動かす名目ができた。いよいよ、尼子清定の領国形成のための制服戦が開始されることになる。
 手始めに十神山城の攻略にかかり、応仁二年七月の戦で出雲・伯耆・隠岐の国人ら百余人を討ち取った。ついで岩坂・外波の諸城を攻め、三沢氏の代官福頼十郎左衛門を討ち取ったが、出雲郷の春日城攻略は失敗し、神保・西木らの被官を失った。八月、矛先を転じて再び十神山城を攻め、八幡・富尾の両城を陥れた。
 九月、清定は一隊を大原郡に派遣して馬田城を攻略し、自らは出雲郷に出陣して春日城を落とした。さらに湯郷の岩屋城の糧道を断って孤立無縁とし、山名六郎や松田備前守らの立て篭る十神山城を陥落させた。ついで、美保関に出陣し、山名党を蹴散らした。まさに東奔西走、神出鬼没の大奮戦であった。
 この尼子清定の健闘に対し、守護京極持清は、兵糧を貯えて富田城を厳重に守備せよ、と命じ、しきりに感状を発し、 さらに恩賞として飯石郡多久和庄知行分、島根郡生馬郷、能義郡利弘庄、同中次闕所分、同郡舎人保内松田備前守 買得田畠屋敷、松田備前守買得分、安来庄領家分代官職、能義郡奉行職、美保関代官職といった所領・所職を与えた。 ここに尼子氏の戦国大名への道が開けたのである。
・奥出雲の強豪-三沢氏が拠った三沢城址


●戦国大名への途

 明くる文明元年(1469)も清定の国内制服戦は続行される。七月、尼子軍は牛尾一族を主力として大東草尾に進軍したが大敗北を喫した。そこで清定は軍忠状を上申し、牛尾一族に京極持清からの感状をもらってやった。同月、大東野田原に戦い、八月中城進山では清定自ら軍配をふるい、名ある出雲・伯耆の武士数十人を討ち取った。清定の要求により、持清が感状を与えたのはいうまでもない。
 翌年、仁多郡横田庄地頭で横田藤ケ瀬城を本拠とする三沢対馬守が与党を集めて国一揆を起こした。これに対し清定は三沢一味の知行差押えを持清に要求した。その結果、知行を押さえられた国人は、三沢をはじめ多胡・山佐・佐方・飯沼・下笠・野波・小境の各氏で、これから仁多・大原・能義・八束の各郡にわたる広範な地域的連合の一揆であったことがわかる。清定はこの国一揆を守護京極持清の権威を背景に鎮圧したのである。
 文明二年八月守護持清が没したが、長男勝秀はすでに亡く孫の孫童子が京極の主となり、叔父政経が後見した。しかし、孫童子は病弱であったようで、翌文明三年政経は、出雲・隠岐・飛騨の三国の守護、文明五年近江守護を加え、京極氏の実権を握った。
 この間尼子清定は、伯耆境松の合戦、美保関の合戦、井尻の難波城の戦いと連戦した。そして、伯耆の山名党は清定の奮戦の前に月山富田城を奪うことはできなかったのである。
 文明六年、清定は長男の又四郎を上洛させ、これまでの所領を京極政経に確認してもらった。同時に主家の実力を打診させたのであろう。又四郎はのちの経久で、ときに十七歳であった。
 出雲にあっては、文明八年の四月から五月にかけて、能義郡土一揆が富田城を急襲した。これは、美保郷の領有問題で争い、不利になった松田三河守を張本人とする国一揆であったようである。このとき守護京極政経は、前年十月末、江北の一戦に敗北したため出雲に下向していた。清定は政経に一揆征伐の感状を要求している。そして、清定は一揆征伐の戦功により、美保関代官職を安堵された。しかし、いまだに清定の背後に守護京極氏の権威のあることは見逃せない。
 文明九年、又四郎二十歳のころ、民部少輔経久と名乗り家督を継ぎ、京都から帰国したようである。おそらく、この前後に清定は没したものと思われる。そして、尼子氏はこの経久の時代に戦国大名化をとげることになるのである。

■参考略系図
尼子氏系図に併せて、尼子氏の被官となった出雲佐々木氏流諸氏の系譜を掲載。
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尼子元知(あまご ) [????-1622]
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尼子興久(あまご おきひさ) [1497~1534]
出雲・尼子氏一族。武に優れ、父をよく扶けた。やがて父より西出雲の要衝塩冶3千貫を任されるが、これを不服として重臣亀井秀綱を通じ、さらに加増を要求。しかし認められなかった為、秀綱が讒言したものと思ってこれを討とうとし、秀綱を庇う経久と衝突する。結局敗れて、叔父の備後・山内大和守直通の下へ逃亡し、やがて自害に追い込まれた。その首を見た経久は怒りを忘れ悲しんだという。
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尼子勝久(あまご かつひさ) [1553~1578]
新宮党尼子誠久の子。新宮党が滅ぼされた後、上洛して東福寺の僧となる。山中幸盛らに擁立され、織田信長に頼り、毛利氏と戦う。播磨上月城落城により自刃。
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出雲・尼子氏新宮党誠久五男。新宮党が当主晴久と対立して謀殺された時、匿われ京・東福寺の僧となった。しかし、尼子氏が安芸・毛利氏に滅ぼされると、山中幸盛らの旧臣に擁されその再興を図る。織田信長の支援を受け毛利氏宇喜多氏を攻め、播磨・上月城を攻略した。その後、信長による戦線の転換により、上月城からの撤退を命ぜられるが、これを拒否。毛利氏の猛襲の前に敗れて降伏、自害した。
日本編集
尼子清定(あまご きよさだ) [1410-1477]
応仁の乱以来の国内反乱を鎮圧、出雲東部一帯に尼子氏の支配権を確立する。後年京極氏からの自立を図るようになるが、その晩年は定かではない。
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尼子国久(あまご くにひさ) [1492?~1554]
経久の子。新宮党初代。領国拡大に貢献したが、晴久と対立し、新宮党の勢力を恐れた晴久によって一族滅ぼされた。
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一時期塩冶氏に入るがやがて戻る。新宮党初代。国久の一族はその居・新宮谷から新宮党と呼ばれ、家中一の剛勇の集団として中枢を担い、尼子氏の勢力拡大に大きく貢献する。しかし、新宮党の台頭を恐れた当主晴久と不和になった。これに乗じた安芸・毛利氏の謀略を受け、毛利氏に内通した疑いで誅殺され、新宮党は滅ぼされた。
日本編集
尼子敬久(あまご たかひさ) [????~1610]
出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の一族として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし新宮党の武力を恐れる安芸・毛利氏の謀略により、新宮党と不和であった当主晴久に、居を襲われ滅ぼされた。
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尼子高久(あまご たかひさ) [1363-1391]
近江の守護大名・京極氏の一族。
はじめて近江尼子郷に住み、尼子氏を称した。尼子氏初代。

 尼子高久は、尼子氏の初代であり、近江(滋賀県)の大名・京極高秀の子です。高秀の嫡男は高詮といい、これが京極氏を継ぎますが、高久はその弟にあたります。
 京極氏は、宇多天皇を祖とする佐々木氏の庶流で、近江の北半分を領していました。南半分はおなじく佐々木一族の六角氏が治めていました。
 高久は、父・高秀より領地として尼子郷を与えられ、この地に住みます。そして在地名をとって尼子を名乗り、備前守を称しました。

 高久が尼子郷を領したのには、次のようないきさつがありました。
 高久の祖父で、バサラ大名として知られる京極高氏(道誉)は、康安四年(1345)、戦功の賞として将軍・足利尊氏から犬上郡甲良荘を与えられます。この甲良荘に尼子郷があり、これを高久(秀久)に与えるように置文を残し、世を去りました。
 高氏には長男・秀綱、次男・秀宗、三男・高秀と、3人の子がいました。
 しかし長男、次男とも高氏に先だって相次いで死亡し、残る高秀とは確執を深めるなど、不遇の晩年を過ごしたと言われています。

 跡を継いだ高秀は、内訌をさけたのか、それともひとかどの人物であったのか、ともかく父のこの置文を守ります。そして応永五年(1398)、高詮の代にいたって高久に尼子郷を給与されます。
 このとき高久に与えられた領地は、尼子郷のほか、出雲国大原郡(島根県雲南市)の一部も含まれていたと言われています。

尼子氏発祥異説

 一般には上記ごとく高久こそが尼子氏の初代であるとされていますが、『羽衣石南条記』という書物によれば、尼子氏は塩冶高貞を祖とする、ということになっています。
 どういうことなのか、くわしく見てみましょう。

 塩冶高貞は京極氏・六角氏と同じく佐々木氏の一族です。
 高貞は足利尊氏に仕えて室町幕府成立に貢献し、出雲国守護に任じられました。ところが、尊氏の執事・高師直と不仲になったために讒言され、山名時氏によって討伐されてしまいます。

 『南条記』によると、高貞の嫡男はこのとき高貞とともに死にましたが、次男はひそかに逃れ、長じて南条貞宗を名乗ったとされています。
 さらに、この貞宗の三男・経時を「尼子経時」とし、その子孫が尼子経久である、と記されているのです。
 つまりこの説によれば、尼子氏初代は高久ではなくて経時、ということになります。

 さらに、興味深いのは『出雲私史』に出てくる記述です。
 この史料では、『南条記』の記述と同じく塩冶高貞の次男は山名時氏の追っ手を逃れます。彼は楠木正成の子・正行にひきとられ、その後、出雲国守護となった山名氏の庇護を受け、元服して玄貞を名乗ります。
 そして玄貞はやがて近江に赴いて京極高秀のもとに身を寄せ、人々から『出雲殿』と呼ばれた、とあるのです。
 『出雲私史』にはちゃんと尼子高久が登場しますが、強引に解釈すれば玄貞=高久という説も出てきます(ホント強引かも)。

 これらの説の信憑性はあまり高くないと思われるので、ここでは異説もある、ということだけを述べるにとどめておきます。
 が、この異説どおり、出雲にゆかりの塩冶氏の家系が出雲に返り咲いたとすれば、なかなか興味深いものがありますね。
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尼子経久(あまご つねひさ) [1458~1541]
出雲月山富田城主。一代で山陰、山陽十一カ国の太守に上り詰めた。大内家との戦いの最中、死去。
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出雲守護代尼子氏当主。出雲月山富田城主。“経”は出雲守護京極政経からの諱。税金の横領等、政経から独立の動きを見せた為、政経の命を受けた国人衆に富田城を逐われ、身を隠す。しかし3年後、謀略を用いてわずかな手勢で富田城奪還、周辺の国人を攻略していった。西国の雄、周防・大内義興が将軍足利義稙を奉じて上洛した際にはこれに従い、山城・船岡山の合戦にも参加している。しかし義興に先じて出雲に戻り、その隙に急速に勢力を広げ一代で“十一州の太守”と呼ばれる程(実質的な支配は出雲・伯耆・隠岐・東石見・北備後程か)までに成長し、尼子氏の最盛期を作った。智勇に優れた将であった一方、急速な支配拡大の為、国人の掌握が甘く、大内氏との間で国人の離合が繰り返された。大内家との戦いの最中、死去。
日本編集
尼子倫久(あまご ともひさ) [1546-1623]
出雲・尼子氏一族。当主である兄義久と共に安芸・毛利氏と戦うが、敵わず降伏し、安芸・円妙寺に幽閉される。やがて許されて、毛利氏に仕え、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに参加し、その後は僧となった。
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尼子豊久(あまご とよひさ) [????~1548]
出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の一族として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし、橋津川の合戦で戦死。
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尼子晴久(あまご はるひさ) [1514~1560]
尼子政久の子。経久の孫。毛利元就の謀略で新宮党を滅ぼし、尼子氏の弱体化を招いた。
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尼子経久の孫。
父政久は早くに戦死しており、祖父経久に従い、緒戦に活躍。1537年家督を譲られた。将軍足利義晴より諱を受け晴久と名乗る。舅国久率いる新宮党に援けられ、山陰を中心に8ヶ国に勢力を伸ばすが、やがて新宮党を疎ましく思うようになる。結果、安芸・毛利氏毛利元就の謀略に乗せられ、新宮党を滅ぼしてしまい、自ら力を弱め、尼子氏の弱体化を招いた。その後も毛利氏相手に奮闘したが、48歳で病死した。
日本編集
尼子久幸(あまご ひさゆき) [1473-1541]
出雲・尼子氏一族。智勇に優れた賢将で兄経久が家督を譲ろうとした程であった。重臣も久幸相続に賛成したが、久幸自身がこれを固辞したという。安芸・毛利氏が離反して周防・大内氏に与した時、これを攻めようとした当主晴久に反対し諫めたが聞き入れられず、むしろ“臆病野洲”と罵られた。結果毛利氏の郡山城攻めにて大敗し、この時晴久を逃がす為、殿を務め、最期は“臆病野洲の最期を見よ”として敵中突撃のうえ討死したという。
尼子氏が毛利家の本拠・吉田郡山城を攻めた「郡山合戦」で討死した尼子家の重臣で,兄はかの有名な尼子経久ですから,重臣中の重臣といえます。

経久が1537年に若い孫の詮久(晴久)に家督を譲ると,補佐役に任じられたとかで,そもそもこの時期に毛利家を攻めることに久幸は反対だったとか。
経久かた詮久(晴久)への代替わりの直後だけに,もう少し毛利周辺の安芸・国人衆を固めてからでも遅くないとの考えもあったのではないでしょうか。

結局,郡山合戦は大内氏が毛利を支援したこともあり失敗。撤退戦の混乱の中で討死し,この地に埋葬された。
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尼子秀久(あまご ひでひさ) [????~1609]
出雲・尼子氏一族。当主である兄尼子義久と共に安芸・毛利氏と戦うが、敵わず降伏し、安芸・円妙寺に幽閉される。1589年許されて以後、佐々木氏を名乗って毛利氏に仕えた。
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尼子政久(あまご まさひさ) [1488~1518]
出雲・尼子経久嫡男。武勇、思慮に長けた智勇兼備の将として、父経久の期待は大きかった。又軍略のみならず、詩歌管弦にも高い評価を得ており、花実相の大将と評された。1518年出雲・麻石山城に籠城する桜井宗的を囲んで兵糧攻めにした際、厭戦を慰労し、城兵の士気低下を図るため、宴を催して政久自身も得意の笛を吹いていたところ、笛の音めがけて放たれた矢が見事に政久に命中、31歳の若さで亡くなったという。61歳の経久はこれを聞き、“瞋れる眼に紅の涙流し”深く悲嘆したという。尚、この後経久は麻石山城の強襲を命じ、宗的は自害、城兵は皆虐殺された。
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尼子誠久(あまご まさひさ) [????~1554]
出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の中心として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし己の武功を誇り、傍若無人な振る舞いが目立った為、同僚の反感を買う。また、新宮党内の内訌もあって、やがて新宮党は当主晴久に滅ぼされる。誠久もその際殺された。
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尼子持久(あまご もちひさ) [1381-1437]
京極高詮の命で、出雲国守護代となる。雲州尼子氏初代とされる。
尼子持久は、高久の子にあたります。
高久には二人の子がおり、長男は詮久(満秀)、次男が持久です。持久は上野介を称しました。
『佐々木系図』には、注として長男・詮久を「江州尼子」、次男・持久を「雲州尼子」と記述してあります。このことから、詮久が近江の本領を継ぎ、持久が出雲国にはいったことがわかります。
つまりこの持久が雲州尼子氏の祖となるのです。
持久は、京極氏の守護代として出雲に入国しました。
京極高詮が、明徳の乱(1391)によって没落した山名氏に代わって出雲・隠岐の守護に任ぜられましたが、高詮は自らは赴任せず、持久に任せたのです。
室町時代、多くの守護大名は、このように自らは任地に赴任せず、守護代を置いて領国を治めていました。
京極氏もこの例に漏れなかったわけですが、京極氏の場合、室町幕府の侍所所司といった要職にあったため、赴任したくても赴任できない、という事情もあったようです。
ただ、高詮と他の多くの守護大名との違いは、諸大名が任地の有力国人(豪族)を守護代に任じていたのに対し、高詮は自分の一族を守護代として送った、ということです。
隠岐には左衛門尉清泰、出雲には、はじめ隠岐五郎左衛門、のち尼子持久を守護代として送った、とされています。
高詮が、このように一族を守護代に送ったのには、理由がありました。
かつて、高詮の祖父・高氏も出雲国守護を任じられたのですが、このときは在地の国人・吉田厳覚という者をあてて守護代としました。
ところが、出雲は本拠・近江から離れていることもあり、出雲までは京極氏の影響力は及びにくく、また出雲地方は寺社領などが複雑に入り組んだきわめて治めにくい土地であったため、守護代・吉田厳覚の力だけではどうしても支配力が弱かったのです。
そのために隣国の山名氏の侵入を許してしまい、出雲は山名氏に抑えられてしまいました。
この苦い経験を繰り返さないためにも、京極氏の存在を出雲に浸透させる必要性がありました。そのために自分の一族を守護代にあてることになったのです。
なお、出雲に守護代として入国したのは持久ではなく高久だ、とする説もあります。
『多胡外記手記』に「高詮の弟高久、江州尼子に居り候を目代として富田へ遣わし、出雲・隠岐の仕置しなされ候」とあるのがその根拠です。
いずれにしても、京極氏の守護代として尼子氏が出雲に入国した、という事実だけは確かで、雲州尼子氏歴史はここからはじまるのです。
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尼子義久(あまご よしひさ) [1540-1610]
晴久の子。毛利氏に攻められ、月山富田城に篭城するが、降伏。後、毛利氏に仕える。
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父の死により、20歳で出雲・尼子氏当主となる。安芸・毛利氏の攻略を受け戦うが、次第に圧迫されていく。1565年月山富田城に籠城するが、近臣大塚与三右衛門の讒言に惑わされて多くの家臣を失う。翌年ついに防ぎきれず切腹を申し出て降伏、命は助けられ安芸・円妙寺に幽閉される。1589年許されて毛利氏に従った。義久には子がなかった為、甥・元知が養子となり後を継ぎ、以後佐々木氏を名乗って続いた。
日本編集
天多彌伎命(あまたのねぎのみこと) []
天種子命(アメノタネノミコト)と同神?
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天津枳比佐可美高日子命(あまつきひさかみたかひこのみこと) []
天津枳比佐可美高日子命:あまつきひさかみたかひこのみこと
 → 伎比佐加美高日子命:きひさかみたかひこのみこと
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天津国玉神(あまつくにたま) []
葦原中国平定
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天津久米命(あまつくめ) []
天孫降臨
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天津久米命(あまつくめのみこと) []
天津久米命:あまつくめのみこと
 → 大久米命:おおくめのみこと
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天津彦国光彦火瓊々杵尊(あまつひこくにてるひこほのににぎのみこと) []
天津彦国光彦火瓊々杵尊:あまつひこくにてるひこほのににぎのみこと
 → 天津彦根火瓊々杵尊:あまつひこねほのににぎのみこと
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天津日子根命(あまつひこね) []
誓約、天照大御神の勾玉から生れた
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天津彦根神(あまつひこねのかみ) []
→天津日子根命
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天津彦根命(あまつひこねのみこと) []
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天津日子根命(あまつひこねのみこと) []
根の国へ向かう建速須佐之男命は、高天原へ天照大御神に別れを告げに来た時、天照大御神は武装して迎えた。 建速須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では熯速日命を加えた六柱)を生んだ。
鬘の珠から化生した神が天津日子根命。火か日に関係ある神か。
『日本書紀』一書では、天照大御神の首の珠を建速須佐之男命が口に含んで左の腕に生まれたとある。
天津日子根命は、凡川内国造(河内国)、額田部湯坐連(北茨城国造額田部連等)、 茨城国造(常陸国茨城郡)、倭田中直(大和国生駒郡内)、山代国造(山城国)、 馬来田国造(上総国望陀郡)、道尻岐閇国造(常陸国多賀郡の一部)、 周芳国造(周防国)、倭淹知造(大和国山辺郡)、高市県主(大和国高市郡)、 蒲生稲寸(近江国蒲生郡)、三枝部造の祖。
 天津彦根神 [#rb405451]
アマツヒコネノカミ
別称:天津日子根命、北伊勢大神(多度神)性別:♂系譜:天照大神と素盞鳴尊との誓約の際に3番目に生まれた神神格:日の神、海の神、風の神神社:多度大社
 天津彦根神といえば、三重県多度町の多度大社の祭神で、特に雨乞いの神として有名である。同時に風の神(台風の神)としてその神威を発揮すると信じられている。また、天照大神の子であるということから、多度大社は伊勢神宮に対して北伊勢大神宮とも呼ばれた。
 天津彦根神は、数多くの氏族の祖神としても祀られている。それらの氏族は天皇家に忠誠を誓う各地の有力者と考えられ、その分布は近畿から関東まで広がっている。このことから、天津彦根神というのは各地の氏族が信奉していた土着の神、産土神の集合体であると推測できる。数多くの氏族を従えるために、「君らの信仰している神様は実は天照大神の子供の天津彦根神だったんだよ。なかなか血筋のよい神様だよねえ。」と吹き込んだわけである。そういう意味で、土地の守り神であり、農業、漁業の守り神だったり、産業開発もしていたりと、各地の土着の神が持つ様々な霊力を備えているといえるだろう。
 また、多度大社には、別宮に立派な一目連神社が祀られている。一目連神というのは、天津彦根神の子の鍛冶の神、天目一箇神のことである。このような神を子に持ち、さらに一緒に祀られているということから、金属工業の神としても厚く信仰されているのである。
 天津彦根神は前述の通り、雨乞いの神であり、台風の時には風の神としての神威を発揮して風水害を防いだりするという神である。こういった霊力は、山の神としての性格から来ているようである。というのも、多度大社の背後の多度山には、昔、一つ目の龍が棲んでいたという伝承がある。龍は海神であると同時に水の神でもあり、一般に雨の神としても信仰されている。この竜神を祀ったのが多度大社の始まりという伝承もある。とすると、多度大社の祭神はもともと一目連神であったことになる。記紀神話の成立以後、あとから主祭神となった天津彦根神は、古くから信仰されていた一目連神の霊力をも包含した神霊として祀られるようになったのであろう。海も陸も広くカバーする神威を発揮するのは、そういった理由からかもしれない。
……
根の国へ向かう建速須佐之男命は、高天原へ天照大御神に別れを告げに来た時、天照大御神は武装して迎えた。 建速須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では熯速日命を加えた六柱)を生んだ。
鬘の珠から化生した神が天津日子根命。火か日に関係ある神か。
『日本書紀』一書では、天照大御神の首の珠を建速須佐之男命が口に含んで左の腕に生まれたとある。
天津日子根命は、凡川内国造(河内国)、額田部湯坐連(北茨城国造額田部連等)、 茨城国造(常陸国茨城郡)、倭田中直(大和国生駒郡内)、山代国造(山城国)、 馬来田国造(上総国望陀郡)、道尻岐閇国造(常陸国多賀郡の一部)、 周芳国造(周防国)、倭淹知造(大和国山辺郡)、高市県主(大和国高市郡)、 蒲生稲寸(近江国蒲生郡)、三枝部造の祖。
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天津彦根火瓊々杵尊(あまつひこねほのににぎのみこと) []
天津彦根火瓊々杵尊
あまつひこねほのににぎのみこと
別名
天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命:あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと
天津日高日子番能邇邇芸能命:あまつひこひこほのににぎのみこと
天津日子番能邇邇芸命:あまつひこほのににぎのみこと
日子番能邇邇芸命:ひこほのににぎのみこと
天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊:あめにぎしくににぎしひこほのににぎのみこと
天国饒石彦火瓊々杵尊:あめくににぎしひこほのににぎのみこと
天津彦国光彦火瓊々杵尊:あまつひこくにてるひこほのににぎのみこと
彦火瓊々杵尊:ひこほのににぎのみこと
天之杵火火置瀬尊:あまのきほほおきせのみこと
天杵瀬尊:あまのきせのみこと
火瓊々杵尊:ほのににぎのみこと
天津彦彦火瓊々杵尊:あまつひこひこほのににぎのみこと
瓊々杵尊:ににぎのみこと
裒能忍耆命:ほのににぎのみこと
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊:あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと
皇孫命:すめみまのみこと
……
天津日継の御子天忍穂耳命と萬幡豊秋津師比売命との間に、天火明命に続いて生れた御子が邇邇芸命。 天孫降臨神話の主人公。
古事記』によると本名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命。 『日本書紀』には天津彦彦火瓊瓊杵尊。 『書紀』の一書は天津彦国光彦火瓊瓊杵尊・天津彦根火瓊瓊杵根尊。 『薩摩国風土記』逸文には裒能忍耆命。
天邇岐志国邇岐志のニギシは饒の意で天地の栄えるさまをあらわし、 天津日高は日が空に高く輝くの意味。 日子は日の神の御子の意味。 総じて稲穂が饒々しく実る意味で、日と稲穂の関係をいった御名。
古事記』によると、天照大神高木神は、はじめ父神である天忍穂耳命に「お前が葦原中国へ降臨して治めよ」と命じた。 ところが、忍穂耳命は「自分の子の邇邇芸命の方が適当だと思う」と申されたので、 改めて邇邇芸命に天孫降臨・国土統治の神命が下された。
降臨されたあと、大山津見神の娘・木花之佐久夜毘売神と婚姻されて、 火照命・火須勢理命・火遠理命(天津日高日子種穂手見命ともいい神武天皇の祖父)を生み給うた。
『日本書紀』に、この妃神(一名神吾田鹿葦津媛)が卜定田を狭名田と名づけ、 この田の稲をもって神酒を醸し、淳浪田(ぬなだ)の稲で御食とし新嘗祭を行ったとあることから、 即位の折の大嘗祭をあらわす神ともいえる。
『薩摩国風土記』逸文に、高千穂の槵生峯に天降った裒能忍耆命が、竹屋守の女との間に二人の子をもうけ、 竹の刀で臍の緒を切ったとある。
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天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと)&aname(): ID too long; []
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命:あまつひこひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと
 → 鵜葺草葺不合命:うがやふきあえずのみこと
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天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえず) []
山幸彦の息子
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天津彦彦火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) []
天津彦彦火瓊々杵尊:あまつひこひこほのににぎのみこと
 → 天津彦根火瓊々杵尊:あまつひこねほのににぎのみこと
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天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) []
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天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと) []
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天津日高日子番能邇邇芸能命(あまつひこひこほのににぎのみこと) []
天津日高日子番能邇邇芸能命:あまつひこひこほのににぎのみこと
 → 天津彦根火瓊々杵尊:あまつひこねほのににぎのみこと
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天津日高日子穂々手見命(あまつひこひこほほでみのみこと) []
天津日高日子穂々手見命:あまつひこひこほほでみのみこと
 → 彦火々出見尊:ひこほほでみのみこと
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天津日子番能邇邇芸命(あまつひこほのににぎのみこと) []
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天津真浦(あまつまうら) []
天津真浦:あまつまうら
 → 天津麻羅:あまつまら
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天津麻占(あまつまうら) []
天津麻占:あまつまうら
 → 天津麻羅:あまつまら
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天津麻羅(あまつまら) []
天岩屋戸
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天津麻羅(あまつまら) []
天津麻羅
あまつまら
別名
天津麻良:あまつまら
天津真浦:あまつまうら
天津麻占:あまつまうら
……
鍛冶の神。鍛冶集団の長あるいは鍛冶集団の総称。 同じく鍛冶の神・天目一箇神と同神をされる場合がある。
「麻羅」は、踏鞴から炉に風を送る羽口が男根に似ているということから男根とする説、 炉の火を監視する鍛冶職の生態から目占(まうら)とする説がある。
『日本書紀』綏靖紀に、倭鍛部天津真浦に鏃を作らせたとある。
また『古事記』天岩戸段に、「天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて」伊斯許理度売命に鏡を作らせたとある。
『先代旧事本紀』に、饒速日命に随伴した五部人に物部造等の祖・天津麻良、同じく船長や梶取などに梶取阿刀造等の祖・天津麻良、船子倭鍛師等の祖・天津真浦、笠縫等の祖・天津麻占の名があるので鍛冶だけではない技能集団とも考えられる。
『新撰姓氏録』に、大庭造は神魂命八世孫、天津麻良の後とある。
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天津麻良(あまつまら) []
天津麻良:あまつまら
 → 天津麻羅:あまつまら
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天津甕星(あまつみかほし) []
天津甕星:あまつみかほし
 → 天香香背男:あまのかがせを
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天津甕星・香香背男(あまつみかぼし・かがせお) []
天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である。別名、天香香背男(あめのかがせお)、星神香香背男(ほしのかがせお)、香香背男(かがせお)。
古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。
本文では、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。
第二の一書では天津神となっており、経津主神・武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。
平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。
星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。
しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。
全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。
茨城県日立市の大甕神社は、天津甕星を服従させた建葉槌命を祭神としている。社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。
葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。
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御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ) []
天の空に蜻蛉が群れを飛ばす男性という意味
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天照坐大神(あまてらしますおおかみ) []
天照坐大神:あまてらしますおおかみ
 → 天照大御神:あまてらすおおみかみ
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天照坐皇大神(あまてらしますすめおおかみ) []
天照坐皇大神:あまてらしますすめおおかみ
 → 天照大御神:あまてらすおおみかみ
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天照大日孁女神(あまてらすおおひるめのかみ) []
天照大日孁女神:あまてらすおおひるめのかみ
 → 天照大御神:あまてらすおおみかみ
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天照大日孁女尊(あまてらすおおひるめのみこと) []
天照大日孁女尊:あまてらすおおひるめのみこと
 → 天照大御神:あまてらすおおみかみ
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天照大御神(あまてらすおおみかみ) []
三貴神、三貴神
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天照大御神(あまてらすおおみかみ) []
天にましまして照りたもう神。
伊邪那伎神が左の目を洗った時に出現。
……
伊邪那岐神が死の国の穢(けがれ)を祓うため、筑紫日向の橘の小門の阿波岐腹で禊(みそぎ)した時、 左の眼を洗われたときに化生した神。 右眼を洗われたとき化生した月読神、 鼻を洗れたときに化生した建速須佐之男命とともに三貴子といわれる。
また、伊邪那岐・伊邪那美二神が、諸神を生み終えた後、 共に譲って「われ已に大八洲国と山川草木とを生めり、 何ぞ天の下の主者を生まざらめや」と申されて日の神を生まれた神。『日本書紀』
さらに、伊邪那岐神が「吾は天の下を始(しろし)めす貴(うず)の子(みこ)を生まん」と申されて、 左の手に白銅鏡(ますみのかがみ)を持ったときに生れた神。 右の手に白銅鏡(ますみのかがみ)を持ったときに生れた神が月読尊。 首を回して後ろを見たときに生まれたのが素盞鳴尊。
伊邪那岐神が三貴子の誕生を大いによろこばれ、自らの首飾の玉の緒(御倉板挙之神)をといてその珠を与えながら、 天照大神には「汝が命は高天原を知(治)せ」と言われ、月読命には夜を、建速須佐之男命には海原を知らせと、 三神それぞれの任務を申しづけられた。
根の国へ向かう建速須佐之男命は、高天原へ別れを告げに来た時、天照大御神は武装して迎えた。 建速須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では熯速日命を加えた六柱)を生んだ。
天照大神は、度重なる弟神・建速須佐之男命の悪しき心の荒びに愛情を示していたが、 弟神はなおも大神が神に奉る衣を作るため忌服屋に籠られている時、 天馬の死体をほうり込みそのために織女はびっくりして死んでしまった。 大神はとうとう堪忍袋の緒を切って天の岩屋に隠れ給い、そのため夜闇の世界となった。(天岩戸隠れ)
神々の議によって大神が再びあらわれると、闇の世界から、光り輝く世界へと戻ったとされている。
この神話は天照大神の日の神・太陽神としての神格を表現したもの。
天孫降臨においては、御子神・天忍穂耳命の代わりに、 生れたばかりの孫神・邇邇芸命を地上に降臨させ、 八咫鏡、八咫勾玉、草那芸剣を授けた。
月読神との離反によって昼と夜とが分かれた。
自ら神田を営み、新嘗の祭を行った。
巫女的性格をもつ神。ヒルメは日女(ひるめ)の義とされており、日の妻すなわち太陽の妻で、
男性日神の天照大神に仕える巫女が神に昇華したと考え、天照大神と大日孁とは神と司祭者の別の存在であったものが、 いつしか日神と巫女が一緒になり太陽女神となったとする説がある。
『日本書紀』によれば宮中に奉斎されていた天照大神・大和大国魂神を 第十代・崇神天皇の御代、同殿共床の神威を畏み天照大神を皇女豊鍬入姫命に勅して倭の笠縫の邑に、 大和大国魂神を皇女渟名城入姫命に勅して大市の長岡岬に奉遷した。
皇女豊鍬入姫命はさらに大宮地を求めて丹波、大和、紀伊、吉備などの各地を巡り、 ついで第十一代・垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が代わって大御神さまにお仕えし、 大御神の永遠にお鎮まりになるべき大宮地を求めて、各地を苦心してご巡幸されたのち、 「この地は、朝日夕日の来向ふ国、浪音の聞えざる国、風音の聞えざる国、弓矢・鞆の音 聞えざる国、大御神の鎮まります国ぞ」 と申されて、垂仁天皇二十六年九月、伊勢の五十鈴川上の現在の地にお鎮まりなった。
その後、代々皇女が神宮の司祭に選任されている。
紀伊熊野権現の若宮(若一王子)に祀られるため、若一王子と称される場合がある。
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天照大神(あまてらすおおみかみ) []
オオヒルメムチとも呼ばれる。女神。『日本書紀』ではイザナギノミコト、イザナミノミコトが諸神を産み終えて「天下の主」として産む。『古事記』では、イザナギノミコトが阿波岐原で禊祓いをして左眼を洗ったとき生れたとある。高天原の主神であると同時に、皇孫ニニギノミコトに神勅と三種の神器を授け葦原中つ国を治めさせている。日の神としてあがめられ、伊勢皇大神宮 (内宮) に祀られると同時に、皇室の祖神でもある。津田左右吉は、伊勢にもともと古くからあった日神崇拝が後世になり皇室の祖神と習合され、または同一視されたもので、その時期は6世紀をさかのぼらないであろうと説いている。『日本書紀』には、垂仁帝のヤマトヒメノミコトが斎宮として、大神をしずめ祭るべき地を求め、大和から伊勢に遷幸し、託宣によりその地にしずめたと記されている。『古事記』によると、その弟スサノオノミコトが天の真名井の誓約でみずからの心の清明であることを示しえたことで得意になり大神の田をこわし溝を埋めるなどの乱暴を働くが、大神はとがめなかった。さらに大神が神御衣 (かむみそ) を織っていると、天斑馬が逆剥ぎにされ投込まれたので、大神がついに怒り天岩屋戸にこもったため天地は暗黒となり、さまざまな災いが起った。そこで神々は協議しアメノウズメノミコトに舞を舞わせ大神を岩屋戸から招き出す。この神話は、冬至の頃の弱くなった太陽の霊魂を招き返し、これに活力を与えようとする鎮魂祭の儀式と解され、大神は日神であるわけだが、もう一つの性格としてみずから神田を営み、神衣を織っている点から神を祀る巫女とも考えられている。

