data_衛/年表
-1100 | 衛[前11世紀末~前209]⇒西周,東周,春秋,戦国,魯,斉,晋,秦,楚,宋,衛,陳,蔡,曹,鄭,燕,呉,越,趙,魏,韓康叔(封)-康伯-孝伯-嗣伯-倢伯-靖伯-貞伯-頃侯-釐侯-共伯(余)-武公(和)-荘公(揚)-桓公(完)-州吁-宣公(晋)-恵公(朔)-黔牟-懿公(赤)-戴公(申)-文公(燬)-成公(鄭)-衛君瑕-穆公(遬)-定公(臧)-献公(衎)-殤公(秋)-襄公(悪)-霊公(元)-出公(輒)-荘公(蒯聵)-衛君班師-衛君起-悼公()-敬公()-昭公()-懐公()-慎公()-声公()-成侯()-平侯()-嗣君()-元君()-君角()(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-1100 | 衛の康伯(?~?) 康叔封の子。康叔封が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-1100 | 衛の孝伯(?~?) 衛の康伯の子。康伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-1100 | 衛の嗣伯(?~?) 衛の孝伯の子。孝伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-1100 | 衛の倢伯(?~?) 衛の嗣伯の子。嗣伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-1100 | 衛の靖伯(?~?) 衛の倢伯の子。倢伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-1100 | 衛の貞伯(?~前867?) 衛の靖伯の子。靖伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-1046 | 康叔封(?~?) 姓は姫、名は封。周の文王(姫昌)の九男。武王(姫発)の弟。はじめ康に封じられた。成王の時代、武庚の叛乱が鎮圧されると、殷の旧都・朝歌の近辺が与えられた。衛国の祖。成王が親政すると、司寇に任ぜられた。 康叔封(?~?) 名は封。周の文王(姫昌)の子。武王(姫発)の同母弟にあたる。成王(姫誦)のとき、武庚禄父が乱を起こし、周公旦がこれを討滅すると、武庚の治めていた殷の遺民を預かり、康叔は衛の君に封ぜられ、朝歌を本拠とした。周公旦に「康誥」「酒誥」「梓材」の三篇を贈られ、衛で善政を布いたといわれる。成王が親政すると、周の司寇に任ぜられた。(-シナ大陸-西周、衛)-中国史人物事典- | |||
-1045 | (~1006年)魯、燕、衛、晋、曹、蔡、呉、陳、宋、斉、楚の諸侯、成立(-シナ大陸-魯、燕、衛、晋、曹、蔡、呉、陳、宋、斉、楚)-- | |||
-867 | 衛の頃侯(?~前855) 在位前867?~前855。衛の貞伯の子。貞伯が亡くなると、跡を継いだ。周の夷王(姫燮)のとき、伯から侯に上った。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-855 | 衛の釐侯(?~前813) 在位前855~前813。衛の頃侯の子。頃侯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-813 | 衛の共伯余(?~前813) 在位前813。衛の釐侯の子。釐侯が亡くなると、跡を継いだ。弟の和(のちの武公)の襲撃を受け、釐侯の墓道で自殺した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-813 | 衛の武公(?~前758) 名は和。在位前813~前758。衛の釐侯の子。釐侯の寵愛を受けた。金品を費やして壮士を養い、兄の共伯余を襲撃して自殺させ、自ら衛の国君として即位した。康叔を範として善政を布いたといわれる。四十二年(前771)、犬戎が周の幽王(姫涅)を殺すと、周を援助して犬戎を平定した。周の平王(姫宣臼)のとき、功績により侯から公に上った。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-770 | 春秋戦国時代 | |||
春秋戦国時代[前770~前221]前770年、周の東遷から、前221年、秦の統一までの約5世紀半の間をさす。前403年、韓・魏・趙が晋を3分した時を境に、前半を春秋時代(「春秋」の名に由来)、後半を戦国時代(「戦国策」の名に由来)に分ける。 周室の衰微により、群雄割拠の状態となり、対立抗争が激しく繰り返され、春秋末期にはその中で比較的勢力の強かった秦・晋・斉・楚・魯・衛・燕・曹・宋・陳・蔡・鄭・呉・越の14国が残った。 さらに各国内での権臣の内紛も多く、晋を韓・魏・趙の3氏が分割し、周王から諸侯と認められ、戦国時代に入った。 新興の韓・魏・趙と斉を奪った田氏と秦・楚・燕の7国(戦国の七雄)が、それぞれ勢力を競ったが、西方の秦の力が増大するに及び、他の6国は内紛などで衰微し、秦の東進によって統一された。 氏族共同体は解体され、成文法(刑法)が公布、官僚制成立、封建制から郡県制への移行が行われた。鉄製農具の開発により生産力が飛躍的に増大、金属貨幣の流通が始まった。諸子百家(*1)が活躍、中国思想の源流を形作った。 | ||||
