歴史・人名

用語解説

用語解説

用語
意味
大名
江戸時代に1万石以上を領し、将軍と直接の主従関係にあった武士のこと。領国の統治には独立の権限が与えられるが、武家諸法度によって厳しく統制され、参勤交代・軍役などの義務を負わされていた。徳川将軍家との親疎関係により、親藩・譜代・外様に区分され、また官位や江戸城での伺候の席など、大名ごとに決められた家格があった。俗に三百諸侯といい、幕府安定期には260~280家が存在した。
親藩
徳川家康以降、将軍家の子弟で大名に取り立てられた家の総称。家康系の越前・紀伊・尾張・水戸家、秀忠系の保科家、家光系の甲府・館林家、吉宗系の田安・一橋家、家重系の清水家など。
御三家
徳川将軍家の一族で尾張・紀伊・水戸の三家のこと。家康の9男義直、10男頼宣、11男頼房がそれぞれ初代で、嫡流は代々徳川姓を称し、分家は松平姓を名乗った。官位格式において諸大名中最高の待遇を受け、将軍家に嗣子の無い場合、これを継承する権利を持っていた。8代吉宗、14代家茂は、ともに紀伊家から出て将軍となっている。
御三卿
徳川将軍家の一族で田安・一橋・清水の三家のこと。8代将軍吉宗の時代、すでに血縁の薄くなっていた御三家に代わり、徳川宗家に嗣子無き場合これを継ぐ家として新たに創設された。当主が民部卿や刑部卿などの官名を称したためこう呼ばれる。吉宗の2男宗武、3男宗尹と9代家重の2男重好がそれぞれの家祖。11代家斉、15代慶喜は一橋家から出て将軍となっている。
御家門
徳川家の分家大名で御三家・御三卿以外の家の総称。家康の2男結城秀康を祖とする越前松平家とその分家、秀忠の3男保科正之を祖とする会津松平家、御三家の分家の他に久松松平家、越智松平家などがあり、いずれも松平姓を称した。中でも会津松平家と御三家の分家のことをとくに「連枝」と呼んだ。徳川一門ではあるが、幕府の待遇は御三家と比べるとかなり劣っていた。
十八松平
徳川家康の登場以前、松平氏がまだ三河の一豪族であった頃に成立した庶流の諸家。三河の各地に配置され、その本拠地の地名を以て呼ばれた。岩津、竹谷、形原、大草、五井、深溝、能見、長沢、大給、宮石、滝脇、福釜、桜井、東条、藤井、三木、鵜殿、押鴨の18家で、断絶したものもあるが、子孫の多くは江戸幕府成立後、譜代大名や旗本として繁栄した。
譜代大名
江戸時代の大名で、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以前より徳川家に仕えてきた家の総称。しかし、外様であっても「願御譜代家」、「御譜代並」と呼ばれ、譜代格として扱われた家もあった。各国の枢要の地に配置され、老中や奉行など、幕府要職に就くことができるが、禄高は井伊家や酒井家を除けば1~5万石の小大名が多く、また幕政に参画したためかえって政争や事件に巻き込まれて取り潰された家も多い。
外様大名
関ヶ原合戦の際に徳川家に加担した大名及びその後に臣従した大名の総称。加賀前田家、薩摩島津家、筑前黒田家、長門毛利家、仙台伊達家など、大きな所領を持つ大名もあったが、原則として幕政に参画することができず、封土も僻遠の地にある場合が多かった。江戸初期には幕府の廃絶政策は主に外様大名に向けられ、越後堀家、肥後加藤家、安芸福島家、会津加藤家などがその標的となった。
旗本
御家人とともに将軍直属の家臣の総称。直参ともいい、知行高1万石以下の武士のこと。諸士法度によって統制され、若年寄の管掌下に属した。旗本と御家人の区別は制度的に明確ではないが、一般的に将軍に拝謁を許される家格が旗本、許されないのが御家人、また知行高200石以上が旗本、以下が御家人とされている。
交代寄合
