歴史・人名

神武天皇

神武天皇

じんむてんのう

(-711.1.1~-585.3.11)

別名:狭野尊(さぬ)、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこ)、彦火火出見(ひこほほでみ)神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)、豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)、豊毛沼命(トヨケヌノミコト)、神日本磐余彦火火出見尊(カムヤマトイワレビコホホデミノミコト)

父:鵜葺草葺不合神(命)(うがやふきあえず)

母:玉依姫命(たまよりひめ)

妻:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)

子:手研耳尊、神八井命(かむやいのみこと)、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのすめら)(綏靖天皇

初代天皇

第1代神武天皇の母は玉依姫。日向国から東征して瀬戸内海を通り難波に上陸。熊野から吉野を経て大和を平定。橿原宮で即位したとされている。ちなみに神武天皇は、在位だけでも76年間で127歳で亡くなっている。と、いうからにわかには信じがたい。

略歴

BC711-庚午- 01月01日 生誕

BC697-甲申 立太子

BC667-甲寅-10月05日 諸皇子、舟軍を率いて日向の国を出発し大和国をめざし東征開始

BC667-甲寅-11月09日 筑紫の国の岡水門に到着

BC667-甲寅-12月27日 安芸国に着き埃宮(えのみや)を訪問

BC666-乙卯-03月06日 吉備国に島宮(たかしまのみや)を造り移動する。

BC663-戊午-02月11日 吉備の国を出発し再び東征を開始

BC663-戊午-03月10日 難波に到着し川を遡り河内国草香の青雲の白肩津に到着

BC663-戊午-04月09日 兵を整え徒歩で竜田に向かい長髄彦(ながすねひこ)と戦い撤退

BC663-戊午-05月08日 軍は茅渟の山城水門(やまきのみなと)に到着

BC663-戊午-06月23日 軍は名草村(なくさむら)に到着

BC663-戊午-08月02日 宇陀の地で兄猾(えうかし)の謀略を破る

BC663-戊午-09月05日 宇陀の高倉山に登る

BC663-戊午-12月04日 金色に光り輝く鵄(とび)が弓の先にとまり、長髄彦(ながすねひこ)を討つ

BC662-己未-03月07日 橿原宮造営の開始

BC661-庚申-09月24日 媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とする

BC660-辛酉-神武01年01月01日 橿原宮で即位

BC619-壬寅-神武42年01月03日 神渟名川耳尊を皇太子とする

BC585-丙子-神武76年3月11日 崩御

BC584-丁丑-9月12日 畝傍山の東北の陵に葬られる.

性別:♂

系譜:鵜葺草葺不合神と玉依姫神の第四子。初代天皇で建国の祖

神格:軍神神社:橿原神宮、宮崎神宮、狭野神社

 建国神話の中心人物としてよく知られる英雄神である。彼についての伝説は神武東征でほぼ書きつくしてしまった。九州に生まれた王権が大和(奈良県)に進出するときの軍事的シンボルであり、同時に大和王朝の建国者で第一代目の天皇と伝えられている。ちょうど神と人との中間にあたるような人物であり、そのどちらともいいきれない存在である。彼についての伝説は神武東征を参照いただきたい。
 神武天皇といえば金鵄がとまった弓を手にして彼方を見つめる勇姿を描いた絵を思い浮かべる方も多いであろう。これは神武東征神話のなかでももっとも有名な場面からイメージされたものである。天皇の軍は東征のなかでも最強かつ最後の敵、長髄彦(ナガスネヒコ)と戦い、敵の大反撃にあって苦戦していた。そのとき、天空から一羽の鵄が飛来し、天皇の弓にとまった。そしてあたかも雷光のごとく照り輝き出すと、敵軍はみんな目がくらんで戦意を喪失し、敗走してしまった。戦前、旧日本軍が兵士の武勲をたたえた「金鵄勲章」は、この話にちなんだものである。この鵄もおそらく八咫烏と同じように天神から派遣されたものだったのだろう。また、弓矢というのは古くから支配の象徴とされてきた武器である。

