歴史・人名

人名か

海北綱親(かいほう つなちか)
????~1573
別:善右衛門尉
子:海北友松
 北近江・浅井氏家老“海赤雨の三将”の一人であり、軍奉行を務めた。様々な用兵術に通じた戦上手で、木下秀吉の軍を破り、秀吉に“我が兵法の師”とまで言わしめた。浅井氏滅亡の際に討死した。
香川親和(かがわ ちかかず)
????~1587
別:長宗我部氏 五郎次郎
父:長宗我部元親 養父:香川元景(信景)
室:室
子:子
 土佐・長宗我部元親2男。元親に降った讃岐・香川信景の養子となる。長兄信親戦死後、父が溺愛する弟盛親に跡を継がせたいとしていたことから、これを気に病み、元来体の弱かったこともあり、若くして病死した。
香川光景(かがわ みつかげ)
????~????
子:香川行景
 安芸・八木城主。阿生山の大蛇を臣香川勝雄に命じて退治させたことから“大蛇退治のご領主”と呼ばれたという。安芸・武田氏から離反し、安芸・毛利氏に仕えた。
香川行景(かがわ ゆきかげ)
????~1517
別:兵庫助
子:香川光景
 安芸・八木城主。御霊大明神・鎌倉権五郎兼政の裔、経高が相模香川荘に住み香川氏を名乗り、経高の子経景が承久の乱の功で安芸・佐東郡八木に移ったのが初め。安芸・武田氏の元、毛利氏との有田合戦に参加、武田元繁戦死を聞いて、毛利勢に突っ込み討死した。
柿崎景家(かきざき かげいえ)
????~1575
別:弥次郎 和泉守
子:柿崎祐家、左衛門大夫家憲(晴家)
 越後・長尾(上杉)氏臣。黒に統一された部隊を率い、果敢な突撃戦法で越後随一の猛将として名を轟かせた。が、一方で思慮に欠ける面があった様である。まさに戦国のビッテンフェルト。上杉七人衆の一人として奉行職を務める。小田原城攻撃や川中島の合戦等で活躍し、また外交の任も務めたが、越中攻めの際、織田信長に内通した嫌疑を受けて殺されたといわれる。
蠣崎慶広(かきざき よしひろ)
1549~1616
別:天才丸 新三郎 志摩守 若狭守 伊豆守 民部大輔 松前氏
父:蠣崎季広
室:村上季儀女、斎藤実繁女
子:松前若狭守盛広、隼人正忠広、(南部)長門守利広、由広、次広、河野景広、蠣崎安広、満広
 兄二人の死後、蝦夷・蠣崎氏5代当主となる。外交手腕を発揮させて豊臣秀吉に接近し、蠣崎氏を名実共に出羽・安東氏から独立させる。朝鮮出兵の時には肥前・名護屋まで参陣して秀吉に“狄の千島の屋形、遼遠の路を凌ぎ来る”として感激させ、アイヌ民族との交易独占等の蝦夷支配の安堵を得た。秀吉死後は徳川家康に蝦夷地図や家譜を献上し、1599年松前氏(松平+前田)に改姓、初代松前藩主となる。
葛西晴清(かさい はるきよ)
1517~1547
別:伊達氏 牛猿丸
父:伊達稙宗 養父:葛西左京大夫稙清(守信)
 出羽・伊達氏一族だが、陸奥・葛西氏に入嗣する。養父稙清が急死すると、反伊達の機運が高まるが、実家の威勢をもって家督を継いだと思われる。程なく伊達氏では稙宗・晴宗父子が争う“天文の大乱”が発生し、父の稙宗側へ、叔父晴胤は晴宗側へ与して領内抗争を繰り返すが、その最中に若くして没する。
梶原景宗(かじわら かげむね)
????~????
