歴史・人名

朝鮮半島

朝鮮半島の歴史

満州北朝鮮南朝鮮
先史時代
古朝鮮檀君朝鮮 箕子朝鮮衛氏朝鮮辰国
三国時代高句麗 扶余 沃沮 ?三韓
三国時代高句麗百済 新羅 伽耶
南北国時代渤海統一新羅
後三国時代渤海 後高句麗新羅 後百済
高麗元 女真高麗
李氏朝鮮明 女真 清李氏朝鮮
大韓帝国大韓帝国
日本統治時代満州日本統治時代
連合軍軍政期中国連合軍軍政期
北朝鮮大韓民国

先史時代

旧石器文化 数十万年前

-700000
 約70万年前 (旧石器文化)(アジア-朝鮮)国史年表
約70万年前
 旧石器人の登場
 韓半島とその周辺には、約70万年前前から人類が定住し始めたとされています。
 旧石器時代の人々は、初めは石をそのまま使用したが、徐々に用途に応じ様々な打製石器をつくった。 
獣や魚を捕まえ、植物の実や根を採集し、季節により移動生活をしながら、洞窟や海岸に仮小屋を建てて暮らした。
民族はモンゴル人種に属し、アルタイ語族に属すると考えられる。
約50万年前
 洞窟や岩陰、川端に集団で居住。
 狩猟と植物採取で生活。
約50~10万年前
 旧石器文化時代
-8000
 BC6000頃 (新石器文化)(アジア-朝鮮)国史年表
-8000
 新石器時代の始まり
 新石器時代
 この頃から新石器時代が始まり、磨製石器と釣り針、針などの骨器、そして櫛目文土器が広く使われた。
 新石器時代の人々は竪穴式住居に住み、同じ血筋の氏族が集まり付属をつくり、定住、農耕生活を始めた。
-5000頃
 日本、縄文式文化
 
櫛目文土器が広がる

櫛目文土器時代
 櫛目文土器時代または櫛文土器時代とは朝鮮の考古学的な時代区分で、BC8000年から1500年の頃に及ぶ。前期から中期にかけての土器に櫛の歯のようなもので模様がつけられたこと(櫛目文土器)から命名されている。 土器が作られ始めた時代で、朝鮮における新石器時代ともされるが、倭国縄文時代と同様、農業はまだ小規模で、狩猟や採集が中心であった。
 櫛目文土器文化のあとには、北方に起源を持つと思われ大規模な農耕を伴う無文土器文化が広まる。
 櫛目文土器はウラル系民族、とりわけフィン・ウゴル系民族と関連しており、最古のものが遼河地域の興隆窪文化(BC6200年-BC5400年)の遺跡/で発見されていることから、遼河文明の担い手であるウラル系民族が朝鮮に櫛目文土器はもたらしたことが考えられる。よって朝鮮民族の基層はウラル系民族の可能性がある。

古朝鮮時代[-2333 - -108]

 伝説によると、神話の中の人物である檀君(タングン)がBC2333に韓国最初の王国である古朝鮮を建国したとされています。
 その後、いくつかの部族が満州南部地域から韓半島に移動してきました。
 BC108年、漢の武帝に征服される以前の朝鮮およびその時代。
 檀君(だんくん)・箕子(きし)・衛氏(えいし)などの王朝の支配下にあった。支配地域は大同江から北西の地域。

檀君朝鮮[BC2333年ごろ~]

-2333
 檀君、阿斯達に都し、朝鮮王となるを定める(三国遺事)(アジア-朝鮮)国史年表
-2333ごろ~
 古朝鮮(こちょうせん)とは、一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の朝鮮をそう呼ぶことがあります。
 まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。朝鮮民族の始祖とされる檀君という神話上の人物が阿斯達(アサダル、現在の平壌)を都として建国したとされている。
-2000
 あわ、きび、ひえなどを栽培。
-1300頃
 無文土器が作られる。

無文土器時代
 無文土器時代(BC1500年ごろからBC300年)
この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式であることから命名された。

 農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には倭国弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

 葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。

-10世紀頃
 韓半島ではこの頃、青銅器時代が始まり、支配階級の武器や装飾品として用いられた。
 アワ、ムギ、ダイズ、イネが栽培された。
 青銅器の武器を使用し他の部族を制服するなど勢力を拡張していった。
 一部の地域で稲作。?
 竪穴式住居。
-1000
 BC1000頃 青銅器文化の展開(アジア-朝鮮)国史年表
-1000
 BC1000頃 古朝鮮の発展(アジア-朝鮮)国史年表
-1000頃
 青銅器文化が始まる。
-10~8世紀頃
 水稲栽培始まる。
朝鮮半島南端、九州北部で水田稲作はじまる。漁労も同時に行われた。
-800頃
 古朝鮮の実在節有り
-400頃
 鉄器文化が普及する。

鉄器文化が普及する。 BC400年頃

箕子朝鮮[? - -194]

-4世紀
 満州遼寧を中心に、満州と朝鮮半島をつなぐ広い地域を統治する国家に発展した。
鉄器が普及し始めた。
-300
 BC300頃 鉄器文化の普及(アジア-朝鮮)国史年表
-194
 衛満、古朝鮮の王となる(アジア-朝鮮)国史年表
?~-194
 次に登場するのが箕子(きし)朝鮮。この王朝に関しても、まだ実在の確認はされていませんが「史記」や「漢書」によれば、殷の箕子が建国したということになっています。
-194
 衛満の執権
  西方地地方で勢力を養った衞満が準王を追い出し古朝鮮の王となった。
  この時期鉄器文化が広がり、また、韓半島南部地方の辰の諸国は漢との中継貿易で強国となった。

衛氏朝鮮[-195ごろ - -108]

 燕人の国

-195ごろ~-108
 そして、いよいよ実在が確認されている衛氏(えいし)朝鮮が登場します。
 衛氏朝鮮は、中国の燕から亡命した、衛満(えいまん)によって建国されました。
-195年頃
 衛満古朝鮮の王になる。王都は王険城。

 史記によれば、朝鮮は戦国の7雄の一つ燕の支配下に入っていた。燕が秦に滅ぼされ、漢が中国を統一すると漢が朝鮮を支配した。漢の高祖(劉邦)は仲のよかった盧綰(ろわん)を燕王に封じるが、その後対立して盧綰は匈奴に亡命する。そして、その家臣衛満は千人余りを従えて朝鮮に入り、王険城(平壌)を首都として衛氏朝鮮を建国した。 BC195年頃のことである。
-108頃
  前漢、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など四郡を設置。

 
古朝鮮(衛満朝鮮衛氏朝鮮)の滅亡
 しかし、衛氏朝鮮は独立国家として振舞うが、前漢の武帝(ぶてい)によって滅ぼされ、朝鮮半島の大部分は漢の直轄地となった。
 そこには楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が設置された。その後、真番・臨屯が楽浪郡に併合され、玄菟郡も遼東半島に移転した。
 後漢末期になると、遼東半島で台頭した公孫氏が楽浪郡を支配し、その南に帯方郡を設置した。

三国時代[-108 - 4世紀中葉]

朝鮮半島、中国支配の始まり(BC108ー313)

 紀元前108年に前漢の武帝(ぶてい)によって、衛氏朝鮮が滅ぼされると朝鮮半島の大部分は中国王朝の支配下に入ることになります。そこで武帝は征服した地を4つに分け漢四郡設置します。

画像の説明

 この前漢はやがて衰退していき、継ぐ新(しん)そして、後漢も西に進出したり、北からの脅威に備えたりで、徐々に朝鮮への支配は弱まっていきます。

 そして、3世紀になると(文章にしてしまえば、短いですがBC108年からですからかなり長い年月が経ってますよぉ)、豪族の公孫氏(こうそんし)が朝鮮半島支配に動き出しました。

 この公孫氏は、本来は魏王朝から遼東地方の支配を任されていた豪族。

画像の説明

しかし、この頃の中国は、あの有名な三国志の時代です。激しい戦乱の中、こっそり魏の目を盗んで朝鮮半島の中国勢力の拠点である楽浪郡を裂いて帯方郡(たいほうぐん)を設置してしまいました。

ですが、この公孫氏も238年には魏によって滅ぼされてしまいます。

-108
 古朝鮮滅亡(アジア-朝鮮)国史年表
-108
 漢、郡県設置(アジア-朝鮮)国史年表
BC100年頃
 中国の漢が、朝鮮半島北部に4つの郡をおいて支配していたころ、半島南部では、3つの部族国家・三韓が興る。
三韓とは、馬韓(マハン)、弁韓(ピョオナン)、それに辰韓(ジナン)の3つである。
 馬韓では、54の小国があったが、やがて伯済(ペクジェ)が強くなり、後に百済(ペクチェ)になる。
弁韓には、12の小国があり、やがて伽耶(カヤ)になるが、それも後に新羅に吸収された。
辰韓は、12の小国からなり、やがて斯蘆(サロ)が強くなり、後に新羅(シルラ)になる。

三国時代(-57ー676)

韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗百済新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。

-57
 辰韓の斯蘆国で赫居世(ヒョッコセイ)を王として、新羅を建国する。(「三国史記」)国号は、徐羅伐(ソラブゥォル)とした。その後、国名は鶏林と変わり、新羅となるのは、503年になってからである。
-37、高句麗の建国
 一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、(「三国遺事」)それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、BC37年に建国した国だとされている。

高句麗(-37ー668)

 高句麗は韓半島の古代国家のうちのひとつで、百済新羅と合わせた三国の中で最も大きな領土を有している国でした 。BC37年に建国され、韓半島の北部と南満州一帯を拠点とし繁栄しました。中国の諸王朝とも熾烈に争い領土を広げていきましたが、AD668年に新羅と唐の連合軍との争いにより滅亡しました。

-18
 高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。(「三国史記」)

倭の奴国王、光武帝より金印を贈られる 57年

倭の女王卑弥呼、魏に使いを送る 239年

150頃
 馬韓、弁韓、辰韓の勢力が大きくなる
194
 高句麗、賑貸法実施(アジア-朝鮮)国史年表
205
 後漢が帯方郡を設置
209
 高句麗、国内城を郡に定める
260
 百済(古爾王)、一六官等と公服制定(アジア-朝鮮)国史年表
313
 高句麗、楽浪郡を滅亡させる(アジア-朝鮮)国史年表
313
 中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた高句麗、楽浪郡、帯方郡など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。

高句麗による楽浪郡の滅亡

 紀元前108年に衛氏朝鮮が魏に滅ぼされると朝鮮半島の大部分は長きに渡る中国勢力からの支配を受けることになります。前漢→後漢→魏→晋へと。

 そんな中、北から朝鮮半島へと勢力拡大を狙う国がありました。

 中国東北地方から出たツングース系貊族が建てた高句麗です。

 この高句麗により313年、中国勢力の拠点であった楽浪郡が滅ぼされます。この頃は、中国の晋が滅亡する前後のことですね。さらに、帯方郡も滅ぼされ(高句麗によって滅ぼされたとする書と朝鮮の土着の勢力によって併合されたとする書がある)、これにより朝鮮半島から中国勢力が駆逐されることになります。

画像の説明

 さぁ、中国勢力を追い出した高句麗は、どんどん南へと勢力拡大を狙います。この頃の朝鮮半島南部は小さな国々が集まり、馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)といういわゆる三韓が小国国家郡をつくっていましたが、高句麗の脅威もあり統一の機運が高まります。

 そして、馬韓が統一され建てられた国家が百済に。辰韓が統一されてできた国が新羅となりました。ちなみに、弁韓の地は統合がうまく進まず、加羅諸国となりますが、後に百済新羅に統合されます。

 これで、高句麗も簡単には朝鮮統一とはいかなくなります。そう朝鮮史上に残る「三国時代」の始まりです。
 
画像の説明

342
 前燕、高句麗を攻略
346 百済、建国
 近肖古王の即位。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(百済)(百済

百済(346ー660)

 百済三国時代の古代国家のひとつで、BC18年からAD660年まで国を守りました。高句麗の王族である温祚が韓半島の西南部に建国しました。洗練された発展した文化が花開き、特に日本に多くの影響を与えました。AD660年に新羅と唐の連合軍により滅ぼされました。

三国時代(356ー676)

356年 新羅、建国
 

新羅(356ー935)

 新羅三国時代の古代国家のひとつで、韓半島南部を拠点とし繁栄しました。BC57年からAD935年までの992年間国を守り、7世紀中頃に唐と連合し百済高句麗を破り三国を統一しました。その後、唐は連合国から侵略国へと立場を変えました。これにより新羅高句麗百済からの流民と力を合わせ、唐の侵略勢力を抑え大同江~元山湾以南に韓国の歴史上最初の単一民族統一国家を建国しました。

3世紀頃
 三国時代

 韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗百済新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。

 高句麗百済新羅が戦争を繰り返した。

3世紀頃
 三国時代
 BC1世紀中頃には漢の支配が弱まり、BC37年に中国の遼寧省付近に伝説の人物朱蒙(しゅもう)が高句麗(こうくり、こま)を建国した。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、楽浪郡や帯方郡を滅ぼした。391年に即位した広開土王(好太王)は遼東に勢力を伸ばし、満州南部から朝鮮半島の大半を領土とした。
 半島南部では、3世紀頃に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)と呼ばれる国が分立し、楽浪郡の支配を受けていた。4世紀中には馬韓百済(くだら)が、辰韓を新羅(しらぎ)が統一して、朝鮮半島三国時代が始まった。三国は激しく争い、新羅は他の二国に圧迫されていた。
 4世紀中頃には日本が弁韓に進出し、任那(みまな:伽耶(かや)とも言う)を支配した。中国を統一した隋は、4度の高句麗遠征に失敗して滅び、次の唐も高句麗遠征に失敗した。
 新羅は唐との関係を強化し、唐・新羅連合軍は660年に百済を滅し、663年には百済の遺臣とそれを支援する倭国軍(指導者は後の天智天皇の中大兄皇子)を白村江で破った。そして668年には、残った高句麗を滅し、新羅朝鮮半島を統一した。
 新羅は仏教を保護し、民衆の生活も豊かになった。
367
 百済新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)(百済
371
 高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(百済
372
 慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。(百済

 東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。(百済

 日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(百済

 高句麗、仏教の伝来。
 
高句麗に仏教伝来。
372
 高句麗、仏教伝来、大学設置(アジア-朝鮮)国史年表
372
 百済、東晋に使節を送る(アジア-朝鮮)国史年表
377
 北朝の前秦へも朝貢。(百済
384
 西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。(百済

 百済、仏教の伝来。
384
 百済、仏教伝来(アジア-朝鮮)国史年表
387
 東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。(百済
391
 高句麗の広開土王(好太王)即位

 倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)(百済

 高句麗、広開土王即位。
396
 高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。
397
 倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。(百済
400
 高句麗、南部に出兵して倭を討つ。
402
 百済から倭国へ使者を送る。(百済
403
 倭国から百済へ使者を送る。(百済
404
 倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(百済
405
 百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(百済
405
 百済日本に漢学伝える(アジア-朝鮮)国史年表
414
 高句麗、広開土王牌建立。
416
 東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。(百済
420
 宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(百済
427
 高句麗、平壌遷都。
 
