歴史・人名

人名な

内藤興盛(ないとう おきもり)
????~1554 
○下野守
◇父:内藤弘春 子:内藤隆時、隆春
 周防・大内氏重臣として長門守護代を務める。当主義興の代から仕え、家中にて大きな力を持つ。同じ重臣陶隆房が当主義隆に謀反した際には、これに与したが積極的に動くことはしなかった。
内藤隆春(ないとう たかはる)
1528~1600
○隆通
◇父:内藤興盛 室:吉見隆頼女 養子:内藤元盛(佐野道可)
 周防・大内氏重臣内藤興盛の5男。同じ重臣陶隆房が当主義隆に謀反し、これを滅ぼしたことから、安芸・毛利氏を頼る。毛利氏の下、防長に侵攻して活躍、所領を安堵された。
内藤隆世(ないとう たかよ)
????~1557
◇父:内藤興盛? 内藤隆時?
 周防・大内氏臣。姉婿の重臣陶隆房(晴賢)が当主義隆に謀反した際には、これに与して次期当主義長に仕えた。しかし、晴賢が安芸・毛利氏に敗死して、その侵攻を受けると、義長を守って長門・且山城で戦う。この時、隆世の命と引換に義長の命を助ける約で、自刃して果てた。又、義長も約に反して、開城後長福寺にて攻められ自刃して果てている。
内藤昌秀(ないとう まさひで)
1521?~1575 
○工藤氏 源左衛門 昌豊 祐長 修理亮
◇父:工藤下総守虎豊 養子:内藤(保科)大和守昌月、源助正重
 鎌倉期からの名族。甲斐・武田氏臣であった父が誅殺された為、兄長門守と共に出奔、信玄の時復帰。以後主要な合戦には殆ど参加し、武功は抜きん出ていたが、信玄は"修理亮程の者なら常人以上の働きあって当然"として絶大に信頼し、1枚の感状さえなかった程である。昌豊も個人の功等、歯牙にも掛けず、武田信繁と共に、"武田の副将軍"と呼ばれた。上野・箕輪城攻略後、東の備の要となり、父と同様絶えていた内藤相模守虎貞の跡を継いで内藤氏を名乗った。長篠の合戦においては他の老臣と同じく、力攻めの不利を説くが容れられず、敵中突撃して戦死した。川中島合戦の戦死者に内藤修理の名があるが別人。
内藤元盛(ないとう もともり)
????~1615
○佐野道可
◇父:宍戸元秀 養父:内藤隆春 子:内藤元珍、粟屋元豊
 安芸・毛利氏重臣宍戸元秀2男だが、嗣子のなかった内藤家に入嗣。1万石を領有。大坂の陣では、当主秀元らにより、家康の死等の理由で、万一大坂方が勝った時の布石として、大坂城入城する。しかし、戦後捕縛され毛利氏重臣であることが露見。あくまで個人的に豊臣に恩義を感じて取った行動であると主張し通し、2人の息子もまた、父が勝手に取った行動と主張し通したので、毛利氏の策謀までは露見しなかった。山城・鷲巣寺にて切腹。しかし、事情を知る2人の息子も、毛利氏により密かに切腹させられる。重臣福原広俊は、夏の陣寸前にこのことに気づき、無用の策謀と非難したという。
直江兼続(なおえ かねつぐ)
1560~1619 
○樋口氏 与六 重光 山城守
◇父:樋口伊予守兼豊 室:直江実綱女(直江信綱室) 弟:大国与七実頼、樋口秀兼 子:直江平八景明、将監兼高? 養子:本庄主馬長房、直江勝吉(本多安房守政重)
 越後・長尾(上杉)氏下士の出。その才を認められ近習となった。絶えた直江氏を継ぐ。豊臣秀吉に降った後、上杉氏が会津120万石を得ると、兼続は米沢30万石を得る。関ヶ原の戦いでは石田三成と結んで、当主景勝を西軍につけ、徳川家康に戦いを挑んだが失敗。以後は上杉氏存続に尽くした。文学、農政等に幅広く通じた智勇兼備の名将。
直江実綱(なおえ さねつな)
????~1577
○神五郎 与兵衛 政綱 景綱 酒椿斎 大和守
◇父:直江親綱 養子:直江信綱
 越後・長尾氏重臣。越後・与板城主。智勇兼備の将で、政軍事に活躍して信頼厚かった。1561年川中島の戦いでは、武田信繁隊を敗走させている。70余歳で没。
直江信綱(なおえ のぶつな)
????~1582
○藤九郎 与兵衛 景孝
◇父:長尾景貞 養父:直江実綱 室:直江実綱女
