歴史・人名

江戸開城

江戸開城

(えどかいじょう)

江戸幕府の本拠江戸城の明渡しをいう。鳥羽・伏見の戦い後,徳川慶喜は江戸へ敗走して官軍に恭順の意を表していたが,新政府は幕府を討伐して威信を高め,あわせて財政的基礎を確保するため,慶喜追討を決定した。東征大総督有栖川宮熾仁親王に率いられた官軍は,東海道を静岡まで進撃した。しかしイギリス公使 H.パークスは,内乱による日本市場の混乱をおそれ,新政府側に強い圧力をかけた。これを知った幕府陸軍奉行勝海舟 (義邦) は,幕臣山岡鉄舟 (鉄太郎) を静岡に派遣して大総督府参謀西郷隆盛に会見させ,慶喜の恭順を表明,助命を説かせた。このあと,江戸城総攻撃を目前にして,慶応4 (1868) 年3月 13,14日,薩摩藩邸で勝と西郷の会見となり,慶喜の助命と江戸無血開城を交換条件として協定が成立し,官軍の総攻撃は中止となった。この措置にいたった裏面には,新政府副総裁岩倉具視が,薩長の傀儡 (かいらい) となるのを嫌って,寛大な処遇を望んでいたことも作用している。4月4日,東海道先鋒総督橋本実梁,副総督柳原前光が勅使として江戸城に入城し,4月 11日,正式に明渡しが行われた。この間,勝は城の内外で幕臣たちを鎮撫して事なきを得た。しかし,あくまで抗戦を主張する幕臣たちは,一部は上野にたてこもった彰義隊のように,また一部は海軍総裁榎本武揚に率いられて北走した幕府艦隊のように,官軍と戦火を交えるにいたった。 (→戊辰戦争 )  


百科事典マイペディアの解説
慶応4年4月11日(1868年5月3日)江戸城が新政府東征軍に無血で明け渡され,江戸幕府が滅んだ事件。東征軍参謀西郷隆盛と幕臣勝海舟の会見によって武力攻撃は直前に回避され,徳川慶喜の助命と徳川家の存続を条件に開城が行われた。徳川家は田安亀之助(徳川家達(いえさと))が相続し,駿河70万石へ移封,慶喜は水戸へ退隠。
→関連項目榎本武揚|山岡鉄舟

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デジタル大辞泉プラスの解説
海音寺潮五郎の歴史小説。1976年刊行。