旗本の中で身分・格式が大名に準じた家。通常の旗本と違って領地に在住し、隔年あるいは数年に一度、参勤交代した。30余家存在し、江戸城中における詰所は帝鑑間か柳間であった。
大老
江戸幕府の職名。将軍を補佐する最高位の職で、大老が政務上で決定したことは将軍であっても変更できないほどの権威を持ち、将軍同様、老中を官名で呼捨てにすることができた。酒井・土井・堀田・井伊の4家から選ばれ、例外として4家以外の者が就任した場合は「将軍補佐」、「後見人」、「政治総裁」などといい、大老とは呼ばなかった。常置の役職ではなく、江戸期を通じて大老に任ぜられたのは酒井忠世、土井利勝、酒井忠勝、酒井忠清、井伊直澄、堀田正俊、井伊直興、井伊直幸、井伊直弼、酒井忠績の10人のみである。
老中
江戸幕府の職名。鎌倉幕府の連署、室町幕府の管領に相当する。将軍に直属して政務全般を統轄する職で、大老が置かれない場合は幕府の最高官として機能した。定員4、5名の月番制で、原則として2万5000石以上の譜代大名から選任された。
若年寄
江戸幕府の職名。老中に次ぐ要職で、『藩翰譜』では少老とある。将軍に直属し、主に旗本・御家人に関する事務を統轄した。定員3~5名の月番制で、無城格の譜代大名から選任された。
側用人
江戸幕府の職名。将軍側近の最高職。天和元年(1681)、5代将軍綱吉が、館林藩主時代の家老だった牧野成貞を側衆から登用したのが最初である。将軍の官邸にあたる中奥の長官として将軍の命を老中に伝達し、また老中の上申その他を将軍に伝え、時には可否を進言するのを職分とした。綱吉時代には万石未満の者が任命された事もあるが、原則として万石以上の者が任ぜられ、老中に準ずる待遇を与えられた。しかし常置の役職ではなく、その権限も時期や将軍の信任の度合いによって、就任者ごとに相違があった。綱吉時代の柳沢吉保、6代家宣・7代家継時代の間部詮房、10代家治時代の田沼意次などが有名。
奏者番
江戸幕府の職名。大名や旗本が将軍に謁見する際の取次など、殿中での武家礼式を掌った。この職に就く者は有職故実に通じ、かつ諸大名の氏名・官位・領地等をすべて記憶しなければならなかったため、「怜悧英邁の仁にあらざれば堪へず」と言われた。定員は20~30名。譜代大名から選任され、若年寄・老中への登竜門でもあった。なお、典礼に関する職にはもう一つ高家があるが、こちらは宮中関係専門である。
高家
高家はもともと名族という意味で、転じて儀式典礼に関することを掌る江戸幕府の職名となった。勅使・院使・公家衆の接待に任じ、伝奏御用・京都名代・伊勢名代・日光名代などを交代で務めた。大沢、武田、品川、織田、六角、畠山、吉良など名門の子孫が世襲し、禄高は万石以下ながら官位は並の大名より高く、四位五位の侍従、少将から中将まで進むことができた。古参のものを高家肝煎といい、非役無官のものを表高家と呼んだ。
京都所司代
江戸幕府の職名。老中に次ぐ要職で、地方官としては最高位である。朝廷・公家・寺社の支配及び西国33ヶ国の諸大名を監視するために設置された。役知1万石。定員1名。3万石以上の譜代大名から選任された。
大坂城代
江戸幕府の職名。老中・京都所司代に次ぐ要職。大坂在勤の役人の統轄と大坂城の守衛が主な任務であったが、西国33ヶ国に対する緊急時の軍事指揮権と訴訟裁断権も有していた。役知1万石。定員1名。5~10万石の譜代大名から選任され、この職を無難に務めた者は所司代・老中へ昇進することができた。
月番制
老中や若年寄など複数の人間が就く役職で、一月ごとに交代で執務すること。執務月でない月は非番という。ただし、月番制で処理される事柄は各職掌の一部だけで、非番月の者にも種々の仕事があり、また重要案件については同役の合議に付された。月番制と合議制を併用する事によって、個人に権力が集中するのを防ぐというメリットがあった。