天照大神

  生没年:
  父:伊邪那岐命
  子:
    天忍穂耳尊
    天穂日命(出雲氏へ)
    天津彦根命
    活津彦根命
    熊野櫲樟日命

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太陽神、高天原の主神、皇祖神、日本の総氏神、八百万の神々の中でもトップに位置する女神。
伊耶那岐神が御祓をしたときに、光を表す左目から生まれたとされる三貴神の一柱。
あらゆる生命にとって必要な太陽を象徴する神である。日本では古くから太陽を「日の神」として信仰し、天照大神ももともとはそうした太陽信仰から発展した神霊である。ただ、ほかの信仰と違い、古代日本人は太陽神そのものを信仰するほかに「日の神」に民族の祖神というイメージを重ねて祀った。そうした二重の性格を備えた神が天照大神である。
天照大神についての神話としては、「天岩戸隠れ」が有名である。天照大神が岩戸に隠れたために、世の中は光を失い、悪霊が満ち、災いが起こる。このことは日照時間が減ることによる不作、あらゆる生命の衰弱、そのことによる飢饉、餓死、疫病などを指しているのだろう。さらに「太陽が隠れる」ことには、古代の人々は冬至の頃とイメージを重ねていたようだ。その時期には、人々は太陽の再生を願って神祭りを行った。これは太陽の”死と再生”の儀式でもあった。「天岩戸隠れ」には、こうした農耕儀礼が反映されている。このことから、天照大神は大地の豊穣性を体現する母なる女神ともいえる。
一方、地上で乱暴狼藉を働いていた素盞鳴尊が高天原を訪ねてきたとき、「高天原の支配権を奪いにきたのでは」と警戒してすぐさま武装した。まず髪を角髪(みずら)という男性のものに結い直し、手や髪それぞれに五百もの勾玉を糸に通した飾りを巻き、さらに千本の矢が入る靭(ゆぎ)を背負い、五百本の矢が入る靭を腹に抱え、大変な強弓を手にした。そのように武装すると、四股を踏むように両足を大地にめり込ませ、素盞鳴尊を威嚇したのである。弓矢というのは、古来軍事力を象徴する道具であった。天照大神は、男性的な側面もある軍事を象徴する神でもあったといえるだろう。

天照大神

  生没年:
  父:伊邪那岐命
  子:
    天忍穂耳尊
    天穂日命(出雲氏へ)
    天津彦根命
    活津彦根命
    熊野櫲樟日命

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天照高日女神(あまてらすたかひめのかみ) []
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天照高比売神(あまてらすたかひめのかみ) []
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天照日女之命(あまてらすひるめのみこと) []
天照日女之命:あまてらすひるめのみこと
 → 天照大御神:あまてらすおおみかみ
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天照孁女貴(あまてらすひるめのむち) []
天照孁女貴:あまてらすひるめのむち
 → 天照大御神:あまてらすおおみかみ
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天照神(あまてるかみ) []
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天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)&aname(): ID too long; []
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊:あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと
 → 饒速日命:にぎはやひのみこと
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天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと) []
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天照玉神(あまてるたまのかみ) []
編集
天照玉命(あまてるたまのみこと) []
天照玉命:あまてるたまのみこと
 → 天火明命:あまのほあかりのみこと
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天照御魂神(あまてるみたまのかみ) []
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天野元政(あまの もとまさ) [1559~1609]
安芸・米山城主天野元定の婿養子となって天野氏を名乗る。関ヶ原の戦いの後、周防・三丘さらには周防・右田に領地を得て、右田(天野)毛利家の祖となった。
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天明玉命(あまのあかるたまのみこと) []
天明玉命:あまのあかるたまのみこと
 → 櫛明玉神:くしあかるたまのかみ
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天磐橡樟船(あまのいわくすふね) []
天磐橡樟船:あまのいわくすふね
 → 天鳥船神:あめのとりふねのかみ
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天石戸別神(あまのいわとわけのかみ) []
天石門別神
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天衣織女命(あまのえおりめのみこと) []
天衣織女命:あまのえおりめのみこと
 → 天棚機姫神:あめのたなばたひめのかみ
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天之忍許呂別(あまのおしころわけ) []
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天忍穂根尊(あまのおしほねのみこと) []
天忍穂根尊:あまのおしほねのみこと
 → 天忍穂耳尊:あまのおしほみみのみこと
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天之忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと) []
天之忍穂耳命:あまのおしほみみのみこと
 → 天忍穂耳尊:あまのおしほみみのみこと
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天香香背男(あまのかがせを) []
天香香背男
あまのかがせを
別名
天津甕星:あまつみかほし
加加勢男命/加加背男命:かがせをのみこと
可可瀬男命/可可背男命:かがせをのみこと
火火背男命:かがせをのみこと
香香世男神:かがせをのかみ
天香具背男命:あめのかがせをのみこと
北斗星神:ほくとのほしのかみ
三十三夜星神:さんじゅうさんやほしのかみ
星神:ほしのかみ
……
天香香背男の香香は炫(かが)、背は「さえ」で、光の明るく輝くさま。 明るく光る星の神。あるいは彗星、流れ星の神格化か。 陰陽道では彗星や流れ星を凶の兆しとすることがあるという。
天津甕星は天香香背男の別名。天に在る悪神で、折々怪光を表わして高天原の諸神を惑わす。 経津主神が武甕槌命と天神の命を受けて葦原中国平定の際諸々の従わない神々を誅し、 最後に残ったのが星の神である天香香背男だけとなった。 そこで建葉鎚命を遣わせて復させた。
最後まで逆らっていた神として、建御名方命との関係を示唆する説がある。
天香香背男は星神を信奉する海洋民族のことかもしれない。 大海原にあっては星の運航の知識の有無が生死に直結することから信仰の対象となったと考えられる。
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天杵瀬尊(あまのきせのみこと) []
天杵瀬尊:あまのきせのみこと
 → 天津彦根火瓊々杵尊:あまつひこねほのににぎのみこと
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天之杵火火置瀬尊(あまのきほほおきせのみこと) []
天之杵火火置瀬尊:あまのきほほおきせのみこと
 → 天津彦根火瓊々杵尊:あまつひこねほのににぎのみこと
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天久斯麻比土都命(あまのくしひとつのみこと) []
天久斯麻比土都命:あまのくしひとつのみこと
 → 天目一箇神:あめのまひとつのかみ
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天羽雷命 (あまのはずちのみこと) []
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天麻比止都禰命(あまのひとつねのみこと) []
天麻比止都禰命:あまのひとつねのみこと
 → 天目一箇神:あめのまひとつのかみ
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天穂日命(あまのほひのみこと・あめのほひのみこと) []
天穂日命
出雲国造家の先祖
……
根の国へ向かう建速須佐之男命は、高天原へ天照大御神に別れを告げに来た時、天照大御神は武装して迎えた。 建速須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では熯速日命を加えた六柱)を生んだ。
天之菩卑能命は、大神の右の鬢にかけられた珠から化生した神で、第二子にあたる。
菩卑のホは火・穂・秀等すべて秀でた意味があり、卑は日・火にも通じて、ホヒは秀日または秀火を意味する神名である。
この神は、国譲りの交渉役に選ばれて出雲の大国主神の許へ行ったが、大国主神に心腹して三年も報告しなかった。
『日本書紀』では、その後、この神の子の大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)、またの名を武三熊之大人(たけみくまのうし)を派遣したが、 父神同様に戻らなかったとある。
その次に派遣されたのが天稚彦である。
ただし『出雲国造神賀詞』では、交渉から戻った後、再度、御子神・天之夷鳥命をともなって天降り、 荒ぶる神を征服し、「国作之大神」、すなわち大名持神を鎮めたとある。
『日本書紀』では天穂日命と書かれ、「天穂日命、此出雲臣武蔵国造土師連等遠祖也」と書かれている。 つまり、出雲臣、武蔵国造、土師連の遠祖。
野見宿禰や、その子孫である菅原道真の遠祖でもある。
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天之三影之命(あまのみかげのみこと) []
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天之御影命(あまのみかげのみこと) []
天之御影命
あまのみかげのみこと
別名
天御影命:あまのみかげのみこと
天之三影之命:あまのみかげのみこと
明立天御影命:あけたつあめのみかげのみこと
……
天津彦根命の子。 同じく天津彦根命の子の天麻比止都禰命と同神とする説がある。
『新撰姓氏録』に、額田部湯坐連は天津彦命の子・明立天御影命の後とある。
『先代旧事本紀』に天斗麻彌命が額田部湯坐連等の祖とあり、 明立天御影命は天斗麻彌命とも同神と考えられる。結果的に天斗麻彌命=天麻比止都禰命となる。
日子坐王は、天之御影神の娘・息長水依比売を娶って、丹波比古多々須美知能宇斯王、水穂之真若王、神大根王(八瓜入日子王)、 水穂五百依比売、御井津比売の五柱を生んだ。
一般に、天御陰命と同神と考えられているらしい。
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天御影命(あまのみかげのみこと) []
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阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめのみこと) []
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天之水分神(あまのみくまりのかみ) []
山から麓へと流れる水を分配する神。
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天見通(あまのみとおし) []
伊勢皇大神宮に禰宜(ねぎ)として奉仕した神主家、荒木田氏の祖神。