 越後・上杉氏臣直江氏の後を継いで与板城主となる。しかし、春日山城内の槿の間において、山崎秀仙と政務打ち合わせ中、御舘の乱の恩賞のもつれから秀仙に恨みを持つ毛利秀広(弘?)が乱入、秀広は秀仙を刺殺。信綱は脇差で身を守ろうとしたが、まきぞいを食い同じく秀広に斬殺された。信綱に嗣子なく、名門直江氏が絶えることを惜しまれた為、信綱の未亡人に樋口兼続が入婿し、直江氏を継いだ。
長井道利(ながい みちとし)
????~1571
○隼人佐
◇父:斎藤道三 養父:長井直利? 子:井上忠右衛門尉道勝、半右衛門定次、小左衛門定利
 斎藤道三の庶子か。義龍の謀反に加担して父道三を死に追いやる。以後斎藤氏の下尾張・織田氏と戦い、斎藤氏滅亡後は将軍家足利氏に仕えるが、摂津・白川河原にて戦死。
長尾景連(ながお かげのぶ)
????~1562
○謙忠 弾正
◇父:長尾為繁
 越後守護代長尾氏一族。当主景虎(上杉謙信)の従弟。1559年上野・長野氏に従い甲斐・武田氏と戦う。1561年上杉勢が要衝厩橋城を落とすと、同城主に返り咲いた。しかし、長尾氏を離れて相模・北条氏を頼って独立を謀った疑いで、切腹させられた。
長尾景信(ながお かげのぶ)
????~1578
○十郎 上杉氏
◇父:長尾豊前守房景
 古志長尾氏当主。通称古志十郎。1561年長尾景虎(謙信)の上杉改姓に従い上杉姓を名乗る。甲斐・武田氏との戦い等に参陣、家中で重きを得た。謙信死後、御館の乱では上杉景虎方に味方するが、山浦国清と居多浜で戦い敗死した。
長尾為景(ながお ためかげ)
????~1536 
○六郎 弾正左衛門尉 信濃守 弾正少弼
◇父:長尾信濃守能景 室:長尾顕吉女 子:長尾晴景、景康、景房、竹鶴丸(快叟良慶)、景虎(上杉謙信)
 越後守護代長尾氏当主。守護上杉房能に叛いてこれを討ち、その養子定実を傀儡とする。このことに怒った房能の兄関東管領上杉顕定の来攻を受け、一時は佐渡に逃げるが、後にこれも敗死させて越後の実権を握る。越中攻略中、栴檀野の戦いにおいて、一向一揆衆の奇計にかかって討死した。
長尾晴景(ながお はるかげ)
1510~1553 
○道一丸 弥六郎 道景 定景? 弾正左衛門尉
◇父:長尾為景 子:長尾猿千代
 越後守護代長尾氏当主。しかし軍事より芸事を好み、家中の信望を失う。末弟景虎(上杉謙信)と争って敗れ、1548年、守護上杉定実の調停で景虎に家督を譲って隠居。44歳で病没した。
長尾政景(ながお まさかげ)
1527~1564?
○六郎?新六?新五郎? 越前守
◇父:長尾越前守房長 室:長尾為景女 子:長尾義景、顕景(上杉景勝)
 上田長尾氏当主。長尾晴景、景虎(上杉謙信)兄弟が争った際には、晴景に味方し景虎に再三抵抗したが、景虎が家督を継ぎ地盤を固めると、これに和して以後はよく補佐した。1556年景虎が隠遁した際には、真っ先に説得に行き翻意させている。景虎の出陣中は留守をよく任され、一族の筆頭として働いた。宇佐美定満と船遊び中に溺死したといわれている。
長倉祐政(ながくら すけまさ)
????~???? 
○勘解由左衛門 新七郎
◇父:長倉能登守祐有 子:伊東近江守
 日向・伊東氏臣。父祐有は度々当主義祐に反抗的態度を示した為、謀られて討たれている。薩摩・島津氏から度々侵攻を受け、山田匡徳らと抵抗を続けた。伊東氏が没落して豊後に逃れた後も、遺臣を糾合し都於郡城奪回を試みるが、多くの犠牲を出して失敗した。
中条藤資(なかじょう ふじすけ)
????~1568
○弾正左衛門尉 越前守
◇父:中条定資 養子:中条(吉江)越前守景泰
 三浦和田氏流。越後守護上杉氏臣だが、実際には守護代長尾氏に従い、政軍事共に活躍する。1561年川中島の合戦で奮戦し感状を受けている。
長曽祢興里(ながそね おきさと)
別:長曽祢虎徹
近江の刀鍛冶。虎徹は入道名。はじめは古鉄、のちに乕徹とも称す 近江に生まれ、関ヶ原の戦いで佐和山城が落城したため金沢に移り、甲冑の名工として知られた 需要が減った甲冑師から、刀鍛冶となるために江戸へ移ったのは五十歳を超えてからといわれる 刀鍛冶としての師匠は、和泉守兼重といわれている 長曽祢一族は甲冑鍛冶集団であり、一門に才一、興寛、三右衛門利光、播一山、助七などがいる また、虎徹の一門には、二代目長曽禰興正、興久、興直などがいる
中津川親宗(なかつがわちかむね)
15??~15??