大御所
本来は親王・関白・摂政・将軍の隠居所を指す言葉だったが、江戸時代には前将軍の尊称として使われた。とくに譲位後も実権を掌握し続けた11代家斉の治世は大御所時代と呼ばれる。
大君
易経(儒教の経典の一つ)に見られる語で、本来は天子の意味であるが、寛永年間(1624~1643)以降は将軍の別称として使われるようになった。幕末に日本と交渉を持つようになった西洋諸国は、天皇を神聖君主、大君を天皇の代理者、世俗の皇帝と理解した。
御料(天領)
江戸幕府の直轄地のこと。御料所、公領ともいう。米産地の他、日本各地の主要都市や石見・佐渡・伊豆などの鉱山も含まれ、この収入が幕府の経済的基盤をなした。大坂の陣終結時には約230万石だったが、その後大名家の取り潰しによる所領没収などで次第に増加し、幕末には400万石に達していた。なお、天領は明治維新後に使われるようになった呼称である。
大名が支配する領域あるいはその支配機構のこと。古代中国の封建制度で皇帝から領地を与えられた諸侯を藩王・藩鎮・藩屏などと呼んだことに由来する。主に儒者によって使われた言葉で、幕末には一般的に広まっていたが、幕府が公式に藩という名称を用いたことはなく、大名領に対する公称は領知もしくは知行所であった。
大名の家格
江戸城中での詰所(大廊下・溜間・大広間・帝鑑間・柳間・雁間・菊間の7つ)のいずれかに、全大名の席が決められていた。また領地の大小や居城の有無による格差(国主・準国主・城主・城主格・無城)もあった。
大廊下詰
江戸城本丸大廊下の上部屋・下部屋に席を定められた大名。上部屋に御三家、下部屋に越前福井松平家、加賀前田家などがおり、諸大名の中で最も席次が高い。
溜間詰
黒書院溜間に席を定められた大名。会津松平家、伊勢桑名松平家、彦根井伊家、姫路酒井家など家門と名門の譜代大名の他、老中を長年務めた大名もここに着座した。
大広間詰
大広間に席を定められた大名。薩摩島津家、仙台伊達家、秋田佐竹家、対馬宗家など国主・準国主格で10万石・四位以上の官位を持つ外様大名と越前系の松江松平家など家門の大名がおもに着座した。
帝鑑間詰
白書院帝鑑間に席を定められた大名。徳川一門である水戸家や越前家の分家、城主格以上の譜代大名が着座した。
柳間詰
大広間と白書院の間に位置する柳間に席を定められた大名。7万石以下で五位の官位を持つ外様大名、大広間詰の外様大名の分家、表高家などが着座した。蝦夷松前家、河内狭山北条家など。このクラスの大名でも四位に叙任されると大広間詰に昇進できた。
雁間詰
白書院と黒書院の間に位置する雁間に席を定められた大名。城主格以上で10万石以下の譜代大名と高家が着座した。ここの大名は詰衆とよばれ、幕政に参画することが多く、老中に選ばれるのは大体このクラスの者であった。備中松山板倉家、越前鯖江間部家など。
菊間詰
白書院と黒書院の間に位置する菊間に席を定められた大名。2万石以下で無城の譜代大名の他、一部の旗本が着座した。大名の席次としては最低。遠江相良田沼家など。
国主
1国以上、もしくはそれに相当する広大な所領を持つ大名。高い官位と格式が与えられた。加賀金沢前田家、薩摩鹿児島島津家、陸奥仙台伊達家、肥後熊本細川家、筑前福岡黒田家、安芸広島浅野家、長門萩毛利家、肥前佐賀鍋島家、因幡鳥取池田家、備前岡山池田家、伊勢津藤堂家、阿波徳島蜂須賀家、土佐高知山内家、筑後久留米有馬家、出羽秋田佐竹家、出羽米沢上杉家の外様大名16家に越前福井松平家、出雲松江松平家の家門2家を合わせた18家があり、のち陸奥盛岡南部家と対馬府中宗家も加えられた。
