歴史・人名

人名ち

千々石ミゲル(ちぢわ みげる)
天正遣欧少年使節の一人。千々石直員の子。有馬晴信の従弟(一説に甥)で大村純忠の甥という。通称・清左衛門 アレッサンドロ・ヴァリニャーノの勧めで、有馬氏・大村氏の計画したローマ教皇への使節の一員に選ばれる 伊東マンショ・中浦ジュリアン・原マルチノとともに長崎を出発し、ヨーロッパに至り、教皇グレゴリオ十三世に謁見 出発から八年後に帰国。豊臣秀吉に謁見し、地球儀・時計・印刷機・測量機などを献じ、ヨーロッパの事情を説明した イエズス会士となったが、のちに棄教し、逆にキリスト教徒を迫害したと伝えられる
千代(ちよ)
土佐藩初代藩主・山内一豊の妻。一豊の死後に出家して見性院(けんしょういん)と称した 父は浅井久政の家臣・若宮喜助友興。一説には郡上八幡城主・遠藤盛数が父ともいわれる 幼少で父が戦死し、その後母も病死したため、母の妹の嫁ぎ先である不破重則に養われた 針の業(裁縫)や行儀作法を習いにいっていたとき、先生である法秀院(山内一豊の母)に請われて一豊と結婚した 夫のために駿馬を買い求めた話は、内助の功のお手本として語り継がれる 関ヶ原では大坂勢の動向を一豊に知らせた 聡明で機知に富み、困難に対処する勇気を持っていた女性で「一豊の妻」とは夫を出世させる賢妻の代名詞となっている 千代紙を考案者ともいわれる
長景連(ちょう かげつら)
????~1582 
○与七
 能登長氏の庶流で、黒滝長氏とよばれた。能登・畠山氏臣。後に越後・上杉氏の傘下に入る。主に外交面で縦横に活躍する。織田信長の軍勢が上杉方の越中・魚津城を攻略する際、突如として反旗を翻し、わずかな手勢で能登・棚木城に立てこもった。しかし、織田方長連龍の軍勢に攻められ激戦の末討死。これは上杉方の計略とも景連の独断行動とも言われる。
長続連(ちょう つぐつら)
????~1577
○九郎左衛門尉 勝連 対馬守
◇父:平加賀守秀続(盛信?) 養父:長英連 室:長教連女 子:長綱連、杉山則直、長連龍、飯川義実、長連常、連盛
 父秀続2男だが、叔父?長英連の跡を継いだ。能登・穴水城主。能登・畠山氏に従い、遊佐氏、温井氏と抗争を続ける。1574年当主義慶を毒殺したともいわれるが、事実は不明。家中では親織田信長派であり、1577年越後・上杉氏の七尾城攻略の際、上杉方に内応した同僚遊佐続光の降伏勧告を拒否して、一族共に殺された。
長綱連(ちょう つなつら)
1539~1577
○九郎左衛門尉 重連
◇父:長続連 室:温井氏女 子:長定連、竹松、井上弥九郎、長菊松
 能登・畠山氏に父と共に従う。1565年家督相続。越後・上杉氏の七尾城攻略の際に、上杉方に内応した遊佐続光に一族共に殺された。
長連龍(ちょう つらたつ)
1546~1619 
○万松 九郎左衛門尉 好連
◇父:長続連 室:長綱連女 子:長安芸守好連、九郎左衛門尉連頼
 能登・畠山氏に従う父続連3男。臨済宗の僧であったが、1576年越後上杉氏侵攻の際、これに参陣。翌年、援軍を求める為、織田信長の下に赴くが、おかげで、能登で遊佐続光に父兄一族が殺害される中、唯一生き残った。この後、還俗。信長の後援を受けて能登攻略に尽力。1581年七尾城主となった信長の臣前田利家の与力となって、諸戦に功を立てた。大坂の陣後、没。74歳。
長宗我部国親(ちょうそかべ くにちか)
1504~1560 
○千雄丸 信濃守 宮内少輔
◇父:長宗我部兼序 子:長宗我部元親、吉良親貞香宗我部親泰、島親益
 土佐七雄の一氏。土佐・岡豊城主の父が本山氏らに攻められ敗死した際に、土佐・一条房家の下に預けられる。その一条氏の援助により旧領を回復し、その後謀略を駆使して、周辺の豪族を攻略していった。七雄の一人本山茂辰攻略中、病死。心臓疾患と思われる。
長宗我部親和(ちょうそかべ ちかかず)
→香川親和
長宗我部親忠(ちょうそかべ ちかただ)
津野親忠
長宗我部親益(ちょうそかべ ちかます)
→島親益
長宗我部親泰(ちょうそかべ ちかやす)
香宗我部親泰
長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか)
1565~1586 
○千雄丸 弥三郎
◇父:長宗我部元親 室:石谷兵部少輔頼辰女
 土佐・長宗我部元親嫡男。織田信長より諱を受け信親と名乗る。知勇兼備の将として家中の信望厚く、元親も将来を期待していた。豊臣秀吉の九州征伐の先遣隊として父と共に出陣、豊後・戸次川の戦いにて大将仙石秀久の勇み足から大敗、薩摩・島津家久の大軍を相手に、信長より拝領した左文字の太刀を振るって勇戦し、討ち死にした。元親はその死を悲しみ精神に異常をきたしたといわれる程であった。
長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)
1539~1599 
○弥三郎 雪蹊恕三 宮内少輔 土佐守 羽柴土佐侍従
◇父:長宗我部国親 室:石谷光政女 子:長宗我部信親、香川親和、津野親忠、長宗我部盛親、右近大夫、吉田信九郎康豊
 土佐・長宗我部氏当主。幼少の頃は、性格がおとなしく"姫若子"とあだなされたが、長浜戸の本の初陣で功をたてて"土佐の出来人"と称される。以後、土佐の豪族"土佐七雄"を次々と攻略、主筋にあたる一条氏も豊後に追い、土佐を平定した。さらに三好氏、河野氏ら謀略を駆使して次々と周囲の敵を討ち、四国全域を治めた。しかし、天下の大半を制した羽柴秀吉が来攻、これに反抗するも、敗れて降伏その臣下となった。その後、九州攻め、朝鮮出兵などに参加する。元親は武略家であると同時に民政家でもあり、「元親百箇条」の法規を遺した。
長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)
1575~1615 
○千熊丸 右衛門太郎 幽夢 宮内少輔 土佐守 吉良氏
◇父:長宗我部元親 室:長宗我部信親女 子:長宗我部盛恒、盛高、盛信、盛定、右衛門五郎、盛澄
 土佐・長宗我部元親4男。「盛」は増田長盛からの諱か。吉良氏を継いでいたが、長兄信親戦死後、父の溺愛を受けその跡を継ぐ。関ヶ原の戦いでは中立を守り積極的にでることはなかったが、自国にて兄親忠を謀反の疑いにて自害させたこともあって、徳川家康の反感を買い、所領を没収され浪人する。その後豊臣秀頼の元、一軍を率いて大坂冬の陣、夏の陣に参加。夏の陣では徳川方藤堂高虎の軍と戦い、多くの将兵を討ち取る働きをするが、井伊軍が加わり形勢逆転し敗走する。戦後、大坂城を脱出するが捕らえられ、京の六条河原にて斬首。