別:備前守
 相模・北条水軍の頭領。1562年安房・里見氏と三浦半島城ヶ島で戦う。1580年には大型安宅船で駿河湾に出没、陸上の甲斐・武田氏の軍に砲撃したという。小田原の陣後、当主氏直に従って高野山に赴いた。
糟屋武則(かすや)
生没年不詳
別:姓は加須屋とも書き、諱は数正、宗重、真安、宗孝、真雄
 播磨出身で本姓は志村だが、幼少期に孤児となり糟屋友政に養育された。別所長治に仕えていたが、天正6(1578)年に小寺官兵衛を通じて秀吉に仕えた。  賤ヶ岳の戦いでは宿屋七左衛門を討ち取る功をあげ、七本槍のひとりに数えられた。この功で播州賀古郡内に二千石、河州河内郡内に千石の合計三千石を賜っている。小牧の戦いにも従軍し、天正14(1586)には従五位下内膳正に叙された。九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵にも従い、一万三千石を領した。  関ヶ原の戦いでは七本槍中ただひとり西軍に属し、戦後家禄を没収された。幕府旗本にも糟屋家があるが、武則の系であるかどうかは定かではない。
片桐且元(かたぎり かつも)
弘治2(1556)~元和元(1615)
父:片桐真貞
 元は浅井家臣であり、父・真貞は小谷城の麓にある須賀谷要害を守っていた。且元は浅井家滅亡時に今浜城へ入った秀吉に仕えた。  賤ヶ岳の戦いでは七本槍のひとりに数えられる武功をあげ、三千石を賜った。その後、九州征伐、小田原征伐、文禄の役にも参陣した。  また、且元は合戦のみならず政治面でも諸国の検地奉行を務めるなどの活躍を見せた。そして、その行政能力を高く買った秀吉は晩年、且元に嗣子・秀頼の後見役を任せたのである。  関ヶ原の戦いの後は家康から信認され、慶長6(1601)年には大和滝田に加増の上、転封された。しかし且元は、家康が征夷大将軍に就任し豊臣、徳川の主従が逆転した後も、秀頼への忠誠を忘れず大阪城に参勤し続けた。且元は幕府との折衝にも当たり、事あるごとに難儀した。  だが慶長19(1614)年、幕府のふっかけてきた方広寺鐘銘問題を大坂に伝えると淀殿の不満が高まり、且元は大坂城を退去せざるを得なくなる。その後、家康の庇護を受けた且元は大坂の陣では攻め手に加わり、四万石に加増され、秀頼切腹の20日後に死去した。自害とも考えられる。
片桐且元(かたぎり かつもと)
1556~1615
別:助作 直盛 直倫 且盛 東市正
父:片桐直貞
子:片桐采女、出雲守孝利、九兵衛、為元
 北近江・浅井氏家臣。浅井氏滅亡直前にその下を去り、羽柴秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人として武名をあげた。その後、朝鮮出征などで功をあげる。また、秀吉の検地奉行を務め、その行政能力の高さもうかがえる。秀吉の死後、豊臣秀頼の後見役として重要な地位にあり、一方で徳川家康の信任を受け摂津・茨城城主となって豊臣・徳川の折衝役となった。しかし、方広寺鐘銘事件から豊臣方の信任を失い、大坂城を出る。大坂落城後、豊臣を見捨てたと世の批判を受け、切腹したといわれる。 弟:片桐貞隆
桂忠詮(かつら ただのり)
????~????
