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順徳天皇が辿った生涯と人物像に迫る

順徳天皇が辿った生涯と人物像に迫る|承久の乱に敗れて佐渡に配流された後鳥羽上皇の第3皇子【日本史人物伝】
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2022/12/18
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はじめに-順徳天皇とはどんな人物だったのか

順徳天皇は、後鳥羽上皇の第3皇子であり、第84代天皇となった人物です。「承久の乱」に敗れて佐渡に流されたことから「佐渡院」とも称されます。また、和歌に秀で、歌集や歌学書などを自ら編纂しました。

目次
はじめに-順徳天皇とはどんな人物だったのか
順徳天皇が生きた時代
順徳天皇の足跡と主な出来事
まとめ

順徳天皇が生きた時代
順徳天皇は父である後鳥羽上皇の院政下に生まれ、その下で天皇として在位しました。その頃は、幕府と朝廷の円滑な関係が崩れていく時期でもあります。執権・北条氏が後鳥羽上皇による幕府への介入を警戒したことで、両者が対立していったのでした。その中で天皇となった順徳天皇の生涯は、必然的に両者の対立に巻き込まれていきます。

順徳天皇の足跡と主な出来事
順徳天皇は、建久8年(1197)に生まれ、仁治3年(1242)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

後鳥羽上皇の子として生まれる
順徳天皇は、建久8年(1197)後鳥羽天皇の第3皇子として生まれました。名は守成(もりなり)、のち佐渡院とも称しました。母は高倉範季(のりすえ)の娘・重子、のちの修明門院(しゅめいもんいん)、乳母は又従兄弟の藤原憲子でした。

院政下で若くして天皇となる
幼いころから利発であったうえに母親が後鳥羽上皇からの殊寵を得ていたため、彼は正治元年(1199)12月には親王となり、翌2年4月には、4歳にして皇太弟に立てられました。その後、承元4年(1210)11月25日、後鳥羽上皇の命によって土御門天皇から位を譲られ、わずか14歳で第84代天皇となったのでした。

翌年には、九条良経(よしつね)の娘・藤原立子(りっし)が中宮に立てられました(のちの東一条院)。中宮との間には懐成(かねなり、のちの仲恭天皇)と諦子(ていし)が産まれています。またこの他、内大臣・藤原信清の娘・位子(いし)との間には穠子(じょうし)、従三位・藤原清季の娘との間には忠成(ただなり)ら、三人の皇子女が生まれました。

順徳天皇の在位は10年に及びましたが、後鳥羽上皇の院政下であったため、みるべき治績をあげることはできませんでした。

学問を好む、優れた歌人
政務にあずからない順徳天皇は、有職故実(朝廷や公家の礼式・官職・法令・年中行事・軍陣などの先例・典故)の研究や、歌論・詩歌・管絃の奥儀の修得に傾倒したとされます。承久3年(1221)頃までには、宮中の行事・故実・制度などを漢文で解説した『禁秘抄(きんぴしょう)』を著しました。これには、鎌倉幕府に対抗して皇威を盛んにするためにも、宮廷の行事・儀式・政務などの実際を明確にするという目的があったとされます。

和歌への精進は、父の強い影響に発したとされ、早くから藤原定家や藤原家隆らとともに歌合に参加し、歌才を磨きました。その歌風には平淡かつ典雅な趣があったとされ、歌集『順徳院御集』・『順徳院御百首』・『内裏名所百首』が今に伝えられています。また、歌論の方では、藤原俊成・定家・鴨長明らの後を承け、当代の歌論を大成した『八雲御抄(やくもみしょう)』を著しました。

「承久の乱」により佐渡へ配流
頼経の外祖父・高倉範季は判官(源義経)贔屓で知られている人物であり、外祖母兼側近の平教子(のりこ)は清盛の異母弟・平教盛(のりもり)の娘でした。すなわち順徳天皇は、幼時より反幕府的な環境の中にあったといえます。こうした環境や自身の性格から天皇は、父・後鳥羽上皇の倒幕計画には熱心に参与しました。承久3年(1221)4月には子・懐成に位を譲り、自らは上皇の立場に退いて倒幕に備えています。

そして後鳥羽上皇は、執権・北条義時追討の宣旨を発して挙兵。しかし、上皇方の予想を完全に裏切って、東国武士で追討令に応じる者はなく、逆に北条泰時らに率いられた幕府軍が大挙京都に攻め上ってきたのでした。その結果、追討令発布からわずか1か月後には、京都は幕府軍に占領されてしまいました。

こうして倒幕は失敗に終わり、父・後鳥羽上皇は隠岐の島へ配流されました。そして、順徳天皇もまた、佐渡へと配流の身になります。その後、在島21年で仁治3年(1241)9月12日、享年46歳をもって崩じたのでした。佐渡配流後、「佐渡院」と呼ばれましたが、建長元年(1249)7月には「順徳院」と追号されました。

『小倉百人一首』の100人目となる
『新勅撰和歌集』を編纂し、天皇とも交流があった藤原定家でしたが、幕府を憚り、順徳天皇の歌を一首も採択しませんでした。しかし『小倉百人一首』には「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」という彼の歌が100番目として選ばれています。

この歌は鎌倉幕府との対立が深まった頃に詠まれたものであり、順徳天皇が20歳の頃だったと言われています。世の移り変わりの栄衰への気持ちが見事に詠まれ、憂悶する天皇の心境が広く後世に伝えられました。

「都忘れ」の伝説
「都忘れ」という花の名前は、順徳天皇に由来すると考えられています。「都忘れ」とは、キク科の多年草である深山嫁菜(ミヤマヨメナ)の別名です。4~6月頃に、中央が黄色で周囲が濃紫・紅・白色などの頭状花をつけます。

佐渡へと配流された順徳天皇は、御所周辺に植えていたこの花を見て、「いかにして 契りおきけむ 白菊を 都忘れと 名づくるも憂し」という歌を詠みました。都への思いを忘れよう、と詠んだ天皇の歌から、この花は別名「都忘れ」と呼ばれるようになったと考えられています。

まとめ
後鳥羽上皇の院政下で天皇となり、「承久の乱」の大敗により佐渡へと配流された順徳天皇。朝廷の頂点として長きにわたって院政を行った上皇の子として生まれ、幕府との対立の末に、都から遠く離れた島で生涯を終えます。その悲哀は彼が詠んだ和歌に込められ、後世に伝えられているのでした。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)