歴史・人名

百済

百済

百済(346ー660)

 百済三国時代の古代国家のひとつで、BC18年からAD660年まで国を守りました。高句麗の王族である温祚が韓半島の西南部に建国しました。洗練された発展した文化が花開き、特に日本に多くの影響を与えました。AD660年に新羅と唐の連合軍により滅ぼされました。

百済の歴史

高句麗建国

-37年
 BC37年 高句麗の建国(-百済)
 『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗はBC37年に夫余の王族である朱蒙により卒本に高句麗を建てたという。
 朱蒙が建国したとされる卒本の地は、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県であり、都城の卒本城は 五女山山城に比定される。AD2年、後漢の光武帝より、それまでの高句麗候から王へ冊封されている。 しかし、3年には、第2代の瑠璃明王が隣国の夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(現在の中国吉林 省集安市)の山城へ遷都したと伝えられる。

十済[-18年]

百済(くだら)は、朝鮮半島南西部を占めた古代国家

-18年
 十済(前18年~)(-百済)
-18年
  高句麗新羅とともに韓国の三国時代を築いた百済
 倭国との関わりも深く、唐も含めて、東アジア一円の社会、文化に深く関与しています。
 その歴史を紐解くことで、旅行の楽しみも倍増!まずは、百済の歴史を旅してみましょう。&br; 一般的に、支配階級は北の高句麗王族と同じく、中国満州付近から出た扶余族と見られています。「隋書百済伝には、「百済の祖先は高(句)麗国より出づる」とあり、新羅倭国、また中国からも渡来してきた人が住み、他民族的な国家を形成していたようです。
 韓国・朝鮮史上では、およそ紀元前1世紀から紀元後7世紀までの間、半島北部の「高句麗」、南東部の「新羅」、そして南部の伽耶諸国とあわせて南西部の「百済」の三国が支配していた時代を「三国時代」といいます。(-百済)

百済の始まり

-18年
百済の建国と都
 百済は、扶餘系の複数の移住民勢力と漢江流域の先住民から成る国である。建国の前から朝鮮半島南部には、馬韓という国の中に多くの小国があった。百済はこうした馬韓の小国を併合して古代国家に成長・発展していった。
 韓国に現存する最古の歴史書である『三国史記』には、高句麗を建てた東明王の三子温祚が紀元前18年に百済を建国したと記されている。温祚は、兄の沸流とともに臣下を率いて南へ向かい、漢江の近くに慰礼城と宮殿を築いて国を建てたという。その後、兄の沸流が死ぬと、沸流に追従していた民衆は温祚に従い、「すべての民衆が喜んで従った」という意味で国名を百済としたとされる。
-18年
百済の建国伝説
 韓国の《三国史記》が伝える百済の建国伝説によると、高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだので、兄の沸流(ふつりゅう)とともに温祚(おんそ)は高句麗を出て自分たちの国を建てようと扶余の地を逃れて南下した。
 10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。
(注:「三国史記」の別伝によると、沸流と温祚は朱蒙の実の子ではなく、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘で召西奴の連れ子としている。)
(北史、隋書では遼東太守の公孫度の娘が嫁いだために東夷の強国となるとある)
 やがて漢山(かんざん・現在の京幾道広州郡)へたどり着き、2人は臣下とともに負児岳(ふじがく)という高い山の頂にのぼって周囲を見渡した。
 沸流は、海の見える方が気に入った。しかし、10人の臣下は口をそろえて反対し、「それよりも、こちらの方です。北に江が流れ、東に山をひかえ、南は平野、西は海、こんな究竟な、よい場所はありません。都はぜひ、こちらへお建てになることです。」そういって勧めたが、沸流はどうしても聞かない。百姓たちを半分にわけて、自分だけ海辺の方へ都を置くことになった。弥鄒忽(みすこつ・現在の仁川)である。
 弟の温祚は臣下たちの意見に従って、漢山の慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡南漢山城か?)に都を定めた。10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。
 ときに紀元前18年であったという。
 弥鄒忽は土地が湿っているうえ水が塩辛く、百姓たちもさんざん苦労を重ねた。沸流が弟のようすを見に慰礼城へ来てみると、何の不足もなく幸せに暮らしている。自分を恥じた沸流は、それを苦にして病となり亡くなった。
 その後沸流が死ぬと,温祚はその民をあわせ,国号を百済とし,扶余氏を名のった,と伝えられている。
 扶余族の南下によって百済の国家が形成されたことを反映した建国伝説である。
 百済は、ここから領土を広げて大きくなった。
(注:実際には、百済として大きな勢力となったのは、高句麗の建国よりも約400年のちのこととみられる。)
 韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。(-百済)

百済の建国と成長

-18年
百済の建国と成長
 百済の始祖温祚は、 卒本地域から漢江流域の慰礼地域に移って国を建てた。
 百済は、韓国の古代国家の一つで、紀元前18年の建国から660年の滅亡まで約700年間31人の王が在位した。建国当初は漢江(今のソウル)の中下流に位置する小国だったが、次第に周辺の小国を併合して成長した。漢江流域に慰礼城を築いて都を置いた百済は、その後、国の中興のために熊津(現在の公州)、泗沘(現在の扶餘)へと二度にわたり都を遷した。建国から、紀元後475年に高句麗に首都のソウルを奪われて熊津に遷都するまでの時代を、漢城時代と呼ぶ。また、公州に都を定めた475年からの時期を熊津時代、538年に聖王が泗沘に遷都してからの時期を泗沘時代と呼ぶ。熊津時代と泗沘時代の間に、百済は外国とも積極的な外交を展開した。その過程で科学と技術を発達させて優れた文化を花咲かせ、先進的な文化国家を築き上げた。その後百済は、660年、新羅と唐の侵略により都城が陥落し、その後3年にわたる激しい復興運動が起きたが、ついに国権を回復することができず命運が尽きた。百済は、高句麗新羅とともに韓国の古代文化の発展の中核的な役割を果たし、東アジアにおける文化交流の中心を担った。先進的な文化を受け入れ、発展させて水準の高い新しい文化を生み出し、周辺国に伝えることで、東アジアの文化の発展に貢献したのである。百済という国は滅びたものの、百済の人々が創り出した豊かな文化は、百済の古都にその痕跡を残している。そして、百済の王都があった百済歴史遺跡地区は、百済文化の中心地として新たな文化の創造の土台となっている。
-16年
 靺鞨が北部に侵入(-百済)
-13年
 日食(-百済)
-11年
 靺鞨が慰礼城を包囲(-百済)
-10年
 神鹿を得て馬韓に送る(馬韓はソウル南方全羅南道に至る群小国家群とされる)(-百済)
-6年
 東の楽浪、北の靺鞨を避けて首都を漢江南岸に移し領土を京畿平野一帯としこれを馬韓に伝える(-百済)
-2年
 楽浪が侵入(-百済)
-1年
 靺鞨侵入、長を捕らえ馬韓に送る(-百済)
6年
 柵を作るも馬韓王の抗議にて撤去(-百済)
7年
 巫によって辰韓と馬韓併合の意生ずる(-百済)
9年
 馬韓を滅ぼす(-百済)
19年
 干ばつ(-百済)
20年
 大壇を築いて天地を祭る(儒教の祭祀儀礼の説あり)(-百済)
22年
 靺鞨が侵入(-百済)
25年
 南沃沮が帰順(現江原道付**多婁王(在位:20~77) [#u0632b56]
28年
 多婁王即位タル(温祚王の子)(在位:20~77)(-百済)
33年
 国の南部に初めて稲田を作る(朝鮮での田は畑の意でこれが水田かどうかは不明)(-百済)
34年
 靺鞨が侵入(-百済)
36年
 神武36-66(-百済)
42年
 金首露が金官伽耶を建国
56年
 沃沮が滅亡
63年
 領土を広げ新羅と交渉するも得ず(忠清北道の清州付近)(-百済)
64年
 新羅を攻撃(-百済)
66年
 綏靖66-78(-百済)
73年
 日食(-百済)
75年
 新羅を攻撃(-百済)

己婁王[在位:77~128]

77年
 己婁王即位コル(多婁王の子)(在位:77~128)(-百済)
78年
 安寧78-92(-百済)
85年
 新羅を攻撃(-百済)
87年
 日食(-百済)
92年
 日食(-百済)
 懿徳92-105(-百済)
105年
 新羅と和睦交渉(-百済)
 孝昭105-137(-百済)
108年
 大飢饉、人を殺して食べる(-百済)
113年
 新羅に使者(-百済)
121年
 百済建国事情
 建光元年(121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と?貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った。
 公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。
 このときの尉仇台系の扶余馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。古代史の復元では百済建国はAD164年である。
 『宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。
(-百済)
125年
 新羅に侵入した靺鞨に対し援軍を送る(-百済)

蓋婁王(在位:128~166)

128年
 蓋婁王即位ガイル(己婁王の子)(在位:128~166)(-百済)
137年
 孝安137-175(-百済)

後漢時代

 三国志馬韓
 桓帝と霊帝の末(146年-189年)、韓と?が強勢となり、郡県では制御できず、多くの民が韓国に流入 した。
 建安年間(196年-220年)、公孫康は屯有県以南の荒野を分けて 帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して(後漢の)遺民を収集するため、兵を挙げて韓と?を 討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方郡に属させた。

 184年、宗教結社の太平道による「黄巾党の乱」が勃発。百万余の反乱軍を指揮した首領の張角が 病死したことで反乱軍は一時的に瓦解したが、後漢政権も壊滅状態となった。 この混迷の時期に馬韓と?貊が強勢になったとあるが、他の史料を調べても、この二国が強勢 になったと思える記録がなく、この時期に?は高句麗の属国にされており、むしろ衰退している。 従って、韓とは遼東の大豪族となった公孫氏に同盟した扶余系の馬韓(後の遼西百済)、?とは高句麗を指しているものと思われる。

 前記の黄巾党は壊滅した訳ではなく、なかでも百万を擁する青州黄巾党と五斗米道を懐柔して 陣営に取り込んだ魏の曹操の勢力が一気に増強され、後の晋王朝の基盤を築いた。

 青州は朝鮮半島の対岸の山東省であり、戦乱を嫌った大量の黄巾党が海を越えて朝鮮半島に逃げ込んだと思われる。

 初平元年(190年)、遼東郡太守の公孫度は中原の大混乱に乗じて、遼東地方に独立政権を立て、 朝鮮半島の西北部をもその支配下に入れた。

 建安九年(204年)、遼東郡で自立して勢威を奮った公孫度が死去、息子の公孫康が屯有県以南 (楽浪郡の南半部)に『帯方郡』を置いた。

 この頃は三国時代に突入する直前の混乱期にあたり、独立政権を維持するためにも人員の補強を したかったのだろう。帯方郡公孫氏の私設の郡にすぎないが、一種の独立国家として韓族を勢力下に組み入れ、後漢政権からは左将軍の官位を授けられた。

 この時、倭と韓を帯方郡に属させた、と記録されている。この頃までは朝鮮半島は無風状態だったと思われるが、帯方郡は独立政権を維持するためにも人員の補強を したかったと思われ、朝鮮半島全域に触手を伸ばしてきた。倭と韓を所属させることにより、帯方郡公孫氏の私設の郡にすぎなかったが、一種の独立国家として後漢政権から左将軍の官位を授けられることになった。

163年
 百済の温祚即位(-百済)

百済建国事情 [164年]