準国主
国主に準ずる格式を与えられた大名。伊予宇和島伊達家、筑後柳川立花家、陸奥二本松丹羽家の3家。
城主
国主・準国主以外で居城を持つ大名。
城主格
城は持たないが城主と同一待遇を受ける大名。
無城
城を持たず、陣屋だけを持つ小大名。
陣屋
無城の大名や交代寄合の居館。
官位
江戸時代に武家が朝廷から授かる官位は、「公家当官の外たるべき事」と定められ、『公卿補任』には将軍・大名の名は載らないことになっていた。将軍は普通、就任後正二位内大臣となり、右近衛大将を兼ね、死後に正一位太政大臣が贈られる。諸大名の官位も、家ごとにほぼ一定していた。
禄高
俸禄の額。つまり給料のこと。武士の収入は米の石数で表される。ただし石数は、領内で生産された米の総数であり、江戸時代は普通四公六民か五公五民なので、10万石の大名の場合、実収入は4、5万石であった。
陪臣
家臣の家臣。又者、又家来、内の者ともいう。将軍から見た場合、大名・旗本の家臣は陪臣にあたる。
武家諸法度
江戸幕府の大名統制を目的とした最重要法令。元和元年(1615)、家康の政治顧問であった金地院崇伝によって起草され、13条からなりのち若干修正が加えられた。大名の文武の心得、婚姻の制限、居城の修復の制限、領地の行政、参勤交代の制などが定められており、将軍の代替わりのたびに発布された。
諸士法度
旗本法度、雑事条目ともいう。旗本・御家人の守る基本法令。3代将軍家光の時、寛永9年(1632)、同12年(1635)と2度公布されたが、内容が武家諸法度とほぼ同じであったため、5代将軍綱吉の時廃止された。
参勤交代
江戸時代に幕府が大名を1年交代で江戸に在府、領地に在国させた制度。正しくは参覲と書く。元和元年(1615)、武家諸法度で「諸大名参勤作法」が規定、寛永12年(1635)、武家諸法度改補で制度化され、大名妻子の江戸常駐も義務付けられた。ただし、対馬宗家は3年に1度、蝦夷松前家は5年に1度、水戸徳川家と役付きの大名は定府とするなど、例外もあった。この制度は領国との往来や江戸での生活によって生じる莫大な出費で大名の財力を削ぎ、また藩主とその家族が人質となる事で諸大名が地方に割拠する形成を抑制するなど、幕府が中央集権体制を維持するのに絶大な効果があったが、幕威の衰えた文久2年(1862)になると大大名が3年に1度、他は100日のみの在府と改正された。
表高
江戸時代に幕府が公認した大名領の公式の石高。朱印高ともいう。大名の家格や軍役賦課は、この表高によって決められた。
内高
大名の実収高のこと。表高が固定的なのに対し、内高は検地や新田開発などによって増加する場合が多い。例えば長州藩では、表高は江戸期を通じて36万9411石だが、内高は慶長検地高53万石余、寛永検地高65万石余、貞享検地高81万石余、宝暦検地高89万石余、天保期には97万石余にまで増加していた。表高に比べて内高の高いほど、その大名家の潜在的な軍事力は大きいといえる。
軍役
武士が主君から与えられた所領・俸禄の代償として負う軍事上の義務のこと。戦国時代に明確化し、豊臣秀吉の時代に石高制軍役が創始された。江戸時代には元和2年(1616)、知行高500石~1万石までの武士の軍役が定められ、次いで寛永10年(1633)、200石~10万石までの軍役を規定・改定し、この時の軍役令が文久2年(1862)の軍制改革まで維持された。平時には大名の軍役奉仕は、参勤交代、御手伝普請、大名改易時の城受け取りの際などに適用された。
改易
武士の身分・知行などを剥奪すること。大名の場合、家の取り潰しを意味した。
除封
