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【世界史】第13回 古代ローマ史③ 〜「内乱の1世紀」と三頭政治

【世界史】第13回 古代ローマ史③ 〜「内乱の1世紀」と三頭政治

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1.「内乱の1世紀」
  前回の講義で、度重なる戦争の中で農民が没落し、無産市民へとなっていったことを話しました。彼らは首都ローマへと流れていくわけですが、なぜわざわざローマへ行ったのでしょうね。都市にいけば仕事があるから?確かにそれもあるのですが、無産市民たちを政治家たちが保護してくれたんですよ。彼らは無産市民とはいえローマ市民権をもっています。ということは、民会の投票権を持っていますから、彼らに恩を売ることで自分に投票してくれるようにとりこもうとしていたわけです。このように国家や有力者たちから都市の市民たちが受けた数々の恩恵を「パンとサーカス」と呼んだりします。有力者は金品を渡したり、ショーを催したりして、市民の支持を得る…このあたりの手段は昔も今も変わりませんね。有力者の人たちは自分のためとはいえ大変です。

 さて、農民たちが無産市民になるということは別の意味で重大な危機をローマにもたらします。それは土地を失った農民たちが重装歩兵として戦争に参加できないということです。ローマの軍事力低下が大きな問題となりました。どうにかせねばなりません。そこでこの危機を回避しようとしたのがグラックス兄弟でした。かの大スキピオの孫にあたります。グラックス兄弟は様々な改革に乗り出しますが、中でも注目は農民たちに土地を分配した政策です。土地を分け与えることで重装歩兵として戦争で戦ってくれる兵士を増やそうとしたのです。しかし、これは土地の管理をするノビレス(新貴族)たちから反感を買うことになります。この兄弟は残念ながら暗殺されて、改革は道半ばに終わりました。このあたりからローマでは、野心的な政治家の権力争いが激しくなり、社会の混乱が目立つようになっていきます。ここから100年を「内乱の1世紀」といいます。

 ローマの軍事力低下が深刻となったところ、それをうまく解決しようとしたのがマリウスです。マリウスは平民派のリーダーで、軍制改革(無産市民となった人々を兵士として雇う)を行って対外戦争で勝利し、市民の支持を得ました。独裁者の出現を嫌ったのがローマという国家でしたが、いまや突出した力をもつ軍人政治家に力を与えなくては解決できないような事態となっていたのです。マリウスはライバルである閥族派のスラと権力を争って血みどろの抗争を度々繰り返しました。

 その頃、ローマの侵略戦争に協力していたイタリアの同盟市も不穏な動きを見せるようになります。同盟市はローマ市民権を持っていないのが不満でした。戦争に参加して頑張っても勝利の時の戦利品の分配がなかったり等の区別があったのです。ローマの平民派は彼らに市民権を与えるように求めましたが、元老院内の閥族派の反対によって実現しないままでした。そして、とうとう堪忍袋の緒が切れた同盟市は紀元前91年に一斉に反乱を起こしました。これを同盟市戦争といいます。結局、ローマはイタリア半島内の全都市の自由民に市民権を与えるという譲歩をして乗り切りました。さらに、前73年には剣奴のスパルタクスがリーダーとなって大規模な反乱が起きました(スパルタクスの反乱 〜前71年)。この反乱の鎮圧において活躍した将軍ポンペイウスと大富豪のクラッススが力を持つようになります。

2.三頭政治
 このポンペイウスとクラッススに加えて、ローマで台頭してきた有力者がカエサルでした。3人は密約を結び、元老院勢力を抑えて国政を動かすようになりました。これを第1回三頭政治といいます(前60〜53)。でも、どうでしょう。権力者3人が仲良く話し合って協力していく政治…。うまくいくようには到底想像できないですね(苦笑)。実際、クラッススがパルティアとの戦争で戦死すると、ポンペイウスとカエサルは激しく対立するようになり、あっというまに三頭政治は瓦解してしまいます(三頭政治に反対する元老院が裏で糸をひいていたようですが)。ガリア征服で大いなる成果をあげて、経済力と名誉を手にしたカエサルは打倒ポンペイウスに力を注ぎ、ポンペイウスは結局暗殺されてしまいました。カエサルは各地の元老院派も弾圧し、やがて独裁者として地位を確立することとなります。

 このカエサルはローマ史上いや世界史上でも最も有名な人物の一人です。ドイツ語のカイザー、イタリア語のチェーザレ、ロシア語のツァーリ。これらは全て「皇帝」を指す言葉ですが、由来は全て「カエサル」です。カエサルは皇帝にはなってないんですけれどね。カエサルの事績は政治だけに限らず、後世に大きな影響を残しています。例えば、ポンペイウスと戦うかどうかを決断した際に言われたとされる「賽は投げられた!」はあまりにも有名な言葉ですし、彼の書いた『ガリア戦記』は当時の第一級の資料として、また名文としても価値のある書物です。カエサルがエジプト遠征した際にはエジプトの太陽暦を持ち帰り、ユリウス暦としてローマに定着させました。政治家としても、急速に独裁体制を築き上げ、貧民救済政策や属州の統治改革をどんどんと行うなど力のあるところを見せつけていきます。しかし、ディクタトル(独裁官)やインペラトル(軍最高司令官)の地位を独占し、独裁政治に反対する共和派の人間からは嫌われていくようになります。

 で、カエサルがどうなったかというと、最終的には暗殺されてしまうんですね。独裁を嫌う元老院の差し金です。やはりカエサルですら、ローマでは「王」にはなれないのです。カエサルの暗殺後、ローマは再び混乱しましたが、前43年に第2回三頭政治が始まります。その才能を見込まれてカエサルの養子になったオクタウィアヌスと、カエサルの部下だったアントニウス、軍人レピドゥスによって行われたのです。しかし、やはりというべきかそううまくはいきません。レピドゥスが失脚すると、アントニウスとオクタウィアヌスの対立が激しくなっていきます。アントニウスはエジプトへと赴き、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと手を結びます。余談ですが、クレオパトラはカエサルとも懇意にしていて、二人の間にはカエサリオンという子どもも生まれています。今度はクレオパトラとアントニウスが結託したわけですが、オクタウィアヌスはイタリアや周りの属州からの協力及び忠誠をとりつけて、アントニウスとの決戦に挑みました。紀元前31年、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスは勝利し、翌年にアントニウスらは自殺し、エジプトをローマ領として併合しました。

 こうしてローマはようやく長かった内乱の時代が終わり、安定の時代へと入ります。皮肉にも「王」を今まで必要としなかったローマが、「王」の誕生によって繁栄の時代を迎えることになるのです。その話はまた次回。