 
 建光元年(121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と?貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った。
 公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。
 このときの尉仇台系の扶余馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。古代史の復元では百済建国はAD164年である。
 『宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。
165年
 新羅の将軍が百済に逃亡し引き渡しをめぐって新羅と争う
 日食(-百済)

肖古王(在位:166~214)

166年
 肖古王即位ショウコ(素古、蓋婁王の子)(神功紀に引用)(在位:166~214)(-百済)
167年
 新羅を攻撃(-百済)

百済遷都 [170年]

170年
 百済遷都
 百済本紀の記録
 百済本紀には遷都の状況が次のように記録されている。
 温祚13年
 王は臣下に対して「我が国の東には楽浪があり、北には靺鞨があって、国境を侵しているので少しも安らかな日がない。いわんや今は怪しい兆しがしばしばあらわれ、国母が世を去り情勢が安らかではないので、都を移さなければならない。私が先日漢江の南を回ってみたら、土地が肥えていたから、よろしく、そこに都を移して、永久に安全な計を諮るべきである。」
 秋7月漢山の下に柵を立てて慰礼城の民を移した。8月に使者を馬韓に使わして、都を移したことを知らせ、遂に境界を定めた。北は臨津江、南は熊川、東は平康に達した。9月に都城と宮殿を立てた。翌14年春正月、都を移した。
 温祚13年は古代史の復元ではAD170年に該当する。しかし、その後、楽浪や靺鞨百済攻撃は継続している。遷都の時期が温祚13年より後ではないかと思われる。
 百済倭国新羅と同じ半年一年暦で考えると事象の一致が見られる。高句麗は中国暦のようである。半年一年暦は倭国固有の暦なので、百済は建国当初半年一年暦を使っていたとは思われない。中国暦だったと思われる。倭国との交流が活発になってから倭国と同じ半年一年暦に変更したと思われる。温祚13年は中国干支で庚戌である。これがそのまま半年一年干支となったとすれば、AD197年が遷都の年と考えられる。これは高句麗第10代山上王が即位した年である。(-百済)
 日食(-百済)
175年
 孝霊175-204(-百済)

前期 漢城時期[-475年]

 皆さま、こんにちは。ここは、1988 年のソウルオリンピックを記念して造られたオリンピック公園内にある漢城(ハンソン)百済(ベクチェ、くだら)博物館です。百済は紀元前 18 年から西紀 660 年まで、韓半島の西南部を支配していた古代国家です。建国当時、百済の首都は今のソウルにありました。当時の首都の名は漢城、そのため漢城で花開いた 500 年余りの時期を我々は漢城百済と呼んでいます。 一番最初にご覧いただくものは、風納土城(プンナプトソン)の城壁の断面です。約 1700 年前に建てられた風納土城は、近隣に位置する夢村土城(モンチョントソン)と共に漢城百済を象徴する遺跡として広く知られています。展示されている巨大な城壁の断面は、幅 43m、高さ 10m 余りの大きさで、実際の城壁の断面を薄く削り取ったものです。幾層にも積み重ねられた土砂の層がくっきりと残されていますね。 堅固なお城を築くことができたのは、洪水や外部からの衝撃に耐えられるよう、1 層 1 層異なった建築資材を積み重ねていく建築工法が用いられたためです。粘り気がでるまで、土砂をよく混ぜ、一定の間隔でこれを積み上げ固めていく技法が用いられていたため、洪水や外部の衝撃にもびくともしませんでした。日本でも似たような工法で堤防や城壁が造られました。地震にも強いと言います。大阪の狭山池(さやまいけ)博物館にも、このような技法で造られた堤防の断面が展示されているそうです。長さ 3.5km の風納土城をこのような技法で建てようと思ったら、ものすごい人数の人が動員されなければならないことは容易に想像できますね。風納土城は 3 世紀中旬以降に造られたものと推定されていますが、この時期、漢城百済の王権が以前よりも強化されていたことが分かります。

ソウル 夢村土城跡
夢村土城の土塁跡(ソウル)  中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。
 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。
 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。

百済遷都に至る情勢 [186年]

186年
 百済遷都に至る情勢
 公孫度は、186年、董卓が実権を握ったとき、友人であった徐栄の推挙もあって、189年、遼東太守に任じられた。遼東で勢力を拡大し、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。遼東が都から遠く離れた地域であったため、192年、董卓が死んだ後は、公孫氏による独立国のような体制をとり、周辺に勢力を伸ばし、高句麗や烏桓を討伐した。
 記録にはないが百済はこの頃、遼東にあり、公孫度の攻撃を頻繁に受けていたと思われる。これが、温祚13年の「楽浪が国境を侵している」という記事につながるのである。
 百済が遷都したと思われる197年には高句麗山上王が即位しているが、王位継承をめぐって高句麗で大騒乱が起こっている。
 第9代高句麗王故国川王が王子のいないままにて死去した。その王妃の于氏は初め喪を伏せたまま、すぐ下の弟である発岐に王位を継ぐことを勧めた。発岐は王の死を知らなかったために于氏の勧めが不遜であると責めたため、于氏は延優の元へ行き延優に王位に継ぐことを勧めた。延優はこれに応え、翌日早朝に延優は王位に就いた山上王である。発岐は王位に就き損ねたことを不服として、遼東太守の公孫度と結託し武力侵攻を行うが、王位簒奪に失敗した。
 『唐会要』百済伝には「百済高句麗に国を破られた」と記録されており、その年が山上王の即位年だとすると、次のような推定が成り立つ。
 百済は公孫度の攻撃に破れて遼東の属国のような状態になっていた。このような時に、高句麗王子発岐が公孫度を頼ってきた。公孫度はこれを契機に高句麗を侵略しようと百済に命じて高句麗を攻撃させた。百済は公孫度の命令にやむなく従って高句麗を攻撃したが、高句麗によって公孫度と共に破れてしまった。
 高句麗のこの攻撃で百済は領土を失って、遷都を決断したのではないかと推定する。遼東半島から海に逃げ、半島に沿って南下し、漢江(韓国ソウル市)付近に上陸したものと考えられる。(-百済)
186年
 百済の多婁即位(-百済)
188年
 新羅を攻撃(-百済)
189年
 日食(-百済)
199年
 新羅へ侵入(-百済)

新羅との衝突 [201年]

201年
 新羅との衝突
 百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。
 新羅はAD201年、倭人である脱解が第4代新羅王に即位し、大和朝廷との和解をはかろうと202年倭国との間で使者の交換をした。
 新羅本紀脱解王3年
 夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。
 この当時卑弥呼は独自の情報網により、おそらく百済が侵入していることは知っていたと思われるが、百済の活用を考えて様子を探っていたのではあるまいか。
 このような時に百済が西から新羅の国境侵犯をしてきたのである。ここで、百済新羅の国境争いが起こった。
 新羅本紀 脱解王5年(AD203年前半) 馬韓の将軍新羅に投降
 馬韓新羅の北西、百済の北の領域に存在した諸国の総称である。その馬韓の将軍が新羅に投降したのである。馬韓はこの頃公孫康率いる楽浪郡に攻め立てられ、楽浪郡に所属するようになった時期である。それを嫌った将軍が新羅に投降したものと考えられる。
 この203年には、楽浪郡の攻撃が百済の北辺に迫っていたといえる。百済としては楽浪郡を迎え撃たなければならず、新羅と争っている余裕はなく、AD204年前半、新羅に使者を出して、新羅との間の国境を確定させようとした。それが、以下の記録である。
 百済本紀 多婁王36年(AD204年前半) 使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった。
 新羅本紀 脱解王7年(AD204年前半) 百済王が地境を拓定するために会見を乞うたが合わなかった。
 この時、脱解王は百済王に使者を出し、「その地は倭国領である。倭王卑弥呼の許可は取ってあるのか。そうでなければ倭国に滅ぼされるぞ」とでも脅しを入れたと思われる。
 新羅との衝突
 百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。(-百済)
 新羅はAD201年、倭人である脱解が第4代新羅王に即位し、大和朝廷との和解をはかろうと202年倭国との間で使者の交換をした。
 新羅本紀脱解王3年
 夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。
 この当時卑弥呼は独自の情報網により、おそらく百済が侵入していることは知っていたと思われるが、百済の活用を考えて様子を探っていたのではあるまいか。
 このような時に百済が西から新羅の国境侵犯をしてきたのである。ここで、百済新羅の国境争いが起こった。(-百済)
203年
 新羅本紀 脱解王5年(AD203年前半) 馬韓の将軍新羅に投降
 馬韓新羅の北西、百済の北の領域に存在した諸国の総称である。その馬韓の将軍が新羅に投降したのである。馬韓はこの頃公孫康率いる楽浪郡に攻め立てられ、楽浪郡に所属するようになった時期である。それを嫌った将軍が新羅に投降したものと考えられる。
 この203年には、楽浪郡の攻撃が百済の北辺に迫っていたといえる。百済としては楽浪郡を迎え撃たなければならず、新羅と争っている余裕はなく、AD204年前半、新羅に使者を出して、新羅との間の国境を確定させようとした。それが、以下の記録である。(-百済)
204年
 百済本紀 多婁王36年(AD204年前半) 使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった。
 新羅本紀 脱解王7年(AD204年前半) 百済王が地境を拓定するために会見を乞うたが合わなかった。
 この時、脱解王は百済王に使者を出し、「その地は倭国領である。倭王卑弥呼の許可は取ってあるのか。そうでなければ倭国に滅ぼされるぞ」とでも脅しを入れたと思われる。(-百済)
 孝元204-225(-百済)

倭国との交渉 [205年]