大名の封土(領地)を没収すること。改易とほぼ同義。
減封
大名の封土を削減すること。
分封
分知ともいう。大名や旗本が領地を兄弟や一族で分割して相続すること。
転封
幕府が大名の領地を替えること。移封・国替ともいう。外様大名を枢要の地から追い出したり、領主の在地性を払拭させることを目的に行われた。
無嗣廃絶
嗣子がなく家が絶えること。江戸初期は末期養子が禁じられていたため、無嗣により取り潰される大名が続出、主家を失った浪人が大量に発生し社会情勢が悪化した。慶安4年(1651)に由比正雪が浪人を集めて幕府転覆を謀った事件が起ると、幕府は末期養子の禁を緩和し、養父の年齢が17歳以上50歳以下の場合これを許した。
末期養子
世継のいない大名や旗本が、重病危篤の際に急に願い出る養子のこと。急養子ともいう。江戸初期には認められていなかったが、慶安4年(1651)12月以降、17歳以上50歳以下の者に限り許されるようになった。年齢制限が設けられたのは、50歳以上の者はすでに実子誕生の望みも薄く、当時でいえば寿命も近いため、その身が健康なうちに相続人を選定しておくことが武士として当然の義務であり、瀕死になってから養子を決めるのは怠慢と考えられていたからである。但し、50歳を過ぎた者で重病中に実子が死亡し、養子も選定していないという場合は、所定の手続きを踏むことで例外的に末期養子が許可された。17歳以下の者は若年で、一人前の能力を有しないと考えられたため、養子願い出が許されなかった。なお、選定の際には幕府派遣の吏員が出願人の生存を見届け、出願が真実本人の意思で行われたかどうかを確認する判物見届を必要とした。これにより、親族や家中の者が本人の意思に反した養子を勝手に選定したり、本人の死後も生存を装って出願したりするのを防いだのである。末期養子は出願人の病気が回復した時には、これを取り下げることができた。
仮養子
世継のいない大名や旗本が、参勤交代で帰国する際、あるいは公用で遠国へ赴任する場合などに、旅行中・国許・赴任先で死亡した時のために選定しておく停止条件付きの養子のこと。この制度は遠国では判物見届ができず末期養子の出願が不可能なことから必要とされ、出願者が旅行中・国許・赴任先で死亡した場合、仮養子は末期養子同様、跡式相続の本養子となった。仮養子は出願者に嫡子もしくは家督相続人たる適当な実子がいないことが条件であり、出願中に実子が誕生した場合は、先の出願を取り消さねばならなかった。また出願者が江戸に戻った時にはその効力を失うため、仮養子願いは旅行の度に新たに差し出す必要があった。
嫡孫承祖
嫡孫(嫡子の嫡子)が、父を通さずに直接祖父の家督を継承すること。
藩翰譜
新井白石が甲府藩主徳川綱豊(のちの6代将軍家宣)の命によって著した私撰の家譜。慶長5年(1600)から延宝8年(1680)までの諸大名337家の系図、歴代当主の伝記などが詳述されている。
廃絶録
旗本小田彰信の著作。関ヶ原合戦以降の大名家の除封・減封を編年体で記録したもので、文化年間(1804~1817)の成立という。幕末期のものは別人によって加筆された。江戸時代の大名を研究する上での重要史料だが、石高や領地などの記述に夥しい誤りがある。
尊号事件
