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高祖太宗期


初群雄,(高祖太宗期,高宗武期,睿宗玄宗期,代宗徳宗期,憲宗穆宗期,文宗武宗宣宗期,懿宗僖宗期,昭宗昭宣帝期),突厥,吐蕃,高昌,吐谷渾
高祖(李淵)-太宗(李世民)-高宗(李治)-中宗(李顕)-睿宗(李旦)-〔・武則天〕-中宗復辟-睿宗復辟-玄宗(李隆基)-粛宗(李亨)-代宗(李豫)-徳宗(李适)-順宗(李誦)-憲宗(李純)-穆宗(李恒)-敬宗(李湛)-文宗(李昂)-武宗(李炎)-宣宗(李忱)-懿宗(李漼)-僖宗(李儼)-昭宗(李傑)-哀帝(李祝)
※初(618~712)
李淵(566~635)
  の高祖⇒。
李世民(598~649)
  の太宗⇒。
竇建徳(573~621)
  竇建徳⇒。
羅士信(?~622)
  州歴城の人。の大業年間、張須陀に従って王薄・盧明月を討った。ときに十四歳で勇猛で知られた。張須陀が戦没すると、裴仁基に従って李密に帰順し、総管となった。王世充と戦い、負傷して捕虜となった。王世充はかれの武勇を買ってはじめ厚遇したが、しだいに粗略に扱うようになった。の武徳二年(619)、部衆を率いてに帰順し、陜州道行軍総管に任ぜられた。王世充を討ち、千堡を奪った。絳州総管に上り、剡国公に封ぜられた。李世民に従って劉黒闥を討ち、自ら志願して洺州を守った。城が陥落して捕らえられたが、降らず殺された。年は二十歳余だった。古典小説中では小将羅として登場する人物。
開山(?~622)
  名は嶠。開山は字。京兆鄠県の人。に仕えて太谷長となった。大業末年、李淵が起兵すると、召されて大将軍府掾となり、軍機に参与し、西河平定戦に従った。渭北道帥長史となり、劉弘基とともに長安を攻め、これを落とした。の武徳年(618)、吏部侍郎・行軍司馬となり、李世民に従って薛挙を攻めたが、敗れて罷免された。まもなく対薛仁杲戦に従軍して、位を復した。翌年、陜東道大行台・兵部尚書を兼ね、吏部尚書に転じた。四年(621)、李世民に従って王世充を討ち、さらに劉黒闥を討とうとしたが、道中で病没した。
劉黒闥(?~623)
  劉黒闥⇒。
僧吉蔵(549~623)
  嘉祥大師。陵の人。祖先はパルティアの人。法朗に師事し、師の死後は陵から会稽の嘉祥寺に入った。三論の疏を著して三論宗の祖となる。のち揚州より長安に移って、西北で布教した。『三論玄義』、『中観論疏』。
平陽公主(?~623)
  の高祖(李淵)の三女。母は竇皇后。柴紹の妻となった。の大業十三年(617)、李淵が起兵したとき長安にいたが、夫とともに脱出し、鄠県に逃れた。家財を散じて兵を募り、父の起兵に呼応した。家僕の馬三宝を遣わして何潘仁・李仲文らと連合した。しばしば軍を破り、鄠県・武功・盩厔・始平を落として、七万の衆を擁し、渭北で李世民の軍と合流した。夫の柴紹とそれぞれ幕府を置き、彼女の部衆を娘子軍と号した。長安陥落後、平陽公主に封ぜられた。没後、高祖は軍礼をもって彼女を葬った。
高開道(?~624)
  高開道⇒。
杜伏威(?~624)
  杜伏威⇒。
李建(589~626)
  小字は毘沙門。の高祖(李淵)の長男。の大業十三年(617)、父に従って挙兵し、左領軍大都督に任ぜられ、弟の李世民と左右軍を分領した。西河・霍邑を下し、長安を攻め取った。が建国されると、太子に立てられた。軍を率いて征戦に従った。武徳六年(623)、劉黒闥を捕らえた。弟の李世民の戦功めざましく、位を奪われることを恐れた。王珪・徴の策を用いて、驍勇の士二千を募って東宮の士にあて、長林兵と号した。翌年、四弟の李吉と結んで謀反をはかり、楊文幹に命じて呼応させたが、事が洩れて譴責にあった。また後宮妃嬪の支持をえて、しばしば李世民を誣告し陥れようとしたが、功しなかった。九年(626)、ときに突厥が来寇し、李吉を北征のためと称して推薦し、李世民の軍権を奪おうとした。事が洩れ、李世民が玄武門の変を動したため、李吉とともに殺された。太宗が即位すると、息王と追封され、諡を隠といい、隠太子と史称される。
吉(603~626)
  小字は三胡。の高祖(李淵)の四男。大業十三年(617)、高祖がにそむいて起兵したとき、太原に留守した。の武徳年(618)、王に封ぜられ、并州総管に任ぜられた。勇力あり、遊猟を好んだ。翌年、劉武が太原に迫ると、城を棄てて長安に逃げ帰った。次兄の李世民に従って王世充・劉黒闥を討った。のちに太子李建とともに李世民を殺害しようと図ったが果たせなかった。李世民が玄武門の変を起こすと、殺された。海陵郡王に追封され、剌と諡された。のち巣王に封ぜられ、巣剌王とも称される。
韋雲起(?~626)
  雍州万年の人。の開皇年間、明経に及第した。大業初年、通事謁者となった。突厥兵を指揮して契丹を破り、治書御史に上った。虞世基らを弾劾して大理司直に左遷された。に入って司農卿・西麟州刺史となり、まもなく夔州刺史に転じた。益州行台兵部尚書となったが、行台僕射竇軌と意見が衝突した。玄武門の変ののち、詔書が益州に下った。竇軌がかれに李建が殺されたことを告げたが、かれは詔書を見ていなかったので信じず、ついに李建の党与として殺された。
羅芸(?~627)
  羅芸⇒。
温大雅(?~627?)
