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ベオグラードを走る日本製バスが伝えること 知られざる中欧の親日国「セルビア」

ベオグラードを走る日本製バスが伝えること 知られざる中欧の親日国「セルビア」

森川 孝郎
2018/05/27 15:00
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日本が贈った黄色いバスにはセルビア(2003年バス運用開始時のセルビアモンテネグロ時代の国旗)、日本両国の国旗がペイントされている。 2016年3月撮影(写真:SerbianWalker.com)
c 東洋経済オンライン 日本が贈った黄色いバスにはセルビア(2003年バス運用開始時のセルビアモンテネグロ時代の国旗)、日本両国の国旗がペイントされている。 2016年3月撮影(写真:SerbianWalker.com)
 中欧のバルカン半島に旧ユーゴスラビアを構成した共和国の1つであるセルビア共和国という国がある。国自体は日本人にはあまりなじみがないかもしれないが、テニスのノバク・ジョコビッチ選手やモニカ・セレシュ選手、それに日本でもプレーしたサッカーのドラガン・ストイコビッチ選手の出身国だ。その首都ベオグラードを93台もの日本製の黄色いバスが走っており、現地では親しみを込めて、セルビア語で日本人を意味する「ヤパナッツ」と呼ばれている。

 「なぜ、セルビアの首都をたくさんの日本製のバスが走っているのか」という疑問も含め、日本ではあまり知られていないセルビア・日本両国間の経済的・文化的交流や、今年1月の安倍首相のセルビア訪問などについて、セルビア共和国特命全権大使 ネナド・グリシッチ閣下へのインタビューを交えながら、紹介したい。

日本との交流のはじまり
 まずは、セルビア歴史について、日本との交流を含め概説する。現在のセルビアの国土は、古くはビザンツ帝国(東ローマ帝国)の支配を受け、中世のセルビア王国が成立したのは12世紀後半~13世紀前半のことだ。この王国は14世紀のドゥシャン王の時代に最盛期を迎える。

 この中世王国の時代の中心地が、コソボ(2008年にセルビアから独立宣言。セルビアは独立を認めない立場を堅持)地域であり、「日本人にとって奈良・京都が心の故郷であるように、セルビア人にとってコソボは心の故郷。セルビアはここから始まった」(グリシッチ大使)という。

 15世紀以降はおよそ400年にわたり、バルカンに進出したオスマン帝国による支配を受ける。一方、ベオグラード市の北辺を流れるドナウ川の北側、現在のセルビア共和国ヴォイヴォディナ自治州のエリアは、近世においてはオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク家)の領土であった。

 こうした周辺諸勢力からのさまざまな脅威にさらされる中で、「宗教は東方正教会系のセルビア正教会、言語はセルビア語というように独自のアイデンティティを築いた。一方で周辺から受けた影響も大きく、サルマというロールキャベツや、トルココーヒーなどはトルコからもたらされた食文化だ」(グリシッチ大使)という。

 セルビアがオスマンの支配から独立し、近代王国が成立したのは1882年、日本の明治維新より15年ほど後のことだ。その際、「新国王であるミラン・オブレノヴィッチ1世から、フランス語による親書がパリの日本公使館を通じて明治天皇に届けられ、明治天皇からの返書が国王へ送られた」(グリシッチ大使)のが、日本との交流の始まりとなる。

 20世紀になると、2度のバルカン戦争を経て第1次世界大戦が始まる。「オーストリアによるボスニア併合に反対するボスニア出身のセルビア系青年が、オーストリアの皇位継承者夫妻を暗殺」したという第1次大戦勃発の契機となったサラエヴォ事件に関する歴史教科書の記述を記憶している人は多いだろう。

「ヤパナッツ」が活躍する理由
 第1次大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、スロべニア人、クロアチア人、セルビア人の統一国家が形成され、やがて、南スラヴ人の国家を意味するユーゴスラビア王国となる。

 第2次世界大戦時にはナチス・ドイツの侵略を受け、戦後はパルチザン運動の指導者から大統領に就任したチトー大統領の下、スロべニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアとともにユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成共和国となる。

 本稿では詳細に触れることはできないが、この社会主義ユーゴスラビア崩壊にともない、各構成共和国が独立する過程で起きた1990年代のいわゆる「旧ユーゴ紛争」においてさまざまな惨劇が起きた。

