歴史・人名

孟子

孟子

もうし
前372ころ‐前289ころ。中国、戦国時代の儒者である孟軻(もうか)。あるいは彼の思想を伝える書物の名。孟軻の軻は名。字(あざな)は子輿(しよ)または子車といわれるが、根拠は薄い。孔子(こうし)没後100年ほどたった紀元前4世紀前半ごろに生まれる。幼時の話に孟母三遷(もうぼさんせん)や断機(だんき)の教えがあるが、史実かどうか疑わしい。生地は鄒(すう)の国で、現在の山東省に属する。若いころに孔子の生国である魯(ろ)に遊学し、そこで孔子の孫の子思(しし)(孔(こうきゅう))の門人に学んだ。のち、弟子たちを引き連れ、「後車数十乗(台)、従者数百人」という大部隊で、梁(りょう)(魏(ぎ))の恵(けい)王(在位前369~前319)、斉(せい)の宣(せん)王(在位前319~前301)、鄒の穆(ぼく)公(在位前382~前330)、滕(とう)の文(ぶん)公(在位前326~?)などに遊説(ゆうぜい)して回ったが、いずれも不首尾で、晩年は郷里で後進の指導にあたった。[土田健次郎]

思想

孟子の生きた戦国時代、有力諸侯は自ら王と称し、武力によって他国を帰属させ、天下に覇(は)を唱えようとしていた。彼らの目標は、春秋時代の斉(せい)の桓(かん)公や晋(しん)の文公のような覇者であった。このようななかで孟子は、その理想主義的な思想を諸侯に説いて回った。まず彼は、諸侯たちの野心が覇者たるにあることを指摘し、そのうえで覇道を否定し、王道を唱えた。力により富国強兵を図る覇道では人心を掌握できない、仁愛による王道によってこそ民心を獲得し、天下を統治できるとしたのである。軍隊や領土の大小ではなく、人心の掌握こそ統治の要諦(ようてい)である、というのが孟子の主張であった。この王道論は諸侯の欲望を踏まえつつ、仁による儒家としての統治法をいうものであったが、結局は、そのあまりの理想主義的傾向のゆえに用いられなかった。
 孟子の民心把握の重視はまた、易姓(えきせい)革命の肯定という過激な形でも現れた。民の信頼を失った天子は武力によって討伐されても当然というこの考えは、当時のみならず後世ながく危険思想とみなされた。『孟子』を積んで日本に渡る船はかならず沈没するという話すらあったほどである。なお王道政治の一環として彼が説いた井田(せいでん)法も有名である。井田法とは、田地を井字型に九分し、中央を租税用の公田(こうでん)としてその周囲を均等に配分するというもので、土地制度の理念として長く生き続けた。
 彼の思想は、人間に対する楽観的ともいえる信頼に基づいている。人間は、生まれながらにして仁(じん)、義(ぎ)、礼(れい)、智(ち)の四徳(しとく)の可能性を内包している。そしてそれは四端(したん)の情(惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ))として心に兆す。人はこの四端を拡大し、心の善性を発揮せねばならない。これが有名な性善説である。彼のこの主張は、約50年後輩の荀子(じゅんし)の性悪説とともに長く人性説の二典型とされた。
 孟子の時代は、遊説家の活躍した時代であった。とくに斉の都の臨(りんし)には遊説家が多く集まり、その活況は「稷下(しょくか)の学」といわれる。孟子もこの稷下で論陣を張ったことがあるが、他の地方でも盛んに論争を行った。孟子の一連の論争のなかでもっとも有名なのは、性に善悪はいえぬとする告子(こくし)との応酬である。また墨(ぼくてき)(墨子)の兼愛説(無差別愛の主張)と楊朱(ようしゅ)の為我(いが)説(徹底した利己主義)をそれぞれ極論として退け、家族倫理を柱に漸次(ぜんじ)他者へと及ぼす仁義(じんぎ)の主張を行った。彼の言説の論争的性格は、孔子にはなかった論理性と体系性を儒家の学にもたらすものであった。そして『孟子』は、儒家の教理を説いた理論書として、後世とくに宋(そう)以降に重んぜられることになった。[土田健次郎]

書物

孟子』は、諸国を遊説した孟子が諸侯や知識人、門弟などと問答したことばを集めた思想書である。「梁恵王(りょうのけいおう)」上下、「公孫丑(こうそんちゅう)」上下、「滕文公(とうのぶんこう)」上下、「離婁(りろう)」上下、「万章(ばんしょう)」上下、「告子(こくし)」上下、「尽心(じんしん)」上下の七篇(へん)からなり、門弟の編集をもとにしていると推測されている。『孟子』は長く経書(けいしょ)(儒教のもっとも基本的な古典)としての扱いを受けていなかった。しかし唐(とう)になり韓愈(かんゆ)がこの書を顕彰し、それが北宋に受け継がれ、しだいに重視されるようになった。そして南宋の朱熹(しゅき)(朱子)が四書(『論語』『大学』『中庸(ちゅうよう)』『孟子』)の一つに数えてから、朱子学の権威の増大とともに、この書も経書として揺るぎない地位をもつに至った。しかし一方では、北宋の司馬光(しばこう)、李覯(りこう)(1009―1059)をはじめとする一連の孟子批判も存在し、そのことはまた、この書のもつ理想主義的内容が、ときに危険思想ともみられたことを物語ってもいる。[土田健次郎]
『金谷治訳注『中国古典選5 孟子』(1966・朝日新聞社) ▽宇野精一訳注『全釈漢文大系2 孟子』(1973・集英社) ▽小林勝人訳注『孟子』上下(岩波文庫) ▽金谷治著『孟子』(岩波新書)』