  もとの名は彦弘。并州祁県の人。才能と弁舌で知られた。に仕えて東宮学士・長安県尉に任ぜられたが、父の喪に服して離職した。末に大乱が起こると、隠居して仕えようとしなかった。李淵が太原で起兵すると、召されて大将軍府記室参軍に任ぜられ、軍中の筆記をつかさどった。また建国の礼儀策定に参与した。李淵がを建国すると、黄門侍郎となり、弟の温彦博とともに要職を占めた。太宗(李世民)が即位すると、礼部尚書に転じ、黎国公に封ぜられた。
屈突通(557~628)
  京兆長安の人。武略を好み、騎射をよくした。に仕えて虎賁郎将となり、左武将軍に抜擢された。大業年間、楊玄感の乱を討って功を挙げ、左驍将軍となった。関内討捕大使に任ぜられ、劉迦論を破った。煬帝が江都にうつると、長安の留守を守った。李淵が起兵すると、河東を守ってこれをはばんだ。のちに捕らえられて降り、兵部尚書に任ぜられ、王李世民の下で行軍帥長史をつとめた。李世民の征戦に従い、戦功を挙げた。武徳四年(621)、李世民に従って王世充を破り、陜東道大行台右僕射に任ぜられ、東都(洛陽)に鎮した。召されて工部尚書となり、また洛州都督として出向し、まもなく没した。
師都(?~628)
  州朔方の人。州の豪族の家柄に生まれた。に仕えて、鷹揚府郎将となった。大業十三年(617)、起兵して郡丞世宗を殺し、朔方郡に拠って、大丞を自称した。突厥と連合し、雕陰・弘化・延安などの郡を占拠した。帝を称して、国号をとし、永隆と建した。突厥の始畢可汗により、大度毘伽可汗・解事天子に封ぜられた。オルドスの地に蟠踞して、突厥兵とともにの北辺を脅かした。の柴紹らの討伐を受けて敗れ、族弟の洛仁に殺された。
長孫順徳(?~?)
  長孫愷の子。に仕えて右勲となり、高句麗遠征を忌避して太原に隠れた。李淵・李世民と深く親交を結んだ。末に叛乱が頻するようになると、李世民は叛乱討伐に名を借りて順徳や劉弘基らに兵を徴募させた。一万人あまりを集め、李淵の起兵の基礎を固めた。起兵後は統軍に任ぜられて、霍邑・臨汾・絳郡と転戦して戦功を挙げた。また屈突通を桃林で捕らえた。が建国されると、左驍大将軍に任ぜられ、薛国公に封ぜられた。武徳九年(626)、玄武門の変ののち、食邑一千二百戸を受けた。賄賂を受けていたことが暴露されて失脚したが、のちに沢州刺史として復活した。まもなく病没した。貞観十三年(639)、邳国公に追封された。
蘇世長(?~?)
  京兆武功の人。若くして学問を好み、応対をよくした。に仕えて長安令となった。大業年間、都水少監となり、水運を管轄した。王世充が帝を称すると、太子少保・行台右僕射となった。の武徳四年(621)、王世充に従ってに降り、玉山屯監・諫議大夫に任ぜられた。しばしば高祖(李淵)の狩猟や宮殿修飾を諫めた。のち陜州長史をつとめた。王李世民が文学館を開くと、十八学士のひとりとして召された。貞観初年、突厥に使いし、頡利可汗と礼について論争し、賄賂を受けなかった。巴州刺史に出向し、舟の転覆事故のため亡くなった。
裴寂(569~629)
  字は真。蒲州桑泉の人。裴瑜の子。幼少のころに孤児となり、兄たちに養育された。の開皇年間に左親となり、のちに州司戸となった。大業年間、侍御史・駕部承務郎・陽宮副監を歴任した。李世民と謀って李淵に陽の宮女を侍らせ、その醜聞をもとに李淵に起兵をうながした。李淵が起兵すると、従軍して長史となり、聞喜県公に封ぜられた。蒲州の屈突通に腹背を突かれることを懸念して、先に蒲州を降すことを進言した。軍が長安に入ると、大丞府長史となり、国公に封ぜられた。が建国されると、尚書右僕射に進んだ。武徳二年(619)、黄子英・剛が太原に来攻すると、裴寂は州道行軍総管となって援軍に駆けつけたが、間に合わず太原を失陥した。虞州・州の民衆を動員して反感を買い、呂崇茂の乱をまねいた。このため属吏に落とされたが、まもなく赦された。六年(623)、尚書左僕射に上った。貞観三年(629)、沙門法雅が妖言をした事件に連座して失脚し、交州・静州に流された。山羌の乱を平定して、京師に呼び戻されたが、まもなく没した。
杜如晦(585~630)
  字は克明。京兆杜陵の人。若いころ史書を読むのを好んだ。末に吏部に入ったが、間もなく辞めて故郷に帰った。李淵が長安を占領すると、李世民に召されて王府参軍として幕下に加わった。王府十八学士のひとり。玄武門の変の前に讒言によって王府を追われたが、李世民(太宗)が即位すると復活。太子左庶子・兵部尚書を歴任した。吏部尚書・尚書右僕射に上り、左僕射の房玄齢とともに貞観の治を現出させた。国公に封ぜられた。
李綱(547~631)
  字は文紀。観州脩県の人。の開皇末年、太子洗馬をつとめた。太子の楊勇が廃嫡されたとき、「今日のことは陛下の過ちであって、太子の罪ではありません」と答えて、文帝(楊堅)に感心され、尚書右丞に抜擢された。劉方の林邑遠征に従い、行軍司馬をつとめた。のちに王府司馬となった。大業末年、何潘仁の下で長史となった。李淵が長安に入ると、丞府司録に任ぜられ、昌県公に封ぜられた。李淵が帝位につくと、礼部尚書・太子詹事に上った。貞観四年(630)、太子少師となった。
張公謹(584~632)