荒木田氏
中臣氏と同系で大鹿島命の孫天見通命(あまのみとおしのみこと)を祖とする。一族は度会郡大貫に本拠をもち,景行朝に大貫連,成務朝に荒木田神主の姓を賜ったと伝えられる。7世紀後半ごろの首麻呂のころから荒木田を脱し単に神主と称していたが,879年(元慶3)に子孫の訴えにより荒木田神主の本姓に復した。首麻呂の孫の代に,佐禰麻呂の系統を一門,田長の系統を二門とする2派にわかれ,本拠をそれぞれ度会郡小社曾根,田辺(おのおの現在の玉城町)に移した。
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天見通ー天布多由岐ー伊己呂比ー大阿礼ー波己利ー荒木田最上ーーー伊勢神宮内宮禰宜家。この一族からは、公卿、国司も輩出された。
天見通」は、垂仁朝倭姫の時に大神宮禰宜に任じられた。
これ以降禰宜職を世襲。(続紀)
俳諧師祖「荒木田守武」国学者「荒木田久老」もこの流れから出た。
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天御中主神(あまのみなかぬしのかみ) []
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天之御柱(あまのみはしら) []
伊邪那岐神伊邪那美神が八尋殿と伴に、淤能碁呂島に建てた天を支える柱。
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天村雲命(あまのむらくものみこと) []
天村雲命:あまのむらくものみこと
 → 天牟羅雲命:あまのむらくものみこと
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天牟羅雲命(あまのむらくものみこと) []
天牟羅雲命
あまのむらくものみこと
別名
天村雲命:あまのむらくものみこと
天二上命:あめのふたのぼりのみこと/あめのふたかみのみこと
後小橋命:のちのおばしのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
度會神主等の祖。
太玉串を捧持して皇孫邇邇芸命に従って天降ったが、 神々が話し合ったところ、葦原中国は水がいまだ純ではなかった。
そこで、天牟羅雲命が高天原へ上って伝えたところ、 天照大御神は天忍石長井之水を八杯玉鋺に入れ「この水をもって食国に降り、 八盛を皇大神の御饌料とし、八盛を皇孫の御飯の材とし、残りを天忍石水といって 食国の水の上に注入し混和して朝夕の御膳の料とせよ。また従って降りた神々にも飲ませよ」と云った。 天牟羅雲命はこれを以って降り皇孫に奉告した。
この時、皇孫は天牟羅雲命にどの道を上って行ったのかお聞きになり、 天牟羅雲命は、大橋は皇孫の道なので、私は後の小橋を上りましたと答えた。 皇孫は天牟羅雲命に天二上命(あめのふたのぼりのみこと)、後小橋命と二つの別名を授けた。
同様の話は天忍雲根神にもある。同神か。
葦原中国に純な水をもたらした神で、「雲」の名から水神と考えられているのかもしれない。
『新撰姓氏録』には、天村雲命は明日名門命三世孫、額田部宿禰の祖とある。
天香語山命の御子とする伝承もある。
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天之八千千比売命(あまのやちぢひめのみこと) []
天之八千千比売命:あまのやちぢひめのみこと
 → 天棚機姫神:あめのたなばたひめのかみ
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天湯河板拳命(あまのゆかわたなのみこと) []
天湯河板拳命:あまのゆかわたなのみこと
 → 天湯河桁命:あまのゆかわたなのみこと
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天湯河桁命(あまのゆかわたなのみこと) []
天湯河桁命
あまのゆかわたなのみこと
別名
天湯河板拳命:あまのゆかわたなのみこと
天湯川田神:あまのゆかわたのかみ
山邊之大鶙:やまのべのおおたか
……
神魂命の子・角凝魂命十三世の孫。
『日本書紀』では、三十歳になってなお物言わぬ垂仁天皇の御子・誉津別命が、 鵠を見て物を言い始め、鳥取造の祖天湯河板挙がその鳥を出雲で捕らえ献上し、 誉津別命はその鳥を弄ぴ物言うことができるようになった。そこで湯河板挙を鳥取造とし、鳥取部・鳥養部・譽津部を定めたとある。
古事記』では、垂仁天皇の御子・本牟智和気命は、鬚は胸まで垂れ、ロもきけなかった。そして空を飛ぶ鵠を見て、「あああ」と声を出すだけであった。 天皇は悲しまれ、山辺之大鶙にその鵠を捕えるように命じられた。 山辺之大鶙は木国・針間国・稲羽国・旦波団・多遅麻国・近淡海国・三野国・尾張国・科野国を経巡ってようやく高志国でこれを捕らえて献上した。 だが、皇子の声は出ず、はじめて唖であることがわかった。
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天湯川田神(あまのゆかわたのかみ) []
天湯川田神:あまのゆかわたのかみ
 → 天湯河桁命:あまのゆかわたなのみこと
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阿麻比舎命(あまひさ) []
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阿麻毘舎卿(あまひさ) []
阿毘古との間に「音穂命」なる人物がいる系譜もあるが一般的でない。
21雄略天皇・19允恭天皇朝の人?
中臣阿麻毘舎卿(なかとみあまひさ)
子・
中臣阿麻毘舎卿の子・・・中臣阿毘古
???~???
阿毘古との間に「音穂命」なる人物がいる系譜もあるが一般的でない。
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阿麻毘舎卿(あまひさ)
①父:大小橋 母:不明
②子供:阿毘古  阿毘古との間に「音穂命」なる人物がいる系譜もあるが一般的でない。
③21雄略天皇・19允恭天皇朝の人?
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甘利虎泰(あまり とらやす) [????~1548]
甲斐源氏流。甲斐・武田晴信(信玄)の重鎮として信頼厚く、板垣信方と共に家中を支える。その軍略は定評があり、“荻原常陸(信玄の父信虎期の勇将)に劣らぬ剛の者”と呼ばれた。かの山本勘助も一目置く程であったという。しかし、信濃・村上氏との上田原の合戦では、不利な条件の下戦いとなって、多くの武将が戦死、虎泰もその1人であった。
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天槵津大来目(あめくしつおおくめ) []
天槵津大来目:あめくしつおおくめ
 → 大久米命:おおくめのみこと
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天国饒石彦火瓊々杵尊(あめくににぎしひこほのににぎのみこと) []
天国饒石彦火瓊々杵尊:あめくににぎしひこほのににぎのみこと
 → 天津彦根火瓊々杵尊:あまつひこねほのににぎのみこと
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天知迦流美豆比売神(あめしるかるみづひめのかみ) []
天知迦流美豆比売神
あめしるかるみづひめのかみ
……
古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)。
これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々だと思う。
天知迦流美豆比売は、天(あめ)領(しるかる)瑞日(みづひ)女(め)で、生命力に満ちた太陽の女神とする説がある。
個人的には、天(あめ)領(しるかる)水(みづ)姫(ひめ)で、天より降り注ぐ雨の女神という印象だが。
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天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと) []
記・紀にみえる孝昭天皇の皇子。
同母弟に孝安天皇。「日本書紀」によれば,和珥(わに)(のち春日(かすが))氏の祖先。「古事記」では天押帯日子(あめおしたらしひこの)命。春日,大宅(おおやけ),栗田,小野,柿本氏ら中央豪族の祖。
日本編集
天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと)&aname(): ID too long; []
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天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎ)&aname(): ID too long; []
天孫降臨
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天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)&aname(): ID too long; []
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊:あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと
 → 天津彦根火瓊々杵尊:あまつひこねほのににぎのみこと
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天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊(あめにぎしくににぎしひこほのににぎのみこと)&aname(): ID too long; []
天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊:あめにぎしくににぎしひこほのににぎのみこと
 → 天津彦根火瓊々杵尊:あまつひこねほのににぎのみこと
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天伊岐志邇保命(あめのいきしにほのみこと) []
天伊岐志邇保命
あめのいきしにほのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
山代國造等の祖。高魂尊の後裔。
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天活玉命(あめのいくたまのみこと) []
天活玉命
あめのいくたまのみこと
別名
活玉命:いくたまのみこと
……
邇芸速日命に従って天降った三十二人の防衛の一人。
新田部直等の祖。
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天伊佐布魂命(あめのいさふたまのみこと) []
天伊佐布魂命
あめのいさふたまのみこと
別名
天伊佐布留魂命:あめのいさふるたまのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
神魂命の孫、角凝魂命の子。倭久(倭文)連等の祖。
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天伊佐布留魂命(あめのいさふるたまのみこと) []
天伊佐布留魂命:あめのいさふるたまのみこと
 → 天伊佐布魂命:あめのいさふたまのみこと
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天石門別神(あめのいはとわけ) []
天孫降臨
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天岩間別神(あめのいわとわけのかみ) []
天石門別神
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天石門別神(あめのいわとわけのかみ) []
天孫降臨に随伴する神々の一柱。天太玉神から生まれた子神格:山の神、石の神、門の神
神話には、「この神は御門を護る神さまなり」とある。
神名の石門は文字通り岩でできた扉を意味し、これに天がつくと、天上界の入り口にある堅固な門というふうに解釈される。天孫邇邇芸命が地上に降臨するときに、天照大神は、まず随伴する主立った神々を指名したあとで、知恵の神である思兼神、天岩戸の扉を怪力で開けた天手力男神とともに天石門別神を加えた。その役割は、天孫が地上で政治を行うときに、その宮殿の出入り口に在って天孫に奉仕し、悪霊の進入を防ぐというものであった。
実際に天石門別神は、古来、天皇の宮殿の四方の門に祀られていた。天皇が住む宮殿、宮中、内裏の中には、天皇家の始祖に関する神をはじめ、御膳の神や託宣の神といった様々な神が祀られていた。そうした主だった神とは別に、宮殿に付属する井戸の神や竈の神なども祀られていたが、その中で御門の神として祀られていたのが天石門別神と同一神とされる櫛石窓神・豊石窓神であった。
この神の原像は、神名にもあるように岩と関係が深いようである。日本のみならず、世界各地でも石に神霊が宿るという信仰がある。各地の石神信仰や巨石信仰は今も生き続けている。当然、神社にも巨石、巨岩を御神体として神霊を祀っているところが多くある。天石門別神を祀る神社もそうしたもののひとつである。「石座(イワクラ)」ともいわれるように、神秘を感じさせる巨石や御神体山の上にある石などは、神の依り憑くところと考えられたのである。山の上にいる石の神、それは普段は気配しか感じられない山の神が、人間に見えるような形をとった依り代でもある。
万葉集に「河内王を豊前国(=大分県)の鏡山に葬る時」という題のつけられた「豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし」という歌がある。河内王が鏡山を墓として埋葬されたという歌だが、このときの岩戸とは死者が他界に行く入口を指している。古来から日本では他界に去った死者の霊は山の神となって生者の守り神となると考えられていた。つまり、このときの岩戸は生と死の境目を意味しているといえる。
天石門別神は、そういった理由で家の門、村の境など、あらゆる境界を司る神と考えられ、さらに他界から進入しようとするあらゆる災厄を防ぎ、人間の平穏な生活を守護する神とされたのである。石造りかどうかに関わらず、どこの門にでも宿っているという点で、マイナーな名前にも関わらず、身近な神であるといえるだろう。
……
古事記』によると、邇邇芸命は天降りされた折、三種の神器(玉・鏡・剣)を与えられ、 五伴緒神とともに思兼神・手力男神・天石門別神を従えた。
天石門別神の亦の名を櫛石窓神、豊石窓神といい、御門の神である。
『古語拾遺』によると、豊磐間戸命と櫛磐間戸命は太玉命の御子神とある。
櫛は奇で、豊と同じく美称。窓は真門の意味。
『延喜式神名帳』宮中神の条に「御門巫祭神八座」とあって、 「櫛石窓神 四面門各一座」と「豊石窓神 四面門各一座」の神名を掲げている。 御殿の四面の窓、あるいは門の神で、外敵侵入を防塞する機能をもつ。
この神を祭祀するのは御門の巫である。
天石門別神は、天照大御神がお隠れになった天石屋戸が神格化したものとする説がある。
古事記』によると、天石門別神と手力男神は別の神だが、天石屋戸を開けた手力男神を天石門別神と同神とする神社もある。
門守の神として、各神社の参道の脇や、神門などに祀られている場合が多い。
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天宇受売(あめのうずめ) []
天鈿女神
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天宇受売命(あめのうずめ) []
天岩屋戸
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天鈿女(あめのうずめ) []
天鈿女神
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天宇受売神(あめのうずめのかみ) []
天鈿女神
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天鈿女神(あめのうずめのかみ) []
巫女の元祖。道祖神
天岩戸の前に集まった神々の一柱。猿田彦神の妻ともいわれる。猿女氏の氏神神格:芸能の神(演劇・俳優の神、舞楽の神)神社:椿岸神社、芸能神社、千代神社
神話に興味のない方は聞き覚えもないだろうが、日本神話において実に有名な神である。三貴神をはじめとする強力な血筋を持った神ならばいざ知らず、神話の有名な場面に決定的な役割をもって2度も登場するのである。日本神話では、ある特定の場面にその場限りで出場する神が多い中、異例のことである。
はじめに登場するのが、天岩戸事件の時だ。天岩戸に隠れてしまった天照大神を呼び戻すために、決定的な役割としての舞を舞ったのがこの神である。日本書紀に「巧みに俳優(ワザオギ)をなし」と記されているのがその場面である。詳しくは天岩戸隠れを参照していただくが、ここでの天鈿女神の踊りは、洞窟に隠れたくなるような天照大神の失意や怒りといったものをなぐさめ、和らげることを意味している。その役割は、弱った日の神を回復させることであり、そこから、神を祀りなぐさめるために神前で舞を奉じる神楽の始まりとされ、天鈿女神がその祖神とされている。神楽の語源は「神座(カミクラ=神が宿る場)」であるといわれ、これは神を招き、降臨してきた神を歓迎し祝福するために、神座において踊りを捧げることである。同時に神楽には、神の心を楽しませ和らげる「神遊び」の意味も含まれている。そうした神楽から日本のさまざまな芸能が派生したことから、天鈿女神は、我が国における芸能の源流の神ともされているのである。
また、天鈿女神が神懸かりして踊る様子を「俳優なして」と記されていることから、俳優のルーツともいわれる。「わざ」とは神のわざ(所作、行為、技)のことで、神が乗り移ったような振る舞いを指す。「おぎ」は招くという意味である。つまり、「俳優」とは、神霊を招いておもしろおかしい振る舞いを演じて、なぐさめ、楽しませることをいう。また、古代において「俳優をなす」ことは、神を奉祀するだけでなく、一般の人々を楽しませる娯楽的な面も強くもっていたのである。
さて、2度目に登場するのは、邇邇芸命の天孫降臨の時だ。天下ってきた邇邇芸命が下方に赤く光る妖しい光を見つけ、天鈿女神を偵察に出した。その光は猿田彦神で、天孫の道案内に赴いたというのがその筋である。詳しくは天孫降臨を参照されたい。さて、その後に、天鈿女神は猿田彦神と結婚し、共に伊勢の五十鈴川の上流に落ち着き、ここで猿田彦神の名を取って「猿女」と名乗ったとある。この子孫とされるのが猿女一族で、古くから朝廷の祭祀と深く結びついていた一族である。また、猿女君の祖であるともいわれている。猿女君とは、宮廷祭祀において神楽を舞うことを務めとする神祇官の役職名である。
猿女一族は、踊りによって神々を喜ばせて関心を引き、踊りを通じて神々の託宣を聞くという呪力を駆使するシャーマニスティックな女性が中心の集団だったようである。その踊りは非常に熱狂的かつエロチックで、女性たちが神懸かりして踊りを神に捧げ豊穣を祈る姿は、民衆の目には特殊な魔術を駆使する超能力者の集団と映ったらしい。ようするに、彼らは神と人との間を媒介する一種の巫女の集団だったといっていい。天鈿女神は、神々に踊りを捧げて豊穣を祈願する、超能力的な巫女集団のパワーが神格化された存在ということができるだろう。
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天宇受賣命(あめのうずめのみこと) []
古事記』、『日本書紀』など日本神話に登場する女神。
一説に別名「宮比神」(みやびのかみ)、「大宮能売命 」(おおみやのめのみこと)。
稲荷三座の一座である佐田彦大神を猿田彦と考えて、 同じく稲荷大神三座の一座である大宮売神を、天宇受売命の別名とする説があり、 宮比神として祀られる場合も多い。
古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。
東京都府中の大國魂神社境内・宮乃咩神社、三峯神社境内・猿田彦神社、島根県熊野大社境内・伊邪那美神社、京都の大田神社にて参拝した。
古事記』では「天岩戸」の場面、「天孫降臨」の場面、「猿田彦と天宇受賣命」の話に登場する。
古事記』の「天照大御神と須佐之男命」の巻、「天の石屋戸」の段
岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
その一環として、天宇受売命が、天の香具山の日陰蔓を襷にかけ、眞拆鬘を髪に擬い、天の香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりして、胸乳をかき出だし裳の紐を陰部までおし下げた。すると、高天原が鳴りとどろくばかりに、八百万の神々がどっといっせいに笑った。
 そこで天照大御神はふしぎに思われて、天の石屋戸を細めに開けて、中から仰せられるには、「私がここにこもっているので、天上界は自然に暗闇となり、また葦原中国もすべて暗黒であろうと思うのに、どういうわけで天宇受売は舞楽をし、また八百万の神々はみな笑っているのだろう」と仰せられた。そこで天宇受売が申すには、「あなた様にもまさる貴い神がおいでになりますので、喜び笑って歌舞しております」と申しあげた。こう申す間に、天兒屋命と布刀玉命と布刀玉命が、その八咫鏡をさし出して、天照大御神にお見せ申しあげるとき、天照大御神がいよいよふしぎにお思いになって、そろそろと石屋戸から出て鏡の中をのぞかれるときに、戸の側に隠れ立っていた天手力男神が、大御神の御手を取って外に引き出し申した。ただちに布刀玉命が、注連縄を大御神の後ろに引き渡して、「この縄から内にもどっておはいりになることはできません」と申しあげた。こうして天照大御神がお出ましになると、高天原も葦原中国も自然に太陽が照り、明るくなった。
古事記』の「邇邇芸命」の巻、「猿田毘古神」の段
天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎのみこと)が、天降りなさろうとするときに、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。そこで、天照大御神と高木神の仰せによって、天宇受賣神に命じて、「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に対して、気おくれせず圧倒できる神である。だから、あなた一人で行ってその神に向って、『天つ神の御子の天降りする道に、そのように出ているのはだれか』と尋ねなさい」と仰せになった。それで天宇受賣神が問いただされたとき、その神が答えて申すに、「私は国つ神で、名は猿田毘古神と申します。私がここに出ているわけは「天つ神の御子が天降っておいでになる、と聞きましたので、ご先導の役にお仕えいたそうと思って、お迎えに参っております」 と申し上げた。
古事記』の「邇邇芸命」の巻、「猿田毘古神と天宇受賣命」の段
 さてそこで、邇邇芸命が天宇受賣命に仰せられるには、「この先導の役に奉仕した 猿田毘古大神は、独りでこの神に立ち向かって、その正体を明らかにして言上した、そなたがお送り申しなさい。またその神の御名は、そなたが負うて、天つ神の御子にお仕え申しなさい」と仰せられた。こうして猨女君(さるめのきみ)たちは、その猿田毘古の男神の名を負うて、女を猨女君と呼ぶことになったのは、こういう事情によるのである。さてその猿田毘古神は、阿耶訶(あざか)におられるとき、漁をしていて、ひらぶ貝にその手をはさまれて、海水に沈み溺れなさった。それで海の底に沈んでおられるときの名は、底どく御魂といい、その海水が泡粒となって上るときの名は、つぶたつ御魂といい、その泡が裂けるときの名は、あわさく御魂という。
 さて天宇受賣命は、猿田毘古神を送って帰って来て、ただちに大小のあらゆる魚類を追い集めて、「おまえたちは、天つ神の御子の御膳としてお仕え申しあげるか」 と問いただしたとき、多くの魚がみな 「お仕え申しましょう」 と申しあげた中で、海鼠(なまこ)だけは答えなかった。そこで天宇受賣命が海鼠に向かって、「この口は答えない口か」と言って、紐小刀でその口を裂いた。だから今でも海鼠の口は裂けている。こういうわけで、御代ごとに志麻国から初物の魚介類を献上する時に、獲女君たちに分かち下されるのである。
猿女君・稗田氏の祖とされ、稗田氏の氏神である賣太神社では、芸能の始祖神、福の神、おたふく、おかめ、等と称すると伝わる。
芸能・技芸全般の神として信仰されており、千代神社(滋賀県彦根市)、芸能神社(京都市右京区)、椿大神社(三重県鈴鹿市)、鈿女神社(長野県北安曇郡松川村)などで祀られている。
鈿女神社は地元で「おかめ様」として崇められており、最寄駅の大糸線北細野駅は信濃鉄道の駅として開業した際「おかめ前駅」と呼ばれていた。国営化に当たって改称。
天孫降臨の地、高千穂より天の岩戸が飛来したと伝えられる長野県の戸隠神社には天の岩戸開神話に功績のあった神々(天手力雄命・天八意思兼命)が祀られており、そのうちの一社、火之御子社には天鈿女命が祀られている。また、岩戸開神話に基づいた神楽が古来より受け継がれている。
宮崎県西臼杵郡の高千穂町には、アメノウズメがサルタヒコと結婚した場、荒立宮の後と伝わる荒立神社があり、国際結婚・安産の神として、ウズメとサルタヒコが神体となっている。
村境や道路の分岐点などに立てられる道祖神は、サルタヒコとアメノウズメであるともされる。
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天鈿女命(あめのうずめのみこと) []
天鈿女神
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天宇受売命(あめのうづめのみこと) []
天宇受売命
あめのうづめのみこと
別名
天鈿女命/天鈿売命:あめのうづめのみこと
天宇須女命:あめのうづめのみこと
宮比神:みやひのかみ
……
古事記』には、天照大御神が天の岩屋に隠れ給うた時、 天宇受売命が、槽を伏せた上で踊り、神がかりながら乳房を出し、次いで紐を解き、衣をさげて女陰をあらわに出したので神々は大笑いしたとある。 神々が楽しげに騒いでいるので、天照大御神が気になって岩戸を開いたという。
この天宇受売命の所作が、神楽舞の起源。『日本書紀』では天鈿女命と呼ばれ、「猿女君の遠祖」とあり、 「天の石窟戸の前に立ちて巧に俳優(わざおぎ)を作し」とも書かれている。
宇受(鈿)は髪飾りのこと。髪飾りをして神祭りを行う女神。
天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱。
天孫邇邇芸命が豊葦原中国に降臨した時、 天之八衢(八方の道の辻・分岐点)にいて高天原と下の葦原中国をてらしていた神がいた。
天孫邇邇芸命は天宇受売命に命じて「吾が御子(邇邇芸命)の天降りする道をさえぎるのは誰か」と問わせた。 すると「吾は国津神。猿田彦と申すが、天津神の御子が天降りされると聞いたので、御先導申し上げようとここまで出迎えに来たのだ」と答えた。
天孫邇邇芸命は天宇受売命に「猿田彦神は汝が顕した神だから、汝がお送りするがよい。 またその神の名を汝が名にとって仕えるがよい」と言われたので、 それ以後天宇受売命を猿女君と呼ぶようになった。
後に、猿田彦神は天宇受売命と結婚。子孫を猿女と称し、神楽・伎芸などの祖神と仰がれ祀られている。
稲荷三座の一座である佐田彦大神を猿田彦と考えて、 同じく稲荷大神三座の一座である大宮売神を、天宇受売命の別名とする説があり、 宮比神として祀られる場合も多い。
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天宇須女命(あめのうづめのみこと) []
天宇須女命:あめのうづめのみこと
 → 天宇受売命:あめのうづめのみこと
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天鈿売命(あめのうづめのみこと) []
天鈿売命:あめのうづめのみこと
 → 天宇受売命:あめのうづめのみこと
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天表春命(あめのうわはるのみこと) []
天表春命
あめのうわはるのみこと
……
邇芸速日命に従って天降った三十二人の防衛の一人。
八意思兼神の子。信濃国阿智祝部、秩父國造の祖。
同じく八意思兼神の子・天下春命の兄弟か。
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天之忍男(あめのおしお) []
威力のある天の男神という意味
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天忍熊根命(あめのおしくまねのみこと) []
天忍熊根命:あめのおしくまねのみこと
 → 天忍雲根神:あめのおしくもねのかみ
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天押雲(あめのおしくも) []
神武東制に従った天種子命の父とされている。天孫降臨で雲を押し分けたイメージの神格化か?
天押雲根命が同神だとすると、春日大社・摂社 若宮神社に祭られている神様。
天児屋根命の御子神である
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天忍雲根神(あめのおしくもねのかみ) []
天忍雲根神
あめのおしくもねのかみ
別名
天押雲根命:あめのおしくもねのみこと
天押雲命:あめのおしくものみこと
天忍熊根命:あめのおしくまねのみこと
……
藤原氏系図では「天児屋根尊-天押雲命」とあり、天児屋根尊の御子神。
邇邇芸命に従って天降った。
皇孫の御膳に使う水を、国土の水に天上の水を加えて奉れという神漏岐神漏美命(かむろき・かむろみ)の委託により、 父神・天児屋根尊の命を受けて、神漏岐神漏美命の元に遣わされ、天水を天二上よりもち下った。
天牟羅雲命にも同様の話があり、同神か。
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天押雲根命(あめのおしくもねのみこと) []
天押雲
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天押雲命(あめのおしくものみこと) []
天押雲
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天忍日命(あめのおしひ) []
天孫降臨
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天忍日命(あめのおしひのみこと) []
天忍日命
あめのおしひのみこと
別名
神狭日命:かむさひのみこと
天押日命:あめのおしひのみこと
……
邇邇芸命の天孫降臨において、天津久米命と共に天之石靫を取り負い、頭椎の太刀を取り佩き、天のはじ弓を取り持ち、 天の真鹿児矢を手挟んで先導した神。
大伴連の祖。
『古語拾遺』では、高皇産霊神の娘・栲幡千千姫の子で、大伴宿禰の祖。
また、太玉命、瓊瓊杵尊と同母兄弟とある。
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天押日命(あめのおしひのみこと) []
天押日命:あめのおしひのみこと
 → 天忍日命:あめのおしひのみこと
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天忍穂耳神(あめのおしほみみのかみ) []
天照大神と素盞鳴尊との誓約の際にはじめに生まれた神で、天照大神の養子。
稲穂の神、農業神
れっきとした天照大神から神武天皇までと続く神々の系譜の中に存在する神である。あまりに聞き覚えがないが、名目上の天照大神の長男である。 天照大神と素盞鳴尊との誓約の際にはじめに生まれた神なので、実質上は素盞鳴尊の子供になるのかもしれない。
皇室の祖神の系統に連なる神であるから、本来は稲穂の神である。「忍」は威力あるもののこと、「穂」は文字通り稲穂であり、「耳」は実をいっぱいつけて頭を垂れる稲穂の様子から、俗にお金が貯まる耳とされる福耳を連想したものであろう。その意味で、「立派に実った大きな稲穂」をたたえた呼び名といえよう。
さて、天孫降臨の項でも述べたが、天忍穂耳神は本来天孫降臨の主役となっていてもおかしくないほどの血筋をもっている。しかしこの役目を自分と栲幡千々姫命との子、邇邇芸命に譲ってしまった。命じられるままにしておけば地上の大きな権力を手にすることができたのだが、自らそれを放棄してしまった彼の行動は、不自然な主役交代劇として神話の中での謎とされている。
この神の別称に正哉吾勝勝速日天忍穂耳神というのがある。これは、彼が生まれた誓約の際に、実父素盞鳴尊が誓約を勝ち取ったことに大喜びして、最初の子につけた名である。「まさにわれ勝てり、勝つこと昇る日のごとく速し」という勝利の感激そのままである。占いもある意味賭け事のようなもので、これに勝った素盞鳴尊は有頂天になって高天原で狼藉の限りを尽くし、天照大神を困らせて天岩戸に隠れさせてしまう。こんな素盞鳴尊の行為は、大穴を当てて舞い上がり、羽目を外しすぎて大失敗をやらかすギャンブラーと似ている。そういった理由で、ギャンブルに限らず、この神は勝運、授福の神として信仰されている。
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天照大御神の御子。天孫瓊々杵尊の父。
根の国へ向かう建速須佐之男命は、高天原へ天照大御神に別れを告げに来た時、天照大御神は武装して迎えた。 建速須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では熯速日神を加えた六柱)を生んだ。
天照大御神の左の御みづらの八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠から生まれた神。
正勝吾勝は、須佐之男命が誓約を勝ちとったことを誇る意味。 耳は身と同じ意味で、忍はおほし(大)穂は秀。
天忍穂耳尊高木神の娘・萬幡豊秋津師比売命との間に、天火明命と天津日高日子番邇邇芸命の二柱の神が生まれた。
『先代旧事本紀』には、天火明命の代わりに饒速日命となっており、天火明命=饒速日命という説がある。
古事記』によると、天照大御神と高木神は、 はじめ父神である天忍穂耳命に「お前が葦原中国へ降臨して治めよ」と命じた。 ところが、忍穂耳命は「自分の子の邇邇芸命の方が適当だと思う」と申されたので、 改めて邇邇芸命に天孫降臨・国土統治の神命が下された。
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天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと) []
正しくはマサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト。スサノオノミコトがアマテラスオオミカミの八坂瓊五百箇御統 (やさかにのいおつみすまる) を請い受け、噛んで吐き捨てた気から生れた神。葦原中つ国平定に功あり、ニニギノミコトの父。木幡、英彦山神社の祭神。
……
天照大御神の御子。天孫瓊々杵尊の父。
根の国へ向かう建速須佐之男命は、高天原へ天照大御神に別れを告げに来た時、天照大御神は武装して迎えた。 建速須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では熯速日神を加えた六柱)を生んだ。
天照大御神の左の御みづらの八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠から生まれた神。
正勝吾勝は、須佐之男命が誓約を勝ちとったことを誇る意味。 耳は身と同じ意味で、忍はおほし(大)穂は秀。
天忍穂耳尊高木神の娘・萬幡豊秋津師比売命との間に、天火明命と天津日高日子番邇邇芸命の二柱の神が生まれた。
『先代旧事本紀』には、天火明命の代わりに饒速日命となっており、天火明命=饒速日命という説がある。
古事記』によると、天照大御神と高木神は、 はじめ父神である天忍穂耳命に「お前が葦原中国へ降臨して治めよ」と命じた。 ところが、忍穂耳命は「自分の子の邇邇芸命の方が適当だと思う」と申されたので、 改めて邇邇芸命に天孫降臨・国土統治の神命が下された。

天忍穂耳尊

  生没年:
  親:天照大神
    別名:正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
  妻:栲幡千千姫命(父:高皇産霊尊
    天火明命
    瓊瓊杵尊
日本編集
天之尾羽張(あめのおはばり) []
威勢のあって雄々しい刀であることを意味する。
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天之尾羽張(あめのおはばり) []
神生み
迦具土神の屍体から
山の神
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天尾羽張命(あめのおはばりのみこと) []
天尾羽張命
あめのおはばりのみこと
別名
伊都之尾羽張神:いつのおはばりのかみ
稜威雄走神:いつのおばしりのかみ
……
伊邪那美が迦具土神を生んだ際に、 その火に焼かれて死んでしまったことを悲しみ、怒った伊邪那岐が、 十拳剣(長い剣)を抜いて迦具土神を斬り殺してしまった。その刀剣の名を天之尾羽張といい、 またの名を伊都之尾羽張という。
尾羽張とは、一般に先が鋭く反ってよく斬れると解釈されている。
『日本書紀』の天孫降臨の章に登場する稜威雄走神も同神で、 稜威雄走神の子が甕速日神、その子が熯速日命、その子が武甕槌神。
『古語拾遺』に、須佐之男命が八岐大蛇を斬った天十握剣の名を天羽羽斬といい、羽羽は大蛇であるという。 よって羽張は、雄々しい大蛇とする説もある。
古事記』の建御雷神の条に、建御雷神の親神として登場し、 「天安何の水を塞ぎ止めて」とあり、水神とする説もある。
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天思兼神(あめのおもいかねのかみ) []
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天思金神(あめのおもいかねのかみ) []
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天香具背男命(あめのかがせをのみこと) []
天香具背男命:あめのかがせをのみこと
 → 天香香背男:あまのかがせを
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天鏡尊(あめのかがみのみこと、あめかがみのみこと、あまのかがみのみこと、あまかがみのみこと)&aname(): ID too long; []
天合尊
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天迦久神(あめのかく) []
葦原中国平定
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天香久山神(あめのかぐやまのかみ) []
天火明神の子で天照大神の曾孫。尾張氏など多くの氏族の祖神。
農業神、倉庫の神
天香久山神は、天孫降臨の際に邇邇芸命に従って地上に下った神々の中の1神で、その後紀伊国の熊野に住んだとされ、神武東征神話に登場する高倉下神と同一視されている。 神武天皇が熊野に侵攻した際、現れた大きな熊の発する毒気に冒されて兵が失神して倒れてしまった。これを見て、天照大神高御産巣日神は軍神武甕槌神を援軍として差し向けようとしたが、武甕槌神は自分の代わりに布都御魂剣を降らせた。霊剣は高倉下神の倉の屋根を突き破って床に突き立ち、朝、目覚めた高倉下神がこれを見つけて神武天皇に献じると、たちまち天皇も軍隊も回復した。その後、熊野の豪族も霊剣の力もあって斬り従えられ、無事大和平定が成ったという。
この話で重要なのは、霊剣布都御魂剣が高倉下神のもとに降ってきたという部分が、天から神霊が降ってきて何かに憑依する、という古代の人々の宗教儀式の観念を象徴しているということだ。つまり高倉下神は、高天原の最高神の意志を受けて、神武天皇の大事業をサポートしたというわけである。
その後、神武天皇即位4年に、高倉下神は越後開発の命を受けて弥彦の地に移住した。今で言う出向とか単身赴任といったところだが、なぜ越後だったのかはよく分かっていない。とにかく、越後に赴任してからの方が本来の霊力を発揮したようで、住民に対して農耕、漁労、製塩、酒造などを教えて、産業興隆を大いに助けたと伝わる。以来、越後鎮護の神、開発の神として祀られ、今でも厚く信仰されている。それが弥彦神社の祭神となっている天香久山神としての姿である。
高倉下神の名は、神を祀る高い倉の主の意味である。倉というのは、古代において収穫した穀物を貯蔵する場所であった。「倉庫」という言葉は後世に生まれたもので、「庫」は武器庫を意味している。高床式の建物の模型や写真を見たことがあると思うが、これがここでの倉にあたる。穀物は命をつなぐ大事な食料であり、それを保存する倉は、人々にとってむやみに出入りしてはならない神聖な場所だった。当然、そこには倉の霊が宿ると考えられ、大切な食料を守ってもらうことを願って神として祀るようになった。そうして神格化されたのが高倉下神というわけだ。
倉の神というのは、穀物の豊かさを保証する神でもあった。だから、倉の神を祀ることは倉の中が穀物でいつもいっぱいになるように願うことでもあった。そうした意味では、高倉下神は、穀物の豊作をもたらす神でもあったわけだ。そういう農業神としての性格を備えていたからこそ、天香久山神として越後へ移ったあとも、国土開発の守護神として活躍できたのである。
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天香児山神(あめのかぐやまのかみ) []
天香久山神
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天香山神(あめのかぐやまのかみ) []
天香久山神
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天香山命(あめのかぐやまのみこと) []
天香山命
あめのかぐやまのみこと
別名
天香語山命/天香吾山命:あめのかごやまのみこと
手栗彦命:たくりひこのみこと
高倉下:たかくらじ
……
天忍穂耳尊の御子である天火明命の御子神。母は天道日女命。尾張連等の遠祖。
『先代旧事本紀』では饒速日命の子となっており、天火明命=饒速日命とする。
饒速日命に従って大八洲国に降り、紀伊国熊野邑に坐した。
后神は熟穗屋姫命。
天火明命の天孫族は、大和国葛城の高尾張から尾張の地に移住し、 尾張氏として中部地方に勢力を張り、御子天香山命の時に尾張地方に定住した。
神武東征の折り、熊野に立ち寄った際、毒を吐く神によって天皇をはじめ全員が病に倒れた。 この時、高倉下の夢に、天照大御神が建御雷神に天の下を平定するように命じたが、 建御雷神は、自分が行かなくても国を平定した剣を降ろせばよいといい、 高倉下に霊剣を倉に入れたことを告げる。夢から覚めた高倉下が霊剣を見つけ天皇に献上したところ、皆の病が治った。
この神を、御饌津大神と同神とする場合もある。
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天香吾山命(あめのかごやまのみこと) []
天香吾山命:あめのかごやまのみこと
 → 天香山命:あめのかぐやまのみこと
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天香語山命(あめのかごやまのみこと) []
天香語山命:あめのかごやまのみこと
 → 天香山命:あめのかぐやまのみこと
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天壁立神(あめのかべたちのかみ) []
天壁立神:あめのかべたちのかみ
 → 天之常立神:あめのとこたちのかみ
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天神玉命(あめのかみたまのみこと) []
天神玉命
あめのかみたまのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
三嶋縣主等の祖。
神魂命、あるいは後裔とする説がある。
同じく邇芸速日命に随伴した、天神魂命と同一視される場合もある。
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天神立命(あめのかむだちのみこと) []
天神立命
あめのかむだちのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
高御魂命の孫。山背久我直の祖。役直、葛城直の祖。
『先代旧事本紀』第三巻天神本紀の山背久我直等祖の天神立命に関して、 『先代旧事本紀訓註』(大野七三著)の本文には天背男命とあるが、 巻末の概説では天神立命とある。
国史大系登載の『先代旧事本紀』では天神立命とあるので、本文中の天背男命は誤記かもしれない。
ただし、天背男命の父神の名が天壁立命なので、似た名前の天神立命は天背男命の別名という可能性もある。
また、天世手命は久我直等の祖とあり、天世乎命を書かれている場合もあるが、天世乎命が正しい字なら、 「あめのせお」と読め、天背男命と同神と考えると、山背久我直等祖の天神立命は天背男命で良いのかもしれない。
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天神魂命(あめのかんたまのみこと) []
天神魂命
あめのかんたまのみこと
別名
三統彦命:みむねひこのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
神魂命、あるいは後裔か。
葛野鴨縣主等の祖。 『姓氏録』山城神別に、「神魂命の孫・鴨建津見命、大烏と化して天皇を導く」とあり、山城の賀茂に住む神で賀茂県主の祖とある。
同じく邇芸速日命に随伴した、天神玉命と同一視される場合もある。
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天櫛明玉命(あめのくしあかるたまのみこと) []
天櫛明玉命:あめのくしあかるたまのみこと
 → 櫛明玉神:くしあかるたまのかみ
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天櫛玉命(あめのくしたまのみこと) []
天櫛玉命
あめのくしたまのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
系統不詳。邇芸速日命の天降りの時、属神として下がっった。
鴨県主等の祖。御子神に天櫛耳命。
伊勢国風土記逸文に「伊勢と云うは、伊賀の穴志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建の子の命、 又の名は伊勢都彦の神、又の名櫛玉命、此の神、昔、石もて城を造り、 其の地に坐しき。ここに阿倍志彦の神、来り奪えど勝たずして還り却りき。因りて名を為しき」とある。同神か。
大己貴神の前に出現した奇魂神と同神とする説もある。
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天椹野命(あめのくぬのみこと) []
天椹野命
あめのくぬのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
天椹野命は、三十二人の防衛(ふさぎもり)の一柱で中跡直等の祖。 伊勢河曲郡中跡郷に関係する神かもしれない。
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天之久比奢母智神(あめのくひざもち) []
神生み、八神
瓢(ひさご)・灌漑の神
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天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ) []
山の水をくみ上げる神。
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天熊人・天熊大人(あめのくまひと・あめのくまのうし) []
『日本書紀』、『先代旧事本紀』では、天熊人、又は天熊人命。
神楽に登場する際は、天熊大人の名前となっていることが多いようだ。
この神は、有名な「農耕・養蚕・畜産の生成」話に登場する。
『日本書紀』では、このように登場する。
天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
天照大神保食神の所に天熊人を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。
古事記』では、この話は素盞鳴尊が大気津比売神を殺す記述になっており、登場人物が違っているが、このことから天熊人命=素盞鳴尊とする説もある。
『但馬故事記』には、饒速日命の田作りを手伝った天熊人命として登場する。
『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っている。
『但馬故事記』では、このように書かれている。
「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。豊受姫命はこれを見て大いに歓喜びて曰し給わく「あなに愛やし。命これを田庭に植えたり」と。然る後豊受姫命は天熊人命をして、天火明命に従って、田作りの御業を補佐けしめ、而して後高天原に上り給う。その後天火明命は五穀蚕桑の道を顕国(うつしくに)に起こし、大いに蒼生を幸い給う。
(以下略)
(但馬故事記:吾郷清彦著より引用)
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天之闇戸神(あめのくらと) []
神生み、八神
谷間の神
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天之暗戸神(あめのくらとのかみ) []
山頂にほど近いところにある渓谷の神。
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天之闇戸神(あめのくらとのかみ) []
天之闇戸神・国之闇戸神