高句麗、平壌城へ遷都。
427
 高句麗、平壤遷都(アジア-朝鮮)国史年表
433
 新羅百済の同盟成立。
433
 新羅百済同盟成立(アジア-朝鮮)国史年表
438
 羅済同盟成立。
475
 高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(百済
 高句麗百済の漢山城を攻略。百済、熊津へ都を遷す。
478
 大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(百済
479
 解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(百済
501
 東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(百済
502
 新羅、牛耕実施(アジア-朝鮮)国史年表
503
 新羅、国号と王号を定める。
503
 新羅、国号と王号を定める(アジア-朝鮮)国史年表
512
 百済日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条)(百済
513
 百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己?(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己?の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己?と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)(百済
514
 判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(百済
515
 百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)(百済
516
 百済は物部連らを己?で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)(百済
520
 新羅、律令領布、百官の公服を制定(アジア-朝鮮)国史年表
520
 新羅、律令頒布。
 
新羅、律令を頒布、百官の広服を制定。
525
 百済、武寧王陵を築造する。
527
 新羅、仏教公認(アジア-朝鮮)国史年表
527
 新羅、仏教公認。
 
新羅、仏教を公認。
532
 新羅、南伽耶の金宮国を併合。
 日本任那日本府
536
 新羅、年号使用(アジア-朝鮮)国史年表
538
 都を熊津から泗?(しひ・現在の忠清南道扶余扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(百済
 百済から日本へ仏教が伝えられた。(百済
 百済、泗?(しび)遷都。
 
王都を泗?城(扶余)に遷す。
 
日本百済から仏教伝来 
538
 百済、都を泗?城に移す(アジア-朝鮮)国史年表
539
 日本、聖徳太子(厩戸皇子)摂政 
545
 新羅、国史編纂(アジア-朝鮮)国史年表
551
 百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した。(百済
552
 新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。(百済
552
 百済日本に仏教を伝える(アジア-朝鮮)国史年表
554
 百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(百済
562
 加羅諸国が新羅に占領される。
 新羅、大伽耶(高霊伽耶)を滅ぼす。
581
 隋が成立すると、高句麗百済はすぐに 朝貢した。百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。(百済
586
 高句麗、長安城に都を遷す
597
 百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)(百済
600
 日本、遣隋使開始 
604
 日本、聖徳太子(厩戸皇子)、十七条の憲法を作る、冠位十二階制を施工 
607
 日本、法隆寺建立 
612
 高句麗、薩水大捷(アジア-朝鮮)国史年表
612
 高句麗、薩水大捷。
 
隋の煬帝高句麗を攻撃(薩水の戦い)
618
 唐が成立する。
624
 高句麗、唐から道教伝来(アジア-朝鮮)国史年表
624
 百済高句麗新羅があいついで唐に朝貢した。(百済
630
 日本、遣唐使開始 
636
 漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。(百済
642
 高句麗、淵蓋蘇文が権力掌握

 百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。(百済
644
 唐、高句麗の攻撃を宣布(?648年)
645
 唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済新羅の西部と加羅地方を侵略した。(百済
 高句麗、安市城の戦いで唐に勝利
 
日本、大化の改新 
645
 高句麗、安市城の戦いに勝利(アジア-朝鮮)国史年表
647
 新羅、瞻星台建立(アジア-朝鮮)国史年表
655
 高句麗百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。(百済
 ''658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。(百済
660
 唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗?城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。
 百済新羅と唐によって滅ぼされる。
 
新羅、唐と連合して百済を滅ぼす
660
 百済滅亡(アジア-朝鮮)国史年表
663
 新羅、唐の連合軍、日本軍を白村江で撃退(白村江の戦い)(百済

 錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。(百済
664
 百済、滅亡後664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送る(百済
668
 高句麗滅亡(アジア-朝鮮)国史年表
668
 高句麗新羅と唐によって滅ぼされる。
 
新羅、唐と連合して高句麗を滅ぼす
672
 日本、壬申の乱が起こる 
676
 新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。
 
新羅、三国統一
676
 新羅、三国統一(アジア-朝鮮)国史年表

朝鮮半島三国時代新羅による朝鮮統一~

 紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると(313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済新羅が誕生。朝鮮半島三国時代の始まりです。

画像の説明

 さぁ、上の図を見れば圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。

 しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!

 ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済高句麗の領土を削っていきます。

 この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。

 高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。

 そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。

 唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡(660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。

668
 そして、新羅高句麗も滅ぼしました。

統一新羅時代(676ー935)

統一新羅後三国時代[676~918]

 新羅は骨品制〔こっぴんせい〕という貴族制度を通して王権を強化した。華やかな文化が花開いた。手工業や商業が活発になり、絹織物、金銀細工、螺鈿漆器、人参などを唐や日本に輸出して富を得た。
 末期には、王権が弱くなり地方では豪族勢力が成長して、後高句麗後百済などという国をたて、ふたたび三国が鼎立することになった。

676
 平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退すると新羅による朝鮮半島の統一が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。

 統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。

 しかし、百済高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。
682
 新羅、国学を建てる(アジア-朝鮮)国史年表
685
 新羅、九州五小京設置(アジア-朝鮮)国史年表
685
 九州五小京設置
687
 新羅、九州五京の郡県制を確率

南北国時代(698ー918)

南北国時代(698ー918)

渤海(698-926)- 高句麗の滅亡後、遺民らが建国した国家

698
 高句麗、大祚栄、渤海国を建国
698
 中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、
 渤海の建国
698
 渤海の建国(アジア-朝鮮)国史年表

震国(696ー)
渤海(713ー926)

渤海高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。

日本、大宝律令制定 701

日本、平城京遷都 710

713
 大祚栄は713年に唐から渤海国王に冊封され、それ以後震国渤海国を国号とした。
 渤海(パレ)は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。
722
 新羅、丁田支給(アジア-朝鮮)国史年表

日本渤海使来朝 727

751
 仏国寺と石窟庵を建てるの再建始まる(アジア-朝鮮)国史年表
788
 新羅、読書三品科を設ける
788
 新羅、読書三品科設置(アジア-朝鮮)国史年表

日本、平安京遷都 794

804
 日本、最澄、空海が入唐 
828
 張保皐、清海鎮設置
828
 張保皐、青海鎮設置(アジア-朝鮮)国史年表
834
 百宮の服色制度の公布(アジア-朝鮮)国史年表
888
 新羅、「三代目」編纂(アジア-朝鮮)国史年表

後三国時代(892 - 936)

後百済 (892 - 936)

遣唐使廃止 894

高句麗(894 - 918)→高麗

9~10世紀頃
 繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。
9世紀
 地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。
 そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。
900
 即ち、甄萱がに後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。
900
 甄萱、後百済建国(アジア-朝鮮)国史年表
901
 高句麗を建国
901
 弓裔、後高句麗建国(アジア-朝鮮)国史年表

高麗時代(918 - 1392)

高麗・・・モンゴル人→女真人→満州人

 高麗は、918年に建国されました。この時期、国教として定められていた仏教は、政治と文化に大きな影響を及ぼしながら更に発展しました。高麗青磁やユネスコ世界文化遺産にも指定されている八万大蔵経、直指心経などの重要な遺産もこの時期に作られました。特に、直指心経は世界最初の金属活字で印刷された仏教経典で、グーテンベルク聖書よりも78年前に作られたものです。そんな高麗も14世紀後半からは次第に国力が衰えていきました。

 676年に新羅によって朝鮮半島初の統一がなされますが、8世紀末から9世紀まで王位継承の争いが起こり、地方でも農民が反乱を起したり、飢饉に見舞われたりと新羅は国力を失っていきます。

 そんな中、有力な豪族たちが新羅を分裂させ国を建国していきました。後三国時代といわれる時代です。

画像の説明

 この争いを制したのは高麗高麗は935年に新羅を併合すると、936年には後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一しました。

 高麗の建国者は王建(おうけん)。首都は開城(かいじょう)です。

 この高麗。現在、韓国のことをKoreaといいますよね。これは、高麗を表すKoryoが変化したものだといいます。当時、高麗は青磁(せいじ)という陶磁器を輸出し世界に名を知られることになりましたので、この高麗のイメージが強かったのでしょうね。

 また、高麗日本ともちょっと因縁があります。そう元寇です。

 高麗は1259年にフビライ=ハンの率いるモンゴル(元)軍の侵攻により属国となります。これに対して、高麗は三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる選抜部隊が奮闘し対抗するのですが、これも1273年には完全に鎮圧されてしまいます。そして、1274年には元により高麗水軍を前面に立てた日本攻撃が始まるのです。文永の役ですね。さらに1281年には再び日本に攻めてきます。弘安の役です。

 この高麗は、1356年に元から独立しますが、同時期に頻繁に発生していた倭寇(わこう・海賊)に悩まされ、高麗は徐々に衰退していくことになります。

 中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。

918
 こうして、新羅後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、
 新たに高麗(コリョ)を建国し、自ら王を名乗る。
 王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、
918
 9世紀になると新羅は内紛のため分裂状態となり、918年に後高句麗の将軍王建高麗をたて、朝鮮半島を統一した。高麗は仏教を保護し、唐と宋の制度を取り入れて栄えた。
918
 王建高麗建国(アジア-朝鮮)国史年表
926
 渤海滅亡
926
 渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げ、
926
 渤海滅亡(アジア-朝鮮)国史年表
935年
 高麗新羅を併合し、新羅滅亡そして、
935
 新羅滅亡(アジア-朝鮮)国史年表
936
 後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一(後三国統一)をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。
936
 高麗、後三国の統一(アジア-朝鮮)国史年表
956
 奴婢按検法実施(アジア-朝鮮)国史年表
958
 科挙制実施
976
 田柴科実施(アジア-朝鮮)国史年表
983
 十二牧設置
983
 全国に一二牧設置、三省六都を定める(アジア-朝鮮)国史年表
992
 国子監設置(アジア-朝鮮)国史年表
993
  契丹が何度も侵入し、高麗と激しい戦闘を繰り返した。契丹が西に去ると今度は女真が台頭し金を建国した。高麗は、金に朝貢して国内を安定させた。
993 - 1019
 実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。
だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。
996
 鉄銭(乾元重宝)の鋳造(アジア-朝鮮)国史年表
1009
 康兆の政変(アジア-朝鮮)国史年表
1019年
 亀州大捷

刀伊(女真族)の侵入 1019年

1107
 尹?、女真征伐
1019
 亀州大捷(アジア-朝鮮)国史年表
1076
 田柴科改定、官制改革(アジア-朝鮮)国史年表
1086
 義天、教蔵都監を設置して置き「続蔵経」を組み版刻む(アジア-朝鮮)国史年表
1097
 鋳銭都監設置(アジア-朝鮮)国史年表
1102
 海東通宝鋳造(アジア-朝鮮)国史年表
1107
 尹權、女真征伐(アジア-朝鮮)国史年表
1126
 李資謙の乱
1126
 李資謙の乱(アジア-朝鮮)国史年表
1135
 西京遷都運動
1135
 妙清の西京遷都運動(アジア-朝鮮)国史年表
1145
 金富軾「三国史記」編纂(アジア-朝鮮)国史年表
1146年
 第四代国王世宗がハングル(訓民正音)を制定するも集賢殿の副提学であった雀萬理は昔から、中華の土地では風土が異なってる方言を文字にした例はないと批判。これに対し世宗は「これは文字ではないので中華に対しての反逆ではない。訓民正音である。」訓民正音とは愚かな民に発音を教える記号。

保元の乱 1156年

平治の乱 1159年

1170
 武臣政変
1170
 武臣政変(アジア-朝鮮)国史年表
1174
 鄭仲夫、政房設置(アジア-朝鮮)国史年表
1179
 慶大升、都房政治(アジア-朝鮮)国史年表
1196
 崔忠献執権(アジア-朝鮮)国史年表
1198
 万積の乱(アジア-朝鮮)国史年表
1219
 蒙古モンゴルと通交(アジア-朝鮮)国史年表
1224
 モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。 徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、
1231
 モンゴルの侵入が始まった。高麗は都を江華島に移して抗戦したが、国土はモンゴル軍に蹂躙された。
1231
 モンゴル侵入
 北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗モンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、
1231
 蒙古モンゴルの第一次侵入(アジア-朝鮮)国史年表
1232
 江華島に遷都(アジア-朝鮮)国史年表
1234
 金属活字で「詳定古今礼文」を刊行(アジア-朝鮮)国史年表
1236
 高麗「大蔵経」を刻印刻む(-1251)(アジア-朝鮮)国史年表
1259
 高麗モンゴル帝国に服属し、30年に及ぶ抵抗は終わった。
 元の属国となった高麗は、二度の日本侵攻(元寇)の前線基地となり、多大な負担を強いられた。
1259
 高麗はモンゴルに服属することになる。
1270
 開京遷都
1270
 開京に遷都(アジア-朝鮮)国史年表
1270
 三別抄の対モンゴル抗争(アジア-朝鮮)国史年表
1274~1281年
 一方モンゴルのグビライは、日本を服従させようとして、2度にわたり、日本侵攻を行ったが失敗した。
 このとき、高麗は全線基地としての役割を命じられるが、多大な負担を強いられた。
1274
 高麗・元の第一次日本征伐(アジア-朝鮮)国史年表
1280
 僧一然「三国遺事」編纂(アジア-朝鮮)国史年表
1304
 安王向の主張によりで国学に大成殿設置を建てる(アジア-朝鮮)国史年表
1314
 萬巻堂の設置(アジア-朝鮮)国史年表
1350頃
 倭寇の動きが活発化し、また紅巾賊に都を占拠される事件も発生した。
1356
 双城摠管府回復
1359
 紅巾賊の侵入(-1361)(アジア-朝鮮)国史年表
1363
 文益斬、元から木綿の種を伝えるもたらす(アジア-朝鮮)国史年表
1376
 崔瑩、倭寇征伐(アジア-朝鮮)国史年表
1377
 崔茂宣の建議で火薬武器製造(火桶都監設置)(アジア-朝鮮)国史年表
1377
 「直指心体要節」印刷(アジア-朝鮮)国史年表
1388
 14世紀に入り元が衰え始めると、高麗は元と断交し、北方を奪還して、モンゴル侵入以前の領域を回復する。
 一方、活発化してきた倭寇に苦しむことになる。しかし、高麗軍の有力武将らが、次第に倭寇に打撃を加え、その脅威は減少する。
 やがて、中国が明に変わると、高麗内で親元派と親明派との抗争が絶えなかった。
1388
 威化島回軍
 武人李成桂はクーデターを興して政権を掌握すると、親明派の支持を受けて体制を固め、
1388
 威化島回軍(アジア-朝鮮)国史年表
1389
 朴威、対馬征伐(アジア-朝鮮)国史年表
1392
 自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。
1392
 高麗滅亡.朝鮮建国(アジア-朝鮮)国史年表

朝鮮王朝、朝鮮時代(1392 - 1897)

朝鮮時代(1392 - 1897)

李氏朝鮮(1392~1897)

・一割もいない両班・貴族階級が、中人、常民、賎民、奴婢を支配
・樽も車もなく、庶民は白い服しか着なかった
・商店も貨幣もない実物経済、御用証人のみ

 朝鮮は、14世紀末に建国されました。儒教が国の基本理念となり、朝鮮社会全般に大きな影響を与えました。1443年には世宗大王によりハングルが作られました。1592年に壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が始まると共に諸外国の勢力が侵入してきたことにより、朝鮮の国力は次第に衰退していきました。

