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第2章 七世紀の倭都は筑紫ではなかった(Historical)

九州王朝説批判-川村明(Historical)

第2章 七世紀の都は筑紫ではなかった
7.『隋書』俀国伝の行路記事

 前章の分析により、外国史書の記事は、手国の使者からの情報を鵜呑みにして書かれる場合があり、さらに情報不足による誤解も重なって、“「」と「日本」は同じ国か否か”という大きな問題についてさえも、異なる中国史書の主張は互いに矛盾していることがわかった。すなわち「外国史書は信用できる」という一般論で、特定の中国史書の特定の記事を直ちに史実とみなすことはできず、たとえ中国史書といえども、信用できる記事とできない記事を峻別しなければならないのである。
 では、中国史書のどんな記事なら信用できるのであろうか。  情報源の不な記事の信憑性は情報源の信憑性に依存してしまうが、中国人自身による実地見聞をもとにした記事、中でも行路記事は、その種の心配がなく、より信用できるといえよう。行路記事といえば人伝のものが有名であるが、7世紀に書かれた『隋書』にも、中国の使者が日本列島を訪れたときの見聞記事や行路記事がある。ここでは九州王朝説の可否に直接かかわる後者の方を分析することにしよう。
 『隋書』は、で656年に立した正史で、帝紀5巻、志30巻、列伝50巻の計85巻からなり、のことを、帝紀では「」、志と列伝では「俀」と書いていることで有名である。『隋書』の列伝第46「東夷」の俀国条(以下「俀国伝」と呼ぶ)は、中国歴代正史の倭国伝の中でも人伝と並んで中身が濃い。その全文を【資料8】として掲げておいた。
 さて、古田氏は、俀国は九州で、その都は筑紫だという。その最大の根拠は、3世紀の都(=邪馬壱国)が筑紫であり、その後に都の位置が移動した様子がない、ということにあるのだが、実は俀国伝の行路記事は、この結論を支持していないのである。
 問題の行路記事は、【資料8】ξ~φの部分であるが、このうちρとτは、直前に出てくる語を説するための挿入句であるから、これらを飛ばしてξ、ο、π、σ、υ、φ を順に続けて和訳すると、次のような文章になる。

(和訳)  翌年、皇帝は文林郎の裴使を俀国に遣わした(ξ)。百済を渡り、竹島に行き至り、南に[身冉]羅国を望み、都斯麻(=対馬)国を経てはるか大海の中に在る(ο)。また東して一支(=壱岐)国に至り、また竹斯(=筑紫)国に至り、また東して王国(不)に至った(π)。また十余国を経て海岸に達した(σ)。俀王が小徳の阿輩臺を遣わし、数百人を従えて儀仗を設け、鼓角を鳴らして出迎えてくれた。後十日して、また大礼の哥多毘を遣わして二百余騎を従えて郊外に出迎えてくれた(υ)。遂にかの都に至った(φ)。

 このルートを図示すると次のようになる。

百   竹   対        壱   筑      十        彼
済 → 島 → 馬 →(大海)→ 岐 → 紫 → 王 → 余 →(海岸)→ 都
      │       〈東〉     〈東〉国   国    ↑
      │〈南〉                        │
      ↓                           │
    [身冉]羅国                     俀王の使者の出迎え

 つまり、対馬、一支、筑紫を経て東行し、王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸に着き、俀王の出迎えを受けて都に着いた、と素直に読めるである。これは人伝と比べると、他に解釈の余地のない、あまりにも快な行路記事である。
 しかもξの「年」とは、直前のνに大業3年とあることから、大業4年のことであることがわかり、これは推古16年にあたる。ところがよく知られているように、『日本書紀』の推古16年条には、ξに出てくる中国の使者裴世(ξで「裴」となっているのは、の第2代皇帝「李世民」の字を避けたから。実際、中国の北朝~代を綴った659年立の正史である『北史』の俀国伝では、推古紀と同じく「裴世」となっている。)が、大和を訪れて天皇と会見した記事があり、これらを同一事件であるとして何の矛盾もないように見える。
 これは、九州王朝説にとって、決定的に不利な史料事実ではないだろうか。なぜなら、これは手国の使者からの伝聞記事などではなく、中国自身が派遣した使者の実地見聞に基づいた記事であり、それが都の位置を大和であると証言していることになるからである。
8.「其人」は何を指すか

 ところがこれに対し、古田氏は、『邪馬一国の証』所収「古代船は九州王朝をめざす」の中で、次のように論じ、俀国伝の行路記事の目的地は「竹斯国」であると主張する。

(1)  【資料8】ρの冒頭に「其人」とある。
(2)  『隋書』の夷蛮伝から「其人」の用例を抜き出すと、全部で6例ある。
(3)  これらのうち、ρ以外の例は、すべて「表題の国の人」を意味している。
(4)  よって、ρの「其人」も「表題の国の人」すなわち俀国の人の意である。
(5)  ゆえにρ以下は俀国全体に関する記事なので、行路記事はπで終わっている。
(6)  πの最後に出てくるのは「王国」である。
(7)  ところが多利思北孤は「俀王」と書かれているから「王」ではない。
(8)  よって、πの最後から2番目の「竹斯国」が目的地の都である。