  字は弘慎。州繁水の人。王世充に仕えて洧州長史となった。武徳初年、に降った。はじめ名が知られず、李勣や尉遅敬徳の推薦で李世民の幕下に入った。九年(626)、李世民が李建・李吉を討つべく、人にこれを占わせようとした。張公謹は占い用の亀甲を取り上げて地になげうち、「決断に迷ったときに占うのであって、今は迷うことがないのに、ことさら何を占うことがあるのか」と言い放った。こうして李世民の決心は定まった。玄武門の変において玄武門を守備し、東宮と府の兵をはばみ、功により左武侯将軍に任ぜられた。貞観年(627)、代州都督となり、現地に屯田を置いて食糧輸送の労を省いた。のちに突厥を討つべき六条件を上書した。李靖の北伐を補佐して突厥の頡利可汗を破り、鄒国公に封ぜられた。襄州都督に転じ、善政で知られた。死後、凌煙閣にかれの図像が飾られた。
劉政会(?~635)
  滑州胙城の人。の末年、太原開陽府司馬となり、李淵の下で軍事をつかさどった。李淵の起兵を助けて王威・高君雅を排除し、大将軍府戸参軍に任ぜられた。長安平定に従った。丞府掾となった。の武徳初年、尉少卿に任ぜられ、太原の留守を守った。劉武が来攻すると、太原を失陥して捕らえられた。ひそかに劉武陣営の形勢を連絡し、劉武が平定されたのち、復帰した。刑部尚書・光禄卿を歴任し、邢国公に封ぜられた。貞観初年、洪州都督に転じた。
温彦博(573~636)
  字は大臨。并州祁の人。温君攸の子。温大雅の弟にあたる。開皇末年に文林郎を授けられた。末の乱のときは幽州総管・羅芸のもとで司馬をつとめた。功績をあげて総管府長史となり、西河郡公に封ぜられた。中書舎人・中書侍郎を歴任した。突厥の侵入に対し、并州道行軍長史として出戦したが敗れて捕らえられた。太宗が即位したのち、釈放された。雍州治中・検校吏部侍郎・中書侍郎・御史大夫などを歴任した。貞観四年(630)、中書令に上り、虞国公に封ぜられた。十年(636)、尚書右僕射に上った。
姚思廉(557~637)
  名は簡。思廉は字。京兆万年の人。姚察の子。はじめの会稽王の主簿となり、に入って王府参軍・河間郡司法書佐などをつとめた。のちに代王・楊侑の侍読に任ぜられた。軍が長安を占領したとき、ひとり王側に侍し、軍に大義を説いて臣礼を取らせた。王府十八学士のひとり。太宗即位ののち、著作郎・弘文館学士に任ぜられた。『梁書』『書』の二史を修した。
丘和(552~637)
  河南洛陽の人。弓と馬をよくした。北に仕えて開府儀同三司に上った。が建国されると、右武将軍となり、平城郡公に封ぜられた。資・・蒲州刺史を歴任し、善政で知られた。仁寿四年(604)、王楊諒がそむくと、連座して官職を奪われ、庶民となった。まもなく代州刺史として復帰した。大業末年、海南を鎮撫して、交趾太守となった。寛政を布いて領内は安定したという。に入って交州大総管に任ぜられた。入朝して左武大将軍となった。年老いて故郷に帰り、稷州刺史に任ぜられて、晩年の身を養った。
柴紹(?~638)
  字は嗣昇。州臨汾の人。年少のころから強悍で任侠として知られた。により太子千牛備身に任ぜられた。公李淵の三女(のちの平陽公主)をめとった。大業十三年(617)、太原におもむいて、李淵の起兵に従い、右領軍大都督府長史・馬軍総管に任ぜられた。霍邑・臨汾・絳郡・長安などの戦いで軍功を挙げた。の武徳年(618)、左翊大将軍に任ぜられた。李世民に従って薛仁杲・剛・竇建徳・王世充らを討った。霍国公に封ぜられた。吐谷渾・党項・突厥をしばしば撃破した。貞観二年(628)、師都を平定した。七年(633)、鎮軍大将軍を加えられ、右驍大将軍を代行し、譙国公に改封された。死後、凌煙閣に列せられた。
叔宝(?~638)
  名は瓊。叔宝は字。州歴城の人。はじめの来護児に仕えた。末の混乱の中で、張須陀に従って転戦した。張須陀が李密に敗れて敗死すると、李密の麾下に入り、李密が敗れると王世充に仕えた。その後、の李世民に仕えて武勲を上げ、左武大将軍まで上った。朝創業の功臣のひとり。
虞世南(558~638)
  字は伯施。州余姚の人。早くに父を失い、叔父に育てられた。顧野王に師事して学問を学んだ。書を智永禅師に学んで、南朝・のころから書家として知られた。のとき秘書郎となったが、出世を望まず貧窮した。末の乱では煬帝に従い、次いで宇文化及・竇建徳に従った。に入って王・李世民(のちの太宗)に仕え、府参軍・太子中舎人などをつとめた。太宗が即位すると、弘文館学士・秘書監などを歴任した。太宗の過失をしばしば諫めたという。楷書をよくし、初の三大家のひとりに数えられる。八十歳にしてようやく致仕を許され、銀青光禄大夫を授けられた。『虞秘監集』。
楊恭仁(?~639)
  もとの名は綸。弘農郡華陰の人。の宗室。に仕えて甘州刺史・吏部侍郎を歴任した。楊玄感の乱の平定に参与した。吏部にあって公正を持したので、裴蘊らに排斥されて、河南道大使に出向した。宇文化及が煬帝を殺すと、吏部尚書に任ぜられた。に入って州総管となった。辺境の事情に詳しく、民情にも通じたので、西辺は安定したという。武徳六年(623)、吏部尚書・中書令として召喚された。九年(626)、雍州牧に任ぜられた。貞観五年(631)、洛州都督となった。性格は穏和謹慎で人の上に立とうとしなかった。老病のため致仕し、没した。
僧杜順(557~640)
  またの名は法順。号は帝心尊者。雍州万年の人。十八歳で出家し、因聖寺僧珍に師事した。驪山に隠棲して修行に励んだ。の文帝・の太宗の崇敬を受けた。華厳宗の開祖とされる。南郊義善寺に寂した。『法界観門』。
李孝恭(591~640)