 モンゴル帝国(元)からの独立を勝ち取った高麗。しかし、この高麗倭寇(海賊)などの活動により衰退していくことになります。この倭寇の撃退で名を馳せたのが高麗の武将・女真人の李成桂(りせいけい)でした。

 李成桂は、1392年に自ら高麗の王に即位します。李成桂は、王に即位すると国号を「朝鮮」としました。ちなみに、朝鮮という呼び名は、以前にも「箕子朝鮮・きしちょうせん」や「衛氏朝鮮・えいしちょうせん」という呼び名がありましたので日本では、これらと分けるために李朝朝鮮または李氏朝鮮と呼ぶことがあります。

 この李朝朝鮮の首都は漢城(ソウル)です。

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 李成桂は、進んで明(中国)の文化や制度を取り入れ、明にならい朱子学(しゅしがく)を官学化したりもしました。今の韓国の国旗は「太極旗」といいますが、あれは朱子学の世界観を図解化したものですね。

 15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。

1392
  朝鮮建国
 高麗の武将、李成桂は、自ら高麗王につき、翌1393年には、国名を「朝鮮」(??)と改称し、首都を漢陽(今のソウル)に移した。その後、数代にわたり、国としての各種制度・体制を整備していくが、王位継承のもつれから、うちのめされた李成桂は、晩年、仏門に帰依することになる。
1392
 日本では、南北朝が合一。
 元が滅んで明の時代になると、倭寇や元を見限り明につき元との戦いで功績をあげた李成桂が立ち上がり、1392年に高句麗を王となる。
 李成桂は、王位につくやすぐさま、当時誕生したばかりの明王朝に伺いを立て国号を決めて貰っている。
 李成桂は明から権知朝鮮国事(朝鮮・李氏朝鮮初代の王)に封ぜられた。
 この時、李成桂は、箕氏朝鮮の旧号「朝鮮」と李成桂の生地「和寧」の二つの名前を持ち出し、明の太祖の朱元璋から「朝鮮」の国号を使うことを許されている。世界史の中で様々な国が存在するが、他国に自国の国号を決めて貰った国など、後にも先にも朝鮮ただ一カ国である。
 本来ならこの一時を持って、朝鮮が中国の属国であった事を、何よりも物語っているのだが、韓国人はこれでもまだ朝鮮が中国の属国であったことを認めないのである。
 都は漢陽(ソウル)である。朝鮮は約500年続き、明の朝貢国の時代(1393~1637年)、清の朝貢国の時代(1637~1894年)、欧米や日本が干渉した時代(19世紀後半~1910年)に分けられる。
 李成桂は儒教を崇拝し、仏教を排斥する政策をとった。しかし、彼は晩年に仏門に帰依するなど儒教も仏教も保護された。明の朝貢国の時代には、文禄・慶長の役と清の侵攻の大きな戦争が発生し国土は焦土と化した。

李氏朝鮮(1393~1896)

1392
 李成桂が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位、明より権知高麗国事として認められる、(権知高麗国事:高麗の政治をあずかっていると云う地位)
1393
 李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる、明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の二案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ、内乱(~1400)
1394
 漢陽(現、ソウル)に遷都
1394
 漢陽遷都(アジア-朝鮮)国史年表
1396
 倭寇の本拠地、対馬に軍隊を派遣、政治と軍事を分離した議政府をつくり、中央集権制度の確立
1398
 第一次王子の乱
1400
 第二次王子の乱
1401
 明より朝鮮国王の冊封をうける
1402
 号牌法の実施
1402
 号牌法実施(アジア-朝鮮)国史年表
1403
 鋳字所設置(アジア-朝鮮)国史年表
1404
 室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる
1411
 漢陽に五部学堂設置(アジア-朝鮮)国史年表
1413
 両界地域に道制を施行する
1413
 朝鮮八道の地方行政組織完成(アジア-朝鮮)国史年表
1413
 「太祖実録」を編纂(アジア-朝鮮)国史年表
1416
 四都設置(-1443)(アジア-朝鮮)国史年表
1418
 《太宗が譲位して、世宗が即位(~1450)》、(儒教の推進による王道政治、現在の朝鮮領土の原型ができる)
1418
 世宗即位(アジア-朝鮮)国史年表
1419
 朝鮮、倭寇征伐を理由として対馬を侵略する。日本、侵略した朝鮮を撃退。 (応永の外寇)(アジア-朝鮮-日本-応永)
1420
 集賢殿拡張(アジア-朝鮮)国史年表
1426
 三浦に倭館を設置し、常住を許可する
1433
 四軍設置(アジア-朝鮮)国史年表
1434
 1437 六鎮設置(-1449)(アジア-朝鮮)国史年表
1441
 測雨器製作(アジア-朝鮮)国史年表
1443
 対馬の宗氏、朝鮮と嘉吉条約を結び通商再開。
 ※ 応仁の乱の最中も無関係に通商。
1443
 第四代国王、世宗(??)の時代は、朝鮮時代の中でも王権が強固で権威も行き届いており、もっとも安定した時代とされている。
 この年、世宗王はハングルの基になる訓民正を制定するも、集賢殿の副提学であった雀萬理は「昔から中華の土地では風土が異なっても方言を文字にした例はない」と批判。
 これに対し世宗は「これは文字ではないので、中華に対しての反逆ではない。訓民正音である。」
 ※ 訓民正音とは愚かな民に発音を教える記号のこと。

 また、この李朝で何と言っても覚えておきたいのがハングル(訓民正音)の制定です。これを制定したのは14431146年のこと。制定したのは第4代国王・世宗(せいそう)の時代でした。

1443
 訓民正音の制定(1446年公布)、歳遺船(年間渡航許可船)の制度を定める
1443
 訓民正音」創製(アジア-朝鮮)国史年表
1446
 「訓民正音」としてハングル文字が公布
1446
 訓民正音」領布(アジア-朝鮮)国史年表
1453
 癸酉靖難(首陽大君(のちの第7代国王・世祖)による政権奪取)
1456
 丙子冕獄(死六臣が処刑される)
1466
 職田法(官職についているものだけに田地の給付)の制定
1466
 職田法実施(アジア-朝鮮)国史年表
1467
 李施愛の乱
1468
 世祖が崩御し睿宗即位(1469年に崩御)、南怡の謀叛事件が起こる
1470
 成宗の治世に『経国大典』頒布、朝鮮王朝の諸法体系化の完成をみる(~19世紀末)
1485
 経国大典完成
1485
 1169 「経国大典」完成(-1449)(アジア-朝鮮)国史年表
1498
 士林派に対する弾圧が始まる(戊午士禍)
1504
 甲子士禍が起こる
1506
 燕山君がクーデターにより失脚し、中宗が即位(中宗反正)
1510
 三浦の乱、日本人居留民と朝鮮人が交戦。
1510
 在朝日本人の貿易活動等を統制したため、三港で日本人と援軍の宗軍による暴動が起こる(三浦の乱)
1510
 三浦倭乱(アジア-朝鮮)国史年表
1512
 壬申約条(アジア-朝鮮)国史年表
1519
 己卯士禍が起こる、(趙光祖の改革政治が挫折)
1543
 白雲洞書院設立
1543
 白雲洞書院を建造建てる(アジア-朝鮮)国史年表
1545
 仁宗崩御(在位1544年~1545年)、明宗即位 乙巳士禍が起こる
1554
 備辺司設置(アジア-朝鮮)国史年表
1555
 備辺司設置
1555
 乙卯倭変(アジア-朝鮮)国史年表
1559
 林巨正の乱(~1562)
1567
 《宣祖即位》、勲旧派の終焉、以後、士林派(新進官僚による政治勢力)同士の対立が続く
1575
 東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)、陶山書院建立
1582
 マリ、済州島漂着(アジア-朝鮮)国史年表
1587年
 九州の平定。伴天連追放令(豊臣秀吉)
 朝鮮国王に入貢要求。
1588
 海賊停止令。
 琉球国王に入貢要求。
1589
 中国征服を狙う豊臣秀吉は、朝鮮に明征討の先鋒になるよう要求してきた。朝鮮は日本の真意を確認するため通信使を派遣した。帰朝した通信使は、「日本は侵攻の準備をしている」と報告したが、「秀吉を恐れる必要はない」との報告もあり、結局、防衛準備を行わなかった。
1589
 鄭汝立の乱
1590
  豊臣秀吉、天下統一。
1591
  豊臣秀吉、インド副王(ポルトガル総督)に入貢要求。
 この時、スペイン国王にも入貢要求
 フィリピンに入貢要求。
 唐陣(朝鮮出兵)を命じる。
1592
 壬辰倭乱
 この朝鮮に対して豊臣秀吉が侵略のために軍を派遣します。「文禄・慶長の役」ですね。朝鮮の人々がいうところの「壬辰・丁酉(じんしん・ていゆう)の倭乱」です。
 この秀吉軍に激しく対抗し、活躍したのが朝鮮海軍の李舜臣(イスンシン)でした。韓国には現在でも英雄であり、銅像がいたるところに立っています。
 この秀吉の朝鮮侵略の計画は、秀吉の死により日本軍の撤退という形で終わりを告げますが、朝鮮にとっても大きな打撃となりました。
1592年(文禄元年)
 文禄の役
 この頃、日本では、豊臣秀吉が日本を統一し、更に勢力拡大のため、大陸進出をはかろうとしていた。
 日本軍が釜山に上陸し、いわゆる文禄の役が発生し、体制の整わない朝鮮軍は各地で破れ、たちまちにして、首都漢城(ソウル)を攻略し、数ヶ月で朝鮮全土が制圧された。
 釜山近くの蔚山城の戦いが有名。加藤清正はこの時虎退治をした。
 当時腐敗が進んでいた朝鮮は、なすすべもなく、国土を疲弊してしまった。
 朝鮮の国境、豆満江を越えて、満州のオラニンイ(ワルカ)へ
 支援要請を受けた明軍が到着し、義勇軍が立ち上がると戦線は膠着した。
 そして、一旦休戦し3年におよぶ和平交渉が始まったが決裂。
1592
 壬辰の倭乱・丁西の倭乱(~1598:豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻で、全国土が戦乱の被害をうける)
1592
 壬辰倭乱、閑山島大捷(アジア-朝鮮)国史年表
1593
 幸州大捷(アジア-朝鮮)国史年表
1597年
 慶長の役
 日本は再び侵攻してきた。北上する日本軍を漢城付近で明軍が迎え撃ち、泥沼の戦いが続いた。しかし、秀吉の健康が損なわれ、戦争が泥沼状態になり、やがて、秀吉の死去によって、この7年に及ぶ戦乱は終結する。
 この動乱により、朝鮮は、政治的にも、経済的にも、また社会的にも、壊滅的な状態に追いやられ、破綻寸前に陥った。
1599
 秀吉が死去し、日本軍は撤退した。
 現地の土地を出兵した者がのぞまないため、負けという形になった。
 この戦乱で朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力は弱体化し、滅亡の遠因になった。

 朝鮮出兵 → 本当は「明」への出兵、唐陣。
        「明」←→中原のみの国

17世紀前半
 清から攻撃を受け、朝鮮は清の属国となりました。
 
 朝鮮の朝貢物は女性(生口)
1607
 日本との関係は。秀吉の死後、朝鮮通信使が日本に送られ関係を修復しました。
 朝鮮通信使 → 人質奪還のための使節。
1607
 回答兼刷還使を日本へ派遣する
1608
 京幾道で大同法を実施
1608
 京畿道に大同法実施(アジア-朝鮮)国史年表
1609年
 その後も、王位継承をめぐる争いは、断続的に発生し、紆余曲折があるが、1609年になって、日本と和約し、外交面での修復が展開されていく。
1609年
 日本と和約し外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。
1609
 李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で己酉約条(慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される
1609
 日本と己酉約条締結(アジア-朝鮮)国史年表
1610
 「東医宝鑑」完成(アジア-朝鮮)国史年表
1613
 七庶の獄
1616年
 中国では明が衰え、満州に後金が独立した。

