歴史・人名

中王国

エジプト史

中王国
(前2040年頃~前1782年頃、第11~12王朝)

都はテーベ→イチ・タウィ。官僚制度を整え中央集権化を進める一方、教育が広まり、中エジプト語の確立と共に多くの文学作品が作られた。

建築では国力の増大に伴って巨大な王墓建築が復活した他、第1中間期に勢力を拡大した各地の州侯の墳墓も数多く確認されている。

第11王朝
メンチュヘテプ2世は統一後も精力的に統治に当たった。上エジプト長官などの古王国以来の官職を復活させると共に、新たに下エジプト長官を置くなどして行政機構を整備していった。敵対的な州侯は廃され、メンチュヘテプ2世の息のかかった人物がそれに代わった。

軍事面ではエジプトの外へと活動の範囲を広げた。第2急端までの下ヌビアにまで到達してこれを支配下に収め、更に南方のプント国と交易を行った。西方の砂漠地帯へも遠征が行われ、オアシスに勢力を持ったリビア人を支配下に収めた。

こうした成功によって各地の採石場から良質な建材が手に入るようになり、再び大規模建築が可能となった。ヘラクレオポリスの宮廷に仕えていた職人達がテーベに移され、優れた芸術作品を生み出した。中でもテーベ対岸(ナイル西岸)のデイル・エル・バハリに建設された「メンチュヘテプ2世の葬祭殿」が有名である。現在はどでかい台座しか残っていないが、すぐ横のハトシェプスト女王の葬祭殿(第18王朝)と同じくらいの規模があった。周囲には王妃や寵臣達の墓もつくられた。寵臣達の棺には「コフィン・テキスト」(「コフィン」は「棺」の意)と呼ばれる呪文が記されている。コフィン・テキストはピラミッド・テキストの簡略、付け足しであり、古王国時代では死後オシリスになることができるのは王だけだとされていたので、これは中王国になって地方豪族、官僚などの地位にある人物もオシリスになれると信じられるようになった証拠である。

メンチュヘテプ2世の死後「メンチュヘテプ3世」が即位したが、先王の在位が長かったので彼は既に高齢だった。先王の蓄えた国力を背景に熱心な建築事業を繰り返し、国内の反乱にも迅速に対応して安定した時代を継続した。サッカラやアビュドスで発見されている王名表ではメンチュヘテプ3世が第11王朝最後の王とされているが、トリノ王名表でだけは彼の後に7年間の空位期間があったとされている。この期間の王は「メンチュヘテプ4世」であるとされているが、彼についてはよく分かっていない。

(歴代王)

アンテフ1世→アンテフ2世→アンテフ3世→メンチュヘテプ2世→メンチュヘテプ3世→(メンチュヘテプ4世)

メンチュヘテプ2世の葬祭殿

右手前。左奥のはハトシェプスト女王の葬祭殿。この写真は二つの葬祭殿のすぐ後ろの崖から撮られたものと思われる。メンチュヘテプ2世の葬祭殿の敷地の奥にある四角く掘られた穴は「騎士の門」といって地下にある王墓の入り口になっている。

コフィン・テキスト

メンチュヘテプ2世

第11王朝の王や王妃達は黒い肌で表現されることが多い。これは、王族が黒人だったという訳ではなく、ナイル川の運ぶ肥沃な大地を「黒き大地」と表現することからそれを象徴しているとか、人が死んでしばらく経つと肌が黒くなるのを表しているとかいわれている。

第12王朝
初代「アメンエムハト1世」はその素性がよく分かっていない。上エジプト出身だとかテーベの豪族だったとか平民出身という説もあるが、とにかく先王の血筋ではない。メンチュヘテプ4世の治世下での宰相に全く同名の「アメンエムハト」がいる。この宰相がアメンエムハト1世と同一人物であり、メンチュヘテプ4世から王位を奪ったと一般的に考えられているが、決定的な証拠は無い。

アメンエムハト1世は即位直後に軍隊を率いて反対派の州侯やヌビア人の抵抗勢力を鎮圧し、テーベからイチ・タウィ(正確な位置不明。「二つの土地の征服者」という意味)へ遷都した。『ネフェルティの予言』の話の中では、第4王朝時代の王スネフェルが聞いた未来の救世主こそがアメンエムハト1世であるとされていて、文化面から王権を正当化しようとしていた動きがみられる。