-758 | 衛の荘公(?~前735) 名は揚。在位前758~前735。衛の武公の子。武公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-735 | 衛の桓公(?~前719) 名は完。在位前735~前719。衛の荘公の子。母は戴嬀。荘公が亡くなると、跡を継いだ。桓公二年(前733)、弟の州吁の官位を奪った。十六年(前719)、州吁の襲撃を受けて殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-719 | 衛の州吁、桓公を弑す衛人、州吁を濮に殺す(春秋戦国時代-シナ大陸-衛)-- | |||
-719 | 衛の州吁(?~前719) 在位前719。衛の荘公の子。軍事を好み、荘公のときに将軍に上った。桓公二年(前733)、官位を奪われ、国外に出た。十三年(前722)、鄭の荘公の弟の段と結んだ。十六年(前719)、桓公を殺して、自ら衛の国君として即位した。段のために鄭を攻めようとして、宋・陳・蔡と結んで鄭を攻めた。石碏らによって濮水のほとりで殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-719 | 衛の宣公(?~前700) 名は晋。在位前719~前700。衛の荘公の子。石碏らが州吁を殺すと、衛の国君として擁立された。夫人の夷姜の産んだ太子伋と斉公女の産んだ公子朔が争った。宣公十八年(前701)、宣公は太子伋をうとんじ、斉への使者として立たせて、国境で盗賊に襲撃させて殺させた。このため公子朔を太子に立てた。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-700 | 衛の恵公(?~前669) 名は朔。在位前700~前696、前688~前669。衛の宣公の子。母は斉公女。宣公十八年(前701)、太子伋が殺されると、太子として立てられた。翌年、宣公が亡くなると、跡を継いだ。恵公四年(前696)、左公子と右公子が乱を起こし、黔牟を迎えて衛君としたため、斉に亡命した。黔牟八年(前688)、斉の襄公の力を借りて、諸侯とともに衛を攻撃し、左公子と右公子を殺して、衛の国君として返り咲いた。二十五年(前675)、燕と結んで黔牟の亡命先の周を攻め、周の恵王を逐って王弟の穨を王位につけた。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-696 | 衛の黔牟(?~?) 在位前696~前688。衛の宣公の子。母は夷姜。恵公四年(前696)、左公子と右公子が恵公を逐って、かれを擁立した。黔牟八年(前688)、斉の襄公が諸侯を率いて衛を攻撃すると、周に亡命した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-679 | 斉の桓公、斉・宋・陳・衛・鄭の諸侯と甄で会盟し、覇者を称す(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-斉・宋・陳・衛・鄭)-- | |||
-669 | 衛の懿公(?~前660) 名は赤。在位前669~前660。衛の恵公の子。恵公が亡くなると、跡を継いだ。鶴を飼うことに耽溺して、政治をかえりみず、民心を失った。懿公九年(前660)、翟が衛を攻撃してきたが、兵が従わず、「鶴に命じて翟を撃たせなさい」と言われた。このため翟の侵入を許して殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-660 | 衛の戴公(?~前660) 名は申。在位前660。衛の昭伯頑の子。衛の宣公の孫にあたる。懿公が翟に殺されると、衛の国君として擁立された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-660 | 衛の文公(?~前635) 名は燬。在位前660~前635。衛の昭伯頑の子。衛の戴公の弟にあたる。翟が衛を攻撃すると、斉に亡命した。戴公が亡くなると、斉の桓公の助力を受けて衛に帰国し、衛君として立った。賦税を軽くし、裁判の公正をはかって、衛の民の人望をえた。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-635 | 衛の成公(?~前600) 名は鄭。在位前635~前632、前630~前600。衛の文公の子。文公が亡くなると、跡を継いだ。成公三年(前632)、晋が衛に道を借りて宋を救援したいと申し出たが、許可しなかった。大夫の元咺の襲撃を受けて、成公はからくも逃れた。また晋の文公が衛を攻めて、衛の領地を宋に割きあたえた。成公は陳に亡命した。元咺と争訟したが敗れて逮捕され、周の洛邑に送られた。五年(前630)、晋の文公に毒殺されかけた。周の襄王のとりなしを受けて、晋の文公と和解し、帰国して元咺と衛君瑕を殺し、復位した。十二年(前623)、晋に入朝して襄公と会見した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-632 | 衛君瑕(?