田村家臣。通称兵衛太輔。田村一族であるという。田村氏系図の家臣書き上げに記される「中津川次郎右衛門大夫」や片倉家の記録に「中津川兵衛佐」関係があると思われる。
長野具藤(ながの ともふじ)
????~1576
○北畠氏 次郎 政成? 藤教?
◇父:北畠具教 養父:長野大和守藤定 室:長野藤定女
 伊勢国司・北畠氏一族だが、1558年再三攻防を続けていた北畠氏と在地の土豪・長野氏が和すると、北畠氏から養子入りして長野氏を嗣ぐが、家中の信頼を得るには足らなかったらしい。尾張・織田信長が伊勢へ侵攻してくると、これと戦うが、降伏。信長の弟信包が長野氏を嗣いだ為、長野氏を逐われて北畠氏を頼った。やがて、父具教を信長によって暗殺されると、再び北畠姓を名乗り挙兵するも、信長の攻撃に、田丸城にて自害した。
中畠晴辰(なかはたはるたつ)
15??~15??
中畠晴常の男。白河結城枝連衆。白河家中において重きをなした。父と義親との対立も中畠晴辰の頃には解決していたようである。
中畠晴常(なかはたはるつね)
15??~15??
別:中畑晴常
官途は上野介。結城晴綱の庶子。母方の中畠家を相続したため、中畠姓を称した。義親が白河城に入ったときに、晴常も晴綱の後継者の資格があったために晴常派家臣も多数存在し、義親派家臣団と深刻な対立を呈したという。
中畠晴時(なかはたはるとき)
1570~1590
中畠晴辰の養子。官途は大学助。羽柴秀吉が小田原落城後会津に向かった際、「馬尾滝」において狙撃。しかし弾が当たらなかったため逃走した。1589年、蒲生氏郷に従って「九戸一揆」に出陣、討死した。
中村正清(なかむら まさきよ)
巨勢孫兵衛正義の子。大和の工匠の名家・中村家の養子となる。中村大隈掾正清 松永久秀の信貴山城の整備に貢献し、日本初の天守閣を築いたといわれる のちに織田信長の安土城築城も指揮したという その後も大坂城、高取山城、淀城を築城。朝鮮の役では渡海し、異国の城を研究する 大坂の陣ののち、再建にも従った
奈多夫人(なたふじん)
別:イザベル
大友宗麟の二番目の妻。奈多八幡宮の大宮司・奈多鑑基の娘。兄は武蔵田原家の養子となった田原紹忍 名前は不明で宣教師からイザベルと呼ばれていた 宗麟のキリスト教布教容認から対立し、離縁を申し渡され狂ったといわれる バテレン宣教師からは大悪女のレッテルを貼られた
鯰江貞景(なまずえ さだかげ)
????~????
○満介 備前守 定秀
◇父:鯰江(三条)為定 子:森備前守定春、政次、毛利九郎左衛門高次 近江・六角氏臣。鯰江城主。尾張・織田信長の侵攻を受けて、観音寺城から逃れた義賢父子らを迎え入れる。さらに六角旧臣や湖東三山百済寺等の支援を受けて信長に抵抗を続けるが、1573年落城した。
鯰江貞景(なまずえ さだかげ)
????~????
○満介 備前守 定秀
◇父:鯰江(三条)為定 子:森備前守定春、政次、毛利九郎左衛門高次 近江・六角氏臣。鯰江城主。尾張・織田信長の侵攻を受けて、観音寺城から逃れた義賢父子らを迎え入れる。さらに六角旧臣や湖東三山百済寺等の支援を受けて信長に抵抗を続けるが、1573年落城した。
浪岡顕忠(なみおか あきただ)
????~????
○左近
◇父:浪岡顕範 子:浪岡弾正顕則、秋田右近慶好、山崎顕佐、浪岡顕行
 津軽・浪岡氏一族。1578年浪岡氏滅亡の際、南部氏の下に逃れる。
浪岡顕範(なみおか あきのり)
????~????
