歴史・人名

中臣御食子

中臣御食子(ナカトミノミケコ)
???~???
父・中臣可多能祐
母・山部連の娘
子・中臣鎌足(614~669)

前事奏官兼神宮祭官、小徳冠。可多能御食子(カタノミケコ)とも。
推古天皇の病気に倒れ、山背大兄王が見舞いに訪れた際には、取次ぎを行っている。
628年、推古天皇が崩御に際して蘇我蝦夷、阿倍内麻呂と共に田村皇子(のちの舒明天皇)を推挙している。
また、山背大兄王を推挙した境部摩理勢の説得に阿倍内麻呂と共に赴いている。
鹿島神宮の神官として東国に赴任していたとの伝承もある。

中臣常磐━━━中臣可多能祐━━━中臣御食子━━━中臣鎌足━┳━藤原真人
                             ┃(定恵)
                             ┗━藤原不比等

・御食子(?-?)
①父:可多能祐 母:山部歌子連女那爾毛古娘
②妻:大伴智仙媛 子供:鎌足(614-669)・久多垂目  別名:弥気・美気子
長男、一門。
③628年33推古天皇崩御。皇位継承問題発生。蘇我蝦夷側に組みし、田村皇子を推挙。
山背大兄皇子派の境部摩理勢の説得の役目。
④小徳冠前事奏官兼祭官。33推古・34舒明朝に仕えた。伊勢神宮初代祭官(後の祭主)
[中臣氏][伊達家]