歴史・人名

鉄砲伝来に関わった男、王直

鉄砲伝来に関わった男、王直 平戸を拠点に躍動した日本史のキーマン

有田哲文2023年7月30日 9時00分

東アジアの海を席巻した倭寇の頭目

 室町時代の末期、東アジアの海を席巻した王直(おうちょく)という男がいた。中国・明(みん)の出身で、倭寇(わこう)の仲間に加わり、やがてみなを統率する頭目となった。彼が拠点としたのが、いまの長崎県にある平戸港である。その面影を探して、港町を訪ねた。

 室町末期のころの倭寇は、日本人中心のかつての海賊集団とは違う。中国人たちが率いる「密貿易商人」「武装した海商」という性格が強くなっていた。「後期倭寇」と呼ばれる。

 宋や元の時代と異なり、明は民間の貿易を許さなかった。貢ぎ物を受け、返礼をするという朝貢のかたちにこだわった。その隙間をぬって活動したのが倭寇である。日本の銀を中国へ、中国の生糸を日本へ。王直らは貿易の拠点として、平戸に関わりを持つようになる。1542年のころだといわれる。

 しかし活発化する密貿易は、明朝の強い弾圧にあう。根拠地としていた中国沿岸の島が明の官憲に襲撃され、壊滅状態になる。王直らは活動の拠点を平戸へ移し、この地を治めていた松浦(まつら)家の第25代、松浦隆信の庇護(ひご)を受けた。

 「富をもたらしてくれるネットワークが海の向こうにあり、それを握る人物が王直だと、隆信は分かっていたのだろう」。そう語るのは、松浦史料博物館の学芸員、久家(くが)孝史さんだ。室町末期はすなわち戦国時代で、武将たちは富をたくわえ、軍事力を強化するのに躍起だった。両者の利害が一致し、明から追われた密貿易商はひとまず安住の地を得た。

 このころの王直は、日本史を動かすキーパーソンになっていたようだ。1543年の種子島への鉄砲伝来。ポルトガル人が乗っていた船は中国船で、そこには王直もいた。通訳だったとも、船の所有者だったとも言われる。1550年にポルトガル船が平戸に来航したのも、王直の仲介があったと考えられている。西洋との交易、キリスト教伝来の出発点となった。
繁栄する平戸は「西のみやこ」

 同時代に平戸で書かれた「大曲記(おおまがりき)」という史料がある。この地に住まいを移した王直を頼りに中国船が増え、やがて南蛮船も入港したと記される。彼らがもたらす品物を求め、京都や堺などから商人が集まり、平戸は「西のみやことそ人は申(もうし)ける」。わがまちの繁栄が誇らしそうだ。

 スマホの地図を頼りに、王直が住んでいたとされる居宅跡に向かった。平戸市の中心部の通りから少し脇に入る。家屋の名残などはなく、号である五峰(ごほう)を冠した「五峰王直居宅跡」の石碑がひっそりと立っていた。やや高台に位置する場所で、当時は遮るものもなく、港が一望できたのではないだろうか。

 王直の屋敷の周辺には多くの中国人が暮らしていたらしい。医者や靴職人、仕立屋など様々な職業の人がいたことをうかがわせる史料もある。一種の中国人街だったか。いまもそのあたりは商店街で、病院や薬局、履物屋や本屋などが軒を連ねている。往年のまちも、もしやこんな感じだったか。そんな思いにとらわれた。

交易の拠点として、国内有数の港町として栄えた平戸。記事の後半では、王直と港町のその後などが書かれています。

 王直はどんな人物だったのか…