  の西平懐王李安の子。の高祖(李淵)の族甥にあたる。李淵が長安を落とすと、山南道招慰大使となった。巴をめぐり、三十余州を下した。進軍して、朱粲を破った。水陸の十二総管軍を指揮し、李靖を副将に用いて蕭銑を平定した。荊州大総管となり、屯田を置き、銅冶を立てた。襄州道行台尚書左僕射となり、嶺南四十九州に遣使して招撫した。行軍帥として輔公祏を討ち平らげ、揚州大都督となった。貞観年間に礼部尚書に任ぜられ、河間郡王に封ぜられた。司空・揚州都督を追贈され、献陵に陪葬された。
欧陽詢(557~641)
  字は信本。譚州臨湘の人。父はに仕えて広州刺史をつとめたが、宣帝のとき叛乱を起こして処刑されたため、詢は江総に庇護されて育った。が滅ぶと、に仕えて太常博士となった。の高祖に仕えて給事中となり、『芸文類聚』を編纂した。王羲之に倣って書をよくし、とくに楷書にすぐれた。初の三大家のひとりとされる。
宇文士及(?~642)
  字は仁人。京兆長安の人。宇文述の子。宇文化及の弟にあたる。煬帝の娘の南陽公主をめとった。大業年間、尚輦奉御となった。煬帝に従って江都におもむいた。宇文化及が煬帝を殺すと、内史令に任ぜられた。宇文化及が敗れると、に帰順した。妹が高祖(李淵)の昭儀となり、寵愛を受けたため、上儀同に任ぜられた。李世民(のちの太宗)に従って竇建徳・王世充を討ち、郢国公に進んだ。太宗が即位すると、中書令に任ぜられた。殿中監・蒲州刺史に転じた。右大将軍となり、帝に重用された。為政は寛容簡素をむねとしたが、自身の生活は豪奢だった。
段志玄(598~642)
  州臨淄の人。年少のころは無頼で、しばしば法を犯した。十四歳のとき、煬帝の高句麗遠征に従軍した。大業末年、父に従って千人を集め、李淵の起兵に応じた。李世民の麾下に属し、右領軍大都督府軍頭に任ぜられ、しばしば先鋒をつとめた。屈突通・薛挙・劉武と戦って、戦功を挙げ、楽游府驃騎将軍に任ぜられた。また竇建徳・王世充を討ち、王府右二護軍に転じた。太子李建の誘いを断り、玄武門の変では李世民に加担した。太宗が即位すると、左驍大将軍に任ぜられた。貞観八年(634)、行軍総管となり、吐谷渾を討った。戦いを避けたとして免官されたが、まもなく復職した。十一年(637)、州刺史に任ぜられ、褒国公に封ぜられ、右大将軍となった。死後、昭陵に陪葬され、名は凌煙閣に列せられた。
徴(580~643)
  字は玄州曲城の人。幼少のころ孤児となり、末に道士となっていたが、李密が兵を挙げると乱に参加し、しばしば献策した。竇建徳が黎陽を攻略すると、捕らえられて起居舎人となった。竇建徳が敗れると、に帰順した。はじめは李淵の長子・李建に仕えて太子洗馬となったが、建が玄武門の変によって敗死すると、李世民(太宗)に認められて詹事主簿・諫議大夫となり、門下侍中を経て、左光禄大夫に上り、国公に封ぜられた。朝創業の功臣のひとり。北の史書を編纂し、良史と称された。『群書治要』。
侯君集(?~643)
  豳州三水の人。若くして王李世民の幕府に入り、征戦に従った。功により左虞侯・車騎将軍となった。武徳九年(626)、李世民が玄武門の変を起こすと、長孫無忌ら五人とともに論功第一となった。右大将軍に任ぜられ、潞国公に封ぜられた。徴に宰の器量があると推薦された。貞観四年(630)、兵部尚書となり、朝政に参与した。九年(635)、李靖に従って吐谷渾を討ち、勝利を挙げた。十一年(637)、国公に改封された。翌年、吏部尚書に転じた。十三年(639)、交河道行軍大総管となり、高昌を討った。翌年、麹智盛を降し、高昌国を平定した。珍宝婦女を私取した罪で獄に下されたが、まもなく釈放された。心中不満が鬱積し、十七年(643)には謀反の計画を張亮に密告されたが、傍証がなかったため不問とされた。まもなく太子李承乾の謀反に連座して斬られた。
王績(585~644)
  字は無功。号は東皐子。絳州竜門の人。の大業末年、進士に及第した。秘書正宇・六合の丞などを歴任したが、天下の乱れを察して辞職し、郷里にもどった。になってから召しだされて門下省の待詔となったが、酒が飲めるので役人になったとうそぶいたという。優遇されて一日一斗の酒を支給されたため、斗酒学士と呼ばれた。貞観初年に、隠棲を望んで辞職した。居宅のりには黍を植え、酒を造り、鴨や雁を飼い、老荘の書を座右に置いて自由に暮らしたという。『東皐子集』。
顔師古(581~645)
  名は籀。琅邪郡臨沂の人。顔思の子。はじめ安養の県尉となった。中書舎人・中書侍郎・秘書監を歴任した。『漢書』の註釈や五経の研究に従事した。
僧道綽(562~645)
  俗姓は。西河禅師。并州汶水の人。十四歳で出家し、はじめ涅槃経を研究した。曇鸞の住んだ石壁玄中寺の碑を見て感銘を受け、浄土教に転じて「観経」を講じた。専ら阿弥陀仏を念じ、日々七万遍を限りとしたという。浄土教の二祖にあたる。『安楽集』。
李承乾(?~645)
  字は高明。の太宗(李世民)の長男。母は文徳長孫皇后。武徳三年(620)、恒山郡王に封ぜられた。中山王に進んだ。太宗が即位すると、皇太子に立てられた。貞観九年(635)、高祖が崩じて太宗が喪に服すると、内政を決裁させた。長すると、音楽や女色や遊興や狩猟を好み、奢侈に節度がなく、近臣の諫めも聞き入れなかった。足の病を患い、王李泰に取って代わられるのを恐れて、王李昌や朝臣の侯君集と結んで謀反をはかった。十七年(643)、事前に漏れ、廃されて庶民に落とされ、黔州に流された。
張亮(?~646)