 まわりくどい論証であるが、これを吟味しよう。
 (5)で“πで行路記事が終わっている”というが、φには「既至彼都」つまり都に着いたと書いてあるのだから、φまで行路記事が続いていることはらかである。つまり、(5)の結論は、ξ~φ全体の構と矛盾するのである。
 (6)~(8)については第10節の最後に触れることにして、ここでは(5)を導いた(1)~(4)を吟味しよう。
 (2)と(3)は事実としては正しい。しかし、「其人」の用例がわずか6例しかないということに注意すべきである。例えば「其~」の別の例として、「其国」の用例を調べると、これは『隋書』夷蛮伝全体で32例存在し、その中に次のような例がある。

a  國之西百餘里有畢國、可千餘家。其國無君長、安國統之。(隋書 西域 安国)

 これは安国伝の最後の部分であり、引用部分冒頭の「国」はもちろん安国のことである。さて、この中に「其国」とあるが、其国を表題の国である安国が統べている、というのだから、「其国」が表題の安国のことを指しているはずはない。当然引用文中の「畢国」を指している。したがって、「其国」の場合は、必ずしも「表題の国」を指しているとは限らない。
 また、逆に「其国」より用例が少ない例として「其風俗」の例を見よう。これは『隋書』夷蛮伝全体で4例存在するが、その中には次の例がある。

b  大業十二年、遣使朝貢、後遂絶。于時南荒有丹丹・盤盤二國、亦來貢方物。其風俗物産、大抵類云。(隋書 南蛮 婆利)

 これは婆利国伝の最後の部分であり、「其風俗」が「大抵類云」というのだから、この「其」が丹丹・盤盤二國のことを指しいることはらかで、これも表題の婆利国を指していない。
 また、次の例もある。

c  附國南有薄縁夷、風俗亦同。西有女國。其東北連山、緜亘數千里、接於党項。往往有羌、大・小左封、昔、葛延、白狗、向人、望族、林臺、春桑、利豆、迷桑、婢藥、大硤、白蘭、北利摸徒、那鄂、當迷、渠歩、桑悟、千[石]、並在深山窮谷、無大君長。其風俗略同於党項、或役屬吐谷渾、或附附國。(隋書 西域 附國)

 この最後に「或附附國」とある。「其風俗」の「其」が表題の国に付属しているというのであるから、この「其」は表題の附國のことではなく、羌、…、千[石]までの各民族を指していることはらかで、これも表題の国以外の風俗を指す例になっている。
 以上の例からわかるように、“「其人」ならば必ず表題の国の人を指し、「其国」や「其風俗」ならば表題の国や表題の国の風俗を指すとは限らない”などという理屈があるはずもなく、「其」が何を指すかは、文の前後関係で決まっているというだけのことである。そもそも夷蛮伝全体の中で、表題の国以外のことについて書かれた部分はわずかしかないのだから、「其」が表題の国以外を指している例が少ないのは当然である。事実、「其国」の場合は、aの1例を除く31例がすべて表題の国を指している。また逆に用例が少なければ、「其風俗」のように表題の国と表題の国以外が2例ずつということも当然生じうる。したがって、「其人」の場合も、6例中5例が表題の国を指し、【資料8】ρの1例だけが表題以外の国を指す、という可能性は十分あり、(4)のような結論は導けないのである。

 古田氏は、ρの「其人」が「表題の国の人」を意味しているとする理由として、他に二つの根拠を挙げているので、それらも吟味しよう。その一つは次のとおりである。

(9)  『隋書』の著者は、各表題の国について次のように中国との比較に深い興味を持っている。

	A	 兵器、與中國略同。(東夷 高麗)
	B	 其五穀、果菜、鳥獸、物産、略與華同。(東夷 新羅)
	C	 毎至正月一日、必射戲飲酒。其餘節、略與華同。(東夷 俀國)
	D	 樂有琴・笛・琵琶・五絃。頗與中國同。(南蠻 林邑)
	E	 其餘兵器、與中國略同。(南蠻 婆利)
	F	 其器械・衣服、略與中國同。(西域 吐谷渾)
	G	 其風俗・政令、與華夏略同。(西域 高昌)
	H	 婚姻之禮、有同華夏。(西域 焉耆)

(10)  一方、ρの記事も、「其人同於華」とあり、中国との比較をしている記事である。
(11)  よって、ρの記事は、表題の国についての説である。

 まず、(9)であるが、『隋書』の著者が、比較するのに深い興味を持っている国は、別に「中国」だけではない。他の国や地域と比較している例は、次のように数多い。

I  其衣服、與高麗略同。(東夷 百濟)
J  婚娶之禮、略同於華、喪制如高麗。(〃)
K  風俗・刑政・衣服、略與高麗・百濟同。(東夷 羅)
L  銜杯共飮、頗同突厥。(東夷 流求)
M  土多香木寶、物産大抵與交阯同。(南蠻 林邑)
N  自餘物産多同於交阯。(南蠻 赤土)
O  官名與林邑同。(南蠻 眞臘)
P  其帳以文木爲竿、象牙・細爲壁、状如小屋、懸光焔、有同於赤土。(〃)
Q  居處器物、頗類赤土。(同上)
R  俗類眞臘、物産同於林邑。(南蠻 婆利)
S  風俗頗同突厥。(西域 吐谷渾)
T  婚姻喪制、與突厥同。(西域 康國)
U  風俗同於康國。(西域 安國)

