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【世界史】第4回 古代オリエント史② 〜エジプト

【世界史】第4回 古代オリエント史② 〜エジプト

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   世界史
   先史・古代

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1.エジプトの統一国家
 エジプトは、メソポタミアとともに世界でも最もはやくに文明が起こった地域です。文字の発明ではメソポタミアの方が早かったのですが、統一国家の出現はどうやらエジプトの方が早かったようです。当時のエジプトの主要な作物は小麦でした。小麦が生育するには300mmの雨が冬にまとまって降ることが必要です。当時のエジプトは十分な降水量がある土地だったとは言えません(今よりは多少湿潤な気候だったとしても)。しかし、その小麦の栽培を可能にしたのはナイル川の定期的な増水でした。ナイル川の穏やかで規則的な氾濫が大きな恵みをもたらしてくれたのです。これに関しては、紀元前5世紀にギリシアの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルのたまもの」と評した言葉が有名です。ナイル川は夏に増水して豊かな養分を含んだ土を運び、冬の前に水がひいていきます。これにより、小麦などの農作物の栽培が可能になったことをヘロドトスは 知っていたのです。ナイル川の増水を利用した農業を行うためには治水作業のために多くの住民の共同労働とそれを統率する協力な指導者が必要となります。次第に人々は集落をつくり、ノモスと呼ばれる小さな都市国家を形成していきました。

 では、具体的にどのように古代エジプトの王朝が成立していったのかを見ていきましょう。 ノモスはやがて上エジプト、下エジプトの2つにまとまり、紀元前3000年頃に王(ファラオ)による統一国家が形成されました。以後は一時的に外部からの侵入を受ける等の混乱が起きますが、基本的には国内の統一、安定が長く続いた単調な歴史だと言っていいでしょう。前回、学んだメソポタミアとはここが大きく違う点です。外敵が侵入しやすく多くの国が興亡したメソポタミア歴史に比べて、エジプトは安定的な時代が長く続いています。その中身としては約30の王朝が交替していきましたが、この時代を古王国・中王国・新王国と区分して説明していきたいと思います。

 まず、古王朝の時代(第3〜6王朝、紀元前27〜紀元前22世紀)についてですが、この時代にいわゆる神権政治がエジプトに定着したと言われます。ファラオが「神の化身」として支配するという政治形態です。首都はメンフィスで、この時代に造られた建築物として最も有名なのがギザのクフ王のピラミッドです。ピラミッドは、王(ファラオ)の埋葬と祭儀を目的とした葬祭記念建造物であり、王の絶対的権力の象徴という見方が一般的です。では、ピラミッドは王の権力のもとに多数の奴隷によって造られたものなのでしょうか。例えば、クフ王のピラミッドは一辺が230m、高さが146m(完成時)の巨大な建造物です。このようなものをつくるために大勢の人を強制的に働かさせるだけの権力がファラオにあったのでしょうかね最近の研究によれば、民衆による自主的労働(王の支給する食糧を目的に集まった?)による社会事業的な側面が強いとされています。また、先に話したように、ピラミッド=「王の墓」というのも一般的な通説でしたがこれについても異論があります。

 さて、話を戻しましょう。中王国の時代に進みます(第11・12王朝、前21〜18世紀)。この時代の中心都市はテーベです。官僚制度が整い、国家体制も強固になりましたが、シリアから遊牧民ヒクソスの侵入によって衰退し、国内は一時的に混乱しました。

 そして、新王国の時代です(第18〜20王朝、前1567年〜前1085年)。 ヒクソスを追放し独立を回復した新王朝は、シリア・パレスチナ方面にも進出しました。都は(主として)テーベに置かれました。最盛期は前15世紀前半のトトメス3世の時代です。トトメス3世はシリア方面に大規模な遠征を行い戦果を得たことから「エジプトのナポレオン」という評価を得ています(時系列が逆ですけどね…)。そして、アメンホテプ4世という王の時代に大きな動きがあります。アメンホテプ4世は古代エジプト史上類を見ない大改革を断行しました。まずは遷都です。今までのテーベから新たに造営したテル=エル=アマルナへと都を遷しました。きっかけはテーベの守護神であるアモンを祀る神官たちが強い勢力となっていて(古王国時代の主神ラーがアモン神と結びついて、アモン=ラーという新たな信仰対象がつくられていました)、このままでは自分の治世の邪魔だとアメンホテプ4世が感じたことにあるようです(テーベ偏重の信仰は周りのノモスからも不評でした)。都を遷し旧勢力を政治から遠ざけたのです(このやり方は日本桓武天皇の遷都を思い出しませんか?)。そして、さらには今までのエジプトは多神教でしたが、それを一神教へと信仰を変えるように国全体にアメンホテプ4世は求めたのです。国民に唯一神アトンへの信仰を強制し、アメンホテプ4世も自らイクナートン(アトンの神に生きるもの)と改名しました。ただ旧勢力の神官たちと王の対立は激しく、彼の死後すぐにアモン信仰が復活し、新都はすぐに捨てられテーベに都は戻されてしまいます。しかし、この改革は美術に大きな影響を与えました。アマルナ美術と呼ばれる写実的な芸術が花開きました。これまでのエジプトの美術では絵で人を書く際に平面的に書かれて(顔は横向きながら、肩は正面を向いている人の絵など)とても不自然でしたが、アマルナ美術では私たちの目に映っているような人間が描かれるようになりました。