  州滎陽の人。貧家に生まれ、末に瓦崗軍に参加して、徐世勣の麾下に属した。徐世勣に従ってに降り、州刺史に任ぜられた。房玄齡らの推薦で、王李世民に従い、洛陽で千余人の兵を率いた。王李吉の告により獄に下されたが、まもなく釈放された。貞観年間、御史大夫・豳鄜三州都督・州長史を歴任した。盛族を抑え、貧窮した人々を救恤して、治績を挙げた。鄖国公に封ぜられ、名が凌煙閣に列せられた。十七年(643)、太子詹事から洛州都督となり、侯君集の謀反を密告し、功により刑部尚書に任ぜられた。十九年(645)、水軍を率いて高句麗を攻めた。のちに術士と交際し、仮子を五百人養っていることを告され、謀反の罪で処刑された。
劉洎(?~646)
  字は思道。荊州江陵の人。の末年、蕭銑に仕えて黄門侍郎となった。蕭銑が敗れると、に帰順した。貞観七年(633)、給事中に累進し、治書侍御史に転じた。ときに尚書省が詔勅の施行を妨害していたので、左右丞および両司郎中を厳選して、貴戚勲に行政の邪魔をさせないよう上奏した。尚書右丞に任ぜられた。十三年(639)、黄門侍郎・参知政事に任ぜられた。十八年(644)、侍中に進んだ。職務に精励し、諫言をいとわないことで知られた。翌年、太宗が高句麗に遠征すると、左庶子を兼ね、太子の監国を補佐した。太宗が帰還すると、褚遂良に誣告されて殺された。文集十巻があったが、散逸した。
馮盎(?~646)
  字は明遠。高州良徳の人。北燕の馮弘の後裔。洗夫人の孫にあたる。の開皇年間に康令となった。仁寿初年、潮・など五十余州の獠が乱を起こしたのを京師に報告し、兵を率いてこれを討った。陽太守に任ぜられた。煬帝の高句麗遠征に従って、左武大将軍となった。が滅ぶと嶺表に帰った。高法澄・洗宝徹を破り、番禺・蒼梧・朱崖などの地を占拠し、自ら総管を号した。武徳五年(622)、に帰順した。高州総管となり、耿国公に封ぜられた。善政につとめ、民心をえた。貞観初年、かれの謀反を告げる者があって、太宗がかれを討とうとしたが、徴が諫めて取りやめた。貞観五年(631)、入朝した。羅・竇の諸洞の獠を討った。没後、左騎大将軍・荊州都督を追贈された。
高士廉(577~647)
  名は倹、士廉は字。徳州蓨県の人。北の宗室。の仁寿年間、文才甲科に及第して、治礼郎に任ぜられた。事件に連座して交趾に流され、交趾太守丘和のもとで司法書佐となった。の武徳五年(622)、丘和とともにに降り、雍州治中に推挙された。長孫無忌とともに玄武門の変を謀議し、太子李建らを討った。貞観年(627)、侍中に任ぜられ、重んじられた。王珪の上奏を隠匿した事件に連座し、安州都督に左遷され、益州長史に転じた。地に学校を復興し、水利事業を興した。五年(631)、吏部尚書として召され、許国公に封ぜられた。尚書右僕射を経て、太子太傅に上った。韋挺らとともに天下の293姓1651家の氏姓を格付けして『氏族志』を撰した。また徴らとともに『文思博要』を撰した。
褚亮(560~647)
  字は希明。杭州銭塘の人。博覧強記で文章をよくした。の後主に召されて賦詩を作り、尚書殿中侍郎に任ぜられた。に入って東宮学士となった。大業年間、太常博士となった。楊玄感の乱に連座して西海郡司戸に左遷された。のちに薛挙のもとで黄門侍郎をつとめた。の武徳年(618)、李世民が薛仁杲を平定すると、に帰順して、王府文学に任ぜられた。李世民の征戦に従って、しばしば献策や諫言をおこなった。文学館十八学士のひとりとなり、また弘文館学士となった。貞観九年(635)、通直散騎常侍に任ぜられた。のちに致仕した。死後、昭陵に陪葬された。文集二十巻があったが、散逸した。
阿史那思摩(583~647)
  突厥の出身。咄陸設の子。始畢可汗の下で伽苾特勒となった。頡利可汗が立つと、羅失特勒となった。武徳七年(624)、に遣使し、和順郡王に封ぜられた。貞観三年(629)、太宗(李世民)はその忠を嘉して李姓を賜り、右武候大将軍・化州都督に任じた。頡利の部落が黄河の南にうつされると、懐化郡王に封ぜられた。十三年(639)、乙弥泥孰可汗に立てられ、部落を率いて黄河の北に帰った。十八年(644)、高句麗遠征に従い、白崖城を攻めたとき、流れ矢を受けて負傷し、太宗みずから薬を賜った。凱旋して并州にいたると、翰海道行軍総管となった。二十年(646)、右武大将軍・検校屯営事に任ぜられた。翌年、長安で没した。
孔潁達(574~648)
  字は仲達。冀州衡水の人。若くして経書に通じ、礼学を修めた。に仕えて太学助教となり、の太宗のもとで右庶子・国子司業などを歴任した。徴とともに『隋書』を編纂した。また太宗の命をうけて『五経正義』を著した。
蕭瑀(575~648)
  字は時文。南蘭陵郡の人。後明帝(蕭巋)の子。姉が王楊広(のちの煬帝)の妃となり、これに従って長安に入った。に仕えて、内史侍郎・河池郡守などを歴任した。大業十三年(617)、李淵が長安に入ると、これに降り、国公に封ぜられ、民部尚書に任ぜられた。の武徳年(618)、内史令となり、政務を管掌して、帝の信任をえた。王世充平定に謀を献じ、功により尚書右僕射に進んだ。太宗が即位すると、尚書左僕射となった。太宗に封建を勧め、諸子を分封させた。房玄齢や杜如晦が用いられるようになると、鬱々として楽しまなかった。貞觀二十年(646)、房玄齢が謀反をはかったと誣告して、かえって太宗の責めを受けた。自ら出家を請いながら、実行に移さなかったため、爵位を奪われて、商州刺史に左遷された。まもなく召喚されて、復爵ののちに没した。