 まだあるのだが、これだけからもわかるように、『隋書』の夷蛮伝では、ことさら「中国」との比較に関心があるのではなく、一般に「他国との比較に関心がある」のである。
 さらに、この「他国との比較に関心がある」のは、なにも「表題の国」だけではない。先に引用したcの附国伝の例では、「表題の国」ではない「羌」等の各民族に対して「其風俗略同於党項」と書かれている。つまり「表題の国」以外についても「他国との比較」記事は存在するのである。
 “中国と比較されるのは表題の国に限り、他の国と比較されるのは表題の国とは限らない”などという理屈があるはずはないから、(11)の推論には無理があり、【資料8】ρの「其人同於華」が、表題の国でない「王国」一国の説であっても少しもかまわないのである。

 古田氏の挙げるもう一つの根拠は次のとおりである。

(12)  【資料8】ρの後半には「以て夷洲と為すも、疑ひてらかにする能はざるなり」とある。
(13)  この「夷洲」を、岩波文庫『人伝 他三篇』では「台湾」のことであるとし、全体を「その住民は華(中国)に同じく、夷洲(いまの台湾)とするが、疑わしくらかにすることができない」と訳している。
(14)  しかしこの訳では、裴世一行は現地に来ていながら「ここが台湾であるかどうか疑わしい」といっていることになり、不自然である。
(15)  これは「夷洲」を台湾の意味にとったからであり、「夷洲」は「東夷の島」という意味の普通名詞である。そして(12)は、「だから“東夷の洲(しま)だ”といわれても、中国人とはっきり区別できないほど、よく似ている」と訳すべきである。
(16)  ところで「Aを以てBと為す」は「A=B」の意味である。
(17)  すると、前節dの「其」が指す対象は、「以て夷洲と為す」というのだから、「其」=「東夷の島」である。
(18)  ところが「王国」は「島」ではない。
(19)  ゆえにρの「其」は、「島」である「俀国」を指している。

 これを吟味しよう。
 まず(15)で批判されている“「夷洲」は「台湾」を意味する固有名詞である”という説には、実は正当な根拠がある。実際、『後漢書』や『三国志』には次の記事がある。

d  又有夷洲及澶洲。(後漢書 東夷列傳 
e  遣將軍温・諸葛直將甲士萬人、浮海求夷洲及亶洲。(三国志 主傳第二)

 これらによる限り、「夷洲」は固有名詞である。さらに『後漢書伝の注に次の文がある。

f  沈瑩臨海水土志曰「夷州在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪。…」

 この冒頭に「沈瑩臨海水土志」とあるが、これについては、

g  臨海水土物志一巻  沈瑩撰 (隋書 志 第二十八 経籍二)
h  臨海水土異物志一巻  沈瑩撰 (舊書 志 第二十六 経籍上)

とあるので実在した書物である。諸橋の『大和』によれば、「沈瑩」は三国時代の人で(萬姓統譜)、「臨海」とは三国時代の郡名(今の浙江省)で(讀史方與紀要)、また『中国書籍解題辞典』(燎原書店刊)によれば、『臨海水土異物志』は3世紀前半の立で、臨海郡その他の地理、住民、物産、野生動植物を記したもので、もと一巻であったが、北以前に散佚し、現存しないという。それはともかく、fによれば、夷州は浙江省の東南にある、というのだから、今の台湾だと思われる。仮に台湾でなかったとしても、少なくとも「夷洲(州)」が実在の島を意味する固有名詞とみなされていることはらかである。

 さて、(13)の岩波文庫本の訳であるが、確かにこの訳はおかしいと思う。
 しかし、この訳がおかしいのは、「夷洲」を固有名詞と見なしたからではなく、実は「疑不能也」の部分を誤訳しているからなのである。和辞典、たとえば『大語林』で「疑」の字を引くと、「うたがうらくは」という読み下しとともに、その意味として「たぶん…であろう。たぶん…であろうと思われる。推量する語」と書かれている。すなわち「疑不能也」の正しい訳は「たぶんらかにすることができないであろう」なのである。
 また、(16)は正確には正しくない。「Aを以てBと為す」は、「AをBとみなす」あるいは「AでBを作る」という意味である。
 従って、(12)は、正しくは「その住民は華(中国)にそっくりなので、仮にそこを夷洲だとみなしても、そうであるかないかをらかにすることは多分できないだろう」と訳すべきだったのである。これは英文法でいうところの「仮定法」の文章であり、「夷洲」を台湾などを意味する固有名詞だとしても意味は通じる。つまり(15)以下の議論はり立たないのである。

 以上で古田氏が【資料8】ρの「其」は「王国」を指すのではないとする「論証」をすべて吟味したが、いずれの「論証」も牽強付会であり、根拠がないことがわかった。

 さて、古田氏は、「其人」の問題とは別に、なおも次の理由で、ρで行路記事が終わっていることを論証しようとする。

(20)  【資料8】πまでは地名(固有名詞)を書いてきたのに、σには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
(21)  また、九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いなのに、その終着点のことをσのように「海岸に達す」と表現するのはおかしい。
(22)  したがって、ρやσは行路記事には含まれず、単なる地形上の補足説であり、πで行路記事は終わっている。
(23)  行路記事に九州の地名ばかり出てきて畿内の地名が一つも出て来ないのはおかしい。

