歴史・人名

朝鮮半島の歴史/1900

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-700000朝鮮半島の歴史編集
-2333『朝鮮』名の由来です。 『朝』とは、時の「朝廷」…中国「周」や「秦」「漢」「後漢」などから「清」国までの歴代中国史。 『鮮』とは、「物請う、物乞う」つまり、朝廷に物乞う人々の国です。 歴代中国側は、日本国側も貢物を差し出せばその地の統治者として認めるような外交をするも、日本があまりにも離れ地(難海を隔てた場所)の為に関与ができなく、属国化できなかった。 しかし、朝鮮半島は、まさしく「物乞う」国として属国できたので『朝鮮』名を命名したのです。 それが現在も続いている名称です。 http://unkar.org/r/korea/1202814092 「朝鮮」の朝は、宗主国に献上する貢物を表します。 そして「朝鮮」の鮮は、少ないという意味があります。 中国には朝鮮半島の傀儡王朝から、財宝、作物、奴隷が献上されたという記録が残っています。 国の名前を中国に決めてもらうとき、朝鮮のほうからも「朝鮮」を含むいくつかの名前を候補にお伺いを立てているわけです。 朝鮮側は当然「朝のあざやかな国」、のつもりでその名前を考えたわけですが、中国側はリストにある「朝鮮」の文字を見て 「貢物の少ない国」となった様です。編集
-2333その1、歴史の始まり・・・檀君神話・古朝鮮 古朝鮮を建国した檀君に関する記録は高麗高句麗)時代の高僧・一然(イルヨン)の書いた「三国遺事」に詳しく書かれている。 昔々、天の国に住んでいた桓因(ファニン)の息子の桓雄(ファヌン)は、天の下の人間の世を気にしていた、父が息子の気持ちを察して、下界をながめて見ると、人間の世を作っても良さそうな気がしたので、桓雄に天の息子の証”天賦印”を与えて下におりて治めることを許した。父の許可を得た桓雄は3000人の配下を連れて太白山(テベク山)の神壇樹に降りてきた、そこが神市である、と壇君神話は始まります。 しかし、古朝鮮の第一代の王は桓雄ではなく壇君です。壇君はまだ生まれていません、どのようにして生まれてくるのでしょうか。 桓雄が世を治めているとき、毎日人間になりたいと心からお祈りをしている虎と熊が同じ洞窟に住んでいました。毎日、お祈りをする虎と熊を見て、二匹の動物にひとにぎりのヨモギとにんにく20個を渡して、桓雄は「それを食べて100日間太陽の光を避ければ人間になれる」といいました。しかし、虎は我慢できずに飛び出してしまった。熊は言いつけを守りきれいな女性に変わりました。しかし、熊の祈りはそこで終わりませんでした。女になった熊は、毎日、神壇樹の下で、子どもを生めるようにして下さいと祈り続けました。そこで、桓雄は男に変身してその熊女(ウンニョ)と結婚し、子どもが生まれました。その子が檀君です。 檀君は紀元前2333年に平壌(ピョンヤン)を都にして、国名を朝鮮と呼びました。日が昇るところ、という古代の朝鮮語で、アサダルの漢字表現です。古朝鮮という名称は李成桂[イ・ソンゲ、太祖(テジョ)李氏朝鮮(りしちょうせん1392年 - 1910年)の始祖] が朝鮮王朝を建てたため、後に二つを区別するために檀君の朝鮮を古朝鮮と呼ぶようになりました。 古朝鮮の開国が紀元前2333年というのは重要です。それは韓国の年号である檀紀をかぞえるとき用いる年度であり、今年(2006年)は檀紀4338年記なります。韓国の歴史が始まって今年で4338年目になったという意味。 しかし、檀君は単に人の名前ではないという事実も注目に値します。個人を指す固有名詞ではなく、普通名詞です。祭政一致社会、シャーマンの王として政治権力と宗教の権力とを同時に持っていた意味をもつ一般名詞です。古朝鮮は政治と宗教が一致していた社会であったことが分かります。 檀君はその後、1500年間、朝鮮を治めて、アサダルの山に入り、山の神になったといわれます。そのとき1908歳だったそうです。とここまでが、「三国遺事」の記録です。 神話が事実か否かはそれほど重要ではありません。神話が存在する理由は、その民族の象徴であり、意味であるからです。『檀君神話』は、天の神の息子がこの地に降臨してきて、宇宙の木である神壇樹の前でこの世を創り、人々と共に生活する話です。そのハイライトは結婚式です。天があり、地があり、植物を代表する宇宙の木があり、動物を代表する熊がいる。その間に人がいる。全ての宇宙が集まって宴会をするのが、結婚式。この結婚から檀君が生まれる。現代を生きるわれわれがそのような全宇宙の美しい祝福を受けて生まれてきたということを伝えている話です。 檀紀(檀君紀元)とは、「三国遺事」で伝えられる檀君(タングン)の朝鮮建国を称える年号のこと。「三国遺事」以下、各種史料では建国年次が一定していなかったが、1485撰述の「東国通鑑」が「唐堯の即位25年・戊辰」と特定して以来、紀元前2333年建国という認識が定着するようになった。 檀紀は、日本からの独立を果たした大韓民国で公用紀元として採用された年号で、檀君(タングン)の朝鮮建国と伝えられる前2333年を元年とし、陰暦10月3日を開天節と定めている。1961年まで用いられたが、1962年の憲法改正(第三共和制)の際に、西暦に改められた。編集
-37その2・高句麗の建国 やがて、紀元前108年に古朝鮮が滅びたあと、朝鮮半島の北部から旧満州にわたって鉄器文化を持つ、いろいろな部族国家が登場します。その中には、今の長春にあった、扶餘(ぶよ)という国もありました。 高句麗歴史は、その扶餘から始まります。高句麗を建国した東明聖王の名は朱夢、彼は後で、自ら高という苗字を名のり、高朱夢とよばれるようになります。 東扶餘には、ヘブルという王がいました。そしてヘブルの父は天の神の息子であるヘモス、へブルはカエルのような金蛙(クムワ)という子どもを授けられて育てる。また河の神であるハベクの娘、ユファは卵を産み落とし、そこから高句麗を建国する東明聖王、すなわち朱夢が生まれる。卵から生まれるとはどういうことでしょうか。 韓国の神話では、高句麗新羅、加羅の建国者は、みんな卵から生まれています。卵から生まれたというのは、父がいなくて、捨てられたという意味です。王子であれば、国を受け継げばいいのです。しかし捨てられたから、新たに建国することができるのです。韓国の神話の特徴は、捨てられたという設定、それが卵として表現されています。 朱夢という名前の意味は何なんでしょうか。弓の実力が優れた人の代名詞です。それは遊牧民としての特徴や闊達さ、気概、征服性を強調する意味の名前です。 朱夢は幼いときから、 優れた才能を持ち、それに焼きもちを感じたクムワ王の長男のデソは、父に朱夢を殺してしまうように提案します。そこで扶餘から逃げ出した朱夢は、ゾルボンに行って、都を開きました。ゾルボンとは、今の中国の黒竜省の一帯です。彼は鉄器文化を持つ強力な軍事力を持って、周辺地域を征服し、ついに高句麗を建国しました。 その時、彼は22才。紀元前37年のことです。 朱夢、彼は扶餘の生まれ育ちですが、扶餘人ではなく、天と水の脈を引き継ぐ神の子孫でした。そうした神話の背景には、天を恐れ、水の神聖さを崇拝する人々を集め、その強力な新しい勢力のリーダとなったのでしょう。そして、ただの神話だけではなく、乗馬や弓に長けていた戦争英雄の征服による政治統合が勇敢な国、高句麗を開いたのです。編集
-18その3・三国時代の幕開け・百済新羅の誕生 紀元前37年、今のロシアのウラジオストク、中国の吉林省、北朝鮮の北東部にわたる広い範囲に朱夢が建国した高句麗。その南には百済新羅がありました。その三国は、王制が定着した後、7世紀半ばにいたるまで、激しい戦争を繰りかえしながら存在しました。 「三国史記」によると、百済の始まりは高句麗からでした。 ある日、高句麗の王、朱夢の所に、男の子が訪ねてきました。朱夢が扶余にいたときに産ませた息子のユリであると言い、その証として半分に折れた短刀を見せました。 朱夢はユリを自分の息子と認めます。そして王位継承権者である太子の地位を与えました。朱夢には他にも高句麗で作った2人の息子・兄のビリュ、弟のオンゾがいました。 ユリが太子になるのを、素直に受け入れた弟であるビリュとオンゾは、自分たちに従う臣下を連れて南の方に行きます。 二人はどこへ行ったのでしょう。 兄のビリュは今の仁川であるミツホルに行きました。しかし、ミツホルの土地は湿気と塩分が多く生活しにくい所で大変な苦労がありました。そのことを恥と思ったビリュは、それが原因で病に倒れました。 一方、弟のオンゾは、今のソウルと推定される威礼城に行きました。ビリュ亡き後、ミツホルの人たちも威礼城にやってきました。オンゾは漢江の周りから京畿や忠清の地域に存在していた部族国家を統合して、一つの国家を作り上げていました。外部からの侵略もなく、しかも高句麗の先進文物を用いて相当安定した国づくりができたのでしょう。やがてオンゾは国名を百済に変えました。 しかしその百済も西暦660年に、また高句麗は668年に滅びます。その二つの国を滅ぼしたのが三国の中で一番遅く国家体制を作った新羅です。 新羅を建国したのは朴ヒョコセといいます。彼は慶州にあった6つの部族の首長らに推挙されて王の位につきましたがその王位は世襲ではなく、朴、昔、金という三つの氏族が代わる代わる王位につくこととなりました。 もう少し詳しくみてみましょう。その新羅の建国者・朴ヒョコとはどんな人だったのでしょう。その少し前のお話になります。 今の慶尚道にあった辰韓には6つの村がありました。6つの村の村長たちは、自分たちを導いて、村民らが従うことができる王のような存在が現れることを希望するようになりました。そうしたある日、森の中から神秘な光が発せられ、まぶしいくらい真っ白な馬がおじぎを続けているではありませんか。6人の村長らが近づいて見ると、そこには青い光が漂う一個の卵がありました。白馬は人を見ると天に上って行きました。そして卵が二つに割れて、そこから可愛い男の子が生まれました。村長らは、その青い神秘な光は天の啓示であり、白馬は天の使者、その子は天が送ってくれた人物だと受けとめて、誠意をもって育て、彼が13歳になった時、王として即位させました。その男の子が朴ヒョコセだったのです。これは自らつけた名前です。 ここにも、卵から生まれてきた男の子が出てきました。 ヒョコセの活躍の話は神話の世界と、呪術の範囲に留まっている部分が多いそうです。その分、高句麗百済よりは古代王国になるのが遅かったといえるでしょう。 新羅という国名を定めるのも、ずっと後の22代目の王の時代のことです。しかし、新羅は優秀な鉄器文化を持つ周辺国、即ち高句麗百済との交流を通じて、時には牽制をもうけながら、ゆっくりと将来の三国統一の基盤づくりに励むのです。 高句麗百済、そして新羅。それらが作った三国時代。その期間は長く、700年間にも及びました。編集
18その4・高句麗の領土拡張 その一、デムシン王 韓国の歴史の中で、一番広い領土を持ち、東北アジアの主役として強い国家を建設した高句麗。 2代目のユリ王は、西暦3年に国内城に都を移しました。今の中国の集安です。高い山に囲まれた天然の要塞と農耕に適した土地、豊富な鉄。国内城のすぐそばには鴨綠江が流れています。その川を下って黄海に出て、国際的な秩序の中に進入できたこと、それが都を移転した一番重要な目的でした。 高句麗の2代目のユリ王、そうです、建国の王・朱夢の所に、半分に折れた短刀を持った男の子が訪ねてきましたね。朱夢が扶余にいたときに産ませた息子のユリです。高句麗2代目のユリ王です。 その頃、高句麗と対立関係にあった扶余のデソ王は高句麗に服従を要求し、拒んだ高句麗を攻撃してきました。ユリ王の三男であるムヒュルが扶余軍を奇襲攻撃し勝利を収めました。彼が高句麗の3代目のデムシン王となる訳です。デムシン王は弓と狩に優れた才能を持っていました。彼は若いときから、周辺の国々を征服し、高句麗の膨張の基礎を築いたのです。扶余を征伐し、ほかの遊牧民族も次々に征服していった高句麗は、こんどは目を南のほうへ向けます。 デムシン王の息子ホドン王子の話になります。ある夏の日、ホドン王子は南の地域を旅していました。美男子であるホドン王子を見た、楽浪の王、チェリは、ホドンが高句麗の王子であることを見抜いて、楽浪の宮中につれて行ったのです。 楽浪の宮殿で、チェリの娘である楽浪姫に会って、恋に落ちたホドン王子はデムシン王の許しを得て、正式に結婚をするために帰国することにしました。 楽浪には敵が侵略してくると、自ら鳴って、危険を知らせる「自鳴鼓(じめいこ)」という太鼓がありました。しかし、ホドン王子は楽浪姫に、その楽浪の宝物である太鼓を壊してくれと頼んでいたのです。それで高句麗軍が攻撃してきても、自鳴鼓が鳴らなくて何の備えもできなかった、 チェリ王は、自鳴鼓を壊したのが、楽浪姫だったのを知り、怒った彼は、楽浪姫を殺してしまいました。 高句麗軍をつれて楽浪に着いたホドン。しかし、楽浪姫はすでに冷たい遺体になっていたのでした。その悲しみを克服できなかったホドン王子は、結局、死を選びました。その時に降伏した楽浪は、5年後には、完全に滅びてしまいます。ホドン王子と楽浪姫の話は、現代にいたるまで悲しい恋の話として、言い伝えられています。 悲恋の裏には、高句麗の領土拡張の野心が潜んでいました。楽浪はどこにあったか。いろいろと説があるようですが、平壌を中心とした地域と推定されています。国内城からはかなり距離がありますが、高句麗の南のほうへの征服を意味しているのでしょう。 ユリ王は吉林省付近の国内城に都を移し、東北アジアに羽ばたく基盤を作りました。デムシン王は扶余と楽浪を征服し、本格的な領土拡張を始めます。高句麗の建国後、百年が経つ西暦1世紀ごろ、高句麗が征服した国が10カ国にも及んでいたと「三国史記」には記されています。 その領土拡張の過程で起きた楽浪滅亡の際のホドン王子と楽浪姫の悲しい恋の物語は今でも韓国の子どもたちに伝えられています。編集