江戸末期、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号宣下を望んだ結果生じた朝廷と幕府間の対立。「禁中並公家諸法度」の規定により、父典仁親王が宮中序列において臣下である大臣よりも下位に置かれることを心苦しく思った光格天皇は、過去に2度の先例があることを根拠に太上天皇尊号宣下を行って父の地位を格上げさせようと考え、寛政元年(1789)、幕府に了承を求めた。時の老中首座松平定信はこれを名誉を私するものであるとして反対したが、朝廷側がその後も再三にわたって要求を続けたため、寛政5年(1793)、武家伝奏正親町公明・議奏中山愛親を江戸に召喚して処罰し、ついに天皇に宣下を断念させた。定信がこの件を強引に握り潰した背景には、当時幕府内部でも将軍家斉が実父の一橋治済を江戸城西丸に迎えて大御所の尊号を贈ろうとする動きがあり、これを封ずる狙いがあったといわれている。定信はこの事件が要因で失脚しているが、朝廷との関係を悪化させ、のちの尊王運動にも影響を与えたという点で、幕府にとっても大きな意味を持つ出来事であった。なお、典仁親王は明治17年(1884)に至って、太上天皇の尊号と慶光天皇の諡号を追贈されている。
公武合体
江戸末期、朝廷(公)の伝統的権威と結びつくことで幕府(武)の体制強化と政局の安定を図ろうとした政治方針。文久2年(1862)2月の和宮降嫁で具体化したが、坂下門外の変で推進者の老中安藤信正が失脚したため、幕府主導による公武合体政策は挫折した。
和宮降嫁問題
仁孝天皇第8皇女和宮(親子内親王)と14代将軍徳川家茂との婚姻を巡る一連の政治問題。皇女の降嫁は条約勅許問題や安政の大獄などで悪化した朝幕関係を融和させるため、大老井伊直弼の下で構想され、直弼暗殺後、公武合体政策を推進する老中久世広周・安藤信正によって万延元年(1860)4月、正式に奏請された。和宮の異母兄にあたる孝明天皇和宮が既に有栖川宮熾仁親王と婚約していたことを理由に一旦拒絶したが、老中側の工作や侍従岩倉具視の建言もあって、条約破棄・攘夷実行などを条件にこれを承諾し、文久2年(1862)2月11日、江戸城内で婚儀が行われた。しかし、和宮降嫁は尊王派の志士を刺激し、降嫁を強制したとして老中安藤信正は坂下門外で浪士に襲撃され後に失脚、また朝廷内部でも久我建通・千種有文・岩倉具視・富小路敬直ら公武合体派の廷臣が幕府から賄賂を貰って策動したとの批判を受けて追放されたため、反幕派が勢力を増し、降嫁による朝廷との融和、権威回復を図った幕府の目論見は失敗に終わった。
条約勅許問題
安政5年(1858)6月19日、幕府が天皇の勅許を得ず独断で日米修好通商条約に調印したことで起った政治紛争。独断調印は、アロー戦争で清国を破ったイギリス・フランスの艦隊が日本にも来航するという情報をアメリカから入手した大老井伊直弼が戦争を回避するためにやむなく行ったものであったが、攘夷主義者の孝明天皇が水戸藩に条約調印の批判と攘夷を促す密勅を下すなど、朝廷の政治介入と尊王攘夷運動が台頭する契機となり、また攘夷か開国か、勤王か佐幕かを巡る幕末の政争と幕府倒壊の出発点にもなった。
ヒュースケン暗殺事件
米国公使館の通訳を務めていたオランダ人ヘンリー・ヒュースケンが万延元年(1861)12月5日に攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平らによって殺害された事件。老中安藤信正が事後処理を担当する。米国側は賠償金のかわりにヒュースケンの遺族に1万ドルを支払うことを要求、幕府はこれに応じ、事件は解決した。
坂下門外の変
老中安藤信正の公武合体政策に反対する水戸浪士ら7名が、文久2年(1862)1月15日に江戸城坂下門外で信正を襲撃した事件。警護が厳重であったため浪士らは全員現場で斬殺され、暗殺は未遂に終わった。しかし、事件後信正は島津久光らによって辞職に追い込まれ、結果として幕府の権威は弱まった。
奥羽越列藩同盟
