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魯/年表

-770春秋戦国時代
春秋戦国時代[前770~前221]前770年、の東遷から、前221年、の統一までの約5世紀半の間をさす。前403年、を3分した時を境に、前半を春秋時代(「春秋」の名に由来)、後半を戦国時代(「戦国策」の名に由来)に分ける。 室の衰微により、群雄割拠の状態となり、対立抗争が激しく繰り返され、春秋末期にはその中で比較的勢力の強かったの14国が残った。 さらに各国内での権臣の内紛も多く、の3氏が分割し、王から諸侯と認められ、戦国時代に入った。 興のを奪った田氏との7国(戦国の七雄)が、それぞれ勢力を競ったが、西方のの力が増大するに及び、他の6国は内紛などで衰微し、の東進によって統一された。 氏族共同体は解体され、文法(刑法)が公布、官僚制立、封建制から郡県制への移行が行われた。鉄製農具の開により生産力が飛躍的に増大、属貨幣の流通が始まった。諸子百家(*1)が活躍、中国思想の源流を形作った。
-770''春秋時代[-770~-403]
・・桓公()・文公()・荘王()・穆公()・夫差()・勾践()()内は国名。''
-768の恵公(?~前723)
 姓は姫、名は弗湟。在位前768~前723。の孝公の子。晩年、軍を黄で破った。夫人の孟子が亡くなると、後妻の声子が息姑(のちの隠公)を産み、仲子が軌(のちの桓公)を産んだ。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-722の隠公(?~前712)
 姓は姫、名は息姑。在位前722~前712。の恵公の子。母は声子。恵公が亡くなると、太子軌(のちの桓公)が若年であったため、摂政にあたった。即位後、などの国と会して盟を結んだ。とともにを討ち、許を討ち、すべて勝利した。十一年(前712)冬、弟の桓公のために大夫羽父に殺された。『春秋』の記事は、隠公年(前722)より始まる。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-711の桓公(?~前694)
 姓は姫、名は軌。一説に名は允。在位前711~前694。の恵公の子。母は仲子。隠公の弟にあたる。隠公を殺して自立した。と修好し、許の田との祊の田を交換した。二年(前710)、戎と旧交を固め、で盟した。翌年、侯と嬴で会し、互いに通婚し、先君以来の好を交わした。六年(前706)、が杞を攻めようとしたので、杞侯がに救援を求め、杞侯とで会した。十一年(前701)から十二年にかけての間の不和を解こうとし、公としばしば会した。が和平を拒んだので、伯と結んで軍を率いてを討った。十三年(前699)、の軍を破った。十八年(前694)、の襄公と濼で会した。夫人の文姜とともに行ったが、文姜が襄公と姦通したので、これを責めたところ、の襄公は彭生に桓公を殺させた。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-694の襄公、の桓公を殺す(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-693の荘公(前706~前662)
 姓は姫、名は同。在位前693~前662。の桓公の子。九年(前685)、兵を率いての公子糾を送ってに入らせた。このとき公子小白(のちのの桓公)が先にに入って即位し、は乾時で戦って、軍は敗れた。に迫られて、公子糾を殺した。翌年、の桓公が兵を率いてを侵したが、長勺で戦って、軍を撃退した。十一年(前683)、を侵したが、軍を撃退した。十三年(前681)、と柯で会盟し、は好を結んだ。十六年(前678)、・許・滑・滕の国君と国の幽の地で会盟し、の桓公の覇業を承認した。二十六年(前668)、とともに徐を攻めた。翌年、の国君と幽で同盟した。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-681沫(?~?)