1897大韓帝国(1897~1910[日本の保護国の時期 1905~1910])編集
1897大韓帝国の設立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1897 大韓帝国樹立  (朝鮮-)
 一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。 朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。 1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。 (朝鮮-)
 日清戦争(1894~1895)の清の敗北を受けて締結された下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、朝鮮国から大韓帝国と国号を改める  (財政基盤の脆弱性により借款がうまくゆかず、各地で抗争が起きる)
 
大韓帝国成立  一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。  朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。  日本はロシアの南進を防ぐべく、朝鮮半島近代化を進めた武断政治とよばれる強権統治をおこない、活発な抗日独立運動がおこった。  日清戦争後の下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(通称・韓国)として独立し、高宗は韓国皇帝を称した。これ以後日本の強い影響下に置かれた。
 
大韓帝国の設立.内外に自主国家であることを宣言 (朝鮮-) http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png
 国号を大韓帝国に改める
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1898万民共同会開催(アジア-朝鮮)国史年表編集
1898釜下鉄道会社設立 (朝鮮-)
独立協会,万民共同会開催.ロシアの侵略策動を糾弾し自主国権運動展開 (朝鮮-)
1898 独立教会、官民共同会を開き国政改革を求めるも、土地改革構想を提示しえず、農民層を陣営に取り込めず失敗し、守旧派の弾圧を受け解散する
万民共同会開催 「皇城新聞」創刊  朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。  閔妃を明成皇后に祭り上げる。  親露派が親日派を圧倒。
大院君、死去。
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18991899年 京仁線開通
 外国人の手により京仁線開通. (朝鮮-)
 利運社,通運社などの陸運会社設立 (朝鮮-)
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1899京仁線開通(アジア-朝鮮)国史年表編集
19001900 京仁鉄道の開通
 1900年(明治33年) 日英露独墺伊仏英、八ヶ国連合軍出兵。
 1900年、漢江に1100mの鉄橋を架ける。
 1900年4月 露清密約、満州全域に露軍駐留。
 大韓共同郵船会社,仁川輪船株式会社,海西鉄鉱会社設立 (朝鮮-)
 万国郵便連合加入 (朝鮮-)
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1900万国郵便連合加入(アジア-朝鮮)国史年表編集
19011901 貨幣条令を公布し、金本位制を採用
 1901年 北京議定書(日本は駐留権)
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19021902 (日英同盟の締結)、日本の第一銀行、朝鮮国内で銀行券を発行編集
1902ソウル・仁川間に長距離電話開通(アジア-朝鮮)国史年表編集
1902日英同盟成立 1902http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1902 ソウル・仁川間長距離電話開通 (朝鮮-)
 日英同盟成立
 1902 (日英同盟の締結)、日本の第一銀行、朝鮮国内で銀行券を発行
 1902年1月30日 桂太郎首相、ロシアに満韓交換論を提示。(朝鮮-)
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1903YMCA発足(アジア-朝鮮)国史年表編集
1903遂安金鉱合資会社設立 (朝鮮-)編集
1903YMCA発足 (朝鮮-)編集
19041904.02.08 日英同盟締結。  日露戦争勃発。高宗、中立宣言。日本側の勝利に終る。  日韓議定書、韓国内での日本の軍事行動の自由を保障。  翌年、第二次日韓協約締結。日本の一連の責任者伊藤博文は、朝鮮の保護国化を推進し、日本政府の早期併合論に反対を唱えていた。  しかし、1909年朝鮮の民族主義運動であった安重根によって暗殺されるや、決定的に韓国併合に進んで行った。編集
19041904.02.09 日露戦争の始まり、日本、ソウルを制圧し、日韓議定書の調印(朝鮮の内政干渉、軍の駐留権、土地収容権などの確保)編集
19041904.08.22 第一次日韓協約の締結、(日本人による財政顧問・外交顧問の登用、外交交渉における日本政府の事前協議など)編集
19041904年8月23日 第一次日韓協約を結ぶ。  韓国財政、外交顧問に日本の推薦者を置く。  外交案件は事前にに日本と協議。編集
19041904年 京釜線竣工編集
19041904年 一進会は日韓合邦運動を開始。編集
1904京釜線竣工(アジア-朝鮮)国史年表編集
1904韓日議定書を締結(アジア-朝鮮)国史年表編集
1904日露戦争が起こる 1904http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1904京釜線竣工 (朝鮮-)編集
1904日露戦争が起こる。
第一次日露協約調印。
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1904第一次日韓協約締結 (朝鮮-)編集
1904親日御用団体,一進会設立.日本の政策を支持する運動を展開 (朝鮮-)編集
1904韓日議定書締結.日本による顧問政治始まる (朝鮮-)編集
1904*1904年  日露戦争勃発。日本側の勝利に終る。翌年、第二次日韓協約締結。日本の一連の責任者伊藤博文は、朝鮮の保護国化を推進し、日本政府の早期併合論に反対を唱えていた。 しかし、1909年朝鮮の民族主義運動であった安重根(???)によって暗殺されるや、決定的に韓国併合に進んで行った。 (朝鮮-)編集
1905日本の保護国の時期 1905~1910編集
19051905.07.29 桂・タフト協定。  アメリカが日本の韓国保護国化を承認。  フィリピンにはアメリカ合衆国が影響力を持つと、相互に認め合う。編集
19051905.07 高宗のロシア帝国への密使が発覚する、桂・タフト協定編集
19051905.08 (第二回日英同盟の締結)編集
19051905.09 日露講和条約(ポーツマス条約)、注:それぞれにフィリピンとインドに対する支配を承認することを引き換えに、朝鮮に対する保護権確立を米・英・露に認めさせた編集
19051905.11.17 第二次日韓協約の締結(日本の保護国となる)編集
19051905.11.17 第二次日韓協約を結ぶ。  韓国は外交権を日本に譲渡、日本の保護国となる。編集
19051905年7月 高宗のロシア帝国への密使が発覚する。編集
19051905年8月 日英同盟改定。  イギリスが日本の韓国保護国化を承認。編集
19051905年 乙巳条線編集
19051905年 ポーツマス条約  日本の韓国における優越権を認める。  日露両軍を満州から撤退する。編集
1905乙巳条約(アジア-朝鮮)国史年表編集
1905天道教創立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1905日露講和条約(ポーツマス条約)締結 1905http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1905 保護条約、乙巳条約(第2次日韓協約)調印  (朝鮮-)編集
1905日本,竹島(独島)の占有権を公示 (朝鮮-)編集
1905東学の第3代教主孫秉熙,天道教創始 (朝鮮-)編集
1905第二次日韓協約調印編集
1905第二次日韓協約(乙巳条約).日本の強制的な保護条約 (朝鮮-)編集
1905関釜連絡船航路就航.現在,関釜フェリーとして運行 (朝鮮-)編集
19061906.02 韓国統監府の設置(統監に伊藤博文が赴任)編集
19061906年 漢城に韓国統監府設置。  初代統監に伊藤博文。編集
1906統監府設置(アジア-朝鮮)国史年表編集
1906 日本、統監府を設置  (朝鮮-)編集
1906大韓自強会結成.愛国運動開始 (朝鮮-)編集
1906日本、韓国統監府を設置編集
1906統監府設置.日本人次官が韓国内政全般を取り仕切る (朝鮮-)編集
19071907.04~ 愛国啓蒙運動の活動が起こる、国債報償運動(日本からの借款を募金により返済すると云う)が起こる編集
19071907.06 高宗によるハーグ密使事件(オランダのハーグで開催された第二回万国平和会議の失敗)編集
19071907.07 高宗が退位し、純宗が即位、第三次日韓協約の締結(内政権の日本管轄、一大隊を残して韓国軍の解体)編集
19071907.08 抗日義兵抗争(~1915)編集
19071907年6月 ハーグ密使事件。  オランダのハーグで開かれた第2回ハーグ平和会議に朝鮮 (大韓帝国) の高宗皇帝が密使を送る。  この事件で統監伊藤博文は皇帝に抗議。編集
19071907年7月19日 高宗皇帝、息子の純宗に譲位。編集
19071907年7月 第三次日韓協約。内政権が日本の管轄下に入る。編集
19071907年8月1日 韓国軍の解散が定められる。編集
19071907年 国債報償運動編集
1907ハーグ特使派遣(アジア-朝鮮)国史年表編集
1907国債報償運動(大邱)(アジア-朝鮮)国史年表編集
1907新民会設立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1907軍隊解散(アジア-朝鮮)国史年表編集
1907高宗皇帝退位(アジア-朝鮮)国史年表編集
1907ハーグ密使事件、高宗退位
第三次日韓協約調印
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1907ハーグ特使派遣.日本との条約無効を国内外に宣言しようとしたが失敗 (朝鮮-)編集
1907国債報償運動 (朝鮮-)編集
1907安昌浩,新民会設立.多様な反日活動を続ける (朝鮮-)編集
1907日本と国交回復編集
1907日本,保安法,新聞紙法などの弾圧法規により啓蒙運動を圧迫 (朝鮮-)編集
1907朝鮮軍隊解散 (朝鮮-)編集
1907高宗皇帝退位.純宗王位に就く (朝鮮-)編集
1908義兵、ソウル進攻作戦(アジア-朝鮮)国史年表編集
1908義兵,ソウル近郊まて進行,日本軍の反撃で撤退 (朝鮮-)編集
19091909.09 韓国銀行の設立編集
19091909.10 統監伊藤博文がハルビン駅にて、愛国啓蒙運動の義兵(安重根)に暗殺される、朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)編集
19091909年12月4日 一進会は韓国皇帝・曾禰荒助統監・李完用総理大臣に対して、日韓合邦に関する上奏文と請願書を提出し、合邦声明書を国民に配布。編集
19091909年 安重根義士の義挙編集
19091909年 韓国統監府初代統監伊藤博文がハルビン駅にて安重根により暗殺される。
伊藤博文「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ。」
朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)。
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1909安重根、伊藤博文処断(アジア-朝鮮)国史年表編集
1909日本、清と間島を安奉線と交換(アジア-朝鮮)国史年表編集
1909羅喆、大?教創始(アジア-朝鮮)国史年表編集
1909 安重根が伊藤博文を殺害  (朝鮮-)編集
1909安重根がハルピン駅で伊藤博文を射殺編集
1909安重根,ハルピン駅で伊藤博文射殺.翌年旅順で処刑 (朝鮮-) http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png編集
1909日本,安奉線の鉄道敷設権を手に入れるため,清と間島を交換 (朝鮮-)編集
1910#style(class=box_black_swm){{  建築や燃料のため木を伐り、又、「火田民」による焼畑農業によるやせた土地を、植林する事なく放置されていたため、山々にはほとんど木が生えていなく、盗伐が多いため「山覧」をおき、一般人が植林した山に入る事を禁じた。  火田民に農業用地を与え、焼畑農業を禁止し、定住型の農業を進め、5億9000万本の植林をすすめた。  鉄道網 100kmから総延長6000kmに増やした  併合時の人工約1300万人あまり、1942年には2550万人以上  平均寿命24才から、42才に }}編集
