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-1600000伝説[前約160万年](-シナ大陸-シナ先史)-中国史人物事典-先史時代原中国人旧石器時代
-1600000先史[約160万年前]原中国人黄河文明長江文明(-シナ大陸-シナ先史)-中国史人物事典-
謀人(約160万年前)  1965年、雲南省謀県上那蚌で二本の歯の化石が見された。更世の猿人類とみられるが確実とはされていない。ほかに、1988年に四川省巫山県で見された巫山人が猿人類とみられている。
藍田原人(約70万年前)  1963年、陝西省藍田県家窩で下顎骨の化石が見された。翌年、藍田県公王嶺でほぼ完全な頭蓋骨の化石が見された。石器を使用していた痕跡が認められる。
北京原人(約60万~50万年前)  学名はシナントロプス・ペキネンシス。1921年にズダンスキーらによって北京市口店龍骨山で掘が開始され、1923年にその臼歯の化石が見された。1929年、裴文中によって完全な頭蓋骨の化石が見された。洪積世中期(旧石器時代前期)の原人(ホモ・エレクトス)類。洞穴に居住し、火や石器を使用していた痕跡が認められる。
-450000中国北部口店に人類が居住(-シナ大陸-シナ先史)--
北京原人中国の北京郊外、口店で掘された、代表的な原人の化石。現在の中国人の先祖であるかどうかは否定的に見られている。中国の北京の南西にある口店で見された、原人(ホモ=エレクトゥス)に属する化石人類。1927年から本格的な掘が行われ、約50万年前から30万年間ごろの原人化石とされた。なお、最近までシナントロープス=ペキネンシスという属名が使われたが、現在はジャワ原人などと同じ原人の一つの地域集団とされるようになったため、その言い方は行われなくなっている。
火の使用他の動物と人類とを区別し、文明を生み出した人類独自の能力。道具明に続く台にの技術革命とも言われる。火の使用を示す確実な証拠は160万年前にさかのぼるが、それ以降なにも見されていない。約100万年前になると、ようやく証拠が散的に見つかるようになる。前回紹介したイスラエルのゲシャー・ベノット・ヤーコブ遺跡もこの本で紹介されている*1。しかしその後、ふたたび炉の証拠がない時代が続く。50万年前から「証拠」が旧世界の三大陸すべてで広範囲から豊富に見つかるようになる。40万年前以降になると、どの時点でも「証拠」が見つかるようになる。
馬壩人(約10万年前)  1958年、広東省韶関市馬壩郷山洞で中年男性の頭蓋骨の化石が見された。旧石器時代中期の旧人類
丁村人(約10万年前)  1954年、山西省襄汾県丁村で十二、三歳の少年の歯と二歳くらいの幼児の右頂骨の化石が見された。鶴嘴形で尖状の石器に特色をもつ。旧石器時代中期の旧人類
オルドス人(数万年前)  1922年、テイヤールとリサンによって内蒙古自治区伊克昭盟烏審旗滴哨溝湾で見された。多数の打製石器がともに見されている。賈蘭坡により、ネアンデルタール人に類する旧石器時代後期の旧人類と認められた。
オルドス旧人 中華民国足した翌年、一九一三年、フランス人宣教師で自然科学者のエミール・リサンが中国にわたり、中国の北部一帯をしらべ、モンゴル高原のオルドスの南辺にまで足をのばした。慶陽(チンヤン)において、リサンは一九二〇年、いまは絶滅した動物の化石を、多量に見した。さらに、いくつかの人間がつくった石器と認められる石英のかけらを見つけた。一九二三年から二四年にかけては、古生物学のテヤール・ド・シャルダンの協力をえて、旧石器時代の住居址、打製石器を見した。旧石器時代人のものかと思われる犬歯を、ひろうことができただけで当時の人類の遺骨を見することはできなかった。ヨーロッパ旧石器の中期あたりのものと、似かよっていることから、オルドス人類は、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と、ほぼ同じ段階のものと推定された。
