歴史・人名

保科松平家(会津藩)

保科松平家 会津藩 会津葵     28万石

陸奥会津郡会津(福島県会津若松市) 家門 城主
移封加減増履歴・寛永8年→信濃高遠3万石・寛永13年→出羽山形20万石・寛永20年→陸奥会津23万石・元治元年→28万石 
専売品&専売開始年・漆(寛文頃) 米(正保頃) 人参(天明頃)
江戸城詰席・溜之間 上屋敷・和田倉御門内
参勤・参府4月前後、帰国6月前後
人口・城下町若松郭内侍屋敷443軒(加藤時代)
城下町若松郭外1万8435人、家数3256軒
                 寛文6年(1666)現在
全領地総計16万8179人 享保元年(1716)現在

藩祖・正之(まさゆき)
将軍秀忠の四男 母は側室お静の方
生没・慶長16年(1611)~寛文12年(1672)
武田信玄の娘見性院に養われ、後に保科正光(信濃高遠藩主)のもとで養育される
寛永6年(1629)秀忠に拝謁、保科正光の子として披露され、同8年家督相続
慶安4年(1651)将軍家光の遺言により、将軍家綱の補佐役となる
正四位下左近衛権中将兼肥後守
寛文9年(1669)隠居
正室・日向延岡藩内藤政長の娘
継室・藤木弘之の娘
子女・2代正経 正容(正経養子、3代) 
女子→米沢藩上杉綱勝室 
女子→加賀藩前田綱紀室
女子→山城淀藩稲葉正往室

2代・正経(まさつね)
正之四男 母は側室藤木氏
生没・正保3年(1646)~天和元年(1681)
家督・寛文9年(1669)相続
従四位下侍従
正室・加賀藩前田利常の娘
子女・養子正容(3代)

3代・正容(まさかた)
正之六男、母は沖氏
生没・寛文9年(1669)~享保16年(1731)
家督・天和元年(1681)相続
正四位下左近衛権中将兼肥後守
正室・陸奥白河藩阿部正武の娘
継室・横山常定の娘
子女・4代容貞 女子→加賀藩前田宗辰室 
容章(別家)

4代・容貞(かたさだ)
正容八男、母は塩見氏
生没・享保4年(1719)~寛延3年(1750)
寛延2年(1749)凶作から大一揆起こる
従四位下左近衛権少将
正室・高松藩松平頼豊の娘
子女・5代容頌 女子→山城淀藩稲葉正弘室

5代・容頌(かたのぶ)
容貞長男 母は舘氏
生没・寛保2年(1742)~文化2年(1805)
家督・寛延3年(1750)相続
天明7年(1787)家老田中玄宰による藩政改革
正四位上左近衛権中将
正室・陸奥白河藩阿部正允の娘
継室・長州藩毛利重就の養女(長州藩毛利宗広の娘)
子女・養子容詮 養女(3代正容の子容章の娘)→上野吉井藩松平信明室、後に伊予大洲藩加藤泰候室 養女(3代正容の子容章の娘)→肥前大村藩大村純鎮室、後に離縁
○容詮(かたさだ)
3代正容の子容章の長男 母は小海氏
生没・寛延3年(1750)~天明5年(1785)
従四位下侍従
正室・加賀藩前田治脩の娘
子女・6代容住

6代・容住(かたおき)
容詮次男、母は鈴木氏
生没・安永7年(1778)~文化2年(1805)
家督・文化2年(1805)相続
従四位下侍従
正室・彦根藩井伊直幸の娘
子女・7代容衆 容敬(容衆養子、8代)

7代・容衆(かたひろ)
容住次男 母は石川氏
生没・享和3年(1803)~文政5年(1822)
家督・文化3年(1806)相続
従四位下左近衛権少将
正室・将軍徳川家斉の15女元姫
子女・養子容敬(8代)

8代・容敬(かたたか)
6代容住三男(一説に高須藩松平義和の子) 
母は白岩氏
生没・文化3年(1806)~嘉永5年(1852)
家督・文政5年(1822)相続
殖産興業、財政再建に尽力する
正四位下左近衛権中将
正室・久保田藩佐竹義和の娘
継室・加賀藩前田斉広の娘
子女・女子→9代容保室 養子容保(9代) 
養女(上総飯野藩保科正丕の娘)→中津藩奥平昌服室、後に離縁

9代・容保(かたもり)
高須藩松平義建の六男 母は古森氏
生没・天保6年(1835)~明治26年(1893)
家督・弘化3年(1846)容敬養子となり、嘉永5年(1852)に相続
文久2年(1862)京都守護職、公武合体に尽くすが慶応3年(1867)辞職、同4年戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心となって戦うも敗れる、領地を収公され鳥取藩お預かりとなる、明治2年(1869)嫡子容大に家名相続が許され、新たに陸奥斗南3万石が与えられる
正室・8代容敬の娘
子女・容大

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