歴史・人名

マラリアの歴史

マラリアの歴史

 マラリア(Malaria)の語源は、イタリア語の「Mal-aria(悪い空気)」。

かつて、マラリアは温熱帯によって生じる瘴気が原因と考えられたことから、イタリアの医師、フランチェスコ・トルチによって、この病気に名前が付けられました。

17世紀からヨーロッパで、自然科学の発展と顕微鏡による細菌研究の進展の中で、1880年、アルジェリア駐在のフランス陸軍軍医シャルル・ラヴァランによって、マラリア患者の血液の中から、マラリア原病虫が発見されました。イギリスの医師、ロナルド・ロスによって、蚊がマラリアを媒介することを証明されたのは、1897年、比較的最近のことになります。

人間とマラリアの歴史が確認できるのは、紀元前8000年から1万年ころに遡ります。トルコの古代都市の遺跡からは、マラリアにかかったと思われる人骨が発見されています。また、紀元前1世紀の古代エジプトの女王、クレオパトラも、マラリアに悩まされていたことが、発掘されたレリーフも見つかっています。このレリーフは、マラリア流行の最古の記録といわれています。

また、マラリアの歴史は、アジアでも見ることができます。古代中国の殷王朝が残した青銅碑文には、マラリアを意味する「瘧」の文字を見ることができます。紀元前1200年ころの古代インドの記録にも、マラリアと思われる症状が書き記されています。

人類の歴史は、マラリアとの戦いの歴史だったともいえるでしょう。

ヨーロッパでは、17-8世紀に大流行が発生しました。その後、産業革命を経て囲い込みや新農法の開発によって、マラリアやそのほかの感染症の発生件数は減少、マラリアは一部の湿地帯に限局されます。そうした社会環境の変化により、ヨーロッパでは地中海沿岸地域を除き、姿を消すことになります。

しかし、マラリアは、その後、植民地の拡大の中で、大西洋、アフリカへ進出する欧米諸国の人々を苦しめました。西アフリカが「白人の墓場」と呼ばれたのは、マラリアへの対策が不十分だったことに起因します。

また、マラリアは熱帯地域の病気であるわけではありません。北極圏に近いフィンランドでも20世紀初頭には数千人が感染、アメリカやカナダでも感染の記録が残されています。ロシアでは、ロシア革命後、国家建設を妨げたものに、マラリアの流行がありました。1923年のウラル以西のロシアにおける患者数は300万人、翌月には罹患率が100%にも達した地域もありました。

アメリカでは、1930年代まで毎年十万人が感染、70年代にはベトナム帰還兵の間で流行しました。1950年代の朝鮮戦争でもマラリアの影響は残されています。

先進国の多くで、マラリアの撲滅のためにさまざまな対策が取られました。アメリカ南部では、蚊の発生地域を開拓して油をまき、蚊を追い払い、マラリア原虫を一掃するために、キニーネを散布しました。また、ダムなどではボウフラを殺し、窓やドアに虫よけ網を取り付けました。第二次世界大戦期には、DDTという塩素系の殺虫剤が散布され、マラリア撲滅が試みられました。1970年にはDDT散布、蚊の繁殖場所の根絶、抗マラリア薬の使用の拡大によって、5億人以上がマラリア感染から逃れられるようになったと推定されています。

しかし、途上国、特にサハラ以南アフリカの状況は違いました。大規模や化学薬品の散布の代わりに、クロロキンという、第二次世界大戦後に普及した薬が配布される政策が取られましたが、クロロキン耐性を持つ蚊が現れたことで、再び、マラリア発生状況は悪化することとなったのです。

参考:橋本雅一『世界史の中のマラリア:一生物学者の視点から』(藤原書店、1991年)
C.P.デュナパン「マラリア撲滅への挑戦」『別冊日経サイエンス 感染症の脅威』(2008年)54‐62頁


 

日本のマラリア

かつて日本では、明治時代~昭和初期の日本では、全国でマラリアが流行し多数の感染者を出しました。日本では古くからマラリアは、「おこり(瘧)」と呼ばれており、日本史上も様々な人物がマラリアと思われる病気で、命を落としたことが分かっています。

 

日本のマラリアにかかったと考えられる歴史上の人物

■光源氏:
紫式部が描いた「源氏物語」主人公の光源氏も、マラリアに苦しみました。「若紫の巻」で光源氏が紫の上と出会うきっかけも、「わらはやみ」、つまりマラリアの治療で都を離れたことに遡ります。

■平清盛:
平安末期、鎌倉時代に入る前に、政権を握った平清盛の死因もマラリアと考えられます。「平家物語」には、比叡山の霊水で清盛の身体を冷やしたところ、たちまち熱湯になったと記述されていますが、清盛の熱病死の症状は、マラリアと言われています。