治世20年目にはエジプト史上初めて共同統治のシステムを導入し、息子の「センウセレト1世」と共に統治を行った。センウセレト1世は国境線の維持や対外遠征など、主に軍事を担当した。

アメンエムハト1世は治世30年目に衛兵に暗殺されてしまう。遠征に出ていたセンウセレト1世はその知らせを受けて早急に帰還し、直ちに混乱を収拾して単独の統治者となった。共同統治のお陰である。なので以後第12王朝では王子と共同統治を行う伝統が受け継がれていった。『シヌヘの物語』はこの時のお話である。

センウセレト1世は先王の改革路線を引き継ぎ、新たな国家体制をより強固なものとしていった。

共同統治時代から任されていた軍事政策も継続し、当時ヌビアに栄えていた「ケルマ王国」の第2急端付近まで進出して周辺に13もの要塞を設置し、領土化した。南方の征服により、重要な金鉱が確保された。(「ヌビア」の「ヌb」は古代エジプト語で「金」を意味する。)ワディ・ハンママートからの石材、シナイ半島の銅、トルコ石の採掘が国家事業として進められ、こうした資源を元に長い治世を通じて各地の神殿の修築を熱心に行った。

現在でもエジプトの全域からセンウセレト1世にまつわる遺跡が残されていて、中でも治世30年目建設されたヘリオポリスのオベリスクは立った状態のまま現存する。

晩年の治世42年目頃に王子「アメンエムハト2世」を共同統治者に任命し、少なくとも3年は共同統治を行った。

アメンエムハト2世の時代、湿地が広がるファイユーム地方が農耕、狩猟、漁業などに適していることが知られるようになり、大規模な干拓事業が着工された。

アメンエムハト1世の代から行われてきた対外遠征は紅海にまで到達し、プント国への遠征なども積極的に行った。また、レバント地域との外交関係が密接化した。ビブロスからはアメンエムハト2世のお宝が出土しているし、エジプト側からもバビロニアやエーゲ海地域など各地のお宝が納められた箱が見つかっている。(蓋にはアメンエムハト2世の名が刻まれている。)エジプトで活動する外国人の数が徐々に増え、外国系の名前が記された遺物が多数残されるようになった。

センウセレト3世の時代になると各地の州侯が再び権力を増して王権を脅かすようになっていた。センウセレト3世はエジプトを北、南、最南の3つに区分けし、新しい行政機構を確立して州侯達の統制を強めた。この頃の州侯達の墓は目立って縮小、減少しているため、弱体化に成功したようだ。

アメンエムハト3世の時代にはファイユームの干拓事業が完成し、中王国は最盛期を迎えた。先王センウセレト3世がヌビアでの対外政策に力を注いだのに対して、アメンエムハト3世はシナイ半島の鉱山採掘に力を入れた。シナイ半島では50ヶ所もの場所からアメンエムハト3世の碑文が出土しているが、なぜかエジプト本土からの出土は少ない。シナイ半島に持ち込まれたヒエログリフが採石場の労働者達の間で崩し字として使われるようになり、それがアルファベットの基礎になったという説がある。

アメンエムハト3世の死後、第12王朝は急速に不安定になった。

最後の王セベクネフェルは女性で、アメンエムハト3世の娘である。アメンエムハト4世が短期間で亡くなったため即位したが、女性のファラオは約1500年ぶりで特例なので後継者を巡る何らかの問題があったと思われる。

(歴代王)

アメンエムハト1世→センウセレト1世→アメンエムハト2世→センウセレト2世→センウセレト3世→アメンエムハト3世→アメンエムハト4世→セベクネフェル

センウセレト1世のオベリスク

エジプトで見つかったアメンエムハト2世のお宝

(見つかった金属器はクレタ島で発見されたものにそっくり)

古エジプト語

初期王朝時代~第1中間期前半頃までのエジプト語。

中エジプト語

第1中間期~新王国時代までのエジプト語。古エジプト語に比べ、細かいニュアンスなどの表現が可能になっており、文章語としてほぼ完成されたものであった。また、中エジプト語に移行したことによって文字の改革も行われた。

