歴史・人名

もう一つの日本文化(日本の少数民族・ウィルタ)

もう一つの日本文化(日本の少数民族・ウィルタ)  文化・芸術
 世界自然遺産に登録されている「知床」は、北側が斜里町、南側が羅臼町で構成されている。知床五湖などへ行く北側の入り口にある町が斜里町ウトロである。

 そのウトロで知床観光船の乗り場へ行くにはトンネルを通らなければならない。
 そのトンネルがある山は「オロンコ岩(オロッコ岩)」と呼ばれており、昔は島だった。
クリックすると元のサイズで表示します

 その「オロッコ岩」には、次のような伝説が残っている。

『この島には、オロッコ族(ウィルタ)が住んでいました。
 アイヌの舟がこの島の付近を通ると、オロッコ族は島の上から石や丸太を投げつけ、船を壊し物を奪う悪い種族でした。
 これにアイヌは激怒し、何度も攻めましたが、この島は断崖絶壁の島で、その上から岩を投げ落してくるので、攻め込む術が無くいつもアイヌは敗退していました。 
 ある日、アイヌの酋長が人を集め、夜、こっそり海岸に打ち寄せている海草を集めました。その海草でクジラの人形を作り、その人形に川から獲ってきた魚をくくり付け海に浮かべました。夜が明け、鳥たちがクジラの人形に付いている魚を食ペに集り、大騒さをしながら飛びかいました。
 その光景を島の上から見ていたオロッコ族は、まんまと騙され「それ、寄り鯨だ!!弱っているぞ!!」とロ々に喚声をあげ、島を降り船場へと走って行きました。そのときです。岩かげに身を伏せていたアイヌ達は、今がチャンスとオロッコ族を取り囲みあっと言う間に全威させてしまいました。』

 この岩にオロッコ族が住んでいたかどうかについての証拠はないが、この地域(斜里町)に北方系の異民族が住んでいたことは、遺跡等から事実である。

 斜里町のHPでは、次のように紹介されている。
『奈良朝から平安朝の頃、大陸方面からオホーツク海沿岸を南下してきた海洋民族がおりました。この民族の文化は従来の北海道には見られなかった系統のものでオホーツク文化と称せられています。宗谷に上陸した彼らはオホーツク海沿岸を東進し、北千島に至る過程で斜里町にも多くの遺跡を残しています。』

 道内の博物館にあった北海道の歴史年表を紹介する。
クリックすると元のサイズで表示します

 オホーツク文化は、「ウィキペディア」では、次のように紹介されている。
『オホーツク文化は、5世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北半、樺太、南千島の沿海部に栄えた文化である。海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていた。オホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。同時期の北海道にあった続縄文文化擦文文化とは異質の文化である。』

 今の民族でいうと「ニブフ(ギリヤーク)」が有力であるとされているが、はっきりしていない。複数の民族という考えもある。
 アイヌの伝説を信じるなら、その一部は「ウィルタ(オロッコ)」かもしれない。

 と、ここまでは伝説や可能性について書いてきたが、現在、日本に「ウィルタ」はいるか?というと、「いると思われる。」と不明確に書かざるをえない状況である。

 ウィルタは、「ウィキペディア」では、次のように紹介されている。
『ウィルタ (UILTA, Orok) 民族は、樺太(中部以北)の先住民族で、ツングース系である。本来の言語はツングース諸語の系統であるウィルタ語である。樺太では中部・北部に暮らし、シベリアのツングース系諸族と交流をもったほか、樺太中部のニヴフ、南部のアイヌとも交易をしていたらしい。
 ウィルタの特徴的な生業は元来、トナカイ牧畜や狩猟、漁労であった。
伝統的住居はエヴェンキやオロチョンなど他のツングースと同様、比較的細い木の幹の柱を何本も組んで、外部を毛皮で覆った円錐形の天幕式住居であった。
 アイヌからはオロッコ (Orokko) と呼ばれていた。
 第二次世界大戦後、スターリン政権下のソ連から敵国であった日本に協力した民族とされ、追放(強制送還)によって多くのウイルタが北海道移住(主に網走市)を余儀なくされたという。1975年にはウィルタ民族の人権や戦後補償の問題を解決する趣旨によりオロッコの人権と文化を守る会が設立、翌年12月にウィルタ協会が設立された。』

「トナカイ」はアイヌ語、ウィルタ語では「ウラァ」。

 「ウィルタ」は、「ウラァと一緒に生活する人」の意味。

ウィルタの多くはロシアに住んでいる。2002年のロシアの国勢調査では346人。

ウィルタの伝統的な生活は、円錐状の天幕の中で暮らし、その細い丸太の骨組は魚の皮でできた布に覆われている。タイガー[密林]には食料品を保存するためにニヴフ風の納屋があり、それは杭の上に建てられている。居住地を変える時、天幕の骨組はそのまま残され、そこから布の覆いだけが取り払われる。