戊辰戦争の際、陸奥・出羽・越後の諸藩が新政府に対抗して結成した同盟。明治元年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府は、奥羽鎮撫総督を仙台に派遣して会津・庄内両藩の追討を命じたが、仙台・米沢両藩を中心とする奥羽諸藩は会津赦免の嘆願書を総督府に提出した。これが却下されると、奥羽25藩の代表は白石で会合を行い、5月3日、「大事件は列藩衆議」で決定するとの盟約書および会津・庄内追討を不当とする政府宛の建白書に正式調印し、これに長岡・新発田などの越後6藩も加盟して奥羽越列藩同盟が成立、7月、江戸から輪王寺宮公現法親王を盟主に迎えて白石に公議府を設け、陣容を整えた。新政府は征討の方針を固め、5月から9月にかけて激しい戦闘が行われたが、7月末の新潟陥落と、北越の要であった長岡藩の敗北を契機に同盟諸藩の脱落が続き、8月28日に米沢藩、9月15日に仙台藩が降伏し、9月22日の会津落城を待たずに同盟は崩壊した。
知恩院
京都市東山区にある浄土宗の総本山。寺号華頂山知恩教院大谷寺。徳川家康が浄土宗徒だったため、慶長8年(1603)、江戸幕府が成立すると徳川家の菩提寺となり、伽藍の拡張工事が行われ、寺領700石余を寄進された。慶長12年(1607)、家康は後陽成天皇の皇子八宮を知恩院門跡に定め、元和元年(1615)、八宮を自身の猶子とした。以後、門跡は代々皇族から選ばれ、徳川将軍の猶子となった上で入寺するのが慣例となった。
太上天皇
譲位した天皇の尊号。略して太上皇・上皇ともいい、法体の場合は法皇という。文武元年(697)に持統天皇が譲位して太上天皇を称したのが始まり。
尊称天皇
皇位につくことなく生前に太上天皇の尊号を贈られた親王のこと。これに対し、没後に太上天皇を追贈された親王は追尊天皇という。ともに歴代天皇には加えない。尊称天皇歴史上、後堀河天皇の父守貞親王(高倉天皇の第2皇子。諡号後高倉天皇)と、後花園天皇の父貞成親王(伏見宮家初代栄仁親王の王子。諡号後崇光天皇)の2例だけである。
親王
皇族の称号の一つ。天皇の兄弟、皇子のこと。皇孫以下であっても、宣下があれば親王になる事ができた。女性の場合は内親王という。称号そのものは天武朝の頃から存在し、大宝令によって制度的に定められた。親王には一品から四品までの品位が授けられ、品位に応じて太政大臣、左右大臣、大納言、太宰帥、八省卿等の官職に任ぜられた。現在の皇室典範では、親王・内親王は嫡出の皇子女および皇孫に限定されている。
入道親王
親王宣下を受けた後に出家した皇族の称号。反対に、出家後親王宣下を受けた皇族は法親王と呼ばれる。
四親王家
江戸時代の世襲親王家。崇光天皇の第1皇子栄仁親王が創立した伏見宮家、正親町天皇の皇孫智仁親王が創立した桂宮家(八条宮家。後に常磐井宮、京極宮、桂宮と改称)、後陽成天皇の第7皇子好仁親王(高松宮)が創立した有栖川宮家、東山天皇の第6皇子直仁親王が創立した閑院宮家の四宮家。
堂上
公家一般の称。内裏清涼殿の殿上の間に昇殿できる五位以上の者を指す。昇殿できる家柄のことを堂上家といい、官途や家筋によって摂家・清華家・大臣家・羽林家・名家・半家に分けられた。明治維新後、全ての家が華族となり、武家華族や勲功華族と区別して堂上華族・公家華族などと呼ばれた。
地下
朝廷官人の称。堂上に対し、清涼殿への昇殿を許されない者(通常は六位以下の官人)を指す。この家格に属する者は例え三位に進んでも昇殿は許されなかった。維新後、官務の壬生家と局務の押小路家が華族に列した。
官務