別:太郎兵衛  薩摩・島津氏家臣
 朝鮮出征の途上には梅北の乱に参加する。関ヶ原の戦いにおいては、敗れた西軍についた島津軍が退却する際、大将島津義弘を逃がすため戦った。
加藤嘉明(かとう )
永禄6(1563)~寛永8(1631)
別:孫六
父:加藤教明
 永禄6(1563)年、三河に生まれた。幼名は孫六。父・教明とともに近江の羽柴秀吉の配下となり、その養子・秀勝(信長の四男)の小姓として召抱えられた。天正4(1576)年、秀吉直属の家臣となり、天正6(1578)年の三木城攻めに参加した。  天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは浅井則政を討ち取る功をあげ、賤ヶ岳七本槍の一人となった。また、この功で所領三千石を賜っている。天正13(1585)年からは羽柴軍団の水軍の統率を任され、翌年11月には淡路一万五千石を加増され、志賀城主となった。  文禄の役では一柳直盛、藤堂高虎とともに舟奉行となり、李舜臣との海戦で大いに苦戦したが、文禄3(1594)年に一千七百石加増の後、文禄4(1595)年7月に伊予松前六万石に転封となった。  慶長の役では、唐島の戦いで藤堂高虎、脇坂安治とともに朱元均の水軍を破り、また、蔚山城の加藤清正を救援した。  秀吉死後は家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍につき岐阜城攻めにも参加した。戦後、伊予松前に二十万石を領し、慶長8(1603)年には松山城を築城した。  大坂冬の陣では江戸の留守居となったが、夏の陣では自ら参陣している。元和5(1619)年、福島正則転封の際は正則の挙兵を警戒しつつ広島城を接収した。以降もよく幕府に仕え、家光の鎧始めの儀を務めるなどし、寛永4(1627)年2月には会津四十万石に転封されている。
加藤清正(かとう )
永禄5(1562)~慶長16(1611)
 幼名は虎之助。秀吉の従姉妹の子にあたることから、5歳のとき近江長浜の秀吉に預けられ、子飼いの武将となった。天正8(1580)年、播磨に百二十石を得、翌年には鳥取城の戦いで初陣を飾った。  天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは柴田方の山路将監を討ち取り、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた。この功で従五位下主計頭に任ぜられ、三千石の加増を受けた。その後も小牧・長久手の戦いや九州征伐で戦功を重ねた清正は、佐々成政の自刃後に肥後半国十九万五千石を得た。このとき、残り半国は小西行長が拝領した。  文禄の役で清正と行長は先鋒を務めた。清正は行長と馬が合わず、勝手に軍を進め、自らの活躍を秀吉に報告した。しかし、軍監の石田三成は清正の軍令違反を事細かく報告したため、清正は帰国後に蟄居を命じられてしまった。だが伏見城が地震で倒壊したとき、清正は逸早く秀吉の下に参じたため蟄居を解かれ、「地震加藤」の異名をとって名誉挽回に成功した。また、慶長の役では蔚山籠城戦で勇名を馳せている。この二度にわたる朝鮮出兵で、清正の三成、行長に対する恨みは一層深まったのである。  そして関ヶ原の戦いに際しては、三成、行長との対立関係から東軍に与したが、戦闘に関しては九州で小西領に攻め込む程度に止まった。戦後、小西行長の所領を併せて五十四万石の大大名となり、熊本城を築いた。後、子・忠広は改易され、細川忠利が肥後熊本の藩主となった。
加藤信景(かとう のぶかげ)
????~????
別:弥五郎 伊賀守
子:加藤太郎左衛門弘景
 安房・里見氏臣。当主義弘の没後、その子梅王丸の後見役を務めるが、義弘の弟義頼と家督争いが生じた際、義頼に鞍替えした為、梅王丸は敗れて幽閉された。以後、梅王丸の後の佐貫城代を務める。
加藤信邦(かとう のぶくに)
????~????
