歴史・人名

ワーバートン

人物の索引

★イギリス ピーター・ワーバートン大佐
1873
グレート・サンディ砂漠を横断して西海岸へ到達 大航海物語★
AUSTRALIA
ラクダに乗るワーバートン大佐

アリス・スプリングスから探検に出発
オーストラリア 1976/6/9 発行
AUSTRALIA
グレートサンディー砂漠

オーストラリア 2000/6/20 発行 GRENADA
18~19世紀の英国帆船

グレナダ 1998/4/26 発行
オーストラリアの地図
ノーザンテリトリー(北部準州) オーストラリアの地図

アイルランド 1988/3/1 発行 (200%)

ウェストオーストラリア→
サウスオーストラリア

←クィーンズランド

←ニューサウスウェールス
←ヴィクトリア
←タスマニア
オーストラリア100年記念
オランダ 1988/8/30 発行
イングランド生まれのワーバートン大佐は28才でインド歩兵大隊に入隊してインドに派遣され、12年間ボンベイに駐屯し、少佐で退役してイギリスに帰国しました。1853年にオーストラリに渡り、南オーストラリア植民地政府の要請で、南オーストラリアを5回に渡って探検し、1873年には60才でアリス・スプリングスから出発して、強い陽射し、渇き、飢餓、疲労で片目を失いながらも、グレートサンディー砂漠の初横断を達成し数々の栄誉を受け、76才でオーストラリアで亡くなりました。
ピーター・エジャートン・ワーバートン大佐 (1813/8/16~1889/11/5)
 Colonel Peter Egerton Warburton CMG
ピーター・ワーバートン大佐はイギリス・チェシャー州ノースウィッチのオーレイホール(Arley Hall, Northwich, Cheshire, England)でローランド(Rowland Egerton Warburton)とエマ(Emma)夫妻の4番目の息子で生れ、12才で海軍に入隊して2等戦列艦ウィンザー・キャッスル号(HMS Windsor Castle was a 98-gun second rate ship of the line 1901t)に士官候補生(midshipman)として乗り組みました。1829年にロンドン近郷のサリー州アディスコーム(Addiscombe, Surrey)にある王立インド軍大学校(Royal Indian Military College)に入学し、1831年に28才で卒業して、第13インド現地軍歩兵大隊(13th Native Infantry Battalion)に入隊してインドに渡り、インドのボンベイ(Bombay army)で駐屯し、1838/10/8にイギリス・サマーセット州バス(Bath, Somerset)のアリシア(Alicia Mant)と結婚しました。1853年に40才で少佐(major)で退役してイギリスに戻りました。

1853年に西オーストラリ在住の兄弟のジョージ(George)を訊ねて、オルバニー(Albany)に渡りました。南オーストラリアに行き、1853/12/8に南オーストラリア警察のコミッショナー(Commissioner of Police)アレクサンダー・トルモア(Alexander Tolmer 1815-1890)の知己を得て、1853/12/8に南オーストラリア騎馬警察官になりました。1867年にトラブルに巻き込まれて、辞任を要求されましたが、拒絶したので解雇されました。1869/3/24に南オーストラリア志願兵軍団(Volunteer Military Force of South Australia)で安サラリーの大佐(colonel)になりました。

▼初期の探検:~
1857年、エーア半島のガウラー山脈(Gawler Ranges 465m)、
      ガードナー塩湖(Lake Gairdner)を探検
1858年、エーア湖(Lake Eyre)とトレンス湖(Lake Torrens)南部を経て、山脈に到達し、
      デヴォンポート卿(Sir Samuel Davenport、1818-1906)に因んで
      デヴォンポート山脈(Davenport Ranges)と命名、
      そこで放牧の好適地と水脈を発見して政府から£100のボーナスを獲得
1860年、エーア半島西のストリーキー湾(Streaky Bay)を3人の騎馬警官と踏破し、
      放牧には適さない土地と報告
1864年、マーガレット山(Mount Margaret)の北西部を探検
1866年、エーア湖(Lake Eyre)北岸の探検、
      バーク隊が全滅したクーパークリーク(Cooper Creek)を探索し、
      大きい川を発見してワーバートン川(Warburton River, SA, 412km)と命名後、
      クィーンズランド境界付近まで探検

▼グレート・サンディ砂漠の横断探検:~
1872/09/21、アデレード(Adelaide, SA)を8人とラクダ17頭に
         6ヵ月分装備品で、
         パース(Perth)への新ルート発見探検のため
        アリス・スプリングスへと出発、
         ・息子のリチャ-ド(Richard)、
         ・経験者の現地人レウィス(J. W. Lewis)、
         ・アフガン人(Afghan)駱駝使いのサラー(Sahleh)、
         ・アフガン人駱駝使いのハリーム(Halleem)、
         ・コックのデニス(Dennis)、 グレートサンディー砂漠
         ・ラクダ助手のホワイト(White)、
         ・アボリジニのチャーリー(Charley)の7人
1872/12/21、アリス・スプリングス着
1873/04/15、アリス・スプリングスをパースへと出発
1873/06/05、西オーストラリア境界を横切る
1873/10/09、飢餓状態で小さい井戸(waterhole)着
1873/12/05、オアコヴァー川(Oakover River)の支流に到着、ラクダを食べる
強い陽射しと少ない飲料水に長期間耐えて、食料が亡くなると次々とラクダを殺してはその肉を食料として、グレートサンディー砂漠を横断して、ついにはワーバートン大佐をラクダに縛り付けて、西オーストラリア・ピルバラ地域(Pilbara)でパース北方約1290km(800miles)のオアコヴァー川(Oakover River)に残りのラクダ2頭で到着した後、ラクダは死にました。デ・グレイ基地(De Grey station)に危険な状態で着き、全員が壊血病(scurvy)となり、ワーバートン大佐は片目の視力を失いました。
1874/1/26、ピルバラ地域北部海岸地域でパース北1,560kmの
        ロウバーン(Roebourne)に到達、
        グレートサンディー砂漠の初横断を達成。
船でアデレードに帰る前に、ワーバートン大佐に£1000、隊員には£500が南オーストラリア議会(South Australian parliament)から探検の成果としてボーナスが支給されました。

1874年にイギリスに帰国しましたが、6週間後にオーストラリアに戻りました。「西オーストラリア横断探検記」(Journey across the Western Interior of Australia)を執筆し、1875年にロンドンで出版されました。同年「聖マイケル・聖ジョージ勲章」(Order of St Michael and St George=コンパニオン勲章(Companion:CMG)を授けられ受勲し、イギリス地理学会(Royal Geographical Society's medal)から金賞を受賞。76才で亡くなり、アデレード近くのバーモント(Beaumont, SA)に葬られました。

参考HP:~
 ・イギリスの地域(州)区分地図(詳細)
 ・イングランドの州区分地図
 ・イングランドの区分地図(詳細)
 ・サリー州の場所地図
 ・オルバニーの場所地図(道路地図)
 ・アデレードの場所地図
 ・ストリーキー湾の場所地図
 ・エーア湖湿地帯の地図(マレーダーリング水系の地図)
   (Warburton River:412km、Cooper Creek有)
 ・グレートサンディー砂漠の場所地図