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世界大百科事典 第2版の解説
1868年(明治1),新政府が江戸城を接収した事件。鳥羽・伏見の戦の後,徳川慶喜は,上野寛永寺に閉居し,恭順の意を表した。江戸に迫った東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王以下の新政府軍は,3月6日江戸城進撃の日を3月15日と決めた。旧幕府陸軍総裁勝海舟(安房)は,山岡鉄舟(鉄太郎)を大総督府参謀西郷隆盛のもとに派遣し,戦乱による人民蜂起の危険を説いた。イギリス公使パークスの戦争反対の意向も聞いた西郷は,13日,14日と勝と会談し,無血開城で合意し,総攻撃を中止のうえ,上京して慶喜処分案の朝裁をえた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
1868年(慶応4)4月に行われた新政府軍への江戸城明渡し。同年正月3日の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いにおいて幕府軍は敗北し、大坂にいた徳川慶喜(よしのぶ)は海路江戸に帰った。2月、維新政府は東征軍を結成して東海、東山、北陸の三道から進軍を開始、江戸総攻撃日を3月15日と決定した。東帰後の慶喜は抗戦の意志をもたないわけでもなかったが、やがて恭順の姿勢を示し、後事を勝海舟(かつかいしゅう)、大久保忠寛(ただひろ)に託して、2月12日江戸城を去って上野・寛永寺(かんえいじ)に謹慎した。3月9日には旧幕府側使節の山岡鉄舟(てっしゅう)が西郷隆盛(たかもり)と接触し、13、14日の両日にわたり、江戸・三田(みた)の薩摩(さつま)藩邸において西郷、勝の会談がもたれた。当初、維新政府と征東軍は厳しい態度で徳川氏に臨む方針であったが、政府内部の徳川一門、輪王寺宮(りんのうじのみや)、静寛院宮(せいかんいんのみや)(和宮(かずのみや))の嘆願、内戦の拡大を喜ばないイギリスの要請などがあって妥協が成立した。4月4日に勅使が入城し、11日には東征軍諸兵が入城して、城郭は尾張(おわり)藩が、武器は熊本藩が管理、江戸は開城した。同日、徳川慶喜は上野を出て新たな謹慎の地である水戸に向かい、21日、東征大総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が入城した。江戸城は開城したが関東が新政府の支配下に置かれたわけではなかった。江戸湾には榎本武揚(えのもとたけあき)の旧幕府艦艇があり、大鳥圭介(おおとりけいすけ)の率いる旧幕府軍は北関東に勢力をもち、彰義隊(しょうぎたい)は上野を拠点として新政府軍と対立していた。5月15日新政府軍は上野を攻撃して彰義隊を壊滅させ、同月24日には徳川氏処分案を示して徳川亀之助(かめのすけ)(家達(いえさと))を駿府(すんぷ)70万石に封じた。ここに関東は新政府軍の支配下に入り、戦場は東北地方へと移った。[井上 勲]
『原口清著『戊辰戦争』(1963・塙書房) ▽石井孝著『維新の内乱』(1968・至誠堂) ▽村上一郎編『明治の群像2 戊辰戦争』(1968・三一書房)』

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旺文社日本史事典 三訂版の解説
1868(慶応4)年の江戸城明け渡しのこと
戊辰 (ぼしん) 戦争のさ中,東征軍は3月15日を江戸城総攻撃の日と決定したが,山岡鉄舟の奔走,西郷隆盛と勝海舟の会談によって戦争が回避され,4月11日無血開城された。

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1868薩藩官軍の先鋒となり江戸へ西郷・勝会談で江戸城接収(日本-日本-江戸時代明治時代)
1868江戸城接収
江戸開城
(えどかいじょう) 江戸幕府の本拠江戸城の明渡しをいう。鳥羽・伏見の戦い後,徳川慶喜は江戸へ敗走して官軍に恭順の意を表していたが,新政府は幕府を討伐して威信を高め,あわせて財政的基礎を確保するため,慶喜追討を決定した。東征大総督有栖川宮熾仁親王に率いられた官軍は,東海道を静岡まで進撃した。しかしイギリス公使 H.パークスは,内乱による日本市場の混乱をおそれ,新政府側に強い圧力をかけた。これを知った幕府陸軍奉行勝海舟 (義邦) は,幕臣山岡鉄舟 (鉄太郎) を静岡に派遣して大総督府参謀西郷隆盛に会見させ,慶喜の恭順を表明,助命を説かせた。このあと,江戸城総攻撃を目前にして,慶応4 (1868) 年3月 13,14日,薩摩藩邸で勝と西郷の会見となり,慶喜の助命と江戸無血開城を交換条件として協定が成立し,官軍の総攻撃は中止となった。この措置にいたった裏面には,新政府副総裁岩倉具視が,薩長の傀儡 (かいらい) となるのを嫌って,寛大な処遇を望んでいたことも作用している。4月4日,東海道先鋒総督橋本実梁,副総督柳原前光が勅使として江戸城に入城し,4月 11日,正式に明渡しが行われた。この間,勝は城の内外で幕臣たちを鎮撫して事なきを得た。しかし,あくまで抗戦を主張する幕臣たちは,一部は上野にたてこもった彰義隊のように,また一部は海軍総裁榎本武揚に率いられて北走した幕府艦隊のように,官軍と戦火を交えるにいたった。 (→戊辰戦争 )  (日本-日本-)