歴史・人名

京極高秀

京極高秀

京極高秀(きょうごく・たかひで) 1328~1391

北近江および出雲・飛騨・摂津の守護大名。京極高氏の三男。治部少輔。大膳大夫。
室町幕府の評定奉行、侍所頭人を歴任した。長男・高詮を佐々木氏嫡流六角氏の家督にいれて六角氏を乗っ取り、次男・満秀も京極氏家督として幕閣に列し威勢を振るったが、その後高詮が六角氏被官から訴えられて六角氏から離縁され、また高秀自身も管領家の細川・斯波両氏の対立に巻き込まれて失脚する。
この後、高詮が京極氏の家督を継承したが、高秀も後に許されて評定衆に復帰している。

尼子氏の生みの親

 京極高秀は、高氏の三男として生まれます。長男・秀綱、次男・秀宗などが相次いで亡くなったことから、残る高秀が京極氏の跡を継ぐことになりました。
 高秀は父の存命中から父に従って種々の合戦に出て活躍したと言われていますが、晩年の父とは対立して確執を深めたと言われています。

 しかしながら高秀は、父・道誉以来の出雲・隠岐・飛騨守護、および摂津能勢郡と河辺郡北部の分郡守護、清和源氏の氏寺多田院の管理権を世襲しました。
 また、近江守護・六角氏の圧力から近江北三郡の軍事指揮権を堅守し、軍事指揮権のみという変則的な制約があったものの、近江北三郡の分郡守護を維持しました。

 その後高秀は、引付頭人、評定奉行、侍所頭人と歴任し幕府内で重きをなします。そして応安6年(1373)には、朝廷から大膳大夫に任官されています。

 このころ、佐々木本家の六角氏では当主氏頼の嫡男・義信が貞治4年(1365)に早世してしまったため、高秀は後継者として自らの子・高詮を六角氏の養子にいれます。
 高秀の後継者には次男・満秀を指名、これも幕閣に列し、まさに高秀は飛ぶ鳥を落とす勢いを示していました。

 ところが応安2年(1369)、六角氏頼に思いがけず男子・満高が生まれます。氏頼は翌年死去しますが、当然のごとく後継者の問題がもちあがります。紛糾の末、幕府は満高が成人するまで高詮が後見人として家督を継ぐよう命じましたが、永和3年(1377)9月になって、幕府は高詮の近江守護職を解き、さらに六角家からも追放してしまいます。
 当時、幕府内では管領・細川頼之と前管領・斯波義将との間で激しい権力争いが行なわれており、この追放劇は、斯波派の京極家を抑えるために、細川頼之が高詮の六角家追放を推進したためにおこったものと思われます。

 そしてその後も細川頼之と斯波義将の対立は悪化の一途をたどり、ついに康暦元年(1379)、義将は高秀や土岐頼康ら反頼之派の守護大名と糾合して将軍邸を包囲し、三代将軍・足利義満に頼之の罷免を求めました。義満はこれを認め、頼之は失脚します(康暦の変)。

 頼之には一時追討令が出されますが年末には赦免され、頼之の弟・頼元が管領となっています。頼之自身も再び幕政の中心に復帰しました。
 このため、高秀・満秀父子は京都京極の屋敷を欠所にされ、幕府からは六角満高などに高秀追討令が出されます。
 さらにこのとき出雲・隠岐・飛騨守護も罷免され、出雲・隠岐は山名義幸に、飛騨は先に六角家を追放された高詮に与えられました。

 こうして父高秀・満秀の失脚で、高詮が京極氏の家督を継承しました。ただし高秀・満秀父子は後に許され、高秀は評定衆に復帰して再び評定奉行を務めています。さらに飛騨守護にも復帰しました。
 しかし、満秀は兄・高詮に後継者の座を取って代わられたため、高詮を恨むようになります。
 そして明徳2年(1391)10月、高秀は高詮と満秀の争いの決着をつけられないまま死去しました。享年・64歳でした。

 なお、高秀の父・高氏は、死に臨んで高秀の次男・高久に甲良荘尼子郷を与えるよう置き文を残しました。
 高秀も一角の人物であったのか、それとも情勢不安故に内訌を避けたのか、この父の置き文を守り、嫡男・高詮に伝えています。
 そして高秀の死後の応永5年(1398)、無事高久は尼子郷を給与されました。こうして高久を祖とする尼子氏が誕生したということになります。