房玄齢(578~648)
  字は喬。州臨淄の人。房玄謙の子。開皇十五年(595)、進士に及第した。末に李世民に投じた。王府十八学士の冠首とされる。太宗が即位すると、尚書左僕射に上った。杜如晦・徴らとともに貞観の治を支えた名臣とされる。また褚遂良らとともに『晋書』を撰した。
李百薬(565~648)
  字は重規。定州安平の人。李徳林の子。のとき、礼部員外郎となったが、煬帝に嫌われて辞職し、郷里に帰った。貞観年(627)に召し出されて中書舎人となり、太宗の信任をえて礼部侍郎・太子右庶子などを歴任した。父の業を受けて『北書』を撰した。
(601~648)
  字は賓王。博州茌平の人。幼くして孤児となり、貧苦の中で学問をした。の武徳年間、州の助教に任ぜられた。辞職して西のかた長安に遊び、中郎将常何の家に居候した。貞観三年(629)、常何に代わって上奏し、所論二十余条を述べて、時政の弊害を突いていたので、太宗(李世民)の目に止まった。監察御史・給事中・中書侍郎を歴任した。十八年(644)、中書令に任ぜられ、太子右庶子を兼ねた。をかがみとして、徭役を省き、節倹を尊び、民力を充実させるよう進言した。多くは太宗に容れられて、信任された。死後、昭陵に陪葬された。
郭孝恪(?~648)
  許州陽翟の人。末、郷里の部曲数百人を率いて李密に従った。李密がに帰順すると、陽翟郡公に封ぜられ、州刺史に任ぜられた。命を受けて李勣とともに虎牢より東の地を経略した。武徳二年(619)、李勣がやむなく竇建徳に従うと、郭孝恪はに戻る策を李勣に献じ、翌年に旦を破って長安に帰った。が王世充・竇建徳を破ると、功により上柱国に進んだ。以後、貝・・江・涇四州の刺史を歴任した。貞観十六年(642)、州都督に任ぜられた。紫光禄大夫となり、安西都護・西州刺史に転じた。西突厥が伊州を攻めると、軽騎二千でこれを撃破し、さらに処月・処密部を破った。十八年(644)、西州道行軍総管となり焉耆を攻めた。二十一年(647)、昆丘道副大総管となり、翌年に亀慈を討ってその都城を落とした。のちに亀慈の大臣の那利の襲撃を受け、流れ矢に当たって戦没した。
李靖(571~649)
  字は薬師。京兆三原の人。はじめに仕えて、長安県の功となり、末には馬邑県の丞であった。公李淵が叛乱を起こしたとき、急報を朝廷に届けようとして、軍に捕らえられた。李世民に赦されて仕えた。王世充ら末の群雄を討伐するのに功績があり、による統一を助けた。太宗が即位すると刑部尚書に任ぜられた。貞観三年(629)に突厥が侵入すると、兵部尚書・代州道行軍総管として防戦を指揮した。翌年には、突厥の本拠に侵攻し、頡利可汗を捕らえた。江陵に割拠した蕭銑を討ったとき、時は秋で水量が多く蕭銑が油断しているところ「兵は神速を貴ぶ」と言って溢れる水とともに殺到して蕭銑を降した。八年(634)には吐谷渾の侵入を撃退した。国公・開封儀同三司に上った。朝創業の功臣のひとり。『李公問対』。
劉弘基(582~650)
  雍州池陽の人。若くして蔭官によりの右勲侍となった。大業末年、高句麗遠征に従軍したが、罪を犯して太原に逃亡した。李淵父子に仕えて、二千の兵を集めた。李淵が起兵すると、統軍に任ぜられ、李世民に従って西河・霍邑・馮翊を落とし、長安を取って勲功第一とされた。右驍大将軍に任ぜられた。薛挙を討って孤軍奮闘したが捕らえられ、薛仁杲が平定されるとに帰った。劉武が太原を落としたとき、また捕らえられたが、脱走した。剛を討ち、任国公に封ぜられた。東に劉黒闥を攻め、北に突厥の侵攻を防いだ。貞観年(627)、李孝常が叛乱を図ると、連座して官職を剥奪された。のちに易州刺史・尉卿として再起用された。九年(635)、夔国公に改封された。十九年(645)、高句麗遠征に従軍し、前軍大総管となった。死去に先立って諸子に奴婢十五人と田五頃ずつを分け与え、残りは親しい人々に散じたという。
張行(587~653)
  字は徳立。定州義豊の人。若くして、劉炫に師事した。末に孝廉に挙げられ、謁者台散従員外郎に任ぜられた。王世充が洛陽で帝を称すると、度支尚書となった。初、制挙乙科に応じて、殿中侍御史に任ぜられ、権威をはばからずに弾劾した。貞観十九年(645)、太宗(李世民)が高句麗を攻めると、高士廉とともに太子の監国を補佐した。二十三年(649)、侍中となり、刑部尚書を兼ねた。高宗(李治)が即位すると、監修国史に任ぜられ、まもなく尚書右僕射・太子少傅に上った。
李道宗(600~653)
  字は承範。隴西紀の人。李韶の子。が建国されると、略陽郡公に封ぜられ、左千牛備身に任ぜられた。武徳三年(620)、尉遅敬徳の招撫にあたり、河東の争奪に功績を挙げた。翌年、王世充・竇建徳の軍と洛陽・虎牢の間で戦った。五年(622)、李世民に従って劉黒闥の軍を襲撃し、李勣を救援した。霊州総管に任ぜられ、任城王に進んだ。八年(625)、突厥の襲撃を霊武で撃退した。貞観年(627)、鴻臚卿に転じ、左領軍・大理卿を歴任した。太宗の突厥征討の意を受けて再び霊州総管に起用された。四年(630)、軍が突厥の頡利可汗を破ると、刑部尚書に任ぜられた。八年(634)、李靖の下で副将となり、吐谷渾を討った。十一年(637)、礼部尚書となり、江郡王に改封された。ひとたび失脚したが、再起して茂州都督・州刺史などをつとめた。太宗の高句麗遠征にも参加した。永徽四年(653)、房遺愛が処刑されると、連座して象州に流され、途中で病没した。
張士貴(?~?)