1910#style(class=box_black_swm){{ 植民地=搾取する土地     朝鮮に搾取できるものが何一つない 歴代シナ王朝→反抗時の軍事制裁はすれども占有はせず 日本    →使命感に燃えてせっせと投資 }}編集
1910#style(class=box_black_swm){{ 理想の朝鮮統治とは 石橋湛山  朝鮮放棄論  結論・・・日本人との同化は無理 吉野作造  外的施設だけでなく  朝鮮人の心を得なければならない  朝鮮人日本臣民だが大和民族ではない }}編集
19101910 合邦条約を締結。  一進会の李容九、宋秉畯などが併合に関する各種の請願書や声明文を発表。編集
19101910 日韓併合条約を締結し、大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本朝鮮半島を領有することになる。いわゆる日帝時代、日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。  文盲率90%編集
19101910.03 土地調査事業の推進(土地所有権・地価・地形など)   国有地は東洋拓殖株式会社などの日本人地主に多く払い下げられる   終了した時点(1918)では  水田65%、畑43%が小作地となり農民の77%が小作農・自作農となる 1910年代には、本格的な産業政策の展開が見られなかったので、土地を失った農民は中国国境の豆満江・鴨緑江を越えた間島(現、延辺朝鮮族自治州など)に毎年2~3万人の移住が続き、40万人近い朝鮮人が在住していた  1920年代には、日本に4万人程度、またロシア領沿海州・中国・アメリカなどに移民編集
19101910.07 憲兵警察制度の発足  集会取締り令の公布(政治結社・報道の規制)編集
19101910.08 日韓併合条約の締結(大日本帝国に併合され、京城に朝鮮総督府の設置)編集
19101910.08.08 「条約案」が韓国閣議を通過。編集
19101910.08.22 李完用総理大臣と寺内正毅統監との間で「韓国併合に関す条約」が締結。編集
19101910.08.28(明治42年) 日本側から韓国政府へ「条約案」を提示。編集
1910併合10年後 旧一進会会員から同会の顧問だった日本側リーダーの杉山茂丸に対して、「併合の結果は日韓国民の聞に著しい差別をもたらすものであり、無差別平等の対等合邦ではなかった」と、その責任を問う問責状が送付されている。編集
1910併合後 李容九は「日本にだまされた」と述べたと伝えられる。編集
1910併合直後 一進会は他の団体とともに解散を命じられた。編集
1910日韓併合日本帝国の植民地時代(日帝時代)[1910~1945年]
日本はロシアの南進を防ぐべく、朝鮮半島近代化を進めた武断政治とよばれる強権統治をおこない、活発な抗日独立運動がおこった
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1910韓国併合歴史  日清戦争では、清に朝鮮の独立を認めさせ、1904年の日露戦争勃発時には第一次日韓協定により韓国の財政、外交に関して日本が介入することを認めさせ、日露戦争に勝利した日本は1905年に第二次日韓協定によって韓国の外交権を奪いました。ちなみに、日韓協定は、日朝協定ではないですよ。1897年の日清戦争後に国号を韓国と変えていますから。  1904年の日韓新条約、ついで日露戦争終結後の協約により、韓国は日本の「保護国」となっていた(当時、フランスの保護下にあったモナコのように、独立国でありながら他国に外交権を委任することはヨーロッパによく見られたことだった)。  日露戦争に勝ったことで日本はロシアの朝鮮半島南下を食い止めることができた。明治維新以来、日本にとって最大の懸案であった朝鮮半島の自立と近代化がこれで進展することになった。  そして、この第二次日韓協定によって日本はソウルに統監府(とうかんふ)というのを置き、初代統監に伊藤博文がつきました。これは、もう事実上日本が韓国の政治全般に介入することを意味しています。  このような日本の動きに対して、アメリカはフィリピンのアメリカ支配を認める代わりに日本の韓国支配を認めるという協定を1905年に日本との間に結びます。桂・タフト協定といって桂さんは当時の日本の首相。タフトは米陸軍長官です。  また、ロシアも日露戦争後のポーツマス条約によって日本による韓国保護国化を認めざるをえなくなります。  1907年には、この韓国の現状を世界に訴えようとハーグ密使事件というのがおきます。韓国皇帝がハーグの万博平和会議に密使を送り助けを求めたのです。しかし、韓国には外交権がないという理由で各国は無視。逆に日本は、この韓国の行動に対して韓国軍の解散を強制します。これが第3次日韓協定です。  当然、このような日本の行動に韓国国内では不満を募らせる人々もおり1909年に初代統監府であった伊藤博文が韓国の安住根(あんじゅうこん)によって暗殺されます。  協約によって韓国統監となった伊藤博文は併合しないと主張していたのだが、条約を守ろうとしない韓国を併合せざるを得なくなる。  そして韓国人テロリストが伊藤博文を暗殺するというとんでもない事件が起こった。  日本政府が驚愕し、日本人が激怒したのはもちろんのこと、韓国政府、朝鮮人は震え上がった。  伊藤博文の暗殺を受けて、日本と韓国の双方から提案があり、韓国併合の話が持ち上がった。会員100万人といわれる韓国最大政党である「一進会」も併合推進派だった。  慎重な日本政府は列国に打診した。欧米先進国の仲間入りを願っていた日本は、国際社会の反応を心配したのだ。アメリカとイギリスは、このまま放っておけばさらに混乱すると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対もまったくなかった。  各国の賛成を得て、また一進会も併合を望み、日本韓国併合に乗り出した。  日本政府は、当時最も穏やかな併合だったイギリスのスコットランド併合を参考に韓国の併合を進めることにした。  この事件の翌年の1910年には日韓併合条約により韓国は完全に日本植民地となり韓国併合となったのです。  そして明治43年(1910)、日韓併合条約が締結された。  植民地政策といえば宗主国が植民地から搾取するのがお決まりのパターンだった(西欧の植民地支配)が、日韓併合後は日本からの一方的な持ち出しだった。しかも朝鮮から日本に入る人数が日本から出かける人よりも相対的に多かった。  終戦後、日本は莫大な資産を朝鮮半島に置いてきた。日本朝鮮半島で迷惑をかけたと考えられるものと差し引き計算すると、日本が置いてきた資産のほうが北朝鮮に関しても、今の貨幣価値で8兆7000億円多い。  ところが首相だった小泉は「過去の植民地政策」に謝罪してしまった。謝罪する理由などまったくないにも関わらずである。  当時の朝鮮が明治政府や民間の立場からの福沢諭吉たちの切なる勧告を受け入れて近代化を進めていたら、日本は日清戦争も日露戦争も戦わなくてよかった。併合する必要などまったくなかった。それもこれも清国への属国意識に染まって自立の意思に欠け、清国に、あるいは南下侵略の意図をあらわにするロシアになびき、朝鮮が近代化を遅らせたためだけに起こったことである。そのために日本の負担は大変のものだった。日本にとってはきわめて遺憾なことだった。韓国側からすれば主権が奪われたのだからやはり遺憾なことだったであろう。  韓国併合に成功した日本は、まず言論、出版、集会、結社などの自由を排除。また、日本語や日本史の教育を推し進め、土地調査により所有者が不明な土地は没収していきました。  このような日本支配により、1919年には三・一運動というのがおきます。200万人以上が参加し朝鮮の独立を訴えたのです。こうした運動により日本も武力行使を控えるなどの行動にでますが、日中戦争、太平洋戦争に突入していくと危機を乗り越えるために日本は朝鮮への強要をさらに強めていくことになるのです。  1938年には学校教育にて朝鮮語の教育をなくし、日本語を常用することを強制します。また、日本風の名前に改名することをも強制し、朝鮮半島の人々を日本へと連れて行き重労働を強いることなどもしました。  昭和59年、韓国大統領(全斗かん)が初めて来日し、昭和天皇と会見した。天皇がどういう発言をするか注目が集まったが、「日韓両国の間には今世紀の初め、まことに遺憾な状態がありました。こういうことは繰り返してはなりません」という趣旨の発言をされた。これ以上ないと思える言い方であった。  ところが、日本の首相は小泉をはじめ、日韓併合について安易に謝罪ばかりを繰り返している。これは明治天皇、明治の元勲、それに日進日露の戦争で戦死した人たちを冒涜することである。  反日史観・自虐史観では、この併合を「侵略」という。馬鹿らしいことである。  政府が直接介入していたか?定かではありませんが、従軍慰安婦問題などもこの頃の問題ですし、竹島問題も韓国併合が焦点となり問題を複雑にしています。 韓国併合の理由  韓国併合の理由は何だったか。簡単にいえばひとつはアジアの安定、東洋の平和であった。もうひとつは日本の安全、自衛であった。このことは韓国併合の御詔勅に書かれている。御詔勅というのは美辞麗句を連ねた無意味な文書のように考える者もいるが、そうではない。御詔勅というのは、実にその当時の日本の置かれた立場、日本の主張を的確に簡潔に表現している。  韓国併合の結果、アジアは安定した。言い換えれば、それまでの禍乱(からん)というものはすべて朝鮮に原因があったと言ってもいい。日清戦争、日露戦争、これすべて朝鮮が主たる原因だった。日本は三たびこの朝鮮のために国運を賭した戦争というものを戦いたくなかったから、ついに空名にしか過ぎない韓国の独立を取り消して併合したのだ。  1919年、こうした日本の統治に対しては朝鮮の反発が強かった。この年、宗教指導者らが中心となって、大規模な独立運動を展開した。3月1日に起こったので、3・1運動と呼ばれるものである。  この運動は朝鮮総督府当局による武力による弾圧で、間もなく終息していき、運動は挫折した。  しかし、独立派の中心的人物などが、中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府と呼ばれる亡命政府を設立した。初代大統領は李承晩で、以降、最後の第13代金丸まで、25年間にわたり継続する。1945年の朝鮮解放により解体した。編集
1910韓国併合・日帝時代(1910ー1945)
日本統治時代(日帝強占期)  1876年、朝鮮王朝日本から門戸を開放するよう強要され、1910年に日本により併合されました。そして、1945年に日本が降伏するまでの間、韓国は日本の統治を受け続けました。
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19101910年 日帝の国権侵奪編集
1910国権剥奪(アジア-朝鮮)国史年表編集
1910 日本帝国の植民地時代(日帝時代)[1910~1945年] (朝鮮-)編集
1910 韓国併合  (朝鮮-)編集
1910「東医宝鑑」完成編集
1910韓国併合に関する条約」調印。日韓併合。朝鮮総督府設置編集
1910会社令発令.朝鮮人会社の設立を抑制 (朝鮮-)編集
1910大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本朝鮮半島を領有することになる。いわゆる日帝時代、植民地併合時代のスタートであり、日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。 (朝鮮-) http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1910日韓併合条約調印 (朝鮮-) http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1910*1910年  日韓併合条約締結。韓国は朝鮮と改称され、日本植民地領地となる。これにより、518年に及ぶ朝鮮王朝は滅亡した。  (朝鮮-)編集
19111911 「同化政策」による第一次朝鮮教育令の公布  私立学校の廃止編集
19111911 鴨緑江に旋回式鉄橋、鴨緑江橋梁を架ける。編集
1911105人事件.日帝による総督暗殺事件でっちあげにより新民会員105人逮捕 (朝鮮-)編集
19121912年1月1日 孫文が南京で中華民国の建国宣言 #style(class=box_black_swm){{ 中華民国は国ではなかった  →中原の軍閥の集まり }}編集
1912土地調査事業開始始まる(-1918)(アジア-朝鮮)国史年表編集
1912土地調査事業開始(~1918)多くの農民が土地を奪われる (朝鮮-)編集
19131913年(大正2年) 大正政変  第一次護憲運動が起る編集
19141914年(大正3年) 第一次世界大戦勃発編集
1914大韓光復軍政府樹立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1914第一次世界大戦参戦 1914http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1914沿海州ウラジオストックに大韓光復軍政府樹立 (朝鮮-)編集
1916朴重彬、円仏教創始(アジア-朝鮮)国史年表編集
1916朴重彬,円仏教創始.開墾事業と貯蓄運動を勧め新生活運動展開 (朝鮮-)編集
19171917年(大正6年) シベリア出兵編集
