歴史・人名

弘文天皇

弘文天皇

こうぶんてんのう

別:
大友皇子
父:
天智天皇
母:
伊賀采女宅子(いがのうねめやかつこのいらつめ)

大友皇子の即位については日本書紀には記述がありません。平安時代以降の書物には皇子の即位が記されている。
                     
名前 第39代 弘文天皇(こうぶんてんのう)、伊賀、大友
                     

皇居 近江大津宮
                     
陵墓 陵名 長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)
  古墳 亀丘古墳  円丘
                     
略歴(7世紀)
648- 戊申-大化04年 生誕
671- 壬午-天智10年10月17日 天智天皇は病気が重くなり大海人に後事を託されるが辞退して吉野に入る
671- 壬午-天智10年12月03日 天智天皇崩御
671- 壬午-天智10年12月05日 即位
672- 癸未-天武01年07月21日 壬申の乱。瀬田川の戦い。大海人皇子の軍と瀬田川で戦闘
672- 癸未-天武01年7月23日 壬申の乱に破れ自害

 弘文天皇(大友皇子) [#lfbd599e]

  生没年:648-672
  父:天智天皇
    671 太政大臣
    671 皇太子
    672 弘文天皇
    672 壬申の乱
  皇后:十市皇女(父:天武天皇
    661-705 式部卿 葛野王(以下保留)
    壱志姫王
    興多王(子:都堵牟麿)
  妃:藤原耳面刀自(父:内臣 藤原鎌足


天智天皇━━━弘文天皇━┳━式部卿 葛野王(以下保留)
            ┣━壱志姫王
            ┗━興多王(子:都堵牟麿)


天皇