歴史・人名

百済の歴史

百済の歴史追加
-18 韓国の三国史記によると、百済の建国は、紀元前18年となり、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)の三男、温祚によって建国されたとされています。温祚は、慰礼城 (現在の広州市 南漢山城か?)に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。
 韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。(-百済)
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-18温祚王即位オンソ(扶餘王の次男とされる
慰礼城、現ソウル市付近)
(百済王の尊称は於羅瑕オラカあるいは「革+建」吉支ケンキシと周書にある)
(北史、隋書では遼東太守の公孫度の娘が嫁いだために東夷の強国となるとある)(-百済)
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-16靺鞨が北部に侵入(-百済)編集
-13日食(-百済)編集
-11靺鞨が慰礼城を包囲(-百済)編集
-10神鹿を得て馬韓に送る(馬韓はソウル南方全羅南道に至る群小国家群とされる)(-百済)編集
-6東の楽浪、北の靺鞨を避けて首都を漢江南岸に移し領土を京畿平野一帯としこれを馬韓に伝える(-百済)編集
-2楽浪が侵入(-百済)編集
-1靺鞨侵入、長を捕らえ馬韓に送る(-百済)編集
6柵を作るも馬韓王の抗議にて撤去(-百済)編集
7巫によって辰韓と馬韓併合の意生ずる(-百済)編集
9馬韓を滅ぼす(-百済)編集
19干ばつ(-百済)編集
20大壇を築いて天地を祭る(儒教の祭祀儀礼の説あり)(-百済)編集
22靺鞨が侵入(-百済)編集
25南沃沮が帰順(現江原道付近)(-百済)編集
28多婁王即位タル(温祚王の子)(-百済)編集
33国の南部に初めて稲田を作る(朝鮮での田は畑の意でこれが水田かどうかは不明)(-百済)編集
34靺鞨が侵入(-百済)編集
36神武36-66(-百済)編集
63領土を広げ新羅と交渉するも得ず(忠清北道の清州付近)(-百済)編集
64新羅を攻撃(-百済)編集
66綏靖66-78(-百済)編集
73日食(-百済)編集
75新羅を攻撃(-百済)編集
77己婁王即位コル(多婁王の子)(-百済)編集
78安寧78-92(-百済)編集
85新羅を攻撃(-百済)編集
87日食(-百済)編集
92日食(-百済)編集
92懿徳92-105(-百済)編集
105新羅と和睦交渉(-百済)編集
105孝昭105-137(-百済)編集
108大飢饉、人を殺して食べる(-百済)編集
113新羅に使者(-百済)編集
121百済建国事情
 建光元年(121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と?貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った。
 公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。
 このときの尉仇台系の扶余が馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。古代史の復元では百済建国はAD164年である。
 『宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。
(-百済)
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125新羅に侵入した靺鞨に対し援軍を送る(-百済)編集
128蓋婁王即位ガイル(己婁王の子)(-百済)編集
137孝安137-175(-百済)編集
163百済の温祚即位(-百済)編集
165新羅の将軍が百済に逃亡し引き渡しをめぐって新羅と争う
日食(-百済)
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166肖古王即位ショウコ(素古、蓋婁王の子)(神功紀に引用)(-百済)編集
167新羅を攻撃(-百済)編集
170百済遷都
 百済本紀の記録
 百済本紀には遷都の状況が次のように記録されている。
 温祚13年
 王は臣下に対して「我が国の東には楽浪があり、北には靺鞨があって、国境を侵しているので少しも安らかな日がない。いわんや今は怪しい兆しがしばしばあらわれ、国母が世を去り情勢が安らかではないので、都を移さなければならない。私が先日漢江の南を回ってみたら、土地が肥えていたから、よろしく、そこに都を移して、永久に安全な計を諮るべきである。」
 秋7月漢山の下に柵を立てて慰礼城の民を移した。8月に使者を馬韓に使わして、都を移したことを知らせ、遂に境界を定めた。北は臨津江、南は熊川、東は平康に達した。9月に都城と宮殿を立てた。翌14年春正月、都を移した。
 温祚13年は古代史の復元ではAD170年に該当する。しかし、その後、楽浪や靺鞨の百済攻撃は継続している。遷都の時期が温祚13年より後ではないかと思われる。
 百済は倭国や新羅と同じ半年一年暦で考えると事象の一致が見られる。高句麗は中国暦のようである。半年一年暦は倭国固有の暦なので、百済は建国当初半年一年暦を使っていたとは思われない。中国暦だったと思われる。倭国との交流が活発になってから倭国と同じ半年一年暦に変更したと思われる。温祚13年は中国干支で庚戌である。これがそのまま半年一年干支となったとすれば、AD197年が遷都の年と考えられる。これは高句麗第10代山上王が即位した年である。(-百済)
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170日食(-百済)編集
175孝霊175-204(-百済)編集
186百済遷都に至る情勢
 公孫度は、186年、董卓が実権を握ったとき、友人であった徐栄の推挙もあって、189年、遼東太守に任じられた。遼東で勢力を拡大し、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。遼東が都から遠く離れた地域であったため、192年、董卓が死んだ後は、公孫氏による独立国のような体制をとり、周辺に勢力を伸ばし、高句麗や烏桓を討伐した。
 記録にはないが百済はこの頃、遼東にあり、公孫度の攻撃を頻繁に受けていたと思われる。これが、温祚13年の「楽浪が国境を侵している」という記事につながるのである。
 百済が遷都したと思われる197年には高句麗山上王が即位しているが、王位継承をめぐって高句麗で大騒乱が起こっている。
 第9代高句麗王故国川王が王子のいないままにて死去した。その王妃の于氏は初め喪を伏せたまま、すぐ下の弟である発岐に王位を継ぐことを勧めた。発岐は王の死を知らなかったために于氏の勧めが不遜であると責めたため、于氏は延優の元へ行き延優に王位に継ぐことを勧めた。延優はこれに応え、翌日早朝に延優は王位に就いた山上王である。発岐は王位に就き損ねたことを不服として、遼東太守の公孫度と結託し武力侵攻を行うが、王位簒奪に失敗した。
 『唐会要』百済伝には「百済は高句麗に国を破られた」と記録されており、その年が山上王の即位年だとすると、次のような推定が成り立つ。
 百済は公孫度の攻撃に破れて遼東の属国のような状態になっていた。このような時に、高句麗王子発岐が公孫度を頼ってきた。公孫度はこれを契機に高句麗を侵略しようと百済に命じて高句麗を攻撃させた。百済は公孫度の命令にやむなく従って高句麗を攻撃したが、高句麗によって公孫度と共に破れてしまった。
 高句麗のこの攻撃で百済は領土を失って、遷都を決断したのではないかと推定する。遼東半島から海に逃げ、半島に沿って南下し、漢江(韓国ソウル市)付近に上陸したものと考えられる。(-百済)
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186百済の多婁即位(-百済)編集
188新羅を攻撃(-百済)編集
189日食(-百済)編集
199新羅へ侵入(-百済)編集
201新羅との衝突
 百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅は倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。(-百済)