 の人。荘公の十年(前684)、に侵入したとき、の荘公に謁見を請い、登用された。維幕の謀を授けて、長勺で軍を破った。十三年(前681)、に敗れたため柯で盟を結ぼうとしたとき、沫はの桓公に匕首を突きつけて脅し、から奪った土地を全て返すよう約させた。桓公は怒って約束を破棄しようとしたが、管仲の進言に従い、から奪った土地を全て返したという。二十三年(前671)には、荘公がへ社祭の見物に行くのを諫めたが、容れられなかった。(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-681沫、の桓公を脅して失地を回復する(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-661の閔公(前669~前660)
 湣公とも。姓は姫、名は開。在位前661~前660。の荘公の子。荘公が亡くなると、子般が即位した。荘公の弟の慶父が子般を殺すと、開が立てられて国君となった。わずか二年で慶父に謀殺された。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-659の僖公(?~前627)
 姓は姫、名は申。在位前659~前627。の荘公の子。閔公の弟にあたる。荘公の弟の慶父が、前後して子般・閔公の両君を殺害した。申はの季友に迎えられて、邾からに帰国し、国君として即位した。慶父は莒国に逃亡していたが、に引き渡されることとなり、自殺した。季友をとした。四年(前656)、の桓公と会してを討ち、のちに召陵の盟に参加した。五年(前655)、・許・とともに王室を尊重することを誓い、首止で太子と会見して、室の後継の地位を固めさせた。六年(前654)、首止の盟に加わらなかったの文公を責め、らとともにを討った。二十年(前640)、城の稷門をさらに大きいものに建てかえさせ、南門と改名した。二十一年(前639)、国内は干魃となり、雨を祈らせた巫子を焼き殺そうとしたが、臧文仲に諫められてやめた。二十二年(前638)、邾を破り、須句を取った。まもなく邾が兵を出してを攻めたが、邾を小国とあなどっていたため、特段の備えをせず、邾の軍に大敗した。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-626の文公(?~前609)
 姓は姫、名は興。在位前626~前609。の僖公の子。公子遂(襄仲)を卿に任じて執政させた。についてと敵対し、三たび君に朝見した。哀姜が産んだ公子悪・公子視と、敬嬴が産んだ公子俀が反目して争った。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-608の宣公(?~前591)
 姓は姫、名は俀。とも書く。在位前608~前591。の文公の庶子。公子遂が公子悪・公子視を殺して、かれを擁立した。ときにの公室は弱く、三桓が強盛をほこった。在位初期は公子遂が執政にあたり、のちに季孫行父が政権を握った。年(前608)、済西の田をに贈った。その後は長らくにつき従った。十年(前599)、が済西の田を返還してきた。十五年(前594)、田税の改革をおこない、公田も私田も一律に徴税するように定めた。晩年、公孫帰父をに使いさせ、の力を借りて三桓を除こうと謀ったが、らぬまま没した。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-590公(?~前573)
 姓は姫、名は黒肱。在位前590~前573。の宣公の子。季孫行父を卿に任じて執政させ、についてと敵対した。年(前590)、丘甲の制度を作り、軍賦を改革した。翌年、軍に従って鞍で軍を大いに破り、汶陽の田の返還をに迫った。八年(前583)、が汶陽の田をに返すよう通告した。十三年(前578)、京師で王に朝見したが、賞賜を加えられなかった。十八年(前573)、の厲公が亡くなったため、に向かう途中に薨じた。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-589を率いて、を鞍に破る(春秋五大戦の四)(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-572の襄公(前575~前542)
 姓は姫、名は午。在位前572~前542。公の子。即位したとき、わずか三歳で、季孫行父・仲孫蔑・叔孫豹・季孫夙が次いで執政をつとめた。十一年(前562)、季武子が三軍を作り、三桓がおのおの一軍をつかさどったため、ますます公室は弱体化した。二十八年(前545)、におもむいた。翌年、の方城まで帰ったとき、季武子が卞邑を占拠したことを知り、の兵を借りて季氏を討とうとしたが、大夫栄伯に卞邑を季氏に与えるよう勧められて、やむなくそれを容れた。にあったときに、の宮廷の規模にあこがれ、帰国後にをまねた宮殿を建てた。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-551孔子(孔丘)、に生まれる(公羊伝・穀伝では前552年)(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-551孔子(前551/前552~前479)