205年
 倭国との交渉
 百済王は早速その実態を調べたことであろう。その結果、今都としている漢江周辺は間違いなく倭国領であり、このまま放置していたのでは倭国との戦いが始まるのは確実であると思った。北から楽浪郡、南から倭国に攻められたのでは百済の滅亡は日を見るよりも明らかだった。百済の選択肢は二つだった。楽浪郡の支配下に下るか、倭国と組んで楽浪郡と対峙するかである。
 焦った百済王は早速倭国との交渉に入ることにしたが、倭国とのパイプがないために、伽耶の卓淳旱岐のもとへ三人の使者を送り、倭国との橋渡しをしてもらうように頼んだのである。卓淳旱岐が倭国に使者を送り、倭王卑弥呼との連絡を取ったのである。
 卑弥呼は百済からの挨拶を待っていたのである。卑弥呼の情報網により、百済は遼東を追い出されて、領地を失った国であること、楽浪郡の勢力がすぐ北まで攻め依ってきていること。新羅と対立関係にあることなどを既に知っていた。
 百済倭国領から追い出してしまえば、彼らは住むところを失うので、窮鼠猫を咬むの例えにもある通り、倭国に対して宣戦布告をしてくる可能性がある。今、倭国内は倭の大乱を終えたばかりで、安定状況になく、海外遠征での戦いは避けたい気持ちがあった。また、新羅朝鮮半島で幅を利かせており、新羅に対抗できる国が朝鮮半島には存在していない。また、北からの楽浪郡の侵入を阻止しなければならないという思いもあった。伽耶諸国を強く育てる対策は打ったが、まだ実用段階ではなかった。
 百済新羅と対立関係にある実力を持った国なので、百済新羅に対抗できる国となれば、新羅朝鮮半島での横暴も抑えられると思ったのではないか。
 このような思いもあって、卑弥呼は百済からの使者に会ったのである。
 百済としても、倭国との交渉が決裂してこの領地を追い出されてしまえば行くところもなく、なんとか倭国に漢江周辺の地の領有を認めてもらおうと、最高の対応で礼儀正しく卑弥呼に会ったのであろう。 
 卑弥呼としては百済に漢江周辺の領有を任せる代わりに次のような条件を出したと思われる。
① 毎年貢物をよこすこと。
② 新羅に対抗し、新羅の横暴を止めること
③ 朝廷からの使者が大陸に渡る時の橋渡しをすること。
④ 朝鮮半島や大陸の情報を知りうる限り、朝廷に伝えること。
⑤ 楽浪郡の北からの侵入を阻止すること。
 百済としては倭国と戦争したり、追い出されることに比べればたやすいことであり、百済王は承諾した。卑弥呼としても、朝廷の力で朝鮮半島の倭の領域を統治するのは大変であることと、楽浪郡や高句麗が何れ朝鮮半島に進出してきて、朝鮮半島が戦乱状態になることを予想しており、百済がその防波堤になってくれることを願っていた。AD205年を境に倭国百済との強力な同盟関係が成立した。
三国史記・・修正年・・百済本紀・・新羅本紀
63・・204・・使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった・・百済王が地境を拓定するために会見を乞うた
64・・204・・蛙山城を攻めたが勝てなかった。・・百済が蛙山城・狗壌城を攻撃した。
66・・205・・蛙山城を攻めとったが暫らくして破れた・・百済が蛙山城を攻めとったが奪回した。
70・・207・・新羅を攻めた・・百済が攻めてきた。
74・・209・・新羅を攻めた・・百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。
75・・210・・蛙山城を攻め落とした・・
76・・210・・蛙山城を奪回された・・蛙山城を奪回した。
84・・214・・・・百済が辺境を侵した
85・・215・・新羅の辺境を侵した・・
 百済倭国の了解のもと遠慮なく新羅と戦えるようになり、頻繁に新羅と戦うこととなった。(-百済)
210年
 靺鞨が侵入(-百済)
211年
 百済の己婁即位(-百済)
212年
 日食(-百済)

仇首王(在位:214~234)

214年
 靺鞨と戦闘(-百済)
 仇首王即位キュウシュ(貴須、肖古王の長男 身長七尺という)(在位:214~234)(-百済)
216年
 靺鞨が侵入(-百済)
218年
 新羅を攻撃(-百済)
220年
 後漢が滅亡、三国時代(魏・蜀・呉)
221年
 日食(-百済)
222年
 新羅を攻撃
日食(-百済)
224年
 新羅が侵入(-百済)
225年
 開化225-248(-百済)

百済の成長 [234年]

234年
百済の成長
 百済が周辺の小国を併合して連盟王国に成長したのは、第8代王の古爾王代(在位:234~286)からである。古爾王は246年に楽浪の辺境地域を攻撃するなど、中国の郡県の勢力と対立し、領域を広げていった。その拡大した領土を治めるため、三国のうち一番先に行政組織を整備し、官職に等級をつけて(16官等制度)等級によって服の色を決めた。さらに、261年には行政機構の六佐平を設置し、律令を定めることで、一段と発展した統治組織を整えた。そして、大規模な王城を築き、防備体制を構築した。 百済が最盛期を迎えたのは第13代王・近肖古王(在位:346~375)の時代である。近肖古王は、全羅道地域の馬韓勢力を統合して伽耶地域にまで影響力を拡大し、次第にその領域を南方に広げていった。そして、高句麗の南進政策を効率的に阻止し、371年には自ら精兵3万人を率いて平壌城を攻撃して高句麗の故国原王を討ち取った。その結果、近肖古王代に、現在の京畿道・忠清道・全羅道を含め、黄海道の一部地域まで包括する広大な領域を確保した。このように広がった領域を治めるために、近肖古王は、地方行政組織を整備した。
 近肖古王は対外交流も積極的に進めた。中国東晋と公式な関係を結んだほか、新羅には数回使臣を派遣し、馬を贈った。また、日本には学者や技術者を派遣し、学問と技術を伝えた。日本に派遣された人の中には、博士と称される専門家もいた。百済は早くから学問や技術など様々な分野に博士制度を設け、当該分野に通じた者に博士という称号と官職を与えていたのである。
 一方、百済は4世紀後半から約100年間高句麗と対立した。百済高句麗の対立は、高句麗の広開土王が南進政策を推進したことから始まった。その後、高句麗の長寿王が427年に平壌に遷都したことで、百済は直接的な脅威にさらされるようになる。この時期に第21代王の蓋鹵王(在位:455~475)は、王族中心の支配体制の構築や大規模な土木工事を進めるなど、専制王権を目指していた。対外的には高句麗を牽制するために中国北魏との外交を試みた。しかし、蓋鹵王の政策は、内部的な分裂と高句麗の南侵を招いた。百済の首都だった漢城は、長寿王率いる高句麗軍によって7日で陥落し、蓋鹵王は戦死した。このとき、王のほかに王太后や王子なども殺され、8000人が捕虜になった。
 資料出典 : 忠清南道. 2010. 韓国の古代王国百済
234年
 沙伴王即位サハン(仇首王の長男、幼少のため古尓王が継承)(-百済)
 古尓王即位コニ(蓋婁王の第2子)(-百済)
236年
 百済の蓋婁即位(-百済)

三国時代 [237年]

景初中(237年-239年)、魏の 明帝は密かに帯方郡太守 劉昕、楽浪郡太守の 鮮于嗣を派遣して、海二郡を平定し、 諸韓国の臣智邑君の印綬を加賜し 、その次には邑長 に与えた。(中略)

 従事(官職名)は楽浪に本営を置いて韓国を統治し、辰韓を八国に分割して楽浪に与えた。 通訳の伝達に異同があり(約定を違えた)、臣智は激昂、韓は憤怒し帯方郡の崎離暢営を攻撃した 。時の帯方郡太守の弓遵と楽浪太守の劉茂は兵を挙げ、これを討伐したが弓遵は戦死、二郡は遂に韓を 滅ぼした

 魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ、両者を密かに海路で、山東半島から黄海 を越えて朝鮮半島に派遣。帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。 太守・劉昕は、周辺の東?・韓族の首長に邑君あるいは邑長の印綬を賜与し、魏との冊封関係を改めて 結び直した。

 景初元年(237年)七月、呉の孫権に呼応し て公孫淵が魏に叛旗を掲げ、遼東で自立して燕国を号した。翌年(238年 )正月、魏の大尉「司馬懿」が四万の軍勢を率いて出撃、その九月に公孫淵を討ち滅ぼしている。

 上記の帯方郡と楽浪郡の太守は、燕建国時に本国の魏に逃げ戻っていたが、公孫淵が司馬 懿との戦いに集中している間に、帯方郡と楽浪郡を奪還する密命を受け、甘言を弄して韓国(三韓諸国) を味方にした。だが、公孫淵を滅ぼすと通訳を通じて約束した条件を違えて、魏の植民地にしたのだろう 。三韓は百戦錬磨の漢族によってだまされ滅亡するに至った。

 邪馬台国・卑弥呼も、景初2年(238年)6月に、この新生・帯方郡の地へ、朝貢使の難升米を派遣し たわけである。このとき太守は劉夏であったが、彼は郡の官吏を付けて後漢の都・洛陽まで難升米の一行 を送らせた。

 この時帯方郡に属した倭は、日本列島の倭ではなく、朝鮮半島の倭ではあったが、朝鮮半島が戦乱 に巻き込まれる危険性を感じた卑弥呼が帯方郡を通じて魏に朝貢することになったのであろう。

238年
 天地を祭るために太鼓と笛を用いる(-百済)
240年
 新羅を攻撃(-百済)
246年
 魏と高句麗が合して侵入(-百済)
247年
 干ばつ多発(-百済)
248年
 崇神248-273(-百済)
255年
 百済の肖古即位(-百済)
 新羅を攻撃(-百済)
258年
 靺鞨が使者(-百済)
260年
 16官等、公服を制定
 官位を制定 官人の服飾は紫、緋色、青の順と定める(-百済)
261年
 新羅と和親を求めるも得られず(-百済)
262年
 律令を頒布

晋への朝貢 [265年]

 咸熙二年(265年)十二月、司馬炎は魏の元帝に禅譲を迫り、皇帝に即位すると、王朝を「晋」 と号した。咸寧六年(280年)三月、晋は遂に呉を滅ぼし、中国統一を達成した。
 韓国にとっての仇敵である魏が滅び、晋が帯方郡と楽浪郡を手にすると、頻繁に朝貢外交を再開したよ うだ。

晋書馬韓
 太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を入朝させ、方物を貢献。
 同七年(286年)、八年(287年)、十年(289年)、また頻繁に到った。
 太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上。
 咸寧三年(277年)再び来朝、翌年もまた来朝の内諾を請う。

晋の衰退と百済の復活

 太熙元年(290年)、司馬炎(武帝)の崩御を契機に馬韓の通貢記録が途絶える。

 これ以降、晋は皇族間の「八王の乱」と呼ばれる内乱で衰弱し、304年 に内乱が終焉したときは、すでに華北は異民族が群雄割拠する動乱の時代に突 入していた。隋が天下を統一する590年まで三百年近い戦乱時代を迎えることになり、 朝鮮半島への漢民族の侵入はな くなった。これ以降、韓(百済)は復活するのである。

『通典』百濟
 晋の時代(265年-316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。 今の柳城(龍城 )と北平の間である。
 晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した。
 その国、東西に四百里、南北に九百里、南に新羅と接し、北に高句麗と千余里、 西は大海(黄海)に極まり、小海(楽浪湾)の南に居住する。(中略)晋代より臣従国として爵位を受 け、自ら百済郡を置く。

 西晋時代の郡国制では、平州には「昌黎、遼東、楽浪、玄菟、帯方」の五郡国、 幽州には「範陽、燕、北平、上谷、広寧、代、遼西」の七郡国が置かれた。

 高句麗の占領した遼東とは、地理的にみて遼東国だけとは思えない。おそらく遼西地方の昌黎を除く、楽浪、玄菟、帯方にも及んだものと推察する。

 百済の占拠した遼西とは遼西郡を指すが、晋平に該当する郡国が分からない。通典 は今の「柳城と北平の間」と記しており、晋時代の「昌黎と遼西の間」に該当する。おそらく晋平と は「晋の平州の昌黎郡」の意味ではないかと推測する。

265年
 西晋(265~316)
266年
 新羅を攻めるも敗退(-百済)
273年
 垂仁273-311(-百済)
279年
 百済の仇首即位(-百済)

責稽王(在位:286~298)

286年
 新羅と和親を求める(-百済)
 責稽王即位セキケイ(青稽、古尓王の子)(在位:286~298)帯方の王妃を妃とする
高句麗の帯方攻撃に対して援軍(-百済)
289年
 百済の沙伴即位(-百済)
 百済の古爾即位(-百済)

汾西王(在位:298~304)

298年
 漢が貊人とともに侵入 責稽王戦死(-百済)
 汾西王即位フンセイ(責稽王の長男)(在位:298~304)(-百済)
300年
 3世紀~7世紀年 古墳時代

比流王(在位:304~344)