 まず(21)であるが、後で論証するように(第10節参照)、十餘國までの国々は実は俀國の領土には含まれていない。従って、「達於海岸」の「海岸」とは俀國の海岸という意味であり、初めて俀國の海岸に着いたわけであるから、このような表現をすることに何ら問題はないわけである。
 次に(20)であるが、俀王は【資料8】υによれば「郊勞」、つまり郊外で出迎えたのである。すなわち出迎えた海岸は郊外だったのだから、そこに中心となる国が無くても何の不思議もない。それに古田氏は「行路記事に出てくる地名は固有名詞でなければならない」と考えているようであるが、『隋書』の他の例を見ると、そうとは限らないのである。
 南蛮伝の赤土国条に、次のような、中国の使者常駿の赤土国への遣使の行路記事がある。

i  其年十月、駿等自南海郡乘舟、晝夜二旬、毎値便風、至焦石山而過。
j  東南泊陵伽鉢拔多洲、西與林邑對、上有神祠焉。
k  又南行至師子石、自是島嶼連接。
l  又行二三日、西望見狼牙須國之山、於是南達雞籠島、至於赤土之界。
m  其王遣婆羅門鳩摩羅以舶三十艘來迎、吹蠡撃鼓、以樂使、進鎖以纜駿船。
n  月餘、至其都。

	(隋書 列傳第四十七 南蠻 赤土)

 これは俀国伝のρやτのような挿入句もなく、iからnで都に着くまでの行路記事は、紛れのない瞭なものである。
 さて、この中のkとlに注目しよう。iで常駿らは中国の南海郡を出し、nでその都に着いた、と書かれているのであるから、kやlが行路記事の一部であることはらかである。ところが kの中には「自是島嶼連接」のように固有名詞でない「島嶼」という語が出てくるし、lでは、最終到達地点が「至於赤土之界」のように、単に「赤土之界」と書いてあるだけで、具体的な地名は書かれていない。すなわち『隋書』では、行路記事中の国名は必ず固有名詞で書かれているとは限らないのである。
 しかも注目すべきは、この赤土国伝の行路記事と俀国伝の行路記事の類似性である。赤土国伝では、海を航行して来て、lで陸地に着き(至於赤土之界)、そこで王の使者の出迎えを受けて(次のm)、次のnの都に着いたという記事(至其都)で行路記事が終了している。
 一方俀国伝では、やはり海を航行して来て、【資料8】σで陸地に着き(達於海岸)、そこで王の使者の出迎えを受けて(υ)、最後にφの、都に着いたという記事(既至彼都)で終わっている。この比較によっても、俀国の行路記事が、赤土国のnに対応するφまで続いていることはらかである。
 最後に (23) であるが、上記の赤土国伝の行路記事の場合でも、最後に「至於赤土之界」とあるだけで、赤土国内部の地名は全く出てこない。出てくるのは赤土国に着くまでの島々などの名前だけである。そもそも行路記事というのは道案内の意味も込めている以上、目的国の内部の地名よりは目的地までの地名を詳しく書くことはある意味当然のことである。俀国の行路記事の場合も同じ考えのもとで記述されただけのことであろう。

 以上で古田氏の論証が立していないことを逐一説した。次の二つの節では、俀国の都が竹斯(筑紫)ではあり得ないことを、改めて、二つの証拠により証することにする。
9.「自竹斯国以東」の論証

 本節では、竹斯(筑紫)国が俀国の都ではないことの第一の証を述べる。
 『隋書』俀国伝の行路記事の【資料8】τの部分に注目してみよう。そこに「自竹斯國以東、皆附庸於俀」とある。ここで「附庸」というのは、和辞典によれば次のような意味である。

a  天子に直属せず大国に附属する小国。(諸橋轍次 大和辞典)
b  諸侯の支配下にある小国。(大修館 大語林)

 実際に『隋書』夷蛮伝の全用例(問題となっている俀国伝の行路記事を除く)を挙げれば、次の2例がある。

c  其南海行三月、有[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里、土多麞鹿、附庸於百濟。(東夷 百濟)
d  其先附庸於百濟、後因百濟征高麗、高麗人不堪戎役、率歸之、遂致強盛、因襲百濟附庸於迦羅國。(同 羅)

 cは南海の[身冉]牟羅国が百済の附庸だ、という文章である。dの最初の用例は、羅が昔百済の附庸だったということであり、後の用例は、解釈が若干難しいが、「よって、迦羅国において百済の附庸を襲った。」という意味であろう。実際、『通典』によると、羅はもと百済に付属していたが、国力がついてから遂に加羅・任那諸国を襲って滅ぼした、とある。
 いずれにせよ、以上の用例によっても、問題の「附庸」とは、本国ではない部分、すなわち属領もしくは植民地という意味で使われていることがわかる。

 さて、問題の核心に移る。【資料8】のτに「自竹斯國以東」とあるが、これの指示対象の中に竹斯国自身は含まれるのであろうか、それとも含まれないのであろうか?
 通常の感覚では、「自A以B」というとき、わざわざ起点を示す「自(より)」の一字が付いているのであるから、その指示対象にA自身が含まれることは当然のように思われる。
 ところが、この問題について、古田氏は、「自A以B」の指示対象の中にA自身は含まれないのだと主張し、その証拠として『三国志』から二例、『隋書』から一例の用例を挙げている。
 そもそも『隋書』の話をしているのに『三国志』の例を持ち出すのは不可解であるが、とにかく氏の挙げる例を吟味しよう。