19181918 産米増殖計画の実施(日本国内各地で米騒動おこる、台湾では蓬莱米増産計画)  土地を失った農民は都市に流出、日本・中国東北に移住してゆく  (1920~1932 朝鮮米の生産高は1.2倍、輸出高は2.5倍になる)  韓人社会党の結成(ハバロフスクで李東輝らが組織)編集
19181918年(大正7年) ヴェルサイユ講和条約調印  日本・・・人種差別撤廃を主張編集
19191919 全露高麗共産党の結成(イルクーツクで金哲勲らが組織)   その後、  イルクーツク派系の火曜会 上海派系のソウル青年会 東京留学生中心の北風会  などが生まれる 編集
19191919.03.01 こうした日本の統治に対しては朝鮮の反発が強かった。この年、宗教指導者らが中心となって、大規模な独立運動を展開した。3月1日に起こったので、3・1運動と呼ばれるものである。 この運動は朝鮮総督府当局による武力による弾圧で、間もなく終息していき、運動は挫折した。 しかし、独立派の中心的人物などが、中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府と呼ばれる亡命政府を設立した。初代大統領は李承晩(???)で、以降、最後の第13代金丸(??)まで、25年間にわたり継続する。1945年の朝鮮解放により解体した。 (朝鮮-)編集
19191919.03.01 三・一独立運動の始まり(米国大統領ウィルソンによる民族自決主義の提唱、ロシア革命の勃発)  運動は全国に拡大して行き、3月下旬から4月上旬に最高潮200万人に達し、後に帝国主義批判の論理をもった社会主義思想の浸透となる  (死者 7,509人 負傷者 15,961人 逮捕者 46,948人)  上海で大韓民国臨時政府の発足編集
19191919年 3・1運動、大韓民国臨時政府樹立  排日、反日・・・日本を敵視編集
19191919年 三・一事件起る編集
19193.1運動(アジア-朝鮮)国史年表編集
1919大韓愛国婦人会組織(アジア-朝鮮)国史年表編集
1919大韓民国臨時政府樹立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1919三・一独立運動  (朝鮮-)編集
1919上海に大韓民国臨時政府樹立 (朝鮮-)編集
1919大韓愛国婦人会組織 (朝鮮-)編集
1919高宗死亡。三・一独立運動が広がる。大韓民国臨時政府設立編集
1919高宗死去 (朝鮮-)編集
19193・1運動.挙族的な万歳示威運動.全国に波及 (朝鮮-)編集
1920#style(class=box_black_swm){{ 1920年の朝鮮半島  ■日本の海外領    (外地teritory)   ※インド帝国は植民地(Colony)    カナダは海外領  ■日露戦争で南満州を獲得  ■開拓農民として朝鮮人が入植   漢人の大量流入。   朝鮮人 vs 漢民族    保護国    保護領    植民地    属領 大韓民国建国の抗日闘争 コミンテルンの暗躍  ■1922年 ソビエト社会主義共和国連邦の樹立  ■朝鮮共産党(コミンテルン朝鮮支部)を組織  ■抗日パルチザンの金日成を取り込む    レーニンとスターリン 金日成 }}編集
1920#style(class=box_black_swm){{ 日英同盟を切られる  ■1921年~1922年 ワシントン会議  ■四ヶ国条約(日・米・英・仏)    日英同盟撤廃  ■九ヶ国条約(日・米・英・仏・伊・白・蘭・葡・中)    中華民国の主権を保証(日本批判)  ■五ヶ国条約(日・米・英・仏・伊)    主力艦保有のの制限      ↓    日英米が互いに孤立、敵視    ソ連の暗躍を許す    シナ大陸の動乱を放置    五族(日・朝・満・蒙・漢)協和  ■1932年    1月 8日 桜田門事件     → 李奉昌    4月29日 上海天長節爆弾事件 → 尹奉吉 }}編集
19201920年 清山里大捷、「朝鮮日報」「東亜日報」創刊編集
19201920年代まで 文盲率 80%~99%?  「訓民正音」の名で民衆に与えるも、学校というものが存在しない朝鮮では一般民衆には普及しなかった。編集
19201920~ 満州東部の間島で大韓独立軍の抗日武装闘争の激化   「文化政治」に移行   (基本方針としては同化主義を掲げ、具体的な政策では民族主義への配慮を行わざるを得ないと云う特徴)  1.従来の憲兵警察制度を廃止し、普通警察制度を発足 2.朝鮮総督の文官の任用を認める 3.諮問機関として、民選の府協議会・面協議会が置かれる 4.禁止していた朝鮮語の新聞・雑誌の刊行の認可編集
1920金佐鎮、青山里大捷(アジア-朝鮮)国史年表編集
1920「朝鮮日報」「東亜日報」創刊(アジア-朝鮮)国史年表編集
1920「朝鮮日報」,「東亜日報」創刊 (朝鮮-)編集
1920朝鮮日報、東亜日報創刊。
独立軍、青山里の戦いで勝利。琿春事件
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1920青山大捷.金佐鎮の独立軍,満州の青山里で日本軍に勝利 (朝鮮-)編集
19203・1運動で活動した「朝鮮のジャンヌダルク」柳寛順16歳で獄死 (朝鮮-)編集
19221922年 第二次朝鮮教育令  法的に大学設立が可能に編集
1922「子どもの日」制定(アジア-朝鮮)国史年表編集
1922天道教少年部「子どもの日」制定.少年運動展開 (朝鮮-)編集
19231923.09 (関東大震災のあと、大規模な朝鮮人虐殺事件が起こる)編集
1923関東大震災 1923http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
19241924.04 朝鮮労農総同盟の発足  ソウル青年会の主導下に朝鮮青年総同盟が結成され、労働運動・農民運動などの民衆運動の中核的な存在となる編集
19241924年 日本で6番目の帝国大学である京城帝国大学をつくる。編集
1924京城帝国大学創立 (朝鮮-)編集
1924社会主義思想流入による青年運動の分裂収拾のため朝鮮青年総同盟結成 (朝鮮-)編集
19251925 朝鮮共産党・髙麗共産青年会が発足するも、1928年には崩壊される編集
19251925年 京城駅が完成編集
1925治安維持法施行 1925http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1925朝鮮共産党結成編集
19261926年 6・10万歳運動編集
19266.10万歳運動(アジア-朝鮮)国史年表編集
1926映画「アリラン」上映 (朝鮮-)編集
1926活動写真「フィルム」検閲規制施行 (朝鮮-)編集
1926青年学生による6・10万歳運動.多くの学校に広がっていく (朝鮮-)編集
19266・10万歳運動編集
19271927 朝鮮労働総同盟と農民総同盟に分離  民族解放運動の結節点として「新幹会」の発足をみるが、(1931年に解散)編集
19271927年 新幹会創立編集
1927新幹会組織される(アジア-朝鮮)国史年表編集
1927京城放送局がラジオ放送開始 (朝鮮-)編集
1927新幹会結成編集
1927民族主義陣営と社会主義陣営が統合し新幹会組織.民族唯一党運動推進 (朝鮮-)編集
19281928年 台北帝国大学編集
1928上海で李東寧、金九らが韓国独立党結成編集
19291929.01 元山ゼネスト(2,200人の労働者がゼネストに突入し、交通・港湾荷役は完全に停止する)編集
19291929年 光州学生抗日運動編集
1929光州学生抗日運動(アジア-朝鮮)国史年表編集
1929元山労働党ゼネスト。光州学生運動編集
1929日本人学生が韓国人女性を愚弄した事件をきっかけに光州学生運動起こる (朝鮮-)編集
19301930 1930年前半では、昭和恐慌で工業が活気を帯びる編集
19311931年 満州事変  大阪帝国大学編集
1931満州事変 1931http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1931万宝山事件編集
1932#style(class=box_black_swm){{ 中華民国は、満州国設立により日本が侵略目的で中国人留学生を受け入れたと言う。 現代中国の思想は日本からはいった   歴史  プロパガンダ・・・中国       ファンタジー・・・韓国       ヒストリー・・・・日本 現代の中国史は毛沢東が書いた歴史    →日本の影響、おかげで発展した事を否定 }}編集
19321932年 李奉昌、尹奉吉義挙編集
19321932年 満州国建国編集
1932李奉昌、尹奉吉義挙(アジア-朝鮮)国史年表編集
1932満州国建国。五・一五事件。 1932http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1932尹奉吉義挙.上海虹口公園での投弾テロ (朝鮮-)編集
1932李奉昌義挙.日本の桜田門で天皇暗殺未遂 (朝鮮-)編集
1933ハングル綴字正書法統一案制定(アジア-朝鮮)国史年表編集
1933国際連合脱退 1933http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1933朝鮮語学会,ハングル綴字法統一案制定 (朝鮮-)編集
1934震檀学会組織される(アジア-朝鮮)国史年表編集
1934震檀学会組織.日本人御用学者の韓国学に反発.震檀学報発刊 (朝鮮-)編集
19351935 (中国、抗日統一戦線の樹立を提唱)編集
19361936年 就学児童、110万人になり、文盲率が40%までに。  日本がつくったのは小学校だけでなく、24の専門学校、75の中学校、75の高等女学校、133の実業高校、145の実業補習学校、1つの大学予科、36年で建てた公立学校の総数は5000校、22の師範学校編集
1936孫基禎、ベルリンオリンピック大会のマラソンで優勝(アジア-朝鮮)国史年表編集
1936二・二六事件 1936http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1936孫基禎,ベルリンオリンピック大会マラソン優勝.日章旗抹消事件 (朝鮮-)編集
1936日章旗扶梢事件編集
19371937 祖国光復会(朝鮮民族解放同盟)の師団長(金日成)が日本軍を撃破する  (ソ連の対日参戦の直前に組織された朝鮮工作団の責任者に選ばれた金日成は、日本の降伏後にソ連軍と共に元山に上陸する)編集
19371937.07 (日中戦争の勃発)  朝鮮は軍需物資の生産を担う兵站基地となる 一面に一神社を設置し参拝の強制 創氏改名の強要 従軍慰安婦は日本人は将校用、朝鮮人は兵隊用と差別される編集
19371937.10 皇国臣民の誓詞が発布される編集
19381938年 電化による鉄道を走らせた。編集
19381938年7月29日 通州事件編集
19381938年7月7日 盧溝橋事件編集
19381938年8月13日 北支事変編集
19381938年9月3日 支那事変  日本朝鮮人のテロにもめげず・・・編集
1938ハングル教育禁止(アジア-朝鮮)国史年表編集
1938国家総動員法施行 1938http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1938朝鮮教育令改正,ハングル教育禁止
 →韓国、北朝鮮の日本語を強要されたという嘘 (朝鮮-)
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1938朝鮮語教育廃止編集
19391939 日本人労働者不足を補うために85,000人の朝鮮人日本に強制移動される  (1939~1945 約113万人)編集
19391939年 名古屋帝国大学編集
1939★ハングルを弾圧  (朝鮮-)編集
1939創氏改名公布.死をもって抵抗する者あり
 →創氏改名の真実 (朝鮮-)
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1939国民徴用令公布編集
1939国民徴用令実施.強制連行はじまる (朝鮮-)編集
19401940.09 大韓民国臨時政府は重慶に移転し、韓国光復軍を創設編集
19401940年 韓国光復軍設立編集
1940民族抹殺政策強化(アジア-朝鮮)国史年表編集
1940韓国光復軍結成(アジア-朝鮮)国史年表編集
1940 創氏改名  (朝鮮-)編集
1940創氏改名実施。皇民化教育の強化編集
1940大韓民国臨時政府,重慶で韓国光復軍結成 (朝鮮-)編集
1940民族抹殺政策強化.皇民化教育の強化 (朝鮮-)編集
19411941.12.08 大日本帝国がアメリカ合衆国に宣戦布告( 太平洋戦争の勃発)編集
19411941年 臨時政府の対日宣戦布告編集
1941真珠湾攻撃。太平洋戦争起こる。 1941http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
19421942年 朝鮮語学会事件編集
1942朝鮮語学会事件(アジア-朝鮮)国史年表編集
1942徴兵制の実施を閣議決定。朝鮮語学会事件編集
1942朝鮮での徴兵制実施 (朝鮮-)編集
1942朝鮮語学会事件.独立運動団体とみなされ逮捕,投獄,解散させられる (朝鮮-)編集
1943訓民正音(ハングル)を創制編集
19441944.02 朝鮮徴兵令施行編集
1944学徒軍事教育要綱発表。
学徒動員非常措置法実施。
全面徴用の実施。
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1945解放、大韓民国[1945年~]
日本の降伏により、朝鮮は植民地支配から解放されたが、北緯38度線を境界としてアメリカとソ連に分割統治され、国土は南北に分断された。