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201 新羅はAD201年、倭人である脱解が第4代新羅王に即位し、大和朝廷との和解をはかろうと202年倭国との間で使者の交換をした。
 新羅本紀脱解王3年
 夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。
 この当時卑弥呼は独自の情報網により、おそらく百済が侵入していることは知っていたと思われるが、百済の活用を考えて様子を探っていたのではあるまいか。
 このような時に百済が西から新羅の国境侵犯をしてきたのである。ここで、百済と新羅の国境争いが起こった。
(-百済)
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203 新羅本紀 脱解王5年(AD203年前半) 馬韓の将軍新羅に投降
 馬韓は新羅の北西、百済の北の領域に存在した諸国の総称である。その馬韓の将軍が新羅に投降したのである。馬韓はこの頃公孫康率いる楽浪郡に攻め立てられ、楽浪郡に所属するようになった時期である。それを嫌った将軍が新羅に投降したものと考えられる。
 この203年には、楽浪郡の攻撃が百済の北辺に迫っていたといえる。百済としては楽浪郡を迎え撃たなければならず、新羅と争っている余裕はなく、AD204年前半、新羅に使者を出して、新羅との間の国境を確定させようとした。それが、以下の記録である。(-百済)
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204 百済本紀 多婁王36年(AD204年前半) 使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった。
 新羅本紀 脱解王7年(AD204年前半) 百済王が地境を拓定するために会見を乞うたが合わなかった。
 この時、脱解王は百済王に使者を出し、「その地は倭国領である。倭王卑弥呼の許可は取ってあるのか。そうでなければ倭国に滅ぼされるぞ」とでも脅しを入れたと思われる。(-百済)
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204孝元204-225(-百済)編集
205倭国との交渉
 百済王は早速その実態を調べたことであろう。その結果、今都としている漢江周辺は間違いなく倭国領であり、このまま放置していたのでは倭国との戦いが始まるのは確実であると思った。北から楽浪郡、南から倭国に攻められたのでは百済の滅亡は日を見るよりも明らかだった。百済の選択肢は二つだった。楽浪郡の支配下に下るか、倭国と組んで楽浪郡と対峙するかである。
 焦った百済王は早速倭国との交渉に入ることにしたが、倭国とのパイプがないために、伽耶の卓淳旱岐のもとへ三人の使者を送り、倭国との橋渡しをしてもらうように頼んだのである。卓淳旱岐が倭国に使者を送り、倭王卑弥呼との連絡を取ったのである。
 卑弥呼は百済からの挨拶を待っていたのである。卑弥呼の情報網により、百済は遼東を追い出されて、領地を失った国であること、楽浪郡の勢力がすぐ北まで攻め依ってきていること。新羅と対立関係にあることなどを既に知っていた。
 百済を倭国領から追い出してしまえば、彼らは住むところを失うので、窮鼠猫を咬むの例えにもある通り、倭国に対して宣戦布告をしてくる可能性がある。今、倭国内は倭の大乱を終えたばかりで、安定状況になく、海外遠征での戦いは避けたい気持ちがあった。また、新羅が朝鮮半島で幅を利かせており、新羅に対抗できる国が朝鮮半島には存在していない。また、北からの楽浪郡の侵入を阻止しなければならないという思いもあった。伽耶諸国を強く育てる対策は打ったが、まだ実用段階ではなかった。
 百済は新羅と対立関係にある実力を持った国なので、百済が新羅に対抗できる国となれば、新羅の朝鮮半島での横暴も抑えられると思ったのではないか。
 このような思いもあって、卑弥呼は百済からの使者に会ったのである。
 百済としても、倭国との交渉が決裂してこの領地を追い出されてしまえば行くところもなく、なんとか倭国に漢江周辺の地の領有を認めてもらおうと、最高の対応で礼儀正しく卑弥呼に会ったのであろう。 
 卑弥呼としては百済に漢江周辺の領有を任せる代わりに次のような条件を出したと思われる。
① 毎年貢物をよこすこと。
② 新羅に対抗し、新羅の横暴を止めること
③ 朝廷からの使者が大陸に渡る時の橋渡しをすること。
④ 朝鮮半島や大陸の情報を知りうる限り、朝廷に伝えること。
⑤ 楽浪郡の北からの侵入を阻止すること。
 百済としては倭国と戦争したり、追い出されることに比べればたやすいことであり、百済王は承諾した。卑弥呼としても、朝廷の力で朝鮮半島の倭の領域を統治するのは大変であることと、楽浪郡や高句麗が何れ朝鮮半島に進出してきて、朝鮮半島が戦乱状態になることを予想しており、百済がその防波堤になってくれることを願っていた。AD205年を境に倭国と百済との強力な同盟関係が成立した。
三国史記・・修正年・・百済本紀・・新羅本紀
63・・204・・使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった・・百済王が地境を拓定するために会見を乞うた
64・・204・・蛙山城を攻めたが勝てなかった。・・百済が蛙山城・狗壌城を攻撃した。
66・・205・・蛙山城を攻めとったが暫らくして破れた・・百済が蛙山城を攻めとったが奪回した。
70・・207・・新羅を攻めた・・百済が攻めてきた。
74・・209・・新羅を攻めた・・百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。
75・・210・・蛙山城を攻め落とした・・
76・・210・・蛙山城を奪回された・・蛙山城を奪回した。
84・・214・・・・百済が辺境を侵した
85・・215・・新羅の辺境を侵した・・
 百済は倭国の了解のもと遠慮なく新羅と戦えるようになり、頻繁に新羅と戦うこととなった。(-百済)
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210靺鞨が侵入(-百済)編集
211百済の己婁即位(-百済)編集
212日食(-百済)編集
214靺鞨と戦闘(-百済)編集
214仇首王即位キュウシュ(貴須、肖古王の長男 身長七尺という)(-百済)編集
216靺鞨が侵入(-百済)編集
218新羅を攻撃(-百済)編集
221日食(-百済)編集
222新羅を攻撃
日食(-百済)
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224新羅が侵入(-百済)編集
225開化225-248(-百済)編集
234沙伴王即位サハン(仇首王の長男、幼少のため古尓王が継承)(-百済)編集
234古尓王即位コニ(蓋婁王の第2子)(-百済)編集
236百済の蓋婁即位(-百済)編集
238天地を祭るために太鼓と笛を用いる(-百済)編集
240新羅を攻撃(-百済)編集
246魏と高句麗が合して侵入(-百済)編集
247干ばつ多発(-百済)編集
248崇神248-273(-百済)編集
255百済の肖古即位(-百済)編集
255新羅を攻撃(-百済)編集
258靺鞨が使者(-百済)編集
260官位を制定 官人の服飾は紫、緋色、青の順と定める(-百済)編集
261新羅と和親を求めるも得られず(-百済)編集
266新羅を攻めるも敗退(-百済)編集
273垂仁273-311(-百済)編集
279百済の仇首即位(-百済)編集
286新羅と和親を求める(-百済)編集
286責稽王即位セキケイ(青稽、古尓王の子)帯方の王妃を妃とする
高句麗の帯方攻撃に対して援軍(-百済)
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289百済の沙伴即位(-百済)編集
289百済の古爾即位(-百済)編集
298漢が貊人とともに侵入 責稽王戦死(-百済)編集
298汾西王即位フンセイ(責稽王の長男)(-百済)編集
304楽浪を攻撃するも楽浪の刺客により汾西王殺される(-百済)編集
304比流王即位ヒリュウ(仇首王の第2子)(-百済)編集
308日食(-百済)編集
311景行311-333(-百済)編集
315百済の責稽即位(-百済)編集
321百済の汾西即位(-百済)編集