 最初は『三国志』の次の例である。

e  自夫人以下、爵凡十二等。貴嬪・夫人、位次皇后、爵無所視。淑妃、位視國、爵比諸侯王。淑媛、位視御史大夫、爵比縣公。昭儀、比縣侯。昭華、比郷侯。脩容、比亭侯。脩儀、比關内侯。倢伃、視中二千石。容華、視眞二千石。美人、視比二千石。良人、千石。(三國志 書 后妃傳第五)

 これは、後宮の女たちの順位を提示したものであり、冒頭に「自夫人以下、爵が全部で12ある」と言っている。古田氏は、一・二位の「貴嬪・夫人」は天子や帝妃と同じく「無爵の高位」だから、「夫人」自身は「自夫人以下」の指示対象である「爵」には含まれないのだという。
 しかし、eには「貴嬪・夫人」は「爵でない」などとはどこにも書いていない。「貴嬪・夫人」は「(男子の爵には)視(=なぞらえる、対応する)ものがない」と言っているだけであって、後宮の女にとっては爵なのである。そもそも冒頭に「自夫人以下、十二等の爵がある」と言い、次に「貴嬪、夫人、淑妃、淑媛、昭儀、昭華、脩容、脩儀、倢伃、容華、美人、良人」という12の爵が実際に列挙されているのであるから、これらが「自夫人以下」の指示内容であるとしか考えようがない。そして「夫人」はこれらの中に出て来るのだから、「自夫人以下」の指示対象に含まれているのは当然である。つまりこれは古田氏の意に反して「自A以下」の指示対象にA自身が含まれる例になっているのである。(ちなみに「自貴嬪以下」と書かずに「自夫人以下」と書いてあるのは不思議であるが、これは「貴嬪」と「夫人」の位が対等で、かつ「夫人」の方が「貴嬪」より由緒が古いからではないかと思われる)。

 また、古田氏が『三国志』から挙げた二つ目は、次の人伝の例である。

f  自女王國以北、特置一大率檢察諸國、畏憚之。(三国志 書 東夷傳 人)

 古田氏は、一大率の検察対象に女王国自体は入らないから、「女王国」自身は「自女王國以北」の指示対象に含まれない、と主張する。しかし、女王国とはいえ、の国の一つに違いはなく、一大率が女王国自身を検察して何の問題もない。それに、「自女王國以北」の例を挙げておきながら、次の例を挙げていないのは不審である。

g  自女王國以北、戸數・道里、可得略載。(三国志 書 東夷傳 人)

 知のとおり、女王国自身の戸数も「七万余戸」、道里も「水行十日、陸行一月」とそれぞれ略載されており、女王国自身も「自女王國以北」の指示対象に含まれていることはらかである。

 最後は『隋書』の例である。

h  伏允懼、南遁於山谷間。其故地皆空、自西平臨羌城以西、且末以東、祁連以南、雪山以北、東西四千里、南北二千里、皆爲有。置郡県鎮戍。(隋書 列傳第四十八 西域 吐谷渾)

 これは、西平臨羌城、且末、祁連、雪山に四方を囲まれた吐谷渾の旧領地が、全ての領地になってしまった、という記事である。古田氏は、この東西南北を囲む「西平臨羌城」「且末」「祁連」「雪山」自身については、もともと中国領だったので、「の領域になった」のではない、したがって太字部分が指す指示領域には含まれない、と主張する。
 しかし、別の例で考えてみよう。近畿のみを領有していた勢力が日本列島を統一した場合、その勢力は「日本列島を領有した」という言い方をする。わざわざもともとの領土を除外して「日本列島から近畿を除いた領域を領有した」と言う必要はない。つまり領土が拡大した場合、もともとの領土も「領有した」という範囲に含めてよいのである。從って、「西平臨羌城」「且末」「祁連」「雪山」自身がもともとの領地だったとしても、それらも「の領地になった」という指示領域に含まれると考えて、何も問題ないのである。

 以上により、古田氏の挙げた三例は、いずれも、「自A以B」の指示領域にA自身が含まれるか否かを判定するには不適当な例であることがわかった。

 「自A以B」の指示領域にA自身が含まれるか否かを判定するには、もっと適当な例がある。一番わかりやすいのは『隋書』の次の例である。

i  皇帝之組綬、以蒼、以青、以朱、以黄、以白、以玄、以纁、以紅、以紫、以緅、以碧、以緑、十有二色。諸公九色、自黄以下。諸侯八色、自白以下。諸伯七色、自玄以下。諸子六色、自纁已下。諸男五色、自紅已下。三公之綬、如諸公。(隋書 志第六 禮儀六)

 皇帝の組綬(=佩玉や官印を付けるための組紐)が順に12色列挙されている。そして、諸公の9色が「自黄以下」だというのであるから、黄、白、玄、纁、紅、紫、緅、碧、緑と実際に数えてみればらかなように、黄を含まなければ9色にならない。次の「自白以下」の8色も、その次の「自玄以下」の7色も同様である(句読点の付け方が間違っている、などということはないので確認されたい)。
 これは、他に解釈の余地がなく、確に「自A以B」の指示領域にA自身が含まれる例である。このiの3例が存在することにより、少なくとも「自A以Bには、その指示対象にA自身が含まれる用法が存在する」ことがわかった。
 しかしこの「自A以B」という熟語が「Aが指示領域に含まれる場合」に限定して用いられるのかどうかは、この3例だけではわからない。そこで『隋書』全体から「自A以B」の用例を全て抜き出してみよう。その結果は、全部で63例存在し、それらをまとめたのが【資料9】である。それぞれに対し、「判定」の欄に、「自A以B」の指示領域にAが含まれる場合は○、含まれない場合は×、どちらにも解釈可能なものは?を入れておいた。なお同資料の52番に問題の俀国伝の例があり、判定の欄は★印にしてある。
 以下で、【資料9】の「判定」欄に○を付けたもの全部について解説しよう。