  もとの名は忽峍。虢州盧氏の人。左右の弓射をよくした。末に衆を集めて城邑を攻掠し、忽峍賊と称された。に帰順して右光禄大夫に任ぜられた。王世充に対する征討に従い、虢州刺史に任ぜられた。長安に戻って右武侯将軍・右屯大将軍となった。貞観七年(633)、龔州道行軍総管となり、自ら先頭に立って東西の洞7360;を征討した。十五年(641)、慶州道行軍総管となって雲中から北伐し、薛延陀を討った。十九年(645)、行軍総管として高句麗遠征に参加した。二十二年(648)、茂州都督となった。連年、民を徴用して造船して高句麗遠征に備え、雅州・邛州・眉州の7360;民の反抗には軍を率いて鎮圧にあたった。左領軍大将軍に進み、虢国公に封ぜられた。顕慶初年に亡くなり、昭陵に陪葬された。
阿史那社爾(?~655)
  突厥の出身。処羅可汗の次男。拓設となり、磧北に根拠地を築いて、欲谷設とともに鉄勒諸部を統轄した。薛延陀部に敗れて可汗浮図城に逃れた。貞観四年(630)、東突厥が滅びると、西突厥の紛争に乗じて都布可汗を自称した。また薛延陀部に敗れ、西突厥の圧迫をおそれて、に帰順した。左驍大将軍に任ぜられ、の太宗(李世民)の妹の衡陽長公主をめとった。十四年(640)、交河道行軍総管に任ぜられ、侯君集の下で高昌の平定にあたった。畢国公に封ぜられた。十九年(645)、高句麗遠征に従い、流れ矢を受けてもなおも前進し、勇戦して功を立てた。二十一年(647)、崑丘道行軍大総管となった。郭孝恪らとともに亀慈を攻めて、翌年には亀慈王をとらえ、七十余城を降し、于闐王を入朝させた。軍中で郭孝恪に玉を贈られたが、受けとらなかったという。高宗(李治)が即位すると、右大将軍に上った。永徽四年(653)、鎮軍大将軍を加えられた。
柳亨(?~655)
  蒲州解県の人。柳旦の子。末に熊耳・王屋の二県長を歴任し、李密に仕えた。李密に従ってに降り、駕部郎中に任ぜられた。容貌魁偉で高祖(李淵)に甚だ愛され重用された。左中郎将に累進し、寿陵県男に封ぜられた。まもなく譴責を受けて邛州刺史として出向させられた。数年のあいだ召されることがなかったが、南山で太宗(李世民)の引見を受け、銀青光禄大夫となり、光禄少卿を代行した。貞観二十三年、太廟を修復した功績で、紫光禄大夫を加えられた。太常卿となって、万年宮の幸に従い、岐州刺史を検校した。
倹(579~656)
  字は茂約。并州陽の人。鑑の子。のとき、父が李淵とともに禁軍を領したため、李世民と知り合った。李淵が太原で起兵すると、記室参軍に任ぜられた。李世民が渭北道行軍帥となると、その下で司馬をつとめ、長安平定に従った。の武徳初年、中書侍郎となった。二年(619)、劉武に捕らえられた。劉武軍に敗れると、府庫を封じて兵甲を収めて軍を待っていたため、高祖(李淵)に賞賛され、復職した。礼部尚書・天策府長史に転じ、営国公に封ぜられた。貞観初年、突厥に使いし、頡利可汗に説いてその防備を緩めさせた。四年(630)、李靖が機に乗じて襲撃し、頡利可汗を捕らえた。のち民部尚書に転じた。太宗(李世民)の狩猟を諫めた。十七年(643)、凌煙閣に名が列せられた。官にあっても仕事をまじめにせず、客と酒を交わして楽しんだという。永徽初年、致仕した。
閻立徳(?~656)
  名は讓。立徳は字。雍州万年の人。閻毗の子。家業を継いで、工芸で知られた。の武徳年間、尚衣奉御に任ぜられた。貞観初年、将作少匠となり、太安県男に封ぜられた。高祖(李淵)の死後、山陵を造営した功で将作大匠に進んだ。貞観十年(636)、文徳皇后が崩ずると、司空となり、昭陵の造営にあたった。怠慢の罪で解職され、まもなく博州刺史として再起用された。十三年(639)、再び将作大匠となった。高句麗遠征に従い、人馬の通交する橋を架けた。翠微宮や玉華宮の造営にあたり、工部尚書に上った。
褚遂良(596~658)
  字は登善。杭州銭塘の人。褚亮の次子。はじめ王府の鎧参軍に任ぜられ、累進した。太宗が即位すると、諫議大夫・起居郎となり、次いで黄門侍郎に上った。高宗が即位すると、尚書右僕射に上り、河南郡公に封ぜられたが、高宗が武照を皇后に立てようとするのに反対して直諫したので、愛州刺史に左遷されて没した。書を虞世南に学び、楷書にすぐれ、初の三大家のひとりとされる。
尉遅敬徳(585~658)
  名は恭。敬徳は字。朔州善陽の人。はじめに仕えて、叛乱討伐で名をあげた。末の混乱で劉武の偏将となり、と敵対した。武徳三年(620)に劉武に敗れると、李世民に降り、右一府統一軍に任ぜられた。初の群雄を討伐して武勲を立てた。そのため、王府左二副護軍に上った。李世民に忠実で、玄武門の変では兵を率いて李吉を射殺した。武徳四年(621)、貞観年(627)には、突厥の侵入を撃退。右武侯大将軍に任ぜられ、国公に封ぜられた。長孫無忌・房玄齢らと合わず、襄州都督に左遷され、鄂国公に改封された。高句麗遠征には反対したが、征戦には参加し、駐蹕山で高句麗軍を破った。高句麗戦ののち隠退し、十六年にわたって神仙方士の道を修行した。死後に司徒并州の位を追贈された。
杜正倫(?~658)
  州洹水の人。のとき、秀才として挙げられた。羽騎尉に任ぜられた。武徳年間、州総管府録事参軍となった。貞観二年(628)、給事中となり、知起居注を兼ねた。四年(630)、中書侍郎。散騎常侍となり、太子右庶子を代行し、崇賢館学士を兼ねた。顕慶年(656)、黄門侍郎となり、まもなく同中書門下三品に上った。翌年、度支尚書となった。中書令となり、襄陽県公に封ぜられた。三年(658)、李義府と対立して、横州刺史に左遷され、まもなく没した。
長孫無忌(?~659)
  字は輔機。洛陽の人。太宗の長孫皇后の兄にあたる。常に李世民の征戦に従い、機密に参与した。高祖のとき、比部郎中となった。玄武門の変での密謀に参与し、李世民の帝位奪取を助けた。武侯大将軍・吏部尚書・尚書右僕射・司空・司徒などの職を歴任した。国公に封ぜられた。王李治を太子に立てるのに賛助した。高宗のとき、太尉・同中書門下三品となり、朝政を握った。永徽二年(651)、李勣らとともに永徽律令格式を定めた。武照を高宗の皇后に立てることに反対したため、顕慶四年(659)に許敬宗の讒言を受けて、官爵を削られ、黔州に流されたあげくに殺された。『律疏義』。
郭子和(?~?)