 本名は孔丘。字は仲尼。の昌平郷陬邑の人。父母は不詳。『史記』によると、父は叔紇、母は顔氏。に仕え、委吏・司職吏を歴任した。南宮敬叔の推薦での都に赴き、礼について学んだ。このとき老子と対談したともいう。の昭公の二十五年(前517)、三桓氏が乱を起こし、の昭公はに亡命した。孔子もまたに移り、高昭子の家臣となって、の景公に近づいた。景公にたびたび進言したが、の大夫に孔子暗殺の動きが出たため、を去り帰国した。は定公の時代となり、季桓子の臣・陽虎が政権を握ったが、孔子は陽虎をきらって仕官せず、学問に専念した。陽虎が失脚して亡命すると、中都の宰に任命され、司寇に上った。定公の十年(前500)、と和睦し夾谷に会見をおこなうこととなったが、孔子は毅然と対応して対等の盟約を結ばせ、異民族の音楽を鳴らしたの景公を叱責して面目を失わしめたという。が富強となるのをおそれたによって、の定公のもとに美姫や駿馬が贈られた。定公は政務への意欲を失い、郊の日に祭肉が配られないのを見て、孔子は弟子たちとともにを去った。の霊公に登用されたが、身の危険を感じて去った。匤の町では、孔子が陽虎と似ていたという理由で兵の包囲を受けた。に行き、の桓魋に危害を加えられた。では弟子たちとはぐれたが再会し、に三年間寄寓した。さらに南行してを志したが、の葉公に失望して、への帰途についた。を経て帰国した。その後、仕官することなく、弟子たちに教育した。七十三歳で没した。儒家の祖とされる。(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-550 「諸子百家」諸子百家の思想家が出る。  諸子=孔子、老子荘子、墨子、孟子、荀子などの人物を指す。  百家=儒家、道家、墨家、名家、法家などの学派を指す。(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-542このころ子路(仲由)生まれる(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-542仲由(前543?~前480)
 字は子路。の卞の人。野鄙で武勇を好んだ。孔子と出会って無礼を働いたが、孔子は子路に礼を諭した。孔子の弟子となって学んだ。の蒲の大夫となり、孔子に別れを告げた。において孔悝の乱が起こると「君子は死んでも冠は脱がぬ」と言い残して斬り殺された。(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-541の昭公(前560~前510)
 姓は姫、名は裯。稠、袑とも書く。在位前541~前510。の襄公の庶子。ときにの公室は弱体化し、政権は季氏の手にあった。五年(前537)、季孫夙が公室を四分し、さらに公室を弱らせた。二十五年(前517)、起兵して季氏を討ったが、季氏ら三桓に敗れてに逃れた。翌年春、を攻めると、昭公は軍に従って鄆にいたった。の景公が昭公をに帰そうとしたが、季氏がの寵臣丘拠に賄賂を贈ったため、帰還はらなかった。二十七年(前515)、・滕などの国が扈に会して昭公をに帰そうと謀ったが、の范献子が季氏の賄賂を受けて反対した。翌年、昭公はの援助を求め、乾侯にあったが、の六卿はことごとく季氏の賄賂を受け取っており、に帰ることができなかった。三十一年(前511)、は季平子を召し、昭公をに帰国させようとしたが、六卿が阻んだため実現しなかった。流亡八年、乾侯で没した。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-537の三桓氏、国軍を三分して私軍とす(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-521このころ顔回(顔淵)生まれる(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-521顔回(前522?~前482)
 字は子淵。の人。孔子がもっとも期待をかけた弟子。夭逝した。「顔回という者有り。学を好み、怒りを遷さず、過ちを弐びせず。不幸にして短命にして死せり。今や則ち亡し」(『論語』雍也篇)。(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-517の昭公、三桓氏に攻められ、に亡命孔子、に往く(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-509の定公(?~前495)
 姓は姫、名は。在位前509~前495。の襄公の子。昭公の弟にあたる。季孫意如と季孫斯を前後して卿に任じた。その間、季氏の家臣陽虎がの国政を専断した。六年(前504)、兵を率いてを討った。十年(前500)、孔丘(孔子)を司寇とし、孔丘とともにの景公と夾谷に会した。は汶陽の田をに返還すること、軍が国境を出たとき戦車三百乗をもって従軍することをそれぞれ約した。同年のうちには鄆・讙・亀陰の田を返還してきた。十二年(前488)、仲由を季氏の宰とした。季氏の費邑・叔氏の郋邑・孟氏の邑を毀ち、三桓の勢力を削ごうとはかった。孟氏が反抗し、定公は兵をして攻めたが勝てなかった。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-505、季桓氏の家臣陽虎の専制始まるこのころ、陽虎、孔子を招聘(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-505このころ曾子(曾参)生まれる(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-505陽虎(?~?)
