歴史・人名

フィリピンの戦い

昭和16年(1941年)本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日にフィリピンのルソン島に上陸し、昭和17年1月2日にマニラを占領します。米軍の司令官マッカーサーはオレンジプラン通りにコレヒドール島へ移動します。オレンジプランというのは米国の対日戦争プログラムです。このアメリカ軍の中にはフィリピン人兵士が多く含まれています。アメリカ軍のフィリピン人兵士を見る上で色々興味深い記録があります。火野葦平さんの著です。火野さんは芥川賞受賞者です。「麦と兵隊」「土と兵隊」などの著書で有名でしょう。バターン半島攻撃の陸軍の報道部隊に従軍しています。

 陸軍報道班員手記 昭和17年7月(GHQ焚書図書開封より)
「やがて奇妙な捕虜の一団に眼をとめられた。十人ほどの比島兵(フィリピン人兵)が一人の米将校を縛し、こづきまわしながら、近づいてくるのであった。大兵のその米将校は大尉の肩章をつけていたが、不愉快そうに渋面をつくっていた。ちょび髭生やした戦闘の比島兵は、これは米兵の督戦隊長ですといった。こいつがわれわれを前線に出して、うしろから督戦するので、われわれは仕方なく戦わねばならなかった」

 アメリカには督戦隊というのがあり、フィリピン人兵を前線に出してうしろから「それ行け、やれ行け」と激を飛ばすのです。そして逃げて後退するのは敵前逃亡として撃ち殺すのも役目です。現地のアメリカ軍はこういう構造だったんですね。アメリカ軍が寛大だったなんてことはないのです。そこは戦場であり米軍は支配者です。

 「比島作戦」(昭和17年11月読売新聞社)にフィリピン兵士の話が記載されています。(GHQ焚書図書開封より)
「食事は日に一回、時には二回くれるが、それもミルクの空き缶に半分ぐらいのかゆと缶詰のかつお肉を混ぜたものだけで、特にご馳走だといえば僅かに一片のパンだけである。しかも比島人将校や米兵たちはたら腹食っている。米兵は何時もははるか後方でわれわれを督戦し、一歩でも後退すれば容赦なく機銃で掃射し、陣地の要所要所では機関銃射手を木にしばりつけたりしている」

 アメリカ軍はフィリピン人兵士を木に縛って後退したり逃げたりしないようにしています。これは支那軍がトーチカの中に兵士を鎖でしばって戦わせたのと同じです。フィリピン兵士の場合も使命感も戦う意義を持っておらず士気が低い。兵を集めた態勢にすると督戦はしやすいですが、砲撃の的になるため、散兵した攻撃態勢をとります。すると督戦の眼が届かなくなるので、フィリピン兵が逃げてしまうのです。だから縛るのです。これは当時でも卑劣な行為であったと思います。私は子供の頃、日本軍は人命を軽視した戦い方だった、米軍は人命を尊重した、と教えられましたが、米軍は「白人の命を尊重」し、有色人種の命などは尊重しない戦い方だったのです。