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19451945.08 ソビエト連邦が日本に宣戦布告し、朝鮮半島東北部に侵攻 トルーマン大統領が「連合国一般命令を」ソ連に通告し同意させる  (北緯38度線で朝鮮を分割し、日本軍を分割武装解除することの内容)編集
19451945.08.15 日本は ポツダム宣言の受諾  管轄はアメリカ軍とソビエト連邦軍になる編集
19451945.08.15 第二次世界大戦で大日本帝国敗北  朝鮮半島での日本植民地支配終了、連合軍の管轄になる  (北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄)編集
19451945.09 ホッジ中将の米第24軍団第一陣、仁川に上陸し翌日、朝鮮総督府が降伏文書に調印する  アメリカが在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を設置編集
19451945.09.06 民族主義者、呂運亨らにより「朝鮮建国準備委員会」の結成  全国人民代表大会で臨時政府の樹立を決定し「朝鮮人民共和国」を興す編集
19451945.10 米政府による「朝鮮人民共和国」および「朝鮮建国準備委員会」の否定  北朝鮮共産党臨時人民委員会が樹立編集
19451945.11.20 第一回全国人民委員会代表者会議(人民共和国による)をソウルで開く編集
19451945.12 モスクワ協定(米・英・ソ三国外相会議)において、信託統治期間を5年間とし、朝鮮における民主的な臨時政府樹立のために米・英・ソ・中の4大国が朝鮮を信託統治し、その準備を米ソ共同委員会で行うとした編集
19451945.12.19 米軍政府がソウルの人民共和国政庁を急襲し、解体を宣告する  同じ頃、北朝鮮でもソ連軍の規制が始まり「北朝鮮共産党」に改組され、党首を金日成とする  (統一戦線的な北半部の建国の動きを、ソ連型の共産党独裁政権作りに変質させる)編集
19451945年 かわって米ソ両大国が進駐し、38度線を境に国土が分断されることになった。編集
19451945年8月18日 停戦命令、しかしソ連は新侵攻を止めず、マッカーサーは、北緯38度線までソ連軍の駐留を認める。編集
19451945年9月8日 米軍仁川上陸  ジョンホッジ中将  朝鮮の開放を謳いつつ、日韓の対立を煽る。しかし、開放せず3年間、軍政を敷く。編集
1945連合軍軍政期編集
19458.15光復(アジア-朝鮮)国史年表編集
1945終戦。ポツダム宣言受諾 1945http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1945 八・一五民族光復(朝鮮解放)  (朝鮮-)編集
1945 解放、大韓民国[1945年~] (朝鮮-)編集
1945光復  第二次世界大戦での日本の敗戦により、日本による朝鮮半島の実効支配が終了する。これにより、朝鮮半島植民地支配から解放された編集
1945在日朝鮮人を乗せ青森から釜山に向かった浮島丸爆沈.原因不明 (朝鮮-)編集
1945日本植民地支配からの開放。
呂運亨ら建国準備委員会を結成
モスクワで三国外相会議開催
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1945現代 *1945年 第二次世界大戦での日本の敗戦により、朝鮮半島は解放され、かわって米ソ両大国が進駐し、38度線を境に国土が分断されることになった。 (朝鮮-)編集
1945現代社会 ?(1945~) (朝鮮-)編集
1945*1945年  第二次世界大戦終戦により、日本による朝鮮半島の実効支配が終了する。これにより、朝鮮半島は解放された。 (朝鮮-)編集
19458・15光復.日本の降伏により植民地支配から開放 (朝鮮-)編集
19461946.05 米ソ共同委員会は無期休会となり、38度線の無許可越境を禁止する編集
1946第一次米ソ共同委員会開催(アジア-朝鮮)国史年表編集
1946日本国憲法公布 1946http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1946北朝鮮臨時人民委員会構成.金日成を委員長に選任 (朝鮮-) http://www.0o0d.com/img/flags/16/North-Korea.png編集
1946第一次米ソ共同委員会開催.朝鮮統治について合意みず決裂 (朝鮮-)編集
19471947.02 北朝鮮人民委員会の樹立(北朝鮮のみの事実上の単独政府)編集
19471947.05 米ソ共同委員会が再開されるも調整がつかず、米が国連総会に審議を持ち込む、そこで、国連監視のもとで1948年3月までに南北統一選挙を実施し、政府を樹立すると云う米案が採択されたが、ソ連はモスクワ協定を無視したことを批判し、米ソ両軍の撤退と朝鮮人による自主的政権作りに委ねることを提案編集
1947国連韓国委員団構成組織される(アジア-朝鮮)国史年表編集
1947国連総会で国連監視下の朝鮮総選挙案採択編集
1947国連韓国委員団構成.ソ連が入北を拒否,北韓での選挙不可能となる (朝鮮-)編集
19481948 国連臨時朝鮮委員会が派遣されるも、北朝鮮人民委員会は入国を拒否する編集
19481948.02.26 アメリカは国連小総会の開催を提案し、南朝鮮だけで政権作りのための「単独選挙」案を採択する編集
19481948.04.03 済州島四・三事件(~10 反政府闘争)が起こり、多数の済州島民が日本に密入国する  (35,000~40,000人追放および処刑)編集
19481948.08.15 辛うじて過半数を確保した右派勢力は、李承晩を初代大統領に選出し、大韓民国政府の樹立が宣布される編集
19481948.09 北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣布、初代首相に金日成、副首相に朴憲永が就任する
1948.09.09 朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣布  初代首相に金日成、副首相に朴憲永が就任する
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19481948.09.02 北朝鮮で南北双方の代議員572名による最高人民会議が開催され、すでに4月に採択されていた憲法を正式に制定編集
19481948年8月 アメリカ占領下の南部、李承晩(???)がCOLOR(blue)大韓民国(韓国)の成立COLOR(black)を宣言。編集
19481948年9月 これに対抗してソ連占領下の北部、金日成(???)が朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の成立を宣言する。  間もなく、米ソ両軍は朝鮮半島から撤収し、韓国・北朝鮮の双方はそれぞれの路線で国としての体裁を整えていくことになる。編集
1948北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)(1948~)編集
1948李承晩政権…第三代大統領(1948~1960)編集
1948韓国政府の樹立  1945年8月15日に韓国は日本の統治から解放されました。しかし38度線を境に南韓(韓国)と北韓(北朝鮮)に分断され、南北はアメリカとソ連の臨時的な軍事統治下に置かれることになりました。1948年5月10日に国連の支援の下、韓国では大統領選挙が行われ李承晩が大統領に当選しました。そして同年8月15日、韓国政府の樹立を知らせる公式宣言が発表されました。一方1946年2月、北韓は金日成を中心とした北朝鮮人民委員会を組織し、1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を樹立しました。編集
19485.10総選挙実施(アジア-朝鮮)国史年表編集
1948大韓民国政府樹立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1948 大韓民国成立、朝鮮民主主義人民共和国成立、「ハングル専用法」成立  (朝鮮-)編集
1948人民共和国,北韓単独政府樹立 (朝鮮-)編集
1948大韓民国政府樹立.李承晩大統領就任 (朝鮮-)編集
1948済州島人民蜂起。大韓民国樹立。朝鮮民主主義人民共和国樹立編集
1948済州島暴動.南朝鮮単独選挙に反対する島民の武装闘争 (朝鮮-)編集
1948*1948年 8月、李承晩(???)が大韓民国(韓国)の成立を宣言、これに対抗して9月には、金日成(???)が朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の成立を宣言する。 間もなく、米ソ両軍は朝鮮半島から撤収し、韓国・北朝鮮の双方はそれぞれの路線で国としての体裁を整えていくことになる。 (朝鮮-)編集
19485・10南韓単独の総選挙実施 (朝鮮-)編集
19491949.02 ソ連軍撤退後の北朝鮮では、武器・弾薬の供与、軍事顧問の指導を受け朝鮮人民軍が創設される  「2ヵ年経済計画」「技術・借款協定」の締結編集
19491949.06 北朝鮮、朝鮮労働党の成立(金日成が中央委員長に就任)、朝鮮戦争後、金日成が朴憲永などを粛清編集
19491949.06 統一した共和国建設を指導する朝鮮労働党の結成編集
19501950.01.07 米政府は中国革命不介入の態度を表明し、一週間後、国務長官のアチリンは米防衛線内に台湾と韓国は含まれて居ない旨を発言する  また中国軍から朝鮮人歴戦部隊が共和国人民軍に編入され、ソ連が大規模な軍事援助を約束したことにより「南部解放」を決断する編集
19501950.02 中ソ両国の友好同盟・相互援助条約の締結編集
19501950.04 平壌に派遣されたソ連軍事顧問団は金日成に「先制打撃作戦計画」を渡す編集
19501950.05.30 韓国総選挙結果で李承晩与党勢力の大敗 朝鮮戦争(韓国では「韓国動乱」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ばれる内戦)編集
19501950.06.25 朝鮮戦争の勃発(人民軍各師団が38度線を越え大挙して南下を開始する)  戦争勃発から2ヶ月で韓国の大半は共和国人民軍の勢力下に入る編集
19501950.07.07 国連安保理事会において、国連軍の編成が決定編集
19501950.09.15 韓国西岸の仁川に上陸作戦を敢行し、成功する編集
19501950.10.01 国連軍司令官マッカーサーは、国連軍の38度線突破を指令する  攻勢を転じた国連軍は北進を続け、中朝国境の鴨緑江に迫る勢いを見せる  (此の時点でスターリンは共和国の亡命政権を中国東北部に樹立することを中国指導部に打診していた)  中国は共和国人民軍を支援して、100万の中国人民軍を派遣編集
19501950年 米国が自らの国防政策における太平洋地域における防衛ラインに韓国を含めなかったことが、北朝鮮の誤解を招き、北朝鮮は、ソ連のスターリン、中国毛沢東の合意をとりつけて、38度線を突破、韓国への侵攻を決行した。朝鮮戦争勃発である。 劣勢に立たされていた韓国であったが、マッカーサーの仁川上陸作戦が成功し、大規模な反攻で首都ソウルを奪還すると、戦闘は膠着状態に陥る。編集
19501950年6月25日 6・25戦争  こうしてにらみ合いが続く中、ついに北朝鮮軍が砲撃を開始!朝鮮戦争が始まります。  当初は、北朝鮮が圧倒的に有利に戦線を進めていましたが、アメリカを中心とした国連軍が韓国軍を支援、北は中国が支援しやがて戦局は硬直状態となります。編集
19501950年末 対韓援助が削除され、韓国経済は破綻の様相を呈する編集
1950韓国戦争(1950ー1953)  1950年6月25日の明け方、北韓は38度線を越え南への侵攻を強行し南北を武力をもって統一しようとしました。これを受け、共産主義勢力から韓国を守るためダグラス・マッカーサー国連軍最高指令官の指揮の下、世界16カ国からの軍事的支援が投入されました。一方、中国とソ連は北韓に軍事的支援を行ないました。戦争は3年間続き、1953年7月27日にDMZに位置する板門店で休戦協定が結ばれ終戦となりました。戦争は韓半島を荒廃させただけでなく、南北間の敵対感情を高め、統一をより一層難しいものにしました。 朝鮮戦争の原因  朝鮮半島は現在でも韓国と北朝鮮と同じ民族でありながら38度線を挟んで対峙しています。  このような事態となった原因はどこにあったのでしょう?  朝鮮半島は1910年に日本による韓国併合によって日本植民地となりましたされました。しかし、その日本が第二次世界大戦に破れ、朝鮮半島の統治権を放棄します。  ちょっと時代が前後しますが、第二次世界大戦の末期。ソ連は日本に宣戦布告して満州や朝鮮半島の北部に侵攻していました。まぁ、ソ連は以前から南下政策といって南へ南へ領土を広げていく戦略を抱いてのですが、日露戦争に事実上敗北するなどして日本朝鮮半島も満州も取られてしまっていたのですね。しかし、日本が戦争に負けそうなのを見て、これはチャンス!となった訳です。  しか~し!アメリカがそれを黙ってみているわけもありません。  アメリカはソ連が単独で朝鮮半島を占領することに危機感を抱き38度線にて分割することを提示しソ連もそれを認めます。そして、日本は第二次世界大戦に敗北。アメリカ、ソ連はそのまま軍を滞在させ事実上の支配を続けていくのです。  これが、現在も続く朝鮮半島を北と南に別けた原因ですね。  その後、アメリカとソ連の間で冷戦が始まります。大国同士のにらみ合い状態です。  すると、朝鮮半島では北と南で別々に選挙を行って別々の国家を樹立することになります。北の代表はニュースなどで知っているでしょう。金日成(キムイルソン)です。南は?李承晩(イスンマン)です。こちらも竹島問題などを調べていくと必ず出てくる名前ですね。詳しくは竹島問題にて。編集