  同州蒲城の人。のとき、左翊に任ぜられた。罪をえて楡林にうつされた。大業十三年(617)、郡内が飢饉におちいったため、人々を集めて郡丞を殺し、官倉を開いてほどこした。永楽王を自称し、丑平と建した。師都と連合し、突厥に帰附した。突厥により平楊天子に封ぜられたが、受けなかった。翌年、に降り、霊州総管に任ぜられた。のちに雲州総管に転じ、師都を攻め、寧朔城を取った。武徳五年(622)、劉黒闥を攻めて、功により右武将軍に任ぜられ、李姓を賜った。貞観年間に婺州刺史となった。顕慶年(656)、黔州総督に転じた。老齢のため致仕して没した。
程名振(?~662)
  洺州平恩の人。の大業末年、竇建徳に仕えて普楽令となり、有能で知られた。に帰順し、永年令に任ぜられ、河北経略に従った。李世民に従って劉黒闥を討ち、運糧の車や舟を破壊してその補給線を断った。功により営州長史に任ぜられ、東平郡公に封ぜられ、洺州刺史に転じた。右驍将軍・平壌道行軍総管に任ぜられ、卑沙城を攻め、少勢で多数を破って名将と称せられた。永徽六年(655)、営州都督・東夷都護に任ぜられた。顕慶年間、薛仁貴とともに高句麗を破った。のち蒲二州刺史となった。在官のまま亡くなった。
王玄策(?~?)
  黄水県令・朝散大夫などをつとめた。貞観十七年(643)、ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの使者の帰国に同行してインドに向かい、西域百余カ国を歴訪した。また貞観二十一年(647)には、の正使としてヴァルダナ朝に赴いたが、すでにハルシャ王は没しており、宰の阿羅那順が自立してヴァルダナ朝の専権を握っていた。王玄策ら使節の入国が兵をもってはばまれたため、吐蕃(チベット)の西辺に逃れた。王玄策は吐蕃で千二百の兵を得、また泥婆羅国(ネパール)に七千騎の兵を借りてインドを攻め、阿羅那順を捕らえ長安に送った。顕慶二年(657)には、三回目のインド使節となり、罽賓(アフガニスタン)にまでいたった。『中天竺国行記』。
張玄素(?~664)
  蒲州虞郷の人。に仕えて、景城県戸となった。竇建徳が景城を落としたとき、捕らえられて殺されそうになったが、邑人の懇願により許された。建徳により治書侍御史に任ぜられたが、受けなかった。煬帝の死後、建徳の下で黄門侍郎となった。建徳の死後、に降って景州録事参軍に任ぜられた。太宗(李世民)が立つと、侍御史となり、給事中に転じた。貞観年間、銀青光禄大夫となり、左庶子を代行した。太子李承乾が廃されると、官職を奪われて民とされた。のちに潮州刺史として起用され、さらに鄧州刺史に転じたが、帝に親近することはなかった。高宗のとき、致仕した。龍朔三年(663)、銀青光禄大夫を加えられた。
僧玄奘(602~664)
  俗名は禕。三蔵法師。恵の四男。十三歳のとき、洛陽で煬帝の勅命によって選抜されて出家し、浄土寺に入った。初の混乱を避けて、長安・都・荊州を転々として仏教を学んだが、諸説間の矛盾に悩んだ。そのため原典を得るべく、貞観三年(629)に長安を出て、禁を破って玉門関をえ、天山南路の北道を通って、インドへ向かった。三年をかけてナーランダ寺院に到着し、各地で教学を研究し、帰路は天山南路の南道を通って、十八年(644)に玉門関にいたり、国法を破ったことを謝す上表をの太宗に出して、翌年に長安に入った。帰国後、太宗の庇護を受けつつ、七十六部千三百三十五巻の経典を翻訳した。『大西域記』、『大慈恩寺三蔵法師伝』。
丘行恭(586~665)
  河南洛陽の人。のちに郿県にうつった。騎射をよくした。の大業末年、兄の丘師利とともに兵を集めて郿城を守り、白瑜婆の奴賊軍を併呑して、李世民を渭北に迎えた。光禄大夫に任ぜられた。軍に従って長安を平定し、薛挙・劉武・王世充・竇建徳らを討った。功により左一府驃騎となった。武徳九年(626)、太子李建を討ち、功により左将軍に進んだ。貞観十四年(640)、侯君集に従って高昌を平定し、天水郡公に封ぜられた。高宗のとき、右武侯大将軍・冀陜二州刺史を歴任した。没すると、昭陵に陪葬された。陵前六駿のひとつ「颯露紫」に邙山で王世充と戦ったときの場面が刻まれ、その武功がたたえられている。
程知節(?~665)
  名は咬、知節は字。済州東阿の人。末に人々を集めて郷里を守り、のちに瓦崗軍に入って李密に従い、内軍驃騎となった。李密が敗れると、王世充に降った。の武徳二年(619)、叔宝らとともにに降って王府左三統軍に任ぜられた。李世民に従って剛・竇建徳・王世充と戦い、叔宝らとともに率いた玄甲騎兵は軍の精鋭となった。九年(626)、玄武門の変で功を挙げ、太子右率に任ぜられ、右武大将軍となった。貞観年間、瀘州都督・左領軍大将軍を歴任し、盧国公に封ぜられた。左屯大将軍・検校北門屯兵などをつとめた。名は凌煙閣に列せられた。顕慶年(656)、葱山道行軍大総管に任ぜられ、西突厥の阿史那賀を討った。怠軍の罪で免官された。まもなく岐州刺史として復官したが、致仕した。驃騎大将軍・益州大都督の位を追贈され、昭陵に陪葬された。
↓次の時代=-高宗武

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