歴史・人名

高い技術水準、世界トップの鉄砲保有国

スペインに日本征服を断念させた武力と知性(下)高い技術水準、世界トップの鉄砲保有国 イエズス会は高価な硝石交易で大名に接近1/3ページ
2023.4/6 06:30
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JR岐阜駅前にある織田信長像
JR岐阜駅前にある織田信長像
戦国日本の武力は、欧州諸国と比べて、どうだったのか。

『鉄砲を捨てた日本人』(中公文庫)という著書がある米ダートマス大学のノエル・ペリン教授によると、1589年に英国がフランスに軍を派遣するに際して、英国全土から集めた銃の数は1100挺足らずであった。

だが、その14年前の1575年の長篠の戦いで、すでに織田・徳川は3000挺、武田は500挺の鉄砲を動員していた。鉄砲伝来(1543年)からわずかの期間で、わが国で鉄砲は大量生産され、性能も改善され、全国的に普及し、当時の「世界トップの鉄砲保有国」になっていたのである。

戦国日本に鉄砲がどれだけあったかについては「30万丁」との説もあるが、江戸太平の幕府軍役義務でも1万石に25丁の鉄砲で、全国総石高2000万石とすると、諸藩等合計で5万丁となる。欧米が正面から武力侵攻できる状態ではなかった。

これらの鉄砲は、戦国日本の技術力により支えられていた。

ペリン教授によれば、「日本の技術水準がその当時すでに高かった。日本の銅はヨーロッパの銅よりも良質とみられ、価格も安かった」「例えば、オランダ人は、日本銅をアムステルダムまで運んでなお利益を上げた」「英国は、ヨーロッパ随一の鉄製造国で、スペインは、…敵国英国から、鉄製大砲を苦労して輸入した。しかし、英国の東インド会社が1613年に日本に商館を開設し、鉄インゴット販売しようとしたが、日本では買い手が全く見つからなかった」「日本鉄に比べて品質が劣るとみなされた」という。

近江・国友で生産された鉄砲(火縄銃)
近江・国友で生産された鉄砲(火縄銃)
鍛鉄で作られた日本の鉄砲は、多量の火薬にも耐えた。

一方、火薬の原料である硝石の日本生産量は限られ、大量消費の戦国期は輸入に頼っていた。イエズス会は高価な硝石交易により大名などに接近する。

豊臣秀吉による九州征伐の行軍記録『九州御動座記』に、「宣教師から硝石樽を入手せんため、大名、小名はいうにおよばず、…己のしもべや…を南蛮船で(奴隷として)運ぶ」(徳富蘇峰『近世日本国民史』)とある。

東大史料編纂所『大航海時代の日本人奴隷』によれば、ポルトガルでは、人身売買には聖職者の署名付き証書が必要であったが、イエズス会は、この証書を発行している。

ポルトガル出身の宣教師、ガスパール・コエリョの1587年のローマ総長宛て書簡で、「パードレたちが、…奴隷証書を発行することから、商人たちは大きな不正を日本人奴隷売人とともに行っている」とある。高価な硝石と引き換えに奴隷が売られた。

コエリョは秀吉に明出兵計画を提案する。「今に見ておれ、太閤を海外遠征に引き込んで、さんざんな目に遭わせてやる」というコエリョの策謀を見抜き、秀吉がコエリョに叩き付けた五箇条の中に、「なにゆえにお前たちはお前の国民が日本人を購入し、奴隷としてインドに輸出するのを容認するのか」とある。

織田信長や秀吉らと会見し、戦国研究の貴重な資料となる『日本史』を記したイエズス会宣教師、ルイス・フロイスによると、『伴天連追放令』に際し、秀吉は「伴天連らは、…大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。…このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ」と述べている。

■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長などを経て、京都大学大学院経済学研究科特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。