満州・・・非漢字国
     満州人
満州語・・アルタイ語系文字

1616
 光海君の明・金中立外交
1619
 サルホの戦いで後金軍に敗れる
1623年
 仁祖反正
1623
 仁祖反正で光海君廃位
1623
 仁祖反正(アジア-朝鮮)国史年表
1624
 李?の乱
1624
 李?の乱(アジア-朝鮮)国史年表
1627年
 後金(後の清)のヌルハチホンタイジ(女真人・満州人)は明と同盟関係にある朝鮮に侵攻してきた。朝鮮軍は敗北を重ね、皇帝は江華島へ避難した。その後、後金に服従することで講和が成立、交易開始、後金軍は撤退した。
1627
 丁卯胡乱(後金の朝鮮侵攻)
1627
 丁卯胡乱(アジア-朝鮮)国史年表
1628
 ベルテブレ、済州島漂着(アジア-朝鮮)国史年表
1631
 鄭斗源が明から千里鏡、時計自鳴鍾、鉄砲火砲などを輸入(アジア-朝鮮)国史年表
1636年
 丙子胡乱
 後金は国号を清とし、清に服従することと明討伐の派遣軍3万の提供を要求してきた。朝鮮はこれを拒否、清は12万の大軍で侵攻してきた。朝鮮軍はなすすべもなく40日あまりで降伏した。朝鮮は明と断交すること、王子を人質に差し出すこと、莫大な賠償金を支払うなどの屈辱的な講和条約を結ばされた。また、朝鮮王の仁祖は、清の皇帝の前で三跪九叩頭の礼を行い、服従する誓いをさせられた。
 【三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)】 中国皇帝に臣下の礼をとるため、三度ひざまずき、九度頭を地にこすりつける儀式。
1636
 清のホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)、朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城、(後金、国号を清とする)
1636
 丙子胡乱(アジア-朝鮮)国史年表
1637
 仁祖(朝鮮王)降伏、明に替わり、清の皇帝を認める(大清皇帝功徳碑)、以後、1895年の下関条約締結まで、朝鮮は清に臣従する、小中華思想(朝鮮のみが、中華文明の継承者であるとする)が髙揚
1645
 昭顕世子が清から科学書籍、カトリック書籍などの洋書を輸入(アジア-朝鮮)国史年表
1653
 ハメル、済州島漂着(アジア-朝鮮)国史年表
1653
 時憲暦採択(アジア-朝鮮)国史年表
1654年
 羅禅征伐
1658
 第二次羅禅征伐(アジア-朝鮮)国史年表
1659
 湖西地方に大同法実施(アジア-朝鮮)国史年表
1660
 己亥礼訟(礼論が起こる)
1662
 堤堰司設置(アジア-朝鮮)国史年表
1674
 甲寅礼訟により、南人が政権を握る(両班制度の中の党派争い)
1678
 常平通宝鋳造(アジア-朝鮮)国史年表
1680年
 西人政権
1680
 庚申換局
1683
 西人が老論と少論に分裂
1689
 己巳換局
1694
 粛宗の治世に甲戌の獄起こる
1696
 安龍福、欝陵島から日本人を追放追い払う(アジア-朝鮮)国史年表
17世紀
 この頃の朝鮮半島は中国の清による冊封体制の中にありました。
17世紀末
 党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。
現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。
1708
 全国に大同法施行(アジア-朝鮮)国史年表
1712
 白頭山に定界碑を建立
1712
 白頭山定界碑建立(アジア-朝鮮)国史年表
1721
 景宗の治世に、壬寅の獄起こる(~1722 辛壬士禍)
1724
 《英祖即位(在~1776)》
1725年
 蕩平策実施
1725
 蕩平策実施(アジア-朝鮮)国史年表
1728
 李麟佐の乱
1750年
 均役法実施
1750
 均役法実施(アジア-朝鮮)国史年表
1762
 英祖の治世に荘献世子事件起こる、精神を病んだ荘献世子が異常な行動を取り、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する
1763年
 朝鮮通信使が日本からサツマイモを持ち帰り、朝鮮で食糧対策の一環として取り入れられた。
1763
 さつまいもの伝来(アジア-朝鮮)国史年表
1776年
 奎章閣設置
1776
 奎章閣設置(アジア-朝鮮)国史年表
1784
 李承薫が天主教の書籍を持ち込む
1784
 李承薫の天主教カトリック伝道(アジア-朝鮮)国史年表
1785
 「大典通編」完成(アジア-朝鮮)国史年表
1786年
 西学禁止
1786
 西学を禁じる(アジア-朝鮮)国史年表
1791
 辛亥通共政策(商業における自由売買を決める)
1796
 正祖による水原城(華城)建設、(朝鮮後半の全盛期)
18世紀
 中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。
このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。
19世紀
 しかし、19世紀に入ると東アジアでは激動の時代となります。アヘン戦争などによる清の国力低下。フランスやアメリカも朝鮮を狙い始め、また日本も朝鮮に国交を強く要求します。しかし、朝鮮は清による冊封体制の下にあることを理由に日本との国交を拒否し、日本と朝鮮との間では対立が激しくなっていくのです。
1801年
 辛酉迫害
1801
 辛酉邪獄(天主教徒[カトリック]と中国人神父の殺害)
1801
 辛酉迫害(アジア-朝鮮)国史年表
1804
 《純祖の治世、安東金氏による権勢政治(~1863年)》、士林派の終焉
1811年
 洪景来の乱
1811
 洪景来の乱(~1812 地方差別に反発した一揆)
1811
 洪景来の乱(アジア-朝鮮)国史年表
1831
 カトリック朝鮮教区設置(アジア-朝鮮)国史年表
1832
 英国商船来航し、通商をもとめる
1839
 己亥迫害(漢城の天主教徒の弾圧)
1839
 己亥迫害(アジア-朝鮮)国史年表
1846
 丙午迫害(天主教徒の漢江畔での処刑)
1860
 崔済愚、東学創始(アジア-朝鮮)国史年表
1861
 金正浩、「大東輿地図」をつくる(アジア-朝鮮)国史年表
1862年
 壬戌農民蜂起
1862
 慶州道の晋州地方から農民蜂起始まる
1862
 壬戌農民蜂起(アジア-朝鮮)国史年表
1863年
 興宣大院君、執権。
 大院君の鎖国政策。
1863
 《哲宗崩御し、高宗即位》、大院君政権の成立(王権強化)
1863
 高宗即位。興宣大院君執権(アジア-朝鮮)国史年表
1865年
 閔妃が王妃に。
1865
 景福宮再建(-1872)(アジア-朝鮮)国史年表

閔妃・・・1851ー95年
     閔茲暎、公宗の王妃。
         後の明成皇后。

1866年
 丙寅迫害 → 丙寅洋擾
 カトリック虐殺 → 舐めきって準備不足の仏に勝利?
 ジェネラルシャーマン号事件。
 アメリカ商船を奇襲、虐殺。
1866年
 高宗の王妃に。
1866
 丙寅教獄(フランス人神父を含む多数の天主教徒の処刑により、フランス艦隊の江華島攻撃)、丙寅洋擾(アメリカ武装商船シャーマン号が朝鮮軍人の拉致や発砲を行うも、逆に焼討ちにあい全員殺害される)
1866
 丙寅迫害、丙寅洋擾(アジア-朝鮮)国史年表
1867年(明治元年)
 明治政府は宗氏を通じ、王政復古を朝鮮に通達。「皇」「勅」の字の多用に朝鮮が怒り、受け取り拒否。
 以後、朝鮮は日本使者に非礼。帰国後、全員が「即時征韓論」を唱える。
1871年
 辛未洋擾、米軍、江華島で報復。
 朝鮮軍敗北も「賛国維持」で勝利と宣伝。
1871
 辛未洋擾(アジア-朝鮮)国史年表
1873年(明治6年)
 征韓論争
1873年
 大院君失脚により、閔一族の権勢。高宗、親政。

同族争いの歴史

輿宣大院君 ━┳━
       ┃
       高宗 ━━━ 閔妃

1873
 《大院君追放、閔妃を中心にした閔氏政権の成立》
1874年(明治7年)
 純宗、出産。
 高宗、妾に男子有り。
1874
 (日本による台湾出兵)
1875年(明治8年)
 日本軍と朝鮮軍との間で江華島事件(こうかとうじけん)がおきます。これは、日本軍が朝鮮付近の海を測量したのに対して朝鮮軍との間に衝突が起きたのですね。
 日本に媚びる。
1875年(明治8年)
 清に息子を王世子と認めてもらう。
1875
 江華島事件(日本が朝鮮との国交通商を要求し武力示威した事件)
1875
 雲揚号事件(アジア-朝鮮)国史年表
1876年(明治9年)
 日朝修好条規
 清の宗主権を否定
 両班でない階層は、親日派で近代化を目指す
 宮中で興宣大院君閔妃が権力争いを繰り返す
 日清の条約の後

※ 両班
朝鮮の身分制度・・・千年にわたる、非人間的な身分制度

 貴族・・・王族及びその縁者
 両班・・・特権階級
      併合前の李氏朝鮮末期、戸籍上の半数
 中人・・・官僚機構をになう専門職
 常民・・・多くが小作農、実質的な人権がない
      常奴の蔑称も
 七賎・・・賎民階層
      (商人、船夫、獄卒、逓夫、僧侶、白丁、巫女、李朝時代には妓生(きいせん))
      白丁は戸籍が無く、性も無い、その他いくつもの禁止事項が。
 奴婢・・・家畜同然で、他人に売買はされる存在。

1876年
 江華島条約
 江華島事件の翌年には、日本は朝鮮との間に不平等条約「日朝修好条規」を結ぶことに成功しました。
 この日朝修好条規により朝鮮は日本に対して釜山、元山、仁川を開港し、開港地には日本の居留地を設定しなければならず、領事裁判権を認め、関税自主権も失うことになります。
 これによって、日本人が朝鮮に渡って、米の流通を牛耳ってしまうんですね。そして、大量の穀物などが日本に輸入され、朝鮮では穀物の価格がどんどん高くなってしまう事態となります。
 1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。 これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。
1876年
 王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。
1876
 日朝修好条規を結ぶ、釜山など三港の開港と自由貿易、開港場の居留地、日本商民への領事裁判権の承認、日本貨幣の流通、輸出入品への関税免除など、参考:、(1880)日本公使の常駐、元山の開港、無関税規定の改定、(1883)仁川の開港
1876
 江華島条約を締結(アジア-朝鮮)国史年表
1879
 池錫永、種痘法実施(アジア-朝鮮)国史年表
1881年
 調査視察団(紳士遊覧団)、領選使派遣
1881
 紳士遊覧団および領選使派遣(アジア-朝鮮)国史年表
1882年
 米朝修好通称条約
 壬午事変(じんごじへん)壬午軍乱(じんごぐんらん)
 壬午事変というのは、朝鮮にて当時、政権を握っていた閔氏(びんし)人物日本と友好であったが為、それに反発するグループがクーデターを起こした事件です。結局、これには日本軍、清軍が介入し鎮圧。この事件後、日本はソウルにおける日本軍の駐留権を認めさせ、清も朝鮮に対して軍隊を指導するなど内政干渉を強めていきます。
 ちなみに、この事件の後、それまで親日的であった閔氏は内政干渉を強める清よりへと傾いていきます。
1882年
 大院君、復権。

壬午事変前の改革

   閔氏政権       vs  金弘集
   ・開化政策        ・清を見習う
    日本を見習う
    日本人顧問を呼んで
    新式訓練(別技軍)

壬午事変

   ・給与13ヶ月分に旧式軍人が激怒
    7月23日蜂起
   ・金弘集ら事大党、日本公使館を焼くなど
    クーデター
   ・大院君が担がれる
   ・閔妃は女官に紛れ脱出
     →日本を見捨て清(袁世凱)を頼る

1882年8月30日
 済物浦条約
 日本は軍艦5隻に陸軍一個大隊と海軍陸戦隊を載せ、仁川から一気にソウルまで駆け上がり、居留民保護。
 
 以下を朝鮮に認めさせる
 ・謝罪
 ・責任者処罰
 ・賠償
 ・公使館警備のための軍隊駐留(再発防止)
1882
 大院君、開化政策の否定とする、壬午軍乱(軍内における棒給などの不満による暴動で、閔政権打倒される)起こる、朝米(朝英・朝独)修好通商条約の締結、清国は壬午軍乱を鎮圧し、ソウルに軍隊を駐留させ、朝中商民水陸貿易章程を締結する、清国による内政干渉がはじまる

壬午事変後の朝鮮

 ・朝清商民水陸貿易章程で経済的に属国化
 ・馬建忠とメレンドルフが顧問に。
  閔妃はメレンドルフ(高宗側近)と組みロシアに色目。・・・清の不信。

1882
 壬午軍乱(アジア-朝鮮)国史年表
1882
 米英独などアメリカ、イギリス、ドイツと通商条約締結(アジア-朝鮮)国史年表
1883
 「漢城旬報」発刊(アジア-朝鮮)国史年表
1883
 曲圜局設置(アジア-朝鮮)国史年表
1883
 元山学舎設立(アジア-朝鮮)国史年表
1883
 大極旗使用(アジア-朝鮮)国史年表
1884
 郵政局設置(アジア-朝鮮)国史年表
1884
 甲申政変(アジア-朝鮮)国史年表
1884年12月4日
 甲申事変(こうしんじへん)
 そして、そのすぐ後、甲申事変が起きます。これは、朝鮮にて清の影響力が強まる中、日本と組んで近代化を目指した方がいい!というグループがクーデターを起こすのです。もちろん彼らは自分達だけでは無理なので日本の軍にも期待しています。それに対して、閔氏は清に援軍を要請します。朝鮮の人々の中でも日本につくか?清につくか?で争いが頻発した時代ですね。
 しかし、日本も清も本気で戦争を始められる状態では当時なかった。1884年といえば清はベトナムをめぐって清仏戦争を起こしていて、日本も自由民権運動の真っ只中。そこで、両国間の間で天津条約(てんしんじょうやく)というのが結ばれます。これは、とりあえず、両国とも軍を朝鮮から軍を引き上げましょう。また、今後朝鮮への出兵する際には事前に通告をし合うことにしましょう。と約束事を設けたんですね。
 閔妃失脚も、清の力で復権。

甲申事変

 金玉均、竹添進一郎
 日本公使館の協力を得て、閔氏政権に対して、クーデター

 1.国王殿下の呼称の廃止
  皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。
 2.清国に対して、朝貢の礼を廃止する事。
 3.内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。

 など、14項目の政策を発表

清は、清仏戦争の敗北により、全力を朝鮮に。
閔妃は、再び清を頼る。
日本軍150 対 清国1500で銃撃戦。

清軍、日本公使館焼き討ち。市街で居留民虐殺。
竹添、長崎へ脱出。
金玉均、朴永孝も日本へ亡命。
3日で、クーデター失敗。
清は、大院君を送り出す。

甲申事変後の処理

 ・閔妃の復讐
 ・開化は要人の家族、凌遅刑
 ・金玉均、暗殺団、組織

 漢城条約(日本に対して)
 ・謝罪
 ・賠償金

事大主義
 強い方に付く、勝ちそうな方に付く。
 親清・親露・親日の見方はできない。

1884
 朝露修好通商条約の締結、甲申政変(甲申事変)、開化派のクーデターは失敗に終わり、事大派の勝利となる
1885年4月
 天津条約
 ・朝鮮より、両軍の撤兵
 ・軍事顧問団不派遣
 ・出兵前に事前通告の原則
1885年
 巨文島事件
1885年
 ロシアを後盾にしようとして失敗。
1885
 日本と漢城条約の締結、英艦隊、巨文島を占領する、(日清間に天津条約の締結)
1885
 巨文島事件(アジア-朝鮮)国史年表
1885
 培材学堂設立(アジア-朝鮮)国史年表
1885
 ソウル・仁川間電信開通(アジア-朝鮮)国史年表
1885
 広恵院設立(アジア-朝鮮)国史年表
1866
 キリスト教を弾圧し、信者1000人の死傷者を出した
1886
 育英公院、梨花学堂設立(アジア-朝鮮)国史年表
1888年
 ドイツでヴィルヘルム2世が即位し、国際政治が大変動。
1889年
 威鏡道、防穀令実施
1889
 咸鏡道に防穀令実施(アジア-朝鮮)国史年表
1890
 山県有朋による「外交政略論」の提出、(朝鮮を日本の利益線とみなし、その防護が国家目標であるとする)
1894年
 東学農民運動、甲午改革
1894年
 閔妃、金玉均を暗殺。
1894年
 東学党の乱
 そして、10年後に東学党の乱というのが起きます。農民が減税などを訴え起こした乱です。これを鎮圧させる為に閔妃は清に援軍を要請します。これを見た日本日本の公使館を守るなどの理由で出兵。しかし、この乱が鎮圧した後も清、日本共に兵を引き上げず朝鮮国内に留めていたことから日清戦争へともつれ込んでいきます。
1894年
 甲午農民戦争(東学党の乱)が発生する。党派間のクーデターによる混乱や、外国との開国通商による物価高騰に苦しめられた農民が中心になって蜂起し、官軍と起こした内戦である。この戦争は、政府の要請による清の援軍と日本の介入とにより、官・農民間の和議が成立して終結する。
 しかしその後も、清軍と日本軍は、双方が朝鮮に駐屯を続け、ついに、日清戦争が勃発する。この戦争は1895年、日本軍の勝利に終わり、朝鮮は日本の影響下におかれることになる。
1894年3月
 東学党の運動が盛んに。東学党の乱
 大院君、東学党の大幹部の全?準を食客に。
 大院君は儒教原理主義を押し立て、清の後ろ盾を頼る。しかし、日本にも色目。
 閔妃はロシアに色目を使うも、清に媚びる。
 閔妃が清に出兵要請。
 閔妃、失脚。
 
 東学党二代目教祖 雀時亮
   →排外的西洋文化が、古来文化をこわす。
 
 地方役人の賄賂に、地方農民が怒り乱となった。
1894年6月2日
 伊藤内閣、解散と開戦を同時決定。
1894年6月5日
 朝鮮王朝が清軍に出兵を依頼、朝鮮に出兵。
1894年6月8日
 清出兵に伴い日本軍、朝鮮に出兵。
 日清英露の四国で協議。
1894年7月22日
 日本、朝鮮に清軍の撤退を要求。
1894年7月23日
 王宮占領。高宗拘束。
 大院君、第三次政権樹立も、1ヶ月で日本に呆れられる。
1894年8月1日(明治27年)
 日清戦争
 日清両国、宣戦布告。
 大院君へ引退勧告。
1894年9月15日
 平壌攻略。
1894年9月17日
 黄海海戦勝利。
1894年11月7日
 大連占領。
1894年11月7日
 旅順占領。
 この日清戦争については、ご存知の通り。日本の大勝利により下関条約が結ばれます。
 大院君、日清戦争中、開化派を弾圧。
 日本が激怒も、涙の弁明で命乞い。幽閉。

「朝鮮雑記・・・日本人が見た1894年の李氏朝鮮」祥伝社・本間九介(安達九郎)
        匙や箸などを使わず、すべて手で。
        小便で顔を荒い、婦女子が陰部を洗う(梅毒など伝染病予防)

1894
 東学党の乱(一次・二次甲午農民戦争)、大院君派と閔妃派の対立が深まる 
日清戦争で陸上戦闘の主戦場となる
1894
 東学農民運動、甲午改革(アジア-朝鮮)国史年表
1895年4月17日
 下関会議。

下関条約の内容
1:朝鮮の独立を認めること。
(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)
2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。
(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)
3:台湾を日本に譲り渡す。
(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)
4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。
(これは台湾と中国本土の間の島々。)
5:賠償金2億両を日本に支払う。
(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)
6:日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)
沙市、重慶、蘇洲、杭洲の開港。?