別:駿河守
子:加藤丹後守景忠、弥五郎(初鹿野昌次)
 鎌倉期以来の名族。甲斐・武田氏臣。当主信玄の弓矢の師(軍師)。
加藤光泰(かとう みつやす)
1537~1593
別:作内 景教 遠江守
父:加藤景泰
子:加藤貞泰
 美濃・斎藤氏滅亡後、尾張・織田信長の臣羽柴秀吉に仕えた。近江・横山城を浅井氏に急襲された時負傷、以後びっこになったという。各地を転戦して功を重ね、美濃・大垣城主となったが、不正を働き一時知行を失う。後に復しやがて甲府24万石を領す。朝鮮出征の際、兵糧不足から諸将と不和となり、宮部長房の陣中にて仲直りの酒宴を行ったが、酒宴から帰って後血を吐き急死した為、毒殺されたともいわれる。 弟:加藤光定
金上盛備(かながみ もりはる)
????~1589
別:盛満? 兵庫 遠江守
子:金上左衛門盛実
 磐城・蘆名氏一門筆頭。1578年越後・上杉氏の御舘の乱では、蘆名からの援軍として、上杉景虎を援けて戦う。1581年には使者として上洛、織田信長にも謁見している。蘆名氏当主盛隆死後の継子問題では、伊達氏の小次郎を抑えて、常陸・佐竹氏より盛重を擁立することに成功した。1589年摺上原の合戦にて戦死。
金光宗高(かなみつ むねたか)
????~1570
別:備前・石山城主
父:浦上村宗?
子:金光文右衛門
 備前守護代浦上宗景の弟といわれる。備前・宇喜多氏、備中・三村氏等その旗幟を再三変え、最後は宇喜多直家に毛利に通じた疑いを受け、切腹に追い込まれた。この後直家は石山城を乗っ取り、岡山城として改築、本拠とした。
印牧能信(かねまき よしのぶ)
????~1573
別:弥六左衛門  越前・朝倉氏家臣。越前・鉢伏城主。
 越前・刀禰坂の戦いの際、力尽きて捕虜となった。織田信長がその名を惜しんで許そうとしたが、これを拒んでその面前で自害する。
狩野泰光(かのう やすみつ)
????~1590
別:宗円 大膳亮 飛騨守
子:狩野主繕照宗
 相模・北条氏の評定衆。小田原征伐の際、八王子城を守り戦死。
鹿子木親員(かのこぎ ちかかず)
?~天文18(1549)
 鹿子木氏は代々菊池氏の重臣であり、親員はその第10代当主である。戦国時代になって、菊池家は第22代当主・能運の死去により宗家が断絶した。このため同族から第23代政隆、阿蘇家から第24代武経、詫摩家から第25代武包と次々に当主が立てられたが皆失脚したため、大友義鑑の弟・重治が迎えられ第26代義武となった。  隈本に入って来た義武を迎えた親員は、田島重賢とともに菊地家の老臣として義武を支えた。但し、義武は大友家出身であるがゆえ、大友義鑑の意向は無視できなかった。  この頃、親員は茶臼山南麓に隈本城を築城し本拠を移している。尚、この城は後年加藤清正が修築した新城に対して古城と呼ばれる。  親員は菊池家臣として様々な実績を上げている。永正13(1516)年に阿蘇山と彦山の争いを仲介し、後相良家と名和家の争いも仲介している。また、親員は天文5(1536)年に出家し、寂心と号した。  大友義鑑と菊池義武は兄弟でありながら不和であった。そして、両者の対立が決定的になると親員は菊池方の不利を悟り、大友方につき義武と戦った。親員はこの姿勢を生涯貫いたが、子・鎮有は義武に加担して没落した。  親員は文事にも関心が深く、和歌や謡曲を作ったほか、三条西実隆から『源氏物語』を購入するなどしている。
亀井茲矩(かめい これのり)
1557~1612
別:湯氏 新十郎 武蔵守
父:湯三郎左衛門尉永綱
室:山中幸盛養女(亀井秀綱女)
子:亀井豊前守政矩