長陽人(数万年前)  1957年、湖北省長陽県家堰山洞で上顎骨と臼歯の化石が見された。犀などの動物化石も見されている。旧石器時代後期の旧人類
柳江人(数万年前)  1958年、広西壮族自治区柳江県通天岩洞穴で男性ひとりと女性ひとりの頭蓋骨と股の骨が見された。モンゴロイドに属すると見られている。旧石器時代後期の人類
麒麟山人(数万年前)  広西壮族自治区来賓県麒麟山で見された。旧石器時代後期の人類
資陽人(数万年前)  1951年、渝鉄道建設の鉄橋工事のさい、四川省資陽県で多くの動物化石とともにその頭蓋骨が見された。旧石器時代後期の人類
-16000このころ中国、口店に山頂洞人の存在(-シナ大陸-シナ先史)-北・東・東南アジア-
山頂洞人(数万年前)  1933年、裴文中によって北京市口店龍骨山の山頂洞で動物化石とともに七体の人体骨が見された。尖頭器・骨角器なども見つかった。随葬品の中に装飾をほどこしたものがあり、審美観念や宗教への信仰がすでに存在したと考えられている。旧石器時代後期の人類
約1万年前から米作りは始まった? 更される稲作の歴史2015.6.21 11:30週刊朝日#美し国、旨し米 詩人、エッセイストの佐々木桂さんが、日本津々浦々に残る田園風景と米を紹介する本誌連載「美し国、旨し米」。今回は近年たな見のあったお米の歴史について。 世界で最も古い稲作、すなわち稲作の起源は、「長江文明」があった中国・長江(揚子江)流域とされる。中国の古代文明といえば「黄河文明」を思い浮かべる読者諸氏もいるだろう。しかし、次ぐ見により、長江沿いにも文明が存在していたことがわかった。しかもそれが、黄河文明よりも古くからあったとも言われているのだ。 この長江文明が、お米と大きく関わってくる。黄河文明は畑作中心だったのに対し、長江文明は稲作中心だったとみられているという。さらに2005年には、長江下流にある石器時代の遺跡から、約1万年前の栽培稲の籾殻が見されたというニュースも伝えられた。研究によりまだまだ年代を遡る可能性もあるのだとか。お米の歴史は今後どこまで紐解かれるのだろうか。
裴李崗文化(前7000?~前5000?)  代表遺跡は河南省県裴李崗。円形・方形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業に生活基盤を置いていた。艶出しした紅褐色の陶器や磨製石器などを特色とする。
彭頭山文化(前7000?~前6000?)  1980年代に湖南省澧県彭頭山で見された。稲の散播農法に生活基盤を置いていた。
-6500稲作農耕、中国長江流域で稲作(旧石器時代→縄文時代-シナ大陸-シナ先史)--
-6500中国黄河流域で農耕(-シナ大陸-シナ先史)--
老官台文化(前6000?~前5000?)代表遺跡は陝西省華県老官台。暗紅色の夾砂陶を特色とする。円形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業に生活基盤を置いていた。
北辛文化(前6000?~前5000?)  代表遺跡は山東省滕県北辛。黄褐色の陶器を特色とする。紅鉢を死者の顔に被せるという特異な埋葬儀礼がみられる。後李文化を継承して展した。
磁山文化人(前6000?~前5000?)代表遺跡は河北省武安県磁山。円形・楕円形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業に生活基盤を置いていた。紅褐色の夾砂陶を特色とする。磁山遺跡では多くの粟貯蔵穴が見されている。
河姆渡文化(前6000?~前5000?)  1973年、浙江省余姚県河姆渡で見された。多量の稲籾の堆積があったことから、稲作を行っていたことで知られる。木造の高床式住居に暮らしていた。野生・家畜動物の骨や木器・骨角器が多く出土しており、半農半猟の生活をしていたとみられる。
