歴史・人名

今川氏親

今川氏親
文明5(1473)~大永6(1526)
 今川義忠の嫡子で幼名は竜王丸。母は義忠の正室・北川殿(伊勢早雲の姉妹)である。
 応仁の乱が勃発すると、父・義忠は東軍の細川勝元につき、西軍の山名宗全についた遠江守護・斯波氏と戦った。文明7(1475)年春、遠江の国人衆・横地四郎兵衛、勝間田修理亮らが西軍につくと、義忠は久野佐渡守、奥山民部少輔、杉森外記、三浦次郎左衛門、岡部五郎兵衛らを率い敵城を攻略した。しかし凱旋の途上、流れ矢に当たり討死してしまったのである。
 このとき竜王丸はわずか6歳であったため、義忠の従兄弟・小鹿範満が今川家の家督簒奪に乗り出した。こうして今川家は竜王丸支持派と、範満支持派に分裂したのである。
 範満が駿府館を占拠したため、竜王丸は伯父・伊勢長氏(早雲)の指示で母・北川殿とともに駿河志太郡小河郷の小川法栄のもとへ避難した。この間に長氏は扇谷上杉家の威を借り、竜王丸が正嫡であることと、範満が竜王丸成人までの家督代行であることを範満に認めさせ、一応の決着をみた。しかし竜王丸が17歳になっても範満は家督を返さなかったため、長氏は駿府館の範満を攻め滅ぼし、竜王丸に家督を継承させた。そして、当主となった竜王丸は氏親と名乗ったのである。
 氏親は遠江守護・斯波氏、信濃守護・小笠原氏と戦って撃破し、永正3(1506)年からは長氏を三河へ侵攻させた。この侵攻作戦は失敗に終わったが、同年7月には遠江守護に任じられ、永正14(1517)年8月には引馬城を陥れ遠江一国を平定した。
 また、氏親は大永4(1524)年領内で検地を行い、大永6(1526)年には分国法・今川仮名目録33ヶ条を制定し、戦国大名今川氏の基礎を固めた。同年6月氏親は没したが、14歳の嫡子・氏輝への家督相続は円滑に行われている。