324百済の比流即位(-百済)編集
331大飢饉、人を殺して食べる(-百済)編集
333成務333-356(-百済)編集
334契王即位ケイ(汾西王の長男)(-百済)編集
335日食(-百済)編集
337新羅の使者(-百済)編集
345百済の契即位(-百済)編集
346中国が五胡十六国の時代(-百済)編集
346百済の建国(-百済)編集
346346年ころ百済の建国 朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。 346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(-百済)編集
346■前期 漢城時期( ? 475年)(-百済)編集
346■前期 漢城時期( ? 475年)
 ソウル 夢村土城跡
夢村土城の土塁跡(ソウル)  中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。
 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。
 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。(-百済)
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346中国が五胡十六国の時代(-百済)編集
346百済の照古即位(-百済)編集
346近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子)(-百済)編集
346中国が五胡十六国の時代(-百済)編集
346346年、近肖古王の即位。
近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(-百済)
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356356年 新羅の建国(-百済)編集
356仲哀356-360(-百済)編集
360神功360-386(-百済)編集
364百済再建(-百済)編集
364百済再建
 漢江付近はこの当時倭国の領域であった。しかしながら、大和朝廷の施政権はほとんど及んでおらず、ほとんど未開地のような情勢であったと思われる。百済としては、まだどこにも所属していないと思い、新しい国として百済再建を諮った。
 周辺がほとんど未開の地であるために、少しずつ領土を拡張していった。その中でこの地が倭国領であることを知ったと思われる。
 百済王としては、倭国が巨大な領域を占めており、かなりの強国であるという噂を知り、このままこの地を領有していると、何れ倭国と交戦しなければならなくなり、存亡の危機にかかわることになりかねないので、倭国王との接触を図ろうとしたと思われる。
 その関連記事が神功皇后44年及び46年の記事であろうと思われる。
 神功44年 百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った。
 神功46年 斯摩宿禰を卓淳國に遣す。百済との交流が始まる。
 神功44年は364年である。百済が建国後200年も倭国の存在を知らないなど考えにくいことであり、この記事は神功皇后ではなく卑弥呼の時代のものと考える。神功44年は中国干支で甲子である。この干支がこの当時の半年一年干支の間違いであるとすれば、同じ甲子となるのはAD204年後半である。よって、卓淳國で使者を送ったのは204年、百済との交流が始まったのは205年となる。(-百済)
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366新羅に使者(-百済)編集
367367年、百済と新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)(-百済)編集
368日食 新羅に使者(-百済)編集
369高句麗が侵入 百済軍の軍旗に黄色を用いる(-百済)編集
371高句麗が侵入 百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死(-百済)編集
371371年、高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗が百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(-百済)編集
372晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり)(-百済)編集
372372年、東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。(-百済)編集
372372年、日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(-百済)編集
372372年、慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。(-百済)編集
375百済の貴須即位(-百済)編集
375高句麗侵入
(注記にこの時代に文字を得て事を記すようになったとある)(-百済)
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375近仇首王即位キンキュウシュ(須、近肖古王の子)(-百済)編集
377高句麗の平壌城を攻撃(-百済)編集
377377年、北朝の前秦へも朝貢。(-百済)編集
384百済の枕流即位(-百済)編集
384枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)
晋に朝貢 仏僧が晋から渡来(-百済)
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384384年、西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。(-百済)編集
385百済の辰斯即位(-百済)編集
385仏寺を創建(-百済)編集
385辰斯王即位シンシ(枕流王の弟)(-百済)編集
386高句麗が侵入(-百済)編集
386応神386-402(-百済)編集
387靺鞨が侵入(-百済)編集
387387年、東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。(-百済)編集
389高句麗を攻撃(-百済)編集
391391年 高句麗の広開土王(好太王)即位(-百済)編集
391靺鞨が侵入(-百済)編集
391391年、倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)(-百済)編集
392百済の阿辛(-百済)編集
392日食
高句麗の広開土王が侵入 多くの領土を奪われる(-百済)
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392阿シン王即位アシン(草冠+辛、阿芳、枕流王の子)(-百済)編集
395高句麗の広開土王と戦うも大敗する(-百済)編集
396396年、高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。(-百済)編集
397倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする(-百済)編集
397397年、倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。(-百済)編集
399高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(-百済)編集
400日食(-百済)編集
402倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)(-百済)編集
402仁徳402-434(-百済)編集
402402年、百済から倭国へ使者を送る。(-百済)編集
403倭国の使者を特に手厚くねぎらう(-百済)編集
403403年、倭国から百済へ使者を送る。(-百済)編集
404404年、倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(-百済)編集