天之闇戸神
あめのくらとのかみ

国之闇戸神
くにのくらとのかみ
……
古事記』において、山の神(大山津見神)と野の神(野椎神)から生まれた神々の中に、 天之闇戸神と国之闇戸神がいる。
山野の谷の神格化。
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天之事代主神(あめのことしろぬしのかみ) []
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天事湯彦命(あめのことゆひこのみこと) []
天事湯彦命
あめのことゆひこのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
取尾連等の祖。
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天児屋命(あめのこやね) []
天岩屋戸
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天児屋根神(あめのこやねのかみ) []
天岩戸の前に集まった神々の一柱。興台産霊神(コゴトムスビノカミ)の子。中臣氏の祖神 (のち藤原氏)
神格:言霊の神、祝詞(ノリト)の祖神
 神社の祭礼や地鎮祭などの儀式の時に、神主が唱えるのが祝詞である。神に対して、その力に感謝し、たたえる言葉を申し上げ、さらなる幸運の導きを願うのだ。ただ、祝詞というのは、本来、祭祀などさまざまな儀礼の場で、神人つまり神懸かり者が、神の意志を伝える呪力のあるものであった。これに対して祝詞の中に寿詞(ヨゴト)と呼ばれるものがあるが、こちらは神に対して、祈願が成就したことを感謝してその力をたたえるという意味が含まれている。後者の方が今日の祝詞の意味合いに近いようだ。いずれにせよ、祝詞というのは、人間が神とコミュニケーションする手段だといえよう。
 その祝詞の祖神が天児屋根神である。由来としては、天岩戸事件の際の役割があげられる。詳しくは天岩戸隠れの項を参照していただきたい。とにかく、天岩戸の前で天児屋根神は太祝詞(フトノリト)を読み上げ、天照大神の心を大いに晴らしたということである。結局、天鈿女神の神楽などが功を奏して目的は達成された。ここで、祝詞を唱えるということは、祭を執り行ったということになる。そうすると、天児屋根神には神を奉祀するという役割がその本来の性格に備わっているといえるわけである。
 天岩戸の話は、言霊(コトダマ)信仰のルーツとも言われている。天児屋根神が天岩戸の前で唱えた祝詞の力は、言霊の持つ呪力に通じると考えられているのだ。言霊とは、言葉が神秘的な力と働きを持っているという考え方に基づき、その働きを司る神霊を指す呼び名である。言葉は人の心を動かし、いろいろな現象となって表れる。だから、言葉そのものには吉凶をもたらす神秘的な霊力がある、と考えるのが言霊信仰である。祝詞や寿詞は、その言葉によって吉をもたらし、凶を避ける行事ということになる。
 言葉を駆使するものは、天地も動かすことができると言ったら大げさだが、要するに言葉をしゃべると、その言霊の魔力によって物事が支配され、吉凶の結果が生じるということである。話術の巧みな人の演説などを聞いていて、その人が会場全体を支配している感覚にとらわれたことがないだろうか。こういったときには、理屈でなく感覚的に言霊の霊力を感じることができよう。今日ゲームにまで登場する魔法や、ヨーロッパの黒魔術の呪文、仏教のお経も、この言霊に働きかけて森羅万象を変化させるための言葉といえるだろう。
 天児屋根神が祝詞の祖神とされることは、この神が中臣氏の祖先神であることと深く関係している。「中臣」とは、神と人との間を取り持つという意味で、この一族は宮廷の神事を統括していた。それだけに政治的にも強大な力を持ち、しばしば一族の女性を天皇の后にしている。それほどの一族だけに、その氏族の伝承が記紀神話の中に多く入り込んでいる。そのひとつが祖先神の天児屋根神というわけである。
 祭政一致の古代においては、祭祀の権限を持つことが、すなわち権力を握ることであった。宮廷の神事で中臣氏がもっていた役職は、禊(ミソギ)と祓(ハラエ)を行うことだったようだ。その禊祓(ミソギハラエ(関連は禊祓へ))の祭儀を行うときには、神に捧げる言葉つまり祝詞を唱えたわけである。そういう役割からしても、神話の中での天児屋根神の活動は、ほとんど中臣氏の役職と一致しているということだ。
 天児屋根命 [#eb965e78]

市千魂命━━━興台産霊神━━━天児屋根命━━━天押雲命━━━天多祢伎命
                             (天種子命)

 天児屋根命 [#uef663fd]

天児屋命

名称
天児屋命(あめのこやねのみこと)、天児屋根命


興台産霊(こごとむすひ)


天押雲根命

子孫
中臣連

神社の祭神としては天児屋根命とも表記される。春日権現(かすがごんげん)とも呼ぶ。居々登魂命(こごとむすび)の子で、妻は天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)。

岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、中臣連などの祖となったとされる。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。 また、江戸時代後期の国学者・平田篤胤の説では、この神は思兼神と同一神であるとしている。

居々登魂命━━━天児屋根命━━━天押雲命


天児屋根命──天押雲命──天種子命──宇佐津臣命──大御気津臣命──伊香津臣命梨津臣命─┼神聞勝命──久志宇賀主命─┬国摩大鹿島命──巨狭山命──雷大臣命─├大小橋命

伊達家

----
天児屋根神
アメノコヤネノカミ
別称:天児屋命、天之子八根命性別:♂系譜:天岩戸の前に集まった神々の一柱。興台産霊神(コゴトムスビノカミ)の子。中臣(のち藤原)氏の祖神神格:言霊の神、祝詞(ノリト)の祖神神社:牧岡神社、春日大社、大原野神社、吉田神社、蜂田神社、五社神社
 神社の祭礼や地鎮祭などの儀式の時に、神主が唱えるのが祝詞である。神に対して、その力に感謝し、たたえる言葉を申し上げ、さらなる幸運の導きを願うのだ。ただ、祝詞というのは、本来、祭祀などさまざまな儀礼の場で、神人つまり神懸かり者が、神の意志を伝える呪力のあるものであった。これに対して祝詞の中に寿詞(ヨゴト)と呼ばれるものがあるが、こちらは神に対して、祈願が成就したことを感謝してその力をたたえるという意味が含まれている。後者の方が今日の祝詞の意味合いに近いようだ。いずれにせよ、祝詞というのは、人間が神とコミュニケーションする手段だといえよう。
 その祝詞の祖神が天児屋根神である。由来としては、天岩戸事件の際の役割があげられる。詳しくは天岩戸隠れの項を参照していただきたい。とにかく、天岩戸の前で天児屋根神は太祝詞(フトノリト)を読み上げ、天照大神の心を大いに晴らしたということである。結局、天鈿女神の神楽などが功を奏して目的は達成された。ここで、祝詞を唱えるということは、祭を執り行ったということになる。そうすると、天児屋根神には神を奉祀するという役割がその本来の性格に備わっているといえるわけである。
 天岩戸の話は、言霊(コトダマ)信仰のルーツとも言われている。天児屋根神が天岩戸の前で唱えた祝詞の力は、言霊の持つ呪力に通じると考えられているのだ。言霊とは、言葉が神秘的な力と働きを持っているという考え方に基づき、その働きを司る神霊を指す呼び名である。言葉は人の心を動かし、いろいろな現象となって表れる。だから、言葉そのものには吉凶をもたらす神秘的な霊力がある、と考えるのが言霊信仰である。祝詞や寿詞は、その言葉によって吉をもたらし、凶を避ける行事ということになる。
 言葉を駆使するものは、天地も動かすことができると言ったら大げさだが、要するに言葉をしゃべると、その言霊の魔力によって物事が支配され、吉凶の結果が生じるということである。話術の巧みな人の演説などを聞いていて、その人が会場全体を支配している感覚にとらわれたことがないだろうか。こういったときには、理屈でなく感覚的に言霊の霊力を感じることができよう。今日ゲームにまで登場する魔法や、ヨーロッパの黒魔術の呪文、仏教のお経も、この言霊に働きかけて森羅万象を変化させるための言葉といえるだろう。
 天児屋根神が祝詞の祖神とされることは、この神が中臣氏の祖先神であることと深く関係している。「中臣」とは、神と人との間を取り持つという意味で、この一族は宮廷の神事を統括していた。それだけに政治的にも強大な力を持ち、しばしば一族の女性を天皇の后にしている。それほどの一族だけに、その氏族の伝承が記紀神話の中に多く入り込んでいる。そのひとつが祖先神の天児屋根神というわけである。
 祭政一致の古代においては、祭祀の権限を持つことが、すなわち権力を握ることであった。宮廷の神事で中臣氏がもっていた役職は、禊(ミソギ)と祓(ハラエ)を行うことだったようだ。その禊祓(ミソギハラエ(関連は禊祓へ))の祭儀を行うときには、神に捧げる言葉つまり祝詞を唱えたわけである。そういう役割からしても、神話の中での天児屋根神の活動は、ほとんど中臣氏の役職と一致しているということだ。
----
天児屋根命(あめのこやね)
①父:興澄魂  母:許登能麻遅姫 異説:浅加姫
②妻:天万拷幡比売(天背男命女)異説:武甕槌命女
子供:天押雲命 別名:八意志兼命、天児屋命、天小屋根命、天之子八根命
③中臣連祖。大鳥連祖?
④記紀神代記事・天照大神が天岩戸に隠れた時岩戸の前で祝詞を奏上して祭祀を行った。
祝詞の祖神、言霊の神。
・天孫降臨に際して、五伴緒(いつとものお)の一人として天下った。
⑤枚岡神社・春日大社・吉田神社、大原野神社などの祭神。
⑥記紀には出自は記されていない。上記出自系譜の基は先代旧事本紀などに記されているものを基にしたもので、尊卑分脈などは一般的に上記のようになっている。

 天児屋根神 [#ie2e6623]

天児屋根神

父:居々登魂命(こごとむすび)

妻:天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)

天児屋根神
アメノコヤネノカミ
別称:天児屋命、天之子八根命性別:♂系譜:天岩戸の前に集まった神々の一柱。興台産霊神(コゴトムスビノカミ)の子。中臣(のち藤原)氏の祖神神格:言霊の神、祝詞(ノリト)の祖神神社:牧岡神社、春日大社、大原野神社、吉田神社、蜂田神社、五社神社
 神社の祭礼や地鎮祭などの儀式の時に、神主が唱えるのが祝詞である。神に対して、その力に感謝し、たたえる言葉を申し上げ、さらなる幸運の導きを願うのだ。ただ、祝詞というのは、本来、祭祀などさまざまな儀礼の場で、神人つまり神懸かり者が、神の意志を伝える呪力のあるものであった。これに対して祝詞の中に寿詞(ヨゴト)と呼ばれるものがあるが、こちらは神に対して、祈願が成就したことを感謝してその力をたたえるという意味が含まれている。後者の方が今日の祝詞の意味合いに近いようだ。いずれにせよ、祝詞というのは、人間が神とコミュニケーションする手段だといえよう。
 その祝詞の祖神が天児屋根神である。由来としては、天岩戸事件の際の役割があげられる。詳しくは天岩戸隠れの項を参照していただきたい。とにかく、天岩戸の前で天児屋根神は太祝詞(フトノリト)を読み上げ、天照大神の心を大いに晴らしたということである。結局、天鈿女神の神楽などが功を奏して目的は達成された。ここで、祝詞を唱えるということは、祭を執り行ったということになる。そうすると、天児屋根神には神を奉祀するという役割がその本来の性格に備わっているといえるわけである。
 天岩戸の話は、言霊(コトダマ)信仰のルーツとも言われている。天児屋根神が天岩戸の前で唱えた祝詞の力は、言霊の持つ呪力に通じると考えられているのだ。言霊とは、言葉が神秘的な力と働きを持っているという考え方に基づき、その働きを司る神霊を指す呼び名である。言葉は人の心を動かし、いろいろな現象となって表れる。だから、言葉そのものには吉凶をもたらす神秘的な霊力がある、と考えるのが言霊信仰である。祝詞や寿詞は、その言葉によって吉をもたらし、凶を避ける行事ということになる。
 言葉を駆使するものは、天地も動かすことができると言ったら大げさだが、要するに言葉をしゃべると、その言霊の魔力によって物事が支配され、吉凶の結果が生じるということである。話術の巧みな人の演説などを聞いていて、その人が会場全体を支配している感覚にとらわれたことがないだろうか。こういったときには、理屈でなく感覚的に言霊の霊力を感じることができよう。今日ゲームにまで登場する魔法や、ヨーロッパの黒魔術の呪文、仏教のお経も、この言霊に働きかけて森羅万象を変化させるための言葉といえるだろう。
 天児屋根神が祝詞の祖神とされることは、この神が中臣氏の祖先神であることと深く関係している。「中臣」とは、神と人との間を取り持つという意味で、この一族は宮廷の神事を統括していた。それだけに政治的にも強大な力を持ち、しばしば一族の女性を天皇の后にしている。それほどの一族だけに、その氏族の伝承が記紀神話の中に多く入り込んでいる。そのひとつが祖先神の天児屋根神というわけである。
 祭政一致の古代においては、祭祀の権限を持つことが、すなわち権力を握ることであった。宮廷の神事で中臣氏がもっていた役職は、禊(ミソギ)と祓(ハラエ)を行うことだったようだ。その禊祓(ミソギハラエ(関連は禊祓へ))の祭儀を行うときには、神に捧げる言葉つまり祝詞を唱えたわけである。そういう役割からしても、神話の中での天児屋根神の活動は、ほとんど中臣氏の役職と一致しているということだ。

概要
神社の祭神としては天児屋根命とも表記される。春日権現(かすがごんげん)とも呼ぶ。居々登魂命(こごとむすび)の子で、妻は天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)。
岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、中臣連などの祖となったとされる。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。 また、江戸時代後期の国学者・平田篤胤の説では、この神は思兼神と同一神であるとしている。

信仰
中臣連の祖神であることから、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰された。祝詞の神、出世の神ともされる。中臣神社(京都市山科区)、枚岡神社(大阪府東大阪市)、春日大社(奈良県奈良市)、吉田神社(京都市左京区)などに祀られている。また、全国の大鳥神社に祀られる「大鳥連祖神(おおとりのむらじのおやがみ)」は天児屋命と同神とされることがある。

伊達家
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天之子八根命(あめのこやねのみこと) []
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天児屋命(あめのこやねのみこと) []
(天照神話~天孫降臨神話の頃)

中臣氏の祖先神。八意志兼命?天児屋根命?天小屋根命?
天照大神が岩戸に隠れたときに、岩戸の前で榊を立て祝詞を奏して祭祀を行った。
ニニギの天降りの時も五部神の一人として従ったと伝わる。
枚岡神社、春日大社などの祭神。
天児屋根神
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天児屋根命(あめのこやねのみこと) []
③中臣連祖。大鳥連祖?
④記紀神代記事・天照大神が天岩戸に隠れた時岩戸の前で祝詞を奏上して祭祀を行った。
祝詞の祖神、言霊の神。
・天孫降臨に際して、五伴緒(いつとものお)の一人として天下った。
⑤枚岡神社・春日大社・吉田神社、大原野神社などの祭神。
⑥記紀には出自は記されていない。上記出自系譜の基は先代旧事本紀などに記されているものを基にしたもので、尊卑分脈などは一般的に上記のようになっている。
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父・興台産霊
 天照大神(あまてらすおおみかみ)も、うっとりと聞き惚(ほ)れて惚れて、ついに天の岩戸を開けてしまったという美声の持ち主。
天下一品の祝詞(のりと)奏者
天児屋根命(あめこやねのみこと)は、高天原(たかまがはら)で専(もっぱ)ら祭祀(さいし)をつかさどる興台産霊神(こことむすびのかみ)(天照大神の子)の子で、 天照大神の侍臣(じしん) として仕えていた。命名の由来はよくわからないらしい。
 天美津玉照比売命(あまみつたまてるひめのみこと) を妻として、一子をもうけたが名は知られていない。神武天皇(じんむてんのう)の東征(とうせい)に加わって働いた天種子命(あめのたねこのみこと)は、この天児屋根命(あめこやねのみこと)の孫である。
 天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天の岩戸隠れをしたとき、八百萬(やおよろず)の神々が、天の安河原(あめのやすかわら)に集まって会議をした結果、それぞれの役割を決めた。
天児屋根命(あめこやねのみこと)は、非常な美声の持ち主であったため、天の岩戸の前で祝詞(のりと)を奏する役を担当したのである。
 後に天孫瓊杵尊(てんそんにぎのみこと)の降臨に従い、常に国政に参与して、国土経営に大きく貢献したが、主な任務は祭祀(さいし:神と人との中を取り持ち、仕える役)をつかさどることであった。後世の中臣氏(なかとみうじ:藤原氏の遠祖)の祖神でもある。
……
天主命の娘・許登能麻遅比売命と興登魂命(興台産霊・己己都牟須比命)の御子。 后は天美豆玉照比咩大神という名前らしい。
中臣連等の祖神。中臣とは、神と皇孫との間を執りもつ職能の一族。 中臣氏の子孫は藤原氏として栄えた貴族。また、大中臣氏として伊勢皇太神宮の祭主即ち大宮司を勤めた家柄でもある。
天岩屋戸神話において、天照大御神を岩屋から招き出すために太玉命とともに卜占を行い、 祝詞を奏上する役割を果たす。
『日本書紀』の一書には、中臣連の遠祖 興台産霊(こごとむすひ)の児とあり、 須佐之男命神追放の際に解除太諄辞(はらひのふとのりと)を掌る役を伝える。
天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱。
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天之狭霧神(あめのさぎり) []
神生み、八神
山野の霧の神
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天之狭霧神(あめのさぎりのかみ) []
山頂に出来る霧の神。
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天之狭霧神 (あめのさぎりのかみ) []
天之狭霧神・国之狭霧神

天之狭霧神
あめのさぎりのかみ
別名
天狭霧神:あめのさぎりのかみ

国之狭霧神
くにのさぎりのかみ
……
古事記』において、山の神(大山津見神)と野の神(野椎神)から生まれた神々の中に、 天之狭霧神と国之狭霧神がいる。
山野の霧の神格化だと思う。
古事記』において大国主神の神裔に、天日腹大科度美神が、天狭霧神の娘・遠津待根神を娶って、遠津山岬多良斯神を生んだとある。 この天狭霧神が、天之狭霧神が同神かどうかは不明。
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天狭霧神(あめのさぎりのかみ) []
天狭霧神:あめのさぎりのかみ
 → 天之狭霧神:あめのさぎりのかみ
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天佐具売(あめのさぐめ) []
葦原中国平定
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天之狭土神(あめのさづち) []
神生み、八神
山野の土の神
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天之狭土神(あめのさづちのかみ) []
山頂についての土地の神。
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天之狭土神 (あめのさづちのかみ) []
天之狭土神・国之狭土神

天之狭土神
あめのさづちのかみ
別名
天之狭豆知神:あめのさづちのかみ

国之狭土神
くにのさづちのかみ
別名
国狭槌尊:くにのさづちのみこと
国狭立尊:くにのさたちのみこと
……
古事記』において、山の神(大山津見神)と野の神(野椎神)から生まれた神々の中に、 天之狭土神と国之狭土神がいる。
山野の土の神格化。
『日本書紀』では、国狭槌尊は国常立尊に続いて天地開闢の最初にあらわれた神世七代の第二の神としている。 これは最初に出現した土の神格化。
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天之狭豆知神(あめのさづちのかみ) []
天之狭豆知神:あめのさづちのかみ
 → 天之狭土神:あめのさづちのかみ
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天之狭手依比売(あめのさでよりひめ) []
霊的な力がよりつく天の女性という意味
……
伊邪那岐神伊邪那美神の夫婦神が生んだ国土の神の一つ。津島(対馬)の別名。
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所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ) []
所造天下大神:あめのしたつくらししおおかみ
 → 大己貴命:おおなむちのみこと
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所造天下大穴持命(あめのしたつくらししおおなもちのみこと) []
所造天下大穴持命:あめのしたつくらししおおなもちのみこと
 → 大己貴命:おおなむちのみこと
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天下春命(あめのしたばるのみこと) []
邇芸速日命に従って天降った三十二人の防衛の一人。
八意思兼神の子。武蔵秩父國造、壱岐県主等の祖。
同じく八意思兼神の子・天表春命の兄弟か。