 またの名を陽貨。季桓子に仕えて台頭し、主人をしのぐ権勢をふるった。の定公五年(前505)には、季桓子を拘禁して盟を交わし、の政権を握った。八年(前502)、三桓氏の当主を殺して、三桓を自派で固めようと計画した。手始めに季桓子を殺そうとしたが、季桓子が孟懿子の邸に逃げ込み、防備を固めた孟家軍により陽虎の軍は撃退されたため、の宝玉と大弓を奪って逃げ、陽関の城に籠もった。翌年、敗れてに逃げた。に拘束されたため、に逃げ、さらにに逃げて氏に仕えた。(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-505曾参(前505~前433)
 曾子と称される。字は子輿。南武城の人。孔子の弟子。孔子に鈍と評された。よく父母に仕え、孝を道徳の基本とした曾子学派を形した。(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-500と夾谷に会盟し、孔子随行す(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-500春秋」儒教では、孔子の手が加わった、もしくは孔子が作ったとされる。国の次によって記録された、中国春秋時代に関する編体の歴史書。-722ー-481までの歴史書。(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-498孔子、を去る(14年後、帰国)(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-494の哀公(?~前468)
 姓は姫、名は将。蒋とも書く。在位前494~前468。の定公の子。季孫斯と季孫肥を前後して卿に任じ、政務にあたらせた。十一年(前484)、に従って兵を率いてを攻め、艾陵で軍を破った。翌年、田土に対する課税をおこなった。十四年(前481)、西のかた大野沢で狩して麟を獲たという。『春秋』の記事はこの年で終わっている。二十四年(前471)ににいたり、翌年に帰国した。二十七年(前468)、の力を借りて三桓を討とうと謀ったが、かえって三桓の起兵により出奔の憂き目にあい、に逃れ、のちに邾・にうつった。迎えられて帰国したが、まもなく没した。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-489このころ顔回没(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-484孔子、諸国遊歴の末、に帰国(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-483このころ子思(孔伋)生まれる(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-483孔伋(前492~前431)
 字は子思。の人。孔鯉(伯魚)の子。孔子の孫にあたる。晩年、の穆公の師をつとめた。『中庸』を編纂した。(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-481、麒麟を捕獲孔子『春秋』を整理春秋時代終わる(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-480の蒯聵、出公を追放し、即位(荘公)孔子の弟子子路、敗死す(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-479孔子死す享年73(春秋戦国時代-シナ大陸-)--
-475戦国(战国)時代[前475~前221]
-466の悼公(?~前430)
 姓は姫、名は寧。在位前466~前430。の哀公の子。ときに三桓が権勢をほこり、公は小侯のようであったという。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-430公(?~前410)
 姓は姫、名は嘉。在位前430~前410。の悼公の子。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-409の穆公(?~前377)
 姓は姫、名は顕。在位前409~前377。公の子。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-376の共公(?~前355)
 姓は姫、名は奮。在位前376~前355。の穆公の子。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-354の康公(?~前346)
 姓は姫、名は屯。在位前354~前346。の共公の子。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-345の景公(?~前317)
 姓は姫、名は匽。在位前345~前317。の康公の子。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-316の平公(?~前297)
 姓は姫、名は叔。一名に旅ともいう。在位前316~前297。の景公の子。ときにの七国はみなすでに王を称していた。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-296の文公(?~前274)
 湣公とも。姓は姫、名は賈。在位前296~前274。の平公の子。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-273の頃公(?~?)
 姓は姫、名は讎。在位前273~前256。の文公の子。十三年(前261)、に攻められ、徐州を失陥した。十七年(前256)、の考烈王によりは滅ぼされ、かれは卞邑にうつされた。のちに柯で没した。(春秋戦国時代-シナ大陸-)-中国史人物事典-