405百済の直支(-百済)編集
405腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)
人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて
倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる(-百済)
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405405年、百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(-百済)編集
406晋に朝貢(-百済)編集
409倭国の使者が夜明珠を送る 厚く礼遇する(夜明珠の意不明)(-百済)編集
414広開土王碑(-百済)編集
416東晋の使者が王を鎮東将軍百済王とする(-百済)編集
416416年、東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。(-百済)編集
418倭国に白綿を送る(-百済)編集
419日食(-百済)編集
420久尓辛王即位クニシン(腆支王の長男)(-百済)編集
420420年、宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(-百済)
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421倭王讃421(-百済)編集
427ヒ有王即位ヒユウ(田+比、久尓辛王の長男あるいは腆支王の養子)(-百済)編集
428倭国の使者(-百済)編集
429宋に朝貢(-百済)編集
430倭王讃?430(-百済)編集
433新羅に使者を送り和親を求む(-百済)編集
434新羅の使者が答礼(-百済)編集
434履中434-437(-百済)編集
437反正437-439(-百済)編集
438倭王珍438(-百済)編集
439允恭439-454(-百済)編集
440日食(-百済)編集
443倭王済443(-百済)編集
447干ばつ 新羅への避難民(-百済)編集
451倭王済451(-百済)編集
454安康454-456(-百済)編集
455蓋鹵王即位ガイロ(近蓋婁、ヒ有王の長男)(-百済)編集
456雄略456-479(-百済)編集
460倭王460、名不明(-百済)編集
468日食(-百済)編集
469高句麗に侵入(-百済)編集
472魏に朝貢
魏に高句麗の罪悪を並べ救援を乞う上表文と応答があるが
魏が百済を支援しなかったために朝貢をやめる(-百済)
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475■中期 熊津(公州)時代(475年 ? 538年)(-百済)編集
475 熊津の公山城跡(公州)  長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道 公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。
 第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ 、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。(-百済)
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475高句麗が侵入し蓋鹵王を殺す
子の文周等は南へ逃げる(木劦満致らを伴う)(-百済)
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475文周王即位ブンシュウ(ブン洲サンズイ+文、蓋鹵王の子)
新羅の援軍をつれて帰国(-百済)
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475475年、高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(-百済)編集
476耽羅国(済州島)が朝貢(-百済)編集
477三斤王即位サンキン(壬乞、文周王の長男 幼年につき解仇が実権)(-百済)編集
477倭王武477(-百済)編集
478解仇が謀反(-百済)編集
478478年、大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(-百済)編集
479東城王即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(-百済)編集
479479年、解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。
次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(-百済)
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480清寧480-485(-百済)編集
482靺鞨が侵入(-百済)編集
484南斉に朝貢するも高句麗がこれを妨害(-百済)編集
485新羅に使者(-百済)編集
485顕宗485-488(-百済)編集
488魏の討伐軍侵入(-百済)編集
488仁賢488-498(-百済)編集
491飢饉で新羅への避難民(-百済)編集
493新羅に妃を求める(-百済)編集
494新羅に侵入した高句麗軍に対し援軍(-百済)編集
495日食
高句麗の侵入に新羅が援軍(-百済)
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498武烈498-507(-百済)編集
499干ばつ(-百済)編集
500家臣が王の浪費をいさめるも聞かれず(-百済)編集
501武寧王即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子)(-百済)編集
501501年、東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(-百済)編集
502飢饉と疫病
高句麗を攻撃(-百済)
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502倭王武502(-百済)編集
506靺鞨が侵入(-百済)編集
507高句麗侵入(-百済)編集
507継体507-530(-百済)編集
512梁に朝貢
高句麗侵入(-百済)
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512512年、百済が日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条)(-百済)編集
513513年、百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己?(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己?の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己?と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)(-百済)編集
514514年、判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(-百済)編集
515515年、百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)(-百済)編集
516日食(-百済)編集
516516年、百済は物部連らを己?で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)(-百済)編集
521使者を梁に送り寧東大将軍を授かる(-百済)編集
523聖王即位セイ(メイジョウ、明+のぎへん+農、武寧王の子)
高句麗が侵入(-百済)
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524梁から綏東将軍百済王を受ける(-百済)編集
525新羅と国交を結ぶ(-百済)編集