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天下春命(あめのしたばるのみこと)
記紀には登場しないが、高天原の知恵袋といっても良い存在である思金(おもいかね)神の御子神である。
※思金神が活躍した話で最も有名な話では、「岩戸隠れ」の際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。
『先代旧事本紀』(「天神本紀」)によると、八意思兼神の御子神で、饒速日命が天磐船に乗って天降った時、護衛として随従した32柱の神の1柱。
同じく随従した天表春(あめのうわはる)命の弟神と見られ、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の先祖とされる。
また大伴部氏の祖ともいわれる。
なお『高橋氏文』に「知々夫(秩父)国造の上祖、天上腹、天下腹人」と見える人名は、この両神に関係があると見られている。
※高橋氏文(たかはしうじぶみ):
日本の歴史書、古記録である。
宮内省内膳司に仕えた高橋氏が安曇氏と勢力争いしたときに、古来の伝承を朝廷に奏上した789年(延暦8年)の家記が原本と考えられる。
しかし完本は伝わっておらず、逸文が『本朝月令』、『政事要略』、『年中行事秘抄』その他に見えるのみである。
伴信友が1842年(天保13年)に自序の『高橋氏文考註』にまとめた。
天下春命は開墾の神として祀られる事が多い。
私が参拝した、天下春命を祭神とする神社
・東京都多摩市・小野神社
・東京都府中市・小野神社
・神奈川県厚木市・小野神社
・滋賀県長浜市木之本町・伊香具神社境内社
また、天下春命の7代目の知知夫彦が秩父国造りとして秩父を開拓、「秩父神社」の祭神として天思兼命と共に祀られています。
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天之志良波神(あめのしらはのかみ) []
天之志良波神:あめのしらはのかみ
 → 長白羽神:ながしらはのかみ
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天白羽神(あめのしらはのかみ) []
天白羽神:あめのしらはのかみ
 → 長白羽神:ながしらはのかみ
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天少彦根命(あめのすくなひこねのみこと) []
天少彦根命
あめのすくなひこねのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
鳥取連等の祖。
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天世乎命(あめのせおのみこと) []
天世乎命:あめのせおのみこと
 → 天世手命:あめのよてのみこと
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天背男命(あめのせおのみこと) []
天背男命
あめのせおのみこと
別名
阿麻乃西乎乃命:あめのせおのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
饒速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。尾張中嶋海部直等の祖。
『新撰姓氏録』によると、天背男命は天壁立命の子、宮部造の祖。
『先代旧事本紀』第三巻天神本紀の山背久我直等祖の天神立命に関して、 『先代旧事本紀訓註』(大野七三著)の本文には天背男命とあるが、 巻末の概説では天神立命とある。
国史大系登載の『先代旧事本紀』では天神立命とあるので、本文中の天背男命は誤記かもしれない。
ただし、天背男命の父神の名が天壁立命なので、似た名前の天神立命は天背男命の別名という可能性もある。
また、天世手命は久我直等の祖とあり、天世乎命を書かれている場合もあるが、天世乎命が正しい字なら、 「あめのせお」と読め、天背男命と同神と考えると、山背久我直等祖の天神立命は天背男命で良いのかもしれない。
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阿麻乃西乎乃命(あめのせおのみこと) []
阿麻乃西乎乃命:あめのせおのみこと
 → 天背男命:あめのせおのみこと
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天底立神(あめのそこたちのかみ) []
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天高御魂乃尊(あめのたかみむすびのみこと) []
天高御魂乃尊:あめのたかみむすびのみこと
 → 高皇産霊尊:たかみむすびのみこと
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天手力男神(あめのたぢからお) []
天岩屋戸
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天手力男神(あめのたぢからを) []
天岩屋戸
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天手力男神(あめのたぢからをのかみ) []
力の強い神。天岩戸の前に集まった神々の一柱。天照大神をこの世に戻した。
 天手力男神は、天岩戸隠れのときに天岩戸の扉を開けて天照大神を引き出す役目で活躍した神として知られる。名前の通りに手の力(腕力)の象徴、つまり人間の筋力に宿る霊を神格化した神である。
 強力な肉体的なパワーを所有したいという欲求は、人間の永遠に持ち続ける夢といえよう。それを擬似的な空想の世界で実現しているのがスーパーマンやアニメのキャラクターといったものだ。天手力男神の姿には、そうした人間の肉体的なパワーへのあこがれが反映されているといっていいだろう。神話では、怪力ばかりが強烈にイメージされるが、この神は一般にスポーツの守護神としても信仰を集めている。筋力を鍛え、それを生かす技術を含めたパワーを与えてくれる霊力を備えた神さまでもある。
 この剛力のイメージを持つ神の姿というのは昔から庶民には人気があったようで、それをうかがわせるのが日本の各地に伝わる神楽である。たとえば、全国的にもよく知られている宮崎県高千穂町の夜神楽があるが、そのなかに天手力男神が主役となって舞われる「戸取舞(トトリノマイ)」というのがある。この神がその怪力で岩戸を投げ飛ばしたという伝承に基づいたもので、力感的で勇壮な舞は夜神楽のなかでも特に人気を博している。そのほか、里神楽のなかの「岩戸神楽」と呼ばれるものも、天手力男神が主役の「岩戸開き」の場面に重きを置いて演じられる神楽のひとつである。
 日本の昔話や民俗伝承には、しばしば怪力を誇る怪異なキャラクターが登場する。要するに妖怪の類に近い存在なのだが、多くは人々に親しまれている。国技の相撲に象徴されるように、日本人は剛力のイメージに対して独特な嗜好があるように思える。そういう感覚があるから、神楽などでも天手力男神の力強い踊りが人気になるともいえよう。
……
天照大神が天岩屋戸の中にお隠れになった時、八百万神が集い神謀りに謀り、それぞれ役割りをもうけられた。 この神は、天岩屋戸の扉を開く係を受け持った。手の力が強い大力の神名が与えられた神。
天照大神の御手を執ってお出迎えした、即ち日の神の復活に功のあった神。 そのため伊勢皇太神宮の内宮の相殿の神として祀られている。
古事記』の天孫降臨神話では、邇邇芸命に五伴緒と共に随伴した神として登場。 「佐那那縣に坐す」と記されており、伊勢国多気郡多気町に鎮座している。
また、天岩屋戸の扉を放ち投げ出したところ、信濃国戸隠山に落ちたと伝え、戸隠神社の主祭神となっている。
古事記』によると、天石門別神と手力男神は別の神だが、天石屋戸を開けた手力男神を天石門別神と同神とする神社もある。
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天手力雄神(あめのたぢからをのかみ) []
天手力雄神:あめのたぢからをのかみ
 → 天手力男神:あめのたぢからをのかみ
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天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ) []
天棚機姫神
あめのたなばたひめのかみ
別名
天之八千千比売命:あまのやちぢひめのみこと
天衣織女命:あまのえおりめのみこと
……
天棚機姫神。『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋に隠された際、大神に献上する神衣和衣(かむみそにきたへ)を織った神。 天羽槌雄神と共に機織の神として祀られる。別名は天之八千千比売命、あるいは天之八千千比売命の母神。
天之八千千比売命。天照大御神が高天原にいるとき、 桑の木を天香山に植え養蚕し、その絹糸で大神の衣を作った神。染織業の祖神。 別名は天棚機姫神、あるいは天棚機姫神の子神。
織物の神であり、天萬栲幡千幡比賣命と同神とする説もある。
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天種子(あめのたね) []
神武東征に従う。この時筑紫国宇佐にいたり、菟狭津媛を妻に賜った。(紀)
参考「菟狭津彦」菟狭(豊後国宇佐郡)国造祖。神武東征時菟狭津媛とともに饗を奉った。
高魂尊の孫(国造本紀)
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天種子命(あめのたねのみこと) []
→天多彌伎命
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天玉櫛彦命(あめのたまくしひこのみこと) []
天玉櫛彦命
あめのたまくしひこのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
神魂命五世孫。間人連等の祖。
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天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ) []
大年神の系譜
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天乳速日命(あめのちちはやひのみこと) []
天乳速日命
あめのちちはやひのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
広端連、麻績連等の祖。
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天月神命(あめのつきがみのみこと) []
天月神命
あめのつきがみのみこと
……
天神。系統不詳。饒速日命に従って天降った三十二人の防衛の一人。
壱岐県主等の祖神。
「月神」から、月読命と同神される場合もある。
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天之都度閇知泥神(あめのつどへちぬ) []
建速須佐之男命の系譜
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天角凝魂神(あめのつぬごりたまのかみ) []
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天角凝命(あめのつぬごりのみこと) []
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天之常立神(あめのとこたちのかみ) []
天地開闢の神々の一柱。
古事記』では、八百万神に先駆け、天之御中主神高御産巣日神神産巣日神造化三神の次に宇摩志阿斯訶備比古遅神が生まれ、次に生まれた天之常立神を加えて、別天神という。
『日本書紀』の一書では、天地が分かれた時、葦の芽のように空の中に最初に生まれた神とある。
天地の軸のような神で、『先代旧事本紀』では天之御中主神と同神とある。
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天之登許多知神(あめのとこたちのかみ) []
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天常立尊(あめのとこたちのみこと) []
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天戸間見命(あめのとまみのみこと) []
天戸間見命:あめのとまみのみこと
 → 天斗麻彌命:あめのとまみのみこと
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天斗麻彌命(あめのとまみのみこと) []
天斗麻彌命
あめのとまみのみこと
別名
天斗麻美命:あめのとまみのみこと
天戸間見命:あめのとまみのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
額田部湯坐連等の祖。 『新撰姓氏録』に額田部湯坐連は天津彦根命の子・明立天御影命の後とあるので同神(あるいは同系統)と思われる。
明立天御影命(天之御影命)は天麻比止都禰命と同神とされているので、 結果的に、天斗麻彌命=天麻比止都禰命ということになる。
また『新撰姓氏録』に下津彦根命の子・天戸間見命という神名がある。同神だろう。
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天斗麻美命(あめのとまみのみこと) []
天斗麻美命:あめのとまみのみこと
 → 天斗麻彌命:あめのとまみのみこと
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天富命(あめのとみのみこと) []
天富命
あめのとみのみこと
……
天太玉命の孫。
神武天皇建都の折り、手置帆負神、彦狭知神の二神の孫を率いて、 斎斧・斎鉏をして山の材を採り、宮殿を造営し、 斎部の諸氏を率いて神宝や鏡玉矛楯木綿等を造った。
阿波国の忌部を率いて、東国(安房)を開拓した。
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天豊玉命(あめのとよたまのみこと) []
天豊玉命:あめのとよたまのみこと
 → 櫛明玉神:くしあかるたまのかみ
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天鳥船(あめのとりふね) []
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天鳥船神(あめのとりふね) []
葦原中国平定
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天鳥船神(あめのとりふねのかみ) []
天鳥船神
あめのとりふねのかみ
別名
鳥之石楠船神:とりのいわくすふねのかみ
天磐橡樟船:あまのいわくすふね
……
伊邪那岐神伊邪那美神の夫婦神が生んだ船を司る神。
出雲国譲り神話において、武甕槌神の副神として出雲に降下し、 事代主神を徴すときの使者として派遣される。
『日本書紀』一書には大己貴神の海の遊具の一つにこの名称が記されている。
船の神というより、船そのものという考えもある。
『日本書紀』に、大己貴神が御子神事代主命の意見を聞くため使者として稲背脛を熊野諸手船に乗せて遣わしたという条があり、 この船のまたの名を天鳩船という。
鳥と船との結びつきの所以については、
船と鳥との形の相似によるとする説、鳥も船も死者の霊魂を運ぶものであるとする説、 古代人は航海の際、鳥を船上に積み込んでいたとする説などがある。
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天長白羽命(あめのながしらはのみこと) []
天長白羽命:あめのながしらはのみこと
 → 長白羽神:ながしらはのかみ
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天饒石国饒石天津日高日子火瓊瓊杵命(あめのにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)&aname(): ID too long; []
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天抜戸命(あめのぬかどのみこと) []
天抜戸命:あめのぬかどのみこと
 → 天糠戸命:あめのぬかどのみこと
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天糠戸命(あめのぬかどのみこと) []
天糠戸命
あめのぬかどのみこと
別名
天抜戸命:あめのぬかどのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命に随伴して天降った三十二人の防衛の一人。石凝姥神の親神で鏡作の遠祖。
『日本書紀』の一書には、鏡作部の遠祖・天糠戸に鏡を作らしめとあり、 さらに別の一書には、鏡作の遠祖・天抜戸(=天糠戸)の子・石凝戸辺が作った八咫の鏡を懸けたとある。
平田篤胤は、天火明命の別名としている。
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天羽明玉命(あめのはあかるたまのみこと) []
天羽明玉命:あめのはあかるたまのみこと
 → 櫛明玉神:くしあかるたまのかみ
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天羽槌雄神(あめのはづちおのかみ) []
天岩戸の前に集まった神々の一柱
織物の神、機織りの祖神
天羽槌雄神は、機織りの祖神として信仰されている神である。名前の「羽」は布帛(フハク=木綿や絹織物)を表している。神話では、天岩戸隠れの際に集まった神々の一柱として登場する。この時に天照大神の関心を引き、外に誘い出すためにいろいろと活躍した神々は、それぞれ知恵、芸能、祝詞、あるいは鍛冶や金工、玉造り、鏡作りなど、諸業の祖神とされるようになった。天羽槌雄神もこの時木綿と麻の布を生み出したのである。
詳しくは天岩戸隠れを参照していただくが、この時は天太玉神が天香久山の榊の大枝を切り出して太玉串とし、これを各職能神たちがそれぞれの技能を持ち寄って飾り付けた。この時天羽槌雄神が織り出したのは、倭文(シズ)の綾織りというものだったという。倭文とは、古代の織物の一種の倭文織りのことで、楮(コウゾ)や麻などを材料として布を織るときに、横糸を赤や青い色に染めて乱れ織りにしたものである。古代において、美しい織物は神を祀るときの最高の供物のひとつだった。そういう貴重な織物を生み出す機織りの作業を司るのが天羽槌雄神ということである。
天羽槌雄神は、別名倭文神とも呼ばれる。鳥取県東伯群島号長に織物業の祖神を祀る倭文神社があるが、昔、この地方には織物を生業とする倭文族が住んでいて、彼らが信仰する神を祀ったのが始まりとされている。そのほかにも、倭文織りの産地を示すものとして「続日本紀」に、「諸国の神への供え物のうち、倭文は常陸国(茨城県)から奉献される」と記されている。当時、常陸国あたりが倭文織物の特産地として有名だったことがうかがえる。
……
『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋に隠された際、 大神に献上する文布(しず)を織った神で、倭文氏の祖神。 ちなみに倭文宿禰の祖は神魂命、倭文連の祖は神魂命の子・角凝魂命。
天棚機姫神と共に機織の神として祀られる。
神綺日安命の別名とする説もある。また天日鷲命の弟神あるいは御子とする説がある。
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天羽槌雄神・建葉槌命(あめのはづちのおのかみ・たけはづちのみこと) []
天羽槌雄神は『古語拾遺』に登場し、建葉槌命は『日本書紀』に登場する。
全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られている。
私は、群馬県伊勢崎市・倭文(しとり)神社、埼玉県上里町・長幡部神社、茨城県那珂市・静神社(建葉槌命)で参拝した。
天羽槌雄神
『古語拾遺』に登場する。天照大神を天の岩戸から誘い出す際に、文布(あや)を織ったとされる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。
同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられるが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。
また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。
信仰としてはどちらの名でも織物の神、機織の神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られている。
系譜:
神産巣日神の5世孫の天日鷲命の子で、委文宿祢、県犬養氏、美努宿祢、鳥取部連、大椋置始連の祖神とされる。
『新撰姓氏録』には角凝魂命の三世孫が天湯河桁命で後裔が鳥取連、美努連とされ、『先代旧事本紀』には少彦根命が鳥取連の祖神とされる一方、『斎部宿祢本系帳』には角凝魂命の四世孫・天日鷲命の子である天羽槌雄神が鳥取部連、美努宿祢の祖とされている。これらのことから少名毘古那神と天日鷲命と同一神であると考えられ、「角凝魂命ー伊狭布魂命ー天底立命ー天背男命(天湯川田命)ー天日鷲命(少名毘古那神)ー天羽槌雄神(建日穂命)ー波留伎別命」となる。
☆建葉槌命
別名と同一視されるのは建葉槌命(武葉槌命・たけはづちのみこと)である。
建葉槌命は『日本書紀』に登場した倭文神で、経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされる。
織物の神が、何故星の神を誅する事が出来たのか、色々諸説ある内の説を挙げるとすると、
1つ目は、建葉槌命が武神だったとする説。建葉槌命の「建」は「武」、「葉」は「刃」と読み替えると武刃槌となり、まさに武神らしい名と受けとれるからといわれる。
この説の裏付けとして、武葉槌命を祀る大甕倭文神社(茨城県日立市)の『大甕倭文神宮縁起』からも武神であるむねを窺わせる内容が記されている。
2つ目は、織物の中に星を織り込んでしまって、星の神を織物の中に封印したとする説。これは、太陽が沈んでも空に星が残っている事を、どうにか出来ないものかと考えた上での苦肉の策だとされる。
『日本書紀』第九段一書(二)に「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。とあり、『日本書紀』第九段本文と似た記述がある。これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したという説である。
他にも、香香背男側にいた建葉槌命を懐柔し味方に付け、内側から崩壊させた。などの説もある。
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天羽雷命(あめのはづちのみこと) []
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天速玉神(あめのはやたまのかみ) []
天速玉神:あめのはやたまのかみ
 → 天速玉姫命:あめのはやたまひめのみこと
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天速玉姫命(あめのはやたまひめのみこと) []
天速玉姫命
あめのはやたまひめのかみ
別名
天速玉神:あめのはやたまのかみ
……
常陸國久慈郡の式内社・天速玉姫命神社の祭神。
三代実録に「貞観八年五月二十七日庚午常陸国正六位上天之速玉神」とあり、天速玉神とも呼ばれていた。
日立市の泉神社の由緒では、霊玉の神霊であるという。 また、天速玉姫命は天棚機姫命の娘で、天太玉命の后神、天比理刀咩命ともいうとある。
霊玉の女神とする説のほかに、その名から速玉男命と同神とする説、「速」も「豐」も美称であるとして豊玉姫と同神とする説。 玉=瀧で、速い滝の神とする説などがある。
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天一柱神(あめのひとつはしらのかみ) []
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天夷鳥命(あめのひなとりのみこと) []
天菩比命(天穂日命)の御子神。
『日本書紀』によると、建比良鳥命は、出雲国造、无邪志(武蔵)国造、上菟上(上総中部)国造、下菟上(下総東部)国造、伊自牟(上総東部)国造、津島県直(対鳥)、遠江国造の祖。
父神である天穂日命は、国譲りの交渉役に選ばれて出雲の大国主神の許へ行ったが、大国主神に心腹して三年も報告しなかった。
『日本書紀』では、その後、この神の子の大背飯三熊之大人(武三熊之大人)を派遣したが、 父神同様に戻らなかったとあり、大背飯三熊之大人と同神と考えられている。
「天鴿(はと)船」に乗った稲背脛命と同神とする場合もある。
『出雲国造神賀詞』では、交渉から戻った天菩比命は、再度、御子神・天之夷鳥命をともなって天降り、 荒ぶる神を征服し、「国作之大神」、すなわち大名持神を鎮めたとある。
崇神紀六十年七月十四日条に、武日照命の一名として武夷鳥・天夷鳥の名がみえる。 この神は天から神宝を持ち伝えた神として登場し、その神宝を巡り出雲振根の乱が勃発。 結果的に、出雲大神の祭祀に結びついている。
建比良鳥命(武日照命)は津島県直(対鳥)だが、天日神命は対馬県主等の祖神。日照や日神の近似が興味深い。
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天日腹大科度美神(あめのひばらおほしなどみ) []
大国主の系譜
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天之日矛(あめのひぼこ) []
天之日矛
あめのひぼこ
別名
天日槍/天日桙/海檜槍:あめのひぼこ
……
新羅の阿具沼の辺で、一人の女が昼寝をしていた。その陰部に日光がさし女は赤い玉を産んだ。 その玉から変じた美女・阿加流比売を、新羅の王子・天之日矛は妻とした。 ある日、天之日矛は気嫌を損ね、激しく阿加流比売を罵った。 阿加流比売は「私はあなたの妻となるべき女ではない。祖国へ帰ります」と言って小舟を操り、日本に戻って難波で暮した。
阿加流比売は元来太陽神の妻であると信じられた巫女で、日矛を奉じた人であったものと思われる。
天之日矛は阿加流比売を追って日本へ来たが、海上の守護神に塞ぎられ、遂に難波には入れなかった。 やむなく但馬国(兵庫県)に入った天之日矛は、ここで多遅摩之俣尾の娘・前津見と結婚して子孫を残した。
天之日矛が持って来た玉津宝(宝物)は、珠二貫(二個)、浪振比礼、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種であり、 これらの神宝を御神体・出石の八前大神として出石神社に祀られている。
『日本書紀』では、神宝は羽太の玉一個、足高の玉一個、鵜鹿鹿の赤石一個、出石の小刀一口、出石の桙一枝、日の鏡一面、熊の神籬一具の七種。 播磨、淡路、近江、若狭など転々と居を移り、最後に但馬に落ち着いたとある。また、出島の人太耳の娘・麻多烏と結婚したとある。
『日本書紀』垂仁天皇の条に、意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が、 笥飯(けひ)の浦に到着し、角鹿と名づけたとある。都怒我阿羅斯等は、白石から生れた姫神を追って日本へ来たといい、 その姫神は、難波に至って比売語曽社の神となった。 このように天之日矛神話と同様の話が伝えていることから加羅国の王子・都怒我阿羅斯等は新羅国の王子・天之日矛と同神とする説がある。
『播磨国風土記』には天日槍命とあり、神代の話として扱い、大汝命(大国主命)と相競う、強力な神として描かれている。 播磨の宇頭河まで来た時、大汝命に宿を乞うた。そこで大汝命が「海中ならばよい」と答えると、天日槍命は剣で海水をかいて泊った。 大汝命は、これは大変な奴だと、国を先取りするために播磨を巡り、ある丘まで来て食事をはじめた。 この時口から飯粒がこぼれたので、粒(いひぼ)の丘という地名が生れたとか、 大汝命と天日槍命の二人が谷を奪い合ったので、奪谷(うばひたに)の地名が起ったとか、 あるいはまた、この二神が黒葛三本を足につけて投げたところ、大汝命の一本は但馬の気多郡、一本は夜夫郡、一本は御方の里に落ちた。 天日槍命の三本はすべて但馬に落ちたので、各々そこを領したともある。
また、『播磨国風土記』には、伊和大神と天日鉾神の争いによる地名由来が記されている。
宍禾郡雲箇里の波加村では、国を競って占拠したとき、天日鉾神が伊和大神よりも先にここに来た。 そこで大神はひどくあやしんで「はからざるに(対策しなかったので)先を越された」といった。
神崎郡多駝里の糠岡は、伊和大神と天日鉾神の二柱の神が各々軍を組織して戦った。 その時伊和大神の軍は集って稲をついた。その糠が集って丘となった。
天之日矛は前津見(『日本書紀』では摩多烏)と結婚して、多遅摩母須玖(『日本書紀』では但馬諸助)を生んだ。 その子孫は多遅摩斐泥-多遅摩比那良岐と続き、この比那良岐の子が多遅麻毛理、多遅摩比多訶、清日子の三人である。
多遅摩斐泥は、『日本書紀』に但馬日楢杵とあり、そのあと「日楢杵、清彦を生み、清彦、田道間守を生みきといふ」とあって、 『古事記』と『日本書紀』では多少系図の位置が違っている。
多遅麻毛理(『日本書紀』では田道間守)は、第十一代・垂仁天皇の命によって、トキジクノカグノコノミ(『日本書紀』では非時の香菓)を求め、 海を越えて常世国に渡り、十年かかって葉つきの枝と果実つきの枝を持ち帰った。多遅麻毛理は三宅連の祖となっており、菓子の祖神としても崇敬されている。
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天之日矛神(あめのひぼこ) []
天日槍神
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天日桙(あめのひぼこ) []
天日桙:あめのひぼこ
 → 天之日矛:あめのひぼこ
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天日槍(あめのひぼこ) []
アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)は、『古事記』、『日本書紀』に見える新羅の王子。『播磨国風土記』には神として登場する。
『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。
この神については、伝承が残る地域が広く、例えば谷川健一氏の『青銅の神の足跡』では、細かい字で330ページもある本の半分以上が天日槍に費やされている。
だから、この記事でも全貌を伝えるのは難しいが、私が注目しているのは古代鉄が製造された場所にこの神が祀られていることが多いということ。
渡来人の持参した技術を生かして、実に広範なところを開発していったのは、弘法大師空海と似たようなところがある。
古事記』では、「応神天皇」の巻、「天之日矛」の段
(現代語訳)
 また昔、新羅の国王の子で、名はアメノヒホコという者がいた。この人がわが国に渡って釆た。
渡来したわけはこうである。新羅の国に一つの沼があって、名は阿具奴摩といった。この沼のほとりに一人の賤の女が昼寝をしていた。このとき太陽の輝きが、虹のように女の陰部を射した。また一人の賤の男がいて、その有様を不審に思って、いつもその女の行動をうかがっていた。するとこの女は、その昼寝をした時から妊娠して、赤い玉を生んだ。そこでその様子をうかがっていた賤の男は、その玉を所望してもらい受け、いつも包んで腰につけていた。
 この男は、田を谷間に作っていた。それで耕作する人夫たちの食料を一頭の牛に負わせて谷の中にはいって行くとき、その国王の子のアメノヒホコに出会った。するとヒホコがその男に尋ねていうには、「どうしておまえは食料を牛に背負わせて谷にはいるのか。おまえはきっとこの牛を殺して食うつもりだろう」といって、すぐその男を捕えて牢屋に入れようとした。その男が答えていうには、「私は牛を殺そうとするのではありません。ただ農夫の食料を運ぶだけです」といった。けれどもヒホコはやはり赦さなかった。そこで男は、その腰につけた赤玉の包みを解いて、その国王の子に贈った。それでアメノヒホコは、その賤の男を赦して、その赤玉を持って釆て、床のそばに置いてぉくと、玉はやがて美しい少女に姿を変えた。それでヒホコは少女と結婚して正妻とした。そしてその少女は、常々いろいろのおいしい料理を用意して、いつもその夫に食べさせた。
ところが、その国王の子は思いあがって妻をののしるので、その女が言うには、「だいたい私は、あなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます」といって、ただちにひそかに小船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。これは難波の比売碁曾神社に坐すアカルヒメという神である。
 そこでアメノヒホコは、その妻の逃げたことを聞いて、ただちにその跡を追って海を渡って来て、難波に着こうとしたところ、その海峡の神が行くてをさえぎって難波に入れなかった。それで、またもどって、但馬国に停泊した。ヒホコはそのまま但馬国にとどまり、但馬のマタヲの女のマヘツミという名の人と結婚して、生んだ子がタヂマモロスクである。この人の子はタヂマヒネであり、その子はタヂマヒナラキである。この人の子は、タヂマモリ、次にタヂマヒタカ、次にキヨヒコの三人である。このキヨヒコが、タギマノメヒと結婚して生んだ子が、スガノモロヲ、次に妹のスガクドユラドミである。そして上に述べたタヂマヒタカが、その姪のユラドミと結婚して生んだ子が、葛城のタカヌカヒメノ命である。この人はオキナガタラシヒメノ命の御母である。そして、そのアメノヒホコの持って渡って釆た宝物は、玉つ宝といって珠の緒二連、それから浪を起こす領巾・浪を鎮める領巾、風を起こす領巾・風を鎮める領巾、および沖つ鏡・辺つ鏡、合わせて八種である。これらは伊豆志神社に祭る八座の大神である。