 ウィルタの冬着はトナカイの皮で作られ、さらに雪を防ぐために、男は上着の上にアザラシの皮でできた筒状の短い上っ張りを着る。

 事実として、網走市には「ウィルタ協会」がある。
 http://www.d2.dion.ne.jp/~bunkt/

 HPの一部を紹介する。
『ウィルタとは、サハリンに暮らす先住民族の民族名で、かつて日本人はオロッコと呼んでいたこともありました。この「オロッコ」という民族呼称は蔑称です。
 わたしたちは、いま、戦前日本領であったサハリン(樺太)に古くから暮らしてきたウィルタやニブフ(かつてギリヤークと呼ばれた)、アイヌなど北方先住少数民族の人権と文化を守る運動を展開しています。
 この活動のはじまりは1975年。戦後、サハリンから日本に移住を余儀なくされたウィルタなどの復権運動を支援することが活動の原点となりました。』

 ここに書かれている「戦後、サハリンから日本に移住を余儀なくされた」ということを少し詳しく書く。
 根拠資料は、後述する「ウィルタ資料館、ジャッカ・ドフニ」で購入した書籍「生徒とともに考える先住・少数民族-その現状と指導の手引き-北海道高等学校教職員組合編」、その他である。
クリックすると元のサイズで表示します

 前述のとおり、ウィルタは樺太の先住民族であり、トナカイの飼育のため樺太中部を中心に半遊牧生活を行い、特定の滞在地というものをもたない。
 1905年、日露戦争の結果、サハリンの南半分が日本領となったが、このことにより、ウィルタの生活活動(トナカイ牧畜による移動)は、日本、ロシア(後にソ連)の国境線をまたいで行われることとなった。

 トナカイとともに各地に移住し、他民族の居住地に一定期間生活するウィルタは、地形、気象に対する勘と他民族族との会話能力は抜群である。
 このことから、1942年(昭和17年)、13歳以上の少年が陸軍特務機関から「召集令状」を受け、北樺太におけるスパイ活動(対ソ情報収集、謀略戦)に使用された。

ウィルタのほかニブフ(ギリヤーク)も同様に召集された。

 1945年(昭和20年)、日本が戦争に負けると、彼らは置き去りにされた。
 そして、ソ連軍に捕獲され、スパイ罪によりシベリヤに抑留される。

 前述の「ウイルタ協会」を設立したウィルタ「ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ氏(日本名・北川 源太郎)」は、シベリヤに10年近く抑留後、1955年(昭和30年)に網走市に来た(ソ連から追放されてきた)。

 こうして、生まれ育った故郷である樺太に住めなくなったウィルタ、ニブフが数十名、日本に来たのであるが、彼らに対し、日本政府はどのような対応をしたか?

 1942年、陸軍特務機関から「召集令状」を受け、北樺太におけるスパイ活動(対ソ情報収集、謀略戦)を行ったため、ソ連軍に捕獲され、スパイ罪によりシベリヤに抑留、その後ソ連追放となった。
 この事実に対し、ゲンダーヌ氏は軍人恩給支給を日本政府に申請するが、却下される。

 却下理由は、①1942年当時、ウィルタは日本国籍を有していない(そういう制度だった)、②日本国籍を有していない者に対する召集令状は無効である、③したがって、北川源太郎等は軍人ではない、④軍人ではない以上、軍人恩給は支給できない。

 ゲンダーヌ氏は、自分たちの置かれてきた立場を日本政府に訴える一方、「ウィルタ協会」設立、「ウィルタ文化振興のための資料館」設立の運動を始めた。
 ウィルタ協会は1976年に設立され、資料館は1978年、「ジャッカ・ドフニ」(ウイルタ語で[大切なものを収める物])として建設された。

 市内の網走川河畔に平屋の丸太小屋及びウイルタのアウンダウ(冬の家)の丸太組みテントが立っている。冬季を除いて開館している。
 館内には、ウィルタの宗教用具・生活用具・衣装・木彫・刺繍・楽器・写真・録音など、600点をこえる資料を収蔵・展示している。
クリックすると元のサイズで表示します

 1984年、ゲンダーヌ氏は急逝する。
 日本政府からの補償を受けることはできないままであった。

 ゲンダーヌ氏が1955年網走に来て1984年に逝去するまでの29年間、どのような思いをしていたのだろう。つらいことが多かったと思う。

 ゲンダーヌ氏が日本政府に対し、軍人恩給など補償を求める活動を始めた頃、同じように日本に引き上げてきたウィルタ仲間から絶縁されることが起きたという。

 ある婦人からの手紙を引用する。
『源太郎さま このお便りさしあげるのに、ずいぶん迷いました。でも思いきってペンをとりました。貴方さまのことは新聞やテレビで見ています。軍人恩給やオロッコ文化のことで苦ろうされていてあたまがさがります。お手伝いしたいが出きません。
私には子どもが二人います。上は来春高校を出るむすこと、高1のむすめです。子どもは、私を日本人と信じています。貴方さまの顔が出ている新聞を子どもが見ていると、心臓がとまりそうになります。いままでのこうさい、本当に感しゃします。だけど文通していて、もし子どもに私のことがバレたらそれがおそろしいのです。私はずっとオロッコをかくします。土人であることをかくしたいのです。
貴方さまには悪いけど、年がじょうもいりません。返事もいりません。私をたすけると思って、これきりにしてください。どうかおねがいです。かげで貴方さまのことをいのっています。おゆるしください。』