19506.25戦争(アジア-朝鮮)国史年表編集
1950 6・25戦争(朝鮮戦争)  (朝鮮-)編集
1950北韓共産軍の南侵により朝鮮戦争勃発(6・25戦争) (朝鮮-)編集
1950米韓相互防衛条約 (朝鮮-)編集
1950*1950年 米国が自らの国防政策における太平洋地域における防衛ラインに韓国を含めなかったことが、北朝鮮の誤解を招き、北朝鮮は、ソ連のスターリン、中国毛沢東の合意をとりつけて、38度線を突破、韓国への侵攻を決行した。朝鮮戦争勃発である。 劣勢に立たされていた韓国であったが、マッカーサーの仁川上陸作戦が成功し、大規模な反攻で首都ソウルを奪還すると、戦闘は膠着状態に陥る。 1951年、ソ連の提案で、板門店で休戦協定が締結され、双方多大な犠牲を払った3年間にわたる戦争が休戦を迎えることになった。だが、現在でも未だに戦争中であり、それが休戦しているに過ぎない、という状態は、依然として継続しているのである。 (朝鮮-)編集
19511951 ソ連の提案で、板門店で休戦協定が締結され、双方多大な犠牲を払った3年間にわたる戦争が休戦を迎えることになった。だが、現在でも未だに戦争中であり、それが休戦しているに過ぎない、という状態は、依然として継続しているのである。編集
19511951.01.04 ソウルが再び、中朝連合軍に占領される編集
19511951.04.11 強硬論を主張するマッカーサーは国連軍司令官を解任され、その後戦況は膠着状態に入る編集
19511951.07.10 休戦交渉の開始編集
1951サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約調印 1951http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1951人民軍、再度ソウルを制圧。国連軍ソウルを奪還編集
1951朝鮮戦争勃発。北朝鮮軍南攻、国連軍仁川へ上陸。中国人民志願軍参戦。編集
19521952.01 「海洋主権宣言」を発表し、李承晩ラインの制定(参:竹島問題)  右派の一部を結集して新与党自由党を結成する編集
19521952.02 日韓会談、始まる編集
1952平和線宣言(アジア-朝鮮)国史年表編集
1952平和線宣言 (朝鮮-)編集
19531953 いったん休戦となりますが、これはあくまで休戦。実は半世紀以上たった現在でも戦争は続いているのです。編集
19531953 国際協力局(ICA)により年2~3億ドルの援助を受ける編集
19531953.07.27 板門店で 停戦協定が調印(韓国政府は不出席)され、現在の軍事境界線の布敷をみる   朝鮮戦争の犠牲者  共和国人民軍 戦死者508,000 負傷者10万人 中国軍   死傷者約50万人 韓国軍   死傷者約99万人 米軍     39万7千人 その他国連軍  29万9千人 民間人    200万人以上 離散家族  1000万人編集
19531953.08 北朝鮮、共和国の戦後復興計画として、労働党第6回中央委員会で決定、農業協同化事業が開始編集
1953休戦協定調印(アジア-朝鮮)国史年表編集
1953第一次通貨改革実施(アジア-朝鮮)国史年表編集
1953休戦協定  (朝鮮-)編集
1953朝鮮戦争休戦協定調停編集
1953板門店で休戦協定調印(米・朝・ソの三国.韓国は反対).38度線で分断 (朝鮮-)編集
1953韓国,第一次通貨改革実施 (朝鮮-)編集
19541954 李承晩政府は反共産主義政策を掲げその後1960年、学生たちの反政府運動である4・19革命により李承晩政府は倒れました。編集
1954韓国戦争後(1954ー現在)編集
1954北朝鮮,戦後経済復旧3ヵ年計画 (朝鮮-)編集
19551955 韓米余剰農産物協定に締結 編集
19561956.04 北朝鮮、朝鮮労働党第3回大会開催編集
19561956.08 北朝鮮、ソ連派のパク・チャンオク、延安派のチェ・ジャンイクなどが金日成に粛清される編集
1957ウリマル(国語)大辞典完刊完成(アジア-朝鮮)国史年表編集
1957北朝鮮,第一次5ヵ年計画(~1960年) (朝鮮-)編集
1957韓国,ウリマル(国語)大辞典完刊 (朝鮮-)編集
19581958.08 北朝鮮、社会主義制度の確立をみる編集
19581958.10 北朝鮮、中国軍、共和国より完全撤退編集
19591959.08 北朝鮮、日朝両国の赤十字組織で在日朝鮮人帰還協定が結ばれ、帰還事業が始まる 帰還者  1960 49,036人  1961 22,801人  1962 3,497人編集
1959第一次在日朝鮮人帰国船新潟出航. (朝鮮-)編集
19601960 四月革命で李承晩政権の崩壊編集
19601960年 4・19革命編集
1960尹?善政権…第四代大統領(1960~1963)
この時期は議院内閣制のため、実質的な権力は首相の張勉にあった 国家再建最高会議(軍政)
編集
19604.19義挙(アジア-朝鮮)国史年表編集
1960張勉内閣成立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1960四・一九学生革命、李承晩大統領退陣編集
1960民主党張勉内閣による韓国第二共和国樹立 (朝鮮-)編集
19604・19義挙.正・副大統領選の不正糾弾運動.李承晩政権倒れる (朝鮮-)編集
19611961 5・16軍事政変 編集
19611961.07 軍部のクーデターにより南北統一運動を押さえ込み、軍事政権の登場編集
19611961.09 北朝鮮、朝鮮労働党第4回大会開催編集
19615.16軍事政変(アジア-朝鮮)国史年表編集
1961五・一六軍事クーデター、朴正熙政権掌握編集
1961北朝鮮,第一次7ヵ年計画(~1970年) (朝鮮-)編集
19615・16軍事革命.朴正熙を中心とした反共軍事政権誕生 (朝鮮-)編集
1961KCIA設立 (朝鮮-)編集
19621962年 経済開発5ヵ年計画の始まり 編集
19621962年 北朝鮮、(キューバ危機:ケネディによる強硬路線にソ連弱腰になる)  共和国政府はソ連の弱腰を厳しく批判し、之に対する報復としてソ連からの援助を差し止められる編集
1962公用年号、西紀に変更(アジア-朝鮮)国史年表編集
1962第一次経済開発5カ年計画(-1966)(アジア-朝鮮)国史年表編集
1962金鐘泌情報部長と大平外相の会談で(「金・大平メモ」)で財産請求権問題決着 (朝鮮-)編集
1962韓国,公用年号,西紀に変更 (朝鮮-)編集
1962韓国,第一次経済開発5ヵ年計画(~1966) (朝鮮-)編集
19631963.10 朴政権の始まり(大統領就任)編集
19631963年 大統領に当選した朴正煕大統領は、17年間に及ぶ独裁統治を行ないました。編集
1963朴正煕政権…第五代大統領(1963~1979)編集
1963朴正煕内閣成立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1963朴正熙大統領当選編集
1963第三共和国樹立.朴正熙大統領就任 (朝鮮-)編集
1964メートル法実施(アジア-朝鮮)国史年表編集
1964韓国,メートル制実施 (朝鮮-)編集
19651965.02 日韓基本条約の仮調印(1965.06 正式調印)  内容:無償3億ドル、有償2億ドルを日本が韓国に供与し戦後処理を終わらす編集
19651965.08 ベトナム戦争にアメリカ合衆国と共に参戦  与党共和党単独で日韓条約を批准(日韓国交の正常化)編集
19651965年 日韓基本条約が締結され、ようやく、韓国と日本との国交が回復し、韓国を朝鮮半島の唯一の合法的政府とした。 編集
1965韓日協定調印(アジア-朝鮮)国史年表編集
1965日韓基本条約調印 1965http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1965 日韓条約成立  (朝鮮-)編集
1965日韓基本条約調印。ベトナム派兵を閣議決定。編集
1965韓国軍のベトナム派兵開始 (朝鮮-)編集
1965韓日協定調印.日韓漁業協定も付随して調印.対日屈辱外交への反対運動激化 (朝鮮-)編集
1966韓米行政協定調印(アジア-朝鮮)国史年表編集
1966韓米行政協定調印 (朝鮮-)編集
19675.3大統領選挙(アジア-朝鮮)国史年表編集
19676.8国会議員選挙(アジア-朝鮮)国史年表編集
1967第二次経済開発5カ年計画(アジア-朝鮮)国史年表編集
1967五・三選挙で朴正熙大統領再選編集
1967北朝鮮,主体(チュチェ)思想を党の唯一思想体系とする (朝鮮-)編集
1967韓国,第二次経済開発五ヵ年計画 (朝鮮-)編集
19675・3大統領選挙 (朝鮮-)編集
19676・8国会議員選挙 (朝鮮-)編集
19681968.01 北朝鮮、プエブロ号事件  (アメリカ海軍の環境調査艦プエブロが、領海侵犯を理由に北朝鮮警備艇などから攻撃を受け拘束され、板門店での会談でアメリカは北朝鮮の用意した、スパイ活動を認める謝罪文章に調印  プエブロ号の船体は返還されず、反米宣伝に利用)編集
19681968.01 青瓦台襲撃未遂事件(北の対南工作による韓国大統領府の襲撃)編集
19681.21事態(アジア-朝鮮)国史年表編集
1968国民教育憲章宣布(アジア-朝鮮)国史年表編集
1968北朝鮮特殊部隊による大統領官邸襲撃未遂事件 (朝鮮-)編集
1968北朝鮮,米国の情報艦艇プエプロ号を拿捕 (朝鮮-)編集
1968武装ゲリラソウルに侵入。プエブロ号事件編集
1968韓国,国民教育憲章宣布 (朝鮮-)編集
1968顕忠門国立墓地の朴大統領暗殺未遂事件.爆弾仕掛け中に爆発 (朝鮮-)編集
19681・21事態.北の武装工作隊31人,ソウル市で交戦 (朝鮮-)編集
1969大統領三選のための憲法改憲を強行編集
19701970.11 朝鮮労働党第5回大会開催編集
19701970年 セマウル運動提唱  朴正煕大統領が推進したセマウル運動(1970年に始まった全国民的近代化運動)により韓国は大きく発展し、経済発展のための体系的な管理統制による輸出の増大など数々の成果を残しました。しかし、相次ぐ民主化運動と政権の延長に反対する市民たちが増える中、 編集
19701970年代 セマウル運動提唱  韓国の経済力が伸長し、このことが北朝鮮の危機感を増大させ、日本人拉致問題をはじめ、多くの問題が発生する。しかし、今日に至るまで、何らの解決をみないままである。 編集
1970セマウル(新しい村)運動開始始まる(アジア-朝鮮)国史年表編集
1970京釜高速国道開通(アジア-朝鮮)国史年表編集
1970大阪万国博覧会 1970http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1970セマウル運動が始まる編集
1970京釜高速道路開通.全国が一日生活圏に入る (朝鮮-)編集
1970韓国,セマウル(新しい村)運動開始.農漁村の生活改善,所得の増大を計る (朝鮮-)編集
1970*1970年代 韓国の経済力が伸長し、このことが北朝鮮の危機感を増大させ、日本人拉致問題をはじめ、多くの問題が発生する。しかし、今日に至るまで、何らの解決をみないままである。 (朝鮮-)編集
19714.27大統領選挙(アジア-朝鮮)国史年表編集
19715.25国会議員選挙(アジア-朝鮮)国史年表編集
1971北朝鮮,第一次6ヵ年計画(~1976年) (朝鮮-)編集
1971四・二七選挙で朴正煕、金大中に辛勝編集
19714・27大統領選挙 (朝鮮-)編集
19715・25国会議員選挙 (朝鮮-)編集
19721972.04 金日成の祝賀行事の中で「主体思想」を共産主義の指導思想とする  (主体思想:どのような難局に直面しても国家意思に忠実な国民)編集
19721972.07 北朝鮮と同時に南北共同声明(七・四共同声明)の発表編集
19721972.07 南北共同声明の発表(南北間で内政面での相互不干渉の確認)編集
19721972.07.04 南北は韓半島の統一に関する共同協議書に署名して以降、1998年には韓国人の金剛山観光の許可や、2000年と2007年の2度に渡り開催された南北首脳会談などを通し、南北間の平和共存および統一に向けた努力を続けています。編集
19721972.10 維新体制(維新憲法:独裁政権の強化)を構築編集
19721972.12 「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」が制定・発布される  国家主席に金日成、首都がソウルから平壌に移る編集
19721972年 10月維新 編集
197210月維新(アジア-朝鮮)国史年表編集
19727.4南北共同声明(アジア-朝鮮)国史年表編集
1972南北赤十字会談(アジア-朝鮮)国史年表編集
1972第三次経済開発5カ年計画(-1976)(アジア-朝鮮)国史年表編集
1972沖縄返還 1972http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1972 10月維新  (朝鮮-)編集
1972南北共同声明。維新憲法成立。朴正煕大統領四選。編集
1972南北赤十字会談.離散家族探し協議 (朝鮮-)編集
1972社会主義憲法制定.金日成国家主席となる.首都を平壌とする. (朝鮮-)編集
1972韓国,第三次経済開発五ヵ年計画(~1976) (朝鮮-)編集