 まず15であるが、この直前に、後の警の制として、「中侍」はみなの甲とで飾った龍環・長刀を持ち、次の「左右侍」は銀甲と鳳環・麟環長刀を持ち、次の「左右前侍」「左右後侍」「左右騎侍」も銀甲を持つとある。従って、銀で飾っているのは左右侍からであり、この「自左右侍以下」の中には左右侍自身を含んでいる。
 次の29は、「自十二班以上」の説の後に「從十一班至九班」の説があるので、「自十二班以上」は十二班を含み、「從十一班至九班」は十一班を含まなければ班の数が連続しない。
 次の33は后妃の制度について記述したもので、この文の直前には、開皇2年の制度として「嬪を3員、世婦を9員、女御を38員置く」とある。これらの数を合計すると丁度50員になる。またこの文の直後には、文献皇后の死後、「貴人を3員、嬪を9員、世婦を27員、御女を81員置いた」とある。これらを合計するとちょうど120員となる。またそれに続けて、煬帝の時には、確に合計120員の制度としたという記述があるので、后妃の合計は10の倍数にするのが通例だったと考えられる。ところがこれらの計算には「嬪」が含まれており、含まないと10の倍数にならない。従って同じく合計が10の倍数になっている「自嬪以下、置六十員」でも、当然「嬪」が含まれているはずである。
 次の41は、「勇」というのは官位を退けられた皇太子の名前で、この勇と弟の張衡が言い争いをしているのを見た裴肅が述べた言葉で、この「自勇以下」には当事者の勇が含まれていなければ意味が通らない(「廃立」とは臣下が君子を廃して別の君子を立てること)。
 次の46の表現では、が併記されており、もし「自以下」が「」を含まないなら、からのことを指すことになるが、それなら「自以来」と言えばよく、「」は不用である。逆に含むとすれば、代も含まれることを強調した構文になり、矛盾はない。
 これが更に確にわかるのが次の47である。「自以来」に続けてまで、と書かれているが、の次はだから、もしも「自以来」が代を含まないとすると、この一句が全く無意味の一文となるだけでなく、次の「迄」が意味不になってしまう。
 51は少々長いが、これは東夷の靺鞨が7つの部に分かれているという説で、それら互間の方角が記されている。この7部の位置関係を図示すると、次のようになる。

 黒水部
   \                 北
    \                ↑
     \             西─┼─東
      安車骨部           │
     /               南
    /
   / ┌───┐
 伯咄部─┤拂涅部├─號室部
  │  └───┘
  │
  │
 栗未部
   \
    \
     \
      白山部

 この引用文の最後の方に「自拂涅以東、矢皆石鏃、…」とある。もし「自拂涅以東」の範囲に「拂涅」自身が含まれないとすると、それより東には「號室」しかないのであるから、わざわざこんな回りくどい言い方をしないで単に「號室部、矢皆石鏃、…」と書けばよいはずである。逆にもし「拂涅」自身が含まれるとすれば、「拂涅」と「號室」をまとめて「自拂涅以東」と表現したのだと考えればよいので、問題はなくなる。
 次の57は、「遷徙」は移る、「承」は次々に受け継ぐ意味で、ここに記されている「康国」の前身の「康居」は、『漢書』西域伝第66上に出てきており、代から「承不絶」している。つまり「自以来」には確かに「」が含まれている。
 次の60は、次のような内容である。“突厥のリーダーの摂図が、息子の雍虞閭が愞(=いくじなし)なので、位を雍虞閭に譲らないで弟の處羅侯に譲ることにした。雍虞閭は使を使わして處羅侯を迎えにやった。すると處羅侯は、「自木杆可汗以来、多く弟をもって兄に代え、庶(=分家)をもって嫡(=直系の跡嗣)を奪い、先祖の法を失う。」と言って、お互いに譲り合いになった。”
 ここに引用した部分の前後の文章から突厥のリーダーの系図を作ると次の図のようになる(番号は王位継承の順番)。

 ┌─(1)伊利可汗(子ナシ)
 │
 ├─(2)逸可汗 ─┬─(6)摂図 ──(8)雍虞閭
 │         │
─┤         └─(7)處羅侯
 │
 ├─(3)木杆可汗 ──── 大邏便
 │
 └─(4)佗鉢可汗 ──(5)奄羅