 朝鮮において重要なのは最初の朝鮮の独立を清に認めさせたというところ!これにより、清による朝鮮の冊封体制は完全に消滅。1897年には朝鮮は大韓帝国と改称することになります。

 そして、韓国併合。つまりは、日本による朝鮮の植民地化へと進んでいくのです。

1895年4月
 三国干渉で親露政策。
 ドイツ フランス     ロシア
 ロシアと友好関係維持 → 遼東半島が日本領になると南下政策に支障。
 
 日本に圧力 → 遼東半島を清国に返還。
 
 清国より賠償金上乗せ。
 「朝鮮には貨幣がない」
1895年10月8日
 乙未改革
 閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変
 日清戦争による日本の勝利に伴い、朝鮮半島は清の冊封体制から逃れた訳ですが、国内ではこのままでは日本のいいなりになってしまうと危機感が広がっていくわけです。
 そして、朝鮮の宮廷内では、ロシアと手を組んで日本に対抗しようという動きが出てきます。
 当時、日本は日清戦争によって獲得した遼東半島をロシアが中心となった三国干渉により清に返還していますから、朝鮮王朝としてはロシアを味方につければ日本もおとなしくなるだろうという考えがあったわけです。
 当然、日本はこの事態に激怒するわけですが、それにしても恐ろしい事件を引き起こすことになります。
 1895年10月8日、閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)です。
 大院君、三浦梧楼公使と閔妃殺害を計画。
 閔妃殺害事件後、幽閉。

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 閔妃の本当の写真は?

 閔妃は国王の王妃です。彼女がロシアと手を組もうとしている朝鮮宮廷内の動きの背後にいるのではないか?という日本側の憶測により、閔妃を殺害した上でガソリンにて遺体を妬いてしまうという暴挙をおこします。この閔妃殺害には陸軍600人、民間人47人が参加したとされ、首謀者とされたのが三浦梧楼(ごろう)という人物です。彼は、ソウル公使であったのですが、彼ひとりでこの大事件を画策したというのにはさすがに無理がありますね。そして、結局彼らは証拠不十分ということで処罰されることはありませんでした。この事件の背後にいたのは、日本政府?または、殺害事件の前にも暗殺未遂事件が起きていることから閔妃に不満を持つ宮廷内の人物日本側と手を組んで?など近年ではさまざまな憶測が飛び交っています。

 背後に誰がいたのか?それは定かではありませんが、しかし、首謀者が三浦梧楼とされ、彼は処罰されずということで朝鮮国内では日本に対して不満が爆発していくきっかけとなっていきました。

1895
 日清講和条約(下関条約成立、朝鮮が独立国であることを確認) 
朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される 
親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が 日本軍守備隊や警察、訓練隊等により殺害される(乙未事変) 
三浦梧楼の指揮によって殺害されたとする説が一般的だが、他方日本の保守派・右派の間では、それについて確認がとれていないことを強調する立場もある
1895
 乙未事変(閔后弑殺)(アジア-朝鮮)国史年表
1895
 兪吉濬「西遊見聞」を書く(アジア-朝鮮)国史年表
1896年
 大院君、隠居。
 「独立新聞」創刊
 独立協会設立
1896年
 露館播遷
 高宗、暗殺を恐れロシア公使館に逃げ込む。
1896
 山県・ロバノフ協定
1896
 俄館播遷(アジア-朝鮮)国史年表
1896
 「独立新聞」発刊(アジア-朝鮮)国史年表
1896
 独立協会の設立(アジア-朝鮮)国史年表
1897
 大韓帝国の成立(皇帝独裁による国家的独立)
1897
 大韓帝国の設立(アジア-朝鮮)国史年表

大韓帝国(1897ー1910)

大韓帝国(1897~1910[日本の保護国の時期 1905~1910])

1897年
 大韓帝国成立
 一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。
 朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。
 日本はロシアの南進を防ぐべく、朝鮮半島近代化を進めた武断政治とよばれる強権統治をおこない、活発な抗日独立運動がおこった
 日清戦争後の下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(通称・韓国)として独立し、高宗は韓国皇帝を称した。これ以後日本の強い影響下に置かれた。そして、
1897年
 日清戦争(1894年ー1895年)の清の敗北を受けて締結された下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、朝鮮国から大韓帝国と国号を改める。
1897
 日清戦争(1894~1895)の清の敗北を受けて締結された下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、朝鮮国から大韓帝国と国号を改める 
(財政基盤の脆弱性により借款がうまくゆかず、各地で抗争が起きる)
1898年
 大院君、死去。
1898年
 万民共同会開催
「皇城新聞」創刊
 朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。
 閔妃を明成皇后に祭り上げる。
 親露派が親日派を圧倒。
1898
 独立教会、官民共同会を開き国政改革を求めるも、土地改革構想を提示しえず、農民層を陣営に取り込めず失敗し、守旧派の弾圧を受け解散する
1898
 万民共同会開催(アジア-朝鮮)国史年表
1899年
 京仁線開通
1899
 京仁線開通(アジア-朝鮮)国史年表
1900年(明治33年)
 日英露独墺伊仏英、八ヶ国連合軍出兵。
1900年4月
 露清密約、満州全域に露軍駐留。

1900年、漢江に1100mの鉄橋を架ける。

1900
 京仁鉄道の開通
1900
 万国郵便連合加入(アジア-朝鮮)国史年表
1901年
 北京議定書(日本は駐留権)
1901
 貨幣条令を公布し、金本位制を採用
1902年1月30日
 桂太郎首相、ロシアに満韓交換論を提示。
1902
 (日英同盟の締結)、日本の第一銀行、朝鮮国内で銀行券を発行
1902
 ソウル・仁川間に長距離電話開通(アジア-朝鮮)国史年表
1903
 YMCA発足(アジア-朝鮮)国史年表
1904年2月8日
 日英同盟締結。
 日露戦争勃発。高宗、中立宣言。日本側の勝利に終る。
 日韓議定書、韓国内での日本の軍事行動の自由を保障。
 翌年、第二次日韓協約締結。日本の一連の責任者伊藤博文は、朝鮮の保護国化を推進し、日本政府の早期併合論に反対を唱えていた。
 しかし、1909年朝鮮の民族主義運動であった安重根によって暗殺されるや、決定的に韓国併合に進んで行った。
1904.02.09
 日露戦争の始まり、日本、ソウルを制圧し、日韓議定書の調印(朝鮮の内政干渉、軍の駐留権、土地収容権などの確保)
1904.08.22
 第一次日韓協約の締結、(日本人による財政顧問・外交顧問の登用、外交交渉における日本政府の事前協議など)
1904年8月23日
 第一次日韓協約を結ぶ。
 韓国財政、外交顧問に日本の推薦者を置く。
 外交案件は事前にに日本と協議。
1904年
 京釜線竣工
1904年
 一進会は日韓合邦運動を開始。
1904
 韓日議定書を締結(アジア-朝鮮)国史年表
1904
 京釜線竣工(アジア-朝鮮)国史年表
1905年
 ポーツマス条約
 日本の韓国における優越権を認める。
 日露両軍を満州から撤退する。
1905年7月
 高宗のロシア帝国への密使が発覚する。
1905.07
 高宗のロシア帝国への密使が発覚する、桂・タフト協定
1905年7月29日
 桂・タフト協定。
 アメリカ日本の韓国保護国化を承認。
 フィリピンにはアメリカ合衆国が影響力を持つと、相互に認め合う。
1905年8月
 日英同盟改定。
 イギリスが日本の韓国保護国化を承認。
1905.08
 (第二回日英同盟の締結)
1905.09
 日露講和条約(ポーツマス条約)、注:それぞれにフィリピンとインドに対する支配を承認することを引き換えに、朝鮮に対する保護権確立を米・英・露に認めさせた
1905
 乙巳条約(アジア-朝鮮)国史年表
1905
 天道教創立(アジア-朝鮮)国史年表

日本の保護国の時期 1905~1910

1905年11月17日
 第二次日韓協約を結ぶ。
 韓国は外交権を日本に譲渡、日本の保護国となる。
1905.11.17
 第二次日韓協約の締結(日本の保護国となる)
1905年
 乙巳条線
1906年
 漢城に韓国統監府設置。
 初代統監に伊藤博文。
1906.02
 韓国統監府の設置(統監に伊藤博文が赴任)
1906
 統監府設置(アジア-朝鮮)国史年表
1907.04~
 愛国啓蒙運動の活動が起こる、国債報償運動(日本からの借款を募金により返済すると云う)が起こる
1907年6月
 ハーグ密使事件
 オランダのハーグで開かれた第2回ハーグ平和会議に朝鮮 (大韓帝国) の高宗皇帝が密使を送る。
 この事件で統監伊藤博文は皇帝に抗議。
1907.06
 高宗によるハーグ密使事件(オランダのハーグで開催された第二回万国平和会議の失敗)
1907年7月
 第三次日韓協約。内政権が日本の管轄下に入る。
1907年
 国債報償運動
1907年7月19日
 高宗皇帝、息子の純宗に譲位。
1907.07
 高宗が退位し、純宗が即位、第三次日韓協約の締結(内政権の日本管轄、一大隊を残して韓国軍の解体)
1907年8月1日
 韓国軍の解散が定められる。
1907.08
 抗日義兵抗争(~1915)
1907
 国債報償運動(大邱)(アジア-朝鮮)国史年表
1907
 ハーグ特使派遣(アジア-朝鮮)国史年表
1907
 高宗皇帝退位(アジア-朝鮮)国史年表
1907
 軍隊解散(アジア-朝鮮)国史年表
1907
 新民会設立(アジア-朝鮮)国史年表
1908
 義兵、ソウル進攻作戦(アジア-朝鮮)国史年表
1909年
 安重根義士の義挙
1909年
 韓国統監府初代統監伊藤博文がハルビン駅にて安重根により暗殺される。
 伊藤博文「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ。」
 朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)。
1909.09
 韓国銀行の設立
1909.10
 統監伊藤博文がハルビン駅にて、愛国啓蒙運動の義兵(安重根)に暗殺される、朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)
1909年12月4日
 一進会は韓国皇帝・曾禰荒助統監・李完用総理大臣に対して、日韓合邦に関する上奏文と請願書を提出し、合邦声明書を国民に配布。
1909
 日本、清と間島を安奉線と交換(アジア-朝鮮)国史年表
1909
 安重根、伊藤博文処断(アジア-朝鮮)国史年表
1909
 羅喆、大?教創始(アジア-朝鮮)国史年表
1910年
 日帝の国権侵奪
1910
 国権剥奪(アジア-朝鮮)国史年表

韓国併合・日帝時代(1910ー1945)

日本統治時代(日帝強占期)

 1876年、朝鮮王朝日本から門戸を開放するよう強要され、1910年に日本により併合されました。そして、1945年に日本が降伏するまでの間、韓国は日本の統治を受け続けました。

1910.03
 土地調査事業の推進(土地所有権・地価・地形など) 
 国有地は東洋拓殖株式会社などの日本人地主に多く払い下げられる 
 終了した時点(1918)では 
水田65%、畑43%が小作地となり農民の77%が小作農・自作農となる
1910年代には、本格的な産業政策の展開が見られなかったので、土地を失った農民は中国国境の豆満江・鴨緑江を越えた間島(現、延辺朝鮮族自治州など)に毎年2~3万人の移住が続き、40万人近い朝鮮人が在住していた 
1920年代には、日本に4万人程度、またロシア領沿海州・中国・アメリカなどに移民
1910.07
 憲兵警察制度の発足 
集会取締り令の公布(政治結社・報道の規制)
1910.08
 日韓併合条約の締結(大日本帝国に併合され、京城に朝鮮総督府の設置)
1910年8月8日
 「条約案」が韓国閣議を通過。
1910年8月22日
 李完用総理大臣と寺内正毅統監との間で「韓国併合に関す条約」が締結。
1910年(明治42年)8月28日
 日本側から韓国政府へ「条約案」を提示。
1910年
 合邦条約を締結。
 一進会の李容九、宋秉畯などが併合に関する各種の請願書や声明文を発表。
1910年
 日韓併合条約を締結し、大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本朝鮮半島を領有することになる。いわゆる日帝時代、日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。
 文盲率90%

植民地=搾取する土地
    朝鮮に搾取できるものが何一つない

歴代シナ王朝→反抗時の軍事制裁はすれども占有はせず
日本    →使命感に燃えてせっせと投資

理想の朝鮮統治とは

石橋湛山
 朝鮮放棄論
 結論・・・日本人との同化は無理

吉野作造
 外的施設だけでなく
 朝鮮人の心を得なければならない
 朝鮮人日本臣民だが大和民族ではない

 建築や燃料のため木を伐り、又、「火田民」による焼畑農業によるやせた土地を、植林する事なく放置されていたため、山々にはほとんど木が生えていなく、盗伐が多いため「山覧」をおき、一般人が植林した山に入る事を禁じた。
 火田民に農業用地を与え、焼畑農業を禁止し、定住型の農業を進め、5億9000万本の植林をすすめた。

 鉄道網 100kmから総延長6000kmに増やした

 併合時の人工約1300万人あまり、1942年には2550万人以上

 平均寿命24才から、42才に

併合直後
 一進会は他の団体とともに解散を命じられた。
併合後
 李容九は「日本にだまされた」と述べたと伝えられる。
併合10年後
 旧一進会会員から同会の顧問だった日本側リーダーの杉山茂丸に対して、「併合の結果は日韓国民の聞に著しい差別をもたらすものであり、無差別平等の対等合邦ではなかった」と、その責任を問う問責状が送付されている。