 西側の報道や映画『ハンティング・パーティ』(2007年アメリカ)など、セルビアは悪玉として描かれることが多い。しかし、現地を詳細に取材したジャーナリストのレポート『終わらぬ「民族浄化」セルビアモンテネグロ』(2005年 木村元彦著)などを読めば、紛争はどちらかを善玉・悪玉と割り切れるような単純なものでないことが理解できる。紛争をめぐってセルビアが強く糾弾される一方、セルビア人と対立するアルバニア人によるセルビア人拉致問題などに対する西欧諸国の対応の甘さなど、ダブルスタンダードなのではないかとの疑念を感じる事例が多々ある。

 ベオグラードが大きな被害を受けたのが、いわゆる「コソボ紛争」時の1999年3月から3カ月にわたり実行されたNATO(北大西洋条約機構)軍による空爆だ。

 冒頭に登場した「ヤパナッツ」と呼ばれる93台の黄色いバスは、こうした一連の紛争と国際社会による経済制裁で疲弊したセルビアに対し、2003年に日本政府が無償資金協力によってベオグラード市に寄贈したものだ。2000年のミロシェヴィッチ大統領退任による実質的な民主化の後、国際社会がセルビア支援を開始しはじめていた。

 当時、老朽化したバスが走っていた中で、「日本から93台の新車のバスが来たのは衝撃的だった。実はこのとき、日本政府からバスをきれいに使うようにという条件が付けられていた。われわれはこれを、日本人がこのプロジェクトに真剣に取り組んでくれていることを表すメッセージと認識した。日本は教育のレベル高く、道にゴミを捨てない、物をきれいに使うという意識が全国民に浸透している。93台のバスは、こうした日本人のような考え方を持たなければならないと、セルビア人が考えるきっかけになった」(グリシッチ大使)という。

今もすべてのバスが現役で活躍
 ちなみにバスは、今もすべてが現役で活躍しているといい、ベオグラード市民がいかに大切に使っているかがわかる。むしろ最近は日本のほうが、使い捨て文化が浸透しているようで、なんとも気まずい思いを感じるのは筆者だけではないだろう。

 セルビア・日本両国間の支援関係はこれにとどまらない。2011年の東日本大震災発生時には、セルビア政府がいち早く約5000万円の対日支援を行ったほか、平均月収4万円という決して豊かではない同国の経済事情にもかかわらず、セルビア国民から赤十字などを通じて約1億9000万円という多額の義援金が寄せられた。このときはベオグラードのみならず、地方都市でもチャリティ活動が行われたという。

 このような活発な支援は、ヤパナッツをはじめとする紛争後の日本による多額の支援に対する感謝の念が示されたものといえよう。加えて、もともとセルビアが親日国であり、武道への関心が高く、黒澤明作品をはじめとする日本映画や、川端康成、三島由紀夫、谷崎潤一郎、最近では村上春樹らの著書がセルビア語に翻訳され、若者を中心に日本のマンガ、アニメが人気であることも大きい。

 その後、2014年5月に発生したセルビアの大洪水に際しては、逆に日本政府からの緊急支援に加え、在日セルビア大使館に連日多額の義援金が寄せられた。

安倍首相訪問の影響は?
 1991年のスロべニア、クロアチア、マケドニアの相次ぐ独立後、翌1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナがこの動きに続く。残ったセルビアモンテネグロは、新たにユーゴスラビア連邦共和国を創設し、2003年にセルビアモンテネグロという国家連合に移行した。その後の2006年のモンテネグロ独立により、およそ100年の時を経て、再び「セルビア」という名を冠するセルビア共和国となった。

 ところで、1987年に当時の中曽根首相がユーゴスラビアを訪問したことはあったが、セルビア共和国となってからは、今年1月の安倍首相のベオグラード訪問が日本の首相としては初の訪問となった。その際、セルビアに戻り対応したというグリシッチ大使は、「今回の訪問はセルビアにとって歴史的訪問だと認識しており、今後の両国の文化的・経済的関係を発展させていくうえでのターニングポイントとなる」とする。