346年ころ 百済の建国

 朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。
 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。
 346年は、近肖古王の即位の年である。
(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)

百済の建国伝説

 高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだので、弟の沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)は高句麗を出て自分たちの国を建てようと南へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。
(注:「三国史記」の別伝によると、沸流と温祚は朱蒙の実の子ではなく、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘で召西奴の連れ子としている。)
 やがて漢山(かんざん・現在の京幾道広州郡)へたどり着き、2人は臣下とともに負児岳(ふじがく)という高い山の頂にのぼって周囲を見渡した。沸流は、海の見える方が気に入った。しかし、10人の臣下は口をそろえて反対し、「それよりも、こちらの方です。北に江が流れ、東に山をひかえ、南は平野、西は海、こんな究竟な、よい場所はありません。都はぜひ、こちらへお建てになることです。」そういって勧めたが、沸流はどうしても聞かない。百姓たちを半分にわけて、自分だけ海辺の方へ都を置くことになった。弥鄒忽(みすこつ・現在の仁川)である。弟の温祚は臣下たちの意見に従って、漢山の慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡)に都を定めた。10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼ぶことになった。
 弥鄒忽は土地が湿っているうえ水が塩辛く、百姓たちもさんざん苦労を重ねた。沸流が弟のようすを見に慰礼城へ来てみると、何の不足もなく幸せに暮らしている。自分を恥じた沸流は、それを苦にして病となり亡くなった。それで百姓たちは慰礼城へ移り、人民が増えたので、国号を「百済」に改めた。
 百済は、ここから領土を広げて大きくなった。
(注:実際には、百済として大きな勢力となったのは、高句麗の建国よりも約400年のちのこととみられる。)

中国が五胡十六国の時代

 346年、近肖古王の即位。
 近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。
 367年、百済と新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)
 371年、高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗が百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)

 372年、東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。
 同372年、日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)
 同372年、慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。
 377年、北朝の前秦へも朝貢。
 384年、西域の僧侶摩羅難陁(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。
 387年、東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。

 391年、倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)
 396年、高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。
 397年、倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。
 402年、百済から倭国へ使者を送る。
 403年、倭国から百済へ使者を送る。
 404年、倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)
 405年、百済の阿莘王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の碟礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが碟礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。
 416年、東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。
 420年、宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
 「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。

 475年、高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。
 478年、大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。
 479年、解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。
 次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。
 501年、東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。

 512年、百済が日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条)
 513年、百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己汶(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己汶の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己汶と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)
 514年、判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)
 515年、百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)
 516年、百済は物部連らを己汶で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)
 538年、百済から日本へ仏教が伝えられた。

 538年、都を熊津から泗沘(しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。
 551年、百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した。
 552年、新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。

 554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。
 562年、加羅諸国が新羅に占領される。

中国が隋の時代

 581年に隋が成立すると、高句麗と百済はすぐに 朝貢した。
 百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。
 597年、百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)

中国が唐の時代

 618年、唐が成立する。
 624年、百済、高句麗、新羅があいついで唐に朝貢した。

 636年、漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。
 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。
 642年、百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。

 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。
 655年、高句麗と百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。

 658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。
 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗沘城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。
 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道琛(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。

【参考ページ】
660年 百済の滅亡
663年 白村江の戦い

BC37年 高句麗の建国
391年 高句麗の広開土王(好太王)即位
356年 新羅の建国

【LINK】
LINK 水.土壌.心の汚染や、アジア太平洋の利権を現場で考え真実を伝える ≫ 朝鮮半島南部の前方後円墳&任那日本府&ヒスイ製勾玉は糸魚川のみ産地(2012年3月17日付)
LINK 縄文と古代文明を探求しよう! ≫ NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第2回放映(2009年6月17日付)
LINK News U.S. 中国・韓国・在日朝鮮人崩壊ニュース ≫ 韓国人「日本人は百済系だからウリ達と兄弟ニダ!!」 ← バカ  今の韓国人は百済とは何の関係もなし!!!!! そもそも日本は百済を統治する立場に!!!!! 劣等遺伝子民族は真の歴史を知り発狂憤死すべきである!!!! 2ch「天皇が半島の子孫なら、なぜ『日王』などと呼ぶのか。嘘と妄想と手のひら返しを繰り返しすぎだろ」(2013年5月1日付)
 このサイトのコメントとして、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。
『★現天皇のゆかり発言で有名になった桓武天皇の母親の高野新笠の系図
武寧王[461年日本生まれ第25代百済王(在位501-523年)]
純陀太子  在日1世(日本に人質に)
斯我君   在日2世
法師君   在日3世
雄蘇利紀君 在日4世
和史宇奈羅 在日5世(和氏に改名して日本に帰化)
和史粟勝  在日6世
和史浄足  在日7世
和史武助  在日8世
和史乙継  在日9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る)
高野朝臣新笠 在日10世―桓武天皇[第50代天皇(在位781-806年)]
・・・つまり桓武天皇の母親の高野新笠は10代前に渡来し、6代前に日本に帰化した百済系10世なのです。
彼女の百済系の割合は1/(2^10)=0.00098。パーセントにすると0.098%となります。
逆に日本系の割合は99.902%で、血筋から見ても帰化している事から見ても正真正銘の日本人です。
ましてや125代の今上天皇との関係は「0」と言って差し支えありません。
また「百済≠韓国」である事も強調しておきます。
さらに「武寧王の父の東城王は日本(倭)からやって来た」と韓国の古文書に書かれている事も付け加えておきます。
そして桓武天皇が即位したのは781年・・・つまり660年百済滅亡の121年後なのです。百済の政治的な関わりは「0」です。 』