 とまあ、別項にもわたってずいぶんと神武東征神話を書き続けてきたわけであるが、はっきり言ってしまえば、この話は作り話である。実際に大和に朝廷があったかどうかも疑わしい。天武天皇崇神天皇など、彼のモデルとなったのではないかといわれている後代の天皇は数多くいる。だが神話以降に大和に朝廷があったという記録は天武天皇の飛鳥浄御原政権の以前にはなく、だいたいにおいて大和は陸海の交通の便が悪すぎる。もしも都をおくとしたら難波の地の方がどれほど適当であったかしれない。天武天皇においては反乱を起こして皇位についたわけであり、防御的思考からこの土地に遷都したのもいくらかはうなずけるのだが。このような、神話の裏側から史実を読みとるという研究は数多くの学者が行っており、その説も数え切れないほどある。これらは信じる信じないは別として、少しでも興味があれば楽しめると思うので、古本屋などで見つけたならば是非手に取ってみていただきたい。ここではあくまで神話として、大和朝廷建国の祖である神武天皇を追っていく。

 天照大神から続く皇祖の系譜は、神武天皇の父の鵜葺草葺不合神までが、いわば神の世界に属する存在である。それに対して、大和朝廷の初代の天皇となった神武天皇は、「神代」に生まれ「人代」の世界に足を踏み入れた存在という境目に位置するのである。それだけに伝説そのものも、史実か虚構かということで研究者を悩ませる要素も大きいというわけだ。そういう意味でも、なかなかに特異な神さまである。一説に、伝説の神武天皇像は、複数の古代有力首長の人物像伝承が重ね合わされて作られたのではないかともいわれる。その根拠とされるのが、神武が数多くの異名を持つということである。こうした例は、有力な神さまの場合もよく見られることで、無名の地方神の伝承がまとめられて多様な性格が備わったり、複数の名前で呼ばれたりしている。その代表格としてあげられるのが大国主命であろう。

 ところで、神武天皇について語るときに反省の意味も込めて触れておかなければならないのが、武神、戦神としての一側面が偏重されて日本のナショナリズムの高揚に利用された歴史である。明治以降、「神武東征」を基調に武勲、国民精神の高揚の歴史教育が行われ、神武天皇は偉大な軍神として、軍国主義の精神的な支柱とされた。それ故に、今日でも神武天皇というと、過去の戦争の悲惨なイメージと結びつく感情を抱く人も多い。わたし個人として、これは許すまじきことである。国民に神話を教えるのはけっこうだが、神話のなかでの真実の姿を歪めて教えるのは許せない。多様な性格を持つ神を、一面的に取り上げるなどもってのほかである。

 さて、それでは神武天皇というのはどういう神さまなのであろうか。軍神、英雄神といった一側面は一般によく知られているところだが、本来的にはどのような精霊なのか。結論からいえば、稲種の精霊である。

 そもそもこの神の曾祖父である邇邇芸命は、高天原から地上に降った稲穂の神(穀物の精霊)である。神武天皇の別名の「穂穂手見」は、稲穂から連想された名前で、さらには「穂穂手見」の名称は、稲の豊穣を祈る古代の農耕祭儀と関係する呪術的な意味合いを持つ。別名の若御毛沼命の「ミケヌ」は「御饌」のことで、神の食物=穀物を意味しており、この神の原初的な性格は稲作儀礼に深く関わる神霊であるということができる。

 さらに厳密に考えれば、父神の鵜葺草葺不合神の母は豊玉姫命であり、神武天皇の母は玉依姫命である。この二神の女神は姉妹で、海神の娘であるから、神武天皇には血筋として海の神としての性格も備わっているということができる。

 以上のように、神威としては一般に軍神としての側面が強調され、実際の信仰でも神話にちなんだ長寿や開運といった霊力が注目されている。しかし、その本源的な性格は、農業の神あるいは海の神として、豊穣を約束し生活を守護する機能を持つ神といえよう。 

皇居・畝傍橿原宮(うねびかしはらのみや) 奈良県橿原市

陵墓・陵名: 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)

古墳: ミサンザイ古墳

形状: 円丘

所在: 奈良県橿原市大久保町

神武天皇陵は文久3年(1863)に治定され、数回にわたって改修されている。これまでは「聖蹟図志」と「畝傍山四辺諸陵図」によると四箇所存在したことが知られている。

神武天皇陵は転々としていた。そのうち山本村神武田に存在した小古墳を取り込んで現神武天皇陵が明治31年に造作された。

文久の修復では15,000両の費用があてられ、当時の御陵修復予算の約1/3が使われている。神武天皇陵という存在がいかに必要であったか伺われる。

第1代神武天皇の母は玉依姫。日向国から東征して瀬戸内海を通り難波に上陸。熊野から吉野を経て大和を平定。橿原宮で即位したとされている。ちなみに神武天皇は、在位だけでも76年間で127歳で亡くなっている。と、いうからにわかには信じがたい。