韓国併合歴史

 日清戦争では、清に朝鮮の独立を認めさせ、1904年の日露戦争勃発時には第一次日韓協定により韓国の財政、外交に関して日本が介入することを認めさせ、日露戦争に勝利した日本は1905年に第二次日韓協定によって韓国の外交権を奪いました。ちなみに、日韓協定は、日朝協定ではないですよ。1897年の日清戦争後に国号を韓国と変えていますから。
 1904年の日韓新条約、ついで日露戦争終結後の協約により、韓国は日本の「保護国」となっていた(当時、フランスの保護下にあったモナコのように、独立国でありながら他国に外交権を委任することはヨーロッパによく見られたことだった)。
 日露戦争に勝ったことで日本はロシアの朝鮮半島南下を食い止めることができた。明治維新以来、日本にとって最大の懸案であった朝鮮半島の自立と近代化がこれで進展することになった。
 そして、この第二次日韓協定によって日本はソウルに統監府(とうかんふ)というのを置き、初代統監に伊藤博文がつきました。これは、もう事実上日本が韓国の政治全般に介入することを意味しています。
 このような日本の動きに対して、アメリカはフィリピンのアメリカ支配を認める代わりに日本の韓国支配を認めるという協定を1905年に日本との間に結びます。桂・タフト協定といって桂さんは当時の日本の首相。タフトは米陸軍長官です。
 また、ロシアも日露戦争後のポーツマス条約によって日本による韓国保護国化を認めざるをえなくなります。
 1907年には、この韓国の現状を世界に訴えようとハーグ密使事件というのがおきます。韓国皇帝がハーグの万博平和会議に密使を送り助けを求めたのです。しかし、韓国には外交権がないという理由で各国は無視。逆に日本は、この韓国の行動に対して韓国軍の解散を強制します。これが第3次日韓協定です。
 当然、このような日本の行動に韓国国内では不満を募らせる人々もおり1909年に初代統監府であった伊藤博文が韓国の安住根(あんじゅうこん)によって暗殺されます。
 協約によって韓国統監となった伊藤博文は併合しないと主張していたのだが、条約を守ろうとしない韓国を併合せざるを得なくなる。
 そして韓国人テロリストが伊藤博文を暗殺するというとんでもない事件が起こった。
 日本政府が驚愕し、日本人が激怒したのはもちろんのこと、韓国政府、朝鮮人は震え上がった。
 伊藤博文の暗殺を受けて、日本と韓国の双方から提案があり、韓国併合の話が持ち上がった。会員100万人といわれる韓国最大政党である「一進会」も併合推進派だった。
 慎重な日本政府は列国に打診した。欧米先進国の仲間入りを願っていた日本は、国際社会の反応を心配したのだ。アメリカとイギリスは、このまま放っておけばさらに混乱すると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対もまったくなかった。
 各国の賛成を得て、また一進会も併合を望み、日本韓国併合に乗り出した。
 日本政府は、当時最も穏やかな併合だったイギリスのスコットランド併合を参考に韓国の併合を進めることにした。

 この事件の翌年の1910年には日韓併合条約により韓国は完全に日本植民地となり韓国併合となったのです。
 そして明治43年(1910)、日韓併合条約が締結された。
 植民地政策といえば宗主国が植民地から搾取するのがお決まりのパターンだった(西欧の植民地支配)が、日韓併合後は日本からの一方的な持ち出しだった。しかも朝鮮から日本に入る人数が日本から出かける人よりも相対的に多かった。
 終戦後、日本は莫大な資産を朝鮮半島に置いてきた。日本朝鮮半島で迷惑をかけたと考えられるものと差し引き計算すると、日本が置いてきた資産のほうが北朝鮮に関しても、今の貨幣価値で8兆7000億円多い。
 ところが首相だった小泉は「過去の植民地政策」に謝罪してしまった。謝罪する理由などまったくないにも関わらずである。
 当時の朝鮮が明治政府や民間の立場からの福沢諭吉たちの切なる勧告を受け入れて近代化を進めていたら、日本は日清戦争も日露戦争も戦わなくてよかった。併合する必要などまったくなかった。それもこれも清国への属国意識に染まって自立の意思に欠け、清国に、あるいは南下侵略の意図をあらわにするロシアになびき、朝鮮が近代化を遅らせたためだけに起こったことである。そのために日本の負担は大変のものだった。日本にとってはきわめて遺憾なことだった。韓国側からすれば主権が奪われたのだからやはり遺憾なことだったであろう。
 韓国併合に成功した日本は、まず言論、出版、集会、結社などの自由を排除。また、日本語や日本史の教育を推し進め、土地調査により所有者が不明な土地は没収していきました。
 このような日本支配により、1919年には三・一運動というのがおきます。200万人以上が参加し朝鮮の独立を訴えたのです。こうした運動により日本も武力行使を控えるなどの行動にでますが、日中戦争、太平洋戦争に突入していくと危機を乗り越えるために日本は朝鮮への強要をさらに強めていくことになるのです。
 1938年には学校教育にて朝鮮語の教育をなくし、日本語を常用することを強制します。また、日本風の名前に改名することをも強制し、朝鮮半島の人々を日本へと連れて行き重労働を強いることなどもしました。
 昭和59年、韓国大統領(全斗かん)が初めて来日し、昭和天皇と会見した。天皇がどういう発言をするか注目が集まったが、「日韓両国の間には今世紀の初め、まことに遺憾な状態がありました。こういうことは繰り返してはなりません」という趣旨の発言をされた。これ以上ないと思える言い方であった。
 ところが、日本の首相は小泉をはじめ、日韓併合について安易に謝罪ばかりを繰り返している。これは明治天皇、明治の元勲、それに日進日露の戦争で戦死した人たちを冒涜することである。
 反日史観・自虐史観では、この併合を「侵略」という。馬鹿らしいことである。
 政府が直接介入していたか?定かではありませんが、従軍慰安婦問題などもこの頃の問題ですし、竹島問題も韓国併合が焦点となり問題を複雑にしています。


韓国併合の理由

 韓国併合の理由は何だったか。簡単にいえばひとつはアジアの安定、東洋の平和であった。もうひとつは日本の安全、自衛であった。このことは韓国併合の御詔勅に書かれている。御詔勅というのは美辞麗句を連ねた無意味な文書のように考える者もいるが、そうではない。御詔勅というのは、実にその当時の日本の置かれた立場、日本の主張を的確に簡潔に表現している。
 韓国併合の結果、アジアは安定した。言い換えれば、それまでの禍乱(からん)というものはすべて朝鮮に原因があったと言ってもいい。日清戦争、日露戦争、これすべて朝鮮が主たる原因だった。日本は三たびこの朝鮮のために国運を賭した戦争というものを戦いたくなかったから、ついに空名にしか過ぎない韓国の独立を取り消して併合したのだ。
 1919年、こうした日本の統治に対しては朝鮮の反発が強かった。この年、宗教指導者らが中心となって、大規模な独立運動を展開した。3月1日に起こったので、3・1運動と呼ばれるものである。
 この運動は朝鮮総督府当局による武力による弾圧で、間もなく終息していき、運動は挫折した。
 しかし、独立派の中心的人物などが、中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府と呼ばれる亡命政府を設立した。初代大統領は李承晩で、以降、最後の第13代金丸まで、25年間にわたり継続する。1945年の朝鮮解放により解体した。

1911
 「同化政策」による第一次朝鮮教育令の公布 
私立学校の廃止
1911年
 鴨緑江に旋回式鉄橋、鴨緑江橋梁を架ける。
1912年1月1日
 孫文が南京で中華民国の建国宣言

中華民国は国ではなかった
 →中原の軍閥の集まり

1912
 土地調査事業開始始まる(-1918)(アジア-朝鮮)国史年表
1913年(大正2年)
 大正政変
 第一次護憲運動が起る
1914年(大正3年)
 第一次世界大戦勃発
1914
 大韓光復軍政府樹立(アジア-朝鮮)国史年表
1916
 朴重彬、円仏教創始(アジア-朝鮮)国史年表
1917年(大正6年)
 シベリア出兵
1918年(大正7年)
 ヴェルサイユ講和条約調印
 日本・・・人種差別撤廃を主張
1918
 産米増殖計画の実施(日本国内各地で米騒動おこる、台湾では蓬莱米増産計画) 
土地を失った農民は都市に流出、日本・中国東北に移住してゆく 
(1920~1932 朝鮮米の生産高は1.2倍、輸出高は2.5倍になる) 
韓人社会党の結成(ハバロフスクで李東輝らが組織)
1919年
 三・一事件起る
1919年
 3・1運動、大韓民国臨時政府樹立
 排日、反日・・・日本を敵視
1919
 全露高麗共産党の結成(イルクーツクで金哲勲らが組織) 
 その後、 
イルクーツク派系の火曜会
上海派系のソウル青年会
東京留学生中心の北風会
 などが生まれる 
1919.03.01
 三・一独立運動の始まり(米国大統領ウィルソンによる民族自決主義の提唱、ロシア革命の勃発) 
運動は全国に拡大して行き、3月下旬から4月上旬に最高潮200万人に達し、後に帝国主義批判の論理をもった社会主義思想の浸透となる 
(死者 7,509人 負傷者 15,961人 逮捕者 46,948人) 
上海で大韓民国臨時政府の発足
1919
 3.1運動(アジア-朝鮮)国史年表
1919
 大韓民国臨時政府樹立(アジア-朝鮮)国史年表
1919
 大韓愛国婦人会組織(アジア-朝鮮)国史年表
1920年
 清山里大捷、「朝鮮日報」「東亜日報」創刊
1920~
 満州東部の間島で大韓独立軍の抗日武装闘争の激化 
 「文化政治」に移行 
 (基本方針としては同化主義を掲げ、具体的な政策では民族主義への配慮を行わざるを得ないと云う特徴) 
1.従来の憲兵警察制度を廃止し、普通警察制度を発足
2.朝鮮総督の文官の任用を認める
3.諮問機関として、民選の府協議会・面協議会が置かれる
4.禁止していた朝鮮語の新聞・雑誌の刊行の認可
1920年代まで
 文盲率 80%~99%?
 「訓民正音」の名で民衆に与えるも、学校というものが存在しない朝鮮では一般民衆には普及しなかった。

1920年の朝鮮半島
 ■日本の海外領    (外地teritory)
  ※インド帝国は植民地(Colony)
   カナダは海外領
 ■日露戦争で南満州を獲得
 ■開拓農民として朝鮮人が入植
  漢人の大量流入。
  朝鮮人 vs 漢民族

   保護国
   保護領
   植民地
   属領

大韓民国建国の抗日闘争

コミンテルンの暗躍
 ■1922年 ソビエト社会主義共和国連邦の樹立
 ■朝鮮共産党(コミンテルン朝鮮支部)を組織
 ■抗日パルチザンの金日成を取り込む
   レーニンとスターリン 金日成

日英同盟を切られる
 ■1921年~1922年 ワシントン会議
 ■四ヶ国条約(日・米・英・仏)
   日英同盟撤廃
 ■九ヶ国条約(日・米・英・仏・伊・白・蘭・葡・中)
   中華民国の主権を保証(日本批判)
 ■五ヶ国条約(日・米・英・仏・伊)
   主力艦保有のの制限
     ↓
   日英米が互いに孤立、敵視
   ソ連の暗躍を許す
   シナ大陸の動乱を放置
   五族(日・朝・満・蒙・漢)協和
 ■1932年
   1月 8日 桜田門事件     → 李奉昌
   4月29日 上海天長節爆弾事件 → 尹奉吉

1920
 金佐鎮、青山里大捷(アジア-朝鮮)国史年表
1920
 「朝鮮日報」「東亜日報」創刊(アジア-朝鮮)国史年表
1922年
 第二次朝鮮教育令
 法的に大学設立が可能に
1922
 「子どもの日」制定(アジア-朝鮮)国史年表
1923.09
 (関東大震災のあと、大規模な朝鮮人虐殺事件が起こる)
1924年
 日本で6番目の帝国大学である京城帝国大学をつくる。
1924.04
 朝鮮労農総同盟の発足 
ソウル青年会の主導下に朝鮮青年総同盟が結成され、労働運動・農民運動などの民衆運動の中核的な存在となる
1925年
 京城駅が完成
1925
 朝鮮共産党・髙麗共産青年会が発足するも、1928年には崩壊される
1926年
 6・10万歳運動
1926
 6.10万歳運動(アジア-朝鮮)国史年表
1927年
 新幹会創立
1927
 朝鮮労働総同盟と農民総同盟に分離 
民族解放運動の結節点として「新幹会」の発足をみるが、(1931年に解散)
1927
 新幹会組織される(アジア-朝鮮)国史年表
1928年
 台北帝国大学
1929年
 光州学生抗日運動
1929.01
 元山ゼネスト(2,200人の労働者がゼネストに突入し、交通・港湾荷役は完全に停止する)
1929
 光州学生抗日運動(アジア-朝鮮)国史年表
1930
 1930年前半では、昭和恐慌で工業が活気を帯びる
1931年
 満州事変
 大阪帝国大学
1932年
 李奉昌、尹奉吉義挙
1932年
 満州国建国

中華民国は、満州国設立により日本が侵略目的で中国人留学生を受け入れたと言う。

現代中国の思想は日本からはいった
  歴史  プロパガンダ・・・中国
      ファンタジー・・・韓国
      ヒストリー・・・・日本

現代の中国史は毛沢東が書いた歴史
   →日本の影響、おかげで発展した事を否定

1932
 李奉昌、尹奉吉義挙(アジア-朝鮮)国史年表
1933
 ハングル綴字正書法統一案制定(アジア-朝鮮)国史年表
1934
 震檀学会組織される(アジア-朝鮮)国史年表
1935
 (中国、抗日統一戦線の樹立を提唱)
1936年
 就学児童、110万人になり、文盲率が40%までに。
 日本がつくったのは小学校だけでなく、24の専門学校、75の中学校、75の高等女学校、133の実業高校、145の実業補習学校、1つの大学予科、36年で建てた公立学校の総数は5000校、22の師範学校
1936
 孫基禎、ベルリンオリンピック大会のマラソンで優勝(アジア-朝鮮)国史年表
1937.07
 (日中戦争の勃発) 
朝鮮は軍需物資の生産を担う兵站基地となる
一面に一神社を設置し参拝の強制
創氏改名の強要
従軍慰安婦は日本人は将校用、朝鮮人は兵隊用と差別される
1937
 祖国光復会(朝鮮民族解放同盟)の師団長(金日成)が日本軍を撃破する 
(ソ連の対日参戦の直前に組織された朝鮮工作団の責任者に選ばれた金日成は、日本の降伏後にソ連軍と共に元山に上陸する)
1937.10
 皇国臣民の誓詞が発布される
1938年7月7日
 盧溝橋事件
1938年7月29日
 通州事件
1938年8月13日
 北支事変
1938年9月3日
 支那事変
 日本朝鮮人のテロにもめげず・・・
1938年
 電化による鉄道を走らせた。
1938
 ハングル教育禁止(アジア-朝鮮)国史年表
1939年
 名古屋帝国大学
1939
 日本人労働者不足を補うために85,000人の朝鮮人日本に強制移動される 
(1939~1945 約113万人)
1940年
 韓国光復軍設立
1940.09
 大韓民国臨時政府は重慶に移転し、韓国光復軍を創設
1940
 民族抹殺政策強化(アジア-朝鮮)国史年表
1940
 韓国光復軍結成(アジア-朝鮮)国史年表
1941年
 臨時政府の対日宣戦布告
1941.12.08
 大日本帝国がアメリカ合衆国に宣戦布告( 太平洋戦争の勃発)
1942年
 朝鮮語学会事件
1942
 朝鮮語学会事件(アジア-朝鮮)国史年表
1944.02
 朝鮮徴兵令施行
1945.08
 ソビエト連邦が日本に宣戦布告し、朝鮮半島東北部に侵攻
トルーマン大統領が「連合国一般命令を」ソ連に通告し同意させる 
(北緯38度線で朝鮮を分割し、日本軍を分割武装解除することの内容)
1945.08.15
 日本は ポツダム宣言の受諾 
管轄はアメリカ軍とソビエト連邦軍になる
1945
 8.15光復(アジア-朝鮮)国史年表