ここで、オキナガタラシヒメノ命というのは神功皇后のことである。
よって、系図に整理すると、このようになる。
天日槍は、皇統の外祖先ということになる。
『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記す。その際に次の7物、羽太の玉(はふとのたま) 1箇、足高の玉(あしたかのたま) 1箇、鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇、出石の小刀(いづしのかたな) 1口、 出石の桙(いづしのほこ) 1枝、日鏡(ひのかがみ) 1面、熊の神籬(くまのひもろき) 1具 を持ってきて、これらを但馬国に納め永く神宝としたという。
同条に記された別伝によると、天日槍は初め播磨国に停泊して宍粟邑にいた。これに対し、天皇は大友主(三輪氏祖)と長尾市(倭氏祖)とを播磨に派遣して天日槍の尋問をさせた。この時、天日槍は自分を新羅国王の子であるといい、日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語った。そして次の8物、葉細の珠(はほそのたま)、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠、出石の刀子、 出石の槍、日鏡、熊の神籬、胆狭浅の大刀(いささのたち) を献上した。そこで天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったのは、これに由来するという。また天日槍は但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、麻多烏との間の子に但馬諸助(もろすく)を儲けた。そしてこの諸助は但馬日楢杵(ひならき)を儲け、日楢杵は清彦(きよひこ)を、清彦は田道間守(たじまもり)を儲けたという。
田道間守は菓子の神・菓祖として信仰されている。
『播磨国風土記』では、天日槍について次のような地名起源説話が記されている。
これは、先述の谷川健一氏の『青銅の神の足跡』によれば、大国主命(葦原志許乎命)を奉じる出雲族との主として鉄資源を巡る覇権争いと説明されている。(伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神)は同神とみなされている。)
○揖保郡揖保里 粒丘条:
客神(外来神)の天日槍命が、韓の国から海を渡って宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近か[7])の川辺に着き、当地の長たる葦原志挙乎命に宿所としての土地を求めると、志挙乎は海中に宿ることのみを許した。これを受けて天日槍命は剣で海をかき回し、出来た島に宿った。志挙乎はその霊力に畏れをなし、天日槍命よりも先に国を抑えるべく北上し、粒丘に至って食事を取った。その時に口から飯粒が落ちたため、「粒丘(いいぼおか)」と称されるという。
○宍禾郡比治里 奪谷条:
葦原志許乎命と天日槍命の2神が谷を奪い合ったので、「奪谷(うばいだに)」と称されるという。
○宍禾郡柏野里 伊奈加川条:
葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、いななく馬がこの川で2神に遭遇したため「伊奈加川(いなかがわ)」と称されるという。
○宍禾郡雲箇里 波加村条:
伊和大神の国占有の時、天日槍命が先に着き、大神は後から来たが、大神が「対策をはかりも(考えも)しなかったから天日槍命が先に着いたのか」と言ったので「波加村(はかのむら)」と称されるという。
○宍禾郡御方里条:
葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう。
○神前郡多駝里 粳岡条:
伊和大神と天日桙命の2神が軍を起こして戦った際、大神の軍が集まって稲をつき、その糠が集まって丘となったが、その箕を落とした糠を墓といい、また「城牟礼山(きむれやま)」というとする。
最後に、現在は、天日槍は個人ではなく、集団であろうとの意見が大方を占めていて、中には一回きりの集団の渡来ではなく、数次にわたる渡来を一つの話としているのだ、と主張する向きもあることを述べておく。
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海檜槍(あめのひぼこ) []
海檜槍:あめのひぼこ
 → 天之日矛:あめのひぼこ
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天日槍神(あめのひぼこのかみ) []
新羅から渡来した神。韓人系の出石民族の祖
太陽神、農業神
天日槍神は、新羅国の王子として生まれたが、後にひとりの美しい女性を追って朝鮮半島から渡来したとされる神である。日本神話の中で、はっきりと海外から訪れた神というのはほとんど見あたらず、そういった点で特異な神さまである。ただし、これはあくまで日本の神話であり、朝鮮半島の方にそういった神話は残っていない。その理由については後ほど説明しよう。「古事記」の中に彼に関する記述があるので、書いておく。「日本書紀」の中にも登場するのだが、特に大差はないのでこちらは省略する。
天日槍神は、新羅国にいたとき、赤い玉から化身したという美しい女と結婚していた。その赤い玉は、ある時沼のほとりで昼寝をしていた女の陰部に日光がさし、それで女が懐妊して産み落としたものだ。これを天日槍神が偶然手に入れると、玉は女に化身し、妻となった。妻の名は阿加流比売神(アカルヒメノカミ)といって、夫によくつくしたが、あるとき心おごった夫からののしりを受けると、「自分の祖のもとへ帰る」と言って小舟に乗って日本へ渡ってしまった。彼女が日本で住んだのは比売許曾(ヒメコソ)神社(大阪府東成区に現存)だという。
天日槍神は、自らの行為を悔やみ、妻のあとを追って日本に渡り、妻のいる難波(大阪府)に向かったが、海上の守護神に行く手を阻まれかなわなかった。そこで、やむなく但馬(兵庫県出石地方)に上陸してとどまり、やがてその地の女性と結婚して子をなした。但馬は、渡来計民族の影が濃い地である。
天日槍神は、まだほとんど開拓されていなかったこの地を拓いた。特に鉄器や土器など、新羅の新技術を伝えることによって農耕を発展させ、食料を豊かにし、農業神としての霊威を発揮した。このため、兵庫県出石町の出石神社に「国土開発の祖神」として祀られているのである。
「日矛(槍)」の日は太陽であり、矛は武器である。だが、この場合の矛は、武器というよりも太陽神を奉祀する呪具としての性格が強い。天日槍神は日本に渡ってくるときにさまざまな貴重な神宝を携えてきた。これらは「日本書紀」で羽太玉(ハフトノタマ)、足高玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬(ヒモロギ)の一式、七種と紹介されている。神籬について解説を加えよう。神籬とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものである。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬である。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないだろうか。残念ながら、ここでの「熊」の意味は分かっていない。
さて、これら七種の神宝セットが持つテーマは、いずれも太陽神を祀る呪具ということである。三種の神器と同じ構成である玉、鏡、刀に加えて矛、そして神籬である。この中でも矛とは、天岩戸隠れのときに天鈿女神が持って踊ったのが「日矛」という矛であることから考えても、太陽神との関係が深い。この呪具と同じ神名の天日槍神は、本来、太陽神を祀る呪具に宿る神霊であり、ひいては太陽神の一種とも受け取れる。太陽神は農業の一番中心的な守護神であるから、国土開発の神としても信仰されるわけである。
ところで、「古事記」ではこの神宝は「八種の宝物」とされ、内容も玉がふたつ、波振比礼(ナミフルヒレ)、波切比礼(ナミキルヒレ)、風振比礼(カゼフルヒレ)、風切比礼(カゼフルヒレ)、奥津鏡、辺津鏡(ヘツカガミ)となっている。「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールである。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。もう一度これら宝物の名前をよく見ていただけるとわかりやすいが、四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いものである。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、天日槍神は海とも関係が深いといわれている。
おそらくこうした性格は、もともと海人族(漁民)の信仰していた海、もしくは風の神と、天日槍神の信仰が結びついたものであろう。こうした性格は福井県敦賀市の気比神社の気比神と共通のものであり、「日本書紀」においては天日槍神がその地に立ち寄ったとされる記述もあることから、この二神は同一神ではないかといわれている。
いろいろと複雑な性格を示し、それだけに謎の多い神さまでもある天日槍神には、もう一つ、「槍」の名の通りに民族的な守護神としての武神のイメージもある。「播磨国風土記」宍禾群(シサワグン)の条に、天日槍神は葦原色許男神(アシハラシコノオノカミ=大国主命)と国土をめぐって力を競う強力な神として登場する。これは土着の出雲民族と渡来系の出石民族の勢力争いの記憶をとどめる物語というのが定説になっているようである。このとき争った土地は、中国山地の揖保川や千草川の流域で、かつては砂鉄の産地であったところである。ここから、天日槍神が古代の製鉄技術と密接に関係していることもうかがえる。
但馬国に定着した天日槍神は、土地の娘と結婚して子孫を残したが、その中に多遅麻毛理神(タジマモリノカミ=田道間守)がいる。彼は垂仁天皇の命で常世の国に渡り、非時香菓(トキジクノカグノコノミ)と呼ばれるいつでも実をつけている香りのよい果物を持ち帰った。これは、現在の橘ともいわれている。この功績にちなんで、彼は菓子の祖神として菓子業者の信仰を集めている。
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天日神命(あめのひみたまのみこと) []
天日神命
あめのひみたまのみこと
……
天神。系統不詳。饒速日命に従って天降った三十二人の防衛の一人。
対馬県主等の祖神。
「日神」から、天照大御神と同神される場合もある。また、天照國照彦火明命とする説もある。
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天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと) []
天日鷲翔矢命:あめのひわしかけるやのみこと
 → 天日鷲命:あめのひわしのみこと
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天比和志可気流夜命(あめのひわしかけるやのみこと) []
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天日和志命(あめのひわしのみこと) []
天日和志命:あめのひわしのみこと
 → 天日鷲命:あめのひわしのみこと
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天日鷲命(あめのひわしのみこと) []
天日鷲命
あめのひわしのみこと
別名
忌部神:いんべのかみ
大日鷲命:おおひわしのみこと
天日和志命:あめのひわしのみこと
天日鷲翔矢命:あめのひわしかけるやのみこと
天比和志可気流夜命:あめのひわしかけるやのみこと
天鷲命:あめのわしのみこと
……
阿波忌部の祖神。后は神言筥女命。
太玉命の率いる五神(天日鷲命:阿波忌部の祖、手置帆負命:讃岐忌部の祖、彦狭知命:紀伊忌部の祖、櫛明玉命:出雲玉作の祖、天目一箇:筑紫・伊勢忌部の祖)の一柱。
神魂命の後裔で、阿波国を開拓し、木綿・麻を植え、布帛を作った神。
『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋に隠れた時、天日鷲神と津咋見神が穀(かじ)の木を植えて白和幣(木綿)を作った。
天白羽命、天羽槌雄命は御子神。由布津主命は孫神。
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天之吹男神(あめのふきお) []
神生み、十神
屋根葺きの男神
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天之吹上男神(あめのふきおのかみ) []
屋根葺きの神。
家宅六神の1柱。
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天之葺根命(あめのふきねのみこと) []
天之葺根命:あめのふきねのみこと
 → 天之冬衣神:あめのふゆきぬのかみ
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天二上命(あめのふたのぼりのみこと) []
天二上命:あめのふたのぼりのみこと
 → 天牟羅雲命:あまのむらくものみこと
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天太玉神(あめのふとだまのかみ) []
天岩戸の前に集まった神々の一柱、忌部氏(イムベ)の祖神
占いの神、神事・祭具の神
 日本の神々には、人間が神を祀るという行為そのものをルーツとする神格も多い。天太玉神もそうした種類の神さまといえるだろう。つまり、今日の神道で行われるさまざまな神事を統括し、そこで使われるいっさいの神祭用具を管理する神、というのが天太玉神の本来の役割なのである。こうした天太玉神の性格は、この神が活躍する天岩戸隠れの神話に表されている。天岩戸に隠れてしまった天照大神を誘い出すため、天太玉神は、洞窟の前で卜占をし、枝葉の茂った榊に勾玉、鏡などを下げたらして太玉串を作った。そして、天太玉神はそれを捧げ持ち、同時に天児屋根神天照大神を賛美する祝詞(ノリト)を奉じて、大神の出現を祈ったのである。
 玉串とは、榊の枝に紙垂(シデ=紙を細長く切ったもの)をつけた神に捧げる供物のひとつで、太玉串は「立派な玉串」といった意味であり、古代には紙でなく布を使っていた。これを捧げることによって、神の意志に従う気持ちを表し、神とのコミュニケーションを確認するという意味がある。今日でも神社で神主に祈祷をしてもらうとき、あるいは家を建てるときの地鎮祭などでは玉串を捧げたりする。これは、神道用語では「玉串奉奠」と呼ばれ、頭を下げて礼儀正しく丁寧に玉串を捧げる行為を指す。神を崇敬し家の安全や繁栄を守護してもらおうというものだ。
 このように祭具というのは、今日でも神と人間とが交信するための大変便利で重要なアイテムである。それを最初に作り出したのが天太玉神であるといわれている。また、太玉串を作るときに楮(コウゾ=和紙の原料となる植物)や麻の糸で織った布が用いられた。それが楮や麻の守護神としての信仰の起源にもなっている。
 この天太玉神は、「日本書紀」に忌部氏の遠祖と記されている。忌部氏というのは、代々宮廷における祭祀の執行を統括することを専門に担当した氏族で、宮廷での宗教儀式に使うさまざまな祭具を作る部門の管理なども担当していたと考えられている。神話で天太玉神が太玉串を作る場面は、そうした忌部氏の役割を象徴したものだろうといわれているのである。
 さらに、天太玉神は注連縄(シメナワ)のルーツともいわれている。その起源も天岩戸隠れにある。 天岩戸隠れを参照していただきたい。天太玉神は機転を利かせて、天照大神が再び洞窟にこもってしまわないように、天照大神を止める境界を示すアイテムをも考案したわけである。
 注連縄は、神社の入口や社殿、他にもご神木や石などの御神体、あるいは神域とされる領域に張り巡らされたりする。注連縄が張られた内側は、神の降臨する空間(依り代)を示す。そして、神の宿る場所は神聖であるから、注連縄の境界の中には不浄なものの立ち入りは厳禁されるのである。このように清浄と不浄を分かつ注連縄にも当然、なんらかの霊力が宿ることになる。注連縄にも玉串と同様に紙垂を垂らすが、この紙垂は神の依り代ともされている。古代においては、これも玉串と同様に楮糸や麻糸織りの布が用いられていたようである。
 以上のように、玉串にしろ注連縄にしろ、要は神を祀る道具である。それを生みだした天太玉神は、神を祀る機能の神格化といえるだろう。特に注連縄に関しては、境界であると同時に悪霊を打ち払うバリアーのような機能を備えているといえる。だから、これをはじめに作った天太玉神は悪霊のもたらす災いを退ける霊力を中心的なパワーとしているといえよう。
 ついでだが、天太玉神は、木匠神ともいわれる。木匠とは木工職人のことで、その祖神というわけである。 天岩戸隠れ事件において、天太玉神が鏡作り、木綿作り、鍛冶などの祖神となった神々をリードして、立派な玉串を工作したことにちなんでいる。そのほかにも、あまり一般的には知られていないが、屋根の神、畳屋の神、建具の神など、工作全般の神としての信仰がある。
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天之冬衣神(あめのふゆきぬ) []
建速須佐之男命の系譜
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天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ) []
天之冬衣神
あめのふゆきぬのかみ
別名
天之葺根命:あめのふきねのみこと
……
古事記』によると、大国主神の父神。
須佐之男の五世の孫。父は淤美豆奴神。母は布怒豆怒神の娘・布帝耳神。
刺国大神の娘・刺国若比売を娶って、大国主神を生む。
名義については、冬衣の神とする説や、天上界の冬の着物の意としたり、 更に、増巾衣(ふゆきぬ)として、衣類の豊かなことを讃へた名とする説がある。
『日本書紀』神代巻宝剣出現章(八段)一書第四には、 須佐之男命の五世孫として天之葺根神(あまのふきねのかみ)の名がみえ、同神と思われる。
天之葺根命は、須佐之男命五世の裔孫。のち須佐之男命の命により高天原にいたり、天叢雲剣を天照大御神に奉った。
日御碕神社で毎年冬に神職が天一山に登って行う神剣奉天の行事はこの古儀にもとづくもので、同神社小野氏はその後裔という。
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天火明命(あめのほあかり) []
天孫降臨
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天火明神(あめのほあかりのかみ) []
日本書紀に見える神。瓊瓊杵尊ににぎのみことの子。尾張連おわりのむらじなどの祖先。
「播磨国風土記」に見える神。大己貴神おおあなむちのかみの子。あまりの気性の激しさに、この神のもとを逃げ出そうとした大己貴神の船を破壊した。
母の木花開耶姫が皇孫の子であることを明らかにするために室に火を放って生んだ三神の一つ。
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邇邇芸命の兄。神尾張氏の祖神太陽神。
別名の「天照」の字から天照大神の名を連想するように、この神は太陽を神格化したものと考えられる。太陽信仰は原始時代から各地にあったもので、古代においても天照大神が高天原の最高神に祀られる以前は各地の有力氏族がそれぞれ独自の太陽神を崇拝していた。そのころの神々は、特別な名前もなく氏族の祖神、氏神として素朴に祀られていた。天火明神もそうした太陽神のひとつであったが、その中でも有力な存在であったことから記紀神話に独自の神として登場したと考えられる。そこから、天照大神の原型だったのではないかという推測も生まれているのだ。
そういう推測はともかくとして、とりあえずはっきりしていることは、天火明神を祖神として信奉していたのが古代の中部地方に勢力を張っていた尾張氏である。この神の気性の激しさや強力なパワーは、太陽のエネルギーに他ならない。だから、尾張一族の人々はそうした日の神の霊威を崇め、開拓の神、農業の守護神として信仰していたのである。
素盞鳴尊に代表されるように、若いときに乱暴者だった神というのはその後の変身によってなかなか味のある魅力的な存在となるようだ。天火明神もそういう面をもっている。兵庫県地方の古代の伝承を記した「播磨国風土記」に描かれているこの神の姿をみると、もともとは異常に気性が激しく暴力的だった。
昔、大己貴命(オオナムチノミコト(播磨国風土記では父神となっている))が、息子の天火明神と一緒に旅をしていたとき、息子の気性の剛直さに心を痛め、仕方なくだまして置き去りにしようとした。息子を水汲みにやり、その間に船を出したのである。やがて戻った息子は、去っていく船を見てだまされたことを知り、大いに激怒した。すぐさまものすごい風と波を起こして船を追いかけさせ、たちまち父親の乗る船を破壊し沈没させてしまった。
ここに描かれた天火明神の怒りのパワーは、なんとも凄まじいものである。これだけのパワーを発揮するのだから、相当な霊力を秘めている存在だということがうかがえる。しかし、記紀神話では、天孫という系譜が知れるだけで、その一方では海幸彦山幸彦と兄弟とされたり、饒速日尊と同一と見られたり、なにかと謎の多い神でもある。とはいえ、その本来の姿は、農業を守護するエネルギッシュな日の神であることは確かだ。
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天火明命(あめのほのあかりのみこと) []
あまのほあかり‐の‐みこと【天火明命
日本神話で、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の子。尾張連(おわりのむらじ)の祖神。
天火明命 あめのほのあかりのみこと
記・紀にみえる神。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子。尾張氏の祖先とされる。炎があかるくなったときに生まれたという。別伝では天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の子。火明命ともいう。
天火明命
『日本書紀』の一書(別伝)および『古事記』によれば,天忍穂耳尊の子で,天皇家の始祖として天降った瓊瓊杵尊の兄に当たる。格別な事績はみられない。名称は,使われている文字からすると火の明るいことを示しているようだが,「火」はホという音を表しているだけで,本来は稲穂の「穂」の意味で,稲穂がよく実って色づいた様子を表現した名と思われる。なお『播磨国風土記』の餝磨郡の記事に,親神をひどい目に遭わせる火明命という名の神がみえるが,同名異神と考えたほうがよい。
あまのほあかりのみこと【天火明命
記紀神話の神。天忍穂耳尊あまのおしほみみのみことの子。尾張連おわりのむらじの祖神。
あまのほあかり‐の‐みこと【天火明命
記紀などに見える神。天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)の子神。尾張連の祖神。天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)。天照玉命(あまてるたまのみこと)。
……
天忍穂耳尊と萬幡豊秋津師比売命との間にできた御子に、天火明命と天津日高日子番邇邇芸命の二柱の神があり、 天火明命の御子・天香山は尾張連の祖。
また、邇邇芸命と木花之佐久夜毘売との間にできた御子に、
古事記』では、火照命海幸彦)、火須勢理命、火遠理命山幸彦:日子種穂手見命)。
『日本書紀』本文では、火闌降命(隼人の祖)、彦火火出見尊火明命(尾張連の祖)。
一書(第二)では、火酢芹命、火明命彦火火出見尊(火折尊)。
一書(第三)では、火明命、火進命(火酢芹命)、火折彦火火出見尊
一書(第五)では、火明命、火進命、火折尊、彦火火出見尊
一書(第六)では、火酢芹命、火折尊、彦火火出見尊
一書(第七)では、火明命、火夜織命、彦火火出見尊
一書(第八)では、火酢芹命(海幸彦)、彦火火出見尊山幸彦)。
上記のように、邇邇芸命の兄、あるいは御子との混乱はあるが、記紀ともに尾張連の祖としている。
天火明命の天孫族は、大和国葛城の高尾張から尾張の地に移住し、 尾張氏として中部地方に勢力を張り、御子天香山命の時に尾張地方に定住したという。
伊富岐神社の資料によると、境内に 天火明命の御子神、伊福貴一御子明神から九御子明神までが祀られており、 一御子・天香語山命、二御子・天村雲命、三御子・天忍人命、四御子・天戸目命、五御子・建斗米命、六御子・建田背命、七御子・建諸隅命、八御子・倭得玉彦命、九御子・若都保命とある。
天忍穂耳尊の御子で、天照国照彦天火明尊とも呼ばれることから、 同じく天忍穂耳尊の御子とされ、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とも呼ばれる饒速日命と同神とする場合もある。
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天火明命 
  生没年:
  父:天忍穂耳尊
    別名:火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、天照国照彦天火明尊、天照国照彦火明命、彦火明命、膽杵磯丹杵穂命
  妻:天道日女命
    天香山命
  妻:御炊屋姫
    宇摩志麻治命
    穂屋姫命(夫:天香山命)
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天之菩卑能命(あめのほひ) []
誓約、天照大御神の勾玉から生れた
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天菩比神(あめのほひ) []
葦原中国平定
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天穂日神(あめのほひのかみ) []
出雲族・武蔵族などの祖神。
農業神、稲穂の神
 天穂日神が生まれたのは、天照大神と素盞鳴尊が誓約をしたときである。順番でいうと天忍穂耳神に次ぐ2番目である。神名のホは「秀」に、ヒは「火」にも通じ、生命力が火のように燃えさかる他より秀でた稲穂ということになる。
 国譲りの際に登場する天穂日神は、天照大神の命で地上の統治者大国主命のもとに交渉役として遣わされる。ところが、彼を説得するどころか逆に大国主命に心服して地上に住み着き、3年経っても高天原にはなんの連絡もしなかった。こうした話からすると、天穂日神はよく言えばけっこう柔軟な感覚の持ち主とも言えようが、やっぱり意志が弱く、だから役目をサボることになった不忠者というイメージが強い。まあ、どうとらえるかは読者の感覚や学生時代の過ごし方によっても左右されるところであろう。とまあ、これが「古事記」に記されている姿である。
 ところが、これとは逆のイメージを伝えるものもある。天穂日神を祖神とする出雲氏に関係する「出雲国造神賀詞(イズモノクニノミヤツコノカムヨゴト)」に、やはりこの神が天照大神から地上の悪心を鎮めることを命じられたことが記されている。このとき天穂日神は、自分の息子の天夷鳥神と剣神経津主神を派遣し、見事に地上の乱れを平定したというのである。こちらでは、決していい加減な性格ではなく、天孫降臨に先立って地上の地ならしをし、露払いの役目を果たした偉大な神であることが強調されている。
 天穂日神を祖神とする出雲一族は、出雲東部の意宇群を支配する豪族である。一般に各地の豪族の祖神とされる神は、その各地の国土開発、産業振興の神としての性格を持ち、さらに人々の生活全般の守護神として信仰されていることが多い。この神もそうしたことから考えれば、偉大な業績を成し遂げた神としてのイメージの方が本来の姿に近いといっていいだろう。実際、農業をはじめ養蚕、絹糸、木綿の神として産業開発の面でその霊力を大いに発揮している。
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天菩比神(あめのほひのかみ) []
天菩比神:あめのほひのかみ
 → 天穂日命:あまのほひのみこと
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天乃夫比命(あめのほひのみこと) []
天乃夫比命:あめのほひのみこと
 → 天穂日命:あまのほひのみこと
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天之菩卑能命(あめのほひのみこと) []
天之菩卑能命:あめのほひのみこと
 → 天穂日命:あまのほひのみこと
編集
天穂比命(あめのほひのみこと) []
天穂比命:あめのほひのみこと
 → 天穂日命:あまのほひのみこと
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天目一箇神(あめのまひとつのかみ) []
金工鍛冶の神。作金者の神。鉱山師の神。
筑紫・伊勢両国の忌部の祖神。天津日子根神の御子。
太玉命の率いる五神(天日鷲命:阿波忌部の祖、手置帆負命:讃岐忌部の祖、彦狭知命:紀伊忌部の祖、櫛明玉命:出雲玉作の祖、天目一箇:筑紫・伊勢忌部の祖)の一柱。
『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋戸に隠れた神話では祭具としての刀剣や斧、鉄鐸を作る役をしている。 『古事記』ではこの役をやっている神は鍛人天津麻羅となっており、同神とする説がある。あるいは天津麻羅は鍛冶職人という一般名詞とする説もある。
溶鉱炉の火を片目で監視して、火の色で温度を測るため、片目が見えなくなってしまうことから一目という。 その異形な姿や、鉱山を求めて各地をさすらう異界の人々という印象がある。
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天目一命(あめのまひとつのみこと) []
天目一命:あめのまひとつのみこと
 → 天目一箇神:あめのまひとつのかみ
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天之御影神(あめのみかげのかみ) []
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天御陰命(あめのみかげのみこと) []
天御陰命
あめのみかげのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
凡河内直等の祖。
一般に、天之御影命と同神と考えられているらしい。
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天御梶日女命(あめのみかつひめのみこと) []
天御梶日女命:あめのみかつひめのみこと
 → 天甕津日女命:あめのみかつひめのみこと
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天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと) []
天甕津日女命
あめのみかつひめのみこと
別名
天𤭖津日女命:あめのみかつひめのみこと
天御梶日女命:あめのみかつひめのみこと
阿麻乃弥加都比女:あまのみかつひめのみこと
……
『出雲国風土記』出雲郡の伊農郷に坐す赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の妃・天甕津日女命。 国内をご巡行になった時に、伊農郷にお着きになっておっしゃったことには、「ああわが夫よ、伊農よ」とおっしゃった」とある。
また『出雲国風土記』楯縫郡に、阿遅須枳高日子根の后、天御梶日女の命が、多具の村においでになって、 多伎都比古の命をお産みになった。その時、胎児の御子に教えて仰せられたことには、 「おまえの御父上のように元気に泣きなさい。生きてゆこうと思うならば、ここがちょうどいい」とおっしゃった。とある。
『尾張国風土記』逸文に、垂仁天皇の御子・品津別皇子が七歳になっても言葉を話さず、 皇后の夢に、多具の国の神、阿麻乃弥加都比女が出現し、私を祀れば皇子は話すだろうと告げる。
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天𤭖津日女命(あめのみかつひめのみこと) []
天𤭖津日女命:あめのみかつひめのみこと
 → 天甕津日女命:あめのみかつひめのみこと
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天之甕主神(あめのみかぬし) []
大国主の系譜
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天三降命(あめのみくだりのみこと) []
天三降命
あめのみくだりのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
高皇産霊尊の子。豊前宇佐國造等の祖。宇佐氏族か。個人的には宇佐大元に天降った宗像三女神と関連する気がする。
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天三降尊(あめのみくだりのみこと、 あまのみくだりのみこと) []
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天之水分神(あめのみくまり) []
神生み、八神
分水・分水嶺の神
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天之水分神 (あめのみくまりのかみ) []
天之水分神・国之水分神