後岡文化人(前5000?~前4000?)代表遺跡は河南省安陽市後岡。北辛文化を継承して展した。
馬家浜文化(前5000?~前3500?)代表遺跡は浙江省嘉興県馬家浜。河姆渡文化を継承して展した。紅陶や玉器が多く作られた。
-4800黄河流域で彩陶文化(黄河文明仰韶文化(ヤンシャオ)[前4800年ころ~前2300年ころ])(-シナ大陸-シナ先史)-ブリタニカ、世界四大文明-
-4800黄河文明の繁栄(-シナ大陸-シナ先史)--
-4800黄河文明黄河辺に黄河文明が興る。(-シナ大陸-シナ先史)--
-4800このころ黄河中流域に彩陶文化(仰韶文化)興る(-シナ大陸-シナ先史)-北・東・東南アジア-
仰韶文化(前4800?~前2500?)  1921年、アンダーソンらによって河南省澠池県仰韶村で見された彩陶(赤地に彩色した土器)を特色とする文化をもつ人々。老官台文化を継承して展した。前期(前4800年ころ)は紅陶が主流で、代表遺跡は陝西省西安市半坡、仰韶半坡類型文化と称される。母系制で、農村の階層化がみられる。前4000年ころにろくろの使用が見られる仰韶廟底溝類型文化が現れた。後期(前3500年以降)には、半坡後期類型・西王村類型・大司空類型・王塞類型の四種の文化に大別される。このころには貧富の差がみられ、社会の分業・階層化が進んだ。
大渓文化(前4400?~前3300?)  1958年、四川省巫山県大渓で見された。彭頭山文化を継承して展した。紅陶を特色とする。稲作の灌漑農法が確立し、大規模に展開した。
大汶口文化(前4300?~前2400?)  1959年、山東省寧陽県堡頭村で見された。のちに山東省泰安県大汶口でも見されて、代表遺跡となる。前期は紅陶が主流だったが、後期には黒陶・灰陶が主流となった。後期の卵殻黒陶の高柄杯は、精巧で美しく、山東龍山文化に受け継がれた。
-3350三皇五帝 伏犠(包犠)-女媧神農黄帝―帝顓頊-帝嚳-堯―舜(上古時代-シナ大陸-シナ先史)--
-3350上古時代 -三皇 伏羲氏 天皇 太昊[紀前3350年 - 紀前3040年](-シナ大陸-シナ先史)--
伏羲(?~?)姓は風。包犠。太コウ※1。人頭蛇身の神。雷沢に生まれ、東夷の首長となった。燧人氏に代わって王となり、に都を置き、在位百十一年で崩じた。八卦をまとめ、料理や婚姻制度などを人間に教えたという。三皇のひとり。太コウの神話と南方(古代苗族)起源の兄妹神説話が混淆して立したらしい。
燧人氏(?~?)燧皇。上古の世に人々は果実や鳥獣や魚介類などを生で食していたが、胃をこわし疾病が多かった。かれが火を起こして食物をあたためて臭いを避け毒を取り去ることを民に教えたので、推されて王となった。三皇のひとりと数えられることもある。
良渚文化(前3300?~前2200?)1936年、施昕更によって浙江省余杭市良渚鎮で見された。馬家浜文化や崧沢文化を継承して展した。高水準の玉器を特色とする。絹織や麻織、竹編物、ろくろによる黒陶・灰陶製造がおこなわれていた。このころには貧富の差が生まれ、社会の分業・階層化が進んでいたとみられる。前二十二世紀ごろ急激に衰退した。伝説蚩尤部族と擬する説もある。
-3040上古時代 -三皇 神農氏 地皇 炎帝(紀前3040年 - 紀前2510年)(上古時代-シナ大陸-シナ先史)--
神農(?~?)炎帝。姓は姜。列山氏。小典の子。母は女登。人身牛首の姿で生まれた。太陽神・農業神・医学(方)神であり、また降雨をつかさどった。薬草の毒を呑んで死んだ。三皇のひとり。西方(古代羌族)起源の神らしい。
屈家嶺文化(前3000?~前2600?)  1954年、湖北省京山県屈家嶺で見された。大渓文化を継承して展した。黒陶を特色とする。