初代天皇といわれる神武天皇について考える。

古事記日本書紀によると、神武天皇は、日向を発ち、大和にいた長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、橿原の地で即位します。これについては、全くの作り話だという人もいます。

特に、奈良県や近畿地方に住む人にとっては、納得しずらく、我慢ならない話だろうと思います。しかし、この神話を作ったのは、日向の人間ではなく、大和に住む朝廷だったのです。そのことからいわゆる神武東征は、架空の話ではなく、事実の反映ではないかと考えることが出来ます。

奈良県に住む人が自分の由緒を勝手に作るなら、大和朝廷の祖先は、高天原から奈良盆地に直接降りてくるという話を作るのが当然だと思うからです。

日本書紀の記述

日本書紀によると、神武天皇が即位するまでの経過は次のようになっている。なお、古事記日本書紀では名前も少し違うし、物語の筋も若干違うが、大筋としては、同じである。

高天原の時代

天照大神には、子供がいて、名前を忍穂耳尊(おしほみみのみこと)と言った。この忍穂耳尊の子供が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)で、この神様が高天原から日向に降り立つ。日本書紀には、降り立った場所を『日向の襲の高千穂の峰』と書かれていることから、これは宮崎県と鹿児島県の境にある霧島の『高千穂の峰』を指しているようである。

二つの高千穂

ニニキノミコトが降り立った高千穂の峰については、二つの説がある。宮崎県の北部にある高千穂町と南部の霧島にある高千穂の峰である。仮に神武天皇の祖先がやってきた方向という風に高千穂を考えるならば、どちらの可能性もある。有明海のあたりから宮崎にくるとすれば、北部の高千穂町を経由する道と南部の小林市あたりを通ってくる二つの道筋があるからである。

日向

ニニキノミコトはそこで木花開耶姫(このはなさくやひめ)と結婚し、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生む。彦火火出見尊と兄の火闌降命(ほのすそりのみこと)は仲が良くなかったようで争いを起こした。これが有名な『海幸彦・山幸彦の伝説』となっている。結局、弟の山幸彦、すなわち彦火火出見尊が勝ったわけであるが、このように日本書紀や古事記では兄ではなく、弟のほうが後を継ぐというケースが多いようである。これは、記紀が出来た頃の時代背景があるのかもしれない。

海幸彦・山幸彦伝説

山幸彦(やまさちひこ)と海幸彦(うみさちひこ)の伝説は、古事記にも日本書紀にもかなり詳しく書かれている。日本書紀によると、その概要は次のようになっている。いったい何を意味しているのだろうか。何を言おうとしているのであろうか。

兄の火闌降命(ほのすそりのみこと)は海の幸を得る力があったので海幸彦と呼ばれていた。一方、弟の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は山の幸を得る力があったので山幸彦と呼ばれていた。

兄弟は、ある日、お互いの幸を一度交換してみようということになった。しかし、どちらもうまくいかなかったので、海幸彦は、弟に弓矢を返した。山幸彦は、兄の釣り針をなくしてしまったので、新しい釣り針を作って返したのだが、海幸彦は納得せず、元の釣り針を返せといった。山幸彦は悩んで自分の刀でたくさんの釣り針を作って贈ったが海幸彦は納得しない。

山幸彦が海岸で嘆き苦しんでいると、一人の老人が通りかかった。話を聞いた老人は、私に良い考えがありますと言って、山幸彦を篭に乗せ海に沈めた。

気がつくと、山幸彦は、海神の美しい宮殿に辿り着いていた。海神は、たくさんの魚を呼び集め、釣り針のゆくえを聞き、鯛の口に刺さっていた釣り針を見つけた。山幸彦は、そこで海神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し、3年暮らした後、ふるさとに帰ることになった。帰るとき、海神は山幸彦に二つの玉を渡して言った。『この潮満玉(しおみちたま)を水につけると、潮が満ちてきて、兄を溺れさせることが出来ます。兄が悔いて救いを求めたら、この潮涸玉(しおひのたま)を水につけなさい。そうすれば潮が引いて兄を救うことが出来ます。このように兄を攻めれば、兄は降伏するでしょう』と。

帰った山幸彦が海神の言うとおりにすると、海幸彦は降伏し、『今後はおまえの家来になって仕えるからどうか許してくれ』と言った。

彦火火出見尊は兄との争いのときに助けてくれた豊玉媛(とよたまひめ)と結婚し、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が生まれる。

鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)はおばの玉依姫(たまよりひめ)と結婚し、四人の子供が生まれる。長男が彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、次男が稲飯命(いなひのみこと)、三男が三毛入野命(みけいりのみこと)、そして四男が神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)すなわち後の神武天皇である。