旅行前に知っておきたい!百済の歴史

 高句麗、新羅とともに韓国の三国時代を築いた百済(くだら・ペクジェ)。
 日本(倭国)との関わりも深く、唐も含めて、東アジア一円の社会、文化に深く関与しています。
 その歴史を紐解くことで、旅行の楽しみも倍増!まずは、百済の歴史を旅してみましょう。

百済(くだら)は、朝鮮半島南西部を占めた古代国家。

 一般的に、支配階級は北の高句麗王族と同じく、中国満州付近から出た扶余族と見られています。「隋書」百済伝には、「百済の祖先は高(句)麗国より出づる」とあり、新羅、倭国、また中国からも渡来してきた人が住み、他民族的な国家を形成していたようです。
 韓国・朝鮮史上では、およそ紀元前1世紀から紀元後7世紀までの間、半島北部の「高句麗」、南東部の「新羅」、そして南部の伽耶諸国とあわせて南西部の「百済」の三国が支配していた時代を「三国時代」といいます。

■建国神話 (前18年~)

 韓国の三国史記によると、百済の建国は、紀元前18年となり、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)の三男、温祚によって建国されたとされています。温祚は、慰礼城 (現在の広州市 南漢山城か?)に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。
 韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。

■前期 漢城時期( – 475年)

ソウル 夢村土城跡
夢村土城の土塁跡(ソウル)  中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。
 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。
 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。

■中期 熊津(公州)時代(475年 – 538年)

熊津の公山城跡(公州)  長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道 公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。
 第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ 、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。

三国時代の百済

三国時代の地図、5世紀終わり頃
By Evawen, Gzhao [GFDL or CC BY 3.0]
 第25代 武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。
 武寧王の亡き後即位した、第26代 聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の 泗沘(サビ)、今の扶余へ遷都しました。

■後期 泗沘(扶余)時代(538年 – 660年)

 泗沘に遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが 、その名は定着しなかったようです。
扶余 定林寺 五重塔
滅亡の傷跡を残す定林寺・五重塔  551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻しますが、翌年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立が生じます。そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。

 その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。

 はじめは新羅と百済の和平を求めていた唐ですが、百済 義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。
 こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本(倭国)ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。

■百済滅亡と白村江の戦(660-663年)

扶余 扶蘇山城より眺める白馬江
扶蘇山城より白馬江を望む  660年、ついに唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入ります。
 百済軍は、黄山之原(現在の忠清南道 論山)において決戦に挑み、善戦するも新羅軍に大敗してしまいます。
 一方、唐軍を白江(現在の白馬江。錦江の中流 扶余付近)に引き込む作戦に出ますが、唐軍に 泗沘城(扶余・扶蘇山城)を包囲されてしまいます。一時義慈王は旧都の熊津城(錦江の中流域)に脱れますが降伏し、ついに百済は滅亡したのでした。

白村江の戦い 錦江河口付近

白村江?錦江河口付近(群山)  百済の滅亡後も、百済の遺臣たちは百済復興を願い、各地で抵抗を続け、人質として日本へおくられていた百済の王子豊璋も、高句麗や日本(斉明天皇、中大兄皇子ら)の支援を受けて、唐・新羅連合軍と戦いますが、内部分裂を起こしてしまいます。

 日本(倭国)からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」(今の錦江?)の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。

 百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-2/ad346a.htm


http://www.iokikai.or.jp/kodai.kudara.html


http://www.nikomaru.jp/korea/krtour/krtour_baekjehistory


http://www.geocities.jp/mb1527/N3-19-4kudarasaiken.html

百済建国事情

 建光元年(121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と濊貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った。
 公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。

このときの尉仇台系の扶余が馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。古代史の復元では百済建国はAD164年である。

 『宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。

百済遷都

 百済本紀の記録

 百済本紀には遷都の状況が次のように記録されている。

 温祚13年
 王は臣下に対して「我が国の東には楽浪があり、北には靺鞨があって、国境を侵しているので少しも安らかな日がない。いわんや今は怪しい兆しがしばしばあらわれ、国母が世を去り情勢が安らかではないので、都を移さなければならない。私が先日漢江の南を回ってみたら、土地が肥えていたから、よろしく、そこに都を移して、永久に安全な計を諮るべきである。」
 秋7月漢山の下に柵を立てて慰礼城の民を移した。8月に使者を馬韓に使わして、都を移したことを知らせ、遂に境界を定めた。北は臨津江、南は熊川、東は平康に達した。9月に都城と宮殿を立てた。翌14年春正月、都を移した。

 温祚13年は古代史の復元ではAD170年に該当する。しかし、その後、楽浪や靺鞨の百済攻撃は継続している。遷都の時期が温祚13年より後ではないかと思われる。

 百済は倭国や新羅と同じ半年一年暦で考えると事象の一致が見られる。高句麗は中国暦のようである。半年一年暦は倭国固有の暦なので、百済は建国当初半年一年暦を使っていたとは思われない。中国暦だったと思われる。倭国との交流が活発になってから倭国と同じ半年一年暦に変更したと思われる。温祚13年は中国干支で庚戌である。これがそのまま半年一年干支となったとすれば、AD197年が遷都の年と考えられる。これは高句麗第10代山上王が即位した年である。