 というのは、これまでセルビアへの日系企業による直接投資はJTI(日本タバコ・インターナショナル)、パナソニック電工などの企業が進出しているものの、ほかの中欧・東欧諸国と比べて活発とはいえない状況だった。しかし、「ここ4~5年は経済交流が活発となり、2014年には経団連の代表団のセルビア訪問もあった。また、自動車部品メーカーの矢崎総業が、昨年9月に現地法人の開所式を行い、これにはヴチッチ大統領も臨席した」(グリシッチ大使)。今後、同社では2019年末までに1700人の雇用が創出される予定(矢崎総業)という。

 今回の安倍首相訪問では、ヴチッチ大統領との首脳会談に続き、随行した日本企業関係者も同席する拡大首脳会合と夕食会も開催された。グリシッチ大使は、「これを機に日本企業のセルビアへの投資が活性化することを期待する」といい、自動車メーカーや自動車部品メーカーをはじめとする日本企業に対し、

 「旧ユーゴ時代、セルビアではザスタヴァというメーカーがイタリアのフィアットの車を製造していた。1990年代に関係が途絶えたが、2012年にフィアットがセルビア中部のクラグイェヴァツに新工場を開所し、500Lという車種を製造している。このセルビア産のフィアットはローマ法王が2015年の訪米中に使用した。さらに、セルビアにはタイヤメーカーのミシュランが進出しており、隣国のハンガリーには日本のスズキの工場がある」

 と、セルビアを含む中欧地域の工業製品を製造するうえでの潜在力の高さをアピールする。

 ちなみに、直近でセルビアへの進出を予定している企業としては、冷凍・冷蔵技術の前川製作所が、すでに用地買収を完了しているという。

 さて、最後に紹介したいのが、セルビアの観光資源だ。セルビア統計局の2016年データ(最新)によれば、同年に日本を訪れたセルビア人の数は2486人、一方、セルビアを訪れた日本人は5245人だ。訪問目的別に集計していないため、このうち観光客がどれくらいを占めるのかわからないが、いずれにせよ活発とは言いがたい。これには、成田からベオグラードへの直行便が就航していないという事情もあろう。

 セルビアの観光資源について、グリシッチ大使は「セルビアは小さな国だが、北部には平地が広がり、南部は山がちであり、とても起伏に富んだ自然がある。また、中世のセルビア正教会の建造物は歴史的にも貴重な建物であり、日本人の皆さんにも興味を持ってもらえるのではないか。さらに、セルビアには日本人も大好きな数多くの温泉がある。ミネラルが豊かな温泉は療養目的で使用されており、日本とは異なり水着を着用して利用する」という。

 筆者がセルビアの観光資源の中で注目しているのは、南西部の山あいを走る「シャルガンスカ・オスミツァ」という小さな蒸気機関車やディーゼル機関車が牽引する観光鉄道だ。セルビア語で数字の8を「オーサム」というが、上空から見ると、線路が8の字状にループを描きながらシャルガン山を走るのが名前の由来になっている。かつては、セルビアからボスニアを経由し、クロアチアまで伸びていた鉄道が廃止され、その一部を観光鉄道として復活させた。

 グリシッチ大使は「まず列車そのものが小さくてかわいらしいのと、典型的なセルビアの山の風景に出合えることから多くの観光客を引きつけている。以前は、ベオグラードからのアクセスはあまりよくなかったが、最近、部分的に高速道路が開通し改善された。ツアーもあるので参加してみてはどうか」と勧めてくれた。

大きくなりつつある中国の存在感
 以上のように親日国であり、少しずつわが国との経済的交流も進むセルビアだが、最近、セルビア経済に大きな存在感を示しつつあるのが中国だ。ベオグラードとハンガリーの首都ブダペストを結ぶ高速鉄道を習近平国家主席が提唱する「一帯一路」構想の一環として計画しているのをはじめ、2014年に完成したドナウ川に架かる「ミハイロ・プピン橋」は、中国により建設されたものだ。

 グリシッチ大使は「中国とセルビアは永い友好関係にあり、(経済的な)存在感を高めてきていることは確かだ。しかし、セルビアは開かれた市場であり、どこの国が来てもウェルカムな状況だ」という。

 セルビアのみならず、中・東欧にはハンガリーをはじめ親日国が多いが、手をこまねいていれば、相対的に影響力の地盤沈下が起きるのではないかという懸念は杞憂ではないように感じる。

 なお、セルビアは2025年までのEU(欧州連合)加盟を目指している。これにより、今後大きく市場の状況が変化する可能性もある。