東征

神武天皇が45歳のとき、兄弟や子供から「東に良いところがあると聞く。恐らくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造るに限る。」と言われ、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)稲飯命(いなひのみこと)と共に兄弟3人で日向を発つ。

神武天皇は、直接、大和にいったのではなく、いろいろと寄り道をしている。それは次のようになっている。

日向→宇佐→筑紫の国の岡水門(おかのみなと)→安芸の国の埃宮(えのみや)→吉備の国の高島宮(たかしまのみや)…高島宮では三年間暮らしている。

古事記では

日本書紀によると、神武天皇の東征は上のようになるが、古事記によると、日向→宇佐→筑紫の岡田宮(1年)→安芸の国の多祁理宮(たけりのみや)(7年)→吉備の国の高島宮(8年)となっている。若干異なるがだいたい同じである。

大和での戦い

神武天皇は、最初、生駒山の方から大和に入ろうとする。そこで大和の長髄彦(ながすねひこ)の激しい抵抗に合い、進路を阻まれる。このとき、神武天皇の長兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は傷を負い、それが元で亡くなる。

神武天皇は、太陽に向かって攻撃するのが良くないとして、熊野のほうに迂回する。このとき、暴風に遭い、少しも前に進むことが出来ない。この状態を嘆き、次男の稲飯命(いなひのみこと)は海に入って亡くなってしまう。

神武天皇はやっとの思いで熊野につき、険しい山の中を八咫烏(やたがらす)に導かれ、苦労の末に長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地に宮を築き、即位するのである。

仮に神話が事実を反映していると考えると。

古事記日本書紀が事実であると考えることは出来ないのだが、仮に事実を元にして物語が作られていると仮定すれば、中国などの書物でもわからない、また考古学の発掘調査からも見えない一つの一貫した歴史を考えることができる。

これには、2つほどの前提がある。一つは、天照大神と邪馬台国の女王・卑弥呼を同一視することである。もう一つは、記紀に登場する人物を実在の人物の反映と考えることである。同意できない人も多々あるだろうが、一つの仮説としてこれを考えてみたい。

邪馬台国は日向ではない。

天照大神は、高天原にいて、その孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降りてくる。つまり、天照大神は、日向にはいないことになる。同様に邪馬台国の女王・卑弥呼も日向にはいないことになる。したがって、邪馬台国は日向ではない。

このように考えると、邪馬台国は、九州の西のほう、具体的には、筑紫平野か熊本平野ではないかと考えることができる。

瓊瓊杵尊を日向に行かせたのは天照大神 

日本書紀によると、天照大神が、瓊瓊杵尊に三種の神器を持たせ、五部(いつとものお)の神を供として葦原中国(あしはらのなかつくに)に派遣している。つまり、卑弥呼神武天皇の祖先に当たる人物を日向に行かせたのではないかと考えられる。これは、瓊瓊杵尊に相当する人物が日向に行ったのは、卑弥呼が生きていたときということになる。

三種の神器

皇室に今も伝わる三種の神器とは、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)八咫鏡(やたのかがみ)草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三つである。

なお、現在、八坂瓊曲玉は皇居にあり、八咫鏡は伊勢神宮にあり、草薙剣は熱田神宮にあるといわれる。

五部の神

瓊瓊杵尊が葦原中国に降りるときに供をした五人?の神は次のようになっている。

天児屋命(あめのこやねのみこと)…中臣氏の遠祖

太玉命(ふとたまのみこと)…忌部の遠祖

天鈿女命 (あめのうずめのみこと)…猿女の遠祖

石凝姥命(いしこりどめのみこと)…鏡つくりの遠祖

玉屋命(たまやのみこと)…玉つくりの遠祖

なお、天鈿女命 (あめのうずめのみこと)は天照大神が天岩戸に隠れたときに、外に出るきっかけを作った神様でもある。

日向の時代はどれくらいか

神武天皇は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の3代目の子孫である。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向にやってきて、すぐに彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が生まれ、それから20年経って鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が生まれ、それから20年経って神武天皇が生まれたと仮定すれば、神武天皇が20歳(日本書紀では45歳)で東征したとして60年間、皇祖は日向で過ごしていたことになる。これは考えられる最短であるから、現実問題としては、もっと長く、恐らく少なくとも80年くらいは過ごしていたのではないかと考えることができる。

そのように考えると、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のモデルになった人物は、実年代にすると、いつ頃日向にやってきたのであろうか。