石家河文化(前2800?~前1500?)  1990年、湖北省天門県石家河で見された。屈家嶺文化を継承して展した。このころ環濠農村から展して、版築による城壁をもった都市が立した。灰陶器を主流とした。銅器もみられる。河南龍山文化と関係が深かった。前二十一世紀以降、衰退の一途をたどった。伝説の三苗部族と擬する説もある。
三星堆文化人(前2800?~前850?)  仮面王国とも称される文化を築いた。1986年、四川省広三星堆見された。約二キロ四方の版築に囲まれた城壁都市を築いていた。器・青銅器・玉器・象牙・子安貝など遺物が多く、まさに三星堆文明人と呼ぶにふさわしい。「立人像」「神樹」「縦目仮面」など遺物の造形も特異なものが多い。ほかに四川省津県龍馬古城が代表遺跡としてある。史書によると古代の四川地方では蚕叢・柏灌・魚鳧・杜宇・鼈霊(開明)の王朝が交代していたという。
中国の伝承で崇拝される帝王、賢人、神のことで三皇伏羲神農、軒轅。五帝黄帝、高陽、高辛、堯、舜。伝説時代ということになっています。
古代さんこうごてい_x000B_三皇五帝中国古代、伝説上の帝王。三皇は、伏義(ふくぎ)、神農(しんのう)、女カ(じょか)。五帝は、黄帝(こうてい)、センギョク、帝コク、尭(ぎょう)、舜(しゅん)。
女媧(?~?)姓は風。女希、女皇。人頭蛇身の神。伏羲の妹にして妻でもある。大地に大洪水が起こり伏羲とともに生き残った。泥をこねて人間を造ったという。共工と祝融が帝王の座を争ったことがあったが、帝王となることができなかった共工が、怒り心頭にして天を支える柱の山(不山)を崩したため天変地異が起こった。女媧は五色の石をこねて天の亀裂を繕い、巨大な亀の足で天の四隅を支えたという。三皇のひとりと数えられることもある。伏羲とともに古代苗族の兄妹神説話・洪水説話から立したらしい。
祝融(?~?)祝庸、祝誦とも。帝として立ち、に住んだ。三皇のひとりと数えられることもある。また黄帝のときの六のうちで南方をつかさどる。ほか帝嚳嚳のときの火官を指し、重黎が祝融となったという。
帝嚳(?~?)高辛氏。蟜極の子。黄帝の曾孫にあたる。顓頊の跡をついで天子となった。明晰仁慈で、人民に恩徳を施し、天下は彼のもとに服した。音楽を愛したという。五帝のひとり。かれに才子八人があり、八と称された。伯奮・仲堪・叔献・季仲・伯虎・仲熊・叔豹・季貍である。
顓頊(?~?)高陽氏。昌意の子。母は昌僕。黄帝の孫にあたる。黄帝が没すると、帝位についた。鬼神をうやまい、万人を教化し、四方遠国にいたるまで彼の徳治に服したという。五帝のひとり。
-2550黄帝、顓頊、嚳、堯、舜と呼ばれる五帝が支配した伝説の時代(~前2140年)(上古時代-シナ大陸-シナ先史)--
-2510上古時代 -三皇 軒轅氏 泰皇 黄帝(紀前2510年 - 紀前2448年)(上古時代-シナ大陸-シナ先史)--
黄帝(?~?)姓は公孫、名は軒轅。有熊氏。帝鴻氏ともいう。小典の子。母は附宝。神農とは異父兄弟とも八世の孫ともいう。寿丘に生まれ、姫水に長した。有熊国君となる。ときに神農氏が衰え、諸侯が互いに攻め合ったので、軒轅は入朝しない諸侯を討伐した。そこで諸侯はみな軒轅を頼りにするようになった。炎帝の軍隊と阪泉の野で決戦して勝利した。また、蚩尤が反乱を起こして苦戦したが、西王母の使者九天玄女のさずけた霊符により、蚩尤を涿鹿の野に撃ち破り勝利をおさめた。神農に代わって天子となった。東は丸山・泰山から、西は空桐の雞頭山にのぼり、北は葷粥を逐い、南は熊山・湘山にいたった。風后・力牧(力墨)・常先・大鴻らを登用して天下を治めた。『史記』によると五帝の筆頭。三皇のひとりに挙げられることもある。二十五人の男子を得て、中華民族の祖とされた。また暦・衣服・家・舟・弓矢などを明したとされる。
風后(?~?)黄帝の師といい、また黄帝の三公ともいう。海隅で黄帝に仕え、に上った。六のうちで西方をつかさどる。著に『風后兵法』があったとされる。