百済遷都に至る情勢

 公孫度は、186年、董卓が実権を握ったとき、友人であった徐栄の推挙もあって、189年、遼東太守に任じられた。遼東で勢力を拡大し、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。遼東が都から遠く離れた地域であったため、192年、董卓が死んだ後は、公孫氏による独立国のような体制をとり、周辺に勢力を伸ばし、高句麗や烏桓を討伐した。

 記録にはないが百済はこの頃、遼東にあり、公孫度の攻撃を頻繁に受けていたと思われる。これが、温祚13年の「楽浪が国境を侵している」という記事につながるのである。

 百済が遷都したと思われる197年には高句麗山上王が即位しているが、王位継承をめぐって高句麗で大騒乱が起こっている。

 第9代高句麗王故国川王が王子のいないままにて死去した。その王妃の于氏は初め喪を伏せたまま、すぐ下の弟である発岐に王位を継ぐことを勧めた。発岐は王の死を知らなかったために于氏の勧めが不遜であると責めたため、于氏は延優の元へ行き延優に王位に継ぐことを勧めた。延優はこれに応え、翌日早朝に延優は王位に就いた山上王である。発岐は王位に就き損ねたことを不服として、遼東太守の公孫度と結託し武力侵攻を行うが、王位簒奪に失敗した。

 『唐会要』百済伝には「百済は高句麗に国を破られた」と記録されており、その年が山上王の即位年だとすると、次のような推定が成り立つ。

 百済は公孫度の攻撃に破れて遼東の属国のような状態になっていた。このような時に、高句麗王子発岐が公孫度を頼ってきた。公孫度はこれを契機に高句麗を侵略しようと百済に命じて高句麗を攻撃させた。百済は公孫度の命令にやむなく従って高句麗を攻撃したが、高句麗によって公孫度と共に破れてしまった。

 高句麗のこの攻撃で百済は領土を失って、遷都を決断したのではないかと推定する。遼東半島から海に逃げ、半島に沿って南下し、漢江(韓国ソウル市)付近に上陸したものと考えられる。

百済再建

 漢江付近はこの当時倭国の領域であった。しかしながら、大和朝廷の施政権はほとんど及んでおらず、ほとんど未開地のような情勢であったと思われる。百済としては、まだどこにも所属していないと思い、新しい国として百済再建を諮った。

 周辺がほとんど未開の地であるために、少しずつ領土を拡張していった。その中でこの地が倭国領であることを知ったと思われる。

 百済王としては、倭国が巨大な領域を占めており、かなりの強国であるという噂を知り、このままこの地を領有していると、何れ倭国と交戦しなければならなくなり、存亡の危機にかかわることになりかねないので、倭国王との接触を図ろうとしたと思われる。

 その関連記事が神功皇后44年及び46年の記事であろうと思われる。

 神功44年 百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った。

 神功46年 斯摩宿禰を卓淳國に遣す。百済との交流が始まる。

 神功44年は364年である。百済が建国後200年も倭国の存在を知らないなど考えにくいことであり、この記事は神功皇后ではなく卑弥呼の時代のものと考える。神功44年は中国干支で甲子である。この干支がこの当時の半年一年干支の間違いであるとすれば、同じ甲子となるのはAD204年後半である。よって、卓淳國で使者を送ったのは204年、百済との交流が始まったのは205年となる。

新羅との衝突

 百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅は倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。

 新羅はAD201年、倭人である脱解が第4代新羅王に即位し、大和朝廷との和解をはかろうと202年倭国との間で使者の交換をした。

 新羅本紀脱解王3年
 夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。

 この当時卑弥呼は独自の情報網により、おそらく百済が侵入していることは知っていたと思われるが、百済の活用を考えて様子を探っていたのではあるまいか。

 このような時に百済が西から新羅の国境侵犯をしてきたのである。ここで、百済と新羅の国境争いが起こった。

 新羅本紀 脱解王5年(AD203年前半) 馬韓の将軍新羅に投降

 馬韓は新羅の北西、百済の北の領域に存在した諸国の総称である。その馬韓の将軍が新羅に投降したのである。馬韓はこの頃公孫康率いる楽浪郡に攻め立てられ、楽浪郡に所属するようになった時期である。それを嫌った将軍が新羅に投降したものと考えられる。

 この203年には、楽浪郡の攻撃が百済の北辺に迫っていたといえる。百済としては楽浪郡を迎え撃たなければならず、新羅と争っている余裕はなく、AD204年前半、新羅に使者を出して、新羅との間の国境を確定させようとした。それが、以下の記録である。

 百済本紀 多婁王36年(AD204年前半) 使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった。

 新羅本紀 脱解王7年(AD204年前半) 百済王が地境を拓定するために会見を乞うたが合わなかった。

 この時、脱解王は百済王に使者を出し、「その地は倭国領である。倭王卑弥呼の許可は取ってあるのか。そうでなければ倭国に滅ぼされるぞ」とでも脅しを入れたと思われる。

倭国との交渉

 百済王は早速その実態を調べたことであろう。その結果、今都としている漢江周辺は間違いなく倭国領であり、このまま放置していたのでは倭国との戦いが始まるのは確実であると思った。北から楽浪郡、南から倭国に攻められたのでは百済の滅亡は日を見るよりも明らかだった。百済の選択肢は二つだった。楽浪郡の支配下に下るか、倭国と組んで楽浪郡と対峙するかである。