纏向遺跡(まきむくいせき)

仮に神武天皇の東征があり、奈良盆地に行ったとしたら、その拠点は、奈良県桜井市付近の纏向遺跡だろうといわれている。そうすると、纏向遺跡の誕生が神武天皇の東征の時期ということになる。では纏向遺跡はいつ頃できたのであろうか。これについては、問題点の多いところである。従来、纏向遺跡は4世紀になってから出来た遺跡だといわれた。しかし、近年、遺跡が出来た年代は、どんどん遡っている。

例えば、纏向遺跡で一番古いといわれる石塚古墳(古墳ではないという説もある。)は、3世紀前半の築造といわれる。3世紀の前半というと、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使いを送った頃に相当する。仮にその頃と仮定すれば、神武天皇のひいおじいさんに当たる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向にやってきたのは2世紀の前半ということになり、全く計算が合わなくなる。日向に下るように命令したはずの卑弥呼はいない時代なのである。

纏向遺跡だけでなく、箸墓古墳の築造年代がどんどん古くなっているのにはそういう効果がある。つまり、4世紀以降ならば、神武天皇の東征は可能であるが、3世紀前半以前になると、その可能性はなくなる。以前の定説では神武東征は可能だったが、現代の定説では不可能なのである。

この隘路をどのように考えると、納得いく答えが出るだろうか。

神武東征の可能性

一つの可能性として、纏向遺跡の出来た時期が、元のように4世紀になることを祈ることである。いったん変わったものがまた変わらないという保証はない。

それでも、纏向遺跡の出来た時期が3世紀前半から動かないとすれば、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に行ったのと同じ時期に大和に行った一団があったと考える。その一団の作った大和の拠点が纏向遺跡である。そして、その一団の子孫が神武天皇と戦った長髄彦(ながすねひこ)というわけである。つまり、神武天皇は、もともと同族であった長髄彦(ながすねひこ)と戦ったということになる。明確な証拠はないのだが、記紀と考古学の接点を探すとすればこのような仮説を立てることができる。

このように考えると、纏向遺跡には、出来た頃から80年くらい経って、一つの変化があったということになる。考古学的に証明されればいいのだが、纏向地方に巨大古墳が出来たのがその頃ということはないだろうか。巨大古墳とは、崇神天皇陵、景行天皇陵そして箸墓古墳である。

箸墓古墳に大量にあると言われる吉備の土器

箸墓古墳の築造年代がさかのぼったのは、吉備系の特殊器台形と言う土器が出土したことによる。そればかりでなく、近年、箸墓古墳からは、吉備系の土器が3,000点以上も出土したと言われる。これをどのように考えたらよいのであろうか。当時の奈良県に吉備の人間が多数いたということだけは間違いがないようである。吉備の人間が奈良県を征服したのであろうか。

これも一つの仮説であるが、神武天皇が吉備から連れて来たとは考えられないだろうか。神武天皇は、古事記によると8年、日本書紀では3年吉備にとどまっている。当然、吉備は神武天皇の支配下にあったものと思われる。新しい都に造るために、大勢の人間を連れて行ったというのは十分に考えられることである。三国史記によると、倭兵が新羅を攻め、1,000人の人間を連れ去ったと言う記録がある。ある土地を征服し、そこの人間を大量に連れて行くというのは、古代ではよくあったのではないだろうか。

神武天皇架空説

神武天皇については、古事記にも日本書紀にも詳しい記述があるのだが、第2代・綏靖(すいぜい)天皇から第9代・開化天皇までの記述は非常に簡単である。そして、第10代崇神(すじん)天皇になると、とたんに詳細になる。そのことから第2代から第9代までの天皇は実在しなかったのではないかといわれることがある。

そういう説を取ると、神武天皇の実在性にも疑問が出てくる。ただ、記紀の記述から全くの作り話とも思えない。そこで、神武天皇は崇神(すじん)天皇の分身ではないかと考えることができる。あるいは第15代・応神天皇の分身ではないかと。


彦波瀲武盧茲草葺不合尊━┳━彦五瀬命(五瀬命)
            ┣━稲飯命(稲氷命、彦稲氷命)
            ┣━三毛入野命(御毛沼命)
            ┗━神武天皇(神日本磐余彦尊)━┳━神八井耳命
                            ┣━綏靖天皇
                            ┣━(神渟名川耳尊
                            ┃ 手研耳命
                            ┣━岐須美々命
                            ┣━研耳命
                            ┗━彦八井耳命