304年
 楽浪を攻撃するも楽浪の刺客により汾西王殺される(-百済)
 比流王即位ヒリュウ(仇首王の第2子)(在位:304~344)(-百済)
308年
 日食(-百済)
311年
 景行311-333(-百済)
313年
 高句麗: 楽浪が滅亡(漢四郡が滅亡)
315年
 百済の責稽即位(-百済)
317年
 東晋(317~420)
321年
 百済の汾西即位(-百済)
324年
 百済の比流即位(-百済)
331年
 大飢饉、人を殺して食べる(-百済)
333年
 成務333-356(-百済)
334年
 契王即位ケイ(汾西王の長男)(-百済)
335年
 日食(-百済)
337年
 新羅の使者(-百済)
344年
 契王(在位:344~346)
345年
 百済の契即位(-百済)
346年
 

百済の建国 [346-]

中国が五胡十六国の時代 [346年]

近肖古王(在位:346~375)

346年
 近肖古王の即位。(在位:346~375)
 近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。
346年
 前期 漢城時期( ? 475年)
 中国が五胡十六国の時代
 百済の建国(-百済)

 朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。
 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。
 346年は、近肖古王の即位の年である。
 (注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)
346年
 346年ころ百済の建国 朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。 346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(-百済)
346年
 前期 漢城時期( ? 475年)
 ソウル 夢村土城跡
夢村土城の土塁跡(ソウル)  中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。
 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。
 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。(-百済)
346年
 中国が五胡十六国の時代(-百済)
 百済の照古即位(-百済)
 近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子)(-百済)
 346年、近肖古王の即位。
近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(-百済)

新羅の建国 [356-]

356年
 新羅:年 奈勿王(在位:356~402) 金氏が王位を世襲
 新羅の建国(-百済)
 仲哀356-360(-百済)
360年
 高興が『書記』を編纂
 神功360-386(-百済)

百済再建 [364年]

364年
 百済再建
 漢江付近はこの当時倭国の領域であった。しかしながら、大和朝廷の施政権はほとんど及んでおらず、ほとんど未開地のような情勢であったと思われる。百済としては、まだどこにも所属していないと思い、新しい国として百済再建を諮った。
 周辺がほとんど未開の地であるために、少しずつ領土を拡張していった。その中でこの地が倭国領であることを知ったと思われる。
 百済王としては、倭国が巨大な領域を占めており、かなりの強国であるという噂を知り、このままこの地を領有していると、何れ倭国と交戦しなければならなくなり、存亡の危機にかかわることになりかねないので、倭国王との接触を図ろうとしたと思われる。
 その関連記事が神功皇后44年及び46年の記事であろうと思われる。
 神功44年 百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った。
 神功46年 斯摩宿禰を卓淳國に遣す。百済との交流が始まる。
 神功44年は364年である。百済が建国後200年も倭国の存在を知らないなど考えにくいことであり、この記事は神功皇后ではなく卑弥呼の時代のものと考える。神功44年は中国干支で甲子である。この干支がこの当時の半年一年干支の間違いであるとすれば、同じ甲子となるのはAD204年後半である。よって、卓淳國で使者を送ったのは204年、百済との交流が始まったのは205年となる。(-百済)
366年
 新羅に使者(-百済)
367年
 367年、百済新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)(-百済)
367年
 百済新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)
368年
 日食 新羅に使者(-百済)
369年
 高句麗が侵入 百済軍の軍旗に黄色を用いる(-百済)
371年
 高句麗を攻撃 高句麗の故国原王が戦死
  高句麗が侵入 百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死(-百済)
 371年、高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(-百済)
  高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)
372年
 近肖古王が倭王に七支刀を下賜
 高句麗: 太学を設置、仏教が伝来
 晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり)(-百済)
 372年、東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。(-百済)
 372年、日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(-百済)
 372年、慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。(-百済)
372年
 東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。
 日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)
 慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。
373年
 高句麗: 律令を頒布
375年
 近仇首王(在位:375~384) ※三韓が消滅(BCE1世紀~CE3世紀)
 高句麗: 仏教を公認
 百済の貴須即位(-百済)
 高句麗侵入
(注記にこの時代に文字を得て事を記すようになったとある)(-百済)
 近仇首王即位キンキュウシュ(須、近肖古王の子)(-百済)
377年
 高句麗の平壌城を攻撃(-百済)
 377年、北朝の前秦へも朝貢。(-百済)
 北朝の前秦へも朝貢。
384年
 枕流王(在位:384~385) 中国東晋から仏教が伝来
 西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。
 百済の枕流即位(-百済)
 枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)
晋に朝貢 仏僧が晋から渡来(-百済)
 384年、西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。(-百済)

辰斯王(在位:385~392)

385年
 百済の辰斯即位(-百済)(在位:385~392)
 仏寺を創建(-百済)
 辰斯王即位シンシ(枕流王の弟)(-百済)
386年
 高句麗が侵入(-百済)
 応神386-402(-百済)
387年
 東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。
 靺鞨が侵入(-百済)
 387年、東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。(-百済)
389年
 高句麗を攻撃(-百済)
391年
 391年 高句麗の広開土王(好太王)即位(-百済)
 靺鞨が侵入(-百済)
 391年、倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)(-百済)
 高句麗: 広開土王(在位:391~413)
 倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)
392年
 阿?王(在位:392~405)
 百済の阿辛(-百済)
 日食
 高句麗の広開土王が侵入 多くの領土を奪われる(-百済)
 阿シン王即位アシン(草冠+辛、阿芳、枕流王の子)(-百済)
395年
 高句麗の広開土王と戦うも大敗する(-百済)
396年
 396年、高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。(-百済)
 高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。
 高句麗の攻撃で漢江の北の58の城を奪われる。
397年
 397年、倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。(-百済)
 倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。
 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする(-百済)
399年
 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(-百済)
400年
 日食(-百済)
402年
 百済から倭国へ使者を送る。
 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)(-百済)
 仁徳402-434(-百済)
 402年、百済から倭国へ使者を送る。(-百済)
403年
 倭国から百済へ使者を送る。
 倭国の使者を特に手厚くねぎらう(-百済)
 403年、倭国から百済へ使者を送る。(-百済)
404年
 404年、倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(-百済)
 倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)
405年
 百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。
 百済の直支(-百済)
 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)
人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて
倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる(-百済)
 405年、百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(-百済)
 腆支王(在位:405~420)
406年
 晋に朝貢(-百済)
409年
 倭国の使者が夜明珠を送る 厚く礼遇する(夜明珠の意不明)(-百済)
413年
 高句麗:長寿王(在位:413~491)
414年
 広開土王碑(-百済)
 広開土王碑を建立
416年
 東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。
416年
 東晋の使者が王を鎮東将軍百済王とする(-百済)
 416年、東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。(-百済)
418年
 倭国に白綿を送る(-百済)
419年
 日食(-百済)

久爾辛王(在位:420~427)

420年
 久尓辛王即位クニシン(腆支王の長男)(在位:420~427)(-百済)
 420年、宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(-百済)
 宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
 「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。
 南朝宋(420~479)
421年
 倭王讃421(-百済)
427年
 ?有王(在位:427~455)
 ヒ有王即位ヒユウ(田+比、久尓辛王の長男あるいは腆支王の養子)(-百済)
 高句麗:平壌に遷都
428年
 倭国の使者(-百済)
429年
 宋に朝貢(-百済)
430年
 倭王讃?430(-百済)
433年
 新羅と同盟
 新羅に使者を送り和親を求む(-百済)
434年
 新羅の使者が答礼(-百済)
 履中434-437(-百済)
437年
 反正437-439(-百済)
438年
 倭王珍438(-百済)
439年
 允恭439-454(-百済)
 北魏: 華北を統一
440年
 日食(-百済)
443年
 倭王済443(-百済)
447年
 干ばつ 新羅への避難民(-百済)
451年
 倭王済451(-百済)
454年
 安康454-456(-百済)
455年
 蓋鹵王(在位:455~475)
 蓋鹵王即位ガイロ(近蓋婁、ヒ有王の長男)(-百済)
456年
 雄略456-479(-百済)
460年
 倭王460、名不明(-百済)
468年
 日食(-百済)
469年
 高句麗に侵入(-百済)
472年
 魏に朝貢
魏に高句麗の罪悪を並べ救援を乞う上表文と応答があるが
魏が百済を支援しなかったために朝貢をやめる(-百済)

中期 熊津(公州)時代 熊津遷都と中興[475年-538年](-百済)

 熊津の公山城跡(公州)  長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道 公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。
 第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ 、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。

漢江から錦江へ

 475年、高句麗の侵攻で漢城が陥落すると、第22代王の文周王(在位:475~477)は、同年10月に熊津(現在の公州)に都を遷した。熊津に遷ったばかりの頃は、蓋鹵王の死や突然の遷都などで大変混乱していた。文周王は臣下の解仇によって暗殺され、文周王の後を継いで即位した第23代王・三斤王(在位:477~479)は在位3年目に死去した。

 そして、東城王(在位:479~501)が政治的混乱の中で第24代王に即位した。東城王は国に安定を取り戻すために多大な努力を注いだ。錦江地域の新しい勢力を登用し、漢城から移ってきた貴族勢力との力の均衡を図った。このとき新たに登用された貴族勢力は、真氏をはじめ?氏、沙氏、燕氏などだった。また、新羅の伊?(2等官)比智の娘を王妃に迎えて新羅と同盟を結んだ。

 しかし、東城王は在位末期、過度な土木工事を行い、奢侈を極めるようになり、国内政治を疎かにした。結局、501年11月田猟に出かけた際、馬浦村(現在の忠清南道舒川郡韓山面)で加林城(現在の扶餘郡林川面)の城主だった?加が放った刺客に襲われ、翌月死去した。

百済人の精神世界、仏教の発展

475年

 百済は、中国南朝の文化を積極的に受け入れ、百済ならではの独特な芸術の世界を切り拓いた。なかでも百済の人々の穏やかで繊細な面がよく表れているのが仏教芸術である。当時、王都には多くの寺院と仏塔が建立され、仏教文化が大いに発展した。その結果、熊津と泗沘地域には仏教遺跡が多数残っており、数多くの遺物が出土している。なお、泰安磨崖三尊仏や瑞山磨崖三尊仏などは、百済の仏教文化の特性を反映している。
 一方、泗沘時代には工芸品や美術も発展した。陵山里寺址から出土した百済金銅大香炉や文様?、土器、瓦当などは、百済の人々の世界観や技術の高さを物語っている。百済はこうした優れた文化を日本に伝え、飛鳥文化の開花に大きな影響を与えた。
 ■中期 熊津(公州)時代(475年 ? 538年)(-百済)
 熊津の公山城跡(公州)  長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道 公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。
 第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ 、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。(-百済)
 475年、高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(-百済)
 高句麗が侵入し蓋鹵王を殺す
子の文周等は南へ逃げる(木劦満致らを伴う)(-百済)
 高句麗の攻撃で漢城が陥落 蓋鹵王が戦死 文周王(在位:475~477) 熊津に遷都 ※東?が滅亡(~4世紀末)
 高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。
 文周王即位ブンシュウ(ブン洲サンズイ+文、蓋鹵王の子)
新羅の援軍をつれて帰国(-百済)
476年
 耽羅国(済州島)が朝貢(-百済)

三斤王(在位:477~479)

477年
 三斤王即位サンキン(壬乞、文周王の長男 幼年につき解仇が実権)(在位:477~479)(-百済)
 倭王武477(-百済)
478年
 478年、大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(-百済)
 解仇が謀反(-百済)
 大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。

東城王(在位:479~501)