 焦った百済王は早速倭国との交渉に入ることにしたが、倭国とのパイプがないために、伽耶の卓淳旱岐のもとへ三人の使者を送り、倭国との橋渡しをしてもらうように頼んだのである。卓淳旱岐が倭国に使者を送り、倭王卑弥呼との連絡を取ったのである。

 卑弥呼は百済からの挨拶を待っていたのである。卑弥呼の情報網により、百済は遼東を追い出されて、領地を失った国であること、楽浪郡の勢力がすぐ北まで攻め依ってきていること。新羅と対立関係にあることなどを既に知っていた。

 百済を倭国領から追い出してしまえば、彼らは住むところを失うので、窮鼠猫を咬むの例えにもある通り、倭国に対して宣戦布告をしてくる可能性がある。今、倭国内は倭の大乱を終えたばかりで、安定状況になく、海外遠征での戦いは避けたい気持ちがあった。また、新羅が朝鮮半島で幅を利かせており、新羅に対抗できる国が朝鮮半島には存在していない。また、北からの楽浪郡の侵入を阻止しなければならないという思いもあった。伽耶諸国を強く育てる対策は打ったが、まだ実用段階ではなかった。
 百済は新羅と対立関係にある実力を持った国なので、百済が新羅に対抗できる国となれば、新羅の朝鮮半島での横暴も抑えられると思ったのではないか。

 このような思いもあって、卑弥呼は百済からの使者に会ったのである。

 百済としても、倭国との交渉が決裂してこの領地を追い出されてしまえば行くところもなく、なんとか倭国に漢江周辺の地の領有を認めてもらおうと、最高の対応で礼儀正しく卑弥呼に会ったのであろう。 

 卑弥呼としては百済に漢江周辺の領有を任せる代わりに次のような条件を出したと思われる。
① 毎年貢物をよこすこと。
② 新羅に対抗し、新羅の横暴を止めること
③ 朝廷からの使者が大陸に渡る時の橋渡しをすること。
④ 朝鮮半島や大陸の情報を知りうる限り、朝廷に伝えること。
⑤ 楽浪郡の北からの侵入を阻止すること。

 百済としては倭国と戦争したり、追い出されることに比べればたやすいことであり、百済王は承諾した。卑弥呼としても、朝廷の力で朝鮮半島の倭の領域を統治するのは大変であることと、楽浪郡や高句麗が何れ朝鮮半島に進出してきて、朝鮮半島が戦乱状態になることを予想しており、百済がその防波堤になってくれることを願っていた。AD205年を境に倭国と百済との強力な同盟関係が成立した。

三国史記 修正年 百済本紀 新羅本紀
63 204 使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった 百済王が地境を拓定するために会見を乞うた
64 204 蛙山城を攻めたが勝てなかった。 百済が蛙山城・狗壌城を攻撃した。
66 205 蛙山城を攻めとったが暫らくして破れた 百済が蛙山城を攻めとったが奪回した。
70 207 新羅を攻めた 百済が攻めてきた。
74 209 新羅を攻めた 百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。
75 210 蛙山城を攻め落とした
76 210 蛙山城を奪回された 蛙山城を奪回した。
84 214 百済が辺境を侵した
85 215 新羅の辺境を侵した
 百済は倭国の了解のもと遠慮なく新羅と戦えるようになり、頻繁に新羅と戦うこととなった。

日本・百済・新羅の系図(下の数字は即位年)

◯朴氏の王
       1     2    3    5    6
       赫居世━━━南解━━━儒理━┳━婆娑━━━祇摩
       144     174    184  ┃ 212    228   
                     ┃ 7    8
                     ┗━逸聖━━━阿達羅
                       239    249     
◯昔氏の王
                  4         9          11    14
                  脱解━━━仇鄒━━━伐休━━┳━骨正━┳━助賁━┳━儒礼
                  201         264   ┃    ┃ 287  ┃ 314
                                ┃    ┃ 12  ┃        15
                                 ┃    ┗━沾解 ┗━乞淑━━━━━基臨
                                 ┃      296           321    
                                 ┃      10           16 
                                 ┗━伊買━━━奈解━━━于老━━━━━訖解
                                       270           327
◯金氏の王
                                       13           18
       金閼智━━━勢漢━━━阿道━━━首留━━━都甫━━━━仇道━┳━未鄒━━━大西知━━━━実聖
                                     ┃ 303           402   
                                     ┃      17      19         20    21
                                     ┗━末仇━━━奈勿━━━┳━訥祇━━━━━━━━慈悲━━━炤智
                                            356    ┃ 417         458    479      
                                                 ┃                22
                                                 ┗━末斯━━━━━━━━習宝━━━智証
                                                                  500     
日本
             8    9    10     11       12    13                  17
             孝元━━━開化━━━崇神━━━━垂仁━━━━━━景行━┳━成務               ┏━履中
             186    214    244     278       298  ┃ 325                ┃ 427
                                        ┃      14   15    16  ┃ 18
                                        ┗━日本武尊━仲哀━━応神━━━仁徳━╋━反正
                                               328   367    397  ┃ 433
                                                           ┃ 19
                                                           ┗━允恭
                                                             438
百済
                                         7
                              5      6  ┏━沙伴              15    ┏━阿辛        
                             ┏肖古━━━━仇首━┫ 289            ┏━枕流━━┫ 392
          1    2    3    4   ┃255     279  ┃ 11     13    14   ┃ 384   ┃ 18 
扶余王━━尉仇台━━温祚━━━多婁━━━己婁━━━蓋婁━━┫          ┗━比流━━━照古━━━貴須━┫ 16   ┗━直支  
          163    186    211    236   ┃           324    346    375  ┗━辰斯    405     
                             ┃ 8    9    10    12         385                 
                             ┗━古爾━━━責稽━━━汾西━━━契  
                               289    315    321    345      
 

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