 実家湯氏は佐々木源氏流の出雲豪族。やがて亀井氏を継ぐ。織田信長の支援を受け出雲・尼子氏再興を図る山中幸盛の下、安芸・毛利氏と戦う。その後は羽柴秀吉に仕え、鳥取城攻め等に活躍する。秀吉に琉球征伐を願って気宇壮大なところを見せ、琉球守の判形と出兵の許可は出たが、実行されることはなかった。関ヶ原の戦いでは東軍に属して、3万8千石の大名となる。
亀井秀綱(かめい ひでつな)
????~1566
別:能登守
父:亀井安綱
子:養子:亀井(湯)茲矩
 出雲・尼子氏重臣、寺社奉行。当主経久に従い上洛した際には、山城・船岡山にて摂津・三好氏と戦う。その後も各地を転戦活躍するが、安芸・毛利氏臣杉原盛重に因幡・竹内で殺された。 弟:亀井利綱
蒲生氏郷(がもう うじさと)
1556~1595
別:鶴千代 忠三郎 賦秀 教秀 レオン 飛騨守 左近衛権少将
父:蒲生賢秀
室:織田信長女
子:蒲生飛騨守秀行
 父は南近江・六角氏臣。六角滅亡後、織田信長に認められその娘を娶せられる。信長の死後は羽柴秀吉に従い多くの武功をたてた。1590年会津42万石の領主となるが、これは秀吉がその大器を怖れて、僻地奥州に敬遠したからといわれる。朝鮮出征の為西下中、大坂城にて吐血し40歳の若さで亡くなるが、秀吉が毒殺したともいわれる。利休七哲の一人で、切支丹でもあった。
蒲生賢秀(がもう かたひで)
1534~1584
別:左兵衛大夫
父:蒲生定秀
室:後藤賢豊女、三条(鯰江)為定女
子:蒲生氏信、氏春、氏郷、重郷、貞秀  南近江・六角氏臣。近江・日野城主。
  尾張・織田信長の六角氏侵攻に対し、これに降った。本能寺の変の際、賢秀は明智光秀より厚遇をもって勧誘されたが、これに応ぜず、日野城に籠もった。この時、賢秀は安土城の留守に任じられていたが、安土城の女子供を避難させる際、財宝を移して城に火をつけて去るべきだという意見が出たが、信長が心血注いで建てた城を焼くのは忍びないとして、そのままで立ち去った。
川上久朗(かわかみ ひさあき)
1536~1568
別:源三郎 左近将監
父:川上忠克
子:川上久辰
 薩摩・島津氏重臣で島津四勇将の一人。兄忠頼死後当主となる。18歳にして当主義久から守護代に任ぜられようとした程の才幹の士。太刀、長刀、鎌槍を自由自在に使いこなした剛将であったという。堂ヶ崎の合戦において、多勢に無勢で大隅・菱刈氏らの軍に向かおうとする島津忠平(義弘)を諫めるが聞き入れられなかった。結果島津軍は敗走し、久朗は重傷を負い亡くなった。
川崎祐為(かわさき すけため)
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別:祐長?
 日向・伊東氏臣。伊東氏没落後も、流浪する当主義祐を見捨てず豊後、伊予へ従った。
革嶋一宣(かわしま かずのり)
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別:越前守
父:革嶋就宣
子:革嶋秀存、正宣、忠宣
 清和源氏佐竹昌義流。山城・革島庄を本領とする国人。1565年三好三人衆石成友通のため、山城から丹波に逐われ、本領を三好氏臣鶏冠井氏に奪われるが、織田信長入京に与して、本領を奪回、安堵された。以後、山城・勝竜寺城主・細川藤孝に従うが、藤孝の丹波入封には同行せず、明智光秀に臣従したため本能寺の変後は没落した。
河田長親(かわだ ながちか)
1545?~1581
別:豊前守
父:河田元親
室:北条安芸守輔広女
子:河田岩鶴丸、下条駿河守忠親 養子:河田(折下)八左衛門貞親、源七郎
 近江・守山の出。1559年越後・長尾景虎(上杉謙信)が上洛した際、これに従う。温厚な性格で智略に優れ、功を重ねて信任を得た。謙信死後織田信長に内応を誘われるが、これを拒否する。越中・松倉城を守って織田軍の猛攻を支えるが、病死した。 弟:河田九郎左衛門基親