天之水分神
あめのみくまりのかみ

国之水分神
くにのみくまりのかみ

別名
水分神:みくまりのかみ
建水分神:たけみくまりのかみ
水別神:みずわけのかみ
武水別神:たけみずわけのかみ
……
水分神は、農業用水を分配する分水嶺の神。
伊邪那岐神伊邪那美神による神生みで生まれた水戸の神である速秋津日子・速秋津比売から生まれた八神は以下の通り。
まず、水の泡の神である沫那芸神、沫那美神。続いて、同じく水泡の神である頬那芸神、頬那美神。 次に、「水配り」の神である天之水分神と国之水分神。 最後に、水を汲む器(ヒサゴ)の神である天之久比奢母智神、国之久比奢母智神。
天之水分神は天から降る雨水(天与の水)を、国之水分神は川の水(地与の水)を分配する神。
「みくまり」の音から「みこもり」と訛り、子を守り育てる子安の神として信仰される場合がある。
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天三下尊(あめのみさがち) []
第2世独天神
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天道根命(あめのみちねのみこと) []
天道根命
あめのみちねのみこと
……
神産巣日神五世の裔孫。末胤に滋野宿禰がいる。
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
後に神武天皇の勅により紀伊国造となる。
川瀬造等の祖。
彦狭知命の子、高家首の祖神とする説もある。
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天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) []
天の中心にいる神様
『至高の根源』を司る神
古事記」には造化三神として天御中主神が最初に現れ、その後高御産巣日神神産巣日神が現れすぐに姿を隠したとある。すべて性別の無い独り神である。
江戸時代の国学者平田篤胤は『霊之御柱』において、この世界の姿が確定する天孫降臨以前の万物の創造を天御中主神高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神によるものとした。この三神は復古神道においては究極神とされ、なかでも天御中主神は最高位に位置づけられている。
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忌部氏の文書である『古語拾遺』には、天御中主神を始源神とし、
高皇産霊神を長男、津速産霊神を次男、神皇産霊神を三男として天中に存在したとされる。
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古事記……………………………………天之御中主神
古語拾遺…………………………………天御中主神
日本書紀・先代旧事本紀………………天御中主尊
伊勢国風土記逸文・住吉大社神代記…天御中主尊
新撰姓氏録・続日本紀…………………天御中主命
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造化三神の一柱で、別天神(コトアマツカミ)五神の第一神神格:宇宙の根源神
 天之御中主神は天地開闢(カイビャク)神話で宇宙に一番最初に出現し、高天原の主宰神となった神である。 その名が示すとおり宇宙の真ん中に在って支配する神で、日本神話の神々の筆頭に位置づけられている。 そういう偉い神なのだが、その姿はほとんど神秘のベールに包まれているといっていい。 なぜなら、宇宙の始まりに現れたものの、たちまちのうちに「身を隠す」からである。 顔も姿も現さなければ、語ることもなく、人間に分かるような形での活動は一切しない。 本来が「その姿を知らしめない」という日本の神さまの典型ともいえる。 仏像のような偶像の具体的なイメージに慣れた今日的感覚からすればなんとも歯がゆい感じもするが、日本の神霊とはそういうものなのである。
 そんなふうに人間界と隔絶した感じのする神さまであるが、だから何もしなかったというわけではない。 要はその活動が人間には分からないだけで、天之御中主神は、その後に登場してくる多くの神々による一切の創造的な作業を司令することがその役割だったといえる。 つまり、果てしない創造力と全知全能の力を持つ至上神なのである。
 以上のように宇宙の真ん中に位置する全知全能の神という考え方から、天之御中主神は神社信仰や神道をきちっとした体系としてとらえようとする、いろいろな神道説のなかでも中心的な神として位置づけられたりしている。 たとえば、伊勢神宮外宮の神官の度会(ワタライ)氏が創始した神道説に基づく度会神道や、朝廷の神祇官を務めた卜部家の子孫、吉田兼倶(カネトモ)が大成した神道説に基づく吉田神道などがそうである。 また、江戸時代の国学者によって提唱された復古神道(仏教や儒教の影響を排除した古代からの純粋神道を唱える神道説)などでも中心的な神格とされている。
 天之御中主神が一般に馴染みのある姿を現しているのが「妙見さん」である。 神話では「古事記」の冒頭と「日本書紀」の一書第四にしかこの神の名は登場しない。 それだけでなく、平安時代初期の全国4132の主な神社が載っている「延喜式」の神名帳などにも、この神を祀る神社が見あたらない。 そんなふうに、中世までは庶民の信仰に顔を出さなかった天之御中主神であるが、近世になると仏教系の妙見信仰と深い関係を持つようになる。
 そもそもこの神の「天の中心の至高神」という性格は、中国の道教の影響による天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰などがベースになって成立したものと考えられている。 そこから、室町時代以降、日蓮宗において盛んに信仰されるようになった妙見信仰と習合したのである。 妙見信仰は北斗妙見信仰ともいい、北極星や北斗七星を崇めるもので、俗に「妙見さん」と呼ばれる妙見菩薩は北極星の神格化されたものである。 天のはるか高みに隠れていた天之御中主神は、妙見菩薩と同一視されるようになったことによって、庶民の信仰レベルに降りてきたわけである。
(河)
造化三神、別天神
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日本書紀・古事記に記された神々の系譜の最初の神。別名:妙見尊星王。
天御中主神、天御中主命とも。
古事記神話の造化三神のうちの1人。
高御産巣日神(タカミムスビ)、神産巣日神(カミムスビ)と共にこの世の最初に出現したとされている。
中国古典の北極星の神、元始天王と同一神か??
この神様の5世孫にイザナギ、イザナミがいたりします。
伊達氏を神話の時代まで遡ると、この神様に行きつきます。
と・・・言うか、渡来系を除いたほぼ全ての姓がここに行きつくのですが(笑)
しかし・・・こんな所まで知りたいと思う人っているのかな(爆)
……
天地開闢の神々の一柱。
高天原の主宰神で、天地の初癸に高天原に出現した神。天の中央に座まする宇宙の根元神。
高御産須日神、神御産須日神とともに造化三神と称される。造化三神はみな単独の神であった。
また、造化三神宇摩志阿斯訶備比古遅神天之常立神を加えた、別天神の五柱の一神。
古事記伝』では「天の真中に坐して世の中の宇斯たる神と申す意の御名なるべし」。
近世に入ってから天一星信仰や北斗信仰、北極星信仰、さらに仏教の妙見信仰と習合する。
明治期になり神仏分離によって、天之御中主神と妙見菩薩が分離されて現在の形になった。
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天御中主命(あめのみなかぬしみこと) []
天之御中主神
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天御中主尊(あめのみなかぬしみこと) []
天之御中主神
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天御柱国御柱命(あめのみはしらくにのみはしらのみこと) []
天御柱国御柱命:あめのみはしらくにのみはしらのみこと
 → 龍田大神:たつたのおおかみ
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天御柱神(あめのみはしらのかみ) []
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天御柱命(あめのみはしらのみこと) []
天御柱命:あめのみはしらのみこと
 → 龍田大神:たつたのおおかみ
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天造日女命(あめのみやつこひめのみこと) []
天造日女命
あめのみやつこひめのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
綿積神の後裔。阿曇連等の祖。
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天之八重言代主神(あめのやえことしろぬしのかみ) []
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天八百日尊(あめのやおひ) []
第4世独天神
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天八坂彦命(あめのやさかひこのみこと) []
天八坂彦命
あめのやさかひこのみこと
……
邇芸速日命に従って天降った三十二人の防衛の一人。
伊勢神麻續連等の祖。
長白羽命の別名とする説もある。
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天八下尊(あめのやさがち) []
第1世独天神。
先代旧事本紀。
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天八十万魂(あめのやそよろだま) []
→百日萬魂
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天湯津彦命(あめのゆつひこのみこと) []
天湯津彦命
あめのゆつひこのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
安藝國造等の祖。初代安藝国造・飽速玉命は天湯津彦命五世孫。
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天世手命(あめのよてのみこと) []
天世手命
あめのよてのみこと
別名
天世乎命:あめのせおのみこと
……
『先代旧事本紀』によると、 饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。
邇芸速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。
久我直等の祖。神魂命の後裔か。
『先代旧事本紀』第三巻天神本紀の山背久我直等祖の天神立命に関して、 『先代旧事本紀訓註』(大野七三著)の本文には天背男命とあるが、 巻末の概説では天神立命とある。
国史大系登載の『先代旧事本紀』では天神立命とあるので、本文中の天背男命は誤記かもしれない。
ただし、天背男命の父神の名が天壁立命なので、似た名前の天神立命は天背男命の別名という可能性もある。
また、天世手命は久我直等の祖とあり、天世乎命を書かれている場合もあるが、天世乎命が正しい字なら、 「あめのせお」と読め、天背男命と同神と考えると、山背久我直等祖の天神立命は天背男命で良いのかもしれない。
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天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと) []
→栲幡千千姫命
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天若日子(あめのわかひこ) []
葦原中国平定
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天若日子神(あめのわかひこのかみ) []
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天別豊姫神(あめのわけとよひめのかみ) []
天別豊姫神:あめのわけとよひめのかみ
 → 與杼比売命:よどひめのみこと
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天鷲命(あめのわしのみこと) []
天鷲命:あめのわしのみこと
 → 天日鷲命:あめのひわしのみこと
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天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと) []
天日方奇日方命:あめひがたくしひがたのみこと
 → 櫛御方命:くしみかたのみこと
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天一根(あめひとつね) []
天に接するひとつの根、という意味
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天比登都柱(あめひとつばしら) []
天に接しているひとつ柱という意味
……
伊邪那岐神伊邪那美神の夫婦神が生んだ国土の神の一つ。伊伎嶋(壱岐)の別名。
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天両屋(あめふたや) []
天空にかかる二つの屋根という意味
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天万栲幡千千姫(あめよろずたくはたちちひめ) []
天万栲幡千千姫:あめよろずたくはたちちひめ
 → 天萬栲幡千幡比賣命:あめよろずたくはたちはたひめのみこと
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天萬栲幡千幡比賣命(あめよろずたくはたちはたひめのみこと) []
天萬栲幡千幡比賣命
あめよろずたくはたちはたひめのみこと
別名
天万栲幡千千姫:あめよろずたくはたちちひめ
万幡豊秋津師比売命:よろずはたとよあきつしひめのみこと
万幡豊秋津姫命:よろずはたとよあきつひめのみこと
万幡姫:よろずはたひめ
千千姫命:ちちひめのみこと
……
古事記』には万幡豊秋津師比売命とあり、高木神の娘で、天忍穂耳命の妻となり、天火明命、日子番能邇邇芸命を生む。
『日本書紀』本文には、思兼神の妹・万幡豊秋津姫命。 一書第二に、高皇産霊尊の娘・万幡姫。 一書第六に、高皇産霊尊の娘・栲幡千千姫万幡姫命、または高皇産霊尊の娘・火之戸幡姫の子、千千姫命。 一書第七に、高皇産霊尊の娘・天万栲幡千幡姫、または高皇産霊尊の娘・万幡姫の子、玉依姫命。 一書第八に、高皇産霊尊の娘・天万杵幡千幡姫。
万幡とは多くの織物。豊秋津とは上質の布とする説と稲が豊の実るとする説があり、織物の神。実りの神。
同様の織物の神に、天棚機姫神という女神がおり、別名を天八千千比売命といい、同神とする説もある。
伊勢神宮内宮の相殿神として祀られており、各地の伊勢神社、大神宮にも祀られている。
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天稚彦(あめわかひこ) []
天稚彦:あめわかひこ
 → 天若日子:あめわかひこ
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天若彦(あめわかひこ) []
天若彦:あめわかひこ
 → 天若日子:あめわかひこ
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天若日子(あめわかひこ) []
アマノジャクのルーツ?。
……
国土平定・国譲りの神話で、二番目に大国主神の許へ遣わされるのが天若日子。父神が天津国玉神。
高水神と天照大神は、葦原中国に遣わした天菩比神が大国主神のもとに行ったまま三年も帰ってこないので、 思兼神に相談し、天津国玉神の子・天若日子を次に遣わした。
天若日子は、天之麻迦古弓と天之波波矢を与えられて天降るが、 この神もまた大国主神の女・下照比売と婚姻して、八年も高天原へ帰ってこなかった。
思兼神は次に雉名鳴女を遣わそうと進言した。 雉名鳴女は天高原より降って、天若日子の門の湯津楓(『日本書紀』では湯津杜木)に止まり、詳しく天神の詔命を伝えた。 天若日子の奴婢天佐具売(『日本書紀』では天探女)がこれを聞いて主人に報告したが、 そのついでに「この鳥(雉名鳴女のこと)はその鳴き声がよくない。射殺してしまわれたらどうか」とすすめた。 そこで天若日子は天神から賜った天之波波矢と天之麻迦古弓でその雉を射殺してしまった。
ところが、その矢は雉の胸をつきぬけて天照大神高木神のおられるところへ飛んできた。 高木神はその矢を見て「この矢には血がついている。しかもこの矢は天若日子に与えた矢だ」と申され、 「もし天若日子が悪神を射た矢であるならば、天若日子に当るな、邪心が有ったらこの矢が当れ」といい、 その矢をつき返した。矢は寝ている天若日子の胸に当って死んでしまった。
下光比売の兄・阿遅鋤高日子神は、天若日子と非常に似ており、 天若日子の死に際し天若日子の親族により間違われて騒動が起きた。
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吾屋惶城根尊(あやかしきねのみこと) []
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吾屋惶城根尊 (あやかしきねのみこと) []
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吾屋橿城尊(あやかしきのみこと) []
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吾屋橿城尊 (あやかしきのみこと) []
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阿夜訶志古泥神(あやかしこね) []
神代七代
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阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) []
天地開闢の神々の一柱。
古事記』では、国之常立神に続いて天地開闢の最初にあらわれた神世七代の第六の神。 淤母陀流神と阿夜訶志古泥神は、男女の神。
『日本書紀』では、天地の最初に生まれた国常立尊、国狭槌尊、豐雲野尊、 埿土煑尊・沙土煑尊、大戸之道尊・大苫辺尊に続いた神世七代の第六代の神。
神から人への橋渡しとして、人体の完成を表わす神とする説、 整った容貌に対する畏怖を示すとする説、 神の言葉の神格化とする説、 あるいは、防塞守護の神とする説などいろいろ。
一般には青橿城根尊は阿夜訶志古泥神の別名だが、 『先代旧事本紀』では、青橿城根尊の別名は面足尊、沫蕩尊とあり、淤母陀流神としている。
『日本書紀』の一書では、青橿城根尊が伊弉諾尊・伊弉冉尊の親と書かれている。
また、他の一書では、国常立尊の子が天鏡尊、天鏡尊の子が天万尊、天万尊の子が沫蕩尊、沫蕩尊の子が伊弉諾尊と書かれている。
記紀ともに神世七代の第六の神であることから、 仏教(修験道)で信奉される天界最高位である第六の魔王・第六天に擬せられ、本地垂迹に説かれる場合がある。
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阿夜訶志古泥神 (あやかしこねのかみ) []
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綾惶根尊(あやかしこねのみこと) []
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綾惶根尊 (あやかしこねのみこと) []
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章子女王(あやこ) [1934/ 2/11~????]
結婚・皇籍離脱
    墓所:豊島岡墓地
    1934/ 2/11:誕生
    1947/10/14:皇籍離脱(13.8歳)
日本編集
理宮(あやのみや) [1860/ 3/16~1861/ 8/ 3 1.4歳没]
    墓所:相國寺内伏見宮墓地(京都市上京区相国寺門前町)
    1860/ 3/16:誕生
    1861/ 8/ 3:死去(1.4歳)
日本編集
吾忌橿城神(あゆかしきのかみ) []
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吾忌橿城神 (あゆかしきのかみ) []
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荒木村重(あらき むらしげ) [1536~1586]
はじめ池田勝正に仕え、後織田信長に属す。1578年信長に背き、篭城の後、追放。信長の死後堺に住し、豊臣秀吉に仕えた。茶人、利休七哲の一人。
日本編集
荒田郎女(あらたのいらつめ) []
荒田郎女
あらたのいらつめ
別名
木之荒田郎女:きのあらたのいらつめ
荒田皇女:あらたのみこ
……
「日本書紀」では荒田皇女。応神天皇の子。母は中日売命。
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荒田皇女(あらたのみこ) []
荒田皇女:あらたのみこ
 → 荒田郎女:あらたのいらつめ
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荒脛巾神(あらはばきがみ) []
アラハバキは、日本の民間信仰的な神の一柱である。
この神については、諸説あり、その要約をWikipediaから転載しておく。
○民間の俗説/足腰の神説
「荒脛巾神」という文字から、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰がある。多賀城市の荒脛巾神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、脚絆等を奉げられていたが、後に「下半身全般」を癒すとされ、男根をかたどった物も奉げられた。神仏分離以降は「脛」の字から「長脛彦」を祀るともされた。
○吉野裕子/蛇神説
吉野裕子の、かつての日本の、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたとする説で唱えられているもの。
吉野によれば、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。
伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われるというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつく 。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説。
○谷川健一/塞の神説
宮城県にある多賀城跡の東北に荒脛巾神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。谷川健一によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るために荒脛巾神を祀ったとしている。朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。つまりこれは荒脛巾神に「塞の神」としての性格があったためと谷川は述べている。
さらに谷川は、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は「蝦夷をもって蝦夷を制す」であり、もともと蝦夷の神だったのを、多賀城を守るための塞の神として祀って逆に蝦夷を撃退しようとしたのだという。また、衛視の佩く脛巾からアラハバキの名をつけたともいっている。
○近江雅和/製鉄民説
先の、多賀城跡近くにある荒脛巾神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であり、後述する氷川神社をも鉄と関連付ける説がある。
近江雅和は門客人神はアラハバキから変容したものであると主張、その門客人神の像は片目に造形されていることが多いことと、片目は製鉄神の特徴とする説があることを根拠として、近江は「アラ」は鉄の古語であると主張し、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物を採取していた修験道の山伏らが荒脛巾神の信仰を取り入れたのだという。また足を守るための「脛巾」を山伏が神聖視していたと主張、それが、荒脛巾神が「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容した原因だろうと推測している。
○真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、もしその説が正しければ「塞の神」と製鉄の神がここで結びつくことになる。
荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県大宮の氷川神社でも見られる。
これは、「客人神」の記事で説明している。
また当然かもしれませんが、所沢市三ヶ島の「中氷川神社」に摂社「八坂神社(祭神:須佐之男命)」があり、
ここに、「荒脛社(あらはばきしゃ)」を合祀してあり、ご祭神は手摩乳命(てなづちのみこと)、足摩乳命(あしなづちのみこと)と説明されている。
○「客人神」の記事のなかで、「荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説もある」と書いておきましたが、それは折口信夫氏の説です。
折口信夫氏は、次のように述べている。 「地主神みたいな、神杜以前の土着神―おそらく土地の精霊―を、かえって客神として取り扱う。だからあべこべに、ほんとうの後来神または、時あって来る神を客神、客人権現などいう名で示していないのだと思います」つまり、客人神というのは、後来の神ではなくて、神社の建つ前の地主神、もしくは土着神」だというのである。
この説明が、しっくりくる。
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有明親王(ありあきらしんのう) [910-961]
平安時代中期。
延喜(えんぎ)10年生まれ。延喜11年親王宣下(せんげ)。大宰帥(だざいのそち)をへて兵部卿となる。妃の藤原暁子(ぎょうし)との間の子に源忠清,守清,正清,泰清や天台座主明救(みょうぐ)がいる。応和元年閏(うるう)3月27日死去。52歳。
日本編集
有栖川宮家(ありすがわ) [1625-1923]
有栖川宮家               1000石
寛永2年(1625)10月、高松宮創始
宮号変遷・高松宮→桃園宮→花町宮→有栖川宮

宮号を有栖川と改称するのは、寛文12年(1672)6月。
9代熾仁親王は東征大総督として江戸から東北へ進軍し、明治2年に賞典禄1200石を下賜されている。
 
初代・好仁(よしひと)号高松宮
後陽成天皇第七皇子 母は近衛前久の娘
生没・慶長8年(1603)~寛永15年(1638)
慶長17年(1612)親王宣下、二品弾正尹
正室・徳川秀忠の養女(津山藩松平忠直の娘)
子女・養子良仁(2代) 明子→後西天皇女御

2代・良仁(なかひと)号桃園宮・花町宮
後水尾天皇第六皇子 母は櫛笥隆致の娘
生没・寛永14年(1637)~貞享2年(1685)
慶安元年(1648)親王宣下、一品式部卿
承応3年(1654)天皇践祚後西天皇となる
正室・初代好仁親王の王女
  室・清閑寺共綱の娘 
子女・3代幸仁 ※後西天皇参照

3代・幸仁(ゆきひと)号有栖川宮
後西天皇(良仁)第二皇子 
母は清閑寺共綱の娘
生没・明暦2年(1656)~元禄12年(1699)
寛文9年(1669)親王宣下、一品兵部卿
正室・不詳
子女・幸子→東山天皇皇后(中宮と称せられ、院号は承秋門院) 4代正仁 
尊統(霊元天皇養子→徳川綱吉猶子→知恩院)

4代・正仁(ただひと)
東山天皇猶子(幸仁の子) 母は某氏
生没・元禄7年(1694)~享保元年(1716)
宝永5年(1708)親王宣下、一品大宰師
正室・不詳
子女・養子職仁(5代)

5代・職仁(よりひと)
霊元天皇第九皇子 
母は岩倉具乗猶子(松室重敦の娘)
生没・正徳3年(1713)~明和6年(1769)
享保11年(1726)親王宣下、二品中務卿
正室・二条吉忠の娘
子女・音仁(桜町天皇猶子) 
叡仁(中御門天皇養子) 覚仁(桜町天皇養子)
増賀(桜町天皇猶子
職子→紀伊藩徳川重倫と婚約するも破約
常仁(桃園天皇養子) 6代織仁
董子→近衛経凞室

6代・織仁(おりひと)
桃園天皇猶子(職仁の子) 母は後藤氏
生没・宝暦3年(1753)~文政3年(1820)
宝暦13年(1763)親王宣下、一品兵部卿
正室・鷹司輔平の娘
子女・織子→広島藩浅野斉賢室
幸子→長州藩毛利斉房室 7代韶仁
承真(光格天皇養子)
舜仁(光格天皇養子)
喬子→ 将軍徳川家慶室
済仁(光格天皇養子)
尊超(光格天皇養子→徳川家斉猶子→知恩院)
吉子→水戸藩徳川斉昭室

7代・韶仁(つなひと)
光格天皇猶子(織仁の子) 
母は平松時章猶子(高木氏)
生没・天明4年(1784)~弘化2年(1845)
文化5年(1808)親王宣下、一品上総太守
正室・光格天皇猶子(閑院宮美仁親王の王女)
子女・8代幟仁 慈性(光格天皇猶子)
公紹(光格天皇養子) 
養子堯凞(近衛忠凞の子) 
通富(徳大寺実堅養子→中院通繁養子)
精姫(韶子)→将軍徳川家慶養女→久留米藩有馬頼咸室

8代・幟仁(たかひと)
光格天皇猶子(韶仁の子) 母は豊島氏 
生没・文化9年(1812)~明治19年(1886)
文政6年(1823)親王宣下、一品上総太守
正室・二条斉信の娘
子女・9代熾仁
線姫(幟子)→将軍徳川家慶養女→水戸藩徳川慶篤室 女子→彦根藩井伊直憲室
女子→伏見宮貞愛親王妃 威仁(9代熾仁養子)

9代・熾仁(たるひと)
仁孝天皇猶子(幟仁の子) 母は佐々氏
生没・天保6年(1835)~明治28年(1895)
嘉永2年(1849)親王宣下、一品大宰師
元老院議長、親征大総督 陸軍大将
正室・水戸藩徳川斉昭の娘
継室・新発田藩溝口直溥の娘
子女・養子威仁(10代、正室は加賀藩前田慶寧の娘)

有栖川宮家(1625-1918)


高松宮 三宮好仁親王 (はじめ七宮、齋祐/法号:永照院/二品弾正尹)(後陽成天皇第七皇子)(慶長8(1603)年3月17日 - 寛永15(1638)年6月3日)
妃 寶珠院 源寧子 (松平忠直女、徳川秀忠養女)(元和3/1617 - 延宝9/1681) 亀姫 第一王女 明子女王 (寛永10/1633 - 延宝8/1680) 妙吉祥院
後西天皇女御
第二王女 某 (寛永15/1638 - 元禄13/1700) 二宮、高琳院
花町宮 秀宮良仁親王 (一品)(後水尾天皇皇子)(寛永14(1637)年11月16日 - 貞享2(1685)年2月22日) →後西天皇として即位
有栖川宮初代 二宮幸仁親王 (幼名:多嘉丸/法号:本空院/一品式部卿)(後西天皇第二皇子)(明暦2(1656)年3月15日 - 元禄12(1699)年7月24日)
室 某氏 お眞 第一王女 幸子女王 (延宝8/1680 - 享保5/1720) 英宮、承秋門院
准三宮、東山天皇皇后
室 壽昌院 某氏 (? - 享保18/1733) お莎
小少将 第二王女 易子女王 (元禄4/1691 - 寛延2/1749) 淑宮、實性院
東本願寺眞如光性室
第一王子 正仁親王 (元禄7/1694 - 享保元/1716) 多嘉宮、是妙光院
一品、第二代有栖川宮
第二王子 尊統親王(俗諱良邦) (元禄9/1696 - 正徳元/1711) 岡宮(はじめ淳宮)、淳丸、壽經光院
二品 (贈一品)、知恩院門跡
有栖川宮二代 多嘉宮正仁親王 (法号:是妙光院/一品太宰帥)(元禄7(1694)年2月11日 - 享保元(1716)年9月24日)
縁約 淨岸院 竹姫 (清閑寺煕定女)(宝永2/1705 - 安永元/1772)
有栖川宮三代 明宮職仁親王 (法号:本明圓心院/一品中務卿)(靈元天皇第十七皇子)(正徳3(1713)年9月10日 - 明和6(1769)年10月20日)
妃 光臺院 藤原淳子 (二條吉忠女)(正徳3/1713 - 安永3/1774) 辰君 第一王子 音仁親王 (享保14/1729 - 宝暦5/1755) 遠久宮・億宮(はじめ若宮)、浄圓覺院
二品、弾正尹
第二王子 叡仁親王(俗諱有頼) (享保15/1730 - 宝暦3/1753) 緋宮、後正法院
二品、梶井門跡
室 松嚴院 某氏 (? - 延享3/1746) 衣重・絹枝
越前 第三王子 覺仁親王(俗諱敬典) (享保17/1732 - 宝暦4/1754) 菅宮、金剛心院
一品、仁和寺御室
第四王子 増賞親王(俗諱種徳) (享保19/1734 - 明和7/1770) 節宮(はじめ聰宮)、至誠心寺
二品、実相院門跡のち聖護院門跡
第五王子 某 (元文2/1737 - 延享元/1744) 律宮、新涼月院
室 月照院 藤原温子 (後藤有胤女)(享保7/1722 - 文化11/1814)
*明和4(1767)年職仁親王の不興を蒙り中宮寺預りとなる 志き
千枝・千重
小嶋
常盤木
讃岐
相模
小侍従
花小路
玉野井
菖蒲小路 第一王女 職子女王 (延享2/1745 - 天明6/1786) 愛宮(はじめ於佐宮)、靈照院
紀伊和歌山藩主徳川重倫と縁約 (のち解消)
第二王女 文亨 (延享3/1746 - 明和7//1770) 嵩宮、大徹文亨、歡喜心院
円照寺
第三王女 榮恕 (寛延2/1749 - 安永5/1776) 遊亀宮、尊珍榮恕、慈眼院
中宮寺相続
第六王子 常仁親王(俗諱成美) (宝暦元/1751 - 明和9/1772) 百宮、無上心院
一品、梶井門跡、天台座主
第七王子 織仁親王 (宝暦3/1753 - 文政3/1820) 壽手宮、文聚院
一品、第四代有栖川宮
*のち誕生日を宝暦4年8月1日に改める
室 賀茂茂利 (山本廉顯女)
*明和4(1767)年御暇 印南
藻鹽 第四王女 董子女王(初名惠子) (宝暦9/1759 - 天保12/1841) 義宮→芳宮→高宮→泰宮、圓臺院
近衛經煕室
有栖川宮四代 壽手宮織仁親王 (法号:文聚院/一品中務卿)(宝暦3(1753)年7月2日 - 文政3(1820)年2月19日)
縁約 いと (黒田繼高女)    
妃 明臺院 藤原福子 (鷹司輔平女)(宝暦13/1763 - 文化元//1804) 房君 第一王女 織子女王 (安永9/1780 - 寛政8/1796) 孚季宮、翺翔院
安芸広島藩主淺野齊賢室
第二王女 幸子女王 (天明2/1782 - 嘉永5/1852) 榮宮(はじめ同宮)、貞操院
長門萩藩主毛利齊房室
室 山村則宴女 登喜
りと(里登)
八重嶋 第一王子 某 (安永5/1776 - 安永6/1777) 高貴宮、尊勝院
室 常信院 村井敦子 (村井頼母女、尾崎積興養女)(明和4/1767 - 文政12/1829)
*はじめ妃福子の小姓 さかり
登喜
千尋
讃岐
歌町
常盤木 第二王子 韶仁親王 (天明4/1784 - 弘化2/1845) 阿計宮(はじめ若宮)、大功徳院
一品、第五代有栖川宮
第三王女 文乘 (天明7/1787 - 弘化3/1846) 淑宮、大儀文成、常應心院
円照寺門跡
第四王子 舜仁親王(初名公猷、俗諱正道) (寛政元/1789 - 天保14/1843) 亀代宮、自在心院
一品准三宮、知恩院門跡、一乗院門跡、
輪王寺門跡、天台座主
第五王女 某 (寛政2/1790 - 寛政3/1791) 幾宮、華光院
第七王女 煕子女王 (寛政4/1792 - 文化14/1817) 秀宮(はじめ美保宮)、瑶章院
第八王女 喬子女王 (寛政7/1795 - 天保11/1840) 樂宮、淨觀院
将軍徳川家慶室
室 清香院 某氏重子 (明和4/1767 - 寛政11/1799) 八重
千坂 第三王子 承眞親王(俗諱惇徳) (天明7/1787 - 天保12/1841) 永宮(はじめ邦宮)、宮僧正、如實知王院
一品、梶井門跡、天台座主
第四王女 某 (寛政元/1789 - 寛政2/1790) 繁宮(はじめ萬壽宮)、香海院
第六王女 榮暉 (寛政4/1792 - 弘化2/1845) 千鶴宮、尊照榮暉、慈心院
中宮寺相続
第九王女 某 (寛政7/1795 - 寛政8/1796) 彌宮、華陽院
第五王子 濟仁親王(俗諱脩道) (寛政9/1797 - 弘化4/1847) 誠宮、不壊身院
一品、勧修寺門跡のち仁和寺御室
第十一王女 苞子女王 (寛政10/1798 - 文政2/1819) 嘉寧宮、眞相院
流産 (寛政11/1799)  
室 清心院 安藤清子 (? - 文政7/1824)
*はじめ妃福子の侍女 八千

珠城
清瀧 第十王女 某 (寛政8/1796 - 文化4/1807) 壽宮、蘭香院
第六王子 某 (寛政10/1798) 綽宮、玉相院
第七王子 某 (寛政12/1800) 萬信宮、光雲院
第八王子 尊超親王(俗諱福道) (享和2/1802 - 嘉永5/1852) 種宮、大光明院
一品、知恩院門跡
第十二王女 吉子女王 (文化元/1804 - 明治26/1893) 登美宮、貞芳院、文明夫人
常陸水戸藩主徳川齊昭室
有栖川宮五代 阿計宮韶仁親王 (法号:大功徳院/一品中務卿)(天明4(1784)年12月19日 - 弘化2(1845)年2月26日)
妃 妙勝定院 宣子女王 (閑院宮美仁親王女)(寛政12/1801 - 慶応2/1866) 祥宮
嘉宮
實枝宮 第二王女 某 (文政4/1821 - 文政6/1823) 遊亀宮、靜性院
第三王女 某 (文政5/1822 - 文政6/1823) 實種宮、眞種院
第四王女 韶子女王 (文政8/1825 - 大正2/1913) 韶宮(はじめ精宮)、精姫、精蓮院
筑後久留米藩主有馬頼咸室
*将軍徳川家慶養女となるが、明治2(1869)年宮家に復籍
室 圓明院 豐島勝子 (島岡某女、豐島勝文養女)(天明2/1782 - 安政2/1855) 嶋
千里 第一王女 某 (文化6/1809 - 文化7/1810) 萬宮、香蓮院
第一王子 幟仁親王 (文化9/1812 - 明治19/1886) 八穂宮
一品、第六代有栖川宮
第二王子 慈性親王(俗諱明道) (文化10/1813 - 慶応3/1867) 精宮、大樂王院
一品准三宮、大覚寺門跡のち輪王寺門跡、
東大寺別当、天台座主
第三王子 公紹親王(俗諱彰信) (文化12/1815 - 弘化2/1845) 菊宮、普賢行院
一品、輪王寺門跡
*1年程喪を秘す
第四王子 西園寺公潔 (文化14/1817 - 天保7/1836) 他宮、他君、寂照院
西園寺家相続、近衛中将
有栖川宮六代 八穂宮幟仁親王 (一品中務卿)(文化9(1812)年1月5日 - 明治19(1886)年1月24日)
妃 藤原廣子 (二條齊信女)(文政2/1819 - 明治8/1875) 岸君
室 心鏡院 佐伯祐子 (佐伯祐條女)(? - 天保12/1841) 嘉奈・可那
亀岡 第一王子 熾仁親王 (天保6/1835 - 明治28/1895) 歓宮
一品、第七代有栖川宮
第二王女 某 (天保7/1836 - 天保14/1843) 染宮、眞如院
第二王子 某 (天保9/1838 - 天保14/1843) 浩宮、後智冥院
青蓮院
室 定林院 山西千勢 (? - 天保11/1840) 第一王女 幟子女王 (天保6/1835 - 安政3/1856) 線宮、線姫、線教院、順貞夫人
常陸水戸藩主徳川慶篤室
*将軍徳川家慶養女
第三王子 某 (天保11/1840 - 天保14/1843) 長宮、如意珠院
知恩院
室 森則子 (森淸啓女)(? - 明治35/1902) 八千
歌町 第三王女 宜子女王 (嘉永4/1851 - 明治28/1895) 春照院、糦宮
伯爵井伊直憲室
第四王女 利子女王 (安政5/1858 - 昭和2/1927) 穗宮
尾張名古屋藩主徳川義宜縁約 (義宜卒去により流縁)
伏見宮貞愛親王妃
第四王子 威仁親王 (文久2/1862 - 大正2/1913) 稠宮
三品、第八代有栖川宮
有栖川宮七代 歓宮熾仁親王 (一品)(天保6(1835)年2月19日 - 明治28(1895)年1月15日)
縁約 親子内親王 (仁孝天皇皇女)(弘化3/1846 - 明治10/1877) 和宮
妃 源貞子 (水戸徳川齊昭女)(嘉永3/1850 - 明治5/1872) 繁姫
繁君
妃 溝口董子 (溝口直溥女)(安政2/1855 - 大正12/1923) 榮君
有栖川宮八代 稠宮威仁親王 (三品)(文久2(1862)年1月13日 - 大正2(1913)年7月5日)
妃 前田慰子 (前田慶寧女)(元治元/1864 - 大正12/1923) 慰姫 第一王女 績子女王 (明治18/1885 - 明治19/1886)
第一王子 栽仁王 (明治20/1887 - 明治41/1908)
第二王女 實枝子女王 (明治24/1891 - 昭和8/1933) 公爵徳川慶久夫人

有栖川宮家


好仁親王

  生没年:1613-1638
  父:後陽成天皇
    1625- 高松宮(有栖川宮)
    弾正尹
  妃:宝珠院 亀姫(父:征夷大将軍 徳川秀忠)
    -1680 明子女王(夫:後西天皇
    -1700 女二宮 娘

幸仁親王

  生没年:1656-1699
  父:後西天皇
    多嘉宮
    1667-1672 高松宮
    1672-1699 有栖川宮
    兵部卿
    式部卿
  妃:
    常磐井宮 文仁親王
    実性院 易子女王(夫:東本願寺光性)
    1694-1716 大宰帥 有栖川宮 正仁親王
    1696-1711 尊統入道親王
  女:家女房
    1680-1720 承秋門院 幸子女王(夫:東山天皇

職仁親王

  生没年:1713-1769
  父:霊元天皇
    明宮
    有栖川宮
    中務卿
  妃:二条辰君(父:関白内覧 二条吉忠)
    1729-1755 音仁親王
    1730-1753 叡仁入道親王
    1732-1754 覚仁入道親王
    1734-1770 増賞入道親王
    律宮(王子)
    1745-1786 愛宮 職子女王
    文亨女王
    栄恕女王
    1755-1820 織仁親王
    1756-1772 天台座主 常仁入道親王
    1759-1841 泰宮 薫子女王(夫:右大臣 近衛経熙)
    嵩子女王
    遊?子
    -1770 歓喜心院宮 皇女
    1747-1819 (養子)円遵(常磐井家へ)

音仁親王

  生没年:1729-1755
  父:有栖川宮 職仁親王
    若宮
    遠久宮
    常陸太守
    弾正尹
  妃:
    1747-1819 円遵(円遵(常磐井家へ))
    兼宮 経子女王(夫:仏光寺堯祐)
    1753-1778 茂美宮(王女)