連合軍軍政期

解放、大韓民国(1945ー)

1945
 かわって米ソ両大国が進駐し、38度線を境に国土が分断されることになった。
1945.08.15
 第二次世界大戦で大日本帝国敗北 
朝鮮半島での日本植民地支配終了、連合軍の管轄になる 
(北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄)
1945.08.15
 光復
 第二次世界大戦での日本の敗戦により、日本による朝鮮半島の実効支配が終了する。これにより、朝鮮半島植民地支配から解放された
1945.08.18
 停戦命令、しかしソ連は新侵攻を止めず、マッカーサーは、北緯38度線までソ連軍の駐留を認める。
1945.09.06
 民族主義者、呂運亨らにより「朝鮮建国準備委員会」の結成 
全国人民代表大会で臨時政府の樹立を決定し「朝鮮人民共和国」を興す
1945.09.08
 米軍仁川上陸
 ジョンホッジ中将
 朝鮮の開放を謳いつつ、日韓の対立を煽る。しかし、開放せず3年間、軍政を敷く。
1945.09
 ホッジ中将の米第24軍団第一陣、仁川に上陸し翌日、朝鮮総督府が降伏文書に調印する 
アメリカが在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を設置
1945.10
 米政府による「朝鮮人民共和国」および「朝鮮建国準備委員会」の否定 
北朝鮮共産党臨時人民委員会が樹立
1945.11.20
 第一回全国人民委員会代表者会議(人民共和国による)をソウルで開く
1945.12.19
 米軍政府がソウルの人民共和国政庁を急襲し、解体を宣告する 
同じ頃、北朝鮮でもソ連軍の規制が始まり「北朝鮮共産党」に改組され、党首を金日成とする 
(統一戦線的な北半部の建国の動きを、ソ連型の共産党独裁政権作りに変質させる)
1945.12
 モスクワ協定(米・英・ソ三国外相会議)において、信託統治期間を5年間とし、朝鮮における民主的な臨時政府樹立のために米・英・ソ・中の4大国が朝鮮を信託統治し、その準備を米ソ共同委員会で行うとした
1946.05
 米ソ共同委員会は無期休会となり、38度線の無許可越境を禁止する
1946
 第一次米ソ共同委員会開催(アジア-朝鮮)国史年表
1947.02
 北朝鮮人民委員会の樹立(北朝鮮のみの事実上の単独政府)
1947.05
 米ソ共同委員会が再開されるも調整がつかず、米が国連総会に審議を持ち込む、そこで、国連監視のもとで1948年3月までに南北統一選挙を実施し、政府を樹立すると云う米案が採択されたが、ソ連はモスクワ協定を無視したことを批判し、米ソ両軍の撤退と朝鮮人による自主的政権作りに委ねることを提案
1947
 国連韓国委員団構成組織される(アジア-朝鮮)国史年表
1948
 国連臨時朝鮮委員会が派遣されるも、北朝鮮人民委員会は入国を拒否する
1948.02.26
 アメリカは国連小総会の開催を提案し、南朝鮮だけで政権作りのための「単独選挙」案を採択する
1948.04.03
 済州島四・三事件(~10 反政府闘争)が起こり、多数の済州島民が日本に密入国する 
(35,000~40,000人追放および処刑)
1948年8月
 アメリカ占領下の南部、李承晩(???)が大韓民国(韓国)の成立を宣言。
1948.08.15
 辛うじて過半数を確保した右派勢力は、李承晩を初代大統領に選出し、大韓民国政府の樹立が宣布される
1948.09.02
 北朝鮮で南北双方の代議員572名による最高人民会議が開催され、すでに4月に採択されていた憲法を正式に制定
1948年9月
 これに対抗してソ連占領下の北部、金日成(???)が朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の成立を宣言する。
 間もなく、米ソ両軍は朝鮮半島から撤収し、韓国・北朝鮮の双方はそれぞれの路線で国としての体裁を整えていくことになる。
1948
 5.10総選挙実施(アジア-朝鮮)国史年表
1948
 大韓民国政府樹立(アジア-朝鮮)国史年表

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)(1948~)

李承晩政権…第三代大統領(1948~1960)

金日成体制(1948~1994)

1948.09
 北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣布、初代首相に金日成、副首相に朴憲永が就任する
1948.09.09
 朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣布 
初代首相に金日成、副首相に朴憲永が就任する

韓国政府の樹立

 1945年8月15日に韓国は日本の統治から解放されました。しかし38度線を境に南韓(韓国)と北韓(北朝鮮)に分断され、南北はアメリカとソ連の臨時的な軍事統治下に置かれることになりました。1948年5月10日に国連の支援の下、韓国では大統領選挙が行われ李承晩が大統領に当選しました。そして同年8月15日、韓国政府の樹立を知らせる公式宣言が発表されました。一方1946年2月、北韓は金日成を中心とした北朝鮮人民委員会を組織し、1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を樹立しました。

1949.02
 ソ連軍撤退後の北朝鮮では、武器・弾薬の供与、軍事顧問の指導を受け朝鮮人民軍が創設される 
「2ヵ年経済計画」「技術・借款協定」の締結
1949.06
 北朝鮮、朝鮮労働党の成立(金日成が中央委員長に就任)、朝鮮戦争後、金日成が朴憲永などを粛清
1949.06
 統一した共和国建設を指導する朝鮮労働党の結成
1950年
 米国が自らの国防政策における太平洋地域における防衛ラインに韓国を含めなかったことが、北朝鮮の誤解を招き、北朝鮮は、ソ連のスターリン、中国毛沢東の合意をとりつけて、38度線を突破、韓国への侵攻を決行した。朝鮮戦争勃発である。
劣勢に立たされていた韓国であったが、マッカーサーの仁川上陸作戦が成功し、大規模な反攻で首都ソウルを奪還すると、戦闘は膠着状態に陥る。
1950.01.07
 米政府は中国革命不介入の態度を表明し、一週間後、国務長官のアチリンは米防衛線内に台湾と韓国は含まれて居ない旨を発言する 
また中国軍から朝鮮人歴戦部隊が共和国人民軍に編入され、ソ連が大規模な軍事援助を約束したことにより「南部解放」を決断する
1950.02
 中ソ両国の友好同盟・相互援助条約の締結
1950.04
 平壌に派遣されたソ連軍事顧問団は金日成に「先制打撃作戦計画」を渡す
1950.05.30
 韓国総選挙結果で李承晩与党勢力の大敗

朝鮮戦争(韓国では「韓国動乱」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ばれる内戦)

1950.06.25
 朝鮮戦争の勃発(人民軍各師団が38度線を越え大挙して南下を開始する) 
戦争勃発から2ヶ月で韓国の大半は共和国人民軍の勢力下に入る
1950年6月25日
 COLOR(blue):6・25戦争
 こうしてにらみ合いが続く中、ついに北朝鮮軍が砲撃を開始!朝鮮戦争が始まります。
 当初は、北朝鮮が圧倒的に有利に戦線を進めていましたが、アメリカを中心とした国連軍が韓国軍を支援、北は中国が支援しやがて戦局は硬直状態となります。
 そして、

韓国戦争(1950ー1953)

 1950年6月25日の明け方、北韓は38度線を越え南への侵攻を強行し南北を武力をもって統一しようとしました。これを受け、共産主義勢力から韓国を守るためダグラス・マッカーサー国連軍最高指令官の指揮の下、世界16カ国からの軍事的支援が投入されました。一方、中国とソ連は北韓に軍事的支援を行ないました。戦争は3年間続き、1953年7月27日にDMZに位置する板門店で休戦協定が結ばれ終戦となりました。戦争は韓半島を荒廃させただけでなく、南北間の敵対感情を高め、統一をより一層難しいものにしました。

朝鮮戦争の原因
 朝鮮半島は現在でも韓国と北朝鮮と同じ民族でありながら38度線を挟んで対峙しています。
 このような事態となった原因はどこにあったのでしょう?
 朝鮮半島は1910年に日本による韓国併合%%によって日本植民地となりました%%されました。しかし、その日本が第二次世界大戦に破れ、朝鮮半島の統治権を放棄します。
 ちょっと時代が前後しますが、第二次世界大戦の末期。ソ連は日本に宣戦布告して満州や朝鮮半島の北部に侵攻していました。まぁ、ソ連は以前から南下政策といって南へ南へ領土を広げていく戦略を抱いてのですが、日露戦争に事実上敗北するなどして日本朝鮮半島も満州も取られてしまっていたのですね。しかし、日本が戦争に負けそうなのを見て、これはチャンス!となった訳です。
 しか~し!アメリカがそれを黙ってみているわけもありません。
 アメリカはソ連が単独で朝鮮半島を占領することに危機感を抱き38度線にて分割することを提示しソ連もそれを認めます。そして、日本は第二次世界大戦に敗北。アメリカ、ソ連はそのまま軍を滞在させ事実上の支配を続けていくのです。
 これが、現在も続く朝鮮半島を北と南に別けた原因ですね。
 その後、アメリカとソ連の間で冷戦が始まります。大国同士のにらみ合い状態です。
 すると、朝鮮半島では北と南で別々に選挙を行って別々の国家を樹立することになります。北の代表はニュースなどで知っているでしょう。金日成(キムイルソン)です。南は?李承晩(イスンマン)です。こちらも竹島問題などを調べていくと必ず出てくる名前ですね。詳しくは竹島問題にて。

1950.07.07
 国連安保理事会において、国連軍の編成が決定
1950.09.15
 韓国西岸の仁川に上陸作戦を敢行し、成功する
1950.10.01
 国連軍司令官マッカーサーは、国連軍の38度線突破を指令する 
攻勢を転じた国連軍は北進を続け、中朝国境の鴨緑江に迫る勢いを見せる 
(此の時点でスターリンは共和国の亡命政権を中国東北部に樹立することを中国指導部に打診していた) 
中国は共和国人民軍を支援して、100万の中国人民軍を派遣
1950
 6.25戦争(アジア-朝鮮)国史年表
1951
 ソ連の提案で、板門店で休戦協定が締結され、双方多大な犠牲を払った3年間にわたる戦争が休戦を迎えることになった。だが、現在でも未だに戦争中であり、それが休戦しているに過ぎない、という状態は、依然として継続しているのである。
1951.01.04
 ソウルが再び、中朝連合軍に占領される
1951.04.11
 強硬論を主張するマッカーサーは国連軍司令官を解任され、その後戦況は膠着状態に入る
1951.07.10
 休戦交渉の開始
1952.01
 「海洋主権宣言」を発表し、李承晩ラインの制定(参:竹島問題) 
右派の一部を結集して新与党自由党を結成する
1952.02
 日韓会談、始まる
1952
 平和線宣言(アジア-朝鮮)国史年表
1953
 いったん休戦となりますが、これはあくまで休戦。実は半世紀以上たった現在でも戦争は続いているのです。
1953.08
 北朝鮮、共和国の戦後復興計画として、労働党第6回中央委員会で決定、農業協同化事業が開始
1953.07.27
 板門店で 停戦協定が調印(韓国政府は不出席)され、現在の軍事境界線の布敷をみる 
 朝鮮戦争の犠牲者 
共和国人民軍 戦死者508,000 負傷者10万人
中国軍   死傷者約50万人
韓国軍   死傷者約99万人
米軍     39万7千人
その他国連軍  29万9千人
民間人    200万人以上
離散家族  1000万人
1953
 国際協力局(ICA)により年2~3億ドルの援助を受ける
1953
 休戦協定調印(アジア-朝鮮)国史年表
1953
 第一次通貨改革実施(アジア-朝鮮)国史年表

韓国戦争後(1954-現在)

1954年
 李承晩政府は反共産主義政策を掲げその後1960年、学生たちの反政府運動である4・19革命により李承晩政府は倒れました。
1955
 韓米余剰農産物協定に締結 
1956.04
 北朝鮮、朝鮮労働党第3回大会開催
1956.08
 北朝鮮、ソ連派のパク・チャンオク、延安派のチェ・ジャンイクなどが金日成に粛清される
1957
 ウリマル(国語)大辞典完刊完成(アジア-朝鮮)国史年表
1958.08
 北朝鮮、社会主義制度の確立をみる
1958.10
 北朝鮮、中国軍、共和国より完全撤退
1959.08
 北朝鮮、日朝両国の赤十字組織で在日朝鮮人帰還協定が結ばれ、帰還事業が始まる

帰還者
 1960 49,036人
 1961 22,801人
 1962 3,497人

1950年末
 対韓援助が削除され、韓国経済は破綻の様相を呈する
1960
 4・19革命
1960
 四月革命で李承晩政権の崩壊
1960
 4.19義挙(アジア-朝鮮)国史年表
1960
 張勉内閣成立(アジア-朝鮮)国史年表

尹?善政権…第四代大統領(1960~1963) 

この時期は議院内閣制のため、実質的な権力は首相の張勉にあった
国家再建最高会議(軍政)

1961
 5・16軍事政変
1961.07
 軍部のクーデターにより南北統一運動を押さえ込み、軍事政権の登場
1961.09
 北朝鮮、朝鮮労働党第4回大会開催
1961
 5.16軍事政変(アジア-朝鮮)国史年表
1962
 経済開発5ヵ年計画の始まり
1962
 北朝鮮、(キューバ危機:ケネディによる強硬路線にソ連弱腰になる) 
共和国政府はソ連の弱腰を厳しく批判し、之に対する報復としてソ連からの援助を差し止められる
1962
 第一次経済開発5カ年計画(-1966)(アジア-朝鮮)国史年表
1962
 公用年号、西紀に変更(アジア-朝鮮)国史年表
1963
 大統領に当選した朴正煕大統領は、17年間に及ぶ独裁統治を行ないました。
1963
 朴正煕内閣成立(アジア-朝鮮)国史年表

朴正煕政権…第五代大統領(1963~1979)

