歴史・人名

錦州爆撃

錦州爆撃1
2011-01-22 02:00:00

テーマ: 孤独老人日記
石原莞爾が独断先行で行った作戦が2つある。一つは既に述べた柳条湖の爆破、奉天占領であり、もう一つは錦州爆撃である。

日露戦争のあと、乃木将軍の詩にある錦州である。

この錦州爆撃のことは、現在の日本人は殆ど忘れているし、テレビなどで放映される戦争回顧録などでも取り上げられない。しかしこの事件ほど、それからの日本の歩みに大きな影響を及ぼしたものはないのである。

爆撃というとQ翁世代では、B29による日本の各都市に行ったアメリカの無差別爆撃。広島、長崎に落とした原爆などを思いだすが、1931年昭和6年に石原莞爾が行った爆撃は、B29の爆撃に比較すすれば、爆撃などという名で呼ぶには適当ではない、子供の花火にも及ばない程度ののものであったことが記録に残っている。

奉天(現在の瀋陽)飛行場を飛び立った飛行機は11機。そのうち5機は張学良が置き去りにしていった飛行機である。所謂戦利品で、張学良が西欧のどこかから輸入した、現在の軽飛行機にも及ばない チャチなものであった筈である。、

Ⅰ機が偵察機で、10機を誘導して、錦州上空を目指した。10機には航法計器が無かったのであろう。

25キロ爆弾を70発投下したとあるが、いずれも天窓を開けて、人力で爆弾を外に放り投げたという。

石原莞爾はこの爆弾投げ捨て作業の途中で、指を怪我している。

爆弾は張学良軍の兵舎には1発も命中せず、相当数が不発弾となったようである。

いうならば、飛行機の天窓を開けて、石ころを放り投げたようなものであったという。

軍事的にみれば、計画する方も無茶だし、当初から、戦果など期待できるものではなかった。

奉天飛行場に帰還した石原莞爾の様子が詳細に書かれている。

滑走路をまだ機体が動いているうちに、副官の片倉大尉が走り寄ってきた。

「どうですか、張学良に爆弾をお見舞いしてやりましたか。」

すでに立ち居に苦しむようになっていた石原は、怪我をした指をかばいながら ようやく地面に降り立った。

「これっぽっちの爆弾では、いかな張学良でも、雹が降ったくらいにしか感じまいよ」

その返事に「ハー」と片倉がいぶかる。

石原は言った。「張学良ごときを爆撃してどうなる。おれが爆撃したのは国際連盟よ」

爆撃の軍事的意味は限られていたが、政治的、外交的意味は絶大であった。

数個師団で行う攻撃よりも絶大な衝撃を国際社会に与えたのである。

これほど大きな政治的目的を達した軍事作戦は過去にも全くなかったと言ってよいほどのインパクトを与えたのである。

当時の国際連盟は、その時の世界体制を維持しようというのが目的である。アジアは殆どが西欧列強の植民地となっていたし、中国も八つ裂きの状態であったのである。

現代の日本人は、当時のアジア諸国が殆ど西欧列強の帝国主義植民地政策によって、搾取されていたことを知らない。この事実を知らずして、当時の日本の歴史を語ることは不適当である。

ある西欧の歴史学者は、西欧が帝国主義植民地時代に、いきずまりを感じ、それから脱却しようと模索している最中に、日本はその帝国主義植民地政策に乗り遅れまいと飛び乗って満州事変を起したと述べているようであるが、Q翁はとんでもない誤りだと思っている。

アジアが植民地から解放されたのは、いずれも日本が第2次大戦に敗れた以降である。それからでもベトナムはじめ、アジア各地で、独立の戦いがつづいたのである。

石原莞爾が、錦州を爆撃した時、世界はそのまま、の状態で、お互いに仲良く平和に暮らしましょうと言っても、納得できるものではなかったのである。

石原は、国連が世界平和という美辞麗句を掲げているが、完全に破綻していることを見抜いていたのである。

石原は一貫して、アジアは植民地体制から解放されなければならないと考えていたのである。(5族共和の思想は後に述べる)

それが錦州爆撃という行動となったのである。この爆撃がどのような意味をもっていたのか。筆者は次のように述べている。

まず張学良軍の しかも満鉄沿線から離れた拠点を叩く事で、関東軍が国連で、日本政府が説明したのとは違って、満鉄保護などの名目的出動に満足することなく、徹底的に張学良率いる軍と国民党の勢力を満州から排除する決意を表明する意味があっただろう。

さらにイギリスの勢力圏であり、国際的緩衝地帯とされていた地域を爆撃することによって、満州事変は列強との協調といった従来の枠組みに収まるものではない。それを乗り越えるものだということを示唆を国際社会に与える意味は大きいものがあった。

実際には、前述したように、石原による錦州爆撃は「爆撃」と呼ぶのも恥ずかしいような軍事行動に過ぎなかった。

しかし、「爆撃」という言葉を通信社が打電したとたん、その言葉は世界中を震撼させたのである。

ようやくおさまりかけていた国連は 蜂の巣をひっくり返したような騒ぎに巻き込まれたのである。

このような事態は、いずれも石原莞爾の思惑どうりであった。(続く)

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コメント(2)
2
無題

同じサイト内で、こんな意見もありますよ。
東京大空襲と重慶爆撃の違い
http://agora-web.jp/archives/1651303.html
井本 省吾

抜粋:
「重慶に陣取った当時の蒋介石・国民党軍は、(米国製の)多大な対空砲台を、わざわざ飛行場や軍事施設から市街地域に移動させており、日本軍はやむなく市街地域の絨毯爆撃を決定した、という経緯があるのだ。蒋介石軍は一般住民が巻き添えになることが明白なのに、あえて市街地に軍事施設を置いていた。このこと事体が国際法違反なのである。」

やはりそれなりの理由はあるものですね。

日本人なら日本側の立場に立ってものを言うべきだ、と私は常々考えています。
池田氏の意見は、何か日本の国益に寄与するのでしょうか? 肝心な部分をスッ飛ばして、日本をコキおろそうとしているとしか読めない。
そんなに中国を持ち上げたいなら、中国共産党のでも入党したらどうですか? と言いたい。
私ゃ、あんな傲慢な選挙権も人権もない軍国主義・侵略国家の一員になるなど、まっぴら御免です。
野垂れ者 2017-08-12 00:52:30返信する
1
錦州爆撃は14年後の日本に途方もない代償をもたらした

池田信夫先生のブログを見て錦州爆撃を検索していたら偶然このブログを発見しました
http://agora-web.jp/archives/1651012.html

池田先生によると錦州爆撃は「世界初の非軍事地域を目標にした」爆撃であり

その後繰り返される非戦闘員を狙った無差別爆撃の嚆矢となった作戦なのだそうです。

この説が100%正しいと思いませんが、最終的に原子爆弾を含めた 無差別爆撃で最大の被害を蒙った日本が無差別爆撃の発端であったというのは歴史の皮肉としか言いようがありませんね、(x_x;)