 これを見ると、息子がいるのに息子に王位を嗣がせないで、弟に継がせるという継承方針で前代から王位を引き継いだ最初のリーダーは(3)の木杆可汗である。従って、木杆可汗は「弟をもって兄に代え」て王位を嗣いだ最初の人物ということになる。これに対し、次の(4)の佗鉢可汗は、位を弟に嗣いだ人物でもなければ、弟として嗣いだ最初の人物でもない。したがって、「自木杆可汗以来、多以弟代兄、以庶奪嫡」には「木杆可汗」自身が含まれることがわかる。
 次の61で、軒轅とは『史記』に出てくる五帝の一人黄帝のこと、獯粥とは匈奴のことであるが、実際『史記五帝本紀第一の黄帝の所に「北逐葷粥」とあり、葷粥に対する注として「匈奴別名也」とある。すなわち軒轅の時代から匈奴は辺患になっていたわけで、これも「自軒轅以來」の中に「軒轅」が含まれる例になっている。
 最後の62と63は、やや屁理屈のようではあるが、天や地自身も日光や月光で確かに照らされているから、「自天以下」には「天」が、「(自)地以下」には「地」がそれぞれ含まれている。
 以上で以BにAが含まれる例全ての解説が終わった。

 ここで、唯一×の付いている40の例について補足する。この「自茲以外」における「以外」というのは「以」+「外(そと)」という意味ではなく「その他」という意味の熟語である。この場合、もし「自A以外」の中にA自身を含んでしまったら、「A及びA以外」すなわち「すべてのもの」という無意味な表現になってしまう。つまりこれを他の「自A以B」と同様な表現とみなすことはできないのである。

 また、?の付いている例として注意を要するのが58の「自西海以東諸国並敬事之」である。指示対象が「西海(地中海か)」を含むとしても、その指示対象の中にある「国」がこれを敬う、ということなので意味は通じるが、“それならば、西海の東岸に面する国(x国とする)を使って「自x国以東諸国」と言えばよいではないか。なぜわざわざ「西海」などという、国でないものを起点にした表現を使っているのか”という疑問を持つ方がおられるかもしれない。
 ところが実はこれには正当な理由がある。『隋書』の次の記事を見てみよう。

j  發自敦煌、至于西海、凡爲三道。各有襟帯。
 北道從伊吾、經蒲類海鐵勒部、突厥可汗庭、度北流河水、至拂菻國、逹于西海。
 其中道從高昌、焉耆、龜茲、疏勒、度葱嶺、又經鏺汗、蘇対沙那國、康國、國、何國、大・小安國、穆國、至波斯、逹于西海。
 其南道從鄯善、于闐、朱倶波、唱槃陀、度葱嶺、又經護密、吐火羅、挹怛、[小凡]延、漕國、至北婆羅門、逹于西海。

	(列傳第三十ニ 裴矩)

 すなわち敦煌から西海に至るルートが3通りあるというのである。つまり、先程のx国に当するのは一国でなく、払菻国、波斯、婆羅門という3つの国があるので、「自x国以東諸国」のような書き方は不可能だったのである。

 以上の長々しい検証の結果、『隋書』では、「自A以B」という熟語は、その指示対象にAが含まれるか否かがどちらかに決定できる例が62例中15例存在していて、その15例のうち、「その他」という意味の熟語で他の用例とは異なる1例を除けば、すべて、指示領域にAが含まれる例であることがわかった。すなわち『隋書』では“自分自身を含む”用法に限定されていたのである。
 以上の結果と、俀国伝の「自竹斯國以東、皆附庸於俀」の一文から、次の結論が得られる。

k  竹斯(筑紫)国自身も俀の附庸(属領・植民地)である。

 属領の中に本国の都があるはずがないから、竹斯(筑紫)国が俀国の都でないことは、これでらかである。以上が第一の論証である。
10.「国」の中の「国」

 本節では俀国の都が筑紫でないことのもう一つの証を行う。
 現代の日本では、「国」の下の行政単位は都道府県であり、「国」の中に「国」があるということはない。ところが、昔は日本「国」の中に常陸の「国」や伊の「国」があったりした。したがって、「国」の中に「国」という行政単位があるかないか、という質問に対する答は時代によって変わり得るということを念頭において、各時代の史書ごとに、それぞれ調査する必要がある。
 まず最初に『三国志』の東夷伝ではどうなっているであろうか。

a  又有小水貊。句麗作國、依大水而居、西安平縣北有小水南流入海、句麗別種依小水作國、因名之爲小水貊。(高句麗)
b  沃沮諸縣皆爲侯國。(東沃沮)
c  在帶方之南、…。有爰襄國、…、月支國、…。辰王治月支國。(
d  從郡至、…歴國乍南乍東、…至末盧國、…南至邪馬壹國、女王之所都。…王遣使詣京都・帶方郡・諸國・及郡使國、…。(人)

 aは高句麗伝の中で、高句麗の別種が小水の辺に小水貊という国を作ったと記していて、bも東沃沮伝の中で沃沮の諸県が侯国を爲しているという記事であるが、これらは必ずしも「国の中の国」といえるかどうかははっきりしない。
 これに対し、はっきり「国の中に国がある」ことを示しているのがcとdの例である。dの中に「国」という表現があり、cではの中の国々が列挙されている。これらは国という「国」の中の「国」である。またその国の中の月支国は辰王が治めていると書かれている。
 またdの中に倭国という表現が出て来るが、この倭国の中に、末盧国や伊都国や邪馬壹国が存在する。しかも倭国の中の邪馬壹国は女王の都する所である。
 以上で3世紀の『三国志』の夷蛮伝では国の中に国が存在し、しかも都のある「中心国」という概念も存在していることがわかった。