織仁親王

  生没年:1755-1820
  父:有栖川宮 職仁親王
    寿手宮
    有栖川宮
    兵部卿
    中務卿
  妃:明台院 鷹司福子(父:関白 鷹司輔平)
    1776-1777 高貴宮
    1780-1796 孚希宮 織子女王(夫:安芸広島藩八代藩主 浅野斉賢)
    1782-1852 貞操院 栄宮 幸子女王(夫:長門萩藩九代藩主 毛利斉房)
  妾:常信院(父:権大納言 平松時章)
    1784-1845 韶仁親王
    1787-1846 淑宮 大儀文成
    1787-1841 天台座主 邦宮 永宮 承真法親王
    1788-1837 (養子)法印大僧正 円祥(父:鷹司輔平)
    1789-1831 亀代宮 舜仁入道親王
    1789-1790 繁宮(女王)
    1789-1790 万寿宮(女王)
    1790-1791 幾宮(女王)
    1792-1845 千鶴宮 尊照栄暉女王
    1792-1817 美保宮 秀宮 煕子女王
    1795-1840 楽宮 喬子女王(夫:征夷大将軍 徳川家慶)
    1795-1796 弥宮(王女)
    1796-1807 寿宮(王女)
    1797-1847 誠宮 済仁入道親王
    1798-1819 嘉寧宮 苞子女王
    1798 綽宮(男)
    1800 万信宮(男)
    1801-1852 種宮 知恩院門跡 尊超入道親王
    1804-1893 豊美宮 吉子女王(夫:常陸水戸藩九代藩主 徳川斉昭)
    (養子)清宮(父:専修寺円遵)
    -1843 天台座主 公猷法親王

韶仁親王

  生没年:1784-1845
  父:有栖川宮 織仁親王
    若宮
    阿計宮
    有栖川宮
    上総太守
    中務卿
  妃:宣子女王(父:閑院宮 美仁親王)
    1809-1810 万宮(女王)
    1813-1886 幟仁親王
    1813-1867 精宮 慈性入道親王
    1814-1845 菊宮 公紹入道親王
    1818-1836 西園寺公潔(西園寺家へ)
    1821-1823 遊亀宮(女王)
    1822-1823 実種宮(女王)
    1825-1913 精宮 韶子女王(夫:筑後久留米藩十一代藩主 有馬頼咸、義父:征夷大将軍 徳川家慶)
    1816-1861 (養子)円禧(常磐井家へ)
    1838-1843 (養子)浩宮(父:幟仁親王)
    1840-1843 (養子)長宮(父:幟仁親王)
    1834-1865 (養子)尊證成淳女王
    通富

幟仁親王

  生没年:1813-1886
  父:有栖川宮 韶仁親王
    八穂宮
    有栖川宮
    上総太守
    神祇事務総督
    神道総裁
  妃:二条広子(父:左大臣従一位 二条斉信)
    1835-1895 熾仁親王
    1835-1856 線宮 幟子女王(夫:常陸水戸藩十代藩主 徳川慶篤)
    1836-1843 染宮(王女)
    1838-1843 浩宮
    1840-1843 長宮
    1851-1895 米喜宮 宜子女王(夫:伯爵 井伊直憲)
    規宮(王子)
    1858-1927 穂宮 利子女王(夫:伏見宮 貞愛親王)
    1862-1913 威仁親王
    1844-1919 (養子)常磐井堯熙(常磐井家へ)

熾仁親王

  生没年:1835-1895
  父:有栖川宮 幟仁親王
    歓宮
    有栖川宮
    元老院議長
    左大臣
    征討大総督
    陸軍大将
    参謀総長
  妃:徳川貞子(父:常陸水戸藩九代藩主 徳川斉昭)
  妃:溝口董子(父:本多忠穆、義父:越後新発田藩十一代藩主 溝口直溥)

威仁親王

  生没年:1862-1913
  父:有栖川宮 幟仁親王
    稠宮
    有栖川宮
    海軍大将
    元帥
  妃:前田慰子(父:加賀金沢藩十三代藩主 前田敬寧)
    1885-1886 績子女王(夭折
    1888-1908 海軍少尉 栽仁王
    1891-1933 実枝子女王(夫:徳川慶久)
日本編集
有馬則頼(ありま のりより) [1533~1602]
播磨・赤松氏庶流。摂津・淡河城を本拠とするが、侵攻する羽柴秀吉に降った。以後、毛利氏攻め、九州征伐、朝鮮出兵と従い、秀吉の御咄衆となる。秀吉没後は徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦に参加、播磨・有馬郡に3万石を得た。 
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有馬晴信(ありま はるのぶ) [1567~1612]
肥前領主。有馬義貞の次男。龍造寺隆信を沖田畷の戦いで討って、肥前島原を統一。また、ローマに少年使節を送った。関ヶ原の戦いでは東軍に属したが、岡本大八事件で斬罪となる。
日本編集
阿和佐久御魂(あわさくみたま) []
天孫降臨
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淡島(あわしま) []
水蛭子(ひるこ)の次に伊邪那美神伊邪那岐神から生まれた子供、泡のような不完全な島で子供として数えないことにした。
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淡嶋(あわしま) []
国生み
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粟島(あわしま) []
粟島/淡島
あわしま
……
一つには、伊邪那岐神伊邪那美神による国生みの登場する神で、特定の島、あるいは神話上の島を意味するもの。
古事記』では、伊耶那岐神伊邪那美神が結婚して、最初に水蛭子を生んだが葦船に乗せて流し、 次に淡島を生んだが、これも御子の数には入れないとある。
『日本書紀』では、淡路州(淡路島)と同時に淡州を生んだとか、淡路州、大日本豊秋津州の次に淡州を生んだとあり、 淡路島に近い島のように記述されている。紀伊半島と淡路島の間にある友ケ島の中の神島とする説がある。
もう一つは、淡島明神(粟島明神)と呼ばれる婦人病の神。
粟島は、医薬の神・少彦名神のこと。『伯耆国風土記』に、少日子(少彦名神)が粟を蒔き、粟が実った時に、粟茎にはじかれて常世国に渡り、粟島という。とある。
一説には、天照大御神の六番目の娘、住吉大神の后であった婆利塞女が、帯下の疾があったため淡島に流され、婦人の病を治す霊験があるという。
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淡島様(あわしまさま) []
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淡島明神(あわしまみょうじん) []
婦人病に霊験あらたか。
全国の淡島神社に祭られる女性を婦人病から守る女神。「淡島明神(あわしまみょうじん)」、「粟島大明神(あわしまだいみょうじん)」とも呼ばれる。しかし、淡島神社の本社である和歌山県にある加太神社の祭神は元来少名毘古那神である。淡島様信仰は江戸元禄時代に淡島願人と呼ばれる乞食行者が、淡島様の小宮をたずさえたり、背負ったりして、その由来を語り、門付けをして諸国を行脚していたことで広まった。それによれば、淡島様は元々住吉神社の女房神だったが、「帯下の病(帯下とは女性性器からの分泌物のこと。婦人病の一種のことだと思われる)」に罹ったため、大社の門扉に乗せて海に流され、和歌山に流れ着き女性の守り神となったという。婦人病、縁結び、安産の神として信仰を集め、花柳病(性病のこと)や婦人病に罹った女性が淡島様に腰布を奉納して平癒を祈願することもあった。
淡島様が婦人病などの関連視されるに至った理由は、おそらく「日本書記」の「及至産時、先以淡路洲爲胞(産む時に至るに及びて、先ず淡路洲(あわじしま)を以て胞(え)とす)」という記述からと思われる。また俗に淡島様は婆利塞女(はりさいにょ)で、住吉の神に嫁ぐにあたり人形を作り夫婦の道を学んだという謂れが伝わっている。
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淡道之穗之狹別島(あわじのほのさわけのしま) []
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粟田真人(あわたの まひと) [????~養老3.2.5 (719.2.28)]
奈良時代の公卿。
田氏は春日、大宅、小野、柿本氏らとともに、古くは和珥(和邇とも書く)氏の同族氏族である。
天武10(681)年小錦下の位を受け、同13年朝臣の姓を与えられた。
持統3(689)年には筑紫大宰としてみえ、文武天皇の時代には大宝律令の編纂にも参加した。
大宝1(701)年直大弐の位で、民部尚書の職にあり遣唐執節使に任命されたが、この年は天候に恵まれず翌2年6月唐へ出発した。
同行者には僧道慈や万葉歌人の山上憶良らもいたという。
翌3年、唐の長安(西安)に至って則天武后に謁見、経史をよく読み、容姿温雅だとして司膳員外卿に任命されたという。
慶雲1(704)年に帰国、その功績によって大和国(奈良県)に水田20町、穀1000石を与えられた。
同2年中納言に任命され、政局に参加。
和銅1(708)年に大宰帥に再任。
遣唐使としての功績は、白村江の戦(663)以来初めての遣唐使として、直接唐との正規の外交を樹立し、外交政治上も重要な任務を果たしたことである。
天武14年には位を父(春日粟田臣百済か)に譲ろうとするなど性質は温雅で経史にも詳しかったから、律令の編纂にも参加させられ、ひさびさの遣唐使の大任もまかされたのであろう。
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粟田真人(あわたのまひと) [????~養老3.2.5 (719.2.28)]
奈良時代の公卿。
田氏は春日、大宅、小野、柿本氏らとともに、古くは和珥(和邇とも書く)氏の同族氏族である。
天武10(681)年小錦下の位を受け、同13年朝臣の姓を与えられた。
持統3(689)年には筑紫大宰としてみえ、文武天皇の時代には大宝律令の編纂にも参加した。
大宝1(701)年直大弐の位で、民部尚書の職にあり遣唐執節使に任命されたが、この年は天候に恵まれず翌2年6月唐へ出発した。
同行者には僧道慈や万葉歌人の山上憶良らもいたという。
翌3年、唐の長安(西安)に至って則天武后に謁見、経史をよく読み、容姿温雅だとして司膳員外卿に任命されたという。
慶雲1(704)年に帰国、その功績によって大和国(奈良県)に水田20町、穀1000石を与えられた。
同2年中納言に任命され、政局に参加。
和銅1(708)年に大宰帥に再任。
遣唐使としての功績は、白村江の戦(663)以来初めての遣唐使として、直接唐との正規の外交を樹立し、外交政治上も重要な任務を果たしたことである。
天武14年には位を父(春日粟田臣百済か)に譲ろうとするなど性質は温雅で経史にも詳しかったから、律令の編纂にも参加させられ、ひさびさの遣唐使の大任もまかされたのであろう。
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淡道之穂之狭別嶋(あわぢのほのさわけしま) []
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沫那芸神(あわなぎ) []
神生み、八神
水面に立つ泡の神
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沫那藝神(あわなぎのかみ) []
河口の陸側の水面の神。
水面が穏やかであることの神。
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沫蕩尊(あわなぎのみこと) []
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沫那美神(あわなみ) []
神生み、八神
水面に立つ泡の神
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沫那美神(あわなみのかみ) []
河口の海側の水面の神。
水面が泡立っていることの神様です。
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青沼馬沼押比売(あをぬうまぬおしひめ) []
大国主の系譜
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安閑天皇(あんかんてんのう) [466-535]
第27代に数えられる大和朝廷の天皇。摂津三島の竹村屯倉を始め全国に屯倉を数多く作り、皇室財政に大きく貢献した。
勾金橋宮(奈良県橿原市)に皇居を構え、安閑2年に没して古市高屋丘陵に葬られた。
即位の年次に関しては、安閑天皇とその同母弟の宣化天皇、および異母弟の欽明天皇がそれぞれ同時期に皇位にあったという王朝併立説も提起されている。
陵墓は大阪府羽曳野市の古市高屋丘陵。
……
第二十七代天皇。第二十六代・継体天皇の第一皇子。第二十八代・宣化天皇の兄。母は『古事記』では尾張連等の祖凡連の娘・目子郎女。『日本書紀』では目子媛。
広国押建金日王の「金日」から、金峯山の蔵王権現は安閑天皇であるとする説があり、江戸時代まで蔵王権現を祀っていた神社の祭神となっている場合がある。
勾(まがり)の金箸宮(金橋宮:奈良県橿原市曲川町。旧金橋村)に遷宮し統治された。
この時代、各地に屯倉が増設された。これは磐井の反乱に加勢して敗れた地方豪族が許しを乞うために献上したものだと考えられている。 このことによって、皇室財政は充実。内政・外交の立て直しを助けた。
『日本書紀』では、仁賢天皇の娘・春日山田皇女(山田赤見皇子)を皇后とし、 許勢男人大臣の娘・紗手媛、紗手媛の妹・香香有媛、物部木蓮子大連の娘・宅媛の三人を妃とした。
古事記』では、皇子は無しとある。
御陵は、古市高屋丘陵(安閑天皇陵)
別名の「金日」から金峯の神、蔵王権現として祀られる場合が多い。
皇居:勾金橋宮(まがりのかなはし) 奈良県橿原市曲川町

略歴(5世紀) (6世紀)
466-丙午-雄略10年 生誕
531-辛亥-継体25年02月07日 即位、継体天皇崩御
大伴大連金村と物部麁鹿火大連(もののべのあらかい)を元のとおり大連とする。
532-壬子-安間01年01月 都を倭の勾金橋宮とする
532-壬子-安間01年03月06日 仁賢天皇の娘の春日山田皇女を皇后として迎える
535-乙卯-安閑04年12月17日 崩御 70歳
日本編集
安康天皇(あんこうてんのう) []
皇居
石上穴穂宮(いしのかみのあなほ)---奈良県天理市田町のあたりとされている。
陵墓
陵名:菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)
形状:方丘、堀
場所:奈良市宝来4丁目

略歴 (5世紀)
401-辛丑-履中02年 生誕
453-癸巳-允恭42年01月14日 父允恭天皇が崩御。
453-癸巳-允恭42年10月10日 父帝を長野原陵(ながののはらのみささぎ)に葬る。
453-癸巳-允恭42年12月14日 即位。都を石上穴穂宮に移す。
454-甲午-安康01年02月01日 弟雄略のために大草香皇子の妹草香幡梭姫皇女 (くさかはたひひめ)を娶ろうと根使主を使わした。大草香皇子は快諾し家宝の押木珠縵(おしきのたまかずら)を奉じようと根使主に預けたのだが根使主は押木珠縵に目がくらみ我が物にしようと大草香皇子が縁組を断ったと報告するのである。
怒った天皇は大草香皇子を攻め殺し、妹草香幡梭姫皇女を雄略に与え、妻の中帝姫命を妃として迎える。中帝姫命には大草香皇子との間にすでに眉輪王という子がいた。
455-乙未-安康02年01月17日 寵愛していた中帝姫命を皇后とする。母の縁で父の罪を許された眉輪王は常に宮中で育てられていた。
456-丙申-安康03年08月09日 崩御 56歳 
日本書紀の「安康天皇」及び「雄略天皇」の条に安康天皇は眉輪王(7歳)に刺殺されたとあるが、にわかに信じがたい。私は雄略に刺殺されたと思っている。
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安康天皇(あんこうてんのう) [401-456]
第 20代に数えられる大和朝廷の天皇。大和石上穴穂宮に都し,眉輪王に暗殺されたと伝えられる。陵墓は奈良市宝来町の菅原伏見西陵。
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安国寺恵瓊(あんこくじ えけい) [?~1600]
安芸銀山城主武田信重の子。安芸安国寺、京都東福寺住職。毛利家の外交僧として、豊臣秀吉との仲を仲介。後、秀吉の側近として伊予国内で六万石の大名。関ヶ原の戦いで、西軍につき処刑された。
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安芸守護武田信重の遺児(といわれる)。武田家滅亡時に逃れ、竺雲恵心の元で僧となる。安芸・安国寺、備前・安国寺の住持となり、後に京・東福寺住持となる。恵心が安芸・毛利氏の外交僧をしていたことから、恵瓊も毛利氏の外交僧となり、主に小早川隆景の元で働いた。羽柴秀吉の攻略を受けた際は、講和をまとめ、以後秀吉の側近ともなる。朝鮮出兵の際には従軍僧として渡海するが、同じ毛利氏臣の吉川広家と意見の齟齬があった。関ヶ原の戦いにおいて西軍として毛利輝元を総大将に担ぎ上げるが、東軍に内通する広家を説得しきれず、結果毛利氏は動かず敗戦する。この責任をとって京・六条河原にて斬首された。その野心家ぶり等から“妖僧”と囁かれる程の者であった。
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安西実元(あんざい さねもと) [????~1564?]
安房・里見氏臣。1564年相模・北条氏との第2次国府台合戦において、乗馬を射られて徒歩となっていた当主義弘を自分の乗馬に乗せ、無事上総まで逃がした。その場で義弘を逃がした後、義弘の影武者となって敵中に突撃、戦死したともいわれる。
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安底羅(あんちら) []
安底羅:あんちら
 → 十二神将:じゅうにしんしょう
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安徳天皇(あんとくてんのう) [治承2 (1178).11.12-元暦2 (1185).3.24]
第81代天皇(在位 1180~85)。治承4(1180)年即位。寿永2(1183)年7月,源義仲の入京により平宗盛に擁せられて西海に遷幸,大宰府に入った。次いで讃岐の屋島に移り(→屋島の戦い),さらに源氏に追われて長門の壇ノ浦で平家一門と入水(→壇ノ浦の合戦)。陵墓は山口県下関市阿弥陀寺町の阿弥陀寺陵。
……
第八十一代天皇
源氏に追われて平氏が滅亡した時、壇ノ浦で入水して果てた。
母・徳子は捕らえられ京に護送され、剃髪して建礼門院となった。その後三十年間生き、平家一門の菩提を弔った。
安徳帝入水の際、持ち出された三種の神器の内、海底に没した宝剣のみがついに回収されなかった。 出雲で素盞嗚尊に奪われたこの宝剣は、もともと龍王(ヤマタノオロチ)のもので、 安徳帝に化身した龍王の娘がそれを取り戻したとする伝説がある。
下関の赤間神宮では、帝の遺体が流れ着いたという言い伝えがある。
安徳天皇は壇ノ浦にて源氏の包囲を脱出し、英彦山に潜伏して成人したという伝承がある。 その後、島津氏の女との間に、重尚、助国の二子をもうけた。 二人は対馬に渡って宋氏となり、対馬の領主となった。 安徳天皇は対馬に迎えられ、久根田舎に皇居を定め、七十四歳で崩御したという。
高倉天皇の譲位を受けて即位したが、木曽義仲が入京したため平宗盛とともに都落ち。壇ノ浦の戦いで祖母の平時子(二位尼)に抱かれて入水した。若干8歳。
皇居:平安宮、福原宮
陵墓:陵墓=阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)
形状=円丘
場所=山口県下関市阿弥陀寺町

略歴 (12世紀)
1178-戊戌-治承02年11月12日 生誕
1178-戊戌-治承02年12月15日 立太子
1180-庚子-治承04年02月21日 即位
1185-乙巳-寿永04年03月24日 崩御
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安藤惟実(あんどう これざね) []
1530-1570 戦国-織豊時代,邦輔親王(くにすけ)の王子。
享禄(きょうろく)3年生まれ。三好,細川らによる戦乱をさけ,祖父安藤宗実の領地丹波桑田郡(京都府)小口(おぐち)村にのがれる。詩歌をこのみ,「千年山八境記」をつづる。永禄(えいろく)13年4月11日死去。41歳。名ははじめ邦茂。号は惟翁,長松軒。法号は恵日光院。
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安藤家(あんどう) []
安藤家(紀伊田辺藩)
安藤家(磐城平藩)
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安東愛季(あんどう ちかすえ) [?~1587]
出羽秋田城主。安東舜季の子。安東尭季の養子。
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安藤守就(あんどう もりなり) []
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安藤守就(あんどう もりなり) [?~1582]
美濃北方城主。美濃三人衆の一人。斎藤氏の重臣、後織田信長に仕える。1580年武田氏と通じたとして追放された。本能寺の変に乗じて挙兵するが、敗死。
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美濃・北方城主。美濃・斎藤氏に仕え、“西美濃三人衆”と呼ばれた豪族の1人。女婿竹中重治の稲葉山城奪取の際にはこれに協力。しかし、尾張・織田氏が美濃を奪った際には、この西美濃三人衆が織田方に内通し、これに協力した。その後、織田氏家臣として近江・姉川の合戦では勇戦し、近江、伊勢と各地を転戦したが、1579年嫡子尚就が甲斐・武田氏に内通した罪で、3人の息子共々粛正され、遠国流罪を宣せられた。本能寺の変後、旧領回復の為蜂起するが、稲葉良通に討たれる。
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安藤良整(あんどう よしなり) [????~????]
相模・北条氏の評定衆。行政面に力を発揮する。北条氏の公定枡を定め、“安藤枡”と呼ばれた。
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安寧天皇(あんねいてんのう) [-577..~-511.12.6]
第3代天皇
安寧天皇は綏靖天皇の一人息子で兄弟姉妹はいない。母は事代主神の娘五十鈴依媛である。
綏靖25年に立太子、同33年で即位。安寧02年に大和国葛城の片塩浮穴宮に遷都し同03年に事城主神の孫で鴨王の娘の渟名底仲媛命を皇后とする。在位 39年で没したといわれている。
……
欠史八代の一人。
第三代天皇。第二代・綏靖天皇の嫡子。母は『古事記』では師木県主の祖の河俣毘売、 『日本書紀』では事代主神の次女の五十鈴依姫命。
片塩の浮穴宮(浮孔宮)にて統治された。
古事記』では、安寧天皇は河俣毘売の兄・県主波延の娘、阿久斗比売を娶って、 常根津日子伊呂泥命、大倭日子鉏友命(第四代・懿徳天皇)、師木津日子命をもうけた。
『日本書紀』では、安寧天皇は渟名底仲媛命を皇后として、 息石耳命、大日本彦耜友天皇(第四代天皇懿徳天皇)、磯城津彦命をもうけた。
御陵は、『古事記』では畝傍山の美富登(みほと)。『日本書紀』では畝傍山の南の御蔭(みほと)井上陵。
第3代に数えられる大和朝廷の天皇。大和片塩浮穴宮に都し。陵墓は奈良県橿原市吉田町の畝傍山西南御陰井上陵。
第3代に数えられる大和朝廷の天皇。名はシキツヒコタマデミノミコト。綏靖天皇の皇子,母はイスズヨリヒメノミコト。大和片塩浮穴宮に都し,皇后はヌナソコナカヒメノミコトという。陵墓は奈良県橿原市吉田町の畝傍山西南御陰井上陵。

略歴 [#d39221d2]
(紀元前)

BC577-甲申-綏靖05年 生誕

BC557-甲辰-綏靖25年1月7日 立太子(21歳)

BC549-癸丑-綏靖33年05月10日 綏靖天皇崩御

BC549-癸丑-綏靖33年07月03日 即位

BC549-癸丑-安寧元年10月11日 父綏靖天皇を倭の桃花鳥田丘上陵に葬る

BC547-甲寅-安寧02年 片塩の浮穴宮に遷都する

BC546-乙卯-安寧3年1月5日 渟名底仲媛命 を皇后にする

BC538-癸亥-安寧11年1月1日 息子の大日本彦耜友尊(懿徳天皇)を皇太子とする

BC511-庚寅-安寧38年12月06日 崩御(57才)

BC510-辛卯-懿徳01年08月01日 御蔭井上陵に葬られる
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安部家(あんべ) []
安部(あんべ)家  岡部藩 安部梶の葉   
                       2万200石
武蔵榛沢郡岡部(埼玉県深谷市)   譜代 陣屋
移封加減増履歴・慶安2年→1万9200石・寛文2年→1万7200石・寛文8年→2万200石・天和2年→2万2200石・元禄14年→2万200石・宝永2年→武蔵岡部(陣屋領地が定まらないのは、旗本から大名となる際に加増された領地にも陣屋を設置したため。明治元年請うて三河半原に陣屋を移す。信発2代の信明の没後は襲爵はされず)

江戸城詰席・帝鑑之間→菊之間 子爵
上屋敷・永田馬場山王脇
■駿河今川氏の家臣であった。後に徳川家康に属し功を立てる。信盛は慶安2年に大坂定番に任ぜられた際に加増され、1万9200余石を給与され大名となった。
 
藩祖・信盛(のぶもり)
安部信勝の長男 母は結城藩水野忠重の娘
生没・天正12年(1584)~延宝元年(1673)
従五位下摂津守
寛文2年(1662)隠居
正室・徳川家康の養女(飯野藩保科正貞の妹)
子女・2代信之

2代・信之(のぶゆき)
信盛長男 母は正室徳川家康の養女
生没・慶長9年(1604)~天和3年(1683)
家督・寛文2年(1662)相続
従五位下丹波守
延宝6年(1678)隠居
正室・高取藩植村家政の娘
継室・旗本長谷川正尚の娘
子女・3代信友

3代・信友(のぶとも)
信之長男 母は正室植村家政の娘
生没・寛永15年(1638)~元禄14年(1701)
家督・延宝6年(1678)相続
従五位下摂津守
正室・高遠藩内藤忠政の娘
子女・4代信峯

4代・信峯(のぶみね)
信友長男 母は正室内藤忠政の娘
生没・万治2年(1659)~宝永3年(1706)
家督・元禄14年(1701)相続
従五位下丹波守
正室・高鍋藩秋月種信の娘
子女・5代信賢 
長頼(高遠藩内藤清枚養子、後に離縁)
5代・信賢(のぶかた)
信峯次男 母は正室秋月種信の娘
生没・貞享2年(1685)~享保8年(1723)
家督・宝永3年(1706)相続
従五位下摂津守
正室・旗本青山秘成の養女
子女・6代信平

6代・信平(のぶひら)
信賢長男 母は正室青山秘成の養女
生没・宝永7年(1710)~寛延3年(1750)
家督・享保8年(1723)相続
従五位下摂津守
正室・尼崎藩松平忠喬の娘
子女・養子信允(7代)
7代・信允(のぶちか)
一門安部信興の次男 母は旗本八木高補の娘 
生没・享保13年(1728)~寛政10年(1798)
家督・寛延3年(1750)相続
従五位下摂津守
天明2年(1782)隠居
正室・丸岡藩有馬一準の娘
子女・8代信亨 女子→三日市藩柳沢里之室
8代・信亨(のぶみち)
信允長男 母は正室有馬真純の娘
生没・宝暦8年(1758)~文政5年(1822)
家督・天明2年(1782)相続
従五位下采女正
文化3年(1806)隠居
正室・大溝藩分部光庸の娘
子女・女子→長島藩増山正寧室 9代信操

9代・信操(のぶもち)
信亨三男 母は某氏 
生没・寛政2年(1790)~文政8年(1825)
家督・文化3年(1806)相続
従五位下摂津守
正室・大溝藩分部光実の娘
継室・美作勝山藩三浦前次の娘
子女・10代信任 女子→下妻藩井上正民室
信古(信任養子、11代)
10代・信任(のぶより)
信操長男 母は継室三浦前次の娘 
生没・文化6年(1809)~文政11年(1828)
家督・文政8年(1825)相続
従五位下丹波守
正室・丹波亀山藩松平信志の娘
子女・養子信古(11代)
11代・信古(のぶひさ)
9代信操の四男 母は某氏 
生没・文化12年(1815)~天保13年(1842)
家督・文政11年(1828)相続
従五位下摂津守
正室・今尾藩竹腰正定の娘
子女・12代信宝
12代・信宝(のぶたか)
信古の子 母は某氏 
生没・天保10年(1839)~文久3年(1863)
家督・天保13年(1842)相続
従五位下河内守
正室・姫路藩酒井忠学の娘
子女・養子信発(13代) 
養女(一門安部信方の娘)→13代信発室
13代・信発(のぶおき)
武蔵金沢藩米倉昌寿の九男 母は某氏 
生没・弘化2年(1845)~明治28年(1895)
家督・文久3年(1863)相続
従五位下摂津守
明治6年(1873)隠居
正室・信宝の養女
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安養寺氏種(あんようじ うじたね) [????~1606]
弟:安養寺甚八郎、彦六郎
 近江の土豪。元は近江守護・京極氏の被官。近江・浅井氏に仕えた。一説に当主長政と織田信長妹の縁組の仲介役を務めたという。1570年姉川合戦で織田信長の捕虜となるが、信長に浅井勢追撃の非を助言し容れられたうえ、解放されたという。主家滅亡後、京極高次に仕えた。
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