1. クラーク飛行場空襲
1941年12月10日、日本軍航空部隊はマニラ湾内のキャビテ軍港および在泊艦隊を空襲して大きな損害を与えた。これらの航空撃滅戦の結果、制空権・制海権は日本軍のものとなった。
2. マニラ陥落
日本軍は南北からマニラへ迫り、1942年1月2日午後、マニラは第14軍のリンガエン湾上陸からわずか11日で陥落した。
3. 第一次バターン半島の戦い
日本軍は半島西海岸に第16師団木村支隊(歩兵第20連隊基幹、兵力5,000)を投入したが、やはり米比軍の頑強な抵抗に遭う。1月22日夜には恒広大隊を舟艇機動させ米比軍の背後に上陸させる奇襲作戦を試みたが、逆に米比軍に包囲され全滅させられてしまった。第65旅団は粘り強く攻撃を続け、26日までに米比軍を第二線へ後退させたが、第二線は最も強化された防衛線であった。ここに攻めかかった第65旅団は兵力の3分の2を失い、幹部も多数が戦死した。2月8日に本間中将は攻撃停止を指示し、日本軍の攻勢は中断に至った。
4. 第二次バターン半島の戦い
日本軍の攻撃機は連日爆撃を行った。地上部隊による総攻撃は4月3日に開始された。第一砲兵隊の重砲群がサマット山麓の米比軍陣地に砲撃を加え、前進を開始した第4師団と第65旅団は初日から予定よりも長い距離を突破した。ここまで米比軍の防御の中核を担ってきたフィリピン師団も、長きにわたった戦いの中で反撃の余力は尽きていた。日本軍は第二線、第三線の防御線を相次いで突破し前進した。4月9日、バターン半島総司令官のエドワード・キング少将が降伏を申し入れ、残余の部隊も11日までに大半が降伏した。捕虜は7万以上。これは日本軍が推定していた人数の2倍に上った。
5. コレヒドール島の戦い
日本軍は5月5日の夜に上陸作戦を実施し、歩兵第61連隊の2個大隊と戦車第7連隊の一部がコレヒドール島の北東端に取り付いた。守る米比軍の砲火は激しく、一部は逆襲に出たものの、日本軍は橋頭堡を確保した。6日正午、マッカーサーの後任の司令官に就いていたウェーンライト中将(3月22日に昇進)が降伏を申し入れた。本間中将は、降伏はフィリピン全土の米比軍が伴わなければならないと主張し、ウェーンライト中将もこれを受諾した。翌日までにコレヒドール島の全軍が降伏した。
6. ビサヤ・ミンダナオの戦い
フィリピン南部のミンダナオ島では、第16師団三浦支隊と第56師団坂口支隊が12月20日にダバオに上陸し現地在住の邦人保護にあたっていた。本格的な第二期作戦は3月18日に策定され、川口支隊(第18師団の一部)と河村支隊(第5師団の一部)がまずビサヤ諸島、次いでミンダナオ島を攻略した。1942年3月2日に日本軍はミンダナオ サンボアンガに上陸し、4月には米軍は降伏した。
5月8日、ウェーンライト中将の降伏指令がビサヤ・ミンダナオの米比軍部隊にも到達した。10日、司令官のシャープ少将は河村支隊長に対し降伏した。その後6月9日までに、孤立した地域の小部隊を除いて米比軍の全部隊が降伏した。

(総括) 日本軍側の総数
第1期(12/8~1/8、開戦よりマニラ攻略まで) - 戦死 627、戦傷 1,282、行方不明 7
第2期(1/9~2/8、第一次バターン半島攻略戦) - 戦死 2,725、戦傷 4,049、行方不明 230
第3期(2/9~4/13、第二次バターン半島攻略戦) - 戦死 382、戦傷 1,020
第4期(4/14~5/7、コレヒドール要塞攻略戦) - 戦死 396、戦傷 457、行方不明 50
日本軍に降伏した捕虜の人数は第1期 606名、第2期 150名、第3期 70,380名、第4期 12,495名、合計 83,631名であった。日本軍はバターン半島での7万という捕虜の後送に手間取りバターン死の行進を引き起こす。各地に分散していたフィリピン軍兵士の多くは逃亡帰郷したが、フィリピンでの日本軍の軍政は物資不足やインフレーションを招いて人々の反発を受け、元兵士の多くがフクバラハップをはじめとする抗日ゲリラに転じた。

〈〈参考文献〉〉
(Inside News of the Philippines . 日本の占領から独立まで . website . http://www.t-macs.com/kiso/his/his_5.htm
(『帝国陸軍の最後〈1〉 進攻篇』 . 伊藤正徳. 光人社)
(『戦史資料第15号 フィリッピンの陥落(全3巻)』 . 陸上自衛隊幹部学校)