蚩尤(?~?)蚩蚘、蚩郵とも。姓は姜。阪泉氏。炎帝の後裔で、諸侯の中でもっとも凶暴であった。黄帝と涿鹿で決戦して敗れて殺された。かれの遺体は二カ所に分けて葬られ、ひとつは山東省陽谷寿張にあって蚩尤冢といい、ひとつは山東省巨野にあって肩髀冢という。
力牧(?~?)力墨、力黒ともいう。大沢で黄帝に仕え、将軍となった。黄帝のもとでに上った。著に『力牧兵法』があったとされる。
龍山文化(前2500?~前2000?)  1930年から翌年にかけて、中国中央研究院歴史語言研究所により山東省章丘県龍山鎮で見された黒陶(黒色土器)や灰陶を特色とする文化をもつ人々。後期には銅器の鋳造もおこなっていた。中原龍山文化(陝西龍山文化西龍山文化・河南龍山文化)と山東龍山文化とに分かれる。中原龍山文化は仰韶後期文化を継承し、灰陶が主流で、縄文文様が多い。骨を灼いて罅割れを見る占卜もこのころにはじまった。山東龍山文化大汶口文化を継承して、黒陶が主流で、ろくろの使用が盛んだった。
-2448上古時代 -五帝 天氏 少昊 姫玄囂(紀前2448年 - 紀前2364年)(上古時代-シナ大陸-シナ先史)--
少昊(?~?)名は摯、字は青陽。天氏。黄帝の長男。曲阜に都を置いた。在位百年にして崩じた。五帝のひとりと数えられることもある。
-2364上古時代-五帝高陽氏帝顓頊姫顓頊(紀前2364年-紀前2286年)(上古時代-シナ大陸-シナ先史)--
-2364上古時代 -五帝 高陽氏 帝?? 姫??(紀前2364年 - 紀前2286年)(上古時代-シナ大陸-シナ先史)--
-2300黄河下流域で黒陶文化(黄河文明、竜山(ロンシャン)文化[前2300年ころ~前1500年])(上古時代-シナ大陸-シナ先史)-ブリタニカ-
-2286上古時代-五帝高辛氏帝嚳姫夋(紀前2286年-紀前2216年)(上古時代-シナ大陸-シナ先史)--
-2216上古時代 -五帝 青陽氏 帝摯 姫摯(紀前2216年 - 紀前2213年)(上古時代-シナ大陸-シナ先史)--
-2213上古時代 -五帝氏 帝堯 依祁放勛(紀前2213年 - 紀前2115年)(上古時代-シナ大陸-シナ先史)--
帝堯(?~?)
名は放勲。陶氏。帝嚳嚳の子。母は鋒氏。兄の帝摯の跡を継いで天子となった。後代に理想の治世とされた聖天子とされる。その生活は質素で、宮殿とは名ばかりの茅葺き小屋に住んだ。四岳を任じて補佐させ、羲氏と和氏に命じて暦を正させた。かれの統治のもと、九族は睦み合い、百官は公正となり、万邦は帰服し、不和争乱がなくなったという。晩年には舜を見出して摂政とした。五帝のひとり。その説話の多くは西方(古代羌族)起源と思われる。
-2112上古時代 -五帝 有虞氏 帝舜 姚重華(紀前2112年 - 紀前2073年)(上古時代-シナ大陸-シナ先史)--
帝舜(?~?)
姓は姚、名は重華。字は都君。有虞氏。冀州の人。瞽叟の子。母は握登。姚丘に生まれた。目の中にふたつの瞳をもったといわれる。生母を早く亡くし、継母や弟の悪行に悩まされた。歴山で耕作し、雷沢で漁した。四獄に見出されて推挙され、堯帝のふたりの娘(娥皇・女英)をめとった。親族にたびたび殺されかけたが、妻の機転で危急を救われた。のちに堯帝に仕えて摂政となった。天文を正し、祭祀を整え、諸侯を監察し、刑罰の規定を定めた。共工を北の幽陵に流し、讙兜を南の嵩山に追放した。叛乱を起こした三苗を西の三危に逐い、治水に失敗した鯀を東の羽山に追いやった。堯帝の死後、堯の子の丹朱に譲ったが、天下の人心はおのずから舜に帰し、ついに天子となった。天下を九州に分けて統治した。南方に巡狩して蒼梧に崩じた。五帝のひとり。舜帝の死後、ふたりの妻は湘水に身を投げたという。
-2000このころ黄河中・下流域、彩陶文化より黒陶文化(竜山文化)へ移行(-シナ大陸-シナ先史)-北・東・東南アジア-
-1300黄河文明の繁栄(-シナ大陸-シナ先史)--