 これに対し、7世紀の『隋書』の夷蛮伝ではどうであろうか。これを調べるため、【資料10】として『隋書』の夷蛮伝から「国」の付く国名(赤文字部分。ただし中国とその王朝名、並びに夷蛮伝の表題となっている国名は除く)と、都の名(太文字部分)の全用例を抜き出しておいた。
 今問題となっている5の俀国伝の例を除けば、夷蛮伝の中の「国」が付く国名は、隣国の名前(3、4、6、7、8、12~16、18の刧國、19、21の例)か、過去に存在した国名(11、18の罽賓國、20の匈奴國の例)か、属国(2、10の例)か、表題国の別名(20の處羅國の例)かに限定されており、『隋書』では、属国の場合以外に「国の中の国」という概念は全く存在していないのである。
 したがって、5の俀国伝に出てくる[身冉]羅国、都斯麻国、一支国、竹斯国、王国などは、いずれも「国」の付く国名なので、属国でない限り俀国の中には含まれないのである。属国であったり、俀国に含まれない場所が、俀国の都であるはずがない。
 また、都の名については、4は「波羅檀洞」、5は「邪靡堆」、他の1,2,6,7,9、10、17はすべて「~城」という形をしており、名前に「国」の付く都は一つもない。したがってこのことからも「竹斯国」は俀国の都ではありえないことがわかる。それに、5からわかるように、そもそも俀国伝に、俀国の都は「邪靡堆」だと記されているのであった。以上が第二の論証である。

 本節の最後に、宿題にしていた第8節の(6)~(8)について触れよう。(7)で、“多利思北孤は「俀王」と書かれているから「王」ではありえない”というのはまことにそのとおりであるが、“「竹斯国」も「国」と書かれているから俀国の都ではありえない”のである。
11.『翰苑』倭国条の証言

 【資料8】τには「自竹斯國以東、皆附庸於俀」とあるが、これが正しいとすると、「筑紫より更に西の方は、俀国の属領でさえない」ということになる。このことは意外に感じられるかもしれないが、実は『翰苑』という文献からも、このことは裏づけられるのである。古田氏は、『翰苑』の記事も九州王朝説の根拠に用いているので、これも併せて検証しよう。
 『翰苑』は、中国で書かれた書物でありながら、当の中国では亡失し、唯一の写本が日本の太宰府天満宮に残っているのみである。しかも、『翰苑』全体ではなく、最後の「蕃夷部」しか残っていない。そしてその冒頭には次のような目次が付いている。

 翰苑巻第□   張撰 雍公叡注
 蕃夷部
   匈奴  烏桓  鮮卑  夫餘
   三  高麗  羅  百濟
   肅愼  國  南蠻  西南蠻
   兩  西羌  西域  後敍

 目次最後の「後敍」は張自身による後書きであるが、そこには次のように書かれている。
a  敍曰「余以大顯慶五年三月十二日癸丑、晝寢于并州太原縣廉平里焉。夢光聖孔丘被服坐於堂皇之上。…。感而有述、遂著是書焉。」

 すなわち『翰苑』はの顕慶5(660)年からそう隔たらないうちに書かれたことになるが、この660年というのは、の使者高表仁がを訪れた貞観5(631)年の後になる。これは初のできごとに関しては、801年に書かれた『通典』より遥かに立が早いので、そこに書かれている情報でオリジナルなものがあれば、有用な情報であることが期待できる。
 さて、『翰苑』の倭国条の全文を【資料11】に掲げておいたが、一見してわかるように、雍公叡による注がかなりのウェイトを占めており、しかも誤字脱字が多いのが特徴である。
 さて、この中で、本文のηに「邪届伊都、傍連斯馬」とある。古田氏は、これは倭国の都の位置を説しているのだという。もしこれが倭国自身の範囲を示しているのだとすると、伊都国や斯馬国の西に、なお末盧国(津)や一大国(壱岐)対海国(対馬)もあるのに、それが書かれていないことになるから、というのがその理由である(『邪馬一国への道標』第四章 四~七世紀の盲点)。このことから、古田氏はの都は九州であると結論している。
 理由として挙げられた「隣接する国をすべて書かなければならない」ということは必ずしも言えないと思うが、そもそも【資料11】を見ればらかなように、都の位置についての説は、冒頭のαに書いてあり、それとこのηとの間には、王の名とか風俗に関する記事が挟まっているのである。もしηが都の位置を表わしているのなら、それは順番としてαの次に来なければ不自然である。
 このηが「何」の位置を指しているのか、それを実証的に確かめるため、これと類似の記事を、『翰苑』蕃夷部全体からすべて抜き出すと、次の7例がある。

b  地隣碣、境接敦煌。(鮮卑
c  南接(句)驪、東隣肅愼。(夫餘)
d  南届人、北隣穢貊。(三
e  境連穢貊、地接夫餘。(高麗)
f  地惣任那。(羅)
g  西據安城、南隣巨海。(百濟)
h  北窮弱水、南界沃沮。(肅愼)

 これらを見ると、いずれもその国の首都の位置を説しているのではなく、その国全体が国境を接している国や地域との方角関係を説していることがわかる。つまり、『翰苑』蕃夷部の書き方のルールによる限り、倭国条のηも、倭国の都の位置を示しているのではなく、倭国全体の領土が伊都や斯馬と国境を接している、という意味だということになる。
 すなわち、伊都や斯馬は倭国の領域には含まれていないのである。ηが主張しているのは、古田氏のいうような「の都が九州に存在する」ということではなく、「九州西北部は倭国の領域には含まれていない」ということだったのである。