マラリアは、近世にはいる前、多くの文献でその症状が記されていますが、近世になると、その深刻さは減少します。その原因としては、以下の点が挙げられています。

●近世の日本列島は古代に比べて気温が全般的に低下したと考えられ、それがマラリアの抑制につながったことが推測されます。

●医療の発展により、熱病の治療が行われ、その結果、マラリア事情が好転したと考えられます。

しかし、明治に入り、マラリアという名称がつかわれるようになった時期、日本が世界各国と交流し、またアジア諸国に進出するようになると、状況は変化します。

一般にマラリアは戦争時・戦争直後に大流行する傾向がありますが、日本でも例外ではなく、第一次世界大戦・第二次世界大戦でもマラリアの流行が起こりました。

 

全国での発生状況

 

●北海道
明治時代以降の北海道の開拓に支障を来しました。
例えば、明治24年、日本の女医第1号として有名な荻野吟子の夫としても知られる志方之善が、キリスト教信者たちと理想郷を作るために、瀬棚で開拓を進めました。この計画が挫折した理由としては、原生林の伐採の遅れによるマラリアの発生でした。

●本州
琵琶湖を中心として、福井、石川、愛知、富山でマラリア患者数が多く、福井県では大正時代は毎年9000~22000名以上のマラリア患者が発生、1930年代でも5000から9000名の患者が報告されていました。その他、東北地方でもマラリアの症状が見られるなど、その発生は全国で見られました。

●沖縄
八重山諸島にはマラリア感染地域があることが知られ、琉球王朝の時代から強制移民と廃村が繰り返された歴史があります。
第2次世界大戦中には戦争マラリアと呼ばれる大量感染の記録があります。

 

日本のマラリアの歴史

●第二次世界大戦期

日中戦争~第2次世界大戦中の日本においても、ある程度、マラリア対策が行われました。しかし、昭和14年以降、全国各府県(北海道を含む)でマラリア患者の発生をみない地域はなく、特に、福井県・滋賀県・愛知県・富山県・石川県では、患者の発生数が多かったとされています。
さらに、太平洋戦争では南方のジャングルに長期滞在する兵士が多かった為、マラリア患者が続出しました。米軍は厳重なマラリア対策を行っていたがそれでも患者は多かったとされています。
戦争中、日本軍はほとんど対策をとっておらずガダルカナルでは1万5000人、インパール作戦では4万人、沖縄戦では石垣島の住民ほぼ全員が感染し3600人、ルソン島では5万人以上がマラリアによって亡くなりました。補給軽視により栄養失調状態になりながらマラリアにかかる者が多かったため、一度かかると殆ど助かる見込みはなかったと言われています。

作家大岡正平が自らの戦争体験をつづった連作小説「俘虜記」でも、戦争中、マラリアにかかり、捕虜になったのち、薬によって回復したことがつづられています。

 

●戦争マラリア

第二次世界大戦時、沖縄県において疎開した一般住民がマラリアに罹患して多数が死亡したことを指す言葉。波照間島では集団罹患が発生しました。

沖縄県の八重山諸島では古くからマラリアの発生する地域がいくつかあることが知られています。特に石垣島の北側(裏石垣)と西表島はその意味で恐れられた地域である。現在ではマラリアは一掃されていますが、第二次世界大戦時にはまだ発生地域は多かったとされています。

第二次世界大戦時、沖縄本島周辺では非常に激しい戦闘が行われましたが、八重山諸島においては、一部地域でマラリアの発生する地域へ住民の疎開が行われ、雨露がやっとしのげる茅葺き小屋、不十分で不衛生な共同便所などでの共同生活を余儀なくされたために、多くの人がマラリアに罹患し、全人口の半数を上回る1万7000人がマラリアに罹患し、3000人が亡くなりました。

これが戦争マラリアと呼ばれる所以です。

マラリアは戦争中の物資や人間の移動、栄養状況の悪化から県内の他地域にも広がり、沖縄県各地で被害者を出しましたが、八重山では直接の戦争被害よりマラリアの被害が突出しました。八重山では、この戦争マラリアを忘れないために、「八重山平和祈念館」で、戦争マラリアのことを紹介しています。

 

●第二次世界大戦後~現在

戦後、マラリアは、全国で流行しました。1946年のマラリア患者数は統計上だけでも28210人。法廷・指定・届出伝染病28種のうち、赤痢、ジフテリア、腸チフス、発疹チフスに次いで患者数は第5位を占め、人口10万人対する罹患率は36.8パーセントに上ります。

流行自体は1946年をピークに減少し、翌1947年の罹患率は15.1パーセントとなりました。この数字は、2008年度のインフルエンザの罹患率は6パーセントであることを考えると、非常に高い数字であることが分かります。ただし、この時期の患者の多くは、戦後、帰国してマラリアを持ち帰った10万と言われる元兵士の方でした。

1950年代にマラリアは収束し、1960年代には数えるほどの患者数となります。1980年代以降のマラリアの症例は、外国でマラリアに感染し、日本に帰国してから発症する例、いわゆる輸入感染症が年間100~150例程度報告されています。

 

現在マラリアが日本で流行していない理由
 

・マラリアの媒介者であるハマダラカの多く発生する水田地帯の環境変化や稲作法の変化などによる発生数の減少
・日本の住宅構造や行動様式の変化による、夜間に活動するハマダラカの吸血頻度が低下したことなど

参考:橋本雅一『世界史の中のマラリア:一生物学者の視点から』(藤原書店、1991年)