~前630) 在位前632~前630。成公三年(前632)、衛の成公が大夫の元咺に国を逐われると、衛君として擁立された。衛君瑕二年(前630)、成公が帰国するに先立って、周歂・冶廑らのために殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-600 | 衛の穆公(?~前589) 名は遬。在位前600~前589。衛の成公の子。成公が亡くなると、跡を継いだ。穆公十一年(前589)、孫良夫に魯を救援させ、斉に奪われた旧領を奪回した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-589 | 衛の定公(?~前577) 名は臧。在位前589~前577。衛の穆公の子。穆公十一年(前589)、穆公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-589 | 晋、魯・衛・曹を率いて、斉を鞍に破る(春秋五大戦の四)(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-晋、魯・衛・曹、斉)-- | |||
-577 | 衛の献公(?~前544) 名は衎。在位前577~前559、前547~前544。衛の定公の子。定公が亡くなると、跡を継いだ。礼を失した言動が多く、国人たちの怒りを買った。献公十八年(前559)、孫文子(孫林父)が乱を起こし、献公は斉に逃れた。殤公十二年(前547)、晋に逃れた孫文子の工作により帰国し、晋軍が殤公を捕らえると、献公は復位した。献公後元年(前546)、甯喜を誅殺した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-559 | 衛の殤公(?~前547) 名は秋。在位前559~前547。衛の定公の子。衛の献公の弟にあたる。献公十八年(前559)、孫林父が献公を追放すると、衛君として擁立された。孫文子を宿に封じた。殤公十二年(前547)、孫林父と甯喜が争うと、殤公は甯喜に命じて孫林父を襲撃させた。孫林父は晋に逃れ、斉にいた献公が帰国できるよう工作し、晋軍が衛に出兵すると、殤公と甯喜は捕らえられ、献公が復位した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-544 | 衛の襄公(?~前535) 名は悪。在位前544~前535。衛の献公の子。献公後三年(前544)、献公が亡くなると、跡を継いだ。襄公六年(前538)、楚の霊公が主催した会盟に参加しなかった。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-535 | 衛の霊公(?~前493) 名は元。在位前535~前493。衛の襄公の庶子。襄公九年(前535)、襄公が亡くなると、跡を継いだ。霊公五年(前530)、晋の昭公のもとに入朝した。三十八年(前497)、孔子を迎え、魯と同じ俸禄を与えた。翌年、太子蒯聵が霊公の夫人の南子を殺害しようとしたことが発覚し、蒯聵が宋に亡命した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-520 | このころ子貢(端木賜)生まれる(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-衛)-- | |||
-520 | 端木賜(前521~?) 字は子貢。衛の人。孔子の弟子。口先が達者で、商品や財産の運用が巧みだった。斉の田常が魯を攻めようとしたとき、斉・呉・越・晋に赴いて遊説し、斉と呉を争わせて魯を救い、晋と呉を争わせて晋を強大化させ、越(句践)に呉を滅ぼさせて覇者たらしめた。魯や衛の宰相となり、財産は千金に及び、最後は斉で死んだ。(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-衛)-- | |||
-493 | 衛の出公(?~?) 名は輒。在位前493~前480、前477~前470。衛の荘公の子。霊公の孫にあたる。霊公四十二年(前493)、霊公が薨去すると、ときに荘公が国外にあったので、かれが即位した。出公十二年(前480)、荘公が帰国すると、位を逐われて魯に逃れた。荘公三年(前478)、荘公が衛の内乱で死ぬと、翌年に斉を経て帰国し、国君に返り咲いた。為政は暴虐で、工匠らを酷使した。後元七年(前470)、褚師比らが乱を起こし、国君の座を追われて越に亡命した。のちに越で没した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-480 | 衛の荘公(?~前478) 名は蒯聵。在位前480~前478。衛の霊公の子。衛の太子に立てられた。霊公三十九年(前496)、霊公の夫人の南子を殺害しようとしたことが発覚し、宋に亡命した。のちに晋の趙鞅を頼った。四十二年(前493)、出公が立つと、帰国しようとしたが、衛の国人にはばまれ、宿に入った。出公十三年(前480)、孔悝の乱により衛の国君に擁立された。荘公二年(前478)、石圃が乱を起こしたため、戎州の己氏のもとに逃れたが、己氏に殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-480 | 衛の蒯聵、出公を追放し、即位(荘公)孔子の弟子子路、敗死す(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-衛、魯)-- | |||