479年
 479年、解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。
 次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(-百済)
 解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。
 次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。
 東城王即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(在位:479~501)(-百済)
 南朝斉(479~502)
480年
 清寧480-485(-百済)
481年
 高句麗:慶州北部まで新羅を攻撃
482年
 靺鞨が侵入(-百済)
484年
 南斉に朝貢するも高句麗がこれを妨害(-百済)
485年
 顕宗485-488(-百済)
 新羅に使者(-百済)
488年
 仁賢488-498(-百済)
 魏の討伐軍侵入(-百済)
491年
 飢饉で新羅への避難民(-百済)
493年
 新羅に妃を求める(-百済)
494年
 新羅に侵入した高句麗軍に対し援軍(-百済)
 扶餘が滅亡(BCE2世紀~494)
495年
 日食
 高句麗の侵入に新羅が援軍(-百済)
498年
 武烈498-507(-百済)
499年
 干ばつ(-百済)
500年
 家臣が王の浪費をいさめるも聞かれず(-百済)

武寧王(在位:501~523)

501年
 武寧王即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子)(在位:501~523)(-百済)
 501年、東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(-百済)
 東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。
502年
 飢饉と疫病
 高句麗を攻撃(-百済)
 南朝梁(502~557)
 倭王武502(-百済)
506年
 靺鞨が侵入(-百済)
507年
 継体507-530(-百済)
 高句麗侵入(-百済)
512年
 512年、百済日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条)(-百済)
 百済日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条)
 梁に朝貢
高句麗侵入(-百済)
513年
 513年、百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己?(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己?の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己?と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)(-百済)
 百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己?(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己?の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己?と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)
 倭に五経博士を派遣
514年
 514年、判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(-百済)
 判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)
515年
 515年、百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)(-百済)
 百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)
516年
 516年、百済は物部連らを己?で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)(-百済)
 日食(-百済)
 百済は物部連らを己?で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)
521年
 使者を梁に送り寧東大将軍を授かる(-百済)

聖王(在位:523~554)

523年
 聖王即位セイ(メイジョウ、明+のぎへん+農、武寧王の子)(在位:523~554)
 高句麗が侵入(-百済)
524年
 梁から綏東将軍百済王を受ける(-百済)
525年
 新羅と国交を結ぶ(-百済)
 武寧王陵を造営
527年
 新羅: 仏教を公認
 大通寺を創建
 磐井の乱527(-百済)
529年
 高句麗が侵入(-百済)
531年
 安閑531-534(-百済)
535年
 宣化535-538(-百済)

後期 泗沘(南扶余)時代[538年-660年]

扶余(-百済)[538年]

泗沘遷都と発展

538年

泗沘時代の幕開け
 聖王は538年の泗沘遷都に伴い国号を南扶餘に改称した。しかし、公式には百済という国号がそのまま使用された。公州は地理的に山と川に囲まれ、防衛に有利な条件を備えていたが、それはすなわち対外進出には不利な立地ということだった。それに対して扶餘地域(泗沘)は、錦江と山に囲まれて防衛に適しているだけでなく、広い平野があって経済的に豊かだという利点をもっていた。また、錦江から南部地域や伽耶地域に進出しやすく、すぐ西海(黄海)に出られるため中国・日本との交流が容易だった。
 聖王は泗沘遷都の前後に都城制を取り入れた。王城は扶蘇山城を背後の山城とし、扶餘を取り囲む羅城を築き、二重の防衛体制を構築した。また、都城の中を5部に区画し、各部をさらに5巷に分けた。そして、統治体制を新たに整備し、22部司の中央官府と5方の地方統治組織を完備した。
 対内外の政策を通じて国力を強化した聖王は、新羅真興王との連合作戦により、高句麗が占有した漢江流域の奪回に乗り出した。551年、百済は漢江下流地域の6郡を、新羅は漢江上流地域の10郡を占領した。しかし、新羅は553年、百済を攻撃して漢江下流地域まで占領し、両国の同盟関係は破綻した。そこで聖王は554年に新羅を攻撃したが、敵に捕らえられて戦死した。
 泗沘に遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが 、その名は定着しなかったようです。
扶余 定林寺 五重塔
 滅亡の傷跡を残す定林寺・五重塔  551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻しますが、翌年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立が生じます。そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。
 その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。
 はじめは新羅百済の和平を求めていた唐ですが、百済 義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。
 こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本(倭国)ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。
538年
後期 泗?(扶余)時代(538年-660年)(-百済)
 三国時代百済(-百済)
 扶余(-百済)
 泗?に遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが 、その名は定着しなかったようです。
扶余 定林寺 五重塔
滅亡の傷跡を残す定林寺・五重塔  551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻しますが、翌年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立が生じます。そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。 その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。
 はじめは新羅百済の和平を求めていた唐ですが、百済 義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。
 こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本(倭国)ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。(-百済)
 538年、都を熊津から泗?(しひ・現在の忠清南道扶余扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(-百済)
 538年、百済から日本へ仏教が伝えられた。(-百済)
 三国時代百済
三国時代の地図、5世紀終わり頃
By Evawen, Gzhao [GFDL or CC BY 3.0]
 第25代 武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。
 武寧王の亡き後即位した、第26代 聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の泗?(サビ)、今の扶余へ遷都しました。(-百済)
 都を熊津から泗?(しひ・現在の忠清南道扶余扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。
 都を泗?(さんずい+比)に遷都し国名を南扶餘とする
(所夫里とも呼び現在の忠清南道の扶餘市)(-百済)
 百済から日本へ仏教が伝えられた。
 百済から仏教が伝来
 泗?に遷都(国号:南扶餘)
539年
 欽明539-571(-百済)
540年
 新羅 : 律令を頒布
 新羅: 真興王(在位:540~576)
541年
 梁に使者を送り博士、仏典、匠を求めて得る(-百済)
 梁に仏教経典や工匠、画師などの派遣を要請
547年
 日食(-百済)
548年
 高句麗がワイ(さんずい+歳)と共に侵入、新羅援軍を得て撃退(-百済)
550年
 高句麗を攻撃(-百済)
551年
 551年、百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した。(-百済)
 漢江下流を奪回
 百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した。
552年
 552年、新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。(-百済)
 新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。
553年
 新羅: 漢江流域を占領
 新羅百済北部を占有する
百済王女が新羅へ嫁する(-百済)
554年
 554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(-百済)
 威徳王即位イトク(昌、聖王の子)
高句麗が侵入(-百済)
 王自ら新羅を攻めるも敗死(-百済)
 管山城の戦い 聖王が戦死 威徳王(在位:554~598)
 百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。
555年
 新羅: 北漢山真興王巡狩碑を建立
557年
 南朝陳(557~589)
559年
 日食(-百済)
561年
 新羅を攻撃(-百済)
562年
 562年、加羅諸国が新羅に占領される。(-百済)
 加羅諸国が新羅に占領される。
 新羅: 大伽耶を併合
567年
 陳へ朝貢(-百済)
 百済昌王銘舎利龕を奉安
570年
 高斉(北斉)に使者、車騎大将軍帯方郡百済王を得る(-百済)
572年
 敏達572-584(-百済)
 北斉に朝貢(-百済)
577年
 王興寺に舎利荘厳具を奉安
 陳に朝貢
新羅が侵入(-百済)
578年
 北周に朝貢(-百済)***中国が隋の時代 [581-] [#e1310092]
 581年に隋が成立すると、高句麗と百済はすぐに 朝貢した。
 百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。
 597年、百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)
581年
 中国が隋の時代(-百済)
 581年に隋が成立すると、高句麗百済はすぐに 朝貢した。
 百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。(-百済)
 隋(581~617)
 隋に朝貢(-百済)
584年
 陳に朝貢(-百済)
585年
 用明585-586(-百済)
587年
 崇峻587-591(-百済)
588年
 百済の技術支援を受けて飛鳥寺の造営開始
589年
 隋が陳を併合 隋の戦船が済州島に漂着し船は百済を経て帰還(-百済)
592年
 推古592-628(-百済)
593年
 飛鳥時代
597年
  597年、百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)(-百済)

恵王(在位:598~599)

598年
 恵王即位ケイ(季、聖王の第2子)(在位:598~599)(-百済)
 隋に朝貢し高句麗討伐の許諾を得る
高句麗が侵入(-百済)

法王(在位:599~600)

599年
 法王即位ホウ(宣、孝順、恵王の子あるいは威徳王の子)
殺生令をだし漁猟の道具を焼く(在位:599~600)(-百済)

武王即位ブ(璋、法王の子)[600~641]

600年
 武王即位ブ(璋、法王の子)(600~641)(-百済)(600~641)
600年
 仏寺を創建
 聖徳太子(-百済)

武王の益山経営

602年
武王の益山経営
 第30代王の武王(在位:600~641)は、対内的には王権を回復し、対外的には新羅との戦いに総力を傾けた。武王は在位期間中、新羅と10回以上にわたる戦いを繰り広げた。また、王都を泗沘から益山に遷すことを計画した。それは、益山に王城を造営し、大規模な寺院である弥勒寺を創建したことからわかる。特に、益山の王城からは、泗沘都城からの出土品に似た考古遺物が数多く出土しており、相当期間にわたり武王が益山に留まっていたことがうかがえる。武王は道教と仏教に深い関心をもち、弥勒寺を創建するとともに、王興寺を再建した。また、在位35年3月には、宮殿の南に池を掘って20余里外から水を引き、池の中央に神仙が住むとされる山を模した人工島を造った。
602年
 新羅を攻撃(-百済)
605年
 新羅が侵入(-百済)
607年
 隋に朝貢
隋の使者が倭国へゆくために百済の南路を通る(-百済)
611年
 隋に朝貢(このとき隋は高句麗討伐の準備中で歓待される)
新羅を攻撃(-百済)
612年
 高句麗: 乙支文徳の薩水大捷
 隋が高句麗を侵攻(612~614)
616年
 新羅を攻撃(-百済)

中国が唐の時代 [618年]

618年
中国が唐の時代
 618年、唐が成立する。
 624年、百済高句麗新羅があいついで唐に朝貢した。
 636年、漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。
 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済新羅の西部と加羅地方を侵略した。
 642年、百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。
 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済新羅の西部と加羅地方を侵略した。
 655年、高句麗百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。
 658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。
 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗沘城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。
 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。
618年
 618年、唐(618~907)が成立する。(-唐)
 新羅が侵入(-百済)
621年
 唐に朝貢(-百済)
623年
 新羅を攻撃(-百済)
624年
 624年、百済高句麗新羅があいついで唐に朝貢した。(-百済)
 唐に朝貢し帯方郡百済王を得る
 新羅を攻撃(-百済)
625年
 唐に朝貢(-百済)
626年
 唐への使者を高句麗が妨害(-百済)
 唐太宗(在位:626~649)
627年
 新羅へ旧領奪回を目すも、新羅の唐への使者で中止する
唐の太宗が百済新羅両国へ和平の命を下す
百済は陳謝の使者を送る(-百済)
628年
 新羅を攻撃(-百済)
629年
 舒明629-641(-百済)
630年
 泗?宮を整備
631年
 高句麗: 千里長城を築造(631-646)
 唐に朝貢(-百済)
632年
 新羅攻撃 唐に朝貢(-百済)
633年
 新羅攻撃(-百済)
634年
 王興寺が完成、宮南池を造成
636年
 636年、漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。
 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済新羅の西部と加羅地方を侵略した。
 642年、百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。(-百済)
 唐に朝貢(-百済)
639年
 弥勒寺石塔を建立 舎利荘厳具を奉安(-百済)
640年
 王子を唐に派遣し国学を学ぶを求める(-百済)