1972韓国,第四共和国樹立 (朝鮮-)編集
197210月維新.大統領の終身執権を可能にする (朝鮮-)編集
19727・4南北共同声明.自立的平和的に民族的統一をはかることで合意 (朝鮮-)編集
19731973 金日成の後継者問題が浮上し、金正日が政治の表舞台に出始める編集
19731973.03 「三大革命」思想・技術・文化の推進を決定するも、外貨準備がなく、70年代半ばになると対外債務の不履行が国際問題となり、共和国の在外公館が麻薬取引や武器輸出により外貨獲得が発覚し、各国で共和国外交官の退去命令が出される編集
19731973.08 金大中、中央情報部により東京から拉致される編集
19736.23平和統一宣言(アジア-朝鮮)国史年表編集
1973石油ショック 1973http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1973金大中事件.金大中氏東京から拉致されソウルで解放 (朝鮮-)編集
19736・23平和統一宣言 (朝鮮-)編集
19741974.04 民青学連事件が発生(学生運動への弾圧が強まる)編集
19741974.08 大統領、狙撃事件編集
1974北韓地下トンネルの洞窟発見(アジア-朝鮮)国史年表編集
1974在日朝鮮人青年文世光による朴大統領狙撃事件.陸夫人死亡 (朝鮮-)編集
1974文正光事件。陸英修大統領夫人死亡。(朝鮮-)編集
1974非武装地帯南側に,北朝鮮側からの地下トンネル発見 (朝鮮-)編集
19751975.05 大統領緊急措置第9号を布告し、反政府活動を全面禁止編集
1975大統領緊急措置9号発表(アジア-朝鮮)国史年表編集
1975大統領緊急処置の九号発表 (朝鮮-)編集
19761976.03 尹譜善・金大中らが発表した「三・一民主救国宣言」を決起として全面的な反政府運動へと発展する編集
19761976.08 板門店において共和国警備兵により、米兵2名殺害される編集
1976板門店うさぎ斧蛮行事件(アジア-朝鮮)国史年表編集
1976板門店蛮行事件について,金日成主席遺憾の意表明 (朝鮮-)編集
1976板門店蛮行事件.ポプラ下枝伐採をめぐり米将校が殺害 (朝鮮-)編集
19771977 「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」における国家の公式理念が、マルクス・レーニン主義から主体思想に変更される編集
19771977.03 カーター米大統領、在韓米軍の撤退を匂わす編集
1977技能オリンピック世界制覇(アジア-朝鮮)国史年表編集
1977第四次経済開発五カ年計画(-1981)(アジア-朝鮮)国史年表編集
1977輸出100億ドル達成(アジア-朝鮮)国史年表編集
1977韓国登はん隊、エベレスト登はん成功(アジア-朝鮮)国史年表編集
1977非武装地帯の北側に迷い込んだ米軍ヘリコプター撃墜 (朝鮮-)編集
1977韓国登頂隊,エベレスト登頂成功 (朝鮮-)編集
1977韓国,技能オリンピック世界制覇 (朝鮮-)編集
1977韓国,輸出100億ドル達成 (朝鮮-)編集
19781978 1978年から始まった第2次オイルショックは、輸出産業に不振を極め、経済全体に波及して深刻な不況に見舞われる編集
1978自然保護憲章宣布(アジア-朝鮮)国史年表編集
1978日中平和友好条約調印 1978http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1978北朝鮮,第二次7ヵ年計画(~1984年) (朝鮮-)編集
1978韓国,自然保護憲章宣布 (朝鮮-)編集
19791979.10 釜山で反政府運動が始まり、鳥山などに拡大  (10.18 朴政権は非常戒厳令を発動)編集
19791979.10.26 朴正煕暗殺事件(朴大統領、夕食中に同席した中央情報部長に射殺される)編集
19791979年 朴正煕大統領は暗殺されてしまいました。  聖水大橋を架けるが、1994年崩壊編集
1979崔圭夏政権…第十代大統領(1979~1980)
1979.12粛軍クーデター
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197910.26事態(アジア-朝鮮)国史年表編集
1979全斗煥,軍事クーデターで実権を掌握 (朝鮮-)編集
1979朴正煕暗殺  (朝鮮-)編集
197910・26事態.KCIA部長の金載圭に朴正熙暗殺 (朝鮮-)編集
1979YH労組事件。朴正煕大統領射殺事件、全斗煥ら粛軍クーデターで実権を掌握編集
19801980.05 光州事件(光州民主化運動)編集
19801980.10 朝鮮労働党第6回大会開催編集
19801980年 5・18民主化運動  その後、政権を握った全斗煥大統領は、前大統領の統治方式を引き継ぎ権威主義的な体制を維持しました。 編集
1980全斗煥政権…第十一代・十二代大統領(1980~1988)編集
19805.18光州民主化運動(アジア-朝鮮)国史年表編集
1980 光州事件(光州民主抗争)  (朝鮮-)編集
1980光州事件編集
1980光州民主化運動.戒厳軍の介入で鎮圧.多数の死者を出す (朝鮮-)編集
1980北朝鮮,党大会で金正日書記を党ナンバー2に選任 (朝鮮-)編集
19811986年アジア大会ソウル開催決定(アジア-朝鮮)国史年表編集
19811988年オリンピックソウル開催決定(アジア-朝鮮)国史年表編集
1981世界技能オリンピック四連覇(アジア-朝鮮)国史年表編集
1981全斗煥政府成立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1981輸出200億ドル達成(アジア-朝鮮)国史年表編集
1981全斗煥大統領就任編集
1981民主正義党の全斗煥大統領第五共和国樹立. (朝鮮-)編集
1981韓国,世界技能オリンピック四連覇 (朝鮮-)編集
1981韓国,輸出200億ドル達成 (朝鮮-)編集
19811986年アジア大会ソウル開催決定 (朝鮮-)編集
19811988年オリンピックソウル開催決定 (朝鮮-)編集
1982政府、日本歴史教科書歪曲内容訂正を要求(アジア-朝鮮)国史年表編集
1982日韓で教科書問題起こる編集
1982韓国政府,日本歴史教科書歪曲内容是正を要求 (朝鮮-)編集
19831983.10 ラングーン事件(ビルマの首都ラングーンで共和国工作員による全斗煥大統領の爆弾テロ未遂)  韓国、共和国との国交を断絶する編集
1983KAL機撃墜惨事(アジア-朝鮮)国史年表編集
1983KBS、離散家族さがしテレビ生放送(アジア-朝鮮)国史年表編集
1983アウンサン事件(アジア-朝鮮)国史年表編集
1983ビルマ(ミャンマー)アウンサン廟での全斗煥大統領暗殺未遂事件 (朝鮮-)編集
1983大韓航空(KAL)機撃墜惨事.日本北方のソ連領空でソ連戦闘機に撃墜 (朝鮮-)編集
1983離散家族運動。大韓航空機撃墜事件。ラングーン事件編集
1983KBS,離散家族さがしテレビ生放送 (朝鮮-)編集
19841984.09 韓国政府、共和国政府からの水害救援物資送付の申し入れを受け入れる編集
19841984.11 板門店で、第一回南北経済会談の実現編集
1984ロサンゼルスオリンピックで総合順位10位を占める(アジア-朝鮮)国史年表編集
1984全斗煥大統領、日本来日 1984http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
1984北朝鮮,韓国への水害援助 (朝鮮-)編集
1984韓国,ロサンゼルスオリンピックで総合順位10位 (朝鮮-)編集
19851985.07 ソウルオリンピックのボイコット方針を改める  (1985年以降、貿易実績は増勢に転ずるも累積債務に苦しみ、ソ連などへの労働力輸出も行われる)編集
1985南北故郷訪問団相互交流(アジア-朝鮮)国史年表編集
1985南北代表151名の離散家族故郷訪問団が,ソウルと平壌を相互に交換訪問 (朝鮮-)編集
1985南北経済会談。赤十字会談。40年ぶりに故郷訪問団がソウルとピョンヤンを訪問編集
1986ソウル、アジア競技大会(アジア-朝鮮)国史年表編集
1986ソウル・アジア競技大会開催 (朝鮮-)編集
1986金浦空港で爆弾テロ発生 (朝鮮-)編集
19871987.01 第3次7ヵ年計画(事実上最後の経済開発計画)の遂行に着手(1993年に未完遂で終わる)編集
19871987.06 六月抗争  六月抗争   (野党統一民主党と在野の反政府勢力が合同し、民主憲法国民運動本部を結成し政府と全面対決の姿勢を示す)   六・二九民主化宣言(米国政府圧力による政権への牽制など)  1.反共体制を維持しながら、軍政から民政への移行をする 2.共和国を孤立させながら、韓国主導の統一を実現する 3.大統領直選制の導入 4.金大中ら政治犯の釈放 5.基本的人権や言論の自由の保障編集
19871987.11 大韓航空機事件の発生  (中東への出稼ぎ労働者たちを乗せた大韓航空機がミャンマー領海上空で、共和国工作員により爆破され、犯人として金賢姫が逮捕され、機体は消息不明のまま捜索が打ち切られる)編集
19871987.12 大統領選挙で盧泰愚政権の誕生編集
19871987年 6月民衆抗争  全斗煥大統領は全国的に起こった大規模民主抗争により、政権から退きました。編集
19876.29民主化宣言6月民主抗争(アジア-朝鮮)国史年表編集
1987 真由美事件  (朝鮮-)編集
1987ソウル大生、朴鍾哲拷問拉致事件。六・二九民主化宣言編集
1987ビルマ近海での大韓航空機爆破事件.北のスパイとして男女二人逮捕 (朝鮮-)編集
198713代大統領選挙.盧泰愚選出 (朝鮮-)編集
19876・29宣言.新しい民主憲法公布,大統領直接選制宣言 (朝鮮-)編集
19881988.09 ソウル五輪の開催  内政面で苦境に立った盧大統領は、国際政局の中で積極策をとり、北方外交を展開する編集
19881988年 ソウルオリンピック  盧泰愚政府はソウルオリンピックを成功裏に開催し、順調に政権をスタートさせました。 編集
1988盧泰愚政権…第十三代大統領(1988~1993)編集
1988ハングル綴字法告示(アジア-朝鮮)国史年表編集
1988盧泰愚政府成立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1988第24回ソウルオリンピック大会(アジア-朝鮮)国史年表編集
1988第24回ソウルオリンピック大会開催.北朝鮮不参加 (朝鮮-)編集
1988韓国,ハングル綴字法告示 (朝鮮-)編集
1988韓国,第六共和国出帆 (朝鮮-)編集
1988韓国,貿易高1000億ドル突破.世界十大貿易圏の仲間入りを果たす (朝鮮-)編集
1988韓国,13代国会議員選挙 (朝鮮-)編集
19891989.06 平壌で世界青年学生祭典を開催  (この開催のために多額の経費を投じ、共和国の財政事情の悪化に拍車をかける)編集
19891989.09 「南北交流協力に関する基本方針」の発表編集
1989ハンガリー、ポーランドなど東欧圏国家と修好(アジア-朝鮮)国史年表編集
1989朝鮮王朝最後の皇太子妃方子死去 (朝鮮-)編集
1989韓国政府,ハンガリー,ポーランドなど東欧圏国家と修好 (朝鮮-)編集
19901990.09 ソ連と国交復興編集
1990ソ連と国交樹立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1990ソウルで第一回南北首相会談開催 (朝鮮-)編集
1990韓国政府,ソ連と国交樹立 (朝鮮-)編集
19911991.09 国連加盟(北朝鮮と同時加盟)  「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」「和解と不可侵および交流協力に関する合意書」の発表  ブッシュ米大統領、核兵器削減計画の発表(韓国から核兵器の撤去)編集
19911991.09 国連加盟(大韓民国と同時加盟)編集
19911991.12 国連開発計画の指導に従い、豆満江下流域を「自由経済貿易地帯」にする編集
19911991年 南北韓の国連同時加盟  そして、国連への加入を果たしました。 編集
1991南・北韓国連同時加入加盟(アジア-朝鮮)国史年表編集
1991南・北韓,国連同時加入 (朝鮮-)編集
1991第6回世界青少年サッカー選手権大会に南北単一チームで参加 (朝鮮-)編集
1991金正日書記,軍最高司令官に就任 (朝鮮-)編集
1991韓国、北朝鮮、国連同時加入  (朝鮮-)編集
19921992.01 国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印編集
19921992.02 南北首相会議で南北合意書・非核化共同宣言の発効編集
19921992.08 中国と国交の復興編集
19921992.10 「外国人投資法」編集
19921992.12 金泳三(民自党)大統領に就任編集
1992中国と国交樹立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1992韓国政府,中国と国交樹立 (朝鮮-)編集
1992IAEA査察団,北朝鮮の寧辺の核施設を査察 (朝鮮-)編集
19931993.01 「自由経済貿易地帯法」の制定編集
19931993.03 北朝鮮、核不拡散条約の脱退編集
19931993年 金泳三政府は、金融取引時に実名を使用するようにする金融実名制を新たに施行し、これは当時は大々的な改革でした。編集
1993金泳三政権…第十四代大統領(1993~1998)編集
1993大田エキスポ(アジア-朝鮮)国史年表編集