1963.10
 朴政権の始まり(大統領就任)
1964
 メートル法実施(アジア-朝鮮)国史年表
1965年
 日韓基本条約が締結され、ようやく、韓国と日本との国交が回復し、韓国を朝鮮半島の唯一の合法的政府とした。 
1965.02
 日韓基本条約の仮調印(1965.06 正式調印) 
内容:無償3億ドル、有償2億ドルを日本が韓国に供与し戦後処理を終わらす
1965.08
 ベトナム戦争にアメリカ合衆国と共に参戦 
与党共和党単独で日韓条約を批准(日韓国交の正常化)
1965
 韓日協定調印(アジア-朝鮮)国史年表
1966
 韓米行政協定調印(アジア-朝鮮)国史年表
1967
 5.3大統領選挙(アジア-朝鮮)国史年表
1967
 6.8国会議員選挙(アジア-朝鮮)国史年表
1967
 第二次経済開発5カ年計画(アジア-朝鮮)国史年表
1968.01
 青瓦台襲撃未遂事件(北の対南工作による韓国大統領府の襲撃)
1968.01
 北朝鮮、プエブロ号事件 
(アメリカ海軍の環境調査艦プエブロが、領海侵犯を理由に北朝鮮警備艇などから攻撃を受け拘束され、板門店での会談でアメリカは北朝鮮の用意した、スパイ活動を認める謝罪文章に調印 
プエブロ号の船体は返還されず、反米宣伝に利用)
1968
 1.21事態(アジア-朝鮮)国史年表
1968
 国民教育憲章宣布(アジア-朝鮮)国史年表
1970年代
 セマウル運動提唱
 韓国の経済力が伸長し、このことが北朝鮮の危機感を増大させ、日本人拉致問題をはじめ、多くの問題が発生する。しかし、今日に至るまで、何らの解決をみないままである。
1970年
 セマウル運動提唱
 朴正煕大統領が推進したセマウル運動(1970年に始まった全国民的近代化運動)により韓国は大きく発展し、経済発展のための体系的な管理統制による輸出の増大など数々の成果を残しました。しかし、相次ぐ民主化運動と政権の延長に反対する市民たちが増える中、
1970.11
 朝鮮労働党第5回大会開催
1970
 セマウル(新しい村)運動開始始まる(アジア-朝鮮)国史年表
1970
 京釜高速国道開通(アジア-朝鮮)国史年表
1971
 4.27大統領選挙(アジア-朝鮮)国史年表
1971
 5.25国会議員選挙(アジア-朝鮮)国史年表
1972年
 10月維新
1972.04
 金日成の祝賀行事の中で「主体思想」を共産主義の指導思想とする 
(主体思想:どのような難局に直面しても国家意思に忠実な国民)
1972.07
 南北共同声明の発表(南北間で内政面での相互不干渉の確認)
1972.07
 北朝鮮と同時に南北共同声明(七・四共同声明)の発表
1972.10
 維新体制(維新憲法:独裁政権の強化)を構築
1972.12
 「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」が制定・発布される 
国家主席に金日成、首都がソウルから平壌に移る
1972
 第三次経済開発5カ年計画(-1976)(アジア-朝鮮)国史年表
1972
 7.4南北共同声明(アジア-朝鮮)国史年表
1972
 南北赤十字会談(アジア-朝鮮)国史年表
1972
 10月維新(アジア-朝鮮)国史年表
1973
 金日成の後継者問題が浮上し、金正日が政治の表舞台に出始める
1973.03
 「三大革命」思想・技術・文化の推進を決定するも、外貨準備がなく、70年代半ばになると対外債務の不履行が国際問題となり、共和国の在外公館が麻薬取引や武器輸出により外貨獲得が発覚し、各国で共和国外交官の退去命令が出される
1973.08
 金大中、中央情報部により東京から拉致される
1973
 6.23平和統一宣言(アジア-朝鮮)国史年表
1974.04
 民青学連事件が発生(学生運動への弾圧が強まる)
1974.08
 大統領、狙撃事件
1974
 北韓地下トンネルの洞窟発見(アジア-朝鮮)国史年表
1975.05
 大統領緊急措置第9号を布告し、反政府活動を全面禁止
1975
 大統領緊急措置9号発表(アジア-朝鮮)国史年表
1976.03
 尹譜善・金大中らが発表した「三・一民主救国宣言」を決起として全面的な反政府運動へと発展する
1976.08
 板門店において共和国警備兵により、米兵2名殺害される
1976
 板門店うさぎ斧蛮行事件(アジア-朝鮮)国史年表
1977
 「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」における国家の公式理念が、マルクス・レーニン主義から主体思想に変更される
1977.03
 カーター米大統領、在韓米軍の撤退を匂わす
1977
 技能オリンピック世界制覇(アジア-朝鮮)国史年表
1977
 第四次経済開発五カ年計画(-1981)(アジア-朝鮮)国史年表
1977
 韓国登はん隊、エベレスト登はん成功(アジア-朝鮮)国史年表
1977
 輸出100億ドル達成(アジア-朝鮮)国史年表
1978
 1978年から始まった第2次オイルショックは、輸出産業に不振を極め、経済全体に波及して深刻な不況に見舞われる
1978
 自然保護憲章宣布(アジア-朝鮮)国史年表
1979年
 朴正煕大統領は暗殺されてしまいました。
 聖水大橋を架けるが、1994年崩壊
1979.10
 釜山で反政府運動が始まり、鳥山などに拡大 
(10.18 朴政権は非常戒厳令を発動)
1979.10.26
 朴正煕暗殺事件(朴大統領、夕食中に同席した中央情報部長に射殺される)
1979
 10.26事態(アジア-朝鮮)国史年表

崔圭夏政権…第十代大統領(1979~1980)

1979.12
 粛軍クーデター

全斗煥政権…第十一代・十二代大統領(1980~1988)

1980年
 5・18民主化運動
 その後、政権を握った全斗煥大統領は、前大統領の統治方式を引き継ぎ権威主義的な体制を維持しました。
1980.05
 光州事件(光州民主化運動)
1980.10
 朝鮮労働党第6回大会開催
1980
 5.18光州民主化運動(アジア-朝鮮)国史年表
1981
 全斗煥政府成立(アジア-朝鮮)国史年表
1981
 世界技能オリンピック四連覇(アジア-朝鮮)国史年表
1981
 1988年オリンピックソウル開催決定(アジア-朝鮮)国史年表
1981
 1986年アジア大会ソウル開催決定(アジア-朝鮮)国史年表
1981
 輸出200億ドル達成(アジア-朝鮮)国史年表
1982
 政府、日本歴史教科書歪曲内容訂正を要求(アジア-朝鮮)国史年表
1983.10
 ラングーン事件(ビルマの首都ラングーンで共和国工作員による全斗煥大統領の爆弾テロ未遂) 
韓国、共和国との国交を断絶する
1983
 KAL機撃墜惨事(アジア-朝鮮)国史年表
1983
 アウンサン事件(アジア-朝鮮)国史年表
1983
 KBS、離散家族さがしテレビ生放送(アジア-朝鮮)国史年表
1984.09
 韓国政府、共和国政府からの水害救援物資送付の申し入れを受け入れる
1984.11
 板門店で、第一回南北経済会談の実現
1984
 ロサンゼルスオリンピックで総合順位10位を占める(アジア-朝鮮)国史年表
1985.07
 ソウルオリンピックのボイコット方針を改める 
(1985年以降、貿易実績は増勢に転ずるも累積債務に苦しみ、ソ連などへの労働力輸出も行われる)
1985
 南北故郷訪問団相互交流(アジア-朝鮮)国史年表
1986
 ソウル、アジア競技大会(アジア-朝鮮)国史年表
1987.01
 第3次7ヵ年計画(事実上最後の経済開発計画)の遂行に着手(1993年に未完遂で終わる)
1987.06
 六月抗争

 六月抗争 
 (野党統一民主党と在野の反政府勢力が合同し、民主憲法国民運動本部を結成し政府と全面対決の姿勢を示す) 
 六・二九民主化宣言(米国政府圧力による政権への牽制など) 
1.反共体制を維持しながら、軍政から民政への移行をする
2.共和国を孤立させながら、韓国主導の統一を実現する
3.大統領直選制の導入
4.金大中ら政治犯の釈放
5.基本的人権や言論の自由の保障

1987.12
 大統領選挙で盧泰愚政権の誕生
1987.11
 大韓航空機事件の発生 
(中東への出稼ぎ労働者たちを乗せた大韓航空機がミャンマー領海上空で、共和国工作員により爆破され、犯人として金賢姫が逮捕され、機体は消息不明のまま捜索が打ち切られる)
1987年
 6月民衆抗争
 全斗煥大統領は全国的に起こった大規模民主抗争により、政権から退きました。
1987
 6.29民主化宣言6月民主抗争(アジア-朝鮮)国史年表

盧泰愚政権…第十三代大統領(1988~1993)

1988.09
 ソウル五輪の開催 
内政面で苦境に立った盧大統領は、国際政局の中で積極策をとり、北方外交を展開する
1988年
 ソウルオリンピック
 盧泰愚政府はソウルオリンピックを成功裏に開催し、順調に政権をスタートさせました。
1988
 ハングル綴字法告示(アジア-朝鮮)国史年表
1988
 盧泰愚政府成立(アジア-朝鮮)国史年表
1988
 第24回ソウルオリンピック大会(アジア-朝鮮)国史年表
1989.06
 平壌で世界青年学生祭典を開催 
(この開催のために多額の経費を投じ、共和国の財政事情の悪化に拍車をかける)
1989.09
 「南北交流協力に関する基本方針」の発表
1989
 ハンガリー、ポーランドなど東欧圏国家と修好(アジア-朝鮮)国史年表
1990.09
 ソ連と国交復興
1990
 ソ連と国交樹立(アジア-朝鮮)国史年表
1991.09
 国連加盟(大韓民国と同時加盟)
1991.09
 国連加盟(北朝鮮と同時加盟) 
朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」「和解と不可侵および交流協力に関する合意書」の発表 
ブッシュ米大統領、核兵器削減計画の発表(韓国から核兵器の撤去)
1991.12
 国連開発計画の指導に従い、豆満江下流域を「自由経済貿易地帯」にする
1991
 南・北韓国連同時加入加盟(アジア-朝鮮)国史年表
1992.01
 国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印
1992.02
 南北首相会議で南北合意書・非核化共同宣言の発効
1992.08
 中国と国交の復興
1992.10
 「外国人投資法」
1992
 中国と国交樹立(アジア-朝鮮)国史年表
1993.01
 「自由経済貿易地帯法」の制定

金大中政権…第十五代大統領(1998~2003) 

太陽政策(北朝鮮宥和政策)を開始
金正日との初の南北首脳会談を行う(2000年6月)
日本大衆文化開放を開始

1991年
 南北韓の国連同時加盟
 そして、国連への加入を果たしました。

金泳三政権…第十四代大統領(1993~1998)

1992.12
 金泳三(民自党)大統領に就任
1993
 金泳三政府は、金融取引時に実名を使用するようにする金融実名制を新たに施行し、これは当時は大々的な改革でした。
1993.03
 北朝鮮、核不拡散条約の脱退
1993
 金泳三政府成立(アジア-朝鮮)国史年表
1993
 大田エキスポ(アジア-朝鮮)国史年表
1993
 金融実名制実施(アジア-朝鮮)国史年表
1994
 核危機が発生(米国の対北戦争を水際で回避)
1994.07.08
 北朝鮮、金日成死去
1994
 北韓、金日成死亡(アジア-朝鮮)国史年表
1994
 政府組織改編(アジア-朝鮮)国史年表
1995
 全斗煥、盧泰愚を光州事件などに関して訴追
1995
 地方自治制実施(アジア-朝鮮)国史年表
1995
 旧総督府建物解体(-1996)(アジア-朝鮮)国史年表
1995
 韓国、国連安保理非常任理事国に選ばれる(アジア-朝鮮)国史年表
1997
 アジア通貨危機

金正日体制(1997~現在)

1998
 金大中政府出帆スタート(アジア-朝鮮)国史年表
1998
 大統領に就任した金大中大統領は、1997年に起きたIMF金融危機の克服に全力を尽くし、また2002年にFIFAワールドカップを成功裏に誘致しました。北韓に対しては太陽政策を行ない、金大中大統領はこの功績が認められ2000年にノーベル平和賞を受賞しました。
2000
 南北首脳会議(アジア-朝鮮)国史年表
2000
 6.15南北共同宣言(アジア-朝鮮)国史年表
2000
 アジア・ヨーロッパ首脳会議(ASEM開催)(アジア-朝鮮)国史年表
2000
 北朝鮮、韓国の金大中大統領との初めての南北首脳会談を実施。6.15南北共同宣言を発表
2002
 北朝鮮、小泉純一郎首相が平壌を訪問、日朝平壌宣言。日本人拉致の事実を認めて拉致被害者5名を日本に帰国させる
2002
 日韓共催サッカーワールドカップ
2002
 韓日ワールドカップ開催(アジア-朝鮮)国史年表
2002
 第14回釜山アジア競技大会開催(アジア-朝鮮)国史年表

盧武鉉政権…第十六代大統領(2003~ )

2003
 廬武鉉政府スタート(アジア-朝鮮)国史年表
2003
 盧武玄政権は、国民の政治参加こそが政治を行なう上で核心的な役割を果たすという参与政府を目指しました。若く改革的な新しい人事政策と過去の権威主義の清算、市民社会の成長などは盧武玄大統領の代表的な成果であると評価されています。また盧武玄政権中には、第2回南北首脳会談も行なわれました。
2004
 日本人拉致被害者の遺骨を返還、日本側が遺骨の正式調査を行い、他人の遺骨だと発表するが、北朝鮮側はこれに反発(北朝鮮)
2004.03
 国会が盧武鉉大統領に対する弾劾訴追を可決。高建が大統領職務を代行
2004.04
 総選挙でウリ党圧勝。国民、弾劾拒否の意思を示す
2004.05
 憲法裁判所、弾劾訴追を棄却。盧武鉉が大統領職に復帰
2004.12
 日本からの人道支援の残りの15万5000トンが停止される(北朝鮮)
2005.02
 核兵器製造・保有を公式に認める(北朝鮮)
2006.07
 日本海に向けてミサイルを7発発射(7発とも日本海に着弾)(北朝鮮)
2006.07
 国連安全保障理事会が決議第1695号を採択(北朝鮮)
2006.10
 「核実験成功」を宣言、国連安全保障理事会が決議第1718号を採択(北朝鮮)

李明博政権…第十六代大統領[2008 - 2013]

2008
 韓国の第17代大統領に就任した李明博大統領は、変化と実用をモットーに公企業の民営化、自由貿易協定(FTA)などを積極的に推進しました。2012年現在までにG20首脳会議、核安全保障サミットなど重要な国際的行事を成功裏に開催しました。
2010
 日本尖閣諸島中国漁船衝突事件
2011
 日本日本大震災 
2011.12
 一方、北韓は、17年間政権を握っていた金正日の死去後、その息子の金正恩が権力を継承しました。 1972年7月4日、南北は韓半島の統一に関する共同協議書に署名して以降、1998年には韓国人の金剛山観光の許可や、2000年と2007年の2度に渡り開催された南北首脳会談などを通し、南北間の平和共存および統一に向けた努力を続けています。
2012
 李明博大統領、竹島に上陸

朴槿恵政権…第十八代大統領[2013 - ]

2013.02.25
 第18代韓国大統領に朴槿恵氏が就任した
2013
 朴槿恵大統領就任、朴槿恵大統領、国賓として中国を訪問
2013
 日本2020年オリンピックの開催地が東京に決定する 2013
2015
 世越号沈没事故
2016
 朴槿恵大統領弾劾訴追案が国会で可決

日韓三大歴史問題
・創氏改名・・・強制では断じてない
・慰安婦・・・・戦地売春婦
・強制連行・・・徴用令?


http://www7a.biglobe.ne.jp/~kum-kuda/izanai/rekishi/yokusa.html
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