641年 義慈王[在位:641~660]

641年
 高句麗: 淵蓋蘇文の政変
 義慈王即位(ギジ武王の子)(-百済)
642年
 唐に朝貢
新羅を攻撃(-百済)
 皇極642-644
唐の使者が帯方郡百済王を与える(-百済)
 新羅の大耶城を占領(-百済)
643年
 高句麗と同盟(-百済)
 高句麗と和睦し新羅を攻撃 新羅は唐に救援を求める(-百済)
644年
 唐に朝貢 太宗は両国を諭す(-百済)
645年
 新羅: 皇龍寺九層木塔を創建
 唐が高句麗を攻めるを知って新羅を攻撃(-百済)
 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済新羅の西部と加羅地方を侵略した。(-百済)
 高句麗: 安市城の戦い(唐軍を撃退)
 唐: 高句麗遠征
 孝徳645-654(-百済)
 大化の改新
647年
 新羅を攻めるも敗北(-百済)
648年
 新羅: 唐と同盟(-百済)
 新羅を攻めるも再び敗北(-百済)
651年
 唐に朝貢 太宗再び諭す
新羅の使者もあり太宗はその言上の理を認める)(-百済)
653年
 倭国と国交を結ぶ
高句麗靺鞨とともに新羅を攻撃(-百済)
654年
 砂宅智積碑を建立(-百済)
655年
 655年、高句麗百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。(-百済)
 斉明655-660
新羅は危急を唐に知らせる(-百済)
658年
 658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。(-百済)
660年
 羅唐連合軍に降伏 百済が滅亡(-百済)

百済復興の夢

660年に泗沘都城が陥落すると各地で百済復興運動が起こり、その運動は663年11月に任存城(忠清南道礼山郡)が陥落するまで激しく展開された。復興運動で最も重要な拠点は周留城と任存城だった。

しかし、百済は663年8月、倭の支援軍とともに白村江の戦いで羅唐連合軍に大敗した。一方、白村江で水軍が戦っている間、周留城では百済軍と羅唐連合軍との戦いが繰り広げられた。だが、百済復興軍は663年9月1日、倭軍とともに新羅軍に降伏し、周留城はついに陥落した。周留城が陥落すると、豆良尹城をはじめ周辺の城も相次いで降伏した。これで3年間にわたる百済復興運動は失敗に終わり、百済王朝は約700年の歴史に幕を閉じた。

資料出典 : 忠清南道. 2010. 韓国の古代王国百済

百済の滅亡

白村江の戦い [660-663]

 700年の王国が消滅
 武王の後を継いで即位した第31代王の義慈王(在位:641~660)は、太子だったころ親孝行で兄弟愛が強かったという。義慈王は即位した翌年の7月、自ら軍を率いて新羅を攻撃し、40あまりの城を陥落させるという大成果を収めたのに続き、8月には将軍允忠を派遣して大耶城(慶尚南道陜川郡)を陥落させた。その後も新羅西部への攻撃を持続的に展開し、大きな成果を挙げた。
 しかし、義慈王は戦いで相次いで勝利を収めるとすっかり驕慢になり、独裁君主としての限界を露呈した。こうした状況は、権力欲に囚われた王妃の国政運営という形で表れた。また、義慈王は当時、国際情勢の変化にもうまく対応できなかった。守勢に立たされていた新羅は唐に使臣を派遣して百済に圧力をかけるよう要請し、唐は百済に対して新羅と和平関係を維持するよう求めたが、義慈王をこれを無視しただけでなく、652年を最後に使臣の派遣を廃止することで唐との外交関係を断絶した。
 そこで、新羅は唐と連合して百済を攻略した。百済は、階伯が率いる5000人の決死隊が黄山ボル(原)で5万人の新羅軍を阻止しようとしたものの失敗し、新羅軍と唐軍は泗?都城に対する総攻撃を敢行した。660年7月12日に羅唐連合軍が泗?都城に迫ると、義慈王は翌日太子の孝とともに北方の熊津城に身を隠し、羅唐連合軍は泗?城を包囲してついに陥落させた。そして、熊津城に逃れていた義慈王と太子は降伏し、義慈王と太子、その他の王子たち、多数の高官、民衆12,807人が唐の首都に連れて行かれ、唐は百済地域に5つの統治組織を設けた。

 白村江?錦江河口付近(群山)  百済の滅亡後も、百済の遺臣たちは百済復興を願い、各地で抵抗を続け、人質として日本へおくられていた百済の王子豊璋も、高句麗日本(斉明天皇、中大兄皇子ら)の支援を受けて、唐・新羅連合軍と戦いますが、内部分裂を起こしてしまいます。

 日本(倭国)からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」(今の錦江?)の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。

 百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。

百済滅亡と白村江の戦(660-663年)

扶余 扶蘇山城より眺める白馬江
扶蘇山城より白馬江を望む  660年、ついに唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入ります。
 百済軍は、黄山之原(現在の忠清南道 論山)において決戦に挑み、善戦するも新羅軍に大敗してしまいます。
 一方、唐軍を白江(現在の白馬江。錦江の中流 扶余付近)に引き込む作戦に出ますが、唐軍に 泗沘城(扶余・扶蘇山城)を包囲されてしまいます。一時義慈王は旧都の熊津城(錦江の中流域)に脱れますが降伏し、ついに百済は滅亡したのでした。

660年
 新羅: 唐と連合して百済を攻撃
660年
 百済滅亡と白村江の戦(660-663年)
扶余 扶蘇山城より眺める白馬江
扶蘇山城より白馬江を望む  660年、ついに唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入ります。
 百済軍は、黄山之原(現在の忠清南道 論山)において決戦に挑み、善戦するも新羅軍に大敗してしまいます。
 一方、唐軍を白江(現在の白馬江。錦江の中流 扶余付近)に引き込む作戦に出ますが、唐軍に 泗沘城(扶余・扶蘇山城)を包囲されてしまいます。一時義慈王は旧都の熊津城(錦江の中流域)に脱れますが降伏し、ついに百済は滅亡したのでした。(-百済)
660年
 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗沘城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。(-百済)
660年
 唐は13万の軍を率い新羅も5万をもってこれに従う(-百済)
661年
 天智661-670
義慈王は籠城戦と白江で迎え撃つの2案を議する
百済軍敗北(-百済)
662年
 扶餘豊(王)が残兵を率いて戦う
新羅連合軍は救援の倭軍の軍船400艘を白江に焼く
百済軍と倭軍は唐に降伏し、扶餘豊は行方不明となる
唐の高宗は扶餘隆を都督とする(-百済)
663年
 周留城が陥落 百済復興運動が失敗
663年
 白村江の戦い 錦江河口付近
白村江?錦江河口付近(群山) 百済の滅亡後も、百済の遺臣たちは百済復興を願い、各地で抵抗を続け、人質として日本へおくられていた百済の王子豊璋も、高句麗日本(斉明天皇、中大兄皇子ら)の支援を受けて、唐・新羅連合軍と戦いますが、内部分裂を起こしてしまいます。
日本(倭国)からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」(今の錦江?)の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。(-百済)
664年
  百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。(-百済)
665年
 扶餘隆が新羅と盟誓を結ぶ(-百済)
668年
 高句麗が滅亡(-百済)
668年
 百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。(-百済)
671年
 弘文671-672(-百済)
673年
 天武673-685(-百済)
676年
 676-679 扶餘隆高句麗にて死去
唐の則天武后はその孫に高句麗百済)王を名乗らせるが領土なく絶える(-百済)
686年
 持統686-696(-百済)
697年
 文武697-700(-百済)

百済の出自

『北史』百済
 百済国は蓋馬韓の属国。出自は索離国(タクリ国)。(中略)東明は南に奔り、 淹滯水を渡り、扶余に於いて王となる。東明の後に仇台がおり、帯方郡の故地に建国する。漢遼東太守 の公孫度の娘を娶り、東夷の強国となる。初めに百家(多勢)で済した(渡った)ことから、百済と号した。

『唐会要』百済
 百済。元は扶余の別種。馬韓の故地にいたが、後に仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。ゆえに百済と号する。大海の北、小海の南、東北に新羅、西に越州、南の海を 渡れば倭国に至る。北には高麗。王の居城は東西に両城あり。

『通典』百濟
 百済、すなわち後漢末の扶余王「尉仇台」の後裔、後に魏の時代に百済王が上 表して言うには「臣は高麗の先、扶余より出る」。初め百家(多勢)で済海(海を渡る)した故に百済と号する。

後漢書』東夷列伝
安帝の永初5年(111年)、夫余王は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇 鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。永寧元年(120年)、夫余王は嫡子の尉仇台を遣 わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。翌121年、高句麗が1万の兵を率いて漢 の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。 翌122年(延光元年)、また高句麗馬韓,?貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救っ た。 

後漢書高句麗
 建光元年(121年)秋、宮と遂成が馬韓と?貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台 を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破り、斬首五百余級を挙げた。この歳、 宮が死んで子の遂成が立つ。

三国志魏書扶余国伝
 扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇を馳せて、外夷を威服 させたとき、扶余王の尉仇台は遼東郡に帰属した。高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられたので公孫氏の娘を妻とさせた。

 上記のように中国史籍は尉仇台を百済の祖と記している。三国史記だけは高句麗の始祖である朱蒙の三子温祚が百済を建国したと主張する。温祚が即位したのは、古代史の復元での年代では164年である。温祚が尉仇台の子(あるいは孫)と考えれば、両者はつながる。三国史記は半年1年暦で年代 がくるっていることに気づかず、年代の一致する朱蒙の子としたのではあるまいか。

 建光元年(121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と?貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った。
 公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。

 このときの尉仇台系の扶余馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。

宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。

百済と倭との関係

 百済日本書紀に最初に登場するのは神功皇后の時代で、345年頃帯方郡の故地を奪回した後の
 神功44年(364年)「百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送っ た」
 神功46年(366年)「斯摩宿禰を卓淳國に遣わし、百済との交流が始まる」
である。しかし、倭と百済との間にはいくつかの謎がある。

① 最初から百済は倭の属国になっているようである。これはなぜか
 倭と百済が交流するようになってからは、百済は倭に貢物をしたり、王子を人質に送ったりしている。 また、王仁など優れた学者を倭に送っている。百済は強国であり、先進技術も持っているのに倭の属国のような状態に置かれている。これはどうしたことか。

② この時期以降百済朝鮮半島南西部を領地としているが、この地域は3世紀ごろまで倭の領域であった。どのような経過で百済の領地になったのか、なにも記述されていない。

 神功皇后の時代の日本書紀の記事は日本書紀が卑弥呼=神功皇后の立場をとっている関係上、神功皇后の時代の記事と卑弥呼の時代の記事が混在している。実際に神功皇后が攻めたという新羅国王は卑弥呼の時代の人物である。日本書紀の神功皇后関連記事は干支二回り分(120年)ずれているのである。これによると神功44年(364年)は244年である。

 百済王が日本へ渡る道を聞いているということは、これ以前は日本からはるか離れた地にいて、移動してきたか、何か事情があって日本の位置を知りたいと思ったのであろう。この年244年の次の年にあった出来事がヒントになる。

 245年(正始6年)、高句麗は再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東?も高句麗を離れ魏に服属した。韓はこの戦いに協力していたと思われる。
 ところが、戦いの後、韓との約束した条件を違えて、辰韓八国を楽浪郡へ編入した。韓を魏の植民地にしたのである。このことが韓を激怒させ郡内の韓族帯方郡の崎離営を襲った。これを弓遵と楽浪太守の劉茂が兵を興して討ち、三韓は百戦錬磨の漢族によってだまされ滅亡するに至った。 