 ちなみにアメンホテプ4世の後を継いだのは誰なのか知っていますか?ツタンカーメンという人物です。ほとんどの人が1度はその名をどこかで耳にしたことがあるんじゃないかと思います。ツタンカーメンは10代前半で王位に就き、その後10年足らずで亡くなってしまいます。若くして亡くなった王様(当時の王が早くに亡くなるのは珍しくなかったようですが)で大きな業績を残したわけでもないのに、何故耳にしたことがあるのでしょうか。そうですね、ツタンカーメンといえば「黄金のマスク」が有名です。

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 ツタンカーメンの墓から発掘されたこのマスクは、厚く覆われた棺の中のミイラから発見されました。発見された当時、テーベとは対岸に位置していた「王家の谷」にはまだ盗賊が入っておらず、驚くほどの財宝などが眠っていたと言います。

 ちなみにツタンカーメンは彼のミイラが見つかった際にその様子から撲殺説を提示する人がいました。若き王の非業の死などいかにも人々が好みそうな話ですが、最近になって撲殺されたという説は否定されてしまいました。

 その後、新王国はラメス2世という強力な王が現れ、ヒッタイトと闘いました(カデシュの戦い)。この戦いの後、前1269年にエジプトとヒッタイトの間で世界最古の条約が結ばれました。

2.古代エジプトの文化
 今までの話で触れましたが、古代のエジプトは多神教の国でした。太陽神ラーを中心にし、新王国時代には都の守護神と結びついてアモン=ラー信仰が生まれました。

 また、古代のエジプト人は魂の永遠不滅を信じていました。肉体的なものと精神的・魂的要素は同時につくられていて、その両者を保存していれば、来世でも現世同様の生活ができるというものです。ミイラは身分の高い人々が再生するとき(魂が体に戻ってくるとき)に肉体がないと「戻って来れない!」と魂が困らないようにつくらせたものです。内蔵を抜き取って瓶に保存し、空っぽの体のなかには草などを入れたりしてたようですね。雑につくったミイラは、しばらく経つとその草が飛び出してきたりしてたようですが・・・。また、来世を信じたエジプトの人々は「死者の書」をつくりました。来世での幸せを祈ってミイラとともに埋葬したのです。中には冥界の王オシリスが死者を裁いている姿が描かれています。その裁きに備えて、生きている際の行いの言い訳というか弁明が書いてあるのです。

 さて、書くといえば「文字」ですが、エジプトの人々は象形文字を使用していました。正式な文書で用いられる神聖文字(ヒエログリフ)や簡略化された民用文字( デモティック)、神官文字(ヒエラティック)といった種類があります。余談にはなりますが、この文字を解読したのはナポレオンのエジプト遠征がきっかけだったことを知っていますか?1799年に遠征途中のフランス軍がたまたま文字の書かれた石を発見します。ロゼッタという町で発見されたのでロゼッタ=ストーンと言いますが、これを1822年にシャンポリオンという人物が解読に成功したのです。神聖文字、民用文字、ギリシア文字の3つで同じ内容が書かれていたことに気づき、ギリシア文字から推測して神聖文字などを見事に解き明かしたのでした。

 これらの文字は当時はパピルス(paperの語源)という草を原料にした紙のようなものに記録されていました。他にエジプトでは測地術(農業をするうえで必要な技術ですね)が発達し、太陽暦・十進法などが生み出されました(太陽暦は後のローマでユリウス暦のもととなります)。