○左衛門尉
◇父:浪岡具統 子:浪岡顕忠
 津軽・浪岡氏一族。領地の境界などをめぐって河原御所具信と対立。1562年具信が謀反し、当主の兄具運が殺害されると、逆に水木館にて具信を討った。その後幼年の当主具愛を後見する。
浪岡具運(なみおか ともかず?)
????~1562
○式部少輔 左中将
◇父:浪岡具統 室:平杢之助俊忠女 子:浪岡具愛
 浪岡御所北畠氏9代当主。南部氏が津軽進出に従い、その支配下に入り勢力を維持する。寺社修築に力を入れるが、これが財政悪化を引き起こした。河原御所具信と不和になり、1562年具信らが挨拶に来た際、不意に斬り殺された。
浪岡具運(なみおか ともかず?)
????~1562
○弾正少弼
◇父:浪岡具永 子:浪岡顕重、溝城刑部正?
 父具永によって、断絶していた河原御所を復興し、4代当主となる。甥具運と不仲になり、謀反を起こしてこれを殺害するが、同年、具運の弟顕範によって殺された。「津軽郡中名字」を著す。
浪岡具愛(なみおか ともちか)
1558~1578?
○顕村 顕宗? 三郎兵衛尉 左中将
◇父:浪岡具運 室:浪岡顕範女、安東愛季女
 5歳で父を失い、浪岡御所北畠氏10代当主となるが、家中が治まらず、また京への貢物に領民に重税を課した為、領民の信頼も失った。1578年南部氏から独立した大浦為信によって攻略され、助命を条件に降伏した。しかし、約束は守られず、切腹したとも、安東愛季を頼って逃れ、これに仕えたともいわれる。
浪岡具信(なみおか とものぶ)
????~1562
○弾正少弼
◇父:浪岡具永 子:浪岡顕重、溝城刑部正?
 父具永によって、断絶していた河原御所を復興し、4代当主となる。甥具運と不仲になり、謀反を起こしてこれを殺害するが、同年、具運の弟顕範によって殺された。「津軽郡中名字」を著す。
浪岡具統(なみおか ともむね)
????~1555
○弾正少弼
◇父:浪岡左中将具永 子:浪岡具運  
 浪岡御所北畠氏8代当主。八戸氏の津軽進出に伴って所領を拡げ、大光寺氏・大浦氏と共に津軽を分割統治した。その後八戸氏の支配から離脱を図って三戸氏と親密になり、"三戸の軛"と呼ばれた。また1546年には、弟具信により断絶していた河原御所が復興されている。
成田氏長(なりた うじなが)
1542~1595
○下総守
◇父:成田長泰 弟:小田伊賀守家時
 藤原氏流と称す。父と家督相続で争いになるが、1566年家督を継いで武蔵・忍城主となった。相模・北条氏に従う。豊臣秀吉の小田原攻めの際には早くからこれと内通していたが、小田原城籠城に参加していた為、内通を知らされていない忍城兵は、攻め寄せた石田三成の水攻めに対し抗戦、これを撃退してしまう。戦後内応失敗の責を問われるが、金品の献上により恭順を許され下野・烏山に封を得た。秀吉の側室に娘を差し出したともいわれる。文禄の役では、肥前・名護屋駐屯。京で没後は弟長忠(泰親)が遺領を継いだ。
名和宗安(なわ むねやす)
????~1575
○那波とも 無理介
◇父:名和宗元
 上野の名族。越後・長尾氏に逐われ、甲斐・武田氏臣となった豪傑。縄で編んだ羽織を鎧の上からまとい無理を通すことから、無理介と異称された。長篠合戦において三河・松平軍の夜襲を受けて混乱の中、討たれた。なお、弟顕宗は越後・長尾氏に仕える。
南光坊天海(なんこうぼう てんかい)
出自不明。各地の寺を遊学し無量寿寺の北院の住職・豪海に師事し、師の没後後継ぎ住職となる その後徳川家康に駿府へ招かれ、以後家康の顧問的な存在となり「黒衣の宰相」と呼ばれる 家康の命で関東・天台宗寺院を支配する立場になる 家康死後、その祀られ方で金地院崇伝らと論争し勝利した
南部安信(なんぶ やすのぶ)
????~????
○右馬允 大膳大夫
◇父:南部右馬頭政康 子:南部晴政
 陸奥・三戸南部氏23代当主。1524年家臣三代主水が反乱を起こし津軽郡代堤光康を逐うと、弟高信に兵を与えて鎮圧する。さらに、北畠顕家の裔、浪岡氏を攻略。弟らを各地に配し、西の安東氏に備えては、高信に津軽地方を任せ、秀範を毛馬内城に置き、南の斯波氏に大しては信房に不来方城を守らせ、長義には浅水城を守らせる等して勢力の拡大と維持を果たした。