 三韓は245年に滅亡しているのである。百済も三韓の一国なので、この時、同時に滅亡しているのである。『通典』百濟によると、「晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した。」とあるので、晋ができた265年時点で百済馬韓から追い出されていることになる。

 百済建国の245年から晋の建国265年までの間で百済馬韓を追い出されたと思われる事件は245年の記事のみである。 おそらく、これが、『唐会要』百済伝の「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。故に百済と号 する。」につながるのであろう。百済を破ったのは高句麗ではなく楽浪郡であり、 王も仇台(仇台という百済王はいない。尉仇台か?)ではないが、誤伝承ではあるまいか。

 244年に百済は滅亡の危機にあることがすでに分かっていたのではあるまいか。そのために、南にある大国倭に救援を願い出ようと倭との関係を模索したと思われる。これが、神功44年の記事である。この2年後の神功46年(246年)以降、百済と倭との交流が始まっている。

 この点を説明するために「倭の領地を百済に割譲した」という仮説を立ててみる。

 2世紀後半の黄巾の乱以降、朝鮮半島に多くの人々が流入するようになり、朝鮮半島の地は新羅 の台頭を始め、他の地も小国がそれぞれ自己主張を強化し、昔のように安定してこの地を治めることが 難しくなってきたのではあるまいか。大和朝廷も朝鮮半島を統治するためにかなりの労力を使っていたと推察する。

 このような時、馬韓・辰韓が帯方郡によって滅ぼされている(245年)。残った残党は南である倭に逃げたと思われる。第4代百済王蓋婁王の時である。

 遼東半島の領地を帯方郡に奪われ、土地をなくした蓋婁王が大和朝廷に頼み込み、朝鮮半島の倭の地を百済に割譲したのではあるまいか。

 この時、大和朝廷も交換条件を出しているであろう。考えられる条件とは、
① 朝鮮半島南西部を統治し、毎年貢物を朝廷に送ること。
② 新羅が台頭してきているので、新羅をけん制すること。
等であろう。

 当時の半島情勢からすると、大和朝廷、百済ともに利益のある交換条件だったといえる。こ れとよく似た出来事が実際に起こっている。任那割譲である。

 継体天皇六年(512)四月、穂積押山が馬四十四頭のお土産を持って百済に 渡った。
 十二月、百済は倭に使者を返し、
「任那四県(朝鮮半島 南西部)を割譲してくれ」
 と、頼んできた。
 押山はこの地域の長官である。彼は大王・継体天皇に進言した。
「この四県は百済に隣接し、倭からは遠く離れています。放っておけばすぐに新羅高句麗に) 奪われましょうが、百済領にしておけば、しばらくは安心でしょう」
 これに大連・大伴金村も同調、難波の迎賓館にいた百済使に承諾の旨を伝えるために大連・ 物部麁鹿火を遣わした。

 この割譲には前例があったことになる。

  百済本紀には、これに関する記事はないが、気になる記事は存在している。
新羅の阿?(新羅の官位)の吉宣(きちせん)が反乱を企てて失敗し、百済に亡命してきたことにある 。新羅王(阿達羅尼師今)は吉宣の送還を求めたが蓋婁王はこれをかくまったため、新羅軍の派兵を招い た。このとき百済の諸城は籠城戦を採ったため、新羅軍は撤退した。翌年(修正254年)、蓋婁王は在位39年にして 死去したが、この時より百済新羅とは敵対関係に入った。」

 蓋婁王が死去したのは半年一年暦を修正した年代では254年である。この記事は朝鮮半島の倭の領域の割譲を受けて間もなくということになる。

 新羅本紀によると、倭は頻繁に新羅を襲撃している。倭としては新羅に手を焼いていたのである 。百済がそれに手を貸してくれると倭としても大助かりである。実際百済新羅は頻繁に戦っている。

 百済本紀の吉宣が反乱を企てたのも倭の意向をくんだ百済の差し金かもしれない。

百済の中興

東城王の後を継いで第25代王の武寧王(在位:501~523)が即位した後、百済は徐々に国力を取り戻した。武寧王は即位後直ちに?加の反乱を鎮圧し、高句麗を攻め始めた。まず水谷城(現在の黄海道新渓郡)を攻撃し、513年には葦川で高句麗軍を大破した。この時期の戦闘は主に漢江流域で繰り広げられたが、ほとんどの戦いで勝利を収め、高句麗に奪われていた漢江流域の一部を取り戻した。武寧王の後を継いで即位した第26王の聖王(在位:523~554)は、行政と軍事組織を再整備した。中央の行政組織を22部に再編したほか、地方の行政や軍事組織を方郡城体制に転換するなど、大がかりな組織整備を行ったのである。聖王の業績のうち最も重要なのは、538年に都を熊津から泗沘に遷したことである。これにより熊津時代は幕を閉じ、泗沘で新たな飛躍を模索することになった。熊津、つまり今の公州が百済の都だったのは64年間という短い期間だが、武寧王陵を含む宋山里古墳群を中心に百済の優れた文化遺産が数多く残っている。特に、武寧王陵からの様々な出土品から、百済が中国だけでなく日本とも盛んに交流していたことがわかる。

百済年表

	百済年表									
										
百済韓国中国日本
BCE18 温祚が百済を建国2333 古朝鮮建国1500 商300~CE 3世紀 弥生時代
5 漢城に都を置く1500 青銅器文化1050 周(1050~772)
700~600 古朝鮮 中国と交易し、国際舞台に登場770~403 春秋時代
300~200 鉄器文化403~221 戦国時代
194 衛満が王になる。221 秦の始皇帝が中国を統一
108 古朝鮮が滅亡 漢四郡を設置202 漢(BCE202~CE220)
57 朴赫居世が新羅を建国
37 朱蒙高句麗を建国

CE

沸流伝説

  古代朝鮮歴史記である 「百済本紀」 くだらほんき ー百済の歴史が記されている書ー の冒頭に書かれている
  百済建国神話 くだらけんこくしんわ のなかには 「始祖は沸流 フル 」と 書かれています。
  この沸流 フル は 個人名だけでなく 解夫婁 ヘブル つまり ヘブライ人という意味もあるのです。
  しかし 内容をよく読んでみると ちょっと あやふやな部分があるのです。
  『はるか古代 北方の高句麗の王 朱蒙 しゅもう には 兄 沸流ふる 弟 温祚・おんそ の二人の子が ありました。
   二人の兄弟は 大勢の部族を率いて 南下していく途中で 兄弟の部隊は ふたてに分かれた。
   兄・沸流は 海に面した弥鄒忽 ミチュエル に 温祚は 内陸の尉礼城 ウィレソ に それぞれ建国しました。
  弟・温祚の国は 次第に発展・繁栄していき 馬韓 ばかん のひとつ 伯済になり百済 くだら となった。
   一方 衰退していくばかりの兄・沸流の国は いつのまにか姿を消した‥‥』と書かれています。
  兄・沸流 フル は いつのまにか姿を消したとか あるいは 自殺したという伝承 でんしょう されているが
   あらゆる文献書をあさっても 沸流の最後の消息については 何も書かれておりません。
   建国の王の最後の記が無いことは 大いなる疑問なのです。ほとんど 前例の無いことです。
   「百済本紀」の冒頭に ”始祖は沸流”という記が存在しているのですから 絶対に何かが変なのです。
   歴史学者たちが 必死になって文献を追って探しても 沸流ふる の行方は まったく掴つか めていないのです。
   このようなときに
   韓国の歴史学者 金聖昊氏は 「沸流百済日本国家の起源」という著書を出版して
   「沸流は 朝鮮半島を南下し日本列島へ渡来した。そして 天皇家の祖となった」と 仮説を展開しました。
   すると 他の学者たちは
   「沸流が 天皇として生きた証の名は 何というのか?」という質問を 浴びせました。
   名前が見つからないことには 只のカチョッペナイ仮説に なってしまうのです。
  ところが あったのです!
   日本の氏族の出自記録 「新撰姓氏録」という書物の序文に 次の記が見つかりました。
   「真人は是 皇別の上氏なり この氏の筆頭は ”息長真人”で”誉田天皇” ほむだてんのう より出づ」と。

   この記述が 非常に重要なのです。
   ”真人は是 皇別の上氏なり”とは 天皇の性は「真氏 しんし 」という意味です。
   そして 真氏の筆頭は 息長真人おきながのまひと で 誉田天皇 ほむだてんのう より出た と書いてあるのです。
   この誉田天皇 ほむだてんのう とは 第15代/応神天皇 おうじんてんのう のことです。
   この説では
  「朝鮮半島から来た沸流が 天皇家の本当の始祖であり 沸流とは応神天皇である」と いうことです。
   沸流 フル の父親の名は 高句麗の王 「朱蒙 しゅもう 」でした。
   そして この朱蒙の父の名は 「解夫婁ヘブル 」という名前だったのです。
   「解夫婁ヘブル 」の「夫婁フル 」と 「沸流フル 」が 同じ読みの「フル」なので 大きな問題なのです。
   そのなかでも とくに 「解夫婁ヘブル 」が 重要な注目点なのです。         「聖書・祖先の系図
  つまり 纏めると 次のようになります。
  『天皇家の本当の始祖は 高句麗の王 「朱蒙 しゅもう 」の息子である兄・沸流である。
   そして その沸流が 第15代/応神天皇 おうじんてんのう である。 
   その沸流の祖父・解夫婁 ヘブル は ヘブライ人である。すると 天皇家の祖先は ヘブライ人である』

  世界史のなかには 「ヘブル」と呼ばれる民族が おりました。そうです 聖書の中にあるヘブライ人です。
               ということは 日本人の祖先は ヘブライ人ということになるのか!……ボサツマン
  「ヘブライ人」とくると
  「アブラハム・イサク・ヤコブ・ダビデ王」 そして 「イエスキリスト」を 思い出さずにはおれません。
   ヤッパリ 日本とユダヤ国の間には 何か深い関係にあるに 違いありません。
    ボサツマンの頭の中がごっちゃに 髪の毛がぐっちゃになってしまった。 う~ん!でも なんか ワクワク楽しい!

