歴史・人名

伯耆国の寺院-仏教伝来

鳥取の廃寺の方が、奈良に残っている寺院より古いのではないかと探ってきましたが、お手上げです。どうしてかと言いますと、考古学の学者の方の方が、論の進め方がただしいように思えるからです。 鳥取県の廃寺は、発掘調査されていない所があって、詳しく判っていない部分があります。
 古墳よりは、出土したものは、豊富ですから、遺跡の時代の確定は確実と思われますが、多くの場合、出土した瓦の分析から、確定しておられます。
 先日、『吉備の古代寺院』を手にしてからは、一層、その感が強いです。
 例えば、数種類の瓦が出土しているときは、瓦の数が少ない時には、その河原は修理に使われたのであろうという判断をされていますと。その可能性は大きいのですが、その様に断定しても良いのでしょうか?
もう一つの疑問は、どうして、瓦しか出てこないのでしょうか?  奈良時代であれば、釘の一本ぐらいはあっても不思議ではありませんが、お目にかかりません。もし焼けたのであれば、木は腐っても、焼けた部分は、少しぐらい残っても良いのですが、朽ち果てたと考えるのでしょうか? 朽ち果てるほど人がいなかったのでしょうか?
伊賀の国分寺と言われている寺が、山の中にありました。登山口には家がありますが、お寺のところでは、人家はありません。朽ち果てる最中といった感じです。これなどは、実験です。一年ごとに、どれほど朽ちていくか、記録をすればいいと思います。入口の土塀は、上にあったであろう瓦はなくなり、塀の高さは低くなっていました。
 どうして、寺だけが瓦で葺かれているのか、疑問は付きません。
 6~7世紀の遺跡ですのに、人間の営みが全く表現されていません。
 考古学の歴史に対する限界があるのではないかと感じています。

『吉備の古代寺院』では、最初のページから、仏教伝来のことを取り上げています。
『日本書紀』によると、日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明十三年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)を根拠に538年(宣化三年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にも538年が掲載されているそうですから、各廃寺の建立は、これ以前は、まずいことになります。というか、制約されると思われます。
 『吉備の古代寺院』の2ページ目には、次のような文章があります。
「氏族仏教
伝来初期の仏教は仏像と経典のみで、伽藍をもたない草堂仏教の段階であった。日本において、伽藍を備えた本格的寺院は飛鳥寺(法興寺)を嚆矢とする。その造営過程は『日本書紀」に詳細に記されている。それによれば、崇峻天皇元年(五八八)建立が開始され、同五年(五九二)金堂と回廊を起工、翌推古天皇元年(五九三)塔を起工、同四年(五九六)造営が完了した。このような造営は蘇我馬子が壇越となって推進されたので、飛鳥寺は蘇我氏の氏寺的要素が強かった。
「日本書紀』推古天皇三二年九月条によれば、六ニ四年当時の寺院数は四六所であったという。これは考古学から知られる飛鳥時代の寺院跡数とほぼ合致する。しかも.その分布が畿内地方に集中し、それ以外では備中などごく限られた地方のみであることが注意される文1。舒明天皇一一年(六三九)天皇は百済大寺の造営を開始した。百済大寺については、最近の調査で奈良県桜井市.吉備池廃寺がそれに該当することが判明した。それによれば、金堂の基壇規模が東西約三六㍍、南北約二四㍍、塔のそれが復元で方約三二㍍と巨大であり、塔は文献の記載どおり九重であったことが確認される(文2)。しかし、百済大寺は舒明天皇によって創建されたものの、国家的寺院というよりも、天皇家の寺院的性格が強かった。したがって、飛鳥時代の寺院は王族や有力氏族それに渡来氏族など、ごく限られた階層にのみ受容された。その意味で、氏族仏教の段階にとどまっており、仏教が地域社会に浸透することは希薄であった。・・・・」

「日本書紀』推古天皇三二年九月条によれば、六ニ四年当時の寺院数は四六所であったという。これは考古学から知られる飛鳥時代の寺院跡数とほぼ合致する。
 この部分の記述は、隠す必要がなく、どちらかと言うと、日本書記の編集者の祖先が残した仕事になるので、正しい数値ではないかと思います。
 ところが、百済大寺になりますと、舒明天皇によって創建されたもののとされていますが、本当のことでしょうか?
推古天皇は、在位36年3月7日(628年)に死去した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇です。
これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとした言う説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したと言う説があるそうですが、この辺りから歴史はあやしくなっています。舒明天皇の子供は、第二皇子である中大兄皇子、後の天智天皇が引き継いでいます。
舒明天皇のときに、遣唐使が派遣されていますが、遣隋使のときの様に、背伸びをしながらでも、対等に付き合う遣隋使なら分かりますが、遣唐使は、舒明天皇が派遣したのではなく、漢人であった者が派遣したものでしょう。
第二回の遣唐使の資料を書きます。
 第2回 白雉4年(653年) - 白雉5年(654年):吉士長丹・吉士駒・高田根麻呂・掃守小麻呂・道昭 、定慧
定恵(じょうえ、皇極天皇2年(643年) - 天智天皇4年12月23日(666年2月2日))。飛鳥時代の学僧。父は中臣鎌足藤原鎌足)。母は車持国子の娘・与志古娘。
出家前の俗名は「中臣真人」、弟は藤原不比等
653年5月遣唐使とともに唐へ渡る。長安懐徳坊にある慧日道場に住し、神泰法師に師事した。遊学して内経外典に通じたという。665年(天暦4年)9月、朝鮮半島の百済を経て日本に帰国。同年12月大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で亡なる。病気で紀未来か?

派遣された人の中に、「定慧」がいます。父は中臣鎌足藤原鎌足)で、藤原不比等は弟になります。この段階で、中臣鎌足は、中国の傀儡政権の実力者だったと思われます。
このように、見てきますと、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にありましたし、その後に、続く白村江の戦い、壬申の乱などは、辻褄の合わないことだらけです。
 すべて、日本書紀に書かれてあることが正しいとして、歴史の解明に利用しているからです。

飛鳥寺(法興寺)の造営過程は『日本書紀」に詳細に記されている。それは、藤原氏の歴史だからです。法隆寺に関しては、焼けた記述はありますが、創建のことは記されていません。これは、天皇家の建立になるからだと思っています。
 ここの壁画と同じものが、伯耆国の上淀廃寺で見つかりました。これは、法隆寺を建てた人が、上淀廃寺を建てたという解釈も成り立ちますが、上淀廃寺を建てた人が、法隆寺を建てたとも言えます。
 兎に角、日本書紀は、伯耆国に天皇家の匂いのするものは、全部焼却したように思われてなりません。大国主神は、古事記をみましても、天皇と直接関係ありませんが、随分多くのスペースをとって、書いていますが、日本書紀では、出雲大社に行ったことしか書いてありません。数えあげればきりがありません。
 645年の年は、年号を始めて採用された年で、「大化の改新」と呼ばれています。めでたいことではなく、漢人が日本を征服した記念の年だと思います。
 この後、寺院の建築が進んだと思われます。それまで、大きな古墳を造って、勢力を競っていましたが、その必要がなくなりました。それまでに、要していた富は、今度は寺院の建築に流れが変わったのではないでしょうか?
その最大のものは、741年から進められた国分寺の建設ではないかと思います。全部、天皇家が建てたかと言いますと、そうではなく、美濃などは、天皇家の匂いがします。伯耆国の国分寺は藤原氏の息の掛った者が建てたのではないでしょうか?
国分寺のことは、これから調べることになります。