 軍人恩給や補償を認めなかったのは日本政府の責任であるが、ウィルタがウィルタであることを隠さないと生きづらいという世の中があるとすれば、それは政府の責任というよりは世の中全般というか、我々一般人が要因だと思う。

 誰がどうということでなく世の中全般として、ウィルタに対しては、知らなければ「無関心」、知っていれば「偏見」という事実がある。

 一方、商業ベースでは利用するという事実があり、ウィルタにとっては、二重の苦しみや怒りになっているのではないかと思う。
 商業ベースでの展開には、次のようなものがあるが、ウィルタ、ニブフは関与していないと思う。

 ①オロチョンの火祭り:本年は10月1日に実施された。(毎年実施)
 終戦後まもない昭和25年に生まれた網走市の観光行事。
 神と通じ合うことのできる特能者(シャーマン)が登場し、伝統に沿って厳粛に繰り広げられる。シャーマンはかがり火をたきながら先住の北方民族の魂を慰め豊穣を願い、人々は民族衣装で踊るもの。
クリックすると元のサイズで表示します

網走市観光協会によれば、「オロチョン」というのはバイカル湖畔を生活舞台とする一民族の名称だが、一般的にアジア地域の北方系民族を総称することばとして使われたことがあるため使用しているということだが、「昔使われたことがある」ということは、現在使っていいということの根拠にはならない。

オロチョン族は、中国の黒竜江、内蒙古地域に住む人口7000人ほどの少数民族。

 彼らがこの祭り(イベント)を知ったら抗議するだろう。

 ②流氷パタラ
 観光PRなどをつとめる「ミス観光」を網走では、「流氷パタラ」と名づけている。「パタラ」はウィルタ語で[娘]の意味。現在の流氷パタラは32代目。
クリックすると元のサイズで表示します

 ③サハリンイルガ
 本年7月、網走市観光協会は、ウィルタの伝統紋様「イルガ」をモチーフにしたオリジナルの木芸品「サハリンイルガ」の販売を開始した。
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~abashiri/event/iruga.html

 ④北天の丘 あばしり湖鶴雅リゾート
 http://www.hokutennooka.com/
 6月5日のブログで、地元のアイヌ文化を取り入れた阿寒湖畔のホテル「鶴雅・レラの館」の紹介をしたが、同じ経営者が、本年6月、網走湖畔にオープンさせた。

 HPの一部を紹介する。
 ~北天の古民族の浪漫に思いを馳せて~
 オホーツク民族は、遠い昔に北の海原から現れ、北の大地に暮らし、そして忽然と姿を消していきました。司馬 遼太郎の語る、まさに『北天の古民族』です。
 網走の広大な丘に立つ『北天の丘 あばしり湖鶴雅リゾート』は、そんな北天の古民族の浪漫に思いを馳せ、時を愉しむ新しいスタイルのリゾート。
 『北方民族+オホーツク文化』をデザインコンセプトに、この地ならではのくつろぎをカタチにしました。
クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

 私もオープン早々行ってきた。
 内容的には、「鶴雅・レラの館」同様、雰囲気は悪くない。
 ホテルの従業員の制服は、ウィルタ、ニブフなど北方民族の服をアレンジしたようなもので雰囲気を出している。北方民族に対する敬意もある程度は感じる。

 だが、結論だけでいえば、ウィルタもニブフも関わっていないのだ。(と思う。)
 生きた北方民族文化を感じることはできない。

 こうして他人を批判めいたことを書いている私も、資料館「ジャッカ・ドフニ」に行ったのは、本年6月である。ウィルタに無関心な日本人の1人だ。

 私自身、ウィルタやニブフと話をしたことは一度もない。
 網走にある道立北方民族博物館やその他の博物館で彼等の木彫品や衣服等を見ただけだ。

 ただ、こういうことはあった。
 15年ほど前に道立北方民族博物館に行ったとき、サハリンの先住民族に関する特別展も開催されていた。
 シャーマニズムなどを中心とした展示だったと思うが、そちらを見ていたときに、博物館の学芸員らしい人が9~10歳の少女に何か説明している。少女が答えていた「・・・話には聞いていましたが、実物を見るのは初めてです。・・・」
 今思えば、彼女は、ニブフかウィルタだったのだろう。

https://fine.ap.teacup.com/makiri/34.html