温祚百済、沸流百済、朱蒙の子

tokyoblog  2015/06/12 1 Comment

扶余王の朱蒙の二人の子供、兄の佛流、弟の温祚が、百済の始祖である。また、仇台が始祖とも一説にある。
百済本紀」は後世改ざんされているようで、沸流百済、温祚百済、仇台(クデ)百済の3つの歴史を1つの歴史にまとめてしまっています。別の国の可能性もある。
成帝の鴻嘉三年(前18年)、温祚は河南の慰禮城を都と定め、十臣が補佐したことで、国号を十済とした。沸流はその民を分け、これを彌鄒忽(仁川)で暮らした。沸流は慙悔に耐えず死んだ。その臣民は皆、慰禮に帰参した。後に百姓が喜んで従ってくれたことを感謝して国号を「百済」と改めた。
その先祖は高句麗と同じ扶余の出自ゆえ、扶余を氏姓とした。
北史や隋書が言うには「東明の後に仇台があり、仁信が篤く、初め帯方郡の故地に立国。漢の遼東太守公孫度は娘を彼の妻とし、遂に東夷の強国となる」。未だこれが誰かを知らず。

二十七年(10年)夏四月、馬韓を併合し遂に滅亡させた。

『三国史記百済本紀

百済の始祖は温祚(オンソ)王。その父は鄒牟、あるいは朱蒙という。

扶余より難を逃れて卒本扶余に至る。扶余王に嗣子がなく、三人の娘しかいなかった。朱蒙を観て、常人ではないと感知し、次女を朱蒙の妻とした。間もなく扶余王が崩じ、朱蒙が嗣位した。二人の子が生まれた。長男は沸流、次男は温祚という(あるいは朱蒙は卒本に至って越郡の娘を娶り、二子が生まれたと言う)。

朱蒙は北扶余で生まれた子を太子として来た。沸流と温祚は太子に排除されるのを恐れ、烏干や馬黎など十人の臣下とともに南に奔った。多くの百姓が従ってきた。漢山(広州)に至り、負兒嶽に登って展望すると、この地に居を構えるべきだが、沸流は海浜で暮らすことを求めた。十臣は「この河南の地は北に漢水(漢江)を帯び、東は高岳に拠り、南は沃沢を望み、西は大海(黄海)が阻み、天険の地の利がある得がたい地勢です。ここに都を創るになんの不都合がありましょうや」と諌めた

沸流は聴く耳を持たなかった。その民を分け、これを彌鄒忽(仁川)で暮らさせた。温祚は河南の慰禮城を都と定め、十臣が補佐したことで、国号を十済とした。これは成帝の鴻嘉三年(前18年)のことである。

沸流の彌鄒忽は湿気が多く、水捌けが悪く、水は塩分を含み、安心して暮らせない。慰禮城はと見れば、都邑は整然としており、人々は安泰に暮らしている。沸流は慙悔に耐えず死んだ。その臣民は皆、慰禮に帰参した。後に百姓が喜んで従ってくれたことを感謝して国号を「百済」と改めた。

その先祖は高句麗と同じ扶余の出自ゆえ、扶余を氏姓とした。

一伝には、始祖は沸流王。その父は優台。北扶余王の解夫婁の庶孫。母は召西奴、卒本の人、延勃の娘。初め優台に嫁ぎ、二人の子を生んだ。長子は沸流、次子は温祚という。

優台が死ぬと、卒本で寡婦として暮らしていた。後に朱蒙扶余に受け容れられず、前漢の建昭二年(前37年)春二月、南に逃走して卒本に到り、都を立て高句麗と号し、召西奴を娶って妃とした。その開国の創業に甚だ内助の功があり、朱蒙は彼女を特に寵愛して沸流らを自分の子のように厚遇した。

朱蒙扶余に在ったとき禮氏が生んだ子の孺留が到来すると、彼を立太子したことで、王位が継承されることになった。

ここに於いて沸流が弟の温祚に告げて言うには「初め大王(朱蒙)は扶余の難を避けて、ここに逃げ来り、我が母の家系は家財を傾けて、国造りを助成した。その勤労は多とする。大王が厭世に及ぶと、国家は孺留に属することになった。吾らはここに在って臣徒となり、疣(いぼ)ができたように鬱陶(うっとう)しく、母の家系を奉じることもできない。南に流れて居住すべき土地を求め、別に国都を立てよう」。

遂に弟と一族を率いて、?水と奄帯水を渡り、彌鄒忽(ミツホル=買召忽県。仁川の昔の地名)に至ってここに居を構えた

北史や隋書が言う「東明の後に仇台があり、仁信が篤く、初め帯方郡の故地に立国。漢の遼東太守公孫度は娘を彼の妻とし、遂に東夷の強国となる」。未だこれが誰かを知らず。

三年(前16年)秋九月、靺鞨が北境に侵入。王は強兵を指揮して、これを激しく攻撃して大敗させた。賊の生還者は十人に一~二人

四年(前15年)春から夏に旱魃。飢餓で疫病が発生した。秋八月、使者を楽浪郡に遣わして修好(国交)した。

八年(前11年)春二月、靺鞨の賊兵三千人が来襲、慰禮城を包囲した。王は城門を閉ざして出撃せず。十日を経て、賊は食糧が尽きて帰還した。王は精鋭を選抜して追撃し、大斧?で一戦して勝利した。殺傷、捕獲した者は五百余人。

秋七月、馬首城を築き、甁山に柵を立てた。楽浪太守の使者が曰く「近頃は、国交を結び使者を行き来させ、一家と同様だと意識をしていたが、今、我が領土の近くに城を築き、柵を立てているが、あるいは貴国に(楽浪郡)蚕食の陰謀があるのか。もし旧交に変化がなければ、城や柵を破壊し、猜疑をなくすことである。そうしないのであれば、一戦を以て勝負を決したい」。

王が応えて曰く「要塞を設けて国を守るのは、古今の常道であり、なぜ敢えてこのことで通好を変じるのか、どうか執事はこんなことに疑念を抱かないことである。もし執事が強大な兵力を恃んで派兵すれば、小国もまた待ち受けることになる」。

このことで、楽浪との和睦を失った。

十年(前9年)秋九月、王が狩猟に出て、神鹿を捕獲したので、馬韓に送った。

冬十月、靺鞨が北の国境を侵略した。王は兵二百を派遣して、昆彌川の岸辺で防戦したが、我が軍は敗れ、靑木山に拠って防衛した。王は自ら精鋭の騎兵一百を率いて烽?に出撃し、孤立した味方を救った。賊軍はこれをみて、すぐに退却した。

十一年(前7年)夏四月、楽浪は靺鞨に甁山柵を撃破させ、殺傷し、あるいは掠奪した者一百余人。秋七月、禿山と拘川に柵を設置し、楽浪の通路を塞いだ。

十三年(前5年)春二月、王都の老婆が男に変わった。五匹の虎が入城した。王母が薨じた。年齢は六十一歳。

夏五月、王は臣下に「國家の東に樂浪、北に靺鞨がおり、わが領域を侵している。安寧な日は少なく、近頃は不吉な兆しがみられ、王母は死去し、国の勢力は不安であり、必ずや遷都すべきであろう。予は先頃、漢水の南を巡視したが、土地は肥沃であった。宜しくここに都を遷し、恒久の安定を図る」と言った。

秋七月、漢山の麓に柵を立て、慰禮城の民戸を移住させた。

八月、使者を馬韓に派遣し、遷都を告げた。そこで領土を確定した、北は? 水に至り、南は熊川を限りとし、西は大海につき、東は走壤に極まる。九月、城を立てた。

十七年(前1年)春、樂浪が侵入して来て、慰禮城を焼いた。夏四月、廟を建てて國母を祀った。

十八年(西暦1年)冬十月、靺鞨が急襲してきた。王は軍を率いて七重河で迎え撃ち、酋長の素牟を捕らえて捕虜とし、馬韓に送った。その余の賊は全て生き埋めにした。

十一月、王は樂浪郡の牛頭山城を襲撃しようとしたが、臼谷に至ったとき、大雪に遭遇したので帰還した。

二十二年(5年)秋八月、石頭・高木の二城を築いた。九月、王は騎兵隊一千を率いて斧?の東で狩りをしていたが、靺鞨に遭遇、一戦してこれを破り、捕らえた奴隷を将兵に分け与えた。

二十四年(7年)秋七月、王が熊川柵を作ると、馬韓王が使者を派遣し「王が初めて河を渡ったとき、足を踏み入れる場所もなかった。吾が東北の一百里の地を割譲して安んじさせた。その待遇は厚かったといえる。宜しくこれに報いる思いがあるべきであろう。今は国家を完成させ、国民も集まり、自分に敵するものはいないと、大々的に城郭を設け、わが国の領土を侵犯している。どういうつもりなのか」と責めた。王は恥じて、その柵を壊した。

二十五年(8年)春二月、王宮の井戸の水が突然溢れ、漢城の人の家で馬が牛を生んだが一首二身だった。占い師が言うには「井戸の水が突然溢れたのは、大王が勃興する兆であり、牛が一首二身なのは、大王が隣国を併呑することに他なりません」。王はこれを聞いて喜び、辰韓と馬韓を併呑する気になった。

二十六年(9年)秋七月、王は「馬韓は次第に弱くなり、上下の心が離れ、その勢いは永くはない。もし他国が併合すれば、唇がなくなれば歯が寒いように、後悔しても遅すぎる。人に先んじてこれを取り、後難を免れるべきであろう」と言った。

冬十月、王は軍を率いて狩りをすると虚言し、秘かに馬韓を襲撃し、其国を併合した。ただ、圓山と錦?の二城は固く守って降伏しなかった。

二十七年(10年)夏四月、二城が降った。その民を漢山の北に移住させた。馬韓は遂に滅亡した

三十四年(17年)冬十月、馬韓の旧將の周勤が牛谷城に拠って謀反した。王みずから五千の兵を率いてこれを討った。周勤は自經(首吊り自殺)したが、その遺体を腰斬にして、その妻子も誅殺した。

三十七年(20年)、六月になってやっと雨が降った。漢水の東北の部落が飢饉で荒れて、高句麗に逃亡する者が一千余戸。?河と帯河の間は住民がいなくなった。

四十年(23年)秋九月、靺鞨が述川城に来寇した。冬十一月、また斧城を襲い、百余人を殺したり、掠め取ったりした。王は強力な騎馬兵二百に命じて、これを撃退させた。

四十六年(29年)春二月、王が薨じた。
ーーー

別伝は兄弟で彌鄒忽(仁川)に暮らしたとあり、本伝では彌鄒忽(仁川)ではなく、河南の慰禮城(漢江南岸)に温祚が新天地を拓いたとある。

中国正史は百済の祖は「扶余王の尉仇台」と記しており、内容的にも信頼性が高いことから、温祚はあくまでも三国史記の想像上の人物だと思われる。

ーーー
好太王の頃
好太王(こうたいおう、374年 ? 412年)は高句麗の第19代の王(在位:391年 ? 412年)。姓は高、諱は談徳。先代の故国壌王の息子で、386年に太子に立てられており[1]、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。好太王の名は、好太王碑文によれば正式な諡は國岡上廣開土境平安好太王といい、韓国では広開土王または広開土大王とも呼ばれる。在位中に永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ばれる。また、中国史書(『北史』など)では句麗王安として現れる。

高句麗と前燕が遼東の争奪戦を繰り広げたのは好太王(在位391?413年)の頃で、それが最終的に高句麗の手に落ちたのは404年のこととみられている。ところが、この時期の百済高句麗との戦争に敗北して58個の城を奪われており、遼西に進出する余力はなかったと考えられるため、それ以前に高句麗が385年に一時的に遼東を占有した時に百済の遼西進出があったと見る学者もいる。これに対し金庠基・金哲埈・日本の井上秀雄らは百済の近肖古王が371年に高句麗を破った時、余勢を駆ってさらに北方に進出して一時的に遼西を支配したと推測している。また申采浩は近仇首王の時、鄭寅普は責稽王・汾西王の時と見る。また遼西計略説の出典である中国の史書は共通して百済伝の冒頭においてその建国・起源・発祥とのかかわりで述べており、解釈によっては夫余王の尉仇台が百済の創設者とも読めることから、遼西を経略したのは百済ではなく夫余であり、遼西経略も帯方における百済建国もともに、公孫氏との同盟下で同時期になされた夫余の対外発展の一環とみる説がある。以上のべたこれらすべての諸説はみな遼西経略時期を404年以前に想定している。ただしこれら以外にも実に多様な数多くの説が存在する

朱蒙, 百済