ヒエログリフ(神聖文字)

神やそれと同等であるファラオを称える石碑や神殿、墓などに刻まれた。中王国時代に改革が行われ、文字の数を750程度に抑え、単語の綴りも一定化された。

ヒエラティック(神官文字)

ヒエログリフの筆記体で、パピルス紙にインクと筆で書かれた。ヒエログリフの派生ではなく、あくまで並行して発達してきた。

文学作品

『シヌヘの物語』『ネフェルティの予言』『アメンエムハト1世の教訓』『ケミイトの書』『ドゥアケティの教訓』『難破した水夫の物語』『雄弁な農夫の物語』『ウェストカー・パピルスの物語』など

プント国

正確な位置不明。紅海に面しており、エジプトの南東にあったとかアラビア半島にあったとかいわれている。

(ケルマはケルマ王国の首都)

トリノ王名表(トリノ・パピルス)

イタリアのトリノのエジプト博物館で発見された。第19王朝以降の記述が無いのでその頃に制作されたと考えられる。

『シヌヘの物語』

「シヌヘ」はアメンエムハト1世の娘に仕えていた従者。古代エジプト文学を代表する作品。自伝形式。

アメンエムハト1世が死ぬと、遠征に出ていたセンウセレトやその他の王子も王都に呼び戻された。その時シヌヘは王の死が計画的に行われたというヤバい話を立ち聞きしてしまう。シヌヘは恐ろしくなってエジプトから逃亡したが、逃げていくうちに喉の渇きに襲われ、死の味を経験する。もうだめかと思ったところで、知り合いのアジア人に助けられ九死に一生を得た。シヌヘは国々を次々と彷徨った後、アンミ・エンシ(上レテヌー(シリア)の支配者)に見込まれてその長女と結婚し、美しい土地も貰って国を持った。アンミ・エンシはシヌヘを軍隊の指揮官に任命し、シヌヘもその期待に答えて勝利を勝ち取り続け、富と名声を手に入れて不自由なく暮らした(反逆者も現れたが打ち負かした)。しかし、年老いていくうちに故郷へ思いを馳せ、エジプトで最期を迎えたいと思うようになっていた。シヌヘの名声はエジプトにも知れ渡り、センウセレト1世はシヌヘの元へ使者を送って帰国を促した。シヌヘは帰国を決意し、返書を送って長男に国を任せ、王のもとへ戻った。王に謁見したシヌヘは緊張して我を忘れてしまうが、王はそれを赦して再びシヌヘを廷臣ていしん(朝廷に仕える臣下)の地位に戻し、邸宅とピラミッドも与えた。こうして、シヌヘはその死の日が来るまで王のお気に入りであったとさ。

『アメンエムハト1世の教訓』

アメンエムハト1世の死後に書かれた、死者である王が王子センウセレト1世に語りかける形の文学作品。内容は、自分が臣下を信頼し過ぎた所為で暗殺されたので、王子には兄弟、友人、誰であっても信頼せずに用心してほしいと諭したもの。

ワディ・ハンママート

「ワディ」はアラビア語で「河谷かこく」を意味する。河谷とは川の流れで侵食されてできた谷で、サハラやアラビア等の乾燥地域では、通常はただの谷だが豪雨があると急激に水が出て川になる「間欠河谷」を主に指す。水のない時期は地域住民の交通路として使われていることがある。ワディ・ハンママートはコプトスから紅海に続いていて、紅海沿岸で採掘された資源の搬送ルート、紅海経由の交易ルートの中継として重視された。

トルコ石

水色の宝石。ターコイズともいう。

ちなみに、トルコでトルコ石は採れない。

オベリスク

四角い石柱。てっぺんはちっちゃいピラミッドみたいになっていて、創建当時はここが金や銅の薄板で装飾され、太陽神のシンボルとして光り輝いていた。日時計としても使える。

干拓かんたく

海や湖沼の浅瀬に堤防を築き、水を抜いて乾いた陸地にすること。

レバント

地中海東岸の地域。パレスチナはもちろんエジプトやトルコ、ギリシアなども含まれる。