1993金泳三政府成立(アジア-朝鮮)国史年表編集
1993金融実名制実施(アジア-朝鮮)国史年表編集
1993大田世界博覧会開催 (朝鮮-)編集
1993金正日書記を国防委員長に選出 (朝鮮-)編集
1993金泳三大統領就任 (朝鮮-)編集
19941994 核危機が発生(米国の対北戦争を水際で回避)編集
19941994.07.08 北朝鮮、金日成死去編集
1994北韓、金日成死亡(アジア-朝鮮)国史年表編集
1994政府組織改編(アジア-朝鮮)国史年表編集
1994世界卓球選手権大会に南北統一チーム参加 (朝鮮-)編集
1994漢江の聖水大橋崩壊 (朝鮮-)編集
1994金日成主席死去.82歳 (朝鮮-)編集
19951995 全斗煥、盧泰愚を光州事件などに関して訴追編集
1995地方自治制実施(アジア-朝鮮)国史年表編集
1995旧総督府建物解体(-1996)(アジア-朝鮮)国史年表編集
1995韓国、国連安保理非常任理事国に選ばれる(アジア-朝鮮)国史年表編集
1995ソウル,三豊百貨店崩壊.高度経済成長時代の手抜き工事が原因 (朝鮮-)編集
1995大邸市内の地下鉄工事の最中ガス爆発発生 (朝鮮-)編集
1995旧朝鮮総督府建物解体開始(~1997) (朝鮮-)編集
1995朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)発足 (朝鮮-)編集
1996北朝鮮,潜水艦事件への謝罪発表 (朝鮮-)編集
1996韓国東岸で北朝鮮潜水艦発見 (朝鮮-)編集
19971997 アジア通貨危機編集
1997金正日体制(1997~現在)編集
1997北朝鮮日本人妻,第一次訪日 (朝鮮-)編集
1997北朝鮮高官黄長燁,韓国へ亡命 (朝鮮-)編集
1997大韓航空機爆破事件の犯人,金賢姫結婚 (朝鮮-)編集
1997金正日書記が,朝鮮労働党の総書記に就任 (朝鮮-)編集
19972002年ワールドカップサッカー韓日共同開催決定 (朝鮮-)編集
19981998年 大統領に就任した金大中大統領は、1997年に起きたIMF金融危機の克服に全力を尽くし、また2002年にFIFAワールドカップを成功裏に誘致しました。北韓に対しては太陽政策を行ない、金大中大統領はこの功績が認められ2000年にノーベル平和賞を受賞しました。編集
1998金大中政権…第十五代大統領(1998~2003)
太陽政策(北朝鮮宥和政策)を開始 金正日との初の南北首脳会談を行う(2000年6月) 日本大衆文化開放を開始
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1998金大中政府出帆スタート(アジア-朝鮮)国史年表編集
1998北朝鮮の東部沿岸からミサイル発射.日本上空を越え三陸沖に落下 (朝鮮-)編集
1998北朝鮮の潜水艇,韓国東海岸で発見.乗組員全員死亡 (朝鮮-)編集
1998金大中大統領就任.対北韓包容政策表明 (朝鮮-)編集
1998金大中大統領,日本大衆文化の段階的開放処置発令 (朝鮮-)編集
1998金正日,国家国防委員長に推戴.国家主席は金日成一人として廃止 (朝鮮-)編集
1998韓国の現代グループ,北朝鮮の金剛山観光開始 (朝鮮-)編集
1999ソウルで,南北両チームによる「統一バスケットボール競技」開催 (朝鮮-)編集
1999世界陸上女子マラソンで,北朝鮮のチョン・ソンオク金メダル獲得.共和国英雄の称号授与 (朝鮮-)編集
1999南北労働者サッカー大会,平壌で開催 (朝鮮-)編集
1999韓国西海の北方領海を北朝鮮警備艇が侵犯.韓国海軍と交戦となり退却 (朝鮮-)編集
20002000年 北朝鮮、韓国の金大中大統領との初めての南北首脳会談を実施。6.15南北共同宣言を発表編集
20006.15南北共同宣言(アジア-朝鮮)国史年表編集
2000アジア・ヨーロッパ首脳会議(ASEM開催)(アジア-朝鮮)国史年表編集
2000南北首脳会議(アジア-朝鮮)国史年表編集
2000シドニー五輪の入場行進、統一旗を掲げアリランのメロディに合わせ南北選手団同時行進 (朝鮮-)編集
2000南北朝鮮分断後初の首脳会談平壌で開催。金正日総書記イメージ変える (朝鮮-)編集
2000日本語歌謡曲全面解禁第一弾として、チャゲ&飛鳥コンサートソウル公演 (朝鮮-)編集
2000韓国と北朝鮮の離散家族200人、ソウルと平壌で相互に親族と再会 (朝鮮-)編集
2000韓国の金大中大統領,南北朝鮮の対話が評価され,ノーベル平和賞受賞 (朝鮮-)編集
2001DMZ内北朝鮮の哨所から韓国軍境界哨所に向かって銃撃。韓国軍が対応射撃 (朝鮮-)編集
2001仁川国際空港が開港 (朝鮮-)編集
2001金正男(金正日総書記の長男)の日本密入国騒動 (朝鮮-)編集
20022002 北朝鮮、小泉純一郎首相が平壌を訪問、日朝平壌宣言。日本人拉致の事実を認めて拉致被害者5名を日本に帰国させる編集
20022002 日韓共催サッカーワールドカップ編集
2002第14回釜山アジア競技大会開催(アジア-朝鮮)国史年表編集
2002韓日ワールドカップ開催(アジア-朝鮮)国史年表編集
2002 サッカーのワールドカップ開催  (朝鮮-)編集
2002サッカーW杯日韓同時開催。韓国4強進出 (朝鮮-)編集
2002北朝鮮,IAEA査察団を国外退去,核施設稼動準備はじめる (朝鮮-)編集
2002西海・延坪(ヨンピョン)島西方海上で、南北海軍の間で交戦 (朝鮮-)編集
2002金正日総書記、日本の小泉総理と平壌で首脳会談、日本人拉致や不審船の行為を認める (朝鮮-)編集
2002釜山で開催のアジア大会に北朝鮮参加。北の美女軍団韓国男性を骨抜きにする (朝鮮-)編集
2002韓国第16代大統領に、新千年民主党(民主党)の盧武鉉(ノ・ムヒョン)候補が当選 (朝鮮-)編集
20032003 盧武玄政権は、国民の政治参加こそが政治を行なう上で核心的な役割を果たすという参与政府を目指しました。若く改革的な新しい人事政策と過去の権威主義の清算、市民社会の成長などは盧武玄大統領の代表的な成果であると評価されています。また盧武玄政権中には、第2回南北首脳会談も行なわれました。編集
2003盧武鉉政権…第十六代大統領(2003~ )編集
2003廬武鉉政府スタート(アジア-朝鮮)国史年表編集
2003北朝鮮が核開発表明、日米中韓などで6カ国協議 (朝鮮-)編集
2003大邱地下鉄放火事件。死者約200人を数える惨劇になる。 (朝鮮-)編集
20042004 日本人拉致被害者の遺骨を返還、日本側が遺骨の正式調査を行い、他人の遺骨だと発表するが、北朝鮮側はこれに反発(北朝鮮)編集
20042004.03 国会が盧武鉉大統領に対する弾劾訴追を可決。高建が大統領職務を代行編集
20042004.04 総選挙でウリ党圧勝。国民、弾劾拒否の意思を示す編集
20042004.05 憲法裁判所、弾劾訴追を棄却。盧武鉉が大統領職に復帰編集
20042004.12 日本からの人道支援の残りの15万5000トンが停止される(北朝鮮)編集
2004国会が盧武鉉大統領に対する弾劾訴追可決。憲法裁判所、弾劾訴追を棄却 (朝鮮-)編集
2004平安北道、龍川駅で大規模爆発事故が発生 (朝鮮-)編集
2004盧武鉉大統領の弾劾訴追が国会で可決編集
2004金正日総書記の夫人、高英姫が死亡 (朝鮮-)編集
20052005.02 核兵器製造・保有を公式に認める(北朝鮮)編集
2005北朝鮮,核兵器製造・保有を公式に認める (朝鮮-)編集
2005韓国・黄禹錫(ファン・ウソク)教授、ES細胞論文ねつ造 (朝鮮-)編集
20062006.07 国連安全保障理事会が決議第1695号を採択(北朝鮮)編集
20062006.07 日本海に向けてミサイルを7発発射(7発とも日本海に着弾)(北朝鮮)編集
20062006.10 「核実験成功」を宣言、国連安全保障理事会が決議第1718号を採択(北朝鮮)編集
2006北朝鮮,テポドン2を含むミサイル7発を発射。日本海に着弾 (朝鮮-)編集
2006北朝鮮,地下核実験を実施 (朝鮮-)編集
2006盧武鉉政権がFTA締結に向けた交渉を開始編集
2007京義線:開城工団行き南北貨物列車が56年ぶりに定期開通 (朝鮮-)編集
2007半世紀ぶりの南北縦断鉄道試運転 (朝鮮-)編集
2007李明博大統領就任編集
2007盧武鉉大統領、歩いて軍事境界線を越え北韓入りし、金正日総書記と南北首脳会談 (朝鮮-)編集
2007韓国第17代大統領選、李明博候補が圧勝。10年ぶりに右派執権へ移動 (朝鮮-)編集
2008李明博政権…第十七代大統領(2008~ )
2008年 韓国の第17代大統領に就任した李明博大統領は、変化と実用をモットーに公企業の民営化、自由貿易協定(FTA)などを積極的に推進しました。2012年現在までにG20首脳会議、核安全保障サミットなど重要な国際的行事を成功裏に開催しました。
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2008“韓国へ偽装脱北”北朝鮮の30代女スパイ摘発、軍部関係者も逮捕 (朝鮮-)編集
2008盧武鉉元大統領死去。リーマンショックによる世界同時不況編集
2008金剛山で韓国人観光客が北側の軍境界線を越え銃撃され死亡 (朝鮮-)編集
2008韓国の「国宝1号」崇礼門(南大門)、放火で焼失し廃墟と化す (朝鮮-)編集
2009北朝鮮、2006年に続いて2回目の地下核実験を実施 (朝鮮-)編集
2009北朝鮮,ミサイル発射。日本上空を通過し太平洋に落下 (朝鮮-)編集
2009盧武鉉前韓国大統領、親族の不正資金疑惑で批判を受けたことを苦に自殺 (朝鮮-)編集
2010尖閣諸島中国漁船衝突事件 2010年http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
2010北の後継者とみられる金正恩が人民軍大将、党中央軍事委員会副委員長に選任される (朝鮮-)編集
2010軍事訓練中の韓国領延坪島へ北韓軍が砲撃。韓国軍も対応射撃を行う (朝鮮-)編集
2010韓国の哨戒艦が黄海上で沈没。多国籍調査チームが北韓潜水艦の魚雷攻撃に因ると発表 (朝鮮-)編集
2011金正恩、朝鮮人民軍最高司令官に就任 (朝鮮-)編集
20112011年12月 一方、北韓は、17年間政権を握っていた金正日の死去後、その息子の金正恩が権力を継承しました。編集
2011日本大震災 2011年http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
2011金正恩(28)が金正日の死去で空席となったポストの一つ朝鮮人民軍最高司令官に就任 (朝鮮-)編集
2011金正日(69)死去。現地指導中の急病によると発表されたが、平壌官邸での死亡説が有力 (朝鮮-)編集
20122012年 李明博大統領、竹島に上陸編集
2012北朝鮮、人工衛星と称するミサイル打ち上げを実施するが、軌道投入に失敗 (朝鮮-) http://www.0o0d.com/img/flags/16/North-Korea.png編集
2012北朝鮮、今年2回目の長距離ミサイル打ち上げ、物体(人工衛星?)を軌道投入に成功する (朝鮮-) http://www.0o0d.com/img/flags/16/North-Korea.png編集
2012李明博、韓国の歴代大統領として初めて竹島(独島)へ上陸 (朝鮮-) http://www.0o0d.com/img/flags/16/South-Korea.png編集
2012金正恩が国防委員会第一委員長に就任し、党・国家・軍の三権を握る最高指導者となる (朝鮮-)編集
2012金正恩は党の第一書記に推戴され、政治局常務委員・中央軍事委員会委員長にも就任 (朝鮮-)編集
2012韓国大統領選、朴槿恵(パククネ)(60)が勝利し、史上初の女性大統領に選出される (朝鮮-)編集
2013朴槿恵政権…第十八代大統領(2013~ )

2013年 朴槿恵大統領就任、朴槿恵大統領、国賓として中国を訪問
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20132020年オリンピックの開催地が東京に決定する 2013年http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png編集
2013北朝鮮が3回目となる地下核実験を成功裏に実施したと発表 (朝鮮-) http://www.0o0d.com/img/flags/16/North-Korea.png編集
2013金正恩第1書記の叔父の、張成沢・国防委員会副委員長が公開処刑される (朝鮮-) http://www.0o0d.com/img/flags/16/North-Korea.png編集
2013韓米合同軍事演習を口実に北朝鮮が韓国人の開城工業団地出入りを統制、5か月間閉鎖となる (朝鮮-)編集
20142014年4月 世越号沈没事故編集
20162016 朴槿恵大統領弾劾訴追案が国会で可決 日韓三大歴史問題
 ・創氏改名・・・強制では断じてない
 ・慰安婦・・・・戦地売春婦
 ・強制連行・・・徴用令?
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http://www.coara.or.jp/~mieko/koreahistory/koreahistory.htm
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kum-kuda/izanai/rekishi/yokusa.html
http://maruma.no.coocan.jp/korea/nenpyou.html