歴史・人名

人名す

水原親憲(すいばら ちかのり)
1546~1616 
○大関氏 杉原氏 弥七 常陸介
◇父:大関阿波守親信(盛憲?) 子:水原助市
 越後・長尾(上杉)氏臣。1561年川中島の合戦で功を挙げて水原壱岐守満家の名跡を継いだ。水原氏は伊豆・大見氏の流れ。1598年上杉氏の会津入国に際し、猪苗代城代となる。徳川家康の会津討伐にも参陣。家康本隊が挙兵した石田三成ら西軍を討つため急遽西上した際、他の者がそれを上杉の威を畏れたものとして喜ぶ中、三成の負けと上杉の孤立を予測、実際その通りとなる。1615年大坂冬の陣で戦功を挙げ、徳川秀忠から感状を受けているが、「子供の石合戦のごとき戦で感状をもらうとは」と言って笑ったという。
陶隆康(すえ たかやす)
????~1551 
◇父:陶(朝倉)安房守弘詮 子:陶隆弘、宇野元弘
 周防・大内氏臣。陶興房の従兄弟。当主義隆の近習から侍大将となる。一族陶隆房が義隆に謀反を起こした時は、義隆を守って逃れる。しかし追撃を受けて、義隆を守って討死した。
陶長房(すえ ながふさ)
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○五郎
◇父:陶晴賢 子:陶鶴寿丸
 周防・大内氏臣。父晴賢が大内氏に謀反して実権を握り、長房もこれに従う。その後、安芸・毛利氏との戦いで父が敗死し、ほどなく長房も、侵攻してきた毛利氏との戦いで死んだとみられる。
陶晴賢(すえ はるかた)
1521~1555 
○五郎 隆房 尾張守 中務大輔
◇父:陶興房 兄:陶興昌(義清) 室:内藤隆時女 子:陶長房、貞明
 周防・大内氏重臣として周防守護代を務める。大内氏右田流陶興房2男だが、兄は不都合有って父に殺されていた為、後を継ぐ。周防・富田若山城主。度々各地に出陣活躍し大内氏を支えた。又、美男であり、一時期当主義隆と衆道の関係にあった。しかし、義隆が側近の右筆相良武任を重用し、政治が乱れた為諫言するが受け入れられず、1551年、謀反を起こして義隆を攻め自刃させた。晴賢謀反の噂はその前から流れていたが、義隆は信じなかったという。その後、義隆の姉の子豊後・大友氏の大友晴英を迎えて大内の家督を継がせた。石見・吉見氏を攻めていた時、安芸・毛利元就に侵攻された為、和議して、毛利氏に向かった。しかし、勇将江良房栄を謀略で自ら討って失い、安芸・厳島におびき出されて毛利氏の奇襲を受け敗北、厳島大江の浦において自刃して果てた。尚、元就の2男元春とは義兄弟の契りを結んでいる。
末次政直(すえつぐ まさなお)
別:末次平蔵、ジョアン
貿易商人で長崎代官。博多の豪商・末次興善の次男。通称・平蔵。キリシタンで洗礼名ジョアン 長崎に移住し、朱印船貿易で安南・シャムなどと貿易を行った のちに長崎代官となる。これにより棄教して、キリシタンの弾圧を激しく行なった タイオワン事件(オランダ東インド会社の長官ピーテル・ノイツとの間で起きた紛争)を起こし、江戸の牢獄に幽閉される その後幕臣により斬殺された
末次元康(すえつぐ もとやす)
1560~1601
毛利氏 少輔次郎 七郎兵衛 兵部大輔 大蔵大輔
◇父:毛利元就 室:杉原盛重女、吉見広頼女 子:毛利元宣
 安芸・毛利元就8男。出雲・末次城主にあった為、末次氏を称する。同腹兄元秋の死後、その遺領を継ぎ、出雲・富田城主となる。朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで大津城攻略等に参戦した。毛利一門、厚狭毛利家の祖となる。
菅沼定村(すがぬま さだむら)
????~????
◇子:菅沼定盈
 土岐氏流の島田定直が三河・菅沼に入ったのが始め。三河の豪族山家三方衆にして野田城主。駿河・今川氏譜代の臣であったが、桶狭間の敗戦後、独立した三河・徳川氏に従った。
杉興運(すぎ おきかず)
????~1551
○弾正忠 豊後守
◇父:杉興長
 周防・大内氏臣。筑前守護代。九州方面の前線司令官役を務める。1530年当主義隆の命で、少弐資元を攻めるが敗退。義隆の信任厚く、大内重臣陶隆房とも度々衝突し、隆房謀反の因の一つとなったという。隆房謀反の際には、義隆と共に殉じた。
杉重矩(すぎ しげのり)
????~1551
○七郎 重信 伯耆守
◇子:杉重輔、隆辰
 周防・大内氏臣にて豊前守護代の家柄。周防・鞍掛山城主。杉氏は"杉八家"と呼ばれる多数の家系に分かれ大内氏を支えた。同僚陶隆房が当主義隆に謀反を起こす前に、隆房を殺すよう義隆に進言した聞かれず、結局隆房に与して義隆を討つ事に協力した。しかし、隆房に謀反の責を転嫁されて殺される。
杉重良(すぎ しげよし)
????~????
◇父:杉重輔 室:福原広俊女 子:杉元良
 周防・大内氏臣。大内氏滅亡後、陶氏と争い、父を内藤隆世に討たれて、安芸・毛利氏に走った。毛利氏の下、所領を安堵されて豊後・大友氏と戦うが、1579年大友氏に寝返る。その後戦死。
杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅうぼう)
甲賀五十三家の一人・杉谷与藤次の子、近江の国に善住坊ありと知られた火縄銃の名手 六角義賢に仕え、義賢の命で浅井長政の裏切りにより撤退する織田信長を千草峠で待ち伏せし狙撃した しかし失敗し、近江高島郡に潜伏、織田家の配下・磯野員昌によって捕らえられ、岐阜において鋸引で処刑された
椙杜隆康(すぎもり たかやす)
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◇父:椙杜房康 養子:椙杜元秋
 周防・大内氏臣。周防・蓮華山城主。大内重臣陶隆房が謀反を起こした後は、擁立された当主義長に仕える。しかし、安芸・毛利氏に厳島で敗れてからは、毛利氏の侵攻に対していち早く人質を差し出して降伏した。
椙杜元秋(すぎもり もとあき)
1552~1585
毛利氏 刑部大輔 富田氏
◇父:毛利元就 養父:椙杜隆康 室:三沢為清
 安芸・毛利元就5男。周防・椙杜隆康の養子となり、椙杜氏を称するが、離縁。1570年天野隆重らと出雲・富田城を守る。元秋が亡くなった後の遺領は、同腹弟元康が継いだ。
諏訪御料人(すわごりょうにん)
武田晴信(信玄)の義弟・諏訪頼重の娘。母は小笠原長時の家臣・小見氏の娘。武田勝頼を生んだ。本名は不明 武田信虎が娘の祢々を頼重に嫁がせると、代わりに諏訪姫を人質として引き取った 信虎が息子・晴信に追放され、父・諏訪頼重が滅ぼされたのちに、晴信の側室となった そして勝頼を産んだが、病身となって諏訪に帰り療養のかいなく病死したという