-478 | 衛君班師(?~前478) 在位前478。衛の公子。衛の荘公二年(前478)、荘公が出奔すると、衛の国君として立てられた。まもなく斉軍に捕らえられ、退位した。潞に軟禁された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-478 | 衛君起(?~?) 在位前478~前477。衛の荘公二年(前478)、斉軍が衛君班師を捕らえると、衛の国君として擁立された。まもなく石専に逐われて、斉に亡命した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-475 | 戦国(战国)時代[前475~前221] | |||
-470 | 衛の悼公(?~前451?) 名は黔。在位前470~前451?。衛の出公の叔父にあたる。出公の子を攻めて、みずから即位した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-451 | 衛の敬公(?~前432) 名は弗。在位前451?~前432。衛の悼公の子。悼公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-432 | 衛の昭公(?~前426) 名は糾。在位前432~前426。衛の敬公の子。衛の敬公十九年(前432)、敬公が亡くなると、跡を継いだ。かれの代には、衛は趙の属国となっていた。昭公六年(前426)、公子亹のために殺害された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-426 | 衛の懐公(?~前415) 名は亹。在位前426~前415。衛の昭公六年(前426)、昭公を殺して、みずから即位した。懐公十一年(前415)、公子穨のために殺害された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-415 | 衛の慎公(?~前373) 名は穨。在位前415~前373。公子適の子。衛の敬公の孫にあたる。衛の懐公十一年(前415)、懐公を殺して、みずから即位した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-373 | 衛の声公(?~前362) 名は訓。在位前373~前362。衛の慎公の子。衛の慎公四十二年(前373)、慎公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-362 | 衛の成侯(?~前333) 名は遬。在位前362~前333。衛の声公の子。衛の声公十一年(前362)、声公が亡くなると、跡を継いだ。成侯十六年(前346)、公の称をやめ、侯と称するようになった。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-333 | 衛の平侯(?~前325) 在位前333~前325。衛の成侯の子。衛の成侯二十九年(前333)、成侯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-325 | 衛の嗣君(?~前283) 在位前325~前283。衛の平侯の子。衛の平侯八年(前325)、平侯が亡くなると、跡を継いだ。嗣君五年(前320)、侯の称をやめ、君と称するようになった。このころ衛は濮陽を領有するのみであった。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-283 | 衛の懐君(?~前252) 在位前283~前252。衛の嗣君の子。衛の嗣君四十二年(前283)、嗣君が亡くなると、跡を継いだ。懐君三十一年(前252)、魏に入朝し、魏に捕らえられて殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-252 | 衛の元君(?~前230) 在位前252~前230。衛の嗣君の子。懐君の弟にあたる。衛の懐君三十一年(前252)、懐君が魏のために殺されると、元君は魏の公女をめとっていたため、衛の君として擁立された。元君十四年(前238)、秦が東郡を立てると、衛は濮陽から野王県にうつされた。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | |||
-230 | 衛の君角(?~前209) 在位前230~前209。衛の元君の子。衛の元君二十二年(前230)、元君が亡くなると、跡を継いだ。君角二十一年(前209)、秦の二世皇帝のために平民に落とされ、衛国はここに滅んだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- |