太政官三局(少納言局・左弁官局・右弁官局)のうち、左右弁官局の上席である左大史のこと。平安中期以降、小槻氏がこの職を独占し、左右大少史以下の官人を統轄して太政官の庶務を掌握するようになり、官務家・官長者と呼ばれるようになった。のち小槻氏は壬生家と大宮家に分裂したが、室町末期に大宮家が断絶したため、以後明治まで壬生家の独占世襲するところとなった。
局務
太政官三局のうち、少納言局の外記の上席である大外記のこと。少納言局では詔勅・宣旨の作成などを掌っていたが、少納言が侍従兼帯の職で十分に事務を執ることができなかったため、次第に大外記が局中の実務を掌握し、局務と呼ばれるようになった。清原氏・中原氏が代々この職を務めたが、室町時代に清原氏(舟橋家)が堂上に列したため、以後は中原氏(押小路家)が独占世襲した。
華族
近代日本の特権的貴族階級のこと。明治2年(1869)、それまで使われていた公卿、諸侯(大名)の称号が廃止され、ともに華族と呼ばれるようになり、後に明治維新の功労者がこれに加えられた。明治17年(1884)、華族に関する法律が制定され、イギリスの貴族制度を元につくられた公・侯・伯・子・男の5つの爵位が、それぞれの家格や功績に応じて与えられた。その後、政治・軍事面で国家に功績のあった人、文化・学術面ですぐれた業績を挙げた人、実業家、僧侶、神官なども華族に列せられたため、当初427家だった華族数は増加し、第二次大戦後の昭和22年(1947)、日本国憲法の施行によって制度が終焉した時には889家の華族があった。
奈良華族
奈良興福寺の門跡や院家の住職となっていた公家の子弟が、維新後に還俗して華族となったもの。粟田口・今園・太秦・梶野・河辺・北大路・北河原・小松・相楽・鷺原・鹿園・芝小路・芝亭・杉渓・竹園・長尾・中川・西五辻・藤枝・藤大路・穂積・松園・松林・南・南岩倉・水谷川の26家で、全て男爵を授けられた。
中大夫
江戸幕府の旗本のうち、維新の際新政府に帰順した者に与えられた身分呼称。高家・交代寄合を中大夫、1000石以上を下大夫、1000石以下~100石までを上士と呼んだ。これらの称は明治2年(1869)12月2日に廃止となり、士族に一本化された。のち旧中下大夫を五等華族(男爵)にするという案も出されたが、実現せずに終わった。
下大夫
江戸幕府の旗本のうち、維新の際新政府に帰順した者に与えられた身分呼称。高家・交代寄合を中大夫、1000石以上を下大夫、1000石以下~100石までを上士と呼んだ。これらの称は明治2年(1869)12月3日に廃止となり、士族に一本化された。のち旧中下大夫を五等華族(男爵)にするという案も出されたが、実現せずに終わった。
麝香間祗候
華族と官吏功労者に与えられた宮中席次・待遇における優遇資格のこと。明治2年(1869)、前議定の蜂須賀茂韶らを天皇の相談役として京都御所の麝香間に隔日出仕させたのが始まり。親任官待遇だが職制・俸給はなく、一種の名誉称号であった。なお、麝香間は維新前は摂家や将軍の伺候所に充てられていた部屋である。
錦鶏間祗候
麝香間祗候の下位の名誉称号。勅任官待遇で職制・俸給はなく、勅任官を5年以上務めた者及び勲三等以上のうち、とくに功労のあった者の中から選ばれた。錦鶏間とは本来は京都御所の御学問間のことである。
親任官
勅任官(天皇の命令で任ぜられる官)のうち、親任式を以て叙任される最高位の官のこと。内閣総理大臣・各国務大臣・枢密院の正副議長・枢密顧問官・内大臣・宮内大臣・侍従長・式部長官・宗秩寮総裁・掌典長・神宮祭主・陸海軍大将・大審院長判事・検事総長・会計検査院長・行政裁判所長官・朝鮮総督・朝鮮総督府政務総監・台湾総督・対満事務局総裁・企画院総裁・軍事保護院総裁などで、親任式において天皇が親署して御璽を捺し、内閣総理